音読授業を創る そのA面とB面と       11・6・23記




 
明治以降の素読・朗読の変遷史(大正期前編)




 
 大正期を、二つに区分して掲載している。大正期前編と大正期後編とで
ある。大正期全体を総て一枚にして記載するとダラリと下方へナガークぶら
下がってしまう。文章が読みにくくなってしまうので、大正期全体を切れの
よい個所で折半している。全くの機械的な区分けにしか過ぎなく、何ら根拠
のない機械的区分けであることをお断りしておく。



大正2年刊・日下部重太郎『国文朗読法』より

 日下部重太郎『国文朗読法』(丁未出版社、大正2)は、日本で初めて
の朗読に関する著作物であろうと思われる。先駆的な書物としてめずらしく
もあり、冒頭部分をやや長く紹介することにする。

目次
第一章 朗読法とは何ぞ
第二章 朗読の秘訣
第三章 朗読練習の方法
第四章 発音法
第五章 表出法
第六章 朗読雑話
付録  国文抄
付録  国文朗読法参考

第一章 朗読法とは何ぞ
  そもそも「朗読」といふ語は、既に唐の詩人も之を用いて有って、古く
から出来て居る漢語である。支那の古い字書である爾雅や説文に「朗」と
「明」とを互いに同じ意義に解してある。「朗」の字を和調では「あきら
か」とも「ほがらか」とも云ふ。即ち朗読とは「あきらかによむ」と云ふ字
義で、言海には之を「よみあぐる」と解してある。

  さて西洋では、英語に所謂リーヂング即ち朗読は、エロキューションの
一種としてある。エロキューションは「能弁術」または「雄弁術」または
「表情読法」などと訳してあるが、何れも都合のよい訳語ではない。そこで、
エロキューションとは如何なる事かと尋ねるに、グラハム氏は、
  一定の標準によって微妙に話し又は読む術である。
と云ひ、フォルシス氏は、
  発音を正しくし、曲節を明らかにし、言語を自在に変化し、雅美で巧み
  なる方法を以て、充分に言語の意味を聴者に伝えるやうに言い出す術で
  ある。
と云ひ、ブラムブトル氏は、
  言語の意味を聴者が十分に理解するやうに発表するばかりでなく、なほ
  言語の努力と美と諧調をも感ずるやうに発表する術である。
と云っている。つまり、エロキューションは、言語文章を正しく趣味ある様
に言い表し又は読み上げる術であるといふことになる。さうしてエロキュー
ションは、ただ音声だけで思想感情を発表する場合ばなりで無く、之を発表
するのに身振りや手真似をも伴わせる場合もある。それゆえ、演説も講談も
談論も演劇の台詞などもすべてエロキューションの領分に這入る。その中で
朗読法は既成の文章を見て、正しく且趣味ある様に之を読み上げる方法を云
うのである。

  我が国では、上古に語部といふ者があって、神代このかたの事を語り伝
えた。また祝詞は神前で読み上げられ、宣命は皇族や群臣らの前で読み聴か
せられた。本居宣長に
  ふるき書籍目録に宣命譜といふもの出でたり。今は伝はらぬ書なれば、
  いかさまなるものにか知なねど、譜と名づけたるをもて思ふに、その読
  揚ざま、音声の巨細・長短・昂低・曲節などをしるべしたる物にこそあ
  りけめ。
と云ってある。平安朝の数多の物語も、和漢朗詠集も、名からして物語と云
ひ、朗詠と云ふ。鎌倉時代に現れた平家物語の如きは、徒然草に、
  行長入道、平家物語を作りて、生佛といふ盲人に語らせけり(中略)か
  の生佛が生まれつきの声を今の琵琶法師は学びたるなり
と記してある。室町時代から現はれた謡曲や狂言や浄瑠璃など、何れも能弁
の術に依らぬものはない。それらの発達には佛家の宣命声明の恩恵がある。
声明はその昔弘法大師や慈覚大師に伝えられ、音声研究の学問としてひろく
宗教及び芸術の上に応用された。
  西洋では、ギリシャやローマの昔から現今に至るまでエロキューション
がよく研究されて来て、その方法を講じた書物が数多ある。
1−5ぺ

