第15章 リズム リズム リズム      2014・9・25記




     
 等時的拍音形式(2)




            
はじめに


岡井隆『岡井隆コレクション2 短詩型文学論集成』(思潮社、1995)
を読んだ。そこに等時的拍音形式に関連する論稿があちこちに断片的ではあ
るがちりばめられていた。岡井は歌人であり、主として短歌についての韻
律・リズムについての等時的拍を論じているのであるが、広く散文について
の韻律・リズムについて妥当する議論でもあると読みとれた。
 短歌の韻律・リズムについて論じているのであるが、その中で等時的拍音
形式について議論の中に時枝誠記や金田一春彦の名前や、二氏の論文引用も
あちこちにみられた。
 等時的拍音形式については、わたしにとっては、時枝や金田一よりも一歩
前進した記述もみられた。よりつっこんだ議論が書かれている、と読みとっ
た。
 それで本稿では、以下に『岡井隆コレクション2 短詩型文学論集成』か
ら等時的拍音形式に関する個所を引用し、それに荒木のコメントを付し、前
稿「等時的拍音形式(1)」より少しばかりの深みや広がりが与えられたら
いいな、と思って、本稿<等時的拍音形式(2)>を書くことにした。
 はじめに岡井隆について簡単に紹介する。ウイキペディアによると、彼の
肩書は、歌人のほかに医師、文芸評論家、詩人、大学教授などがあり、紫綬
褒章、旭日小綬章を受賞している。また、斎藤茂吉短歌文学賞、現代短歌大
賞、詩歌文学館賞、高見順賞、歴程賞、読売文学賞詩歌俳句賞などを受賞し
ている。著書多数。



          
拍のリズム構成



 金田一春彦のいうように、日本語ではひとつひとつの拍がリズムを構成す
る要素になると考えれば、短歌を五・七のリズムとしてとらえる前に、これ
を三十一の拍からなるひと流れの音の線としてとらえることができる。

 まつかぜのおともこそすれまつかぜはとおくかすかになりにけるかも
                             斎藤茂吉

 この歌(歌集『つゆもじも』所収。表記を変えて引用した)の場合、「と
おく」は、現代では「とほく」とは発語されず、「とーく」(とを長音化し
て引いて発音する場合)と聴覚上の分別はないのであるから、「とおく」の
「お」音は独立性がよわい。この一点をのぞけば、かな文字が、拍をあらわ
しているとみ得るから、拍は、あたかも定量音符のような等時性をもって作
用する(金田一の言葉どおり)とかんがえられる。すると、この歌のリズム
構成は、拍の反復によるものであって、はじめからおわりまで、同じ時間値
の音のつらなりである。
   岡井隆コレクション『短歌型文学論集』(思潮社、1995)17ぺ


【荒木のコメント】

 岡井は、「拍は、あたかも定量音符のような等時性をもって作用する(金
田一の言葉どおり)」と書いている。わたしは金田一のわずかばかりの読書
量しかないので、金田一の書物から「定量音符のような等時性をもつ」とい
う文章個所は見い出していない。この文章は金田一の言葉ではなくて、岡井
の独自な表現であるとも推察できる。いずれにせよ、日本語の等時的拍音の
特徴をピタリと言い当てている素敵な表現であると思った。
 岡井は、金田一の「日本語ではひとつひとつの拍がリズムを構成する」を
引用している。金田一春彦著作集のあちこちを探してみると、その個所があ
った。ほかにもあるのかもしれないが一か所だけ見い出した。下記に引用す
る。

 有坂秀世氏によって<音韻論的音節>と呼ばれている単位、服部氏によっ
てモーラとよばれている単位が<拍>である。拍はリズムの単位であるから、
それをさまたげる事情がなければ、日常の会話で一つ一つの拍は同じ長さに
発音される傾向が著しいことはよく言われるとおりである。(中略)
 英語やドイツ語はいわゆる強弱アクセントの言語であって、拍の間には激
しい強弱の相違がある。強い拍は長く発音される傾向にあるために、そうい
うちがいが出てくるので、どの拍も同じ強さで発音する場合にはその長さも
同じようになってくる。たとえば、相手の知らない単語を説明するために、
一つ一つの拍をていねいにストレスをつけて言う場合がそうである。
 ところで<拍>というものはただそういうリズム上の単位として存在する
わけではない。その言語を使う一般の人々が、漠然と、その言語の音的部面
を構成している単位として意識しているものはこの<拍>のはずである。
(中略)
 音節は、その言語を使用する人がそれ以上短く区切って発音することのな
い単位だと言われている。日本語のボン(盆)とかカイ(貝)とかいう言葉
は、だれでも容易にボ・ンとかカ・イとか切って発音する。もっともマッチ
(燐寸)やコーリ(氷)の第二拍は、それだけ発音できないではないかと言
うかもしれない。たしかに、これらの語の第二拍だけ発音することは困難に
ちがいない。しかし、その代わりこれらの語でも第一拍と第三拍だけ発音し
て第二拍だけ発音しないことができる。そうすると、やはり、短く区切って
発音するという場合、マとかコとかのすぐ次に切れ目があるのだ。
     
『金田一春彦著作集6巻』(玉川大学出版部、2005)85ぺ

 上の引用で金田一は、拍はリズムの単位であるから、一つ一つの拍は同じ
長さに発音される傾向が著しい、と書く。音節(拍)は、ひとまとまりに発
音される最小単位であるので、促音も長音も一拍であるということを語って
いる。また、日本語の拍は、同じ強さで発音されるが、英語やドイツ語は、
拍に強と弱のストレスがあって、日本語の平板で単調な拍のリズムとは大き
く違うリズムである、と語っている。

 岡井は、「短歌を五・七のリズムとしてとらえる前に、これを三十一の拍
からなるひと流れの音の線としてとらえることができる」と書いている。同
じようなことを時枝誠記も書いていたと思い出して、調べてみた。その個所
を見い出した。

