音読授業を創る そのA面とB面と       11・6・23記




 
明治以降の素読・朗読の変遷史(昭和期中編)




 昭和期は、昭和ひとけた年代を昭和期前編、昭和十年代を昭和期中編、昭
和二十年以降を昭和期後編と名付けて掲載している。便宜的な名付けと区分
でしかない。
  昭和期全体を総て一枚にして掲載するとダラリと下方へナガークぶら下
がってしまう。文章が読みにくくなってしまうので、三つに区分けしている。
昭和期全体を敗戦を境に戦前と戦後とに区分けして、戦前期がまだ長すぎる
ので、戦前期を昭和ひとけた年代と昭和十年代とに分けている。ひとけた年
代を前編、十年代をを中編、戦後以降を後編と名付けた。全くの機械的な区
分けにしか過ぎないことをお断りしておく。



昭和11年刊・田中豊太郎『朗読法解説』より

 下記は、田中豊太郎『朗読法解説』(東宛書房、昭和11)からの引用
である。荒木が勝手に見出しを付けている。

(朗読の定義について)
 
 朗読といふことは文字の示す通り、音声をもって朗らかに読み上げると
いふことである。読み上げた音声の諧調にその美感をもっていることはいふ
までもないことである。……即ち朗らかな音声をもって他人にも聞き取るこ
とが出来る様に読み上げるといふことが本来の目的である。2ぺ
  我が国では、物語や作品を音声高らかに表現して読み味わうことが、昔
から行われていた様である。さすがに言霊の幸はう国といはれるだけあって、
言葉に対して、文章に対して、その言葉その文章の調子といふものについて、
事実内容の理解以上にその興味を感じ、もっと強くいへば霊感を感じた国民
である。
  古事記も、日本書紀も、万葉集も、言葉の調子が整えられていることに
は、今日の一面的な内容を重んずるものからすれば、寧ろ言葉の技巧に堕ち
ていると思われるほどによく調整され、或る一定の調子をもって読まれるや
うになっている。太平記や源平盛衰記になってくると、更に近代の定型詩の
ような調律をもって進められているのである。書く時から既に音声化しなが
ら、その調子を整えて書かれているところからこれを読む者もその調子を整
へ、その調子にのって心地よく読むといふことを考へたのに違いない。平家
物語といひ、講談といひ、浄瑠璃といひ、講談といひ、すべて音声的表現に
よってその価値を発揮したものが多い。徳川時代の近松の浄瑠璃、頼山陽の
日本外史にしても、如何に音調を整へ、調子よく読まれるものとして書かれ
ているかは、一読すればわかる。それらをまた読む人達はその調子の心地よ
さにのって、寧ろ事実内容などは強いて分析解剖する心持さへも潜めて、読
むことに陶酔したのである。2ぺ
【荒木のコメント】
  朗読は、神に祈り、神と交信に声高らかに言葉を発する、こうした言語
言霊観と連続するもの、発展したものだと書いている。だから朗読は「朗ら
かに読み上げるもの」だとなる。日本人は語られる音調に事実以上の興味・
感興を感じとる人間だ。
  文章の作成過程においては「書く時から既に音声化しながら、その調子
を整えて書かれているところからこれを読む者もその調子を整へ、その調子
にのって心地よく読む」と書いてある。これは注目に値するよいご見解だと
思う。現今、作文指導においてももっと重要視し、大切にしてよい言葉だ。
作文の推敲指導にも適用でき、推敲時に、声に出して自分の書いた文章を言
葉調子よく読めるなら、つかえないで心地よく音読できるなら、その文章は
内容も優れており、他人に分かり易く伝わる文章だと言える。

(従来の朗読について)
 
 従来の朗読は、作品の調子にのって心地よく読むといふことによって、
快感を味ははうとすることが主な目的であった。今日吾々の言はうとする朗
読は、言葉を味わい、言葉を感得し、生きた言葉として発声し、さうして文
を味はい、文を理解する共に生きた言葉の使用に慣れようとするのである。
  昔の様な形式律を主体に考へて音吐朗々と読み上げるといふことでなく、
現わされた作品の真意をよく理解し、新味をよく鑑賞しようとするところか
ら起こって来ているものである。昔のように唯音吐朗々と読み上げたならば、
読んでも何となくよい心持だし、聞く者も何となくその韻律・快調に魅せら
れてしまうといふだけでは、本当の朗読といふことは出来ないのである。朗
読といふ以上は、その作品を自由に読みこなして、しかも読者に対して読み
あげて聞かせるといふことが朗読たる所以である。6ぺ
  人を対象にして読むからには、音声までが聞く者に快感を与えるだけの
高さ、強さを持って居らなければならない。黙読が朗読でないのはこの点に
ある。また人に対して読み聞かせる、人を目当てに読み上げるといふことか
らすれば、聞く者にはっきりと分からせなければならないといふところから、
句読(。、)にも注意しなければならない。作品の中の一語一語についての
強弱・高低・緩急を考へなければならない。言葉として効果ある様に読まな
ければならない。7ぺ
【荒木のコメント】
 昔の朗読は文章の形式律によってただリズム調子よく音吐朗々と読むだけ、
声高に朗々と読み上げるだけであったが、本当の朗読は、「言葉を味わい、
言葉を感得し、生きた言葉として発声し、さうして文を味はい、文を理解す
る共に生きた言葉の使用に慣れようとするのである」「聞く者に快感を与え
るだけの高さ、強さを持っている」「強弱・高低・緩急など、効果あるよう
に読まねばならない」と主張している。
  昔の朗読は、文章の意味内容がどうであるかに関わりなく、ただ心地よ
く読み上げるだけだ、ほんとうの朗読はもっと意味内容を声にのっけて、言
葉結合の響き合いのすばらしさ、生き生きしてる言葉の組み合わせを味わう、
そうした朗読でなければならない、と主張している。

(理解と鑑賞を音声表現する)
 
