第15章 リズム リズム リズム      2014・5・27記  





    
時枝誠記のリズム論(2)





         
リズムの群団化



 リズムは一般にその基本単位が群化して、より大なるリズム単位を構成す
る。リズムの群団化とはそれである。群団化の様式は、多く基本リズム形式
によって左右されるものの様である。(中略)
 国語のリズム形式は、その拍音に強弱を識別することも、又音声に強弱を
附してリズム形式を実現することも稀であって、従ってリズムの美的構成は
専らこれを充填する音声の質的変化と諧調によるといふことになるが、リズ
ム形式の群団化に於いても特殊なる様式を見い出すのである。その方法は、
音声の休止である。換言すれば、リズムを充填すべき調音を省略することで
ある。縦線を以て基本リズム形式の限界即ちリズムの間とし、丸を以てそれ
を充填する音声とすれば、休止による群団化は次の如き形式となる。
 │○│○│○│休│○│○│○│休│○│○│○│
 ここに三音節のリズムの群団が成立する。そして基本的リズム形式は、上
の調音の休止の間も等時的間隔を以て流れていると見るべきである。休止が
群団化の標識となるが故に、かかる音声の連鎖は特に強調音を必要としない。
これが国語に於ける群団化の一つの重要なる方法である。
          「国語学原論」(岩波書店、昭和16)509ぺ

【荒木のコメント】

 リズムは群団化して、より大きなリズム単位を作る、と書いている。日本
語のリズムの美的構成は、英語のように拍の強弱変化によるのではなく、音
声の質的変化と諧調にある、と書いている。「諧調」とは、辞書でしらべる
と「調和のとれた音・調子。ハーモニー。全体がしっくりととけあった調
子」と出ている。時枝がここで書いている「音声の質的変化」も広義の「諧
調」と同じだと、わたしは読みとった。
 「諧調」のリズム形式となっているのは音声の休止(間)による群団化の
流れだとだと書いている。

 │○│○│○│休│○│○│○│休│○│○│○│

 上は三音節の群団化例である。休止の間も等時間隔で流れており、休止
(間)は、群団化の標識となる、とある。
 一語の中間に休止(間)がくることはない、と書いている。例えば「桜」
「椿」はそれぞれ独立した語であるから、

  │サ│ク│ラ│休│ツ│バ│キ│

と分節されるが、「鶯鳴く」は

  │ウ│グ│ヒ│休│ス│ナ│ク│

とはならない、と書いている。
 独立した語が助詞助動詞に接続した場合は、それぞれが一群団となる、と
ある。
例えば、「雨は降れど」では

  │ア│メ│ハ│休│フ│レ│ド│

となるが、「桜は咲けど」では

  │サ│ク│ラ│休│ハ│サ│ケ│ │ド│○│○│

とはならない。つまり、助詞助動詞のあとに休止(間)がくるということだ。

│○│○│○││○│○│○││○│○│○││○│○│○│3,3,3,3

 上は、三音節が単位となって進行するリズム形式であるが、日本語では音
声を充填していけば、このように規則正しくはならない。当てはまらない個
所も出てくる。意味内容の区切りで休止(間)があり、音声の諧調変化によ
っても、さまざまな形で群団化する、とわたしは思う。

 │○│○│○││○│○│○│○││○│○│○│○│○│3,4,5,

などの群団化も一つの例である。これに語をあてはめてみれば、

  ウリヤ ナスビノ ハナザカリ

となる。他の例で

  イセヘナナタビ クマノヘサンド
  シバノアタゴヘ ツキマイリ

これは、7775となっているが、実は34、43、34、5の比になって
おり、歌謡そのものの本質に即したものである、と書いている。


 時枝は「リズムの美的構成は専らこれを充填する音声の質的変化と諧調に
よるといふことになる」と書いている。「諧調」ということについて、ここ
でちょと脱線してみたい。
 時枝「国語学原論」は昭和16年発行であるが、同時代の昭和15年発行
の大西雅雄「朗読学」(修文館、昭和15)を見てみよう。ここでは、「諧
調」についてやや詳しく書いてある。当時の「諧調」概念の意味が理解でき
る。
 大西は、「音声の美」には「音色の美」と「表現の美」とがあると書いて
いる。

