音読授業を創る  そのA面とB面と     09・10・18記




   
昭和初期の朗読指導と児童読み声の実態




 わたしの手許に千葉春雄編『読本朗読の実践的研究』(昭和九年、厚生
閣書店)という本がある。今から四十年ほど前、わたしが東京・お茶の水の
教育書専門の古書店(宣文堂)から購入した古本である。この本の中に昭和
初期の学校教育における音読・朗読指導の実際や、当時の児童の読み声の実
態がくわしく書かれている。この本は、10名の執筆者による共著であり、
編者は千葉春雄(東京高等師範学校訓導)となっている。各執筆者の所属学
校は書かれてないが、高等師範や各県師範学校の教師たちであろうと思われ
る。
 この本は、昭和9年11月23日発行となっている。であるから、この
本に書かれている音読指導の実態は昭和ひとけた年代(大正の後半期をも入
れてよいかも)の、当時の学校教育で行われていた音読・朗読指導の様子だ
と考えてよいだろう。故きを温ね新しきを知る、という論語の言葉がある。
昭和ひとけた年代の音読・朗読指導がどうであったかを知ることで、それが
現代にどうつながり、どう現在に影響を及ぼし、どう変化しているか、何を
捨て、何を学ばなければならないか、などを考える大きな契機と啓発を得る
ことができる。
  以下、この本の中から二つにしぼった事柄について書くことにする。
  1、昭和初期の音読・朗読指導の実際
  2、昭和初期の児童の音読・読み声の実態



     
1、昭和初期の音読・朗読指導の実際



  執筆者の一人、池田宗矩さんは、当時の国語授業では音読指導がとても
軽視されていた、音読は忘れられて直ぐに内容解釈の学習に入った、「読ん
で思想さえ把握できればそれでよい」という教師の指導観があった、と書い
ています。

  従来の国語教育は、どちらかといへば、書かれた国語のみに主力が注が
れ、音声による国語教育は忘れられていた。従って、文字の習得であると
か、文字の書き方、語句の解釈、節意、文意の把握といったやうな書かれた
国語のみが目立って、その半面、言語の音声的方面は、無残にも地下の中に
埋没されてしまった。極端に主張する者の中には、「読んで思想さへつかめ
ればそれでよいのだ」といったやうな無反省な放言さへも現れて、内容偏重
の時代を生じたのである。
  しかし、時代は進移した。機械文明の進歩と共に、ラジオの利用、蓄音
機、レコード等の利用が盛んになるにつれ、耳による国語即ち音声としての
国語が必然的に重要視されて気なのである。
  科学的国語学の樹立、読み方の科学的研究、これが、明日の国語教育の
課題である。


  執筆者の一人、副田凱馬さんは、当時は国語授業では音読が軽視されて
いたこと、当時の読解授業の様子、子供たちの反応、なぜ音読が軽んぜられ
たか、の理由などについて下記のように書いています。副田凱馬さんの文章
の途中途中に荒木のコメントがじゃまになってると思いつつも挟み込んでい
ます。

  私が読み方学習に於ける読みの欠陥、わけて音読の不足といふことに就
いて考えさせられ、其の研究を始めたのは三四年前のことであった。其の頃、
誰の授業を見ても読みが、わけて音読が軽んぜられていた。読みに始まって
読みに終わるべき筈の読み方学習が読みを抜きにして余りに高踏すぎた。

