児童文化についてのエッセイ 09・04・08記 昭和初期の子どもの冬の遊び 東京新聞の投稿欄で「冬の遊び」をテーマにした読者からの経験談を募 集しました。それが、東京新聞2009年2月18日、同年2月25日、同 年3月4日、同年3月11日の四回に掲載されていました。 以下は、その投稿欄に掲載された読者の方々の経験談の中からの一部抜 粋です。年代が91歳が一人、ほかは80歳代、70歳代、60歳代の方々 です。彼らが過ごした子ども時代は、大体が昭和ひとけた年代、昭和十年代、 昭和二十年代の「昭和初期」といえます。彼らは、冬にはどんな遊びをして いたのでしょうか。以下は、それらの引用です。 松田まさる(72歳)さん・千葉県柏市在住 「雪国生活で遊びは名人」 東京からの疎開先にとって、津軽の冬は耐え難いものであったが、雪遊 びだけは、思い出すたび、ほおが緩んでしまうほどの楽しさだった。 楽しいといえば、なんといっても城作りと、落とし穴作り。城はブロッ ク風に積立て、階段、回廊、広さも四畳半ほど。高さは2メートルにもなっ ただろうか。 雪合戦に備えた頑丈なもので、中学生にしては立派な仕上がりだったと 今でも思う。これを友人と夕方遅くまで、宿題も忘れて熱中し、怒られもし た。 落とし穴も”名人”と称して工夫を重ねながら、悪ガキどもをずいぶん 落としたものだった。しかし、近辺のおばさんまで落としてしまい、気まず くなって、やめざるを得なかった。 清水忠義(78歳)さん・茨城県土浦市在住 「スケート70年腕前負けぬ」 私はスキー歴七十有余年。北国の山あいの一軒家で育ったから、よちよ ち歩きのころからスキーに親しんでいたのだ。炭焼きなどを家業としていた 父親がその合間に作ってくれた小さなスキーが、幼い私のおもちゃであった。 長じて、雪なし県に住むようになっても、年間十日以上はスキーを楽し んでいる。 ファッションのウエアー、帽子、サングラスで身を包むと、さっそうと した若者スキーヤーに変身する。昼食時にフードをはずすと、ゲレンデで知 り合った人は、私の高齢者の風貌に仰天する。 石井敏男(70歳)さん・埼玉県三芳町 「スケートの道具手作り」 戦後、物不足の時代の故郷(阿武隈高地)では、冬の遊び等具は、そり やスキー、すり減って歯のないげた裏に細い鉄板をつけたスケートだった。 すべて自作である。 小学校六年の冬、旧友のAと近くの林(彼の家の持ち山)に入った。彼 は誰に聞いたのか、スキーには桜の木が滑りよいという。 直径十センチぐらいの山桜を切り倒して製材所に持ち込んだ。彼はスキ ー、私はスケートの長さにと、それに見合った厚みにひいてもらった。 私は足より少し長めに切った木片を、幅三センチ、高さ五センチぐらい にしてかかとからつま先にかけて刀のように削った。峰の部分は前と後ろに 同じ長さの横板を取り付けた。 刃のほうの接地面には自転車の泥除け支柱をつけた。当時、自転車は高 価な品だったが、使用不能の壊れた車体からはぎ取ってAがくれたのである。 形は飛行機、その上には足袋はだしで乗り、前板と甲を縄で結び、後ろ 板の縄では足首を縛った。そして田んぼの氷上やアイスバーンになった馬車 や木炭自動車などのわだちの跡を滑った。Aは急坂を得意満面で滑走してい た。 尾崎のり子(65歳)さん・東京都青梅市在住 「寒さも何の羽子板遊び」 昭和二十年代から三十年代、私の子どものころは、冬といってもみんな 汗をかくほど動き回り、寒さなんか吹き飛ばしていたものです。ほっぺはヒ ビでガサガサになり、鼻の頭を真っ赤にしながら日が暮れるまで走り回って 遊んだものです。 