朗読の秘訣
  朗読の秘訣と云っても、瓢箪から駒を出す類では無い。朗読に大切な事
は、先ず文章の思想感情をよく会得し、之を我がものとする事である。さも
なければ、その朗読は精神が這入って居ないで不自然なものとなる。「巧み
な朗読とは、人工的に語るのである」と云った人もあるが、フレミング氏は
「巧みな朗読とは、むしろ自然的に語るのである」と説いた。かの団十郎が
「遠藤武者」を演じた時の袈裟遺書の朗読や摂津大掾が「酒屋の段」を語る
時の半七書置の朗読など、げに真に迫るの妙境に達したものである。「由良
之助をやれば、先ず由良之助の心となれ」とは団十郎の教えであると、その
高弟から聞いた。
 それで、その思想感情を会得しかねる程度の文章を無理に朗読し又はさせ
ようとの非望は全く禁物である。幼い児童に文章軌範や八家文、さては馬琴
や近松の朗読をさせようとは、誠に無理な事。幼い児童にはお伽噺や小学読
本の朗読が好い加減で、それとてもよく児童の会得した文章に限る。それで
無ければ、読み上げても気乗りがしない。完美な朗読をするには、必ず文章
の思想感情を我がものとした上で、適切に朗読法を運用せねばならぬ。
9ぺ

朗読の練習方法
  一音一言の発音が正しく出来ないのに、一句一節がよく読み上げられる
筈がなく、一段一章においておやである。各個の発音練習が総ての朗読練習
の基本として甚だ大切である。先ず発音を正して後に文章の朗読練習をする
のが、却って彼岸に到達する近道となる。それで以下に朗読に関する理法を、
○発音法……言語における音声を明確に発する事
○表出法……文章における思想又は感情を適切に表出する事
の二大綱にわけ、更に細かく分けて説く。
  練習は、便宜のため凡そ次の三類に大別される。
  第一は、言語の音声を明確に発するための練習である。
  之を発音練習又は機械的練習といふ。
  第二は、文章の思想を正しく読み表わすための練習である。之を正読練
  習又は論理的朗読練習と云ふ。正読には明確な発音と、句読並びに重念
  の正しい表出とが必要である。
  第三は、文章の思想を正しく且趣味ある様に読み表わすために練習であ
  る。之を表情練習又は審美的朗読練習といふ。表情朗読には明確なる発
  音と種々の表出とが必要である。
  第一の例は、五十音図や呂律廻の練習の如きである。第二の例は「地球
の形体」とか「地方自治制」などといふ非感情的文章の朗読練習である。第
三の例は「扇の的」とか「最期の参内」などといふ感情的文章の朗読練習で
ある。
13ぺ
【荒木のコメント】
  日本で初めての朗読に関する書物である。明治が終了したばかりの年代、
どんな朗読観であったかに興味がそそられる。「朗読」の単語は唐代(60
0年代)にあったという。随分古くからあった言葉だ。「朗読」には「朗ら
か」とか「読みあぐる」とかがどうしてもつきまとってる根拠がここにあり
そうだ。朗読はエロキューションの一種という考え方があったことが分かる。
日下部氏は都合のよい訳語ではないといっているが、「朗読」は「能弁術」
「雄弁術」「表情読法」の一種ということから始まったことが分かる。だか
ら、朗読は祝詞、朗詠、謡曲、狂言、浄瑠璃、宣命、声明などと同類なエロ
キューションを伴う語りであるとなる。つまり、「朗読」は、「音声の巨
細・長短・昂低・曲節」などのメリハリをつけて、「言語を自在に変化し、
雅美で巧みなる方法を以て、充分に言語の意味を聴者に伝えるやうに言い出
す術」となる。「朗読」はエロキューションの一種であるから、曲節をつけ
た語り方に近づいても変でなくなる。ここから学校教育では「朗読」を、
「談話風に読め」「自然な話し方で読め」「日常話をするように読め」とい
うことが大正期から現場教師たちから主張されだしてくる。
  こうした日下部氏の著書からの引用は、大正から昭和の敗戦時まで学校
教師たちの朗読指導を語った書物や論文に多く引かれるようになり、NHK
ラジオから流れてくる俳優やアナウンサーの朗読にも、うなるような、わざ
とこしらえたような、自然でない、作り音調、いわゆる一種独特な節がある
朗読の語り方が当たり前のように流され、放送された。エロキューションの
一種としての語り方が当たり前であった。この考え方が敗戦時までずっと底
流に根強く生きて受容されていた。
  これではいけないということから昭和30年ごろから日本コトバの会や、
NHKアナウンサーたちから新しい語り方が模索され、提唱された。この提
唱や新しい流れについては、本HPの「表現よみ教育の歴史・第一部」に詳
述している。



