第15章 リズム リズム リズム     2014・9・23記




       
等時的拍音形式(1)




            
はじめに


 時枝誠記『国語学原論』にある「日本語は等時的拍音形式だ」について、
本稿ではやや詳しく考えてみることにしたい。そのわけは、日本語のリズム
を形作っている基底になっているのが等時的拍音形式であると思われるから
だ。日本語のリズムを考察するには、等時的拍音形式をしっかりと押さえて
おくことが重要だと思ったからである。(「等時拍」という用語は時枝が初
出ではないようだ。相良守次『日本詩歌のリズム』(教育研究会、1931)に
もある)。
 「等時的拍形式」とは、拍が時間的に等しい」ということであるらしいこ
とは、漢字を眺めると、容易に想像がつく。以下に、わたしなりの視点から
等時的拍音形式について調べたことを書いていみることにする。
 日本語の「拍」についての研究物は、かなりあるようだ。特に短歌の音数
律・リズムについての著作物が多い。そうした著作物を十数冊ほど読んでみ
た。短歌の音数律・拍・リズムについては、研究者によってかなりの意見の
相違があることを知った。
 本稿では、日本語の等時的拍音形式について焦点化して書くことにする。
手がかりとして『金田一春彦著作集全13巻』(玉川大学出版部、2005)を中
心にして、他研究者の見解を加味しつつ、等時的拍音形式について考えてい
くことにする。金田一は、音声学や音韻論に精通している国語学者であり、
わたしの関心のある日常の言語生活の言語技術や言語表現(声調・話調・節
奏、つまり音読・朗読・表現よみ)にも造詣の深い論文を多く発表している。
これまでわたしは金田一から多くのことを学習し、影響を受けてきた。
、なお、本稿では、すべて人物名は敬称略とする。



          
言語音について



 話の順序として、はじめに「言語音」について考えてみることにする。
「言語音」とは、人間のコミュニケーションにおいて思想感情を伝達し理解
するツールとなっているものだ。通常は「音声」と言われる。言語音に対し
て、風の音、木と木がこすれ合う音、鐘の音などは「自然音」と言われてい
る。
 金田一春彦は、人間のコミュニケーションのツールとしての言語音(音
声)は、一回一回それぞれ違っていると書く。

 ≪一回一回の言語音はそれぞれちがう。一つとして同じものはない。しか
しそれらの中には、いつも中核的なオトというものがあって、ある具体的な
言語音とある具体的な言語音とは同じ中核的なオトを持つ。そうして、それ
が、一回一回その時その時の臨時的な要因があって変化し、ちがった形で発
音される≫ということができる。
 このように考えた場合、個々の言語音には、中核的なオトというものの存
在を仮定したが、これが<音韻>と呼ばれるものである。そうして一回一回
の具体的な言語音、これは神保格氏の用語によれば、<具体音声>と呼ばれ
ている。<音韻>はそうすると一種の<抽象音声>と呼ぶことができよう。
…(中略)…ただ<抽象的な音声だ>と言ったのでは無意味である。<中核
的なオトだ>と言わなければならない。
     『金田一春彦著作集6巻』(玉川大学出版部、2005)37ぺ


【荒木のコメント】

 A君の「モシモシ」もB子さんの「モシモシ」も、字に書くときには、ま
ったく同じ文字で「もしもし」と書く。これは二人のモシモシという具体音
声のうちから「モ」「シ」という音韻を抽象して取り出して聞きとっている
からである、という。正しくは、二つのモシモシという具体音声にある「中
核的なオト」と呼ぶのが正しい、と語っている。



            
拍とは



 金田一は、拍について次のように書いている。

 日本語に「桜が咲く」という言葉がある。このような言葉をわれわれ日本
人はどんな人でも、仮名で「サ・ク・ラ・ガ・サ・ク」と書く。この仮名一
つひとつで切って発音することができます。小さい子どもでも「さくら」と
いう言葉は「サ」と「ク」と「ラ」から出来ていることを心得ています。サ
クラという言葉はサのつく言葉であると言えるし、サクラをさかさまにする
と、ラクサとなる。あるいは、尻とりで、一人がサクラと言いますと、次の
子どもはラのつく言葉──ラジオというふうに答える。
 こういうことは日本人誰でもわかる当たり前のことですが、こういう一つ
ひとつの単位を学者は堅苦しく「音節」と言います。もっとも「音節」と言
いますと、違った意味に解釈する学者もありますので、「拍」という言葉で
話していきたいと思います。つまり、「桜」という言葉がありますと、サ・
ク・ラと数える。サクラは三泊の言葉ということになります。
 発音の単位を言いますと、よく学者はもっと小さな「音素」という単位を
口にします。たとえば、サはローマ字で書くと sa となる。つまりこの
sとaの部分に分けて、この s とか a とかが発音単位だと言う。たしか
にローマ字ではそうなっておりますけども、実際の日常生活ではサクラを 
s と a に切って言うことはありません。サを一番小さい単位として扱っ
ておりませんから、サという単位、クという単位を一番小さい単位と考えま
す。  『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)451ぺ


