読授業を創る そのA面とB面と        11・6・23記




 
明治以降の素読・朗読の変遷史(大正期後編)




  大正期を、二つに区分して掲載している。大正期前編と大正期後編とで
ある。大正期全体を総て一枚にして記載するとダラリと下方へナガークぶら
下がってしまう。文章が読みにくくなってしまうので、大正期全体を切れの
よい個所で折半している。全くの機械的な区分けにしか過ぎなく、何ら根拠
のない機械的区分けであることをお断りしておく。


大正8年刊・秋田喜三郎『創作的読方教授』より

 下記は、秋田喜三郎『創作的読方教授』(大正8年、明治出版社)から
の引用である。
 
 教師の朗読によって想を味はしめるものである。読方教授にはその名称
の通り朗読は極めて大切なものであって、教師の朗読のみでも余程まで想を
翫味させることが出来る。又教師の朗読が巧妙であれば、児童は之に引き付
けられて想に共鳴し、且不知不識の間に読方に対する趣味を有つやうになる
ものである。故に教授者は朗読法を練習して、表情的な審美的朗読の術を具
有しなければならぬ。  114ぺ
  朗読法の到達点は表情的に読む審美的朗読にあるは言うまでもないこと
であるが、之に到達する過程として、文字を辿って読む機械的読み方や、意
味を考えて読む理解的朗読の練習が必要であり、更に発音の矯正、誤読訂正、
句読の切り方などに留意しなければならぬ。児童の読み方に発音の誤謬や誤
読や句読の誤りがあれば、想の理解も不十分なわけである。かくのごとくし
て正確明瞭に読む練習をしたならば、次には想の翫味に対する自己の心持を
表して読む朗読法の練習に入る、即ち審美的朗読である。審美的朗読に於い
ては音声の高低強弱、語調の緩急、抑揚頓挫による表情の指導が大切である。
学芸会、発表会に於ける朗読法は多く審美的朗読に外ならぬ。124ぺ
  朗読によりて想を表明させるには、仮説的朗読も亦有効である。それに
は、地の文と会話文からなる文章が適材である。朗読する児童は各その人物
になってそれに応じた読み振りをする。聴生にはそれを批判させる。こんな
にすれば児童は非常に興味を以て朗読法を好愛し之に練熟するに至るもので
ある。
  かくのごとくして朗読法を修練し文章を翫味せしむれば、児童は自然に
暗誦するに至るものである。又しばしば暗誦することにより一層翫味の深さ
は増していく。故に暗誦は翫味的取り扱いに於いて頗る重要なる方法である。
彼の翫味はおろか、理解も不十分なる文章を無暗に練習して、機械的に暗誦
せしめんとするが如きは暗誦の価値をしらぬものと言わなければならぬ。 
 125ぺ
【荒木のコメント】
 「教師の朗読によって想を味はしめる」と書いてある。「想」とは何か。
「想」の定義はこの本のどこにも書いてないが、それらしき個所は数か所あ
った。「文中に含まれてある想、即ち思想感情」「作者が観、考へ、感じて
得た複雑錯綜せる想」(94ぺ)とある。「その想が単純化せられ凝縮したも
のが文章である」とも書いている。「単純化せられた文章を通じて、その周
囲に漂う複雑な想を味はうには、読解力・鑑賞力がなければならぬ」ともあ
る。これで「想」の大体の概念内容の予想はつく。「単純な言い替えをすれ
ば「文中に含まれる思想感情」「作者が観、考へ、感じて得た複雑錯綜せる
思想感情」「文章の周囲に漂う、作者の複雑な思想感情・思い・意図」とい
うことになろう。
 「想」は教師の朗読によって児童は文章の大体の把握ができる、と書いて
いる。教師の「範読」が重要だと書いている。「又教師の朗読が巧妙であれ
ば、児童は之に引き付けられて想に共鳴し、且不知不識の間に読方に対する
趣味を有つやうになる」と書き、教師は上手な朗読力の持ち主であらねばな
らないと主張している。
  秋田喜三郎氏の朗読の三分類は、機械的読み方、理解的朗読、審美的朗
読である。「機械的」に「朗読」とつづかなくて「読み方」とつづくところ
がミソである。この三分類をふむことによって想の理解は深化していき、審
美的朗読に到達する、と書く。それへの途中の指導として仮説的朗読(役割
音読、分担読み、共同助言)があり、これを使うとよい、とも書いている。
 「機械的読み方」とは「文字を辿って読む機械的読み方」とある。つまり、
一文字一文字を目で追いながら初読時に音読していくことを指している。
 「理解的朗読」とは「意味を考えて読む理解的朗読」「更に発音の矯正、
誤読訂正、句読の切り方などに留意し」「児童の読み方に発音の誤謬や誤読
や句読の誤りがあれば、想の理解も不十分なわけである。かくのごとくして
正確明瞭に読む練習」とある。
 「審美的朗読」とは「表情的に読む審美的朗読」「想の翫味に対する自己
の心持を表して読む朗読法、即ち審美的朗読である。ここに於いては音声の
高低強弱、語調の緩急、抑揚頓挫による表情の指導が大切である」とある。
  「理解的朗読」と「審美的朗読」との違いはこうである。「理解的朗
読」では発音矯正、誤読訂正、間のあけ方に重点があり、「審美的朗読」で
は高低強弱、語調の緩急、抑揚頓挫による音声表情などに重点があると書い
てある。
  この三種類は、すでに明治期の章で書いている小山忠雄氏(明治31年刊
の著書)の三種類、佐々木吉三郎氏(明治35年刊の著書)の三種類などを受
け継いでいる主張であろう。大正期に入って芦田恵之助氏が朗読の種類は大
体この三種類で固まってると書いている。それぞれの名付けや内容において
は各人に多少の重点の置き方は違っているが、大きく三段階で上達レベル分
類する点では同一である。ここで秋田喜三郎氏は最後に暗誦で完了としてい
るみたいな口ぶりで書いている。すべて暗誦で完了させると書いているかど
うかは微妙である。
  暗誦については、「児童は自然に暗誦するに至るものである」と書いて
いて、無理やりに暗誦させることには否定的な考えのようである。「理解も
不十分なる文章を無暗に練習して、機械的に暗誦せしめんとするが如きは暗
誦の価値をしらぬものと言わなければならぬ」と、かなり過激に書いている。
荒木の暗誦観と多少似ているところがある。荒木の暗誦観は、本HP「名文
の暗誦教育についてのエッセイ」の中の「浸り読みで言語感覚を育てる」に
書いている。