 「音色の美」は声美人のことで、その美しさは「言葉」なるがゆえの美で
はなく、声帯及び口腔のほどよい形状に基づく共鳴美である。音色美は先天
的であって、音声技術とは凡そ縁遠い質のものである、と書いている。
 「表現美」は、音声美学の分野の美である。「表現美」には、その大切な
要件として三つある。
 1、明晰の快(はぎれ)
 2、諧調の妙(ききとれ)
 3、静調の美(おちつき)
 「明晰の快」とは、歯切れよく発音することである。「ふくみ声」や「お
ちょぼ口」を避け、「ズーズー弁」や「ベランメー調」を慎むことである。
 「諧調の妙」とは、音声表現による芸術的魅力である。従ってその至れる
ものは人をして恍惚たらしめ、聴きとれしめるものである。韻文の諧調はそ
の生命であって、文意さへも諧調に補われる所すこぶる多い。散文は、その
諧調は淡白である。論理を運び意義を伝える方に重点がある。
 「諧調」とは、リズムでありメロディーであるが、それはいふまでもなく
音節といふ音色を帯びての「言葉のリズム」であり、「言葉のメロディー」
である。伝へて意義表象に訴える所がなければ音声美と称することは出来な
い。この意義に於いて「諧調の妙」は、必ずや「明晰の快」と手を握ってい
なければならぬ。 
大西雅雄「朗読学」(修文館、昭和15)236ぺ

 以上、時枝は、日本語のリズムは等時間隔で流れており、休止(間)も同
じに等時間隔である。音声表現における間は、読み声全体のリズムを作る重
要な構成要素となる、と書く。
 「音声の質的変化」と「諧調」とによって群団の休止(間)が作られるこ
とになる。つまり音読・朗読・表現よみにおいては、諧調によって牽引され
るそちこちの休止(間)が音声表現全体のリズムを構成することになる。
 英語では強弱変化のリズムがはっきりしており、強弱変化のリズムを通し
て英語表現が構成されている。それに対して日本語では、等時的間隔のリズ
ムが単調に淡白に淡々と流れていて、等時拍では英語と比較してあまりリズ
ムがはっきりしていない。調子よく繰り返すリズムには聞こえてこない。
 日本語のリズムを作っているのは、分節性である。つまり意味内容の群団
化(区切りの間)を基礎(土台)とするメリハリづけである。メリハリづけ
とは、諧調と言ってもよいし、抑揚と言ってもよい。メリハリづけには、緩
急変化・強弱変化・イントネーション・プロミネンス・チェンジオブペー
ス・転調変化・音色変化などの複合総合した色彩づけが考えられる。
 いずれにしても、日本語においては、メリハリづけの基礎(土台)は、群
団化の休止(間)である。日本語の音声表現のカナメは、間だ、間だ、間だ。
間がでたらめでは、何を語っているかがわからない。間の上手な語り方には
聴き手もじっくりと耳を傾ける。

 本ホームページでは、次の個所で、「間」について書いている。
    第8章 間のあけ方で音声表現の七割は決まる
    第8章 間はたっぷり気味に長めにあけるとよい
    第8章 句読点の音声表現のしかた
    第2章 第5ステップ
    第13章 表現よみ授業の指導方法(その6)    



         
音声について



 言語の音声は、言語主体の心理的生理的所産であって、主体を離れて客観
的に存在するものではない。このことは音声を他の音響と区別する重要なる
契機である。音声も音響も、これを研究者の対象として取り上げられた時に
は、そこに何等の区別をも見出し得ないのであって、松風の音も、言語の音
声も、共に物理的音波として変わりはない。しかしながら、一方を自然の音
と見るのに対して、他方を言語の音声と見る時、既にそこには音声を主体的
所産として考へているのであって、実は対象として物理的音波以上のものを
把握していることを意味する。(中略)自然の音響でも、それが音楽の中に
取り入れられたやうな場合は、もはやそれは自然音ではなくして主体的所産
と考へなくてはならない。即ちそれは、人間の感情の延長としての意味を持
つこととなるのである。
          「国語学原論」(岩波書店、昭和16)176ぺ