【荒木のコメント】

  文脈から「読みに始まって読みに終わる」の「読み」とは「音読・朗
 読」のことを指しているようだ。

  新教材に入る。教師はザット一通り(実にザット一通りである)児童に
読ませる。それから「何が書いてありますか。此の文を読んでどんな気持ち
がしましたか。」等と質問する。大方の児童が完全に答えられないのである。
教師は「判りませんか」と当惑する。「皆さんは読む時何を考えているので
す。唯ポカンとしていて本を読んではいけません」
  「何でも文を読む時には、此の文には何が書いてあるのだろうか、此の
文はどんな気持ちのする文であろうか。といふことをよおく考えてシッカリ
読むのです。」児童は慎重に謹聴している。教室はシーンとなる。時々鼻た
れ小僧の鼻汁をすすりこむ音がする。先生は自分の読ませ方が足らないのだ
とは少しもお考えにならない。時々読みの不足といふことをお考えになって
も、「読み方が足りませんねえ」と他人事のようにおっしゃる。「さあ、お
止めなさい本を机の上において」と、早々に読みを切り上げさせたのはサテ
何方だったのでせう。「貴方方はおウチから読んで来ましたか」さうさう、
自学自習といふ美名の下にも音読は確かに殺された。標準語に慣れている中
央の児童はそれでもよかろうが、朝夕方言のみを使用している児童はせめて
学校で読み方の時間に標準語に慣れなければ、一体何処で標準語に慣れるの
だろう。児童が高等科位になると羞恥心を持つようになり、余程低学年から
訓練づけられていないと衆人の前で発表することを嫌うようになる。事に標
準語の慣れないと愈々児童は引き込みがちとなり、将来社会人として立つ場
合に於いても進取的な気持ちにはなれない。此のような傾向を矯める上から
も高学年ほど益々音読は必要なのであった。然るに読み方に於ける自学自習
は彼ら高学年の児童をオシにしてしまった。


【荒木のコメント】

  教師は高度な発問を用意して児童の問い掛けている。その発問内容はけ
っこうよい発問だ。だが、子どもたちの反応は鈍い。反応がない。いつもの
2,3名の発言チャンピオンだけを相手の授業になる。そんな高度な発問に
よる授業をしているのに、いざ音読させてみると大多数の児童はたどたどし
い音読しかできない。声に出して文章のまとまりとして、意味内容のつなが
りとして読めないのだ。内容解釈の以前の、解釈の前提である音読ができて
ないのだ。こうした授業は現在の多くの学校現場でもみられるのではないだ
ろうか。音読軽視している教室では、みなこんな現実がある。
  上記の文章から、当時は音読は家庭の自学自習に求められていたことが
分かる。また、音読は標準語指導、方言や訛りの矯正指導という目標にもな
っていたことが分かる。

  では一体何故にそんな読みがわけて音読がそんなに軽視されねばならな
かったのであらうか。いやいや、それは決して軽視されたのではなかった。
仕方なくさうせねばならなかったのである。其処で問題は「何が彼女をさう
させたか」といふ最早極めて時代遅れになった藤森氏の創語になるのだが、
私の解答は次の通りである。

1、従来の音読が無変化の棒読みであったから、何回も読ませると児童は飽
  き、疲れて、其の為に学習態度がこわれる。

2、子供のたどたどしい下手な読み振りに教師はシビレをきらしてしまった。
  そして彼は学習の時間経済を考えた。


【荒木のコメント】

  副田凱馬さんが挙げている音読が軽視された二つの理由は参考になる。
当時の音読指導は棒読み段階で止まっていた、ということだ。棒読みから上
位の段階「表現よみ」指導段階があるという考えがなかったということだ。
メリハリの利いた、文章内容の表現価だけを、文章内容の理解深め学習との
相関指導と、それによる相乗効果で生き生きと音声表現する「表現よみ」
指導の考え方・指導方法が当時はなかったということだ。
  また、つづく下記の項目では、文学教師は音読を特に軽視していたこと
が分かる。女教師は、大声で本読みする手本を示すことが、女性のたしなみ
としてできなかったことが分かる。

3、教師に文学的童話的、素養がないから、教師自身が先ず完全に読めない。
  (而も、教師は又余りに音読を難しく考えすぎている。)それで教師に
  音読の指導力がない。

4、女教師の場合、彼女らの羞恥心が児童の前で思い切って彼女らに音読さ
  せない。

5、最後に教師(殊に文学的・童話的素養のあることを自負するところの
  教師)の自己冒涜性が読みに長く止まらせない。教師は早く、何をおい
  ても内容探求がやりたいのである。躍動する其の劇的感情を「アア押へ
  られない」のである。わけても研究授業の場合に於いて。
  かうして読み方学習は完全に音読を敬遠し去った。然しそれは自ら墓穴
を掘る者の類であった。音読が長らく開宴の席へ列するの光栄を失った寂し
い読み方学習の姿であった。


 つづいて副田凱馬さんは、音読学習の効用と学習価値は、こうだと書く。
音読重視の教育をすべきだと主張している。
(以下の記述は、見出し項目のみ記述です。それら見出し項目の一つ一つに
長い解説文がついているが、それは省略します。)

1、音読は与えられた文章が持つ独得な空気(又は味)を其の音楽的なリズ
  ムによって醸成し、文の理解、鑑賞を助け、児童の情操を豊かならしめ
  読みの趣味を養う。