 一体、朗読は何のために行われるものであるかといへば、その作品を読
者自身がよく理解し、よく鑑賞し、しかも言葉を練習するといふことが目的
であるが、しかし聞く者に対して表現するといふことも考へなければならな
い。 7ぺ
  内容をかくの如くに理解し、かくの如くに味わっていることを第三者に
示す場合は、この理解・鑑賞によって起こされている心持を一言一句の中に
宿して、音声の高さ、強さ、緩急などをはからなければならない。正しい朗
読といふものは、作品をもっともよく理解し、最も正しく鑑賞して、その理
解・鑑賞の自分の心持を、他人に同じ様に価値を出そうとする読み方でなけ
ればならない。昔の様に音吐朗々と読み上げたならば、読んで何となくよい
心持だし、聞く者も何となくその韻律・快調に魅せられてしまうといふだけ
では、本当の朗読といふことはできない。9ぺ
  殊に小学校の読本の朗読といふことは、読本の文章がもっている精神を
よく理解させ、よく鑑賞させて、その読本の教材の精神を聞く人にもよく理
解させ、よく鑑賞させようとするものであり、同時に言葉の練習をしようと
するものである。9ぺ
【荒木のコメント】
  昔の朗読は音吐朗々と読み上げればよかったのだが、本当の朗読は、
「その作品を読者自身がよく理解し、よく鑑賞し」「心持を一言一句の中に
宿して、音声の高さ、強さ、緩急などをはかり」「文章内容の精神を」も音
声表現しなければならない、と書いている。荒木が教師になってからあちこ
ちに書いていることを既に僕が生まれる前に田中豊太郎氏は主張しているこ
とを知った。

(朗読は分析的解釈以上のものを表現する)
 
 教材によっては分析的な解説をすることの難しいものがある。かういふ
場合に正しく美しい朗読によって、言葉では言い表すことはできないものも、
容易に心持でその作品を理解し、その作品を鑑賞できる。これは確かに朗読
が、教師の解説的な説明以上の力を持っていることを示しているのである。
昔は調子のよい文であれば暗誦するまで読ませた。今の様に作者の心持や、
文の主眼点や節意等に対しては厳密な分析は行われなかった。読み方の練習
が足りないと、朗読練習の時間が少ないと、一字一字の読みは出来ながら、
全体としてその調子気分を味わって読むといふ事が出来ないのである。12ぺ
【荒木のコメント】
  朗読では、話し合い学習における「言葉では言い表すことはできないも
のも、容易に心持でその作品を理解し、その作品を鑑賞できる。これは確か
に朗読が、教師の解説的な説明以上の力を持っていることを示しているので
ある」と書いている。読解の話し合い学習における発表として言葉化できな
い微妙なニュアンスの意味内容(心理感情、情緒、気分、漂う醸し出る雰囲
気)がある。そんな時は音声表現の音調で表現することができる。こうい
う見解は実際に音声表現の訓練を続けている人間にしか開陳できない言葉で
ある。田中豊太郎は優れた朗読家であったに違いない。田中氏の文章を読ん
でいると、音読練習の訓練を何年も継続した人間でなければ出てこない言葉
がたくさん出現していることに気づく。これまで多くの朗読指導関係の著書
を紹介してきたが、朗読をやってもなくて頭だけで考え出した論稿が多かっ
た。田中豊太郎氏は、タダノネズミデナイと読みとった。
  だから、私は音読の記号づけ指導を否定するわけではないが、その効果
はすばらしいものがあるのだが、音読記号だけで、音声表情のすべてを書き
入れる・表現することはできないことも知るべきである。

(自分が解釈し鑑賞したものを表現する)
  朗読の真の意義は、その作品を自分のものとして、自分が解釈し、自分
が鑑賞したところを表現するといふことでなければならないものであるから、
朗読するそれ自身の心持としては、自分のことを他人にお話として発表する
のと異なるところはないのである。また朗読の真に達成し練熟したものは、
全く自分がお話をする様な心持で、他人の文を読むといふことでなく、自分
のものとして他人に語り出すといふことでなければならないのであるから、
朗読が即ちお話である筈である。
  かう考へると朗読を正しく行ふことは、話し言葉の練習の中でも特に洗
練された話し言葉の練習であると言ってよいのである。19ぺ
  標準話し言葉の練習の機会は、学校教育全体で考へるべきことだあるが、
直接の指導時間は、話し方と読み方の時間だある。中でも、読み方に於ける
朗読の指導によることが最良の方法である。19ぺ
【荒木のコメント】
  朗読指導は話し言葉指導に連続すると主張している。「お話するように
読む」ことだと書いている。これが標準語教育、発音、アクセント、訛語の
指導につながっていく。例えば「会の開会」を「ケーノケーケー」の様に発
音したり「お仕え申す」を「アツケーモース」などの矯正指導についても書
いている。83ぺ

(耳からよい朗読を聞かせる大切さ)
 朗読と理会・解釈・鑑賞とは、切り離すことの出来ないものである。理会
したところ、鑑賞したところを表現する朗読が、逆に、朗読によって理会し
鑑賞することを助ける点が大きいことを忘れてはならない。23ぺ
 さて、朗読指導は、口形などを喧しく言うよりも、やはり耳からよい朗
読を聴かせたやる事が何よりである。学校の中に一人でも二人でもよい朗読
をなし得るものが居って、教師がそれを活かして使えば、きっと其の級の朗
読は上達するものである。又、朗読レコードなどによって指導するのもよい。
而して、しれよりも大切なことは、教師自身がりっぱな朗読をなし得る様に
なって居る事である。97ぺ
【荒木のコメント】
  「逆に、朗読によって理会し鑑賞することを助ける点が大きい」とは、
音声表現は、話し合い学習時の言葉表現だけでは表せない、それ以
上のもの(場面や事件や情景の情感性・微妙なニュアンス・雰囲気・気分・
空気を表現してる、ということだろう。
 「口形などを喧しく言うよりも、やはり耳からよい朗読を聴かせたやる事
が何よりである」とは、 第一級の朗読を聞かせることの大切さを述べてい
るのだと思う。一流のもの、本物に触れさせることが大切だ。感性を磨くに
は一流の作品や一流のアーチストや一流のトップアスリートのスポーツを見
ることだ。学級児童たちの下手な音読に取り囲まれて、いつも下手な読み声
ばかり聞いていては、いつまでたっても上達することはできない。学級の中
に一人か二人は上手な子がいるだろう。その子の上手な読み声を聞かせ、全
員で模倣させること、教科書会社発行のCDを聴かせることもよい。文章の
ある一部分を、CDで繰り返し聴きとらせ、全員に声に出して模倣させ、発
表させることもあってよい。
  「教師自身がりっぱな朗読をなし得る様になって居る事である」につい
ては、荒木はそうは思わない。本HP「表現よみ授業入門」の「表現よみ指
導のコツ」に詳述している。



