第15章 リズム リズム リズム 2014・5・27記 時枝誠記のリズム論(1) 本稿では、時枝誠記のリズム論について書くことにする。本稿で主に参考 にした文献は、彼の主著「国語学原論」と、リズムについて書いてある三つ の論文である。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16) 「言語に於ける場面の制約について」『国語と国文学』昭和13年6月。 「心理過程としての言語本質観」「文学」(岩波書店)昭和12年6・7月 「言語の存在条件 ─主体、場面、素材─」「文学」昭和16年1月 これら著作物は昭和12年から昭和16年までに刊行されており、かなり 古い文献である。古くはあるが、書かれている内容は今でも光輝を放ってお り、わたしのリズム観形成に大きな刺激とヒントを与えてくれている。 リズムとは 時枝の著作物を読むと、自説立論の仕方は、ソシュールの言語構成説に 反論を加えつつ、自分の言語過程説を構築していく文章記述になっている。 「ソシュール」とか「言語構成説」とかいう単語は、彼の著作物のどの ページにも出現し、この単語が見出せないページがないというくらいに多く 出現する。 本稿では、時枝の言語過程説の成立の論拠の紹介は必要ではなく、彼の リズム観を紹介することに目的があるので、時枝のソシュール批判について は可能な限り(というか意図的に)除外して書いている。時枝のリズム観そ のものの紹介だけに努めるようにした。それを冒頭でお断りしておく。 一般に言われているリズムとは、一定の規則正しい反復をもつところの、 時間上の進行のことといってよいだろうと思う。時枝も、「国語学原論」の 中で、言語のリズムについて次のように書いている。「一般には、リズムは 音の連鎖の中に現れる属性と考えられ、音声学ではリズムが音声美学の領域 として扱われている。詩歌のリズムそのものは、リズムの美的群化の所産で あると考へられている。私はそれを以て国語の基本的なリズム一般とするこ とには賛成できない」と書く。つまり、五七調や七五調や音数律など、音声 の美的群化の所産をリズムとすることは賛成できない、と語っている。続い て、次のように書く。 かかる群団化リズム形式を問題の出発点として、そして詩歌を資料として これを帰納しようとする場合には、リズムは言語に備わる一の客観的形式と 考へられるが故に、かかる形式を規定する単音或いは音節或いは音節数が先 づ明らかにされねばならないと考へられるかもしれない。しかしながら、こ の考察の手順ははたして正当なものであらうか。勿論客観的形式と考へられ るリズムは、実はリズム経験の縁であって、リズムそのものは心理的な内面 的な起源を持つものであることは佐久間鼎博士もといて居られる処である (日本音声学六七八頁)。コフカは、この心理的起源を、音、光の感覚並び に筋肉運動の背後に存する「内的発動性」に求めた(同書六八〇頁)。内的 発動性といふことが如何なるものであるかの探究は、純粋心理学上の問題で あって、今の私の当面の問題ではない。さりとてこの内的発動性のあらはれ であるリズム形式の結構を調査するすることも、又リズムの本質を明らめる 所以ではないと思ふ。私の今の問題は、言語の於けるリズムの本質如何の問 題である。心理的対象としてでなく、又客観的形式でもないリズムの本質と は何であるか。リズムを内的発動性の求めることは、リズムの心理的研究で あり、又リズムの形式を調査することは、リズムの客観的側面を研究するこ とであって、未だリズムの具体的経験そのもの、言語に於けるリズムの本質 を明らかにしたものではない。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)155ぺ 【荒木のコメント】 リズムと言えば、その客観的形式つまり単音、音節、音数律とかが話題に なる。これは正しくない。リズムは心理的な内面的な起源をもつものである。 が、コフカのように「内的発動性」に求めることは純粋心理学上の問題で、 今の私の関心事ではない、と書いている。 ここで時枝が話題にしている佐久間の著書、つまり佐久間鼎「日本音声 学」(昭和4年、京文社)を開いてみよう。この著書は、700ページ余の分 厚な本であるが、リズムについては時枝が言うように最終章に11ページだけ 書いてある。佐久間の著書から時枝が指摘している個所を引用してみよう。 時枝がどんな文脈の中で語っているか、その背後関係が理解できるだろう。 佐久間鼎「日本音声学」六七八頁から引用 柱時計の振子の音のやうに、一定の間隔をおいて聞こえる拍音の系列を聞 いていると、その二つづつまたは四つづつの拍音が一群となって、全体をい くつかの群に分けるやうにカチカチカチカチと聞こえて来る。その際一群の 中のそれぞれの拍音は、平等の重みをもって聞こえるのではなくて、中の一 つに特に重みをおかれているやうな気がする。