【荒木のコメント】

  音節は「あ、い、う、え、お、か、き、く……」というような、音声
(音のまとまり)のことである。それ以上もう切れない音のことだ。実際に
「あ」は、これ以上切れません。発音する時の最小のまとまりを「音節」ま
たは「拍」と言う。「さ」の「s」とか「a」を音素と言ってるが、これは発
音の最小の単位ではありません、と語っている。



           
拍と音節



 上記した金田一の引用文の中に「もっとも「音節」と言いますと、違った
意味に解釈する学者もありますので、「拍」という言葉で話していきたいと
思います」と書いてある。
 「音節」の概念は、学者によって違う解釈(定義)があるようだ。それで、
次に簡単に「拍」と「音節」との違いについて金田一が書いていることをわ
たしなりの言葉でまとめて書くことにする。
 日本では、学者によって「音節」に異なった考え方がある。「音節」には
「音韻論的音節」と「音声学的音節」がある。大きくは二つの流れがある。
有坂秀世流と服部四郎流である。有坂流には浜田敦や亀井孝などがいる。服
部流には柴田武がいる。が、各人にもそれぞれが三者三様に微妙な違いも見
られる。 金田一春彦は音節に関しては有坂の考えに早くから親しみ、それ
に執着しており、亀井にならって「拍」という術語を有坂の音韻論的音節の
意味に使ってきた。
 例えば「ニッポン(日本)」という単語で考えてみよう。有坂秀世は
「ニ・ッ・ポ・ン」と分けて四音節の単語であるとし、服部四郎は「ニッ・
ポン」と分けて二音節の単語であるとする。服部は「音節」のほかに「モー
ラ」という術語を使う。服部は、「ニッポン」は、「音節」としてみれば二
音節であるが、モーラとしてみれば四モーラだと言う。すなわち、「ニ・
ッ・ポ・ン」の一つ一つが一モーラと数える。有坂はモーラを使わない。有
坂の「音節」と、服部の「モーラ」が一致しており、通常は「拍」と呼ばれ
ている。
 荒木が現場教師だったとき、一年生の音楽の時間にカスタネットで「拍打
ち」をしてリズム指導をしてきた。「拍」というと、このイメージが強い。
 簡単にまとめると、「ニッポン(日本)」という単語は、有坂流では四音
節・四拍であり、服部流では二音節四モーラ、つまり二音節四拍ということ
になる。
 金田一は、「なお、やかましく言うと」と書いて、次のように書く。

 服部は有坂の≪音韻論的音節≫という言い方を避けて、≪音韻的音節≫と
呼ばれる。今、有坂と服部とで音節の内容に異同があると言ったのは、あく
までも≪音韻論的音節≫のほうで、音声学的音節の方は、有坂氏も服部氏も
大体一致している。ニッポンという単語ならば、有坂は、「普通の発音では
二回の緊張をもって発音される、つまり二音節の言葉であるが、時には四回
の緊張をもって発音される、すなわち四音節に発音されることもある、と説
くだろう。服部もほぼ同様のはずである。違いが出るのは、もっぱら音韻論
的音節である。服部は音韻的音節とは別にモーラという術語を使い、ニッポ
ンという単語は、音節として見れば音声的にも音韻的にも二音節であるが、
モーラとしては四モーラと数える。
     『金田一春彦著作集6巻』(玉川大学出版部、2005)67ぺ