大正11年刊・垣内松三『国語の力』より
 下記は、垣内松三『国語の力』(不老閣、大正11年)からの引用である。
小見出しは、荒木が勝手に付けている。

(暗誦について)
 
 もしただ機械的に暗記的に言語の知識を収得し得てもただ多くの言語を
知って居るというだけで、それが少しも生命の生ひ立つ原動力とならぬやう
な読方であったら徒に精神を疲労せしむるに過ぎないであらう。文を読んだ
なら読む作用の力に依って自己の教養とする精神と、文を読みこなすには真
実を求むる自己の心を活々と働かして総てを摂取する態度とを強く主張しな
ければならぬ。Sentence method はかような要求の上から生まれた方法で
ある。22ぺ      
 
【荒木のコメント】
  機械的な暗誦は、ただ言語の知識を知っているだけで、文章に内在する
「生命の生ひ立つ原動力の読み方とならぬ」「自己の心を活々と働かして総
てを摂取する読み方指導」とならないと批判している。ここで素読教授によ
る暗誦教育を批判している。素読教授においては、素読を繰り返して暗誦し
た後には語句の注解指導があった。素読教授は訓詁注釈を重視した。垣内松
三は、こうしたワードメソッドを否定し、センテンスメソッドを重視した読
み方教授を提唱している。まず文章全文を読んで意味内容を直下に会得(概
観)し、それから繰り返して読み進むことで次第に部分を精査し明らかにし
ていく読み方指導である。垣内松三は、読みの本質は形象を直観させること
だという、文学形象を直観して読み取っていく方法を提唱している。

(読書百遍意自通について)
 
