音読授業を創る そのA面とB面と       11・6・23記




 
明治以降の素読・朗読の変遷史(昭和期前編)




 
昭和期は、昭和ひとけた年代を昭和期前編、昭和十年代を昭和期中編、昭
和二十年以降を昭和期後編と名付けて掲載している。便宜的な名付けと区分
でしかない。
  昭和期全体を総て一枚にして掲載するとダラリと下方へナガークぶら下
がってしまう。文章が読みにくくなってしまうので、三つに区分けしている。
昭和期全体を敗戦を境に戦前と戦後とに区分けして、戦前期がまだ長すぎる
ので、戦前期を昭和ひとけた年代と昭和十年代とに分けている。ひとけた年
代を前編、十年代をを中編、戦後以降を後編と名付けた。全くの機械的な区
分けにしか過ぎないことをお断りしておく。



昭和4年刊・西尾実『国語国文の教育』より

 下記は、西尾実『国語国文の教育』(古今書院、昭和4)からの引用で
ある。この書物は、直接に朗読・音読に関する記述はないが、彼の読解指導
の三階梯の一つに「素読」が位置づけられ重要視されている。ここでは素読
についてだけ引用する。次の三階梯を主張している。
  1、素読──全体的直観
  2、解釈──反省判断
  3、批評──純粋直観・価値判断

 これら一つ一つの解説を紹介すると長くなるので省略する。第一階梯の素
読についてだけ書くことにする。

(素読について)
  素読は近世の藩学及び寺子屋の教育において主として行われた漢学教授
の一法式で、弟子はまず教材の一単元を師匠なり兄弟子なりに倣って音読し、
次に退いて各自に反復し、暗誦の程度に至れば師匠の前で音読し、誤りがな
ければ次の単元に進み、かくして一巻を終るという方法であった。例えば論
語の素読を終ったといえば、それがその人の教育程度を示す標準になるほど、
独立した課程とされた。57ぺ
  明治の教育は、この長年行われた教授方式を弊履のごとく棄て去った。
何故にしかく容易に棄て去ったかといえば、わずか七、八歳の児童に論語を
授けたところでその内容は到底その年齢の子供の理解に堪えないからで、新
しい教育がすでにその教材を児童の心理に準拠して選ぼうとする以上、そう
いう不合理、不自然を維持する必要がなくなったからというにあった。
  しかしながら、この新教育も、その半世紀にわたる経験とそれに伴う反
省から、再び我らを誘って、この古色蒼然ともいふべき素読教育の上に新し
い考察の眼を向けさせるに至った。(略)素読にはさらに他に忘るべからざ
る重要な意義が存する。58ぺ
【荒木のコメント】
  江戸時代の素読指導と明治時代の素読指導について簡明にまとめて書い
てくれている。ただ明治の教育が素読を容易に棄て去ったと言えるかどうか
は問題だ。本稿・明治期の学制の教科目と指導法を読んでいただければ必ず
しも西尾氏のように断定はできないと思う。西尾氏が書いてる「棄て去っ
た」理由は正当な理由だと思う。
  西尾氏は、古い素読に、新しい精神を入れての新しい素読の指導を主張
する。「素読には忘るべからざる意義がある」と書き、素読に新しい機能を
持たせ、素読指導の意義を述べている。

(直観重視の素読指導を)
  理解の基礎として直観を重視し、解釈の出発を直観に置こうとする教授
体系が説かれて来たけれども、教授の実際においてはなお十分の成績を挙げ
得ず、また所説の内容においてその徹底が見られないのは何故であろうか。
  この如き教授体系は、わが国においては、明治以前の教育においてすで
に久しく実施せられ来ったところであって、欧米各国が精細な批評学解釈学
を成立せしめようとしつつあった時代においてわが国では素読・講義の体系
が根強く実行されつつあったことは、意味深く回想されねばならぬ対照であ
る。古人が「読書百遍而義自見」といったのは、読みから来る直観の意義深
さを示すものでなく何であろう。61ぺ
  しかしながら、今ここに国語教育の根本問題として、この体系を新しく
考えようとするのは、いたずらにその形骸を反復せんがためでなく、その精
神の根底に立ち、新たな意義を生かそうと志すものである。
  かくて、まず旧素読について改良せねばならぬことは、読みの作業の中
へ、簡単に読みの補助としての語義の解釈を加えることである。難語に対す
る辞書的解義を読みの補助作業として加えることは、読みの作用を有効なら
しめる上に非常に必要な要件である。61ぺ
  素読において得た直観は、まず何よりも文体句読の如き全体的情意的傾
向を基調として主題を仮定し、構想を発見し、一語一句から文法用字の微に
至るまで味読するに至って、始めて真に主題が確定せられ、そこの全形象が
直観せられる。75ぺ
【荒木のコメント】
  読方指導の初めには、文生命の直観をすることが重要だと強調している。
ところでこの本が発行された昭和10年当時の学校教育の読解指導では文生
命の直観教授が不十分であったのだろう。だから、「文生命の直観教授」に
はもっと素読指導が重視されなければならないと主張している。
  江戸時代の素読指導は、意味内容を教えないので、論語が読めても、論
語の意味ば全然分かっていない「論語読みの論語知らず」の教育であった。
文章内容とは切れたところの語句解義ばかりだった。、そうではなく、文全
体の全体的印象を情意的に獲得させる、解釈と批評の基礎としての直観教授
を確立させなければならない。そのために「素読」に新しい機能を持たせる
必要がある。全体的直観を成立させるのに必要な限りで、簡単な辞書的
解義を読みの補助作業として加えつつ素読を繰り返させる指導をしなければ
ならない、と主張している。繰り返し素読をさせて難語句の意味内容を深く
探らせるわけであるから精読に限りなく近い素読ということになる。
  次に素読における直観を基礎として反省判断をする解釈の第二階梯へと
進む。これは主題を仮定し、構想を見極めていく指導になる。最後の第三階
梯は、純粋直観として価値づける解釈の完成段階となる。