大正3年刊・山口徳三郎・秋田喜三郎
       共著『読方教授の新研究』より

 下記は、山口徳三郎・秋田喜三郎『読方教授の新研究』(東京以文館、
大正3)
からの引用である。( )の見出しは荒木がつけている。

(範読の価値について)
1、発音を正確明瞭にす
 範読第一の目的は発音を正確明瞭にすることである。児童の発音は多く不
正確不明瞭なものである。況して地方地方により訛言方言のため、一層その
混雑を来たし、少しく遠隔の地へ行けば、恰も身異域にある如く言語全く相
通ぜざるに至る。
2、文章の朗読を容易にし従ってその理解を助く
 発音練習に次ぐに語の読み方、文の読み方を以てすると雖も、猶一文段一
遍の文章を朗読するには、読み口調、読み振りを要する。児童の朗読のゴツ
ゴツとして非常に聞き苦しいのは、多く読み口調、読み振りの拙いためであ
る。而してこの口調の模範を授け、ゴツゴツとして不調和な読み振りを緩和
し、調和しゆくものは実に範読である。
3、文学趣味を喚起す
 範読が文学の朗読を容易ならしめ、理解を助けることは前に述べた。吾人
は更に進んで範読が文学趣味を喚起する有効な方法であることを述べなけれ
ばならぬ。小学校に於いて国民文学を対する趣味を養う主要教科は読方であ
る。この読方に於いて国民文学に対する趣味を養う主要な教科は読方である。
この読方に於いて如何にして文学趣味を養うか、その方法はいろいろあらう
けれども、範読はその有効な一方法である。
 余が師範在学中朗読の非常に巧妙な国漢の教師があった。生徒は皆その巧
妙な朗読にチャームせられて、国漢の時間を待ち焦がれた。ある生徒は○○
先生のやうに朗読がうまいと、思わず文学が研究したくなると言い放った。
かくて生徒の趣味は翕然として国漢に注がれた。
 吾等は読書の際佳句妙文に際会すると黙読のまま読み去るに忍びない。思
わず音読してみるこの音読だけでも非常に快感を感ずる。流麗にして瑠璃盤
上玉を転がすが如き範読に至っては、児童の文学趣味を喚起することの夥し
いのは明らかであらう。
 婉麗玉の如き文章でも朗読拙劣な時は更に観興起こらず、少々拙い文章で
も朗読巧妙なれば恰も妙文の様に聴きとられ、その瑕疵を補うて余りあるで
はないか。  
73〜79ぺ
【荒木のコメント】
  この書物では教師の範読を重要視している。範読には発音明瞭、巧妙な
読み振りを求めている。なぜ範読が大事か、それは児童の文学趣味を養うか
らだと言う。文学趣味とは、文学の高い鑑賞能力ということなのでしょう。
  「流麗にして瑠璃盤上玉を転がすが如き範読」とは、これを教師に求め
るのは要求が高すぎるのではないでしょうか。荒木は、教師は音読下手でよ
い、と主張している。それなりの理由があってのことだ。詳細は、拙著『表
現よみ指導のアイデア集』(民衆社)の172ぺを参照のこと。