かういふ風に聞くことは、リ ズムの経験であって、もと客観的には強さも間隔も平等であるやうな拍音系 列についてかやうにリズムを聞き取るのは、主観的リズム化の現象である。 その場合、拍音間の間隔も、主観的には平等ではなくなり、離れたところと 近づいたところとを生じる。さういふ時間的関係は、リズムの間マであり、 長短律である。拍音に主観的に与えられた強弱の関係は、拍子であり、強弱 律である。かく時間的の相と力的の相とを分解して考へることが出来るが、 リズムそのものはかういふ相をあらわすところの具体的な経験である。ただ 普通には、その形式を抽象し来って、これをリズムと名付けているやうな有 様である。 【荒木のコメント】 ここには佐久間のリズム観が書いてある。四拍の一群がある、中の一つに アクセントがおかれる。強弱の関係は拍子となる。離れたところは間となる。 拍音間の間隔は、主観的には平等ではない。時間の相と力学の相との相関で あるが、その形式を抽象してリズムとよんでいる。ラフにまとめるとこうな る。 佐久間鼎「日本音声学」六八〇頁から引用 コフカは純粋に視覚的な刺激を規則正しく反復させて、何等リズムの予想 をも与へずに提示するといふ実験手続きによって、リズムの成立条件を検し た。これより先、電気花火の一様な継起的系列を見る際、リズム知覚を生じ やすいことは知られていた。その経験の本質においては、音の場合と光の場 合とで相異なるところもないのである。視覚的刺激を以てした場合には、か へってリズム成立に参与する運動性の因素を明らかにし得るのであって、内 省上運動表象がほとんど一切の場合に現れ、これを抑えることがよほど困難 であることは、コフカの述べたところである。氏は、統一形式がリズムには 必須の特徴であるが、一般的な単純な反復と違う点が強勢的関係の存立にあ るとし、強勢すなわち重みをつけることが重要な事項であるとする。コフカ の見解は、リズムを音・光・筋肉運動の背後に存する「内的発動性」に求め る処に存する。 そのいはゆる内的発動性は何者であるか。そこにリズムの本質に関する課 題がある。いまこれを心理学の研究に譲り、ここに問題としてこの発動性の 現れであるリズムに特有な姿、リズム成態の結構を考へるにとどめる。 【荒木のコメント】 佐久間は、コフカの純粋心理学上の実験を紹介している。結局、佐久間は 「内的発動性」についての問題提起はしているが、さらなる追求は中止して いる。 私はリズムの本質を言語の於ける場面であると考へた。しかも私はリズム を言語に於ける最も源本的な場面であると考えたのである。源本的とは、言 語はこのリズム的場面に於いての実現を外して実現すべき場所を見い出すこ とが出来ないということである。宛もそれは音楽に於ける音階、絵画に於け る構図の如きものである。。かく考えて来る時に、音声の表出があって、そ こにリズムが成立するのでなく、リズム的場面があって、音声が表出される といふことになる。音声の連鎖は、必然的にリズムによって制約されて成立 するのである。更に進んでいふならば、単音の結合が音節を構成し、その上 にリズム形式が現れるのでなく、逆にリズム形式が音節を構成し、音節に於 ける単音の結合の機能的関係から、単音の類別が規定されるといはなければ ならない。かくして従来音響学的生理学的基準よりのみ見られた母音子音の 類別に全然別個の解釈が与へられることとなる。この考方の変革は、従来単 音より連音へ、更にアクセント、リズムへと、原子論的段階によって組織せ られた音声学に全く逆の方向、即ち、リズムより音節へ、更に音節より単音 への組織を要請するものである。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)157ぺ 【荒木のコメント】 時枝は、リズムの本質は場面である、と語る。「音声の表出があって、そ こにリズムが成立するのでなく、リズム的場面があって、音声が表出される。 音声の連鎖は、必然的にリズムによって制約されて成立する」と書いてる。 ここに時枝のリズム観の中心的な、独自の考え方が主張されている。では、 場面とは何か、ということになる。 場面とは 私は、言語の存在条件として、一主体(話手)、二場面(聴手及びその他 を含めて)、三素材の三者を挙げることが出来ると思ふ。この三者が存在条 件であると言ふことは、言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何者 (素材)かについて語ることによって成立するものであることを意味する。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)40ぺ 【荒木のコメント】 時枝理論では、「場面」は言語成立条件の一つになっている。「場面」は 言語が成立するための存在条件だという。 