 芦田氏が「読みとは自己を読むのである」といふことを述べて居られる
が、自己のもつて居る力だけしか文を読む力はないのであるから、眼が低か
つたり心が拙いとしたら、他人の書いた文を読むのであるが結局その解釈は
自己の力を示し自己の心の姿自己に見せるものであるといはなければならぬ。
読方の鍛錬は自己を鍛錬することになるのであって文を読む力の向上は同時
に自己の向上である。この立場から前の実例(荒木注、芦田恵之助「冬景
色」授業)を見ると数回繰り返して通読黙読を試みてあるのはその力の鍛錬
であって、初めの読み方よりは、だんだん精緻になって行く作用の跡をたず
ぬると、いかにも生命の力がめきめきと生い立つように感ずるのである。読
書百遍意自通といふことは、いつまでも変わらぬ真理であって読方の極意は
この外にはあり得ないと信じているのであるが、視読に於いてはこの心理に
背きがちであり易い。故に視読作用に於ける読方に於いては、その過ちを避
ける工夫を必要とする。視読から神経に連なる心理的の過程は、音読から導
かるる心理的過程とはもとより同一の作用ではない。これを心理的の分析す
ればヴントが文に対する時の心の動き方の初めを「暗室である画に向かって
居る時突然一方から光が差し込んだら先ず初めに画全体の形が現れて次第に
部分部分が明に見えてくる」といったのは第一回の視読に於いて着眼しなけ
ればならぬ要点である。少なくともこれを捉へんとする意志によりて精神が
統一せられて文字を凝視する時にこの心の据え方から読方が正しい方向に導
かるるといふことができる。23ー25ぺ
【荒木のコメント】
  「読書百遍意自通」の素読教授は、意味内容を教えずにひたすら音読を
繰り返す音読中心主義の指導法である。垣内松三氏の形象の読み方理論は、
芦田恵之助「冬景色」授業を絶賛していることから分かるように通読黙読を
繰り返すこと、繰り返し読むことが読み取り方の始まりであり終わりである
という読みの方法論である。繰り返し読むことで文章全体に内在する「生命
の力がめきめきと生い立つように感ずる」読み方になるという読み方である。
  垣内松三氏が提唱するセンテンスメソッドは、全体から部分へ読み進め
る読み取りの方法だ。全文を繰り返して読み進めていく中で部分部分の内容
理解を深めさせていく方法のことだ。下に引用してる芦田恵之助氏の「冬景
色」授業の5段階授業法はセンテンスメソッドであり、また芦田恵之助が晩
年に完成したという七変化の授業法もセンテンスメソッドである。昭和初期
の石山修平の解釈学の読解法もセンテンスメソッドであり、それを受け継い
でいる現在に三読法読解もセンテンスメソッドです。
  ワードメソッドは、部分から全体へと読み進める読み取りの読解法であ
る。文字や単語から読み進めていく法で、漢文や古文の授業は大体がワード
メソッドであり、英語など外国語授業はこれの典型的なワードメソッドの授
業だと言える。明治の学制の初学年の教科書は文字や単語から入っており、
ワードメソッドで教えるようになっていた。
  江戸時代の素読教授の「読書百遍意自通」は全体を繰り返し読んで次第
に読み深めていく「素読」はセンテンスメソッドであり、暗誦した後に実施
する訓詁注釈の「講義」はワードメソッドと言える。

(「冬景色」授業の指導過程について)
 
「冬景色」授業の全体に現れて居る作用を分析すると次のやうに考へられ
る。
1、通読(音読)─ 指導者の音読から生徒は文意を直感して居る。これが
          Sentence methodの出発点である。
2、通読(音読黙読音読)─ 文をたびたび読んで、文の形に第一段第二段
              第三段第四段第五段の展開があることに気づ
              いた。
3、通読(音読)─ 文意がさらに確実に会得せられてそれから自然の語句
          の探究が生まれて居る。
4、通読(静かなる音読又は黙読)─ 語句探究のために作者の位置を見つ
          け、作者の景色の対して佇んだ時間まで考えだした。
5、通読(黙読)─ 全文を通読し冬景色の天地の広さ、遠さ、色、光、音
        等を看取し静寂の感を深く味わって居るらしい。特に銃 
       声の後更に一層の静寂を感じたようすがありありと見える。
 更にこの作用をいひかへてみると
1、文意の直観
2、構想の理解
3、語句の探究
4、内容の理解
5、解釈より創作へ
ともいふべき順序をおうて展開して居るのである。19─21ぺ
【荒木のコメント】
  上記は、芦田恵之助氏が授業した「冬景色」の授業に、垣内松三氏が彼
の観点から解説を加えている文章である。垣内松三氏が主張するセンテンス
メソッドとは、一字一字、一語一語、一語句、一語句を読み、それらを探査
しながら読み進めていくのではない、それはワードメソッドである。センテ
ンスメソッドは、語句の意味を決めるのは文脈の中だから、文章全体が何を
表現しているか、全文を繰り返し何回も読みながら探査をしていく方法がよ
い、という主張である。だから音読を繰り返しつつ、内容理解ができてくる
と黙読も入れながら、内容精査をしていく読み方の指導法である。文意の直
観→構想の理解→語句の探究→内容の理解→解釈より創作へ、という読み深
まりの進行となるわけだ。垣内松三氏の文章を引用すれば「数回繰り返して
通読黙読を試みてあるのはその力の鍛錬であって、初めの読み方よりは、だ
んだん精緻になって行く作用の跡をたずぬると、いかにも生命の力がめきめ
きと生い立つように感ずるのである」ということになる。彼の読み方理論は
「生命の力がめきめきと生い立つようになる」がカナメである。これのため
に総ての種々の方法が手段として選ばれることになる。