【荒木のコメント】
  
 時枝は、「主体を離れて客観的に存在するもの」として言語を把握するこ
とを「観察的立場」と呼んでいる。「言語を主体の心理的生理的所産」とす
る立場を「主体的立場」と呼んでいる。時枝の言語過程説は、「主体的立
場」をとる。こう言って、『国語学原論』全体を流れている言語観が「主体
的立場」からの言語観である。「主体的立場」に立たなくては駄目だ、と繰
り返し主張している。
 自然の音響と言語の音声との違いについて、二つは、自然の風景と風景画
との違いと同じである、と書く。観る者の感覚としては違いはないが、風景
画は主体的所産である所に違いがある。自然の風景でも、庭園の一部となっ
た場合には、造園者の主体的活動の一部と考えなければならない、とも書い
て「観察的立場」と「主体的立場」に違いを説明し、主体的立場をとるべき
ことを主張している。


 主体的意識としての聴覚的音声表象は、発音行為の一段階として現れるも
のに過ぎないのであって、音声は猶その外に口腔の発音器官の参与と物理的
過程とを含むものである。この様にして、音声の成立条件としては一般に物
理的構成、生理学的機能及び心理学的性質の三者が存在することが認められ
ている。そしてこの三の条件が過程的構造に於いて連結している。
 猶仔細に見るならば、音声の分析的究極の単位と見られている単音ですら、
一定の固定した条件に於いて発音されるのではなくして、やはり一連の過程
的構造を持っているのである。例えば、タ行子音のtは、一個の単音である
といはれているが、tを構成する発音過程はこれを三の部分に分けて考へる
ことが出来る。即ち口蓋の閉鎖、閉鎖の持続状態、閉鎖の破裂の三の過程で
ある。これは口腔音アの如きについて見ても多かれ少なかれ認められうるこ
とである。この様な複雑な過程を有する調音を一単音と認める処の根拠は何
にあるのだろうか。上に述べた様に、音声成立の条件に生理、物理、心理の
三の側面が考へられるのであるが、三の条件が同等の資格で音声を決定して
いるのではなくして、音声の主要な決定要素はその生理的機能即ち調音であ
ることは一般に認められていることである。故に音声の分類基礎として、一
般には口腔の発音発声器官が基準とされている。
          「国語学原論」(岩波書店、昭和16)184ぺ

【荒木のコメント】

 ソシュールのように「言語」(ラング)を、聴覚映像と概念内容との連合
と理解していけない、音声を主体的表現行為または理解行為として把握すべ
きだ、と主張している。「音声成立の条件に生理、物理、心理の三の側面が
考へられるのであるが、三の条件が同等の資格で音声を決定しているのでは
なくして、音声の主要な決定要素はその生理的機能即ち調音であることは一
般に認められていることである。」と書いている。調音の重要性を語ってい
る。時枝は、音声の美的表現の立場からこう主張している。わたしの音読・
朗読・表現よみの立場から言えば、「調音」は音声表現の基礎条件であり、
これなくして情感性もメリハリも成立しない。また情感性作り(メリハリ)
には心理的感情的条件が大きく作用していると言える。


 音声は、文字が読むこと、書くことに本質がると同様に、主体的な発音行
為、聴取行為に本質があり、主体的な知覚行為としての音声表象は、音声の
重要な段階ではあるが、この様に主体的行為の段階の一断面に過ぎないこと
となる。      「国語学原論」(岩波書店、昭和16)97ぺ

【荒木のコメント】

 文字が読むこと、書くことに本質があるように、音声は話すこと、聴くこ
とに本質ある、と語っている。音声表象とは、「あ、い、う」とか「か、さ、
た、な、は、ま」と書いている。音声表象は、音声行為の全過程(声帯の振
動、口腔内の調音・構音作り、音波の流れ、共鳴、それぞれの音声表象の知
覚など)の、主体的表現行為の段階の一断面に過ぎない、と書いている。ま
た「音声自身の中に種々なる過程的段階を考えるならば、音声は一方心理的
表象とも考えられ、また生理的物理的過程とも考えられる」とも書いている。


 国語の基本リズム形式は、等時的拍音形式であるからして、音声を以てこ
のリズム形式を充填するに際しても、リズムに制約された調音法を用いると
同時に、そのリズム形式を効果的にする処の調音法と、そして調音法の連鎖
が要求されるのは当然である。
          「国語学原論」(岩波書店、昭和16)503ぺ