(範読の種類について)
  先ず、読み口調、読み振りを授けて、一文の読み方に慣れしめるために
機械的範読を可とする。次にはその内容形式を理解せしめる程度に於いて即
ち理解的範読を示す。内容形式を理解したる以上は、発想的に審美的範読を
示すべきである。現今欠けているのはこの審美的範読である。高学年になる
程、審美的範読の必要性があると思う。何となれば審美的範読の目的は多く
文学趣味を養うからである。
  審美的範読に至っては最早一種の技術である。技術には模範朗読が必要
である。模範がなければ技術の進歩は遅々たるものである。書方図画に手本
示範がある如く、朗読にも模範を要する。その模範は範より外にない。児童
が読方に於いて真に趣味を感ずるのはこの範読の時である。
  かかる時流暢な範読を示されたら、児童の感情はどんなに興奮するだら
う。文学趣味の発作は実にこの感情に萌芽するのである。
イ、機械的範読
 発音、語、句の読み方を正確明瞭に授け、訛音方言を矯正し、主として児
童の読み口調、読み振りを整へる目的で範読を示すべきである。要は誤謬な
く、渋滞することなく読み得る様に授くべきである。
ロ、理解的範読
 句読点及び段落の続き具合、即ち起首と結尾とに於ける音の強弱高低等を
授ける範読である。テン、マルによって息を休止する時間を一定にしおくこ
とは極めて大切なことである。
ハ、、審美的範読
 韻文、美文等の文学的教材に於いて最もこの範読の必要を見る。一言して
いへば美的朗読法である。 
  審美的範読に至っては最早一種の技術である。技術には模範朗読が必要
である。模範がなければ技術の進歩は遅々たるものである。書き方図画に手
本示範がいる如く朗読にも模範が要する。その模範は即ち範読より外にない。
然るに現今の教師にはこの範読の技能を有する者が少ない。否却って児童の
方が遥かに巧妙であることもある。これにては教師たる資格も危ぶまれる次
第ではないか。故に吾人は範読の方法を考究練習して十分範読否読方科の目
的を達したい。児童が読み方の時間に於いて真に趣味を感ずるのは範読の時
である。 
80〜81ぺ
【荒木のコメント】
  範読には三種類があると書いてる。機械的範読・理解的範読・審美的範
読との三つである。こうした三種類は明治期にもあった。小山忠雄『理論実
験読書作文教授法』に書いてあった機械的読方・解剖的読方・音調的読方、
また、佐々木吉三郎『国語教授撮要』に書いてあった機械的読み方・論理的
読み方・審美的読み方などだ。各段階のレベル内容はどれも似たようなもの
だ。この書物では、これを教師の模範的読み、つまり「範読」に当てはめて
書いている。
  ここでは範読の重要性を主張している。その理由は「児童が読み方の時
間に於いて真に趣味を感ずるのは範読の時だ」からと言う。それに見合う教
師の範読能力の低さを嘆いている。現在では、教科書会社発行で朗読家や俳
優たちが読んでいるCDが発売されている。その嘆きは解消されている状況
にある。



大正5年刊・保科孝一『国語教授法精義』より
 下記は、保科孝一『国語教授法精義』(大正5、育英書院)からの引用
である。保科氏は、ドイツの小学校の実情を説明しつつ日本の国語教育にお
いてもその範を摸するべきものが多いと述べ、下記のように書いている。