 山鳥重(脳科学者)は、次のように書いている。
 言語にはリズムも重要である。
 日本語の音節自体、すでにリズムを内在させている。
 たとえば、われわれは「新聞」を「シ/ン/ブ/ン」と発音する。「時
計」なら「ト/ケ/イ」と発音する。「おはよう」は「オ/ハ/ヨ/ウ」と
発音する。もちろん、個人差はあるし、時と場合によるけれども、心理的に
はこう区切っている。聞こえるときにも、だいたいこのように聞こえてくる。
この、シ/ン/ブ/ンの四音節はだいたい同じ長さで発音される。またシと
ン、ンとブ、ブとンの間隔もだいたい同じくらいである。この心理的な等時
等間隔の時間単位は、拍と呼ばれる。俳句や短歌は、この拍のリズムを基盤
にしている。歌舞伎のセリフ、浄瑠璃も、拍を強調する。
 拍と音節(単音)は同じではない。発語の単位である、という意味では同
じだが、その意味は違う。前者は時間に注目し、後者は表象に注目する。こ
の差を時枝は「拍はリズムで、音節は拍を充填する内容である」と見事に定
義している。拍は音節を乗せていく仕掛けであり、乗り物である。
 山鳥重『ヒトはなぜことばを使えるか』(講談社新書、1998)27ぺ

【荒木のコメント】

 「音節」について、国語辞書で調べてみた。
『例解新国語辞典』(三省堂)
  「実際に発音できる最小のことばの音。カ、キ、ク、ケなどかな一字が
   一つの音節を表わしている。キャ、キュ、キョなどの拗音では二字が
   一つの音節にあたる」
『国語辞典』(集英社)
  「まとまりの音として意識され、発音される音声単位。日本語では、母
   音一つ、または一つの子音と一つの母音で構成される。仮名一字の音
   がこれに当たる。シラブル。」
 国語学会編集『国語学辞典』(東京堂書店)の中の「音節」の項をみた。
 ほんの一部分の引用であるが、次のような文章があった。
  「音節とは、それ自身の中に切れ目が感じられず、その前後に切れ目が
   感じられる単音または単音連続と定義される。「感じられる」とは主
   観的には言えるが、客観的には必ずしもそれに対応する事実を確認で
   きない場合もある」
 ここから「音節」とは客観性に弱く、かなり主観性の強い概念内容である
と読みとった。だから「音節」の定義もあいまいになり、学者によって違っ
てくるのだろう。


         
日本語の拍の数



 俳句は5音・7音・5音で計17音である。これを拍でいえば、俳句は5
拍・7拍・5拍で計17拍ということになる。
 同じように短歌を拍でいえば、5拍・7拍・5拍・7拍・7拍で計31拍
となる。拍とは、俳句や短歌で指を折って数える一つ一つの音声ということ
になる。
 日本語の拍の数(単位)は、いくつあるか。金田一が掲げている「日本語
の拍の一覧表」を下記に転載する。金田一は、日本語の拍の数は、全部で1
12個である、と書く。

  ア イ ウ エ オ   ヤ  ユ  ヨ    ワ  ヲ
  カ キ ク ケ コ   キャ キュ キョ
  
ガ ギ グ ゲ ゴ   ギャ ギュ ギョ
  
ガ ギ グ ゲ ゴ   ギャ ギュ ギョ
  サ シ ス セ ソ   シャ シュ ショ
    チ ツ       チャ チュ チョ
  ザ ジ ズ ゼ ゾ   ジャ ジュ ジョ
  タ     テ ト
  ダ     デ ド
  ナ ニ ヌ ネ ノ   ニャ ニュ ニョ
  ハ ヒ フ ヘ ホ   ヒャ ヒュ ヒョ
  バ ビ ブ ベ ボ   ビャ ビュ ビョ
  パ ピ プ ペ ポ   ピャ ピュ ピョ
  マ ミ ム メ モ   ミャ ミュ ミョ
  ラ リ ル レ ロ   リャ リュ リョ
      ン ッ ー
     『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)453ぺ

【荒木のコメント】
 ガ行が、二段ある。ガ行には拍が二種類ある。濁音と鼻濁音との二種類で
ある。
 
上段(茶色)は濁音の「ガギグゲゴ」である。はく息を破裂させてだす
「破裂音の濁音」のことである。いかつく、ごつごつした感じの音である。
たとえば、「がっこう」の「が」、「ぎんこう」の「ぎ」、「ぐんたい」の
「ぐ」、「げんき」の「げ」、「ごはん」の「ご」などである。
 