2、音読は国語教育上モットモ重大目的であるところの国語としての正しい
  言葉を習得せしめ、其の使用に馴れさせる。

3、音読の徹底は児童の作文を上達させる。

4、個人個人の音読は、殊に教師及び他児童の監視の下に読ませられる指名
  音読は注意力を練磨し意志を訓練する。正しい音読は文章を誤魔化すこ
  とが出来ないし、一字一音を正確に読み終えねばならないからである。

5、同様の理由からして、音読は性急なる性格を持つ特殊児童の性格を矯正
  し得る。

6、音読は其の聴者をして高尚なる芸術的感動の中に其の聴覚器官を訓練し、
  聴くことの意志を養成する。

7、音読は其の暁に於いて児童をして溌剌たる社会人として一国の文化の発
  展に貢献せしめる。
  然し、かうした音読の効果、価値も、児童及び教師が無趣味に、義理で
  それおをなす間は決して現れるものではない。音読はあくまでも趣味化
  されなければならぬ。趣味は極めて愉快な意識せる意志を持つ。
  其処で読み方学習に於ける音読研究の努力は、先ず音読の趣味養成への
  努力であり、其の方法論へ向かってなされなければならない。




    
2、昭和初期の児童の音読・読み声の実態



  池田宗矩さんは、当時は発音、アクセントの指導が全然なかった、地方
丸出しの訛りの矯正指導が考えられてない、と書いている。当時の教育界の
方言に対する一般的な認識、指導の理念と方法が読みとれて参考になる。

  現状はどうであらうか。率直に言ふならば、発音・アクセントの指導さ
へも充分に行われていない。殊に、極端なお国自慢者は偏狭なる愛郷心にと
らはれて、地方丸出しの訛りや、方言を無反省に使用している状態である。
しかも一国の代議士ともあるべきインテリ層に於いてさへ、スチュウセンキョ
(普通選挙)、チンチュウドウギ(緊急動議)と平気でいるやうでは全く笑
ひ事でない。


  つづいて池田宗矩さんは、当時の児童の読み声の一般的な特性について
下記のように書いている。
(それぞれの見出し項目には、長い解説文がついているが、ここでは荒木の
独断で、荒木の重要と判断した個所のみ抜粋して書き出している。)

  児童の音読について、その通有性を列挙してみるならば、可成多数に上
ると思うが、その一般的なものとしては次の諸点を挙げることが出来る
だろう。

1、速度が速すぎる。
  文字を間違いなく、すらすらと読みさへすれば、それでよく朗読が出来
  たものと思ひ込んでいる。「立て板に水」の調子で、文章や文の底に流
  れている作者の心情など汲み取らず、機械的な読みに流れる。従って、
  多くの場合、読後等文の内容にわたって質問しても、なかなか即答が出
  来ない。ことに高学年に甚だしい。普通一分間の朗読の速度は310音
  〜350音位が適度とされているが、私の実験によると高等科などに於
  いては、いずれも400音を下らない状態である。中には500音を超
  過しているのも可成見受けられた。

2、一呼吸一休止でよむ。
  子供は文の休止に無関心である。一呼吸一休止の状態を続けている。無
  意識に行われていると思われるが、息の続く限り読むといった調子で、
  これが一方早読みの原因をつくり、又一方、静かに読む場合は、祝詞を
  唱する時のやうな延読まじりの読み癖や、一音一音間延びしたやうな重
  苦しい読み振りに陥っている。
  「英国の東海岸にロングストーンといふ島がある。」を
  「エイーコクーノ ヒガシ カイーガン ニ ロンーグスートーン ト
  イフ シマガアル。」といった調子に、当然一語として発音すべきとこ
  ろを二つにも三つにも切り、しかも、エイーのやうにイを延読するとい
  ふやうな特殊な読み振りが発生している。

3、句読点のポーズを考へず連読断読を勝手にする。
  読みが速くなれば速くなるほど、句読点の区切りなく連読の傾向をとっ
  ている。これはいずれも内容を理解しないところに原因しているやうで
  ある。