 リズムは通常、刺戟によって周期的知覚が成立するのであるが、又一方刺
戟の休止が却ってリズム的知覚の成因となることがあるといふことにも注意
すべきことである。これは国語のリズムを考える上には重要なこととなる。
これを図に示すならば  『国語学原論』

  ┃ │ ┃ │ ┃ │ ┃ │ 強音がリズムの成因となった場合

  ── ── ── ── ──  休止がリズムの成因となった場合

        時枝誠記『国語学原論』(岩波書店、1941)161ぺ

 英語やドイツ語は強弱アクセントなので、上段の図「強音がリズムの成因
となった場合」の拍リズムとなる。日本語は高低アクセントなので、下段の
図「休止がリズムの成因となった場合」の拍リズムとなる。わたしはこう解
釈したのだが、時枝の意図とは違っているかもしれない。日本語の場合、こ
う考えるとうまく説明がつくように思う。時枝は、横線の流れが日本語のリ
ズムであり、休止が日本語のリズム知覚の群団となるとなると書いている。
 上の図で、時枝は、日本語は意味による休止がリズム単位の群団を形成し
ているのである。岡井は、斎藤茂吉の短歌は、「この歌のリズム構成は、拍
の反復によるものであって、はじめからおわりまで、同じ時間値の音のつら
なりである」と書く。岡井は短歌の視点から日本語の意味の切れ続き(意味
内容の流れと休止)による等時拍形式について、短歌や俳句の音数律以前に
低奏している三十一の拍からなるひと流れの存在があることを語っているよ
うに思う。


         
リズムの等時性



 一拍一拍が、厳重な意味で、等時性をたもっているかどうかといえば、そ
れは疑わしい。拍による等時的リズムをみだすかもしれない因子がかんがえ
られるのであって、それは大よそ三つあるようにおもえる。
 第一は、意味による干渉作用である。われわれは、さきほどの例歌を、そ
こに書いたような平仮名表記にしたがってよむ場合にさえ、「まつかぜ」を
一つの単語としてうけとる。この四拍に一つのまとまりを与えるのが、語の
意味である。「原作では、「松」「松」「遠」が漢字である。)「こそ」と
いう助詞は、二拍のかたまりとして強く意識される。(意識する、とまで言
うのは言いすぎかもしれない。意識されないときも、読み方聴き方の習慣が、
おのずから働いて、この二拍を、先行する「も」、後続する「すれ」から、
かすかに隔絶しているのである)こういう意味の側からの干渉作用を重視し
ていくならば、拍をユニットとする等時的リズムとはちがう、いわば「意味
のリズム」とでも呼ぶべきリズムの存在を想定することができる。
   岡井隆コレクション『短歌型文学論集』(思潮社、1995)18ぺ


【荒木のコメント】

 岡井は「一拍一拍が、厳重な意味で、等時性をたもっているかどうかとい
えば、それは疑わしい」と書く。これについては、時枝誠記も金田一春彦も
同意見のようである。その証書を示そう。

 リズムの等時性とは、何音節何秒と客観的に規定せられるものでなくして、
もっと主観的にして且つ相対的な等時性である。
      時枝誠記「国語学原論」(岩波書店、昭和16)513ぺ

 <拍>は、特別の事情がないかぎり、同じ長さに発音されようとする。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)79ぺ

 <拍>は、リズムの単位であるから、それをさまたげる事情がなければ、
日常の会話で一つ一つの拍は同じ長さで発音されようとする。
     『金田一春彦著作集4巻』(玉川大学出版部、2005)79ぺ

 一拍一拍が厳重な意味で等時性をたもっているかについては、時枝は「主
観的且相対的」と書き、金田一は「特別な事情がないかぎり。さまたげる事
情がなければ」と書いている。金田一では、特別な事情があれば、主観的に
一拍と一拍とが伸びたり縮んだりすることもあるということだ。特別な事情
はいろいろな場合に生起するわけだが、わたしが本稿で主題としている「音
読・朗読・表現よみ」という音声表現では文章の抑揚づけ(メリハリづけ。
強調・イントネーション・緩急変化・声量変化・転調・音色など)として当
然に大いに起り得ることである。
 岡井は、等時性を保持できなくなる因子として「意味による干渉作用」を
あげている。岡井は歌人ですから、短歌について語っているように思われる
が、この事実は散文の音声表現(音読・朗読・表現よみ)にも同じに言える
ことである。岡井は、「意味による干渉作用」は拍の等時的リズムを崩れさ
せるのではなく、「意味のリズム」とでも呼ぶべき新しいリズムが形成され
ると書いている。「「意味のリズム」とでも呼ぶべき新しいリズムが形成」
と書く。なるほどなあ、と会得して読んだ。児童生徒への表現よみ指導とい
う観点から言えば、表現よみの上手な児童は調和した意味のリズムで音声表
現するでしょう。下手な児童は拍の等時的リズムを崩れさせ、破壊させ、内
乱させる「意味のリズム」で音声表現することになるでしょう。「意味のリ
ズム」については、さらに後述している。
 なお、岡井は、短歌の等時性を保持できなくなる因子として三つあげてい
る。第一の因子は「意味のリズム」、第二の因子は「各語の調音上の難易あ
るいはそれらの音を連結して発音するときの崩れ」、第三の因子は「五つの
句わけと読詠法の習慣」をあげている。ここでは第二、第三の因子の詳細な
紹介は省略する。第二因子、第三因子は短歌などの定型律の詩では生起する
ことで、散文においては少ないと思う。本稿は散文を主題としているので、
第二第三の因子については割愛する。