(作者の心の律動について)
 
 文の真相を観るには文字に累はさるることなく、直下に作者の相形を視
なければならぬ。文の解釈の第一着手を文の形に求むるといふ時、それは文
の連続の形をいふのではなくして、文字の内に潜在する作者の思想の微妙な
る結晶の形象を看取することを意味するのである。84ぺ
  詩も散文も共に「創造」を意味し、形の上に於いても、詩は律動を反復
するので、目の前に明かに「行」の形に現はれない蘊まれたる節奏を内存す
るものであって、目につかないでも、文字を通して作者の心の律動を聞くこ
とができる。(中略)文又は詩歌の上に現はるる節奏の響きは、文学の要素
の中でも最内面的なる心の律動の示現であるから、何よりも前にその響きを
聴取することを要するのである。文の解釈に於いても、韻文の解釈に於いて
も、全く文法的修辞的解釈に終わりて、言語の微妙なる節奏からのみ豁ける
世界を見ることのできないありさまである。故にそれを理解したい要求から
いろいろの試みが現れるのも寧ろ悦ぶべきことと言わねばならぬ。181ぺ
  スクリプユアが辞は文字・綴語・詩脚といふやうに断片的に分かつこと
のできない流動であるといった如く、一語一語はその流動の一つの勢いを示
すものであるから、たとへば「をしむ・ござんなれ・にくし・乞へといふや
うな場合に於いても、その語の含む意味よりも、いろいろの複雑なる感情が
纒はって居る意味をしめすものである。故に文の形・言語の活力を認めて、
更に熟読する時に、自ら生ずる文の節奏の中に作者の心の律動を感じ、その
立場より見る時に一音、一語、句読の微に入るまで皆生きて居ることを感ず
るのである。193ぺ
【荒木のコメント】
  雪片を手にとって見ると、ただの水滴である。文も、文字や語句だけに
こだわると、作者の生命の蒸発し去った文字の連なりでしかない。「文を読
むとは直下に作者の相形を視なければならぬ。……文字の内に潜在する作者
の思想の微妙なる結晶の形象を看取すること」だと主張する。また「投手の
掌中より閃電のやうに走る球の姿を指して分析することができないやうに、
「黙会」「直下の会得」「印象」の如きは、分析し得られる作用ではない」
(233ぺ)とも書いている。
  「作者の思想の微妙なる結晶の形象」を読むとは、文に内在する節奏、
作者の心の律動を読むことであると言う。文は、「いろいろの複雑なる感情
が纒はって居る意味をしめすものである」から、「故に文の形・言語の活力
を認めて、更に熟読する時に、自ら生ずる文の節奏の中に作者の心の律動を
感じ、その立場より見る時に一音、一語、句読の微に入るまで皆生きて居る
ことを感ずるのである」と書いている。「律動」ということに価値を見出し
てるところに荒木は注目し、高く評価したい。音声表現においてはとっても
重要だ。

(作者の心の律動について)
 
「文は形の上に現れない蘊まれたる節奏を内在するものであって、目につ
かないでも、文字を透して作者の心の律動を聞くことができる」180ぺ
 「文又は詩歌の上に現わるる節奏の響きは、文学の要素の中でも最内面的
なる心の律動の示現であるから、何よりも前にその響きを聴取することを要
する」181ぺ
【荒木のコメント】
  文の形には作者の節奏が内在する、それは作者の心の律動でもある、そ
の響きを聞くこと、読みとることが重要だと書いている。