4、あるだけの声量でかん高く読む。
  速くすらすらと読めば上手に読んだものと子どもは心得ているが、更に、
  声高らかに読めば、それが直ちによい朗読とさへ自負する通弊がある。
  学年・性別によって一定してはいないが、一般に声が高すぎるのではな
  いかと思われる。中には首に青筋を立てて、顔をしかめて読んでいるも
  のもあるが、これでは、息を続けるだけで精いっぱいである。従って息
  の切れ目が休止といふ形になってしまふのは当然である。大きな講堂な
  どで千人も二千人もの直前でするのならば、声が大きくなければ徹底し
  ないけれども、普通教室に於いては、聞こえるといふ程度のもので差支
  えないと思ふ。私の考えでは、読む時の元気を失いさへしなければ、な
  るべく低い声で読むのが理想であると思っている。あまり高調子で読む
  と、その人の声を失って、却って聞き苦しい喉をしめつけるやうな音が
  でてしまふ。なるべく地声で読ませるやう指導したい。併し、女子には、
  どちらかといふと、気力のない低声のものが多いから注意しなければな
  らない。

5、読みふしがつく
  関東を中心にした地方ではあまり見受けられないが、東北、北海道、殊
  に樺太に於いては、一種独特の読みぶしがある。内地から来た者は誰し
  も奇異の感に打たれる位である。所謂「学校読み」といっている程度の
  ものならば何処にもあるが、北海道、樺太一帯では「ふしづけ読み」が
  全盛である。或いは他の地方に於いても認められるかもしれないが、私
  はこの「ふしづけ読み」を聞くと、吐きっぼいやうな、寧ろ嫌味さへ感
  じている。
  私の調べたところでは、アクセントの不正、低学年の時の斉読の癖、五
  十音斉読の時の不注意に原因があるやうに思はれる。例えば五十音の斉
  読にしても「ア、イ、ウ、エ、オ」と一音一音歯切れよく、音を澄ませ
  て発音練習を行っておればよいが、長母音に発音させ、尚「アーイーウ
  ーエーオー」の「エ」を特別に高声に調子をつけて、「オ」に下ろす癖
  をそのまま見過ごしているやうである。一般にこれは内地でも同様であ
  るが、エ列音に調子をつけて「ふし読み」をしているものが相当に多い。
  この癖が知らず知らず低学年の間に浸み込んで、それが抜けきらないで
  いるのであらう。其の他斉読等の場合余程注意しなければ悪因を残すや
  うな結果になる。

6、発音不明瞭
  地域的環境、その地方の風俗習慣による言語生活、その地方の社会情勢
  などによって自然的に発音上差異の生じるのはやむを得ない現象である
  が、併しわれわれは、この現状を黙認しているわけにはいかない。少な
  くとも国民教育を受けた者が、標準的な発音が出来ないとあっては国民
  として大なる恥辱である。元来日本の国語教育に於いては、この発音方
  面の訓練が甚だ疎遠されておった感がある。外国語教授の場合など、や
  れアクセント、発音とやかましく言って置きながら、未だに中等学校な
  どに於いては、言語の音声的方面に注意を払っていないやうであるが全
  く遺憾である。
  尤も「国語アクセント辞典」(神保・常深氏共著)などの刊行されたの
  も極く最近であるが、今度はこの方面に大なる努力を払わなければなら
  ないと信じる。試みに、児童の発育上の誤謬を指摘してみれば、実に驚
  くほどの多数に上っている。殊に、東北、北海道、樺太のやうに文化圏
  から遠ざかり、標準語決定の基準地と定められた東京地方から隔たって
  いる地方にあっては、その欠陥が甚だしい。
  次に、その代表的と思われるものを列挙して反省することにしやう。高
  学年を調査したものもあるが、今は低学年(一年生)に関してその不正
  なるものを掲げることにする。
1、「ヒ」を「シ」に誤るもの………アサシ・朝日。オシサマ・お日様。
2、「シ」を「ヒ」に誤るもの………ヒク・敷く。
3、「イ」を「エ」に誤るもの………マエリマス・参ります。
4、「イ」を「メ」に誤るもの………メエマス・見えます。
5、「サ」を「ハ」に誤るもの………ユキコハン・雪子さん。
6、「シ」を「ス」に誤るもの………モスモス・もしもし。
7、「ヌ」を「ネ」に誤るもの………キネコサン・絹子さん
8、「ス」を「シュ」に誤るもの………シュグマイリマス・直ぐ参ります。
9、「エ」を「イ」に誤るもの………ヤナギノエダ・やなぎのえだ。
10、「ツ」を「チュ」に誤るもの………トビチュク・飛びつく。
11、「セ」を「ヘ」に誤るもの………ツノ ダヘ ヤリ ダヘ・角出せ槍
    出せ。
12、「ズ」を「ジ」に誤るもの………スジシイ・涼しい。
13、「ジ」を「ズ」に誤るもの………ズカン・時間。
14、「ゴ」を「グ」に誤るもの………ウグイテ・動いて。
15、「キ「を「ケ」に誤るもの………パットケエタ・パッと消えた。
16、「ウ」を「フ」に誤るもの………フハリトフイテ・ふはりと浮いて。
17、「ラ」を「ワ」に誤るもの………ユワシテ・揺られて。
18、「レ」を「エ」に誤るもの………ユワエテ・揺られて。
19、「イ」を「エ」に誤るもの………ナイテエタ・泣いていた。
20、「リ」を「ル」に誤るもの………アルッタケ・有りったけ。
21、「ヤ」を「ニ」に誤るもの………エンニャラヤ・えんやらや。
22、「ギ」を「ゲ」に誤るもの………その土地がチゲレテ・その土地がち
    ぎれて。