 岡井は、「平仮名表記にしたがってよむ場合にさえ、「まつかぜ」を一つ
の単語としてうけとる。この四拍に一つのまとまりを与えるのが、語の意味
である」と書く。
 時枝誠記も同じようなことを言っている。時枝は、意味による休止、その
リズム単位としての群団ということを言う。群団と群団とのあいだの休止の
間も等時的間隔をもって流れていると見るべきだと語っている。
 音声表現(音読・朗読・表現よみ)においては、群団として予想されるも
のには、一単語群、文節群、連文節群、合成句群、客文素群、補文素群、修
飾文素群、修飾・被修飾文素の結合群、接続語群、用言・助動辞の結合群、
主部群、述部群などが考えられる。つまり、意味内容による文内構造の結合
群の区切りが群団を構成することになる。
 音声表現(音読・朗読・表現よみ)においては、間が重要なメリハリ作り
となっており、群団と群団とのあいだの間の長さは 等時拍とはならず、意
味内容と読み手の表現意図(押し出し方)によって臨機応変に変化する。児
童生徒へ投げかける指導コトバとしては、一つ分の間、二つ分の間、三つ分
の間を開けて読もう、などと指導する。

 こうした文法的な構文上の切れ目だけでなく、休止のリズムを構成するも
のは、意味内容の際立て・強調を行うときに、かなり臨機応変な休止(間)
の取り方となる。休止(間)のリズムを形成するものは、休止(間)の前後
の読みの調子や語勢や息づかいの流れ、文章内容に導かれた読み手主体の感
情心理の反応と抑揚・メリハリの押し出し意図のありようによって影響を受
けて変化する。時枝のいうように等時拍とはならない休止(間)のリズムも
ある。しかし、考え方を変えれば、二つ分の休止(間)は、時枝のいう二つ
分の等時拍の休止(間)ということもできる。が、間の休止の開け方は、厳
密な等時拍とはならない場合も多くある。必ずしも二つ分の「等時」ではな
く、「不等時」なものも多く出現すると言える。



         
調音上の筋性努力



 例示した作品、「遠く・とおく}に含まれるO音が、「まつかぜのおと」
の「お」O音と等時性をもっているかどうかは、はなはだ疑わしい。それを
等時的拍として読もうとするのは、律意識による強制であって、音は、音韻
上の特徴として、「一音一音そのおかれた環境に応じてかわる」のである。
にもかかわらずわれわれが、一首のうたをよむとき、そこに等時的リズムを
感じるとすれば、それは、いったいどういう感覚によるものだろうか。
 それは時間感覚であり、一音一音を発音するに要する筋性努力の意識への
反映であるという風に一応考えてみよう。(この部分、ベルグソンの『時間
と自由』の影響がある)
 しかし、事実は、「ま・つ・か・ぜ……」等に一拍一拍の音は、単音の調
音機構にしても結合のしくみにおいても一つ一つが違うのであるから、当然、
韻毎に筋性努力のエネルギーを異にしている。たとえば、ローマ字書きした
ときにあらわれる同じ九個のO音にしたところで、おのおのの間に微妙な差
異があるはずである。
 音を、弁別的特徴にによって分類する機能的音声学にとっては、このよう
な、微妙な差などは問題にならない。しかし、言語芸術についてかんがえ、
音韻や音律が、意味に付加するであろう価値についてかんがえるとなると、
この点を見逃すことができない。詩における音韻論や音律論が、言語学、あ
るいは音声学におけるそれをはなれてひとりあるきしなければならぬのは、
この地点からである。
  岡井隆『岡井隆コレクション1短歌型文学論集成』(思潮社、1995)
  30ぺより


【荒木のコメント】

 ここで岡井は、≪「遠く・とおく}に含まれるO音が、「まつかぜのお
と」の「お」O音と等時性をもっているかどうかは、はなはだ疑わしい」≫
と問題提起をしている。それを等時的拍として受け取ろうとするのは、律意
識による強制であると書いている。確かに575とか57577とかの音律
リズムのまとまりは、それぞれの拍を等時で受け取ろうとする、そういう強
制力をもっていると言える。
 にもかかわらず、「一音一音そのおかれた環境に応じてかわる」わけだが、
そこに等時的リズムで感じ取ってしまう。そのわけは韻ごとに「一音一音を
発音するに要する筋性努力の時間感覚が反映しているからだ」と書いている。
だが、それぞれの韻ごとの筋性努力のエネルギーが異なっているわけだから、
九個の0音にも、おのおの間に微妙な差異がある、と書いている。

 「九個のO音」とは、下記の
赤字個所である。

   matukazen
 sure 

   matukazewa t
ookukasukani

   narinikerukam


。筋性努力とは、一音一音の発音を構音(調音)すときの口腔内の筋肉努力
のエネルギーの微妙な差異のことを指しているのだと考える。九個のO音の
微妙な差異は、我々の日常の言語生活において等時的拍で話し聞きしてる場
合は問題とならないが、言語芸術(文学作品としての短歌、俳句、小説な
ど)においては無思慮にスルーすることはできない。「音韻や音律が、意味
に付加するであろう価値」には大きな存在価値があるからだ、と岡井は書い
ている。
  ここでの「音韻」とは、音の響き合いのことであり、「音律」とは57
577の短歌の音数律リズムのことと受け取ってよいだろう。ここでの「音
韻」とは、要するに「押韻」のことと考えられる。押韻については、本HP
の第15章「日本語のリズム(2)押韻」の項で書いている。まだ資料集に
過ぎず、未完成だが、それとなくわたしの意図するところは推察できると思
う。
  わたしなりに斎藤茂吉の、この短歌における押韻について簡単に書いて
みる。「まつかぜ」の2回の繰り返し、「まつかぜ」の軽やかな音韻の響き
合いの繰り返し、「おともこそすれ」のO音5個の繰り返す響きの快さ、
「おともこそすれ」の前後に「まつかぜ」の二個を挟み込ませて、重ねて配
置して繰り返してる軽妙な発音の流れの舌触りリズムの快さ、「こそすれ」
と強めて、次に軟らく軽く「まつかぜ」と入っていくリズムの心地よさ、
「とおく かすかに なりに けるかも」の「3 4 3 4」の音律リズ
ムを繰り返してる調子よく弾む響き合い、これらが、「音韻や音律が、意味
に付加するであろう価値」ということになるのであろう、とわたしは推察す
る。
 この句には、O音が9個あるが、9個のO音全体がこの短歌にどんな芸術的
な価値として働いているかは、凡庸なわたしには残念ながら感じとれない。
九個のO音の響きよりは、意味内容が強力に押し寄せてきて、O音の響きは沈
んでしまうからだ。9個のO音は意識に浮かんでこない。
 「詩における音韻論や音律論が、言語学、あるいは音声学におけるそれを
はなれてひとりあるき」しているという議論は、短歌論・俳句論・定型詩論
で語るのは、短歌や俳句の月刊雑誌などでは現実に花盛りである。しかし、
英語やドイツ語などで語られている押韻論とちがって、日本語での押韻は、
かなり希薄であるように思われる。日本語の自由詩の押韻の場合は、コトバ
遊びの技術にしかすぎないと悪口を言う人もいる。