下段(緑色)は鼻濁音の「ガギグゲゴ」である。鼻濁音のガ行は、ほんと
は「ガギグゲゴ」の、それぞれのカタカナ文字の右肩上の点点が、小さな○
になる表記文字であるのだが、パソコンの活字にはないようなので、本稿で
は残念だが点点にしている。はく息を鼻にぬいてだす音で、鼻腔共鳴の「通
鼻音の鼻濁音」のことである。やわらかく、なめらかな感じの音である。た
とえば、「かがみ」の「が」、「ふしぎ」の「ぎ」、「まぐろ」の「ぐ」、
「おみやげ」の「げ」、「こくご」の「ご」の発音などである。
 濁音は鼻をつまんでも出るが、鼻濁音は鼻をつまむと出ない。最近の子ど
もたちは鼻濁音で発音すべき音を、濁音で発音する傾向にある。日本語から
鼻濁音が消えつつあると憂えられている。鼻濁音は、聞いた感じがやわらか
く、なめらかで、軽い感じがする。美しく、きれいな鼻濁音を日本語からな
くしてしまいたくないものだ。
 本道に戻ろう。
 金田一は、上表を示してあるように、日本語の拍の数は、全部で112個
であると語っている。
 しかし、上表にない外来語の拍の表記もある。
「コミュニティー」の「ティ」、「プロフィール」の「フィ」、「フェ
ロー」の「フェ」、「ファースト・レディー」の「ファ」「ディ」、「フォ
ロー」の「フォ」、「ヴァイオリン」の「ヴァ」、「ハロウィ−ン」の「ウ
ィ」などが現今、使われている。これらを加えたら、もっと拍数は多くなる
はずだ。これらは金田一の上表(453ぺ)にはない。同書461ページにも「日
本語の拍の一覧表」があり、そこには( )の中に入れて外来語で用いられ
ている拍が入れてある。「ファッション」の「ファ」、「フィルム」の「フ
ィ」、「プロデューサー」の「デュ」、その他「ツァ」「ツェ」「ツォ」な
どが入れてある。
 しかし、これは外来語の表記の仕方をどうするか。将来の日本語の国語施
策ともからまって、いろいろと問題のあるところだ。正式な日本語の拍と承
認するかどうかは、かなり主観的な個人的な判断が入りこむところだ。
 上表の最下段に「ン ッ ー」が書いてある。それぞれ前から撥音、促音、
長音のことである。これらも一拍で数えるということだ。本「ほ・ん」で二
拍、日記「に・っ・き」で三泊、「ハ・ー・ト」で三泊となる。
 結局、日本語の拍は、清音・濁音・鼻濁音・半濁音・撥音・促音・長音・
拗音からできていることになる。これらは俳句や短歌を作る時に、一拍とし
て指を折って数える音である。
 拗長音は、拗音+長音だから、二拍として数える。たとえば、今日「きょ
う」は「きょ・う」で二拍、拗長音「ようちょうおん」は、「よ・う・ち
ょ・う・お・ん」で六拍となる。切手「きって」は「き・っ・て」で三拍と
なる。新聞の「しんぶん」は「し・ん・ぶ・ん」で四拍となる。服部四郎で
は「しん・ぶん」で二音節、「し・ん・ぶ・ん」で四モーラとなる。
 金田一は、日本語の拍は数が少ないと言う。(詳細後述)少ないことで有
利な点として子どもが学校でかな文字習得が容易になる、と言う。(これに
ついては後述「日本語の拍と英語の拍(1)」で書く)。ほかに、日本語は
拍の単位が少ないということから、情趣・余情たっぷりな五七五の俳句、五
七五七七の短歌という誇るべき文化がある。たった十七字、三十一字で人の
心の細かい襞をも表現できるすばらしい詩をもっている。
 日本語の拍が少ない不利な点としては、同音異義語が多くできるというこ
とがある。金田一は「橋・箸・端」とか「生花業・製菓業・青果業・生花
業」などの例をあげている。「冷閨」と「冷兄」、「冷遇」と「礼遇」を間
違えると意味が反対になり、たいへんなことになると書いている。



           
等時拍形式



 等時拍とは、日本語の拍(音)が均等に分けられて発音されるということ
である。「さくらがさいた」の例文では、一字(一音)ずつ、「さ」も
「く」も「ら」も「が」も「さ」も「い」も「た」も、それら発音に要する
時間が同じだ、「さ・く・ら・が・さ・い・た」における「・」の時間の間
隔もみな同じだということである。