主体とは、言語の話し手であり、言語表現行為の行為者のことである。 「猫がねずみを食う。」という文では、「猫」は主格ではあるが、この言語 の主体ではない。「猫」「ねずみ」「食う」は素材相互の関係であって、 「猫がねずみを食う。」という言語表現の主体は別でなければならない。言 語の主体は、語る処の主体であって、「ねずみを食う」といふ事実の主体で はない、と書いている。また、聴き手も、話し手と同様に、受容者としての 聴き手は、言語の主体である。言語を聴いて、ある事物を理解する時、そこ に言語の存在を経験するのであるから、この場合の聴き手は主体となる、と 書いている。 「素材」とは、表象、概念、事物、事柄である、と書いている。言語は常 に「何」かについて語るのであり、その語られる「何」かが「素材」である。 表象にしろ、概念にしろ、事物にしろ、事柄にしろ、それらはすべて主体に よって、それに「ついて語られ」る素材であり、言語を構成する内部的な要 素ではない、と書いている。主体も、素材も、場面も、言語の内在するもの ではなく、言語の外にあるものだという。 では、リズムの源本的な場面としての「場面」とは、いかなるものである か、時枝の説明を見ていこう。 「場面」の意味は、例えば「場面が変わる」「不愉快な場面」「感激的場 面」などと使用される処のものであって、一方それは場所の概念と相通ずる ものがあるが、場所の概念が単に空間的位置的概念であるに対して、場面は 内容を含むものである。場所に存在する或るものを包含するのである。かく して場面は又場所を満たす事物情景と相通ずる意味を持つのであるが、場面 は単にかかる主観を離れた客観的存在としての事物情景を意味するのではな い。場面は、位置と情景と、そして之に志向する主観の作用即ち主観の態度、 気分、或いは感情の志向を含むものである。かくして我々は常に何らかの場 面に於いて生きているのである。例えば賑やかな道路を散歩するとする。私 はその時、人の往来、灯火のきらめき、車馬の騒音を知覚しつつ、同時に緊 張した気分或いは浮き浮きした感情を経験しつつ歩いているのである。即ち 私はこのような場面に於いてあるのである。若し私がこの際遠来の旧友と相 携えて語りつつ歩いているとしたならば、私はかかる場面に於いて旧事を語 っているのである。若しこの際、悲しい過去の思い出を語るとならば、我々 は路上の騒音を捨てて、静かな人通りの少ない公園の林道を選んだでもあろ う。この際、我々は積極的に、我々の新しい場面を求めたことになる。又、 例えば、群衆の感激的集合の中にいる者が、只これを一の情景として眺めて いる時は、かかる集合は我に於いて一の客観的事実に過ぎないのであって、 いまだ場面が成立したとは言い得ない。若しこれが場面となる時、私も群衆 と共に怒号し、歓呼するにいたるであらう。そこには既に主客の対立は存在 しない。我々の日常の行為が、自己の内心の必然的欲求によって行為される 以上に、場面がこれを左右し、場面が之を左右し、拘束するといふことは屡 経験する明らかな事実である。 「言語に於ける場面の制約について」『国語と国文学』昭和13年6月 【荒木のコメント】 「場所」と「場面」とは違う、と書いている。「場所」は主観を離れた単 なる客観的存在であり、「場面」は「位置と情景と、そして之に志向する主 観の作用即ち主観の態度、気分、或いは感情の志向を含むものである」と書 いている。 上の引用文は、時枝が昭和13年に発表した雑誌論文からの引用であるが、 昭和16年発行の「国語学原論」では、表現を変えて、次のように書いている。 文章内容は似ているが、引用してみよう。 場面は純客観的世界ではなく、又純主体的な志向作用でもなく、いはば主 客の融合した世界である。かくして我々は、常に何等かの場面に於いて生き ていると言ふことができる。例えば、車馬の往来の激しい道路を歩いている 時は、我々はこれらの客観的世界と、それに対する或る緊張と興奮との融合 した世界即ちこの様な場面の中に我々は歩行しているのである。従って我々 の言語行為表現は、常に何等かの場面に於いて行為されるものと考へなくて はならない。言語に於ける最も具体的な場面は聴手であって、我々は聴手に 対して、常に何等かの主体的感情、例えば気安い感じ、煙たい感じ、軽蔑し たい感じなどを以て相対し、それらの場面に於いて言語を行為するのである。 しかしながら、場面は只単に聴手にのみその内容が限定せらるべきものでは なくして、聴手をも含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるもの をも含むものである。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)44ぺ 「場面」についての内容で、もう一つ重要なことを書いている。「場面は、 言語表現を制約すると同時に、言語的表現もまた場面を制約して、その間に 切離すことができない関係がある」ということを書いている。