そんな私が、今でも忘れられないのは、父の手作りの羽子板です。のこ ぎりで羽子板の形にして、表には、おかっぱの女の子の顔を、裏には梅の花 を、手書きでかいてくれました。 四人の子どもたち全員に、同じように仕上げてくれました。お金を出し て買うものに比べたら、見た目は悪かったのですが、子ども心にもうれしか ったのを覚えています。 私たち姉妹は、その羽子板で羽根つきに夢中になったものです。羽が屋 根の雨どいに入ってしまい、さおでたたいて落としたり、はしごを使って取 ったりしました。 私の家ばかりでなく、あちこちからもカーンカーンと追羽根の音が冬空 に響き渡っていました。 鈴木ナミ(82歳)さん・東京都八王子市在住 「記憶に残る木場の生活」 私の生れは東京・深川の木場。お正月、優雅な羽根の音に誘われて表に でると、着飾ったきれいなお姉さんが二人、楽しそうに羽根つきをしていた という記憶があります。昭和の初期のころです。 車など全くみかけない木場の町は、新しい木の香りと静かさで、しっと りとした下町らしい雰囲気に包まれていました。私は一人っ子だったせいか、 羽根つきする仲のいいお姉さんに、すごいあこがれを感じました。 こざっぱりした身なりに着かえた、陽気なおばさんたちの「おめでとう」 の声。小粋な印ばんてんのお兄ちゃんとタコあげする子ども、雪だるまを作 る子どももいました。 鼓をたたいて万歳がくる。獅子舞がくる。私は隣の子とお手玉やあやと りをして遊びました。戦争を知らなかったころの下町が懐かしいです。 松永雪江(91歳)さん・千葉県花見川区在住 「宝物だったおはじき玉」 今は昔、昭和ひとけた時代の関東の農村で。 冬、日当たりのよい縁側に座っておはじきで遊んだ。おはじきの玉は厚 さ二ミリ、直径一センチぐらいの平らで透明なガラス玉で、「ギヤマン」と 呼んで、幼い私の宝物であった。 雨や雪の降る日は、近所の子どもたちが皆私の家に集まって、広い土間 でまりつきやお手玉取りをした。お手玉は母から端布と小豆をもらって、自 分で作ったものだ。 まりつきにもお手玉取りにも、歌がつきものであった。足を踏ん張った り、手と目と口を一緒に動かさねばならず、なかなか難しかった。たとえば お手玉の歌はこんなふうに。「一番初めの一宮、二は日光の中禅寺、三は佐 倉の宗吾様、四は信濃の善光寺、五つは出雲の大社(おおやしろ)、六つは 村々鎮守様、七つは成田のお不動さん、八つは八幡の八まんさん、九つ高野 の弘法さん、十で東京本願寺」 お手玉を一回も落とさずに続けられれば、「これで一貫かしました」とな る。 田中郁子(78歳)さん・横浜市鶴見区在住 「宝とり」で強さを誇る 子どものころ、冬になって体を温めるためには、外へ出て近所の仲間と 遊ぶのが一番だった。 「宝とり」という遊びは、集まった子どもたちが、AとBのグループに 分かれ、相手の「宝物」を奪い合うというもの。ろう石で自分の陣地にマル をいくつか書いていく。一番奥のマルに宝物を置く。それぞれのマルの中に は番兵がいる。 AとB、順番に相手の陣地を攻める。攻めるほうも守るほうも、マルか ら外へ出されると失格。攻める側は、相手を倒しながら宝物のところまで攻 めるのだが、そこには強い番人がいるから、なかなか宝は取れない。 力だけは強かった私は、いつも最後の番人に選ばれて宝を取らせなかっ た。攻めるときは次々と相手を倒し、宝物を取ることができた。冬の遊びの 「宝取り」では、無敵だったことが懐かしい。 