 日本語の拍は、同じ長さを保っていると同時に、われわれはその一つが点
であるように意識している。われわれは「長ーく待った」というような、強
調を表わす場合は別にして、極力一つ一つの拍を短く発音しようと努力して
しゃべっている。これは拍を少し長く発音すると、引ク音と紛らわしい。た
とえば「おばさん」は同じ長さに言わないと、「おばあさん」という別の単
語になってしまう、それを防いでいるものと思われる。だから、われわれの
単語は長ったらしものが多いと言っても、実際は、外国語の一拍は時間的に
は日本語の一拍半ぐらいであり、それほど非能率でもなさそうであることは
救いである。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)110ぺ


【荒木のコメント】

 金田一は、日本語が等時拍であるのは、引く音(長音)と紛らわしくなる
から、それを防ぐためではないかと推察している。わたしには、それが直接
の原因だとは思われないのですが、そういうこともあって、ぐらいに了解し
ておくことにする。
 また、日本語の一拍は短く、外国語の一拍は長い、とも書いている。外国
語といっても、いろいろな外国語があるわけだから一概に決めつけることは
できないでしょうが、英語では「YES」は日本語では「イエス」と3拍に
発音してしまいがちだが、これは間違いで、「YES]は英語発音では1拍
で発音されるということだ。



        
外国人の日本語の印象



 外国人が、初めて日本語を耳にした時、日本語にどんな感じ・印象を持つ
か、日本語はこんな感じで発音される、話されている、という感じ・印象は
どう受け取っているのだろうか。金田一と、井上ひさし(作家)は、次のよ
うに書いている。

 日本語の各拍は、日常の会話でも、同じ長さに発音される傾向が強い。W
・A・グロータースは、日本に来る以前の10年間を、中国で東洋文化の研
究とカトリック伝道の仕事に送っていた。ちょうど彼が山西省の寒村にいる
ころ、日中戦争ががおこって日本の軍人がこの奥地にまでやって来るように
なり、はじめて日本語というものを聞く機会を得た。もちろん日本語の意味
は全然わからず、そのリズムだけが印象に残ったが、それは実に忘れがたい
ものだったという。キモノや富士山で知られた日本のことばはさぞ優美なも
のだろうと想像していたのに、実際に聞いてみると、なんともうねりの少な
い、ポッ、ポッ、ポッ、ポッ……という調子で、まるで機関銃の音を思わせ
た、と語っている。つまりこれは、日本語の発音の中で、最も明瞭な単位で
ある拍の一つ一つを、グロータースの耳がポッ、ポッ、ポッ、ポッ……と感
じとったというわけであろう。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)109ぺ

 アメリカ出身の日本学者で、英語会話レコードの吹き込みなどで名を売っ
ているW・L・クラークさんは、いつかテレビの番組へいっしょに出た時に私
に向かって、日本語の発音は、隅田川のポンポン蒸気の音に似ていると言い
ました。   金田一春彦著作集6巻(玉川大学出版部、2005)144ぺ

 日本語というのは、自動車のエンジンをかけるときにダダダダダダ……、
あの音のように聞こえるのです。あるいは時計のカチカチ、カチカチ、カチ
カチという音。あの音のように聞こえるんです。日本語はアクセントが二の
次ですからね。アクセントが違っていても、日本語は理解できます。
     井上ひさし『日本語教室』(2011、新潮新書)135ぺ

 日本語は全部母音で終わります。ですからきちんと発音すると、とても大
きな感じがして美しいのです。外国人はみんなそう言います。それに強弱の
アクセントがなくて、聞いているとタッタッタッタッタと、こういう感じな
んです。 井上ひさし『日本語教室』(2011、新潮新書)143ぺ

 拍は特別の事情がない限り、同じ長さに発音されようとする。和歌、俳句
を作ったり、七五調の詩を作ったりしようとする時に指を折って数えようと
するのは、この拍である。英語などは、拍に長いもの、短いものがあって、
不均衡であるが、あれは強弱アクセントをもった言語で、強く発音される拍
が長くなるからである。もし、アメリカ人が英語の単語を一拍ずつはっきり
発音しようとすると、それは同じ長さに近づいていく。
      金田一春彦『日本語 新版上』(岩波新書、1988)88ぺ