(文理解における知的作用と情意的作用)
 
 文の理解における知的作用と情意的作用との関係においても、素朴的に
は、知的作用がまず営まれて、その上に情意作用が行われるというように考
えられるけれども、内省の事実はむしろその反対であって、文に対する感情
的判断が先行し、これが基礎となって知的判断が発現するものである。幼児
の言語生活において、彼等が用語の知的内容は未知のままに、あるいは不確
実にままに、情意的には正しい表現を自由に大胆に試みていることは著しい
事実であって、この言語に対する情意的適応性が基礎となって、やがて知的
内容の獲得が成立するものである。ただに心理的発生的事実においてのみな
らず、理解作用の本質においても、知的分析的理解は情意的全体的把握の上
にのみ行われるのであって、この知的理解の基礎に存立すべき情意的把握を
看過していたところに、明治時代における国語教育の欠陥が醸されたのであ
った。60ぺ

【荒木のコメント】

  知的作用より情意的作用が先行する、と言っている。直観的な情意的全
体的把握の上に、それを基礎にして知的分析的理解が把握される、と主張し
ている。さあ、すべてがそうだと言えるか。知的に理解したことで、「そう
だったんだ」と情的理解(感情的心理的側面)が浮上してくることもあるの
ではないか。文学形象の読み取りにおいて知的表象がいっそう鮮明になるに
つれて情的理解(感情的心理的側面)が浮上してくるのが通常ではないか。
表象は感情に先行するのが通常ではないか。ということで、この点における
西尾理論にちょっとした疑義を抱いた。もう少し煮詰めて考えてみたい。



昭和5年刊・奥野庄太郎『心理的読方の実際』
より

  下記は、奥野庄太郎『心理的読方の実際』(文化書房、昭5)からの
引用である。

(垣内理論について)
  かうした内容探究主義は実に非児童心理的な姑息な一方法であって、決
して読方の大道ではないといふことに論断されるのである。尋常二年や、三
年の子どもに文生命直感の内容探究主義読方は実に不適当も甚だしいもので
ある。それは常識でもわかる。八つ九つの自分の子どもや、兄弟に「作者
は」とか「この文の生命は」とかいって質問しかかる勇気があるかどうか。
それは反省してみればわかることである。52ぺ
  幼少の児童は読書力がついていないばかりでなく、人生経験も読書経験
も共につんでいないのであるから、内容の事実によって言語を類推したり、
文章の前後の連絡によって、その語句の意義を推定したりすることは出来な
いのである。文字語句語彙の教育を重視しないで、ただ内容の深い説明を行
っているのが今の状態である。読方の実力がつかないのも当然である。28ぺ
  現在行われている読方学習は、教師が中心となる説明敷衍の学習がさも
読方の学習らしく行われている。説明敷衍でない場合は、直観実物教授であ
ったり、抽象概念の文学論であったりする場合もある。兎に角教師中心とな
って長い説明があり児童が画一的に聞く注入教授によって行われている。概
念移入に過ぎない読方学習である。42ぺ
【荒木のコメント】
  芦田恵之助『読み方教授』が大正5年刊、垣内松三『国語の力』が大正
11年刊、後者は昭和13年まで四十版を重ねている。二著は当時の国語教育界
に大きな影響を与えた。だが、昭和5年刊・奥野庄太郎『心理的読方の実
際』には早くもセンテンスメソッドについての批判が書かれている。低学年
にも語句語彙を教えず、一方的な注入指導だ。「非児童心理的な姑息な一方
法」だと決めつけている。と言うことは「児童心理に見合った、即した指導
方法」であるべきという主張でもある。奥野庄太郎氏には、「文生命直感の
内容探究」にストレートに直進するだけの読解指導には堪忍できなかったの
だろう。