畠山佳三(73歳)さん・横浜市神奈川区在住 「ソリ滑りに夢中だった」 戦前の根室の冬は、寒いといっても氷点下20度以下になることはめ ったになく、雪もほどほどに降りました。人の往来もまばらで、たまに鈴を つけた馬が一定のリズムで、白い息を吐きながらソリを引いていく静かな街 でした。 また、ソリで滑るには格好の、坂が多い街でした。正月の松の内が明け ると、待ってましたとばかりに毛糸の帽子に耳当て、底にわらを敷いた長靴 を履き、ソリを引いて坂の上まで行くと、いつもの仲間が集まっていました。 ソリの上に両手を置き腰を上にして、硬くなった雪道を、五、六歩勢い よくけって、下をめがけて滑り下ります。横になったり、うつぶせになった り、それぞれ得意のポーズを取ります。 足で舵を取り、ブレーキをかけたり、前を行くソリを追い抜いたりしま す。また上がり、滑り降りを繰り返し、日が暮れるまで楽しみました。 ソリが壊れると、親が職人さんである子どもの家に集まって、年長の先 輩が直してくれました。あのころは縦横の連帯感が強く、年長の者が下の面 倒を見てくれた、よき時代でした。 小林克也(66歳)さん・東京都豊島区在住 「滑りやすさ工夫を凝らす」 十歳前後のころ、冬になると近所の竹やぶに入り、高さ八メートルもあ る青竹を根本から切り倒します。庭の端でたき火をし、小刀やナタなどで工 作した竹の先をあぶって曲げ、スキーやソリの板を作るのです。 この技術は七、八歳のころに、近所の年長者がするのを見て覚えたもの です。しかし、全部をまねたのではつまらない。そこで、より滑りやすく、 より格好いいものにするために頭を働かせます。 新しいアイデアやユニークな発想が生まれてオリジナルなものになる。 それがうれしかった。「よく学べ、よく遊べ」とそのころよく言われたもの です。 脳の神経回路は十二歳ぐらいまでにはほぼできあがると言われています。 しかし、テストのための学習では、回路網は伸びない、ともいわれています。 遊びの中でこそ、発想やひらめき、想像力などが養われ、脳回路が培われる のだと考えます。 小久保寿一(72歳)さん・埼玉県日高市在住 「たき火に石懐炉代わり」 戦中戦後、空っ風の吹く埼玉県北部で子ども時代を送りました。衣類は つぎはぎ、栄養不足で冬はぶるぶると震えていました。 学校へ行く朝、道端で時々、落ち葉やごみを集めて近所の方がたき火を していました。通りがかりの人や、通学途中の私たちもたき火を囲み、体を 温めました。 たき火から離れるのがついやになり、遅刻しそうになったこともありま す。そんなときのため、家から手のひらに入るくらいの石を幾つか持って、 たき火の中へ入れて温め、それを下着にはさんで学校へ行ったものです。 当時は今のように携帯用の懐炉もなく、この焼け石の温かさが教室に入 ってからもしばらく残り、体を温めてくれました。冬の楽しみの一つでした。 吉田邦子(67歳)さん・東京都江戸川区在住 「百人一首やお手玉遊び」 冬のものとは限りませんが、やはりお正月を中心にした季節によく遊ん だのが、お手玉遊びでした。中に小豆の入ったお手玉、それもいつしか食料 になり、その後は大豆に。そしてそれもなくなってしまいました。 七、八年前に物置を片づけたところ、百人一首の木札が出てきました。玩 具が乏しかった戦後、父が作ってくれたものでした。お正月には家族皆でよ く遊んだものです。 歌の意味もわからずただただ、「あまつかぜ…おとめのすがたしばしと どめん」、その札だけは誰にも取られまいと、にらめっこしていたことを思 い出しました。 小学校二年生で北海道に転校して竹スキーで遊びました。