【荒木のコメント】

 金田一では「ポッ、ポッ、ポッ、ポッ」「隅田川のポンポン蒸気の音」と
あり、井上ひさしでは「ダダダダダダ」「カチカチ、カチカチ」「タッタッ
タッタッタ」とある。違っているが、言ってることはみな同じことである。
外国人が日本人が話しているのを聞いた、各人の日本語の流れの主観的な感
じ・受け取り方は、一音(一音節)ごとに等時拍形式の発音であるというこ
とである。日本語は、平坦に淡々と等時拍のリズムで流れていく、というこ
とである。比喩の選択コトバの表現(印象像)が違っているだけである。
 最後尾の引用で金田一は、日本語と英語の一拍の長さの違いについて語っ
ているが、これについてはこの後で述べる。



      
日本語の拍と英語の拍(1)



 小学校一年生のときに先生に「犬」という言葉は「いぬ」と書くと教わり、
「猫」という言葉は「ねこ」と書くと教わる。そうすると、子どもたちは
「犬」という言葉はイとヌから出来ていると心得ているから、ははあ、
「い」というのがイと読む字なんだな、「ぬ」というのがヌと読む字なんだ
な、とわかる。そうすると、「いぬ」「ねこ」という二つの単語の書き方を
教わっただけで、「いね」とあればイネと読むんだ、「鯉」という言葉は
「こい」と書くんだとすぐわかる。これはすばらしいことで、日本人の子ど
もの知能ならば、一年の一学期ぐらいで112の音の書き分けを覚えるのは
わけないことだ。そんなわけで日本人の子どもは、一年の二学期になると、
自分の知っている言葉は一応自由に書けることになる。漢字で書かなければ
いけないとか、やかましいことを言えば話は別になるが、とにかく、人にわ
かるように書きさえすればいいというのならば、日本人は非常に恵まれてい
ることになる。
 英語ではこうはいかないようだ。アメリカではドッグは dog と書く、
キャットは cat と書くというように、一つひとつ単語ごとに書き方を教
わるが、これはちっとも応用がきかない。学校で習った単語は書けるが、習
わないと単語は書けない。一年の一学期だけで覚える単語は、ほんの一部で
ある。そのため一年の二学期のころの日本の子どもとアメリカの子どもの書
いた作文を比較すると、子どもの文章とおとなの文章ぐらい違うという。日
本は文盲の数が少ないことで有名であるが、それは日本語というものの拍の
種類が少なく、文字で書きやすい言語だということ、これが大きな力になっ
ていると思う。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)93ぺ


【荒木のコメント】

 金田一は、日本の一年生の文字指導について書いている。ひらがなの文字
指導は一年生一学期の国語授業の主要な指導内容である。
 一年生の文字指導では、「あ」は「あひる」の「あ」も、「あしか」の
「あ」も、「あさひ」の「あ」も、「あさがお」の「あ」も、同じ「あ」と
いう字形の文字であることを教える。「あ」という発音には、同じ字形の
「あ」とかくことを教える。単語・言葉のなかに「あ」と発音するものは、
すべて「あ」の字形で書くことを指導する。
 字形「あ」は、そうした抽象レベルの高い音節文字であることを指導する。
「さくらがさいた」という文では、「さくら」の「さ」も、「さいた」の
「さ」も、同じ「サ」という発音であって、「さ」と書くことを教える。
 つまり、かな文字「さ」の抽象性の高さを教える。また、「サ」という一
音節に「さ」というかな文字の一字が対応していること、かな文字の一字一
音節対応があることを教える。日本語のかな文字は、そういう応用力万能で
便利な文字であることを教える。
 日本の子ども達は、かな文字の一字一音節対応を容易に理解できる。ふだ
んは、子ども達は、しりとり遊びのなかでしぜんと身につけていることだ。
「りす」とくれば、遊びの中で「すずめ。するめ。すもも。すみれ」のどれ
でもよい答えになることを知っている。「すずめ」とくれば「めだか」と答
える。
 一年生への指導では、「すずめ」の「す」も、「するめ」の「す」も、
「すもも」の「す」も、「すみれ」の「す」も、同じ「す」という字形の文
字であって、同じ字形「す」に、同じ「す」という音が対応していることを
知らせる。
 一年生の文字指導については、本ホームページの第1章「学年別教材の音
読指導をデザインする」の一年生教材「あいうえおであそぼう(五十音図の
うた)」に詳細な指導方法が書いてある。
 日本語の漢字になると、こうはいきませんが、かな文字にはこうした便利
重宝な利点がある。英語の拍については、下記で詳述する。