昭和11年刊・岡山師範付属小
       『実践朗読法と聴話教育』より

 下記は、岡山師範付属小『実践朗読法と聴話教育』(明治図書、昭11)
からの引用である。荒木が勝手に小見出しを付けている。

(朗読教育変遷を簡単にまとめて)
 
 学校教育に於いて読方教育に於いての「読み」としての朗読は近代学校
教育以前及び所謂学校教育の啓蒙期、即ち世の「読み書き算盤教育」の時代
にあっては、それこそ単なる「読む」ことのみの教育であって、所謂論語読
みの論語知らずのたとへの通り、只読み只暗記することを以て、学習、勉学
として能事終れりとした時代もあったわけである。而してまたこの考え方は、
相当教育が普及した後までも、読み方の時間といへば、唯読むことのみ、学
校も家庭もそれに終始し、機械的朗読の尊重重視された時代であった。現に
「学校読み」と称する一種異様な朗読法の残存せるはそれを物語るものであ
る。
  大正、昭和時代に入ると、明治時代の反動ともみるべき、例の読み書き
のみの偏重を蝉脱して、読みの内面化、即ち読解力の養成の叫びが起こり、
それがために、音読としての朗読より、黙読の奨励となり、朗読よりも内容
吟味へと転向し、そこにその時代に即した国語教育としての読方教育として
の読方学習指導が組織され、実践されたのであった。
  ところがそれがため、文字、言語、文章の音声化が軽視され、方言、訛
音が当然の権利として純正なるべき国語の領域に有力な地歩を求めんとし、
標準語による国語の純化統一、ひいては国民精神の純化統制がその影をうす
くせんとする、由々しき問題が生まれんとしたのであった。  16ぺ
【荒木のコメント】
  江戸時代から昭和までの素読→朗読の指導の変遷を簡単にまとめてくれ
ているので便利である。明治時代までは「論語読みの論語知らず」式
の指導であり、大正に入って文章の内面・生命を読み取る内容吟味へと方向
が転換していったと書いている。ところがそれがため方言・訛音矯正や標準
語の純化統一、国民精神の純化統制がおろそかになったと書いている。これ
がやがて国民的思考感動を養う国民精神を涵養する教育という国民学校教育
の流れの中へ国語教育としての朗読が位置づけられていくわけである。

(朗読主体について)
 
 現代の朗読法は、どこまでも文の内面に即してしかも内容偏重の弊より
脱し、体得したる内容を文に即して個性化したる上での表現なのであって、
力強き国語力のあらはれなのである。言ふまでもなく、国語の仕事に単なる
受身的な読物のみがそれではなく、読みとった内容を十全に自己の心にマス
ターし消化することである。更に、之を外部に発表して、鑑賞し自己化する
処に文を学ぶ意味があるわけである。
【荒木のコメント】
  何か難しいことを書いてあった分かりにくいが、同じことを他の27ぺ
ではこう書いている。「声に出して読む時に、作者の心と読者の心とが一如
となり、自他融合、純粋自我の境地を生み出すわけである。さうした自分が
それに読みひたり、没入して忘我の境地に至れば、そこに鑑賞の世界が顕現
するするわけである。」とある。14ぺでは、「文章ノ客観我ト読者ノ主観
我トノ相抱摂シ、相燃焼スル心境ニ於テ発スル響デアリ、文ト心トノ妙ナル
シンホニーデアル」と書いてある。単なる受け取り読みでなく、読み手主体
の積極的な反応を注ぎ入れた朗読を主張している。

(朗読の定義について)
 普通に朗読法とは
1、文章を声高く読み上げる方法
2、文章を朗らかに読む方法
3、文章を他人が聴きとり得る程度に明瞭に読む方法
或いは少しく詳細にのべたのもには、
4、文章の思想・感情を音声によって表現する方法   2ぺ
【荒木のコメント】
  当時(昭和11)の「朗読」の捉え方が見えて参考になる。朗読の定義に
四つあると書いている。自分等の見解として「朗読といえば「朗」の字にあ
まり重きを置いて、如何なる文章にも、所謂「朗々と、朗らかに」読むこと
のみを以て朗読と考へるのはどうであろうかと疑義を呈している。文章の形
式によっては、余り音吐朗々と唯大声のみを発して読んではよくない場合も
ある。文章の情調に合わぬ場合もあるから極端に「朗」の字に拘泥すること
は避けるべきだ」と主張している。
  そして朗読の定義を次のように簡単にまとめている。
「朗読法トハ言語文章ヲ正確ニ趣味アルヤウニ声音ヲ以テ表現スル方法ナ
リ」と。換言すれば「文章ノ理解・鑑賞ノ心境ノ声音化ナリ」と約言するこ
とが出来る。」と書いている。続けて、日下部教授によれば「文章の意味を
聴者が充分に了解するやうに発表するばかりでなく、なほ文章の力と美とを
も感ずるやうに発表する術である」といふのが朗読法の定義として繁簡宜し
きを得たものなり、と書いている。4ぺ
  他の個所(9ぺ)では、「朗読は「話すように読め」「自然のままに読
め」「お話するやうに極めて自然な心持で読む」と書いてあり、39ぺでは
「正しき発音法、発想法を基礎として、しかも修練された自然性の上にたつ
子供らしき朗読」とも書いている。
  この書物は、岡山師範付属小教師たちの共同執筆のようであり、書き手
によっていろいろな定義というか重点の置き方が違って書いてある。現在、
荒木が主張していることと似たようなことが70年前に既に書いてあり、驚く。
  なお、「朗読」でなく、「朗読法」と書いてあるか、「法」がついた場
合は、朗読の習得の仕方・朗読の学び方や教え方・朗読の技術・朗読教育な
どの意味内容を含めて「法」と言っているみたい。単なる文章を声に出して
読み上げる・内容表現する、というだけでない、みたい。この「朗読法」の
使い方は、明治前期から昭和前期まですべて上記した内容と同じである。