(内辞と外辞について)
 
「心の中には内辞として響いており、これを外辞として発音する」186ぺ
 「内辞の響きは想韻であって、思想と離して発音せるは心のこもらぬ機械
  的な発音」となる。187ぺ
 「ある思想を発表する前に心の中にいはんと欲する意向が見える」188ぺ
 「内辞を内聴することが文の中に流るる作者の意識に最も深い態度であ 
 る」「これ等の問題を考へる時、所謂形式・内容の研究にのみ着眼したよ
 りは、更に広い精神の世界が展望せらるるやうに思はれる」190ぺ
【荒木のコメント】
  上記は、文章全文の引用でなく、あちこちの孫引きで引用している。上
記の個所をまとめた文章個所を引用すると、「文の形・言語の活力を認めて、
更に熟読する時に、自ら生ずる文の節奏の中に作者の心の律動を感じ、その
立場より見る時に一音、一語、句読の微に入るまで皆生きて居ることを感ず
るのである、従って、文及び言語形式の解釈の立場から文法・修辞学の学説
に就いても心づく点が少なくないと思う」194ぺとなるだろう。

(音読について)
 
 文の節奏を理解するのは音読に依るものであると考へられ、音読の音声
学的・朗読練習に於いて会得せらるるものと思はれるのであるが、これまで
文の解釈と節奏との関係について述べたことは必ずしもその一面に限られる
ことではない。発音するためには少なくとも発声器官の作用に特殊の注意を
向けなければならぬのであるから、特に方言的発音を顧慮し又は声音的修正
を加へられる場合に於いては、その方面に注意を奪われて、文を解釈する力
を妨げられることが少なくない。223ぺ
  国語を精錬するために発音を正しくしなければならぬことや、個人的教
養として発音を雅正ならしめねばならぬことは当然であるが、ここには専ら
文の解釈の方面から考へるのであって、部分的には不純なる発音であるに関
わらず、内辞の内化作用には明敏なる感性と理性とを所有する実例を見るこ
ともある。又、発音の声音的訓練に於いて文の解釈の力を増すことができる
といふことも強ち認められない。クアンツ、ディヤボルン、ヒューイ等の実
験に依れば、発音法も、黙読法(唇を動かして)も別に文の解釈に注意を集
中する力とはならぬのである。視読の音感といふいひ方は矛盾を含むやうに
見えるのであるが、文の律動を聴くのは却って視読に於いて感ぜらるるので
あって、真に文の底を流るる作者の意識を尋ねてそれを感ずる時に、自ら唇
の微かに震えることを感ずるのはその作用を示すものである。
  国語教授の実際に於いても、学級の学友の前に、唯一人の人が素読もし
くは朗読する際に、発音の上に現れて来ない内化の消息が、低音の斉読によ
りて発見せられる(もしくは創造せられる)こともあり、自分一人で朗読す
る時に内辞を明らかに意識することもある。これ等はいずれも文の生命を内
視しながら読む作用に伴う音感である。224ぺ
  我々が作者の想韻を体得することができないで、平凡にこれを読み下し
た時には何らの奇趣をも感じなかったのに、一度作者の思想を意識して読む
時には、想韻自ら顫動して、新に文の真相に面接するの感がある。227ぺ
【荒木のコメント】
  上記の文章には、荒木が垣内氏と意見を異にする個所が幾つかある。
  方言であっても「部分的には不純なる発音であるに関わらず、内辞の内
化作用には明敏なる感性と理性とを所有する実例を見ることもある」とは、
何たる方言蔑視であろうか。まあ、これは当時の方言矯正・標準語教育から
考えたらしかたがないことでもある。
  「クアンツ、ディヤボルン、ヒューイ等の実験に依れば、発音法も、黙
読法(唇を動かして)も別に文の解釈に注意を集中する力とはならぬのであ
る」とある。クアンツ、ディヤボルン、ヒューイ等はどんな実験をしたのだ
あろうか。眠気を催したり、教室がだらけたりしてきたら、文章を声に出し
て読ませる、それで活を入れる、緊張を引き締める、集中力を高めることは
よく行われておる。自分読書していて眠気を催してきたら音読をはじめて集
中力を出す、難解な意味内容の文章個所は音読して集中力を高め理解を助け
るなど、その効果てき面である。

(通読について)
 