      
日本語の拍と英語の拍(2)



 日本人は向こうの dog とか cat とかいう言葉を聞きますと、ドと言
って、つめて、グと言う、というように分析しますが、向こうはそうじゃな
いのですよ。dogという全体が一つの拍です。catというのも全体が一つの拍
です。あるいはmonkey、これはmonとkeyにわかれますから二拍の単語であり、
tigerは ti ger に分かれますからこれも二拍の単語であって、こういう
のを全部数えますから、拍の数が非常に多いことになるわけです。
     『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)454ぺ

 日本人は外国語の拍を誤解する。「犬」を英語でドッグだと聞くと、これ
はド・ッ・グという三拍のように思ってしまう。ところが、イギリス人には
ドッグは全体が一拍なのだ。ドッグをさかさまにしたら何と言うかとたずね
ると、びっくりしたような顔をしている。グットだなどとは夢にも思わない。
日本人が向こうのドッグを三拍のように思うのは、日本語の習慣を勝手に向
こうの言語に流用しているからにすぎない。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)80ぺ

 日本語は拍の種類が少ないことから、短く表現しますと、意味は違うが発
音が同じ言葉がたくさん出来てしまいます。一般に日本語で表現しようとし
ますととかく長くなってしまいます。
 たとえば、英語ですと、”I may… ”の may という単語は向こうで
は一拍だそうですが、日本語に訳しますと「かもしれない」というたいへん
長い言葉になってしまう。”I must… ”の must という単語も向こうで
は一拍だそうですが、日本語にしますと「しなければならない」と、これは
さらに長くなってしまう。
     『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)456ぺ


 英語やフランス語で二時間くらいで終わる芝居を日本語でやると、四、五
時間もかかることをご存じでしょうか。日本語は子音では終わらず、ksな
らず母音が入ること、そして音節の種類が少ないからなのです。音節の種類
が少ないと、区別するためにどうしても一つの語が長くなる。つまり音節数
が増えるのです。「わたし」と「I」「je」を比較してみるだけで分かり
ますね。ですから、今の若い人たちがテンポの早い曲に英語の歌詞をつける
気持ちはよく分かります。英語なら十秒で言えることが、日本語では十三秒
はかかるからです。だからと言って、一人称を「わ」だけに略してしまった
ら、どうなるでしょうねえ(笑い)。
        井上ひさし『日本語教室』(2011、新潮新書)143ぺ

【荒木のコメント】

 前述したように一年生一学期のなか文字指導では、「りんご」の「り」も、
「りす」の「り」も、「あり」の「り」も、「すり」の「り」も、すべて
「り」と発音し、同じ「り」の字形で書くこと、なか文字の抽象性を指導す
る。また、作文でも「り」と発音する音は「り」の文字を使えばいいことを
指導する。一年生一・二学期では、なか文字を字形正しく書く書字指導も行
う。
 日本語は等時拍ですから、一音の時間的長さが一定に保って発音される。
こうして日本人は小学校一年生で一音一拍の指導を受けているので、頭の中
には一音一拍対応で埋め込まれた習慣的な認識が強固な土台となって身につ
いている。だから、日本人の英語発音は、日本語の拍でしか捉えられないこ
とになる。「dog」は英語では1拍だが、日本語の等時拍では「ド・ッ・
グ」と発音して3拍となる。「monkey」は、英語では2拍だが、日本人は
「モ・ン・キ・ー」と発音して4拍の発音となる。「good morning」は、
「good」で1拍、「morning」で1拍だが、日本人では「グ・ッ・ド・
モ・ー・ニ・ン・グ」と8拍の発音となってしまう。
 「dog」は英語では1拍だが、日本語では「イ・ヌ」と2拍になる。「goo
d morning」は、英語では2拍だが、日本語では「お・は・よ・う」では4
拍、「お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す」では9拍で発音する。「ye
s」は、英語では1拍だが、日本語では、場面状況で「は・い」で2拍、
「わ・か・り・ま・し・た」で6拍、「は・い、た・だ・い・ま」で6拍、
「よ・う・ご・ざ・ん・す・よ」で7拍、「承知しました」で7拍となる。
だから、英語の日本語翻訳の演劇は、日本語の拍数が多い分、芝居時間が長
くかかることになる。井上ひさしは、「英語やフランス語で二時間くらいで
終わる芝居を日本語でやると、四、五時間もかかる」と書いている。
 英語の1拍は、日本語の1拍(等時拍)のような時間では進まない。日本
人は、英語の会話を聞いて、英語の会話の速いのにはびっくりする。英語は
強弱アクセント(強く発音する個所と弱く発音する個所がはっきりしてい
る)ですから、「good morning」は、実際に耳にすると「グー モー」の
ように聞こえる。英語での1拍は、日本語の一拍と違って速く発音される。
「グ・ッ・ド・モ・ー・ニ・ン・グ」ではない「グー・モー」である。
(「グー モー」の言い方は誤解があるかもしれない)。あとは場面状況が
伴って理解される。誤解があるかもしれないが、分かりやすく言えば、とい
うことでご理解願いたい。
 日本語で「じゅげむ」を早口言葉で言うと、単調でまっ平らな均等分割の
等時拍での速い流れで進む。英語では、日本語とは全く違う強弱アクセント
のうねりのリズムで進む。