(素読について)
  素読は一名機械的読方と言はれるものである。別に意味を考へずに文字
のみを辿りて読んでゆくのである。単に文字を音声化するだけの読み方であ
る。これは論理的読方(正読)の審美的読方(美読)に入る一段階として又
単音や、語句文章の音声そのものを明確に発表する修練のためにも、全然意
味のないものではないが、併し小学国語読本を対象とする場合、単なる機械
的読方としての素読を設ける事はどうであらうか。表面は機械的な読み振り
になっていてもその内面は論理的乃至は審美的な読方になっていると観るの
が妥当であり、又事実、解釈学等に於いて文章読解の第一段階に於いて此の
通読を行わしめる際の同名の素読は、正読、美読と目的を一つにしているの
である。外形的にも若しかかる世界に止る読み振りがあったならば、早くそ
の域を蝉脱せしめて、ほんとの文を読む心にふさはしい読みの本道に誘導し
てやるべきである。かくの如く「素読」といふのは、文章の解釈理解を目的
とせずして単に、文字そのものだけを読むことをいふのであって、朗読とい
ふのは、単なる文字面の音声化にあらずして、その文章を理解し、文意を把
握して、その主題に触れて、論理的に或いは審美的に味読するわけであるか
ら、素読より一歩深めたものであって、その「読み」に工夫を技術を必要と
するものである。   12ぺ
【荒木のコメント】
  明治・大正にも、機械的読方→理解的読方→審美的読方という上達段階
の主張があった。小山忠雄・佐々木吉三郎・奥野庄太郎・秋田喜三郎などを
ネーミングは違うが紹介してきた。ここでは、機械的読方(素読)→論理的
読方(正読)→審美的読方(美読)という上達段階があると書いている。こ
こでの特色にひとつは、機械的読方が「意味を考へずに文字のみを辿りて読
んでゆく」つまり「素読」の音声化を指していることだ。こういう意見が主
張されることは、まだまだ意味内容も考えないで文字面だけを声にしている
素読を繰り返す音読が普通に行われていたということだろう。江戸時代の素
読指導がまだ昭和の教室で実施されていたということである。
  34ぺには、素読→正読→美読即発音読→理解読→鑑賞読という、三者を
一括して黙読に対して音読という、の文章記述もある。

(暗誦について)
 
 暗誦は、素読もし、朗読の域に達して、充分その文章がマスターされた
後にはじめて可能なのであって、しかも暗誦に値する文章とは既に朗読され
た文章中特に形式、内容共に優れたものであることを条件とする。勿論拙い
文章は朗読する必要もないかもしれぬ。優れた文章を暗誦することはやがて
は、そのものを完全に自分のものとすることになるのである。 13ぺ
【荒木のコメント】
  暗誦に値する文章、暗誦に値しない文章がある、値しない文章を暗誦さ
せる愚はやめよう、ということが書いてある。 
  ここの文章の言いぶり・書きぶりでは、暗誦は朗読の域の達したら行わ
れるべきだという主張である。拙い文章、優れた文章という条件設定が出現
していることが新しい。まだ「暗誦」「素読」が生きている教育現場がある。

(音読と黙読との関係について)
 「黙読」が意味収得を目的とするのに対して「朗読」は意味表出を目的と
する点に於いて相異する。また実験心理学の証明する処によれば「音読」は
如何に訓練しても「黙読」の習慣は養えないとされている点から考えても、
「音読」と「黙読」とは全く異なる操作であることも肯定できよう。3ぺ
  幼児は目より直ちに意味を読みとる視覚的な読書は殆ど不可能であって、
これを強いて、黙読に依らせようとするならばそのために子供は遊んでしま
うことになる。低学年にあっては方便としてどうしても音読によらなくては
ならない。また発音の指導、アクセント矯正、話述練習等の言語的陶冶を指
導する上から言っても音読の存在理由とその価値は没すべからざるものがあ
る。更にまた、音読に於いては文のもつ意味以外にその感情をも味得するこ
とが出来るのであって、文の種類によっては意味よりも感情を主とするもの
があり、又韻文の如く、ある種のリズムとメロディーに依拠するものがある
のであって、これらを読みは黙読によってだけでは満足できないものがある。
必ず音読に訴えて、鑑賞の深化をはからねばならないのであって、そこに音
読としての朗読の意義がみとめられその価値・要素が考へられてくるのであ
る。音読・黙読は対照的立場のものであって、両者の適切な作用によって読
みの作用は円満に運ばれてゆくわけである。35ぺ
【荒木のコメント】
  ここの文章前半は、荒木と意見を異にするところが多い。「黙読」が意
味収得を目的とするのに対して「朗読」は意味表出を目的とする、とあるが、
わたしは両者とも意味収得もするし、意味表出もする、重点の置き方が大き
く違う、ということだろうと思う。黙読だって、内耳・内聴・内言において
は意味表出をしている。「朗読」は意味収得をしつつ意味表出をしているの
だ。「黙読」だって意味収得だけでなく、意味表出をしている。
 「音読」は如何に訓練しても「黙読」の習慣は養えない、と書いてあるが、
わたしは、高次の黙読能力は音読を繰り返すことで養える・高められるとい
う意見だ音声表現の練習を繰り返すことによって、黙って読んでいる時でも
頭の中にぴったりした音声を浮かべて読む(黙読する)ようになる、という
ことだ。。
  幼児には音読を、低学年にも音読を、には大賛成だ。そこで発音、読み
癖、語り癖、アクセン矯正などの話述練習等の言語的陶冶を指導する、とい
う意見にも大賛成だ。「音読に於いては文のもつ意味以外にその感情をも味
得」し、その感情をある種のリズムとメロディーに依拠しながら音声表現し
ていく、という意見にも大賛成だ。