北海道には竹 がなかったので、母が実家の石川県から孟宗竹を送ってもらったのも、懐か しい思い出です。 安田恒夫(79歳)さん・神奈川県横須賀市在住 「チャンバラ英雄ごっこ」 横浜が”発祥の地”といわれるチャンバラ遊び。私が子ども時代の昭和 の初めころは、子の遊びも、季節によってヒーローが変わっていた。 春は巌流島の宮本武蔵だが、夏は荒木又衛門になり、そして冬は何とい っても忠臣蔵の赤穂浪士だ。雪でも降れば、舞台効果も満点。大石内蔵助は じめ四十七人の浪士のうち、誰もがなりたいのが堀部安兵衛だった。あっち こっちにたくさんの安兵衛が夢中で棒を振り回しているが、吉良上野介のな り手はいない。 暴れ回った子ども浪人たちは、汗を流し、体から湯煙をたてている。紫 色にはれた腕や、顔ばかりではなく、体中に切り傷が無数にできるが、誰も 気にかけない。むろん、当時の親たちも何も言わない。それがこの遊びのル ールなのだ。そして明日も安兵衛になるのだ。 懐かしい遊びというよりは、現在の自分を励まして、頑張れるのも、こ の遊びから出発したと感ずるこのごろである。 松下孝正(69歳)さん・千葉県佐倉市在住 「友が贈った別離の相撲」 私は昭和二十年三月の東京大空襲で焼け出されてしまった。そして、疎 開した父の実家の富山で小学校に入学した。 富山は雪国である。冬は三メートル以上の積雪が春先まで解けない。遊 びは当然スキーだ。 私の家の近くに、二人の同級生がいた。そして、この三人は大の仲好し になっていた。何をやるにも三人一緒だった。 私たちが中学一年生の終わり近くなったころに、ついに、私と親友たち との別離に日がきた。一足先に東京に行っていた父が、家族を迎えにきたの だ。 そんなある日、三人でスキーを滑った後で、相撲を取ることになった。 何番かやっているうちに、熱くなって三人とも上着を脱いで、しまいには長 靴まで脱いではだしになっていた。二人から見れば、私はチビでヤセていて、 弱々しかった。その私に友は「東京のやつらに負けるな、来い」「いじめら れたらやり返せよ」と励ました。私は友の心情がうれしく、汗と涙でぐちゃ ぐちゃになった顔で、二人の友にぶつかっていった。 くたくたになって相撲は終わった。息が上がった友は「オレたちには贈 るものがないから、今日の相撲が贈りものだ」と言った。私が東京に帰る十 日ほど前であった。 須藤豊子(73歳)さん・神奈川県湯河原町在住 「林に作った秘密の基地」 一センチほどの霜柱が黒土を盛り上げるころになると、いつのまにか子 どもたちの押しくらまんじゅうの固まりができる。「押しくらまんじゅう押 されて泣くな」。霜焼けの耳たぶや、手が痛いほどベソをかいても、おかま いなしに押しまくられる。 そのうちに、固まりの中から、誰かが「行こうか」と声をあげる。「う ん、行こう、行こう」とダンゴほぐれて、それぞれがわら縄を手に走り出す。 ガキ大将を中心に、近所の上・下級生が入り混じっての冬休み中の遊び は、今思い出してもワクワクする元気な遊びだった。南九州の冬の町をぬけ て、小高い山の杉林に通じる山道は、七曲がり。真ん中に下級生を挟んだ列 は、登るにつれて息がはずんでくるが、楽しい行事。目指すは、誰にも教え たくない杉林の秘密基地。木と木のあいだに縄を張って、ブランコ遊びに興 じ、木の陰に隠れたりの忍者ごっこ。「オーイ」と響く山びこもうれしい。 杉林はまきの宝庫。落ち葉や小枝を背負って帰ると、家族の喜ばれる。 お手伝いを兼ねての一挙両得になる。敗戦直後のどさくさの中でも、子ども たちの遊びは底抜けに明るかった。 トップページへ戻る |
||