         
英語の拍の数


 英語の拍の数は、いくつあるか。金田一は、英語圏の言語学者は英語の拍
の数など数えていらっしゃらない、興味関心がないのだ、と書いている。

 実は向こうのかたは拍の種類など数えていらっしゃらないのです。多すぎ
てあきらめているのではないか。これを数えようとした人は日本人で、大阪
の帝塚山短期大学の英語の先生だった楳垣実(うめがきみのる)さんという
かたが、向こうの人が数えないなら自分が数えてやろうとばかりに張りきり
まして、お数えになったのですが、全部数えきらないうちに亡くなってしま
われたのです。ただ、亡くなる直前に、帝塚山短期大学の紀要にご発表にな
ったものがある。そこに「どう自分が数えても八万以下ということはないだ
ろう」と書いておられる。日本語の八百倍になります。
(中略)
 日本語は、世界の文明国の中でも非常に拍の数が少ない言語だということ
ができます。このために日本人は大きな恩恵を受けているということがあり
ます。それは日本語ぐらい文字で書き易い言語は少ないということです。
(中略)
 日本人の子どもは、一年の一学期ぐらいで112の音の書き分けを覚える
のはわけないことです。一年の二学期になりますと、自分の知っている言葉
は何でも書ける、これは大きな幸せです。
 英語では、こうはいかないようです。英語では、一つひとつの単語ごとに
書き表し方を教わるわけですね。ですから学校で習った単語は書けますが、
習わない単語は書くことができない。一年の二学期のころの日本の子どもと
アメリカの子どもの書いた作文を比較すると、子どもとおとなぐらい違いま
す。もっとも日本には、漢字という難しい文字がありますから、漢字で書か
なければいけないということになりますと話は別になりますが、とにかく、
人の分かるように書きさえすればよいということならば、日本人は非常に恵
まれているということになります。
 日本には文盲率が少ないといったようなことをよく申します。私は最初、
それは日本の教育がすばらしいからだと考えておりました。それもたしかに
一つの原因ではありますが、それ以上に日本語というものが拍の種類が少な
くて、文字で書きやすい言語だということを、これが大きな力になっている
と思います。
    『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)455ぺ

【荒木のコメント】

 楳垣実によると、英語の拍の数は八万以上、日本語の八百倍以上になると
いうことだ。だから英語圏の児童は単語を学習するのにたいへんなエネル
ギーを使うことになるわけだ。金田一は、こう書いている。
「英語では、一つひとつの単語ごとに書き表し方を教わるわけですね。です
から学校で習った単語は書けますが、習わない単語は書くことができない。
一年の二学期のころの日本の子どもとアメリカの子どもの書いた作文を比較
すると、子どもとおとなぐらい違います。」と。
 これは、驚きです。日本の児童たちは幸せです。日本語の拍の少なさの恩
恵ですね。
 日本人に文盲率が少ないのは、日本語の拍の数が少ないからだ、というご
意見、なるほどもっともだと思います。一年生を教えていて、全員といって
いいほどに一学期の終了までにはひらがな文字を読めて、書けて、自分の意
思を文章にして書けますものね。夏休みにはそれなりの文章で絵日記を描い
て(書いて)、夏休みの宿題として二学期初頭に提出できますものね。ひら
がな文字の字形を正しく書写する書字指導は、一年生の一学期に集中して指
導している。カタカナ文字の一字一字の字形を正しく書写する書字指導は二
年生終了までかかる。


          このページのトップへ戻る