          
調音エネルギー



 一音一音を発音するに要する調音エネルギーが、微妙に変化しているのに、
しかもなおかつ、そこに等時的リズムを想定したくなるのはなぜか。一音を
発する調音上の筋性努力の持続時間が、ある誤差の範囲内で、各音ともにほ
ぼ一致しているためなのであろう。
 われわれに感じとれるのは、「ま・つ・か・ぜ」等の各音が、おのおの、
調音上の特質によって、先行音、後続音からみずからをわけている、という
事実である。そして調音上ことなった各ユニットが、一から他へ、AからB
へと移動していく、その転移感が、すなわち拍のリズムに相当するものであ
る。それは、等しい単位が連続する感じではなくて、ことなったものが、次
から次へとあらわれるといった感じである。このことは、原型としての拍リ
ズムを、心理的には、むしろ、おおいかくしてしまう作用をもっている。
 岡井隆『岡井隆コレクション1短歌型文学論集成』(思潮社、1995)
 31ぺより


【荒木のコメント】

 ここでは、「原型としての拍リズム」と「それをおおいかくしてしまう
「心理的リズム」について書いている。
 岡井は、「調音エネルギー」「筋性努力」という用語をつかって説明して
いる。これらの用語の概念内容は、一つ一つの発音をつくる口腔内での調音
のための筋肉運動とその緊張エネルギーを指していると理解する。一音一音
の発音作りには、横隔膜を原動力として声帯・口腔・鼻腔・咽頭・喉腔・
唇・歯・歯茎・硬口蓋・軟口蓋・舌先などの筋肉を使う。筋肉を使う(動か
す)にはエネルギーが必要だ。子音の調音のための筋肉運動では、唇と唇の
閉鎖と破裂(p、b)。歯茎と舌先の閉鎖と破裂(t、d)。軟口蓋と奥舌の閉
鎖と破裂(k、g)。唇と唇との狭窄(s、z)など種々の構音(口構え、舌構
え、唇構えなど)を必要とする。これらによって各子音が作られる。各母音
も口腔内の調音機構は違うが、構音(口構え、舌構え、唇構えなど)の作ら
れ方はみな違う。これら調音のための身体器官の筋肉緊張のはたらきを「調
音エネルギー」「筋性努力」と呼んでいるのだと理解する。

 「一音一音を発音するに要する調音エネルギーが、微妙に変化しているの
に、そこに等時的リズムを想定したくなるのはなぜか」と問題提起をしてい
る。答えは、「一音を発する調音上の筋性努力の持続時間が、ある誤差の範
囲内で、各音ともにほぼ一致しているためなのであろう」と書いている。
 「まつかぜ」の場合、「ま」を調音する筋性努力とそのエネルギー、
「つ」を調音する筋性努力とそのエネルギー、「か」を調音する筋性努力と
そのエネルギー、「ぜ」を調音する筋性努力とそのエネルギーがある。また
「ま」から「つ」へ移動する間の筋性努力とそのエネルギー、「つ」から
「か」へ移動する間の筋性努力とそのエネルギー、「か」から「ぜ」へ移動
する間の筋性努力とそのエネルギーもあるはずである。「それぞれの一音を
発する調音上の筋性努力(筋肉を緊張させる努力、そのエネルギー)の持続
時間が、ある誤差の範囲内で、各音ともにほぼ一致している」と書いている。
意味内容によって、強調変化のメリハリで強弱をつけたり、高低をつけたり、
長短をつけたりする場合を除外して、通常は日本語の拍は、平坦にほぼ等時
間間隔で流れていく。その流れていく移行感覚が、日本語の場合の拍のリズ
ムを形成することになる、とある。

 こうして実際に拍を一つ一つ作り、移行させ、流れさせていくリズム感
(リズム意識)は、原型(源本)としての日本語の等時的拍音形式を現象化
(現実化)させていくわけだが、等時的拍を「心理的には、むしろ、おおい
かくしてしまう作用をもっている」と書いている。日本語の拍は、原型(源
本)的な等時拍音形式を保持しようとする潜在力(規範性)をもっている、
ということである。現象化(現実化)するときが意識にのぼらず忘れられて
しまっている、脱落してしまっているということである。
 岡井は、「その転移感が、すなわち拍のリズムに相当するものである。そ
れは、等しい単位が連続する感じではなくて、ことなったものが、次から次
へとあらわれるといった感じである」と書く。先に時枝誠記『国語学原論』
の下図を示したが、もう一度転載する。

  ┃ │ ┃ │ ┃ │ ┃ │ 強音がリズムの成因となった場合

  ── ── ── ── ──  休止がリズムの成因となった場合

        時枝誠記『国語学原論』(岩波書店、1941)161ぺ


 時枝は、日本語の拍は、源本的には等時間間隔で(潜在的に)流れている
が、現象として意味によるリズム単位として群団を形成するようになり、そ
の流れの中で日常の言語生活の中で話したり読んだりしていると書く。休止
(音声表現では区切りの間)が群団としての区切りのめやすだとなる。日本
人は、だれかと話すとき、また、文章を読むとき、一音一拍で区切っている
のでなく、ひとつながりの意味内容のまとまりで区切って話したり、読んだ
りしている。話す声や読む声の音調・メリハリはひとり一人で違うが、意味
内容の群団のひとまとまりで区切って語ったり、読んだりしている点では同
じである。