次のように書 く。 言語が心的表現過程の一形式であり、主観行為の一形式であると考へるな らば、言語は単なる主観の内部的発動ではなくして、言語に於いて、これを 拘束し、左右する処の場面が存在するといふことも当然予想せらるべきこと である。言語的行為は、内部的欲求に基づき、それ自身独立し、抽象された 行為ではなく、必ず或る場面的体験に於いて行為されるものである。詳らか にいふならば、言語は必ず或る場面を素地とするものである。場面は軌道の 如く、言語はその上を走る車両の如きものである。軌道は車両の運動を拘束 すると同時に、車両の運動を完成さす処のものである。場面の素地を走るこ とによって、始めて完成せる言語表現となるといふことが出来よう。 「言語に於ける場面の制約について」『国語と国文学』昭和13年6月。 【荒木のコメント】 言語は心的表現過程の一形式であり、主観行為の一形式であるが、言語表 現は、場面に拘束され、場面によって応変するものである、と語っている。 上記につづいてその次に例を挙げている。私が一人の人と語っているとき、 聞き手が二人、五人、十人とふえた場合、語り方は変わってこざるを得ない。 もしそこに大先輩が現れたら、威厳を正して言葉遣いに注意することになる。 場面を無視して、ただ内心の欲するままに言語を行使することはできない。 「場面における志向対象は、聴者のみとは限らない。言語の表現せられる雰 囲気までをも含めていふことができる」と書いている。 他の個所では、こんな例もあげている。魚屋さんがお客に「コンチワ」と 挨拶する。これは決して「コンニチワ」の表現を忘れたわけではなく、お得 意さんという志向関係即ち場面がこのような表現をさせたのである。魚屋さ んが知人の家を訪問した場合は、やはり「コンニチワ」と言って訪ねるだろ う、と書く。 場面は、主観を囲堯する世界と主観の志向関係によって結ばれた自我の一 の意識状態である。若し場面を、主観を離れて客体に即して言ふならば、そ れは志向的客体(intentionales objekt)といひ得るであらう(山内得立氏、 現象学敍説三二一頁)。私が少年少女を前にしてお話をしようとする場合、 少年少女は私の前に愛らしく無邪気なものとして存在している。それは私が お話を始める前にも、又お話の最中にも、私の志向対象として私の前に存在 している。これ即ち私のお話に於ける場面である。場面は、主観の志向的客 体であるが故に、一定の対象が一定の志向的客体即ち場面を形作るとは限ら ない。客観的には同一と考へられるものも、場面としては相違する場合があ る。私が少年少女に対する関係と、先生がこれに対する関係とは自ら異なら ざるを得ない。現象学的にいえば場面の注意的変様(attentionale modifik atoin)とでも名付くべきであらう(現象学敍説三二五頁)。 「言語に於ける場面の制約について」『国語と国文学』昭和13年6月。 【荒木のコメント】 時枝の言語過程説という言語観の背景には、現象学という哲学があると言 われている。「言われている」と書いたが、時枝を語る研究者たちがそう言 っているということで、時枝自身の口からはあまり現象学との関係について 話すことはかったようである。 時枝研究者の根来司が「時枝博士は自己の言語過程説と現象学とのかかわ りについては著書でも論文でもあまり触れらておられないのである」と書い ている。さらに根来司は「時枝博士の国語学は現象学とさして関係がない」 と書いている。それに対して東大国語研究室で時枝教授と同室で副手・特別 研究生であった永野賢は「時枝先生は、現象学を勉強されたが、現象学に引 きずられたりしてない。あくまでも現象学的なものの見方にヒントを得、研 究と思索の立場・態度の中に現象学的方法を取り込んで、それを足場に志向 を展開されたのだ、と私は考えている」と書いている。根来と永野では、微 妙にというか、かなりというか、違っている。 時枝と現象学との関係を知りたい方は、「国語学」167集 1991・12・31 の永野賢論文、つまり、≪根来司著『時枝誠記研究 言語過程説』『時枝誠 記研究 国語教育』≫についての永野賢の書評をお読みいただきたい。 いずれにせよ、時枝の上記の文章は現象学との関係について書いている数 少ない個所であるのだろう。 ここで時枝が話題にしている山内得立の著書、山内得立「現象学敍説」 (昭和4年、岩波書店)を開いてみよう。この著書は、480ページ余の分厚 な本であるが、容易に手に入る本ではないので、時枝が指摘しているページ をここに引用してみよう。引用への導入を容易にするためにちょっとしたコ メントを入れておこう。 321ページでは、はじめに書いてあることをまとめると、こうなる。