  読み方教授において生徒の姿勢を正す必要は言うまでもないが、さらに
読み方の調子や表情を整頓することは一層大切なることである。教材の内容
に応じて抑揚頓挫の調節を計ることは、我国においては一般に閑却されてい
るが、しかしすべての教材を一本調子で朗読しては興味索然たるものである
から、将来審美的朗読の方法についてはふかく考究を要す。
  ドイツでは、入門時代は発音の練習がもっとも重要な仕事であるから、
単語を一つ一つ拾い読みして行く間も、その発音とアクセントに深く注意さ
せる。修学当時の小学児童は随分方言に富んでいるので、これを矯正するの
が大きな仕事である。
  教師が範読し、児童が復読し斉読する方法は、中学年まででほぼ同様で
ある。韻文教材は教師が範読するのが慣例である。児童が復読する場合に
「高声に」「明瞭に」「ゆっくり」「しっかり」といふ語を以て、教師がた
えず児童の注意を促している。指名された児童は机の右側に立って読むので
あるが、もしその際児童の姿勢がわるければこれを矯正する。読み方につい
て注意を促すに拘わらずなほ不十分なところがあれば、教師自身が範読して
その呼吸を児童に会得させる。教材の内容に応じて抑揚頓挫よろしきを得せ
しめるやうに練習する。教材における種々の感情が音声にあらはれるやうに
読ませるので、たとへば憤激した場合は憤激した調子、失望した場合は失望
した調子のあらはれることを必要な条件としている。しかしこの読み方を一
人一人に課していると、全級の児童が退屈するから、それを引き締めるため
にも斉読を命ずる。語学上の見地から見ると、すべての生徒をなるべく多く
練習させることが必要であるから、その関係から斉読を巧みに利用すること
もある。アクセントや読み方の緩急・表情を整理するため、方言的特色を矯
正するために、斉読を行ふこともある。   437ぺ
【荒木のコメント】
  審美的朗読の方法について注目すべき提案をしている。小山忠雄氏は審
美的読方とは「音調的読方ニシテ、著者ノ精神ニ深入シ、抑揚頓挫、軽重、
緩急、各其ノ法ニ合しシ、聴者ヲシテ感動セシムル様朗読スルナリ」と書き、
佐々木吉三郎は「従来達読などと言はれたものであります。つまり、音吐
朗々たるべきは勿論、情の文は情的に、意の文は意的に、抑揚、頓挫、緩急、
強弱其宜しきを得て、読む本人も、聞く人々も、それによって愉快を感ずる
様によむのであります。」と書いている。これは明治期においても同じよう
なことを引用した覚えがある。
  ここで保科孝一は「教材の内容に応じて抑揚頓挫の調節を計る」、「教
師自身が範読してその呼吸を児童に会得させる」、上手な音声表現の条件を
「高声に」「明瞭に」「ゆっくり」「しっかり」と書いていることに注目し
たい。文章内容によって音声表現の抑揚頓挫が調節される、文章内容の解釈
のありようが音声表現を調節すると書いてある。教師の範読の呼吸・息づか
いを会得させる、自分が音声表現する時も呼吸・息づかいが源泉であり、こ
れはリズム形成と共に音声表現にとっては最も大切なものだ。「ゆっくり」
と読めば自然と意味内容が音声にのってきざるを得なくなるし、「しっかり、
きっちり」と読めば無駄のない抑揚頓挫になり名人芸に近づく読み声になる。
保科孝一の指摘は従来の審美的朗読になかった重要な指摘であり注目したい。



大正5年刊・芦田恵之助『読み方教授』より
 下記は、芦田恵之助『読み方教授』(育英書院、大正5)からの引用で
ある。『読み方教授』の中にある「冬景色」授業は、垣内松三の著書『国語
の力』によって絶賛を受け、形象理論の実践書として当時の国語教育界に大
きな影響を与えた。
  以下、芦田恵之助『読み方教授』からの引用である。ここでは、音読・
朗読個所についてのみ引用し、コメントを添えることにする。

(諳誦について)
 