(記号づけ指導について)
 
読本の句読点は意味の区切りであって、読み方の区切りとは必ずしも一致
しない。ここでは一本線、二本線を用いて読み方の短い休止、長い休止を示
すことにした。 
 読み方には速度を考へなくてはいけない。ここでは右脇に小さい活字で
「平らな調子で」「元気よく」「悲しそうに」などと書いてあるからその気
持ちを表現して読んでほしい。決して棒読みにしてはならない。
 文の中で特に重要な語句は当然強めて読まなければなりません。棒線を右
側に添えた語句は他の語句よりも、力を入れてはっきりと、読むべきである。
 調子の上げ下げを特に示す所は、→ ←の符号であらわすことにした。要
は文の内容を充分生かすことである。120ぺ
【荒木のコメント】
  記号づけした文例も示されている。本書にある記号づけ例をここでは写
真掲載にして示せばよいが、荒木の書物や論文のあちこちで記号づけの例示
はあふれているので、またここでは同じなので省略する。ただし、記号の種
類は荒木の方がずっと細かい。
  驚くことは、昭和11年に出版されたこの本に音読の記号づけ指導が書
かれており、教室で実践されていたということである。たとえば、題名「大
江山」の冒頭では「大江山に しゅてんどうじ と いふ鬼が いて 時々
都に 出て 来ては 物を 盗んだり 女 や 子 ごも を さらったり
しました 都は 大さわぎ です」という文章個所には、
「大江山」の右側に小文字で「お話の様にゆっくりと」と書いている。「し
ゅてんどうじといふ鬼が」個所に棒線が引かれている。棒線は強調して音声
表現する記号である。「大さわぎ」個所に小文字で「混乱の様を表して少し
速く」と書いてある。「鬼がいて」と「出て来ては」の下に一本横線の間あ
け、「さらったりしました」と「大さわぎです」の下に二本横線の長めの間
あけ記号がついている。



昭和12年刊・大西雅雄『朗読の原理』より
 大西雅雄『朗読の原理』(不老閣、昭和12)は、昭和15年に『朗読
学』と書名を代えて修文館から再版されている。原理論であるので教師向き
の引用個所は少なく、以下に目次のみ書き写すことにする。
第一章 朗読の意義
第二章 言語の抽象作用
第三章 言語の具体化作用
第四章 言語中枢の機能
第五章 音声化作用
第六章 音声形態
第七章 朗読材料
第八章 音声化の様式
第九章 朗読教育
第十章 朗読技術
付録  オブライエンの読み方教育研究



昭和12年刊・石山脩平『国語教育論』より
 下記は、石山脩平『国語教育論』(成美堂書店、昭和12)からの引用で
ある。荒木が勝手に小見出しを付けている。
(形象について)
 
 形象とは「かたちづくられたもの」の謂であって、これを文について言
へば、「文の形式によってかたちづくられた想内容」に外ならぬ。
  形象は解釈の全段階を通じて不断に求められているのであるから、通読
に於いても概略の形象は捉えられたわけであるが、今や精読に於いて一層厳
密に其れを捉へるのである。形象の理会はそれ故にまた無限の課題であって、
吾々は刻刻に形象を捉へつつも、完全なる形象はつひに永遠に捉え得ないの
である。
  「形象の読方」はその目指す深みに益せられながら、一方また形象概念
の神秘的曖昧さに禍されて、読方教育に功徳と弊害を与えた。形象概念を平
明清透ならしめ、正しい読方教育にそれを役立たせることは、今もなほ吾々
に残された仕事である。187ぺ
【荒木のコメント】
  垣内松三氏の「作者の生命の流動が文として産出され、その無形の生命
が有形の流動している形象」という形象理論の読方教授論に「形象概念の神
秘的曖昧さに禍されて、読方教育に功徳と弊害を与えた」と軽いジャブを入
れている。いや、随分と重いジャブである。「神秘的曖昧さ」は、現場教師
たちの実際指導に大きな混乱を与えたと思う。奥野庄太郎氏は「かうした内
容探究主義は実に非児童心理的な姑息な一方法であって」と書いてあること
は既に昭和前期(1)で引用している。
  なお、垣内氏においても石山氏においても「理解」と「理会」とは違っ
た概念内容になっており、「理解」は表面的な分析的理解をさし、「理会」
は本質的な理解、内面的な深い理解をさしている。

(素読について)
 
 解釈過程の第一段階は「通読」である。この段階の仕事として(1)全
文の素読。(2)未知難解の文字語句の注解である。
  素読とは、未知難解の文字語句を飛ばして読み得るだけを読み、端的に
内容をつかみ得るだけをつかむことである。往昔の「漢文素読」は内容をつ
かまうとせずに、唯訓読だけを行ったのであるが、「国文素読」は内容をつ
かまうとして読めるだけ読んだのである。ここで素読とは勿論「国文素読」
の仕方に於ける素読である。161ぺ
【荒木のコメント】
  石山は、江戸時代の素読を「漢文素読」と名付け、それとは違う「国文
素読」は教育的価値があり、自分の指導過程に取り入れたと主張している。
自分の使っている「素読」とは「国文素読」のことなり、「漢文素読」は排
除している、と言って、従来からの「素読」を使っている。これは紛らわし
い。「国文素読」を使って、「素読」は使うべきでないだろう。なかなか
「素読」の単語使用から抜けきれないでいるところが、荒木にははがゆい。
  これは石山氏だけでなく、これまで本稿シリーズで登場した執筆者たち
は「わたしの[素読]は江戸時代の[素読]とはここを違えて使用してる」と但
し書きを加えて[素読]の単語を使っている。すぐ思い浮かぶのは西尾実氏の
[素読]である。だれの[素読]の概念内容はこうだと、一人一人が違っていて
分かりにくい。