【荒木のコメント】

 前出でも、ここでも、音声は「調音」が重要だ、と強調している。主体的
表現行為または理解行為においては、はぎれよい、明瞭な発音がとても重要
である、等時的拍音形式であるからして、「そのリズム形式を効果的にする
調音法」が重要だ、と主張している。わたしの音読・朗読・表現よみの立場
から言えば、リズムをも調音法の入れるならば、調音法の中こめて、めりは
り・音声表情までをも入れたいと思う。


   物あれば必ず象あり。象あれば必ず目に映る。目に映れば
   必ず情に思ふ。情に思へば必ず声に出す。其声や必ず其の
   見るものの形象(アリカタ)に因りて其形象なる声あり。
   此を音象(ネイロ)と云う。(古史本辞経)
 上の平田篤胤の考方の如きはその一例であるが、音声は聴者に於いて習慣
的に意味に連合するだけであって、それ自身何等意味内容を持たぬ純生理的
純物理的継起的過程である。音が意味を喚起する事実から、音が意味を持っ
ていると解するのは、常識的にのみ許せることである。
「心理過程としての言語本質観」「文学」(岩波書店)昭和12年6・7

【荒木のコメント】

 時枝はここでも、言語(ラング)は聴覚映像と概念との結合したものだと
いうソシュールの言語観に反論している。概念は音声によって喚起される心
的内容であって、概念は言語の内的構成要素でなく、外に置かれるべきもの
である。「音声は聴者に於いて習慣的に意味に連合するだけであって、それ
自身何等意味内容を持たぬ純生理的純物理的継起的過程である」と書いてい
る。音声は話す聞く行為の過程の中で習慣的に意味と連合していく性質を持
っており、もともと音声が意味をもっているのではない、と書いている。
 この個所で、時枝は平田篤胤の文章を引用している。これはおもしろい。
わたしが特に興味を引いた箇所は、「其声や必ず其の見るものの形象(アリ
カタ)に因りて其形象なる声あり。此を音象(ネイロ)と云う。」という個
所である。情を伴った声の形象(アリカタ)を音象(ネイロ)という、と書
いてる。「音象」つまり「音の象(姿・形)」に「ネイロ」と振り仮名がふ
ってある。音色(ねいろ)とは、通常、笛の音色とかバイオリンの音色とか
で使われているが、わたしはここで話し手・読み手から表出される音声表
情・めりはり、情感性或る読み声のことであると読みとった。「音色・ネイ
ロ」でなく、「音色おんしょく」のことであり、間や区切りや上げ下げや大
小や強弱などを含めた音声表情全体のことだと自分勝手に読みとった。音
読・朗読・表現よみのカンどころをぴたりと言い当てている、すばらしい文
句だと感心した。



          
文字について



 言語は、決してそれ自身一体なるべき単位ではなく、又純心理的実体でも
なく、やはり精神生理的継起的過程現象であると言わねばならない。言語表
現に於いて、最も実体的に考へられる文字について見ても、それが言語と考
へられる限り、それは単なる線の集合ではなく、音を喚起し、概念を喚起す
る継起的過程の一継面として考へられなければならない。若しこれを前後の
過程より切離して考へる時、それは既に言語的性質を失ふことになる。かく
の如く、言語に於いては、その如何なる部分をとって見ても、継起的過程で
ないものはない。継起的過程現象が即ち言語である。(中略)概念、音声は、
言語に於ける並列的構成要素として重要であるのでなく、言語過程として不
可欠のものであり、かくの如き過程の存在に於いてのみ我々は言語の存在を
意識することが出来る。未知の言語の音声を聞いた場合でも、それが何らか
の観念に還元し得ると考へることによって言語は意識されるのである。
 「心理過程としての言語本質観」「文学」(岩波書店)昭和12年6・7月

【荒木のコメント】

 時枝は、ここでもソシュールの言語構成説を批判し、自己の言語過程説を
主張している。
 文字についてこう書いている。文字は、実体のあるものでなく、音を喚起
し、概念を喚起する継起的過程の一継面である、と書いている。言語過程の
中にあって、未知の文字を目にした場合でも、未知の音声を聞いた場合でも、
それが何らかの観念(意味)を表わしたものであると考えること、連結させ
ることで言語となって意識されるのだ、と書いている。文字と音声は、通常
は、言語過程の中で習慣的に連結して言語として機能するのだと語っている。