 文章の諳誦もまた読み方教授上の問題である。近頃読本の文章中より、
児童の趣味に合するものを選択して、諳誦すべきことを命じている。余も亦
之を企てて、失敗の辛い経験をなめた。さて諳誦の必要を唱ふる理由をきく
に、「古来文章に趣味をもった人は、必ず数編或いは数十編の文を諳誦して
いる。諳誦は文を味はへさせるに有力な方法である」といふ。余は之に対し
て根本的に疑問を持ってをる。疑問とは諳誦は他人に命ぜられて後になすも
のか、或いは自ら名文の妙味に堪えられなくて、知らず知らずここに到達す
るものかといふ事である。内的要求より諳誦し得るまでに反復読誦した文章
に対し、その趣味を味はふ事の甚深なのは当然であるが、他人の要求に応ぜ
んがために、努力によって購ひ得た諳誦は、余はその効果の有無を疑ふ。或
いはかかる課の増加していくにつれて、之を記憶する責任愈々重きを加え、
諳誦は却って文に対する嫌忌の情を誘致する事情はあるまいかと思ふ。古人
は内よりして偉大の効果を収めた。今人は外よりして古人と同様の効果を収
めようとしている。これ今日の教育全部を通じて細心の研究を要する個所で
ある。  
80ぺ
【荒木のコメント】
  芦田恵之助は、ここで江戸時代の漢籍の素読指導の「諳誦」をも含めて、
「暗誦」そのものを批判している。批判と受け取ってよいでしょう。諳誦は、
他人から命ぜられて行うものでなく、自ら進んで、内的要求によって行うも
のであるべきだと主張している。「自ら名文の妙味に堪えられなくて、知ら
ず知らず諳誦に到達するもの」だと書いている。こう言うと必ず「年端もい
かない子どもに名文の何たるかは分からない。初めは教師から与えるもので
しょう」と言う返答が返ってくる。与え方が強制でなく、諳誦したくなるよ
うな文章を与えること、そうした動機づけ(内的欲求)を与えてから諳誦さ
せるべきということになる。

(朗読法について)
  朗読法もまた重要問題である。読み振りに機械的・理解的・審美的の三
様あることは、我が教育界に夙に唱へられている。しかし余は不幸にしてこ
の種の読み振りを画然と区別して聴いたことがない。外国にあるのかもしれ
ないが、我が国には未だ定まれるものが無いのではありまいか。読み方教授
が他人の文章をたどって、自己を読むものとしたら、機械的・理解的・審美
的の区別は無意味なことになってしまふ。世に文字をたどって、機械的に発
音する読み方に満足する者があらうか。文を読むに理解的ならざる読み方が
あらふか。文中に含まれる感情を音声にあらはすのが審美的読み方ならば、
自己を読むといふよりも、他人に聞かせるのが目的らしい。されば世人の読
み振りを分類すると、機械的・理解的・審美的の三様あるといふ意ならば聞
こえる。又発達的に見ると、機械的より・理解的・審美的に進むとの意なら
ば聞こえるが、朗読法としてこの三様ありとの意は甚だ領解に苦しむ。自己
を忠実に読む者は、知的の材に対しても亦その読み振りをなすのである。故
に朗読法に於いてただ音声の長短・緩急・抑揚等に三様の差異を工夫するよ
り、自己の所感を基礎として、読み方を工夫し、自己の満足を標準となすべ
きである。 
80ぺ
  余の朗読法は唯一つである。日常話をする様な調子で、対話の文も地の
文も、、之を読むのである。余は夕食後に新聞の講談物を家内の者に読んで
聞かせるが、常に談話と同調にと工夫して読む。聴く者もこれが最も耳に親
しいやうに感じ、読む我は変化自在にしていかなる感情も之を写することが
容易である。吾人が吾人の談話調を離れて、朗読法のあることを思ふのがそ
もそもあやまりである。浪花節のやうに、謡曲のやうに、浄瑠璃のやうに、
或いは詩吟琵琶歌のやうに、朗読に曲節あらうと考へては、それは最早歌謡
曲の部である。朗読は決して日常談話と離れてはならぬ。日常の談話は歌謡
のやうに極端ではないが、一切の感情が自然にあらはれている。この鍛錬せ
られたる談話の調べを利用し、自己の満足を標準として、朗読を練習したら、
ここに個性を明らかにあらはれた読み振りが出来る。之を内にしては自己を
読む義にも叶う。余は散文と韻文とに論なく、総て日常の談話のやうに読む
ことを児童に奨励し、自分もまた之をつとめている。  
82ぺ
【荒木のコメント】
  「機械的・理解的・審美的の三様あり」とは、読み振りの上手下手にレ
ベルがある、ということだと荒木は主張したい。機械的朗読とは文字を目で
拾って一字一字を一本調子に平板に音読することだと解してよいだろう。理
解的朗読とは、文章内容を理解しながら、意味内容を探りながら音読するこ
とだと解してよいだろう。軽いメリハリづけの音声表現もあるでしょう。審
美的朗読とは、たっぷりしたメリハリづけする音声表現、と解してよいだろ
う。いちおう、おおざっぱに機械的→理解的→審美的という段階で進むとい
うことと解してよい。
  三様の読み方があることが重要ではなく、芦田恵之助氏が書いているよ
うに「自己の所感を基礎として、読み方を工夫し、自己の満足を標準となす
べきである」という心構えで常に音声表現することが重要である。文章内容
にふさわしい音声の表現を求めて、自分が満足し納得できる音声表現にする
ことが重要である。これが芦田恵之助氏が主張する「読みとは自己を読むこ
とである」に通じる朗読法となるはずだ。
  「総て日常の談話のやうに読む」については、既に明治17年刊の若林
虎三郎・白井毅編『改正教授術』にも「平生人ト談話スル如クナサレムルヲ
要ス」と書いてあり、これについての荒木のコメントは、前述してる日下部
重太郎のコメント個所や若林虎三郎・白井毅のコメント個所を参照してほし
い。荒木は「日常の談話のやうに読む」とは、「素直に読む」ということで
あり、「ギンギラギンでなく、さりげなく読む」、そのように表現すること
だと考えたいる。