(味読段階と朗読指導)
  通読段階に於いて文意を概観した程度では、読者は未だ作者を遠く眺め
て大体のねらひを定めるだけであるが、精読段階に於いて作者に肉薄しそれ
と合体する。しかしその合体の境地を味わいつつ真に彼我融合の動きを辿る
のは味読段階の仕事である。
  精読によって解し得た所を、更に身にしめてそれに浸り、人にもそれを
分からせるといふのが味読段階の仕事である。私はこの仕事を目的から見て、
(1)読者が文の内容を自ら味わい楽しむこと、(2)読者が作者と一体の
境地に浸ること、(3)読者が作者に代わって文の内容を第三者に伝達する
ことの三方面とし、これらの目的を果たすための仕事の種類として、(1)
朗読、(2)暗誦、(3)演出、(4)感想発表を挙げたいと思う。188ぺ
  味読を心理的に見るならば、何よりも情調に浸り漂ふといふ趣が前景を
占める。主題の如きは今更に探索せずとも、既に自明のものとなって意識の
第二層を流れ、事象の如きもそれを把握するための悟性を窮屈に働かせなく
ても既に知り尽くされた事柄として、これまた意識の低層に沈み、唯情調だ
けが、愈々鮮明に意識の前面を占め、自我は謂わばこの情調に漂い流れると
いふのが味読の境地である。189ぺ
  朗読の自然の発展は暗誦である。完全な朗読にあっては、文字面から来
る視覚は殆ど意識せられぬほど微弱なものであって、実質的には暗誦に近い
ものである。故に朗読から暗誦への移行は自然に行われる。文字なかりし以
前の「よみ」はすべて暗誦であったことを思へば暗誦から朗読へといふ途は
文化史的経路も考へられる。192ぺ
  朗読と暗誦とは所謂「誦」の世界であり、想内容の音声化の作業である。
本来「よみ」の世界には「賦」(創作)と「読」(解釈)と「誦」(朗誦)
との三方面があり、それが互いに関連して、どの一つにも他の二つが含まれ
ていることは、畏友石井庄司君の近著『国文学と国語教育』の根本思想であ
る。「誦」としての「よみ」の世界は、朗誦の世界であるが、それによって
同時に作者の真意が読み取る所の読解作業と作者の創作を追創作する所の創
作作業が行われるのである。193ぺ
【荒木のコメント】
  情調の感得について石山脩平はこう書く。「通読に於いて全体として感
得した情調が、精読では部分部分について微細に味わわれ、基礎づけられ
る」これが味読段階になると「主題の如きは今更に探索せずとも、既に自明
のものとなっている」「悟性を窮屈に働かせなくても既に知り尽くされた事
柄として、意識の低層に沈んでいる」「唯情調だけが、愈々鮮明に意識の前
面を占め、情調に漂い流れる」状態だと書く。そして、この状態の中で朗
読・暗誦の指導へ移るいう段取りである。
  だが、朗読指導にはここから先の音声化技術の指導方法が必要だ。思い
はあっても、技術が伴わなくては上手な音声表現とはならない。これについ
ては何も書いていない。味読段階になればひとりでに上手な朗読ができるも
のという安易な考えがある。荒木は通読・精読・味読の三読法の指導過程で
は指導しない、一読法で指導してるが、三読法であっても通読の初期段階か
ら実際の音声表現指導・音声化技術指導を取り入れつつ読み深め指導をして
いくべきだと主張しているし、実践してきた。
  石山脩平氏は次のようにも書いている。「田中豊太郎氏の言はれる如く
真によい文であり、また子供の程度に適っているものであれば、暗誦ができ
るまでにその文に親しませて行くことを目指す外はあるまい。私はしかし小
学国語読本の教材はその全部をすべてを児童に一度は暗誦させることを理想
として強調したい。そして暗誦に値するほどの模範的な文を以て読本に満た
したいと願っている」(190ぺ)と。これを読むと、石山氏は子どもへの暗
誦教育にぞっこん惚れ込んでいることが分かる。

(朗読と暗誦について)
 
 自ら味わい楽しみ、作者と同一の境地に浸るといふだけでは、国語生活
の社会性が読者と作者との間だけに限定せられていて、それ以上に拡充せら
れない。それを拡充するのが即ち第三者への伝達である。読書の楽しみに耽
るのもいいが、その楽しみを第三者にまで分かつ場合に読書の社会的意義は
加重せられる。味読の仕事として挙げらるべき朗読・暗誦・演出・感想発表
等は、実はかうした第三者への伝達を目指すことによって充分にその意義を
発揮することができるのである。191ぺ
  朗読の自然の発展は暗誦である。完全な朗読にあっては文字面から来る
視覚は殆ど微弱なものであって、実質的には暗誦に近いものである。故に朗
読から暗誦への移行は極めて自然に行われる。192ぺ
【荒木のコメント】
 「読書の楽しみは第三者への伝達である」と書いている。当時は「読書は
他人に伝達する」が通常だったのだろうか。源氏物語や平家物語の時代は文
字の読めない人々が大多数だったので、一人の読み手を囲んで多数が語り聞
かせられて文学を享受した方式が通常だったわけだが、昭和10年代もこれが
普通に行われていたのだろうか。そうは思えないのだが。
  平成の現在は、読書の楽しみ方は一人の個人の個人的な密室の密かな黙
読での享受が通常である。石山は「朗読の自然の発展は暗誦である」とも書
いてある。平成の現在では、これも読書の通常の楽しみ方でない。昭和10年
代も現在とそんなに変わらないのではと想像するのであるが、どうなんだろ
う。

(味読段階の朗読・暗誦・演出・感想発表について)
 
 味読段階の仕事の種類として、朗読・暗誦・演出・感想発表の四つを挙
げた。この外にもなほ同じ趣旨による仕事が見出されるかも知れない。また
これ等の仕事は、すべてを必ず課せよとの意味ではなく、必要に応じてその
中のどれかを課すべきである。朗読だけで十分のこともあらうし演出に最も
適合した教材もあらうし、感想発表を強いては却って感興が覚めるといふや
うな場合もあらう。実践形態としては、仕事の種類を選びその方法を考慮し
なければならない