ノ エマ(志向対象)とノエシス(志向作用)とは相関的であり、二つは常に結 合して一は他を離れて、他は一を無視して考えられない本質関係にあるが、 二者は他方を判然と区別せられ、区別し得らるべきものである。ノエシスに は、「志向的客体」と「捕捉せられたる客体」とがある。この二つの区別を しちめんどうな表現で記述してるが、これは省略する。例を挙げて説明して いる個所があるので、分かり易いので、それを引用すよう。時枝の場面は 「志向的客体」ということになる。 山内得立「現象学敍説」三二一頁から引用 人は志向的客体(intentionale object)と捕捉せられたる客体(erfasst e object)とを区別すべきことの必要に迫られる。捕捉せられたる客体とは 我々がそれについて何かを言ふ表わし、それについて意識する場合の言ひ表 わされ意識せられるところのものを、我々の注意をその上に向けられるとこ ろのもの(bemerkte object)をいふのであるが、志向的客体とはそれにつ いての我々の具体的なる態度又は評価を含んだものである。 例えば同一の花を或る時は赤いといひ次に美しいといってもそこに捕捉さ れた客観は同一であるが、志向された客体は前には赤い花であり次には美し い花であって決して同一であることができない。即ち捕捉された客体とは 種々なる意識作用の変様に無関係に――といふよりこれらの変様の根底にあ って常に同一なるものであり、志向的客体とはノエシス変様に応じてそれぞ れに異なるところの具体的なる客体である。 【荒木のコメント】 これを山内は、「捕捉せられたる客体」とは「我々がそれについて何かを いひ表わし、それについて意識する場合の言ひ表はされ意識せられるところ のものを、我々の注意をその上に向けられるところのものをいふのであるが、 「志向的客体」それについての我々の具体的なる態度又は評価を含んだもの である」と書いている。 次に、時枝が山内から引用している325ページを引用しよう。引用する前に、 それへの導入を容易にするための簡単なコメントを入れておこう。 325ページは前記の321ページから続く4ページ目であるが、突然引用して も理解困難のように思うので、つながりを含めてまとめてみよう。「志向的 客体」と「捕捉せられたる客体」との間には二つの象面がある。前者をノエ マ的意味と呼び、後者をノエマ的核と呼ぶ。この関係を種々なるノエマ的意 味の下に同一のノエマ的核が種々なる意味において自らを表わすということ である。意味とは、対象を意識すべき種々なる志向の仕方を与えるものであ り、対象がそれ自らを表現するためにとるべき種々なる現象の仕方である。 ノエマ的核はそれ故に一にして常に同一であるが、ノエマ的意味は多にして 群属的である。我々が一つの花を赤いと見る、次に美しいと感じる時、同一 なる花は時として一つの意味に、時として他の意味に規定せられる。赤いと いう意味、美しいという意味は、一つの花をそれぞれに規定する規定の仕方 の差別に過ぎない。一つの花は種々なる規定の仕方でそれ自らを表現するの であり、いずれかの規定によることなしには現象することはできない、と書 いている。「差別」という単語は、今の哲学用語では「差異」と書かれるべ きところでしょうが、荒削りなまとめであるが、いずれにしてもこのよう文 脈で325ページに続いていく。 山内得立「現象学敍説」三二五頁から引用 同一のノエマ的核も之を志向する意識作用の明度によって、又は之を意識 する注意作用の強弱によってその与えられ方に於いて種々なる差違が生ずる のである。同じ現象も時には明晰に、時には不明晰に、或る時は判明に、或 る時は朦朧として、時として強烈に、時として微弱に意識せらるるであらう。 此等の差違は明らかにノエシス的変様の影響である。ノエシス的変様がノエ マ的側面にも手を延ばしてそこに種々なる与へられ方を規定するのである。 【荒木のコメント】 これらのことから時枝は、場面は主体の志向のありようによってさまざま に変様する、さまざまな顔を見せる、さまざまに現象する、主体が客体への 働きかけ方・取りこまれ方・意味の見出し方によって、場面の行動は変化す る、つまり志向的客体はノエシス的側面、ノエシス的要素を加えることでノ エシス的変様がおこる、フッサールはこれを注意的変様と名付けている等々、 こう書いているように読んだ。 場面とリズム 私は詩歌のリズムがやはり一の場面と考へられると言ったが、この場合に 於いても、表現の素材は詩歌のリズムそのものでなく、自然或いは人事が素 材であり、リズムは表現以前に厳存する創作者の志向的客体である。作者 「に於いて」表出する処のものである。かくの如く、場面は、同じく主観に 対立する客観であると言っても、それ「に就いて」語られ、描かれ、歌はれ るものではなくして、そこ「に於いて」語られ、描かれ、歌はれるものであ る。表現が究極に於いて自己を拡充して場面に融合するといふことは、素材 化せられた客体が、再び場面となって、そこに志向的客体を形作ることを意 味する。 