 文字は要するに、理解或いは表現といふ主体的行為の一段階として把握さ
れなければならない。我々が如何なる音声を表わしたか理解出来ない様な線
の集合に出会っても、これが何等かの音声を表わしたもの、何等かの音声を
喚起するものと考へられる時、これを文字であると認めることが出来るので
ある。(中略)
 文字が、音及び意味を表出し、又これを喚起する処に本質がある。これは
音楽における楽譜が、それ自体に旋律を持っているのではなく、旋律を表現
し、受容する媒介となるに過ぎないことと相似てる。文字は、音及び意味を
表出する主体の働き一段階として、又これによって、言語的経験を獲得する
主体の理解作用の一契機として考へなければならない。文字は、発音し、読
むことの一の延長に過ぎないのである。言語過程説は、この様に文字を専ら
主体の自己表現の段階の於いて把握しようとするするのである。
           「国語学原論」(岩波書店、昭和16)94ぺ

【荒木のコメント】

 文字は、理解する・表現するという行為の一段階として把握すべきものだ、
と書く。読めない漢字に出会っても、その漢字が何らかの音声を喚起するも
の、音声を表わしているもの、であることを私たちは知っている、と書く。
 文字は楽譜と似たところがある。文字はそれ自体に意味は持ってないし、
楽譜はそれ自体に旋律は持ってない。しかし、文字は、表現したり理解した
りする過程の中で音を表出し、意味を表出するという働きがある。楽譜は、
演奏し鑑賞する過程の中で音楽的な表現をするという働きがある、そういう
点で両者は似ていると言える、と書いている。



         
音声の美的表現



 言語の美は、絵画に於ける美の様に、視覚的要素の構成の上に成立するも
のでなく、言語過程といはれる主体的表現行為の上に構成されるのであって、
それは身体的運動の変化と調和から知覚される美的快感に類するものである。
従って言語美学の考察は、先ず第一に言語の体験即ち言語の過程的構造の省
察から始められねばならない。言語の過程的構造を形成する各段階即ち音声、
文字、意味或いは思想の連合によって成立する各語は、夫々にそれ自身の美
的考察の対象ととなり得るものであるが、同時に又それらは更に大なる統一
体の一部分であって、従って、それ自身の美と同時に、全体との連関から生
まれてくる美といふことも考慮に入れなければならない。例えば、語はそれ
自身美的考察の対象となり得るが、又同時に文中に於ける語は、他の語との
連関に於いて美的価値が規定されて来る訳である。それ自身如何に美しい語
も、場面即ち聴手との連関に於いて考察する時、必ずしもそれが調和的でな
く美とされない場合もある。例へば、荘重な式辞も、乱痴気騒ぎの席上では
寧ろ滑稽に感ぜられる様なものである。以下私は言語が如何にして美的に形
成せられるかを、言語過程説の立場に立って、分析的に考察してみようと思
ふ。       「国語学原論」(岩波書店、昭和16)502ぺ