【荒木のコメント】
  石山脩平は本書『国語教育論』刊行の2年前に『教育的解釈学』を刊行
している。この書物には次のような解釈学的な指導過程を書いている。
通読段階──素読・注解・文意の直観
精読段階──主題の探究・事象の精査・情調の味得または基礎づけ
味読段階──朗読・暗誦・感想発表
批評段階──内在的批評・超越的批評

  この四段階の最後「批評段階」について、『国語教育論』になると、彼
の主張は若干変更を加えている。読者から種々の批判意見があったのかどう
か分からないが、『国語教育論』には、四段階から批評段階を省くことを認
めている記述がある。
 『国語教育論』の202ぺに以下のように書いている。
 
『教育的解釈学』においては批評段階を、解釈実践過程の最終段階とし
て説いたけれども、これは本来解釈でないから、今は取りなして取り扱うこ
とにする」(196ぺ)と書いている。そして「私の論述した内容は実に多く
の仕事を含んでいて、その全部を、そのままの順序で果たすことは、限りあ
る授業時間内に於いて到底ふかのうであらう。私の列挙した仕事は、謂わば
望ましい注文を贅沢に並べたものであって、実践家はこの中から適宜にどれ
かを採択し、必要に応じて変更したり圧縮したりしながら、融通自在に活用
して頂きたい。

  現場教師たちかの実践経験による意見・反論を受けたのでしょうか。
実践家はこの中から適宜にどれかを採択し、必要に応じて変更したり圧縮
したりしながら、融通自在に活用して頂きたい」
と書いている。二年後にこ
うした変更記述をのべている。学者的良心を称賛したい。
  以上のような石山氏の三段階指導過程をはじめとして、これで現今、平
成の学校現場で多くの教師たちが利用している読解指導過程の三読法が骨格
が強固にできあがることになる。全体から部分への三段階の読解指導過程の
骨格ができあがることになった。次の三者の読解理論は大正期から現在まで
の国語教育に大きな牽引力となって影響を与えてきた。
垣内松三………直観→自証→証自証
西尾実…………素読→解釈→批評
石山脩平………通読→精読→味読



昭和16年・国民学校制度の施行
  昭和16年3月、小学校令が改められ、新たに国民学校令が施行された。
小学校は国民学校と呼ばれるようになった。国民学校令の第一条に「国民学
校ハ皇国ニ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為ス」とある。
いよいよ「教育勅語ノ旨趣ヲ奉戴シ皇国ノ道ヲ修練セシメ国体ニ対スル信念
ヲ深カラシメル」という大東亜戦争への挙国一致の教育が始まることになる。
  決戦下を勝ち抜き、戦い抜く超国家主義思想や軍国主義思想の国民的思
考感動の教育が始まる。すべては皇国への教育で、各教科教育とならんで、
団体訓練・奉仕活動・生産作業にかりだされる教育が始まる。小学生は「少
国民」と呼ばれ、前線兵士の銃後を守る教育がはじまる。子どもはただの子
どもでなかった。小さいながら国家の一員として国難を背負う「少国民」で
あった。学校教育は「大東亜建設の兵士をつくる」「大東亜共栄圏の指導国
民の基礎的練成をする」が要請され、「皇国民練成の道場」となった。教師
たちによる独創的な研究活動は歓迎されず排除された。
  従来の小学校の教科は、国民科(修身、国語、国史、地理)、理数科
(算数、理科)、体錬科(体操、武道)、芸能科(音楽、習字、図工、裁
縫)に再編成された。国民科は「国体の精華を明らかにして、国民精神を
涵養し、皇国の使命を自覚せしむる」教科となり、国語科は「日常の言語を
習得せしめ、その理解力と発表力とを養い、国民的思考感動を通じて国民精
神を涵養する」教育となった。「サイタ サイタ サクラガ サイタ」が日
本精神と結び付けられて教えることとなった。やがて「ヒノマルノ ハタ 
バンザイ バンザイ」の教材文が出現する。忠臣、義士、教材文として軍人
の伝記や物語が多く取り上げられた。
  皇国民の練成教育、心身一体の教育として児童体育がことさらに強調さ
れ、集団行動と団体訓練による心身練磨の教育が厳格に行われた。天皇制絶
対主義国家を支える原理である教育勅語の暗誦教育も身体練磨の教育の一環
であった。
  教育勅語の暗誦教育は、わが国の暗誦教育に大きな汚点を残した。国民
学校の暗誦教育についての詳細は、本HP「名文の暗誦教育についてのエッ
セイ」章の「明治20、30年代における暗誦教育」「明治20、30年代における
暗誦教育・補遺」にくわしく書いてある。本爛にも書くべき素読・暗誦教育
の内容だが重なるので省略する。