 想韻を味わうに至って文は活趣を帯びて静より動に移り来る感がある。
「共鳴」といひ、「琴線に触れる」といふ比喩的の感想はこの境地をいふの
であらう。故に想韻を聴くのは、想形・想態の心理経験に継続して、これを
完成するものといふことができる。国語教授法の「通読」の問題は、これま
でよく論議されたことであるが、その本質は「文自体」を見ることであり、
その発音の上に現れたる内辞の音感を聴取して「読方」を鍛錬することであ
る。228ぺ
  読方の力を鍛錬するために、先ずその内化の力を内辞の発音に聞くので
あるが、内化の作用を躍動せしむるために「ゆっくり読め」といふ注意を与
へること、又与へられたことは多くの人の経験することであらう。228ぺ
  「ゆっくり読め」はある程度の少年に時に必要なる注意であることもあ
るが、それよりも「意味をよくおさへて」を強調して「もっと速く」といふ
方面から速度を加えさせるのでなければ、学校を離れてからの生活と結びつ
く「読む力」とはならないであらう。231ぺ
【荒木のコメント】
  初めに「想韻を味わう」ということを書いている。「想韻を味わう」と
か「想韻を聴く」とかはとっても重要なことだと思う。文章を読むのはその
ためにあると言ってもよい。垣内氏は他の自著で、「読むといふ作用は素よ
り声を立てて通読するのでなくて、他人の生命事態を直覚する意味を有して
いる。 垣内松三『実践解釈学考』(不老閣書房、昭和8)」10ぺと書いて
いる。最も重要なことは、音読ではなくて、「他人の生命事態を直覚する」
ことだと言う。
  だが、これ「他人の生命事態を直覚する」は、なかなか難しい。言うは
易く、実行や効果は難しい。垣内氏のように「直下の会得」「文意の直観把
握」だけでは追求把握の進行過程、その論理構成が足りないと思う。ヒラメ
キだけに頼る直覚指導だけでは弱い。これまで万人がヒラメキを高めるコツ
を探してきた、だが、名案・アイデアが生まれ、効果があった、ということ
を聞いたことがない。ヒラメキだけに頼る読解指導だけでは弱さがある。
  垣内氏は「ゆっくり読め」という実践家たちの論文、著書を目にしてい
るのだろう。荒木も本稿シリーズ「明治以降の素読・朗読の変遷史」のあち
こちで現場実践家たちが書いている「ゆっくり読め」意見を紹介してきてい
る。それに対して垣内氏は「意味をよくおさへて」「もっと速く」も大切で
あることを主張している。双方の意見、ともに重要だと思う。子どもは上手
な音読とは、つかえないですらすらと早読みするのがよい、と考えている子
が多い。「つかえないですらすら」は音読には必要なことだが、意味内容が
おろそかな音声表現ではいけない。空読みではいけない。意味内容を声にの
せよう、内容を味わいつつ声にのせて表現しよう、思いをこめて声にのっけ
ようとすれば、当然にゆっくりした、きっちりした読み方、抑揚とリズム調
子の読み方にならざるを得ない。子ども達の読みの実態をふまえ、今はどの
能力を必要としているかを考え、臨機応変に「ゆっくり読み」と「早口読
み」とのどちらかをも指導していく必要があろうと思う



大正14年刊・神保格『国語音声学』より
 神保格『国語音声学』(明治図書、大正14)は、原理論であるので実
践家向きの授業に関わる引用個所は少なく、以下に目次の章立てのみ書くこ
とにする。
第一章 音声学の対象
第二章 音声の本質
第三章 音声研究法
第四章 音声器官及びその働き
第五章 単音のいろいろ
第六章 単音の連結
第七章 意義を表す音声の役目
第八章 音節
第九章 文字と音声
第十章 アクセント
第十一章 音声の具体化
第十二章 国語音声の実際問題