「言語に於ける場面の制約について」『国語と国文学』昭和13年6月。 【荒木のコメント】 理解しにくい文章になっている。それ「に就いて」そこ「に於いて」、の 指示語「それ」・「そこ」が何を指示しているのかがはっきりしない。場面 か、素材か、主観か、客観か、がはっきりしない。場面と志向的客体とは同 じと読みとれた。 素材が詩歌のリズムになるのではない。素材は、自然そのもの、自然現象、 や社会の出来事や人事であり、表現以前のものである。素材「に就いて」語 るわけだが、客体としての素材が、場面となるには、そこに志向的客体を形 作ることが重要である、と書いている。 詩歌のリズムは、場面から表出されるのだから、場面となるには、素材が 主体(創作者、言表者)によって、、主体(創作者、言表者)「に於いて」 語られるものなのである。主体(創作者、言表者)「に於いて」語られるこ とが、主客が融合し、場面を形作ることになるのだ。要約すればこういうこ とだろうと思う。 「に就いて」とか「に於いて」は、フッサールの現象学では重要なターム になっている。これについてわたしなり理解で、かなり粗雑ではしょった言 い方になるが、以下に具体例で書いてみたい。 日本語訳では、ノエシスは意識作用、ノエマは意識対象と多くがそうなっ ている。人間は客体(客観的実在、周囲の事物)についていつも意識を向け ている。向け方の強弱の差はあるが。つまり人間は客体「に就いて」志向し、 常に意識を働かせている。これをノエシス(意識作用)という。 ここで、分かりやすく、新美南吉「ごんぎつね」の読解学習の例を出そう。 この物語の冒頭文章を読むことで、こんな反応が出てくるだろう。ごんぎつ ねはほら穴の入口で雨がやむことなく降っているのを目にしている。読み手 は、次々と落ちてくる長雨の様子が目に浮かんでくるだろう。長雨でつまら ななそうにしているごんの姿が目に浮かぶ。外へ出たいんだろうな。ほら穴 の中で、体を丸めて、つまらなそうにしているごんの姿が頭にうかんでくる。 ごんのふさがってる気持ちがよく分かるなあ。外へ出たいだろうな。長雨が やっとやんだぞ。ほっとして川べりを足取り軽く歩いていく様子が目に見え てくる。川の中で何かごそごそしてる兵十の発見したようだ。ごんはストー カーみたいにかくれて、そうっとのぞきこんでいるなあ、さぐっているなあ。 ごんがじっとのぞき込んでいる姿が頭に目に浮かんでくる。兵十に気づかれ ないように兵十に近づいていくごんの姿が見えてくる。魚をいたずらしてる ごんの姿が目に浮かぶ。それはいけないことだよ、おい、よせよせ、よせっ たら、という感情反応も出てくる。過去の諸表象をとりこみながら、現在を 読み進めていく。こうして現在の場面の表象像を形成していく。 このように児童たちは、文章を読みつつ、志向的な能動的な反応(志向作 用)をしつつ、児童各自がそれぞれに場面の像を形成していく。こうして場 面が変様しながら、それぞれの場面の像を作りつつ読み進めていく。その都 度その都度の場面でいろいろな表象像を作っていく。こうして志向的総合的 な意味統一の場面の像を作りあげつつ読み進めていく。表象が豊かになれば、 感情反応も増加してくる。こうした読み手主体の能動的な志向作用の読み進 めをノエシスという。 結果としてその都度その都度で一つにまとめあげられ、積み重ねられ、作 り上げられていく像をノエマという。ノエマは、読み進めつつ開示されてく る多層的な意味系列のまとまりである。これらのノエマは、全きノエマでは ない。完全なるノエマではない。客体を意識すればひとりでにぞろぞろと客 体の全体像そのものが一挙に現れ出るというものではない。未だ諸表象とし て上って来てない、隠れているもの、志向の対象となってない、外れている 側面も多くあるはずだ。これをフッサールは「超越」という。つまり場面は、 全き客観的存在自体となって終了することはない。場面は、いつ、いかなる 時間においてもそうであり、いつでもさまざまな意味の変様体の系列として 開示されてくることになる。 一読総合法読解では、「ひとり読み」のあとに「話し合い」という共同討 議の授業形態をとる。場面ごとの「立ち止り」による読み深めの話し合い学 習が行われる。そこでは児童相互の諸表象の意見交換が行われる。児童一人 ひとりの関心(視点)の向け方が違っているわけだから、さまざまな諸表象 の発表が行われ、交換される。こうしてその都度の場面はさまざまな諸表象 によって意味づけられることになる。こうして、その都度(場面)の共通了 解としての一つの像(ノエマ)が形成されていく。ここでも、全きノエマに なることはない。文学作品の解釈はひととおりとは限らない。積み重ねられ たノエシスによって、ノエマもさまざまに変様し、さまざまに更新され、し だいに高次になっていく。 