(斉読について)
 
 若し少時間に多数の者に通読を練習せしめようとすれば、勢、斉読によ
る外はない。即ち斉読はこの点に於いて生命を有してる。故に此の意味に使
用すれば、その弊害はない。然し、よく揃えて読ませようとすると、ここに
待ち合わせる必要を生じ、文義を離れて、発声・句読にのみ苦心するやうに
なる。即ち各自の堅実なる通読が相合して、全級一声となるやうな理想的の
斉読が望まれなくなる。ここに於いて斉読は読み癖を生じ、読み方の真意義
と甚だしき県離を生ずるやうになる。 79ぺ
  小学校に於いては音読と黙読といずれを重んずべきか。吾人の幼時にか
んがみても、最初は音読のみであったが、読書力が進み、寄宿舎生活を始め
ると共に、黙読にかはってしまった。音読は注意を緊張せしむる効があるば
かりでなく、文字と発音、音声と意義の連合を強めて、読み方教授の効果を
大ならしむるものである。故に音読と黙読は児童自然の要求によってそのい
ずれにも従ふべきもので、他より之を強ふべきものではない。要するに自己
を読むといふ見地からは、双方同一と見るべきものである。  
79ぺ
【荒木のコメント】
  斉読すると、変な読み癖・音調が生ずると書いてある。「待ち合わせる
必要を生じ、文義を離れて、発声・句読にのみ苦心するやうになる」とある。
荒木はこうした主張に賛成はできない。時間の待ち合わせなどかまわずに、
自分がこう音声表現したい思いをどんどん読んでいくようにすればよいのだ。
初めはバラバラになるが、何度か斉読しているとおさまるところにおさまる
ものだ。おさまる音調・メリハリづけに統合されていくものだ。
  「群読」についても、群読とは声を一に揃えて読むことだという誤った
考え方が普及している。荒木の斉読推奨論や群読論の詳細については拙著
『群読指導入門』(民衆社)を参照のこと。そこで斉読の利点を詳しく書い
ている。この本の付録CDには斉読や群読の荒木学級の児童たちの読み声も
聞くことができる。

(模唱について)
 