7、アクセントが正しくない。
  これは非常に困難な問題で、一朝一夕に矯正さるべきものではないが、
  併し、放任のままで通すわけにはいかない。地方的アクセントが正しい
  か正しくないかといふ点に就いては是非を言ふことは出来ないが、国
  定教科書そのものが、標準語の陶冶に重きを於いている以上、統制する
  のが最も妥当である。従って私は、標準語のアクセント即ち現代東京の
  教養ある中流社会以上の人々が日常使用しているものを以って他を律す
  ることにする。
  狭く地方的に限定することはどうかと思われるが、樺太では、関東的ア
  クセント、関西的アクセントに、その他奥羽の特色あるアクセントが混
  線している。これらのものが互いに影響し合い、児童のアクセントも一
  定の方向をもっていない。従って児童は、学習上に非常に不便を感じて
  いるに相違ない。試みに尋常一年の国語読本について調べてみると、殆
  ど総てが標準を外れている。


【荒木のコメント】

  以上に書いてあることは、現在の学校児童たちにも大なり小なりにみら
れる現象である。昭和初期の児童音読にあったへんな読み音調・独得な節つ
け読みが現在の子どもたちにも弱いながら引きずっているということである。
あなたの学級児童たちに上記の項目が当てはまる子どもはいませんか。おり
ましたら、今から80年前の児童音読の悪しき実態を引きずっているという
ことになる。

  4について。今でも、日本の田舎の児童の読み声を聞くと、甲高い声で、
大声を出して、朗々と、平らに、つかえないで読む、こうした読み声がいい、
という考え方があって、そのような指導がされていいるところもあります。
荒木が地方講演に行き、その地方の読み声を聞かせてもらうと、そうした読
み声の児童たちを、目にし、耳にします。特に、その地方の年配の指導者が
国語教育研究会の会長や副会長や幹事である場合など、その傾向がみられま
す。戦中は、家々の軒下を通ると、子どもたちが大声で読本を朗々と朗読し
ている声がよく聞こえてきたものです。そうした戦中体験をした年配教師に
よる音読指導の影響は大きいです。

  5について。《所謂「学校読み」といっている程度のものならば何処に
もある。関東を中心にした地方ではあまり見受けられないが、東北、北海道、
殊に樺太に於いては、一種独特の読みぶしがある。》という文章記述に注目
したい。いわゆる学校読みならどこでにもあった、とくに東北・北海道・樺
太では一種独特の読み節があった、ということに注目したい。「学校読み」
「学童読み」「学校節」とか呼ばれている一種独特の読み節については、本
ホームページの「表現よみの歴史・第一部」の中の平田・上甲見解あたりに
荒木の解説として詳述しているので参考にしてほしい。

  6について。昭和期後半からのラジオやテレビの普及による影響は大き
い。それにより、地方の訛り発音やアクセントは随分と東京のものに接近し
てきている。とはいっても関西しかり、東京を離れた田舎では、方言はまだ
まだ健在にあり、これは喜ばしい。

  7について。これ以降、学校教育では、方言撲滅の一大キャンペーンの
指導が実施されることになる。これについての詳細は、本ホームページの
「音声・身体・文化についてのエッセイ」の中の「日本人は濁音が嫌い?」
の一節「学校における方言矯正・方言撲滅運動」をお読みください。


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