時枝は、この様な意識の向け方のありよう(ノエシス)と、像(ノエマ) の作られ方のことを、「に就いて」ではないよ、「に於いて」だよ、と語っ ているのだと思う。ノエシス「に於いて」ノエマを作る、と語っているのだ と思う。 この「に就いて」が分かりやすいのは、メルロー=ポンティである。メル ロー=ポンティは、人間の意識は身体「に於いて」ノエマ(場面)を作る、 と語っている。人間は世界内存在として、世界に内属し、世界と正対し、世 界と向かい合い、世界と分かちがたく融合して、かつ、図の上の地として、 身体丸ごとで意味世界を知覚し、その都度の像(場面)を形成していく、と 語っている。こちらの方が、ノエシス「に於いて」ノエマを作る、というイ メージがよく分かるかのではないかと思う。 なお、こうした現象学による読解方法の観点だけからみれば、時枝誠記の 「たどり読み」と、児童言語研究会の「一読総合法」とは同類だといえる。 両者の相違点については改めて別稿で書いてみたい。 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/idou1.html へのリンクl かくの如き言語の源本的場面であるリズムは、言語の音声的表出によって 始めて実現され、我々の知覚の対象となる。宛も鋳型に溶鉄を流し込むよう に、リズムの中に音声を表出して行くのであるが、リズムは、鋳型の様に具 象的な存在ではない。かくして、リズム形式に相応した音声的表出が実現す ると同時に、我々は表出された音声の連鎖から、場面としての国語のリズム 形式を考えることが出来るのである。さてそれならば国語のリズム形式とは 如何なるものであるか。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)160ぺ 【荒木のコメント】 時枝は、「音声の表出があって、そこにリズムが成立するのでなく、リズ ム的場面があって、音声が表出される。音声の連鎖は、必然的にリズムによ って制約されて成立する」と語っていることは、既に本稿の冒頭で書いた。 リズムは場面から生まれ出て、音声的表出によってはじめて実現される、と 時枝は語っている。 リズムの実現は「宛も鋳型に溶鉄を流し込むように、リズムの中に音声が 表出していく」と書いている。この比喩表現を分析すると、「鋳型」が「リ ズム」に相当し、「溶鉄」が「音声の連鎖」に相当すると考えてよい。では あるが、「リズムは、鋳型の様に具象的な存在ではない」と書く。つまり、 時枝のいうリズムは、575(俳句)とか、57577(短歌)とかの鋳型 の音数律形式ではなく、場面から表出されてくる(制約・規制されて流れ出 てくる)音声の継時的な表出の実現である、ということになる。この比喩表 現は、言葉足らずで、分かったような分からないような、不確かな理解しか できないのだが、要するに、端的にいえば、時枝は、日本語のリズムは「等 時的拍音形式のリズム」に特徴がある、ということを言っていのだと思う。 次に「等時的拍音形式のリズム」について調べてみよう。 等時的拍音形式のリズム リズム体験は、刺戟の周期的回帰の知覚によって生ずることは、一般に認 められる処であるが、かかる知覚の因となる刺戟の種類については、種々な るものが考へられよう。普通に振子時計の音の布置の如きを、リズム形式の 代表的なものと考へられるが、猶その外に、光、或いは筋肉運動によってリ ズム的知覚が生ずると言われている。リズムは通常、上に述べた様に、刺戟 によって周期的知覚が成立するのであるが、又一方刺戟の休止が却ってリズ ム的知覚の成因となることがあるといふことにも注意すべきことである。こ れは国語のリズムを考へる上に重要なこととなる。(中略) 音のリズム的体験について注意すべきことは、リズムが単に音の強弱、高 低、長短によって成立するばかりでなく、音の三大要素である音色によって も成立するといふことである。 ガラガラ オドロキモモノキサンショノキ 上の例は、音の同質なるもの即ち「ガ」「キ」等の回帰によって、リズム 体験の成立する例であるが、更に根本的には、 アーイーウーエーオー の如き音の連呼によって回帰が知覚される。この場合には、音の刺激から質 的内容を捨象した純粋の運動的知覚が、等時的に繰り返されることによって、 リズム体験が成立すると見るべきである。かかるリズム体験は、宛も単振子 運動をなすブランコに乗る時に感じる抵抗感によってリズム体験が成立する 場合に等しい。かかるリズム体験は、上に述べた音の高低、強弱の回帰或い は質的内容の回帰によって生ずるリズム体験よりも、更に基本的なリズム形 式といひ得るであらう。若しこのリズム形式を、等時的拍音形式と称するな らば、国語に於いて看取されるもの、そして国語の音声的表現の源本的場面 となるものは、正しくこの等時的拍音形式のリズムである。それは強弱型、 高低型リズム形式に対立するものであって、聴覚的には音色の変化に伴う知 覚の更新感により、生理的には調音の変化による運動感覚によって、回帰が 知覚される処のリズム形式である。