        
等時拍リズムの性格



 等時拍リズムというものは、日本語であるかぎり散文の中にも韻文の中に
もつねにひびいているリズム(正確には、ひびこうとしている、可能性の、
かくされたリズム)と考えていい。それが、意識されてはっきりおもてにあ
らわれるか、あるいは無意識のうちに、そのリズムがかくされたままであわ
るか、どちらかである。
  
岡井隆『岡井隆コレクション1短歌型文学論集成』(思潮社、1995)
  39ぺより


【荒木のコメント】

 岡井は、ここで日本語の等時拍リズムの性格(本質)について語っている。
日本語の等時拍リズムは、散文の中にも、韻文(定型詩、俳句、短歌、旋頭
歌、都都逸、歌詞など)の中にも存在する。韻文を作ったり、音声表現した
りする場合は、等時拍のリズムを意識しないで読んだり書いたりするのが通
常である。散文を読んだり作ったりする場合は、等時拍は意識から消えてい
るのが普通で、等時拍には無頓着である場合が多い。
 先の引用文の中で、岡井は「一音一音を発音するに要する調音エネルギー
が、微妙に変化しているのに、しかもなおかつ、そこに等時的リズムを想定
したくなる。一音を発する調音上の筋性努力の持続時間が、ある誤差の範囲
内で、各音ともにほぼ一致しているためなのであろう」と書いている。
 たとえば、A君が「さくらがさいた」と言い、B女が「さくらがさいた」
と言った場合、二人の音調(言いぶり・具体音声)はまったく同一というこ
とはない。声質や音色や語勢や抑揚などは微妙に違っているのが通常である。
どこかは違うはずだ。違っていて当然である。
 また、「さ□く□ら□が□さ□い□た」の□個所の時間間隔も、まったく
同一ということはない。
 わたしたちは、通常は等時的な時間間隔で話そうと意識している、努力し
ている、ということはない。そうした意識や努力はしてないが、しぜんとそ
んな話しぶり(等時的な時間間隔)になってしまっている、というのが真実
である。「おじさん」と「おじいさん」の間違い発音があるから、それをな
くすために等時的な時間間隔で話すのだ、という理屈で等時拍で話す人なん
て一人もいない。「ある誤差の範囲内で、各音ともにほぼ一致している」と
いう暗黙の了解を承認しており、何等の意図なしに無意識に他人と話したり
聞きとったり、読んだりしている。
 岡井は、他の個所で、日本語の等時拍リズムは、「可能性リズム。かくさ
れたリズム」だと書いている。日本語の等時拍リズムは、日本語の基底に沈
潜しているリズムであって、潜在している観念的抽象的なリズムである。そ
れと対置するのが現象リズムである。現実に現象過程として日常生活の話し、
書き・読み・聞くというパロールという言語行為である。誤解を恐れずにい
えば、日本語の等時拍リズムは、ソシュールのラングとパロールでいえば、
ラングに相当し、チョムスキーの深層構造と表層構造でいえば、深層構造に
相当し、神保格の抽象音声と具体音声でいえば抽象音声の領域に相当するだ
ろう。ライヘンバッハの「推定的実在体」に相当するだろう。



       
日本語(開音節)の発声



 われわれは、散文の形式で書かれた文章をよみすすむとき、拍の数をはっ
きり意識するだろうか。むろん、この場合、拍の数を意識するとは、拍の数
を算えて、いま第何十拍までしゃべったとか、よんだとか感ずるということ
ではないだろう。一つ一つの拍のすぎていく感じをはっきり感じとっている
という意味だろう。ごく主観的な音量感──持続時間の感覚──を指してい
るのだろう。
 日本語の音節は、子音のあとに母音が一個つく典型的な開音節だといわれ
る。一拍から次の拍へ移行するとき、発声器官はかならず母音の位置から子
音の位置へと移動する、それも、急速に移動する。これに反し閉音節語の場
合には、発声器官の筋性努力が増大して極点に達し次いで徐々に緊張が減少
して音節の切れ目にいたる。つまり、開音節語のほうが拍の切れ目が明らか
であるようにみえる。にもかかわらず、われわれが日本語でしゃべったりよ
んだりするとき、よほどゆっくりと、かつ、はっきりと一拍一拍をひびかせ
正確に発音するのでなければ、拍数感覚を意識し得ないのであるから、そこ
には、開音節独特の発声法が働いているのではないかとおもえるのである。
  
岡井隆『岡井隆コレクション1短歌型文学論集成』(思潮社、1995)
  40ぺより


【荒木のコメント】

 日本語は開音節である。開音節の方が閉音節と比べて拍の区切りがはっき
りとしている、と書いている。
 開音節とは、拍の末尾が母音でおわる音節である。閉音節とは、拍の末尾
が子音でおわる音節である。これについて金田一が書いている文章の一部を
次に引用する。

 日本語の場合、多くのものは ha hi hu he ho ga gi gu ge go
のように一つの子音と一つの母音から出来ている。そのほかに hja hju
hjoのように、間に半母音がはいったものがありますが、どっちにしても母
音で終わっている。これがやはり日本語の大きな特色です。これは世界の言
語を広く見渡してみますと、珍しいことなのです。
    『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)460ぺ

一方、拍が子音で終わる代表的な言葉は英語です。dog cat lion など
はみなそうです。monkey などというのは最後がイという母音で終わってい
ますが、やはり、キイという部分でキの母音のiよりも、イの部分のiの方が
狭い音になって終わっている。やはり一種の子音で終わっていると見られま
す。ドイツ語やスウエーデン語は、母音で終わる単語もありますが、ドイツ
語の herbst(秋)という言葉などは子音が四つも並んで終わっている。
    