 模唱が今も我が教授界に多少生命を有してるかと思う。かの方法は日本
人が漢文を学んだ時に用ひたのである。否現に英文の教授にも襲用されてい
る。しかし我が国民に我が国語を教授するには、決して採るべき方法ではな
い。教師の音読に摸して之に和するなどは、発動的学習を害することがきわ
めて大なるものである。ことに模唱を数回反復するなどは、その何の意たる
かを解するに苦しむ。  
78ぺ
【荒木のコメント】
  模唱とは、江戸時代の素読教授で教師が児童に一句を音読して聞かせ、
児童が同じ読み方・読み口調で模倣して音読することである。芦田氏は模唱
を否定しているが、荒木はこれにも反対である。詳細は、拙著『表現よみ指
導のアイデア集』(民衆社)のアイデア41を、また本HPの「表現よみ授
業入門」の「表現よみ指導のコツ(続)」などをお読みいただきたい。

(通読について)
 
 読むといふことは読み方教授の第一義である。余は予習に於いて「読め
るやうになって来い」と要求し、教授に於いて「通読不可能ならば、それ以
上のことは考える必要がない」と戒めている。読書の教授を、如何なる至人
が読み方教授とは命名しただらうか。真に読むということが出来れば、教授
はに七分まで成功である。吾人の日常を顧みるも、読みが事なく通ずる場合
には、意義は既に六七分解することが出来る。よし通じない所があっても、
読書百遍意自ら通ずとの古人の言は、実に動かぬ所である。然るに当今の読
み方教授は、不十分なる通読の上に、意義・文法・修辞等の取り扱いを試み
ている。もし砂上の楼閣が危険であるといふならば、かかる教授も亦危険で
あるといはねばならぬ。徹底した通読は、今日の読み方教授に特に声を大に
して要求すべきである。
  心なき教師は、読み方に熟達せんがために、読書百遍を原則として、反
復練習の方法を講ずるであらう。かの旧家塾の輪読・輪講から系統を引いた
学級中の一生に朗読させて、他をして之を聴かせ、或いは批評させる類の方
法が流行するであらう。しかしかかる方法によって堅実なる読み方の発達を
望むは、頗る拙策である。74ぺ
  読むといふことに重きを置くと、往々意外の弊を生ずることがある。意
外の弊とは口拍子で反射的に読むことである。まだ入学しない児童が、兄姉
の机辺に侍して、読本の文章をききおぼえたのがこの適例である。入学後の
児童にもこの種の弊が甚だ多い。その因って来る所を察するに、内容を思い
浮かべずして通読することが最大の原因である。然らばいかにして内容を思
い浮かべながら読ませるかといふに、読む速度をゆるめることが唯一の矯正
法である。速度はなるべく緩なるがよい。文章の意義をさとり、情趣を味わ
えることが確実で、何となく読みがひがあったやうな感がする。まして読書
力の薄弱な児童は、なほさら緩読せしむべきである。
77ぺ
【荒木のコメント】
 芦田氏は、「読みが事なく通ずる場合には、意義は既に六七分解すること
が出来る」と書いている。全くその通りで、音読がろくすっぽできてないの
に深い読解指導の授業に入る教師がいる。読解指導に入る前に学級児童がど
れぐらい音読ができているか、その実態を把握しておくことだ。1,2名の
発言チャンピオンの優秀児を相手に授業を進めることになってしまう。これ、
多いですよ。あなた、大丈夫ですか。
 「読書百遍意自ら通ずとの古人の言は、実に動かぬ所である」と書いてあ
るが、条件付きで賛成する。江戸時代の素読指導のように意味内容を教えず
に音読を繰り返さすのはよくない。「内容を思い浮かべながら読ませる」こ
とだ。意味内容をどのように音声にのっけるかを考え、それを試みながら音
声表現を繰り返してみることだ。解釈深めをしながら上手な音声表現にもっ
ていく指導なら大賛成だ。その一つの方法として「ゆっくりと読む」がある。
「ゆっくり読めば、自然と意味内容が声にのっけていく意識が増してくる」
ということだ。「ゆっくり」について荒木が平成になってから言い出したこ
とを、芦田恵之助氏が既に大正5年にこれを言い出している先見性に驚いた。
ただし、どの文章もいつもいつもではなく、意味内容によってはテンポ速く
読むべき文章もあることを忘れてはならない。

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