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)162ぺ 【荒木のコメント】 「一般に、リズムは刺戟の周期的回帰の知覚によって生ずる」と書いてる。 「周期的」とは「時間過程における規則的回帰であり、」とあり、「回帰」 とは「反復、繰り返し」と読み取ってよいだろう。刺戟にはいろいろあり、 音(振子時計の音など)、光(灯台の光など)、筋肉運動(タンバリン、太 鼓を打つ、など)の例を挙げている。 「リズム体験は、刺戟による周期的知覚の成立だ」と書いてあり、また一 方、「国語・日本語のリズムでは、刺戟の休止がリズム知覚の成因となる」 と書いている。音読・朗読・表現よみから言えば、「休止がリズム知覚の成 因」とは「間」のことである。音声表現の間には「区切りの間」「論理の間」 「情感出しの間」「強調の間」「期待持たせの間」など、いろいろある。通 常、「リズムと間」について語ったり、論じたりする論者はいない。ここが 時枝のすぐれた主張点である。 「等時的拍音形式のリズム」も、時枝のすぐれた主張点である。日本語で は、拍(モーラ)がほぼ等間隔でならび、リズムを形成するということであ る。「拍」とは、拍手の「拍」であり、手をたたくその数である。日本語で は、直音(かな一文字)で手を一つたたく。拗音(きゃ、きゅ、きょ)でも 手を一つたたく。撥音(ん)でも手を一つたたく。促音(っ)でも手を一つ たたく。長音(−)でも手を一つたたく。ひとつたたく、とは、一拍、とい うことである。俳句は、5拍、7拍、5拍である。これを575の音数律と いう。 「と・う・じ・て・き・は・く・お・ん・け・い・し・き」と、一音ずつの 時間の間隔がみな同じということで、この場合は、計13拍である。 ガラガラ オドロキモモノキサンショノキ 上の例では、「ガ」の頭韻の回帰、「ラ」の脚韻の回帰がリズムを作って いる。「キ」が脚韻の回帰がリズムを作っている、ということである。 アーイーウーエーオー 上は、時枝が「等時的拍音形式のリズム」を説明している例文である。こ れは「音の刺激から質的内容を捨象した純粋の運動的知覚が、等時的に繰り 返されることによって、リズム体験」であり、「音の高低、強弱の回帰或い は質的内容の回帰によって生ずるリズム体験よりも、更に基本的なリズム形 式」である、とある。これのリズム形式を、「等時的拍音形式」という、と 書いている。 リズムの等時性とは、何音節何秒と客観的に規定せられるものでなくして、 もっと主観的にして且つ相対的な等時性である。 「国語学原論」(岩波書店、昭和16)513ぺ 【荒木のコメント】 わたしが子どものころに耳になじんだ演歌の歌い方は、現在と比べるとず っとずっとゆっくりしたものであった。石原裕次郎も、美空ひばりも、近江 俊郎も、高峰三枝子も、鶴田浩二も、田端義夫も、フランク永井も、東海林 太郎も、淡谷のり子も、江利チエミも、みんなもっとゆっくりした歌い方だ った。子どもの頃の演歌歌手の名前はとめどなく浮かんでくる。現在の若者 たちの歌うポップスなどの歌い方は、スピードがあって、わたしはついてい けない、歌詞内容もぴんとこない。歌い方が速すぎて理解できないし、わた しの心情にもフイットしない。途中でチャンネルを切り替えるか、停止して しまう。だから歌手の名前も知らないが、AKB45という女子グループぐ らいは知っている。テレビから流れてくる若者たちの話し方も、スピードが 速くなっている。若い女子アナの話し方も、早口な話し方が多くなった。近 年のテレビの歌番組は、唄をじっくりと「聴かせる」というよりも、ショウ としてのスぺクタクルを「見せる」に変わりつつある。NHKの紅白歌合戦も そうなってきた。歌番組の司会者たちの話し方もショウ化、スペクタクル化 して、盛り上げのための大げさで早口な「見せる」話し方に変化してきてい る。 だから、時枝の「等時的拍音形式」という概念は時代と合わなくなってい る、「等時的拍」でない、という意見を語る人がいる。この意見には、賛成 できない。そう単純なものではない。上記引用したように、時枝は「等時的 拍音形式」とはストップウオッチできちんと計測できるものではない、「主 観的にして且つ相対的な等時性である」と書いている。この文章を読み落と してはいけない。話し手の表現意図(感情表現)による抑揚(めりはり)づ けによって拍と拍との間隔は広くなったり狭くなったりする。こういう融通 性は日本語表現では普通にみられる現象である。また、話し手一人ひとりの 話し振り(音声表情)はみな違っており、拍と拍との間隔はそれぞれに違っ てきている。 このページのトップへ戻る |
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