『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)462ぺ

 岡井は、「はっきりと一拍一拍をひびかせ正確に発音するのでなければ、
拍数感覚を意識し得ないのであるから、そこには、開音節独特の発声法が働
いているのではないかとおもえるのである」と書いている。
 わたしが現場教師だったとき、子ども達にはぎれよい発音をさせる指導方
法として次のようなことを意識して指導してきた。歯切れよい発音をさせる
ための一つの指導事例である。

 子どもたちが天子のような声、つまり、よく通る、歯切れよい、響く声
で、折り目正しい発音で、聞いていて気持ちが洗われるような声で、音読す
るようにさせたいものだということは総ての教師の願いである。
 そのためには、「 一つ一つの音を、はっきりと、きれいに、発音でき
る」能力を身につける必要がある。
 歯切れよい発音をさせる指導として、教師が「口を大きく開けて発音せ
よ」と指示することがあるが、「口を大きく開けて」だけでは歯切れよい発
音とはならない。それよりは「唇の開き方と、舌の位置をきちんとせよ」と
か「一つ一つの音を、はっきりと発音することに気を使って読みなさい」と
指示するほうがより効果的である。つまり、調音(構音)を意識して一つ一
つの音を発音して読ませるわけだ。
 児童生徒の中には、蚊の鳴くような声、補聴器をかけないと聞き取れない
ような声で読む子がいる。読み声に自信がないせいか、引っ込み思案な性格
からか、小さな声でしか読もうとしない。
 りんりんと響くような声量で読ませたいものだ。天子のような声とはいか
ないまでも、はればれして、すがすがしく、子どもらしい、張りのある響く
声で読ませたいものだ。はぎれよい(発音明瞭で)、教室内にびんびん響く、
勢いと張りのあるよく通る声、声に輝きがあり、全身に響いた声で楽しんで
表現している、聞いていてほれぼれするような発声発音で読ませたいもので
ある。

 子供たちは、上手な音読とは「つっかえないで、早口で読むことだ」と考
えているようだ。「つっかえないで、早口」をねらうと、文字の一字一字を
拾うことに意識が集中して、読み声がつまって硬直した読み方になりがちで
ある。これでは読み手の意識が文章の意味内容を溢れ出させる音声表現とは
なり得ない。つっけてもよいから意味内容を押し出すことに気を使って読ま
せるようにしたい。
 ゆったりとした、余裕のある読み声で読むと、自然とその読み声は文章内
容に触発され、意味内容を押し出す音声表現となっていくはずである。
 ゆっくりと読めば、文章内容が音声に自然と凝縮(含みこまれ、乗っか
る)され、過剰な、饒舌な表現内容の音調となっていくはずである。
 宇野重吉氏は有馬稲子氏に「台詞はゆっくり、たっぷり、きっちりネ」と
語ったそうだが,まさに至言である。ゆっくりと読むことで、言葉は自由に
あやつられ、余裕たっぷりと読めて、多層な、豊穣な音声表現となっていく
はずである。キッチリと読めば、文字の一つ一つを正確に拾って、ていねい
の発音するように意識が向く。

 早口読みになると、拍と拍との間の母音が飛んでしまう。「はっきりと一
拍一拍をひびかせ正確に発音する」(岡井)ことはとても重要だ。それには
各拍における母音部分をていねいに発音させることが重要だ。それぞれの母
音部分の発音をしっかりと、たっぷりと出していくと、ひとつながりの文章
全体の発音も明瞭となり歯切れよくなり、分かりやすい、伝わりやすい読み
方になる。

 次のような指導が効果的な指導方法である。わたしが現場教師だった時に
指導した事例である。
(1)「まつかぜ」の単語を歯切れよく発音させるには、「M

   
」の赤字個所だけを取り出して、「AUAE」だけの発音練習をさ
   せる。
   「
アウアエ。アウアエ。アウアエ」の母音を正しい口形で、響きのあ
   る声で数回、練習させる。その後で、「まつかぜ」の発音をさせる。
   「まつかぜ」の一つ一つの末尾の母音の発音を意識して言わせる。す
   ると、らくに歯切れよい、しっかりした「まつかぜ」が言えるように
   なる。四年生になれば、ローマ字を学習する。ローマ字で「まつか 
   ぜ」を板書して、全員に視覚化して見せ、母音個所を意識させて発音
   練習をする。母音個所に意識を向けつつ「まつかぜ」を発音させる。
(2)「すみれがさいた」の単語を歯切れよく発音させるには、「S

   R
AI」の赤字個所だけを取り出して、初めに「UIE
   
AAIA」だけの発音練習をさせる。
   「
ウイエアアイア。ウイエアアイア。ウイエアアイア」の母音を正し
   い口形で、響きのある声で数回、練習させる。その後で、「すみれ 
   がさいた」の発音をさせる。一つ一つの末尾の母音の発音を意識して
   言わせる。すると、らくに歯切れよい、しっかりした「すみれがさい
   た」が言えるようになる。四年生になれば、ローマ字を学習しをする。
   ローマ字で「まつかぜ」を板書して、全員に視覚化して、母音個所を
   意識させつつ「すみれがさいた」の発音練習をする。