【荒木のコメント】

 言語の美は、絵画と違って、言語過程の主体的な表現行為おいて成立する、
と書く。言語の概念は、主体の概念「作用」(意味「作用」)に美があるの
であり、音声においては発音行為・表現行為そのもの、つまり「作用」に美
があるのだ、と書いている。これは時枝の言語過程説からは当然に導き出さ
れてくる帰結だと言える。
 「身体的運動の変化と調和から知覚される美的快感」と書いているが、こ
れは言語の美は、表現し理解する言語過程において言語主体の心理的生理的
筋肉的反応による美的な快感によって表出されてくるものだ、ということで
あろう。だから言語の美学の考察は、体験つまり言語過程の省察から始まる
ということだ、となる。体験の考察とは、言語過程の考察ということだ。
 言語の美は、一語一語も考察の対象になるが、それは文または文+文の統
一体であるので、文全体との連関から美的価値を考察すべきである、と書い
ている。
 わたしなりの考えた例を出そう。「おののき」という語の例を出してみよ
う。「恐怖のおおののき」「満面の歓喜のおののき」それぞれの表現価が違
う。「恐怖のおおののきを覚え、絶望の淵に落ちていった」「満面の歓喜の
おののきで胸が高まり、割れるような拍手を送った」と表現したとする。同
じ「おののき」という語が、前後の表現がどうであるかによって、それぞれ
に意味する表現価が違ってくるし、一つの語「おののき」の美的価値も違っ
てくる。時枝が重要視している「場面」によっても、その表現価や美的価値
は違ってくる。使われる場面(俗に、T・P・O。時・場所・場合、と言わ
れる)によっては、時枝が語っているように滑稽に感じられる場合にもなる。
 わたしは、言語の美の教育は、言語感覚を育てる教育ということだと思う。
これについては、わたしは本ホームページの第10章「浸り読みで言語感覚
を育てる」で詳述している。言語の美の教育は、言語感覚の指導によって養
成される、と思う。第10章では物語文や説明文の具体的な文例をあげて言
語の美について説明している。参照されたし。
 上の引用文箇所の終末に、時枝は「私は言語が如何にして美的に形成せら
れるかを、言語過程説の立場に立って、分析的に考察してみようと思ふ。」
と書いている。吉本隆明「言語にとって美となにか」という本がある。この
本の題名は、上で引用した個所の終末部分の文章がヒント・きっかけとなっ
て、書名「言語にとって美となにか」となったのではないかと、わたしは勝
手に推察した。吉本は時枝をけっこうよく読んでおり、ヒントを得ているよ
うにわたしは思うのだが、これはどうでもよいことである。吉本は、この著
書の中で、けっこう時枝誠記を引用している個所があり、時枝からかなり影
響を受けていると読み取ったからである。
  時枝は、言語表現は、「場面」との連関が大であると強調する。リズム
は「場面」から産出する、ことを主張する。これはこれは本稿テーマのリズ
ムと大きく連関するので冒頭で取り上げている。上の引用個所でも、表現の
調和的な美は「場面」から産出すると書いている。
 時枝の著書「国語学原論」も「場面」から産出していることになる。わた
しがここで言う「場面」は、時代背景という場面のことである。「国語学原
論」の発行年は、1941年・昭和16年である。1941年・昭和16年
という時代(学問レベル・水準)を引きずって書かれていることは当然であ
る。時枝の言葉を使えば、「場面」の制約を受けて「国語学原論」は産出さ
れている、ということになる。「国語学原論」では、ソシュール、小林英夫、
佐久間鼎、相良守次、金田一京助、有坂秀世、鈴木朖などの名前が出現する。
その時代の学者たちの論文を重要参考文献として参照し、引用し、反論を加
えつつ、彼の言語過程説を構築しているわけである。
 時枝は、「国語学原論」を執筆した当時を振り返って、こう書いている。


 死出の装束を纏った獅子奮迅の姿、それは昭和十二年から十六年までに亙
って、殆ど毎月論文を執筆した私の姿であった。かくして大正末年以来の宿
題であった「言語は何であるか」の問題に対する一応の解答が出来上がって、
「国語学原論」の一書が成立するに至った(昭和十六年十二月)。本書には、
「言語過程説の成立とその展開」なる副題が副えられてあって、本書成立の
由来と意図が示されている。
      時枝誠記「国語学への道」(明治書院、昭和31)94ぺ


 上の時枝の文章にはコメントはいらない。わたしには、その気持ちが痛い
ほど分かる。「死出の装束を纏った獅子奮迅の姿」、時枝大先生だから書け
ることで、誰にもは書けないコトバである。そうして出来上がった著書も、
時代という「場面」に制約されているわけである。時代という「場面」のリ
ズム、執筆過程時の心理的感情的なリズムを漂わせている文章(文体)であ
るわけだ。


国語はジグザグ型の如く、各調音の限界が明瞭でなければならない。この
ことは国語の音節結合上の美的条件の一つともなり得ると思ふ。従って、
ke:ru(帰る)よりも ka‐e‐ru 、deiau(出会ふ)よりも de‐a‐u 
といふ風に、音の融合を避けることが正しいとされる。又調音は母音を伴ふ
ことによって一層分節が明瞭になるからして、slndes(するんです)は、
su‐lu‐no‐de‐su が正しいとされる。母音の脱落無声化は一時的便宜的
現象であるにすぎない。
         