昭和17年刊・榊原美文『国民詩朗読のために』より
 下記は、榊原美文『国民詩朗読のために』(日本出版社、昭和17)から
の引用である。
 
 大東亜戦を完遂するためには、何よりも国民の士気の高揚が大切です。
詩、なかんずく国民詩、の精神を、国民の間に澎湃たらしめねばなりません。
(略)国民詩朗読運動は、このためにこそ起こり、このためにこそ活発に行
われねばならぬのであります。
  国民詩の八区分
(1)祖国を讃える(国威を仰ぎ、身を国に捧げ、祖国讃頌の詩)
(2)日本の決意(大東亜建設に敢然と立ち上がった気迫をうたう詩)
(3)新体制生活へ(一億国民が一つの火の玉となり結束する頼もしい詩)
(4)いざ往け勇士(出征と凱旋、送る者と迎える者、総力戦への決意)
(5)凱旋を迎えて(英霊の凱旋、白衣の勇士の凱旋、切々たる至情の詩)
(6)戦場にうたう(戦線の血と硝煙の中で綴った詩)
(7)皇国母子頌(皇軍将士を生み育てた母の誇りと意気をうたった詩)
(8)銃後のをりをり(銃後にある人の感懐をうたった詩)
【荒木のコメント】
  この本が出版された昭和17年は、真珠湾奇襲から一年後、この年の六
月にはミッドウェー海戦で連合軍の反撃にあい、日本軍の苦戦がはじまった。
大日本帝国は神国であり戦争に負けることはない、一丸となって戦い抜こう
のスローガンのもと、学校では戦意高揚の教育がますます熾烈になっていく
ようになった。超国家主義と軍国主義的精神の鍛錬教育が強化されていった。
兵器、弾薬の補給もままならず、食料も生活財もことかく生活状態となる。
国民学校の児童たちは銃後を守る戦線参加教育となる。高等科児童は軍需工
場や食糧生産の田畑仕事にかりだされ、初等科児童も校庭が畑となって耕す
仕事に精を出すこととなった。
  榊原氏が書く国民詩運動の「国民詩」とは、八区分を読めば分かるよう
に戦争賛美詩、戦争協力詩、戦意を鼓舞する詩のことであった。彼は当時、
大阪市立中学校の教師であり、戦意を高揚する教育には愛国詩の群読や集団
朗読の指導が効果的だと主張し、この本の中で自らも愛国詩の群読を熱心に
指導した写真や事例を報告している。
  群読と集団朗読との違いは「群読は数人位で行はれるのが普通でありま
すが、一方は数十人乃至数百人による群読もあります。特にこれを集団朗読
と呼んでおきましょう」と書いてある。

国民詩の朗読形式に着いて次のように書いている。

  国民詩の朗読形式については、単読・対読・群読の三種類が考へられま
  す。
単読 単読とは、一人で朗読する形式で、特にこまかい感情の動きを表現し
   た詠嘆的ね作品などは、この形式によるべきであります。この形式が
   いちばん多く用いられていますが、これが、いちばんむずかしい朗読
   形式だらうと思はれます。
対読 対読は、二人で朗読する形式で、大体掛け合い式に一節づつ交互に読
   むのが普通でありますが、一部分だけは一緒に読むのも変化があって
   よろしい。
群読 群読は、少人数ならば四五人、大人数ならば数十人数百人によって朗
   読する形式であります。
   群読は、声楽に於ける合唱と同じことで、声音に立体的な美しさと力
   強さとの生ずるところが生命です。
    これは、詩の内容によって、各自の朗読部分の分担を、いろいろに
   工夫することができます。
群読の効果
    少人数の群読は、単読乃至対読によるべき詩に、応用してもよろし
   い。初心者は、一人で読みますとどうしても、間をおかぬために速く
   なり、高低強弱等の変化もつけにくいため平板になりやすいやうです。
   これを救済する方法としても、具づを用いることが望ましいのです。
   さうすれば、声を揃えて読んだり、又は、朗読者がいろいろに交替し
   たりするために、自然と全体的な緩やかさと間とが生じ、さらに、高
   低強弱の変化も、朗読者の数を部分的に増減することによって、至極
   容易にその実をあげ得るのであります。
    なお、詩句の特に強調すべき部分だけを、繰り返して朗読するとい
   ふ方法が、よく用いられますが、なかなか効果があります。33-34ぺ
集団朗読
    群読はかやうに数人位で行われるのが普通でありますが、数十人乃
   至数百人による群読もあります。特にこれを、集団朗読と呼んでおき
   ましょう。
    多人数が集まった場合、それらの人々に力強い国民詩朗読を聴かせ
   るということは、全員の気持ちを一つに纏めるのに相当の効果があり
   ますが、より一層効果的なのは、全員自らに声を出させることであり
   ます。みずから高らかに声を出すことにより生ずる肉体的刺激と、そ
   れらの声が一つに相合することにより生ずるる集団的興奮が、特に効
   果的に、集団的雰囲気の高揚をもたらします。
    かういう意味から、集団朗読といふ形式は、今後ますます重視され
   ねばならぬと思います。37-38ぺ
[荒木のコメント]
  榊原氏はこう書いている。
 「群読は、少人数ならば四五人、大人数ならば数十人、数百人によって朗
読する形式であります。群読は、声楽に於ける合唱と同じで、声音に立体的
な美しさと力強さとの生ずるところが生命です」
 「詩句の強調すべき部分だけを繰り返して朗読する方法がよく用いられま
す」
 「全員の気持ちを一つに纏めるのに相当の効果があります」
 「みずから高らかに声を出すことによる聞く肉体的刺激と、声が一つに相
合することによる集団的興奮が、特に効果的に、集団的雰囲気の高揚をもた
らします」と書いている。
  声を一つにして集団的興奮の効果を高めるものとして銅鑼やタイコを使
い、また生徒にメガホンを持たせて叫ばせたとあります。銅鑼やタイコの打
ち方の調子やメガホンの上げ下ろしによって音声の出だしや終了の合図とし
たとあります。愛国詩には、音読記号が付けられていて、休符記号として、
黒丸が「ちょっと息を切る」、横線一本が「息を吸う」、横線二本が「ゆっ
くりと大きく息を吸う」など指導上の工夫が見られる。
  彼が指導した国民詩朗読・群読のCDを聞くと、学級全員、学年全員、全
校生全員が大声で声を揃え、一斉に叫んでいるだけです。一斉に愛国詩を集
団で朗読させ、それで心を一つにして団結させ、「挙国一致」「一億一心」
へ導びく効果大の指導法であった。生徒たちを「集団的興奮」にまきこみ、
「集団的雰囲気の高揚」という集団催眠にかけ、を戦場へ戦場へと送り出す
こととなった。
  ある一定の身体的動作を繰り返し重ねて身体に埋め込む教育方法は、ス
ポーツの技術習得には効果を発揮するが、特定の思想を身体に埋め込むため
に繰り返しを重ねる鍛錬教育は、一歩間違えば危険極まりない思想教育に陥
ることになる。そうした紙一重のはざまにある鍛錬教育、暗誦教育だという
ことを教訓として学ぶことを忘れてはならない。
 (榊原美文『国民詩朗読のために』については、拙著『群読指導入門』
(民衆社、2000)に詳述している。重なるので、ここでの記述は、これぐ
らいで留めることにする。)

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