    日本語は母音で終わる開音節の言語である。それぞれの拍の終わり
に位置してる母音が音声表現(歌唱。朗誦。朗詠。詩吟。音読・朗読・表現
よみ)の芸術性に大きな役割を果たしていると言える。たとえば、美空ひば
りの「悲しい酒」の歌を思い出してみよう。「ひーーーとーーーり、さ
かーーばでーーーー、のーーむさーーーけはーーーー、わーーーかーーれー
なーーみーーだーーーの、あじーーがーーするーーーー」ほんとは、こんな
歌い方でないかもしれない、確実に違っているでしょう。わたしが言いたい
ことは、開音節の終わりにある母音を長くのばす、引きずっていろいろと彩
をつけて表現する、さびやこぶしを利かす、ーーー部分の母音の表現力が美
空ひばりの歌唱のうまさを決定づけているカナメとなっているのだ、という
ことを言いたかったのだ。このーーー部分の母音をいかに上手に表現するか
が決め手である、ということだ。わたしが言いたいことは、分かりやすく書
くと、こうなる。
「ひ
イーーーオーーー、さアーーエーーーー、のオーー
アーーーアーーーー、わアーーーアーーエーアーー
イーーアーーー、あ(ア)イーーアーーウーーーー
 さらにダメ押しで、ローマ字にすると、「H
IーーーO−−−,S
AーーEーーー、NOーーUーAーーーAーーー以下
省略する。省略するわけは、ここで涙があふれて、声がつまって、手首が
キーボードを押さえられない、進められないからだ。(笑)美空は、すごい。
最後まできちんと歌いきっておりました。さすがプロ、脱帽。
 ここで誤解してほしくないことがある。たとえば、「ひとりさかばで」で
言えば「(HI)(TO)(RI)(SA)(KA)(BA)(DE)」の
( )の中は、一つずつの音節を構成しているが、それぞれの音節は、音節
であるから、子音と母音とに分解できない(発音できない)、常に(子音+
母音)のひと固まり(ひとまとまり)として発音される(歌われる)という
ことである。そして、それぞれの音節は、一つずつの拍のリズムを形成して
いく、ということである。一つの音節の子音だけ、母音だけが発音されるこ
とはない、ということである。これについては、前章「等時的拍音形式
(1)」の中の「音節と拍」の節でくわしく書いている。
 美空ひばりの歌手名を出したが、歌い手はだれでもよい。わたしが言いた
いことは、それぞれの拍の終わりの母音をどう色づけして表現するかが上手
下手を決める要因になってるということだ。うそだとおもうなら、やってみ
るといい。母音をどう色づけして、いろいろな彩をつけて歌うかが、上手な
う歌になるか下手な歌になるかを決定づけていることに気づくだろう。
 これは詩吟でも短歌や漢詩の朗詠でも、同じことが言える。都都逸の謡い、
演劇の台詞、歌舞伎の台詞、講談や落語の語り、朗読・表現よみの文章読み
においても、同じことだ。しかし、母音を長くのばしていろんな彩をつける
だけでは足りない。それもとっても重要だが、歌唱や謡いや台詞や語りや文
章の全体の音声の流れの音調つくり、抑揚づけ、メリハリづけの表現力が重
要となる。また、表現全体がかもしだす、にじみでてくる雰囲気、気分、情
調、情感性、感化力のようなものは、歌唱にも、謡いにも、朗詠にも、語り
にも、台詞にも、文章朗読にも、すべてに重要であることは言うまでもない。



       
日本語(開音節)の特質


 日本語の開音節語は、フランス語などの閉音節語とくらべた場合、筋肉の
緊張の波の高さが極点においてさえ低く、母音のところ(拍の終わり)で高
まった緊張は、はっきり一たん下降するということなしに曖昧に子音へむか
って傾斜しふたたび母音に移るのではあるまいか。日本語が、耳で聞いてわ
かりにくいというのも、同音異義語が多いというようなことの前に、こうし
た結合音声学上の原因はありはしないか、といった疑問が生ずる。われわれ
は、拍を「点のように意識している」のではなく、いわば一定の長さの線分
となって拍数を意識するのではないか。拍よりは拍のあつまり(音声学上の
音結集)が、一定時間つづく筋性努力の持続の感覚として意識されるのでは
ないか。
  
岡井隆『岡井隆コレクション1短歌型文学論集成』(思潮社、1995)
  41ぺより


【荒木のコメント】

 「日本語の拍は点のようだ」と書いているのは、金田一もその一人だ。
「日本語の拍は、同じ長さを保っていると同時に、われわれはその一つが点
であるように意識している」(『金田一春彦著作集4巻』110ぺ)とある。
また、拍の数が少ないが故に日本語には同音異義語が多い、というのも金田
一はじめ多くの国語学者が指摘しているところである。
 岡井は「日本語の開音節語は、筋肉の緊張の波の高さが極点においてさえ
低く、母音のところ(拍の終わり)で高まった緊張は、はっきり一たん下降
するということなしに曖昧に子音へむかって傾斜しふたたび母音に移る」
「拍よりは拍のあつまり(音声学上の音結集)が、一定時間つづく筋性努力
の持続の感覚として意識される」ので、「日本語が、耳で聞いてわかりにく
い」と書いている。つまり、日本語は、音節末の母音が上昇したり下降した
りすることなく、平らに・平坦に次の文節前部の子音に結合していく(話さ
れていく)ということからだ、と言っている。
 この指摘は正しいと思うし、わたしが上述した教室実践の母音重視で明晰
な発音をさせる指導事例を紹介したが、岡井のことばからも、その有効性を
発揮する方法の一つであると言える。
 また「拍よりは拍のあつまり(音声学上の音結集)が、一定時間つづく筋
性努力の持続の感覚として意識されるのではないか」という指摘は、前述し
た時枝誠記の図にある「(意味のまとまりによる)休止がリズムの成因とな
った場合」の図で言ってることと、岡井の「拍よりは拍のあつまり(音声学
上の音結集)」とが同じ考え方で連動した主張だと思う。



         
日本語は美しい



 日本語は開音節なるが故に「日本語は美しい言語だ」という意見がある。
金田一春彦もその一人です。井上ひさし(作家)もその一人です。二人の文
章から引用します。

 日本語は母音で終わる代表的な言語でありますけれど、このことは日本語
にどのような影響を与えているか。これについては、マリオ・ペイさんとい
う人の The Story of Language いう本の中におもしろいことが書いてあり
ます。この本の中に「言語の審美学」という章がありますが、言語の中には
耳に聞いて美しい言語とそうでない言語がある、ということを言っている。
 日本語はどうだろうか。日本人は謙虚ですから、きっときたない言語だと
言われはしないかと、私などははらはらしながら読んだのですが、ペイさん
は日本語を代表的な美しい言語のひとつに数えています。美しい言語の例と
してイタリア語、スペイン語、それから日本語と数え立てているのです。ペ
イさんいよりますと、母音で終わるところがいいのだそうです。拍がすべて
母音で終わるところがいいのだそうです。拍がすべて母音で終わるとなると、
そのため御歩ん語は美しい言語になるのだそうです。では、どうして母音は
美しいのかと言いますと、歌にして歌おうとする場合、子音のSなどにはフ
シがつかいと言う。またSの発音では、声のいい人も悪い人も区別されない
と言う。たしかにそのとおりですね。母音のところで美しい声が聞かれる。
だから、日本語のように母音が多い言語は美しい言語だと言う。
    『金田一春彦著作集3巻』(玉川大学出版部、2005)463ぺ