「国語学原論」(岩波書店、昭和16)504ぺ
【荒木のコメント】

 時枝は、音声の美的表現には、発音の明晰がとても重要だと書く。母音の
脱落無声化はかんばしくない、と書く。
 わたしなりの例をあげると、
手足teasiが te:si となったり、ここをほれ kokoohoreがkoko:hore 
となったり、このあいだ konoaida が konaida になったり、こうした
発音はよくないということである。こうしたことは、表現よみ初期指導の児
童生徒の発音実態では、よくみられる現象である。ここで時枝は、単なる発
音指導でなく、「言語の美」の観点から指摘している。わたしも著書の中で
そのことを書いている。
  本ホームページでは、次の個所で、それの指導について書いている。
    第8章 はつおんのけいこ
    第8章 一年生・入門期の音読指導
    第8章 鼻濁音の発音の指導法
    第8章 音読初期の読み声の実体はこうだ
    第2章 第一ステップ
    第13章 表現よみ授業の指導方法(その7)    

 我が国の詩歌の表現に於いては、異化作用即ち音声の対照の中に表現の美
的効果を狙ったものが存在することは認めてよいと思ふ。母音の対照といふ
ことは、調音の円滑なる流動を意味するのであって、そこに筋肉運動と知覚
上の諧調の快感を伴ふ。同一母音、例へば、ア列音或いはウ列音の連続は決
して諧調ではない。特に句頭句尾に同音が繰り返されることは、知覚の単調
を強調するために、古来「さしあひ」として忌まれる理由になった。又音の
交叉にしても、ウオアエイの如き連続は、音相互の連接に明晰を欠くために
美的ではない。これに反して、アイウエオの連続は、音に変化があると同時
に、各音の限界が極めて対立的で明晰である。この変化と明晰との原理の中
に国語の音声の美的構成の理念を見い出すことは出来はしないか。
          「国語学原論」(岩波書店、昭和16)506ぺ

【荒木のコメント】

 時枝は上の引用部分の文末「見い出すことは出来はしないか」と疑問形で
閉じているが、これは反語法で「見い出すことは出来る」と肯定している言
い方が潜在している。
 時枝は、場面からリズムが表出される、と書く。これは重要な提言である。
だから本稿でもこれを冒頭で取り上げている。時枝は「場面に制約される」
とも書いている。これは同じことを言ってる。
 「場面」について、少しばかり違った観点から見てみよう。 時枝の著書
「国語学原論」の発行年は、1941年・昭和16年である。1941年・
昭和16年という時代の学問レベルを引きずって書いていることになる。こ
の時代の「場面に制約され」て、時枝は書斎の中で書いていたわけである。
 ポストモダンのテクスト論者、クリステヴァは、あらゆるテクストは様々
な引用のモザイクとして作られ、総てのテクストは他のテクストの吸収であ
り、変形である、と語っている。その観点から言えば、時枝の「国語学原
論」は世界的に大胆な提言に満ちた画期的な理論構築をしている書物である
が、「場面」「場面の制約」という時代に引きずられており、現在ではやや
時代遅れとみられる個所もなくはない。その例が「さしあひ」である。
 「さしあひ」を辞書で引くと、「連歌、俳諧で、同字語や同義語が規定以
上に近くに出るのを禁じること」(大辞林)とある。母音がウオアエイの連
続は「さしあい」だからいけない、と書いている。口の中で舌をウオアエイ
の順番で発音して、下の位置がどう動いているか、回転しているかを調べて
みよう。この順番で舌が規則正しく円を描いて回転していることに気づくこ
とでしょう。この順番だと、舌の位置が近すぎて、発音不明瞭になる個所が
出てきやすいわけだから、この順番を回避して作句しよう、ということだ。
 ちなみにアナウンサーの発音練習に、「アエイウエオアオ」または「アイ
ウエオアオ」のような順番の発音練習文の学習教材がある。これはそれぞれ
の構音の仕方が近くでない、舌の位置が離れている、ということからこうな
っているわけだ。
 連歌や俳諧は万葉時代からから江戸時代に流行したと言われるが、現代で
は、詩歌(詩、俳句、短歌など)の創作においては、同字語や同義語を積極
的に使って詩歌を作ることも行われている。下記の短歌もそうである。

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ   若山牧水
IAOIAAAIAAUAOAOAOUIOAOIOOAUAAOU
  (Aが13個で42%を占めてる)

 これについては、本ホームページの次の個所で詳述している。
 第15章「日本語のリズム(2)・押韻」の項を参照してみよう。頭韻や
脚韻で、同音が続いている詩歌の例をさまざまにあげている。



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