大正15年刊・千葉春雄「読方教育要説」より
 下記は、千葉春雄「読方教育要説」厚生閣書店、大正15年)からの引用
である。
 
 朗読法についてであるが、歴史的にこれを概観すると、そこには、明ら
かに二つの分野がある。
1、読みの音声的表情としての朗読である。機械的読み方、論理的読み方、
  その上の審美的に読むことを設定する。而して、ここを朗読として研究
  しようとする行き方である。
2、前の場合は、審美的読み方が朗読で、他の機械的、論理的読み方は、読
  み振りと目されている。が、も一つの場合は、標準語的読み方としての
  朗読であって、むしろ、アクセント、その外の読み振りを、悉く朗読と
  みなそうとするのである。
  而して、今日叫ばれている朗読法は、むしろこの第二の場合、即ち標準
  語の普及とか標準語的読み振りといふものに立脚した研究を目指してい
  るやうである。
 が、今日の朗読法が、いやその研究態度が、果たして完全なものであり、
考察の余地なきものであるかどうかまだまだ疑問に属する。
 一般に朗読といふものの心理的な解釈をどうしたらよいのであらう。軍記
物を読めば勇壮を感じる、心がおどる。従って唇をついて出る音声が、いつ
とはなしに一つの勇壮なリズムの美をもつことになる。  636ぺ
(中略)
 だから、朗読は、他者の心に、その心と等しい自己の心を歌ふ歌をかして
やることである。作者は無言に心を示し、読者は有言に心をかなでるのであ
る。作者がある種に事実を加えた詠嘆は、その心境をいつわらざる限り、そ
の心境をうつした文の上にも詠嘆があるべきである。さうした表現は、読者
の心に詠嘆をたづねて、読者はそこに覚醒し、陶酔し、やむになまれぬ曲折
を音声の上に塗るであらう。
 しかも、かうした点の朗読に加ふるに、標準語的アクセントを以てせんと
せば、その朗読は、更に沈静したものになるは当然である。で、標準語とい
へども、今日何等確実なる絶対さをもつものを指摘することは出来ない。そ
のために、そこには、それぞれの生活者の思想感情を、さもそのやうに語る
標準語といふものはない。かう考えてくると、朗読についての修錬も、一切
これを郷土に端を求めなければならぬことになる。その郷土その生活が、標
準的文化に進められることにより、漸次アクセントも改まり、標準語も豊富
にされ、而して、心も追々郷土の狭さから脱してくると考へざるを得ない。
  638ぺ
【荒木のコメント】
  朗読法の分野には二つあって、一つは上達レベルの三段階、もう一つは
標準語指導・標準語的読み振り指導であると書いている。三段階(機械的読
み方、論理的読み方、審美的読朗読)の外に「標準的読み方としての朗読」
を置いている。
  朗読の三種類についてはこれまで多くの論者が書いていて本稿にも引用
してきた。そう言えば朗読の記述個所には必ずといってよいほど方言矯正、
訛音矯正、標準語教育、地方独特な読み振り・訛りのある読み声音調の矯正
についても書いてあることが多い。だから朗読法には大きく分けて二分野が
あるということになる。
  千葉春雄氏は「今日叫ばれている朗読法は、むしろこの第二の場合、即
ち標準語の普及とか標準語的読み振りといふものに立脚した研究を目指して
いるやうである」と書き、大正15年当時は時代風潮として後者が叫ばれ研究
が進められていると述べている。当時はそれだけ訛音矯正・標準語教育が喫
緊の指導課題であったわけだ。
  作者がある事実に加えた詠嘆を、読者は文章からそれを感じ取り、陶酔
し、やむになまれぬ曲折を音声の上にのっけて表現していくことだと書いて
いる。それぞれの郷土の生活者の思想感情で読み取ったものを標準語で音を
声表現いけば最高なりとも書いている。