 日本語は全部母音で終わります。ですからきちんと発音すると、とても大
きな感じがして美しいのです。外国人はみんなそう言います。それに強弱の
アクセントがなくて、聞いているとタッタッタッタッタと、こういう感じな
んです。  
井上ひさし『日本語教室』(2011、新潮新書)143ぺ

【荒木のコメント】

 金田一は、マリオ・ペイが書いていることを紹介しているだけだが、前後
の文章から金田一もペイさんの意見に大きな賛意を示しつつ書いていること
が分かる。井上ひさしは、「外国人はみなそう言います」と書いてあり、ど
この外国人、だれが言ったかは書いていませんが、これも前後の文脈から
「日本語は美しい」に賛意を示しつつ書いていることが分かる。
 これらは個人的な美意識感覚ですから、他人があれこれ言っても、個人的
な好き嫌いの問題ですから、それ以上のことは言えません。わたしは日本語
しか知りませんし、多くの言語を知っているわけではないので、おおそれた
ことは言えません。これについてのコメントはできません。
 日本語は美しい言語だ、と語ってる人は人はたくさんいるでしょう。なぜ
美しいのか、どこが美しいのか、その理由をいろいろと挙げて語っている人
もいるでしょう。わたしもこれまで、これに関する記事をあちこちで読んだ
記憶があります。いま、その資料を探し出すことはできませんが。上記引用
では、金田一も井上も、二人とも、日本語が美しい理由として日本語は開音
節で、母音で終わることを挙げているところが共通しています。



       
「意味のリズム」の干渉



 意味のリズムという概念が、単に「意味がそれに乗って展開されていくリ
ズム」を指すものでないことは明らかであろう。意味が、拍による等時的リ
ズムに干渉し、その等時性をみだす。その時に生ずる音の線の流れを、意味
のリズムと呼ぶのである。したがって、拍を単位とする等時リズムを原型と
みるなら、意味の干渉を受けて生まれる意味リズムは、そのヴァリエーショ
ンである。
 金田一春彦がいうように、われわれ日本人が日本語を発音するとき、一拍
一拍を等しい(そしてできるだけ短い)時間でいおうとする傾向があるとす
れば、この傾向こそ、原型としての拍リズムを成り立たせる基盤である。し
かし、「拍を等時的に発音しようとする」だけであって、現実には、それは
実現しがたいことに留意しなければならない。その意味では、原型リズムは、
あくまで可能性のリズム、予想のリズムである。あるいは、日本語にとって
もっとも自然にちかいリズムのなのだということができよう。
 いうまでもなく、現実に存在するのは、原型としての拍リズムではなく、
それが、さまざまな因子から干渉を受けて生まれたヴァリエーションのリズ
ムである。現実にその歌がもっているリズムが、原型リズムからどれだけ隔
たることができるか、それは、さまざまの因子の干渉力の大きさによる。そ
してそれこそが、詩のはらむ美の質を規定しているようのおもえる。
  
 岡井隆コレクション『短歌型文学論集』(思潮社、1995)21ぺ

【荒木のコメント】

 岡井は、「意味のリズム」の概念規定として「意味が、拍による等時的リ
ズムに干渉し、その等時性をみだす。その時に生ずる音の線の流れを、意味
のリズムと呼ぶ」と書いている。「意味が等時拍のリズムに干渉する」とは
すばらしい表現で、なるほどなあ、と思った。ただ、「みだす」の表現は適
切かどうかは問題がありそうである。「変形させる、変奏させる、変換させ
る、転調させる、転移させる」などではどうだろう。
 「意味のリズムという概念が、単に「意味がそれに乗って展開されていく
リズム」を指すものでない」とは、日本語は本来、等時拍を保持しようとす
る潜在力・規範性という本質が基底にあるということを言っているのだろう。
等時拍リズムは、意味内容から干渉を受けて産出されるヴァリエーションの
リズムであるということである。
 本ホームページの記事の殆どが「意味内容によって等時拍のリズムが干渉
を受ける」音声表現(音読・朗読・表現よみ)の仕方(指導)について書い
ている。拙著『音読の練習帳』や『音読の練習プリント』は、意味内容をど
う音声に変換すると上手な音声表現になるか、具体的な指導方法や読み声例
について書いている。
 上の引用文を分析すると、二つに分類できるタームがある。
(1)拍を等時的に発音しようとする「原型としての拍リズム」「原型リズ
   ム」「可能性のリズム」「予想のリズム」
   前述見出し「等時拍リズムの性格」の項で、岡井は32ぺで「可能性リ
   ズム」「かくされたリズム」とも書いている。
(2)意味の干渉を受けて生まれた結果としての「意味のリズム」「ヴァリ
   エーションのリズム」
 (1)は、可塑性のある抽象的な観念的なリズムのことである。潜在する
規範としてのリズムである。岡井は、それを「もっとも自然にちかいリズ
ム」と書いている。岡井は、そこで「自然」を、原初的な原本的な拍リズム
という意味で使用していることは分かっているが、「もっとも自然にちか
い」とは、ふだん、日本人が日常生活で話し聞きしているパロールが「もっ
とも自然にちかい」という意味にもとれる。わたしは初めてここの文章を読
んだとき、パロールの意味に解釈して、おや、へん、とまごつてしまった。
「自然」という単語の意味には、真逆の使用例があることを学んだ。


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