(心理的な解釈による朗読を)
 一体朗読といふものの心理的な解釈をどうしたらいいのであらう。
  これは今更いふまでもないことである。軍記物語を読めば勇壮を感じる。
心がおどる。従って口唇をついて出る音声がいつとはなしに一つの勇壮なリ
ズムの美をもつことになる。
  哀切な抒情詩の一読もそうであらう。悲しい、涙に近い叙述は、読者の
心におのずと涙を誘わずはおくまい。その悲憤限りなき情がやがて音声に波
打たせ、そこに一種の切々たるリズムの美をもたせるであらう。
  それが大体に於いて各人に通ずる自然である。勇壮なリズムが切々たる
心情に適合はしない。だから、抑揚、調子、高低に自然一つの成型が生じ、
それが長い習慣にまでなれば、ここに一つの朗読といふ抽象された理法を求
めることができるやうになる。
 心理的朗読を考えれば、かうした解釈も下すより外はあるまい。
 しかし、今日の朗読法の研究を見ると、余りに論理に過ぎて、以上やうな
具体的な心の光景を軽視している。「ここに抑揚をつけて」「ここを高くし
て」「ここで調子を下げて」といふやうにして、訓練される朗読は心を無視
したむしろ理法適用のといはれるものではないだらうか。 536ぺ
【荒木のコメント】
  当時の朗読指導は「余りに論理に過ぎて、具体的な心の光景を軽視して
いる」と書いている。文学的文章や詩歌の場合は情感性たっぷりに音声表現
するのがふつうである。説明的文章の場合は情感性は抑えて、理詰めに知的
に音声表現していくことになる。どんな文章でも哀切の情や悲憤限りなき怒
りで音声表現するとはならない。この区別があることを知らねばならないだ
ろう。
  また「ここに抑揚をつけて」「ここを高くして」「ここで調子を下げて
は、心を無視して、理詰めに朗読をとらえてる、と書いている。しかし、そ
うとはならないだろう。これら情感づけの指示言葉は、音声表情づけの但し
書きであり、その底(基礎)にそう音声表現せねばならぬ思い・心理感情の
渦巻きが存在してる筈だ。その底層にある「思い・心理感情」の渦巻きがあ
て、それに命じられて・動因となって「ここに、こういう抑揚をつけて」
「ここを高くして」「ここで調子を下げて」ということになっているわけだ。
だから、「ここに抑揚をつけて」「ここを高くして」「ここで調子を下げ
て」は、こう音声表現しようという「思い・心理感情」の渦巻きと切れてし
まってはいけない。ただうわのそらで指示言葉に機械的に従うだけでは、千
葉春雄氏の意見はまっとうである。身体に響いた「思い・心理感情」の渦巻
きと一体になったものとして、心理感情に押し出された音声表現にしていく
ことが大切だ。



大正期から昭和期へかけての国語教育レコード

 唐沢富太郎氏によると、蓄音器が明治37、8年以後に日本に輸入された。
蓄音器の普及につれて、大正期から昭和期にかけて国語教育レコードが発行
されて学校教育に使われ出した。
  国定三期国語読本の朗読を佐久間鼎監督が吹き込んだ「日本教育蓄音器
協会」発売のものが、「尋常小学国語」巻1と巻3にある。巻3は「アクセ
ントの相違」「イマワ」「ハヤオキ」「ヒヨコ」「ウチノネコ」「オハナ」
「ワラビトリ」などの内容がある。これと同じ国定三期国語読本を東京高等
師範学校付属小学校で吹き込んだ「小学国語読本模範朗読」のレコードもあ
る。巻3「春が来た、なはとび、うさぎ、とび、しりとり、ひよこ、かんが
へもの」が表面に、「とけい、うちの子ねこ、蛙」が裏面に吹き込んである。
  その後「国語読本朗読講座」が出ている。次のような編集内容になって
いる。
第一集「朗読基礎としての国語の発音」木幡重一、金田一京助
第二集「国語のアクセントと言葉調子の研究」神保格、東条操
第三集「朗読法の基礎研究」神保格、勝部謙造
第四集「低学年の朗読研究」藤野重次郎、保科孝一
第五集「中学年の朗読研究」石井庄司、石山修平
第六集「高学年の朗読研究」丸山林平、佐々木秀一
【荒木のコメント】
  上記の幾つかは国立国会図書館に所蔵されている。昭和12年には日本
蓄音器商会から「国語読本朗読講座」が刊行されている。
  こうしたレコード教材は朗読指導の手本となって学校で利用され、子ど
もたちに喜ばれ、大きな学習効果を発揮したことはまちがいないだろう。ま
た、方言矯正・標準語教育にも役立ったことだろうと思う。
  唐沢富太郎『唐沢富太郎著作集1』ぎょうせい、平成4)によると、
「明治23年ごろから日本に蝋管蓄音器が輸入されるようになり、明治32,
3年頃から蝋管蓄音器の輸入が盛んとなり、浅草などの縁日に出されるよう
になった。機械は最低55円から佐置こう400円くらいであった。ラッパ
付蓄音器は、明治33,4年ごろから輸入されるようになった」と書いてあ
る。ラッパ付蓄音器がレコード盤使用の蓄音器である。いずれにせよ、かな
り高価なものであったようだ。大正末期から昭和初期になると、蓄音器は学
校にも普及し活用されたにちがいない。


このページのトップへ戻る