(斉読について)
  低学年時代にはよく斉読といふことがあって、内容の意味を考へないで
声と調子だけを合わせて機械的に読むといふことがあるがあれはよくないこ
とである。読方学習においてはどんな場合でも凡そ読むといふときには、必
ず内容の意味を考へながら読むといふことを習慣づけていかなければならな
いのである。これがまた低学年時代における読方学習の焦点である。低学年
の最初から、この方針を立てていないと高学年になって本を読むには読んで
もその内容が一向に分からないといふ子どもができてしまうのである。これ
は意味を読むといふことを指導しないでただ声に出して本を読ますことだけ
をさせていた罪である。読書するといふことは読んで意味の世界に交流する
ことである。その意味が分からないやうでは、それは実際に読むといふこと
にはならないのである。そんな読方を指導していては指導の甲斐がないので
ある。  238ぺ
  すらすらと語を一団として読ます。この事が直ちに知覚距離と認識距離
とを増大していく所以なのである。知覚距離とは、アイムーブメントの一停
止間に見る語の数を称するのであり、認識距離といふのは同じく一停止間に
語の意味の解せらるる数を称するのである。であるからこの知覚距離、認識
距離を増大していくには、文章の一つ一つの文字を離れ離れに見ていくとい
ふ読方でなくて、語を一団として幾つかの語のつながった一句を一単元とし
て読み得るように指導していくことが大切である。さうすれば自然にそれが
知覚距離、認識距離の訓練にもなる。語を一団としてすらすら読むことは、
アイムーブメントのリズムを好調にすることにも非常な貢献があることであ
る。………さうであるのに、この一団としての意味を考へながらすらすらと
読むといふことが指導されていなかった。この焦点を見出し得なかった所に
読む能力の大事な基礎が低学年時代に養われていかなかったのである。これ
が高学年になるに従ってますます大きな欠陥となって、真の読方が熟練され
ず未熟曖昧な読方能力のもとに学校をそつぎょうしてしまう。今迄の読方は
確かにさうであった。   239ぺ
【荒木のコメント】
  読み方学習では、内容の意味を考えながら読むことはとても重要である。
斉読においては「口だけぱくぱく開けて、声だけ出して、内容を考えてな
い・内容を声に乗せてない読み方になる」から、斉読はいけない、と書いて
いる。荒木は斉読賛成論者である。拙著『群読指導入門』にはCDが二枚付
属しており、そのCDには荒木学級の斉読指導が至る所に出現している。実
際の読み声で斉読の効果を耳にしていただくことができる。斉読賛成意見も
書いている。
  アイムーブメントということを初めて言いだしたのは奥野庄太郎なのだ
ろうか。さすが「心理的読み方」の提唱者だなと思う。語を一団として意味
を考えながらすらすら読む指導の重要さを主張している。のちに眼声距離と
か目声幅(メゴエハバ)とは言われている。奥野庄太郎氏は文字列を目で捉
えている知覚距離のことを言っており、知覚距離の幅を広げる、一団ごとの
移行を速める指導を強調している。そういうこともあるが、目で捉えている
文章個所と、声に出して読んでいる文章個所とは離れており、今、目で見て
いる文章個所は、読んでいる文章個所よりも先を行っている、ということも
アイムーブメントという。

(音読と黙読について)
  低学年の読方では、文字が発音に移されて意味を理解することが多いの
であるが、文字が解り、文字と言語の連絡が児童自身で、よく行うことがで
きるやうになると、発声をかりなくても、直ぐに文章を見て意味の世界に直
進していくことができるやうになるのである。であるから文字力がつくに従
って、黙読が自然に発達してくるのである。それは非常に緊張し、非常に注
意を集中する熟練な読者家の読書が常に黙読に限られていることを見ても、
これを想像することが難くないのである。普通の生活に於いて読むことは、
殆ど凡て黙読である。時々老人が大きな声を出して新聞を音読したりしてい
るのを見かけるが、それらはほんの特殊な例で、実際生活における読書は殆
ど黙読であるといってよい。  245ぺ
  子どもの学習している実際の様子もこれを自然に任せておくと、中学年
頃になって、一心に読書する子どもは皆黙読になってしまうのが事実である。
  読むことの速いものは、その速度に比例して読んだ内容をよく理解して
いるといふことが証明されている。………朗読に比して黙読が速さも理解力
もともに優れているといふことができる。これはたしかにさうであろうと思
う。大いに黙読は読方において重視されなければならない。
  黙読と音読との学習は、どの学年においても並び行われるものであるが、
その割合はいろいろまちまちのやうである。しかし低学年時代に音読が分量
多く行われて、中学年、高学年に黙読が分量多く行われるのが一般的のやう
である。即ち尋常一年では、朗読の分量が多くて、黙読の分量は少ない。そ
れが尋常六年になると丁度その反対といふ割合に黙読が多くて、朗読が少な
くなっている。
  音読と朗読とはその普通に使われている意味が声音に訴えて読むのが音
読であり、同じ音読でも聴衆を対象として審美的に読むのを朗読とされてい
るが、それほど厳密ではなく、普通小学校の読み方の時間に子どもが読んで
いる音読や、朗読を合わせてこれを一口に朗読と称したのである。朗読には
朗読の価値があるので、読方学習の一面として重視されるべき性質のもので
ある。246 ─250ぺ
【荒木のコメント】
 音読の利点、黙読の利点を書いている。「低学年では視覚に触れた文字か
ら直ちに意味を連想することはできにくいので、一度これを声音に移すこと
が必要だ。だから低学年では音読が中心になる。中学年になると文字と発音
の連絡が密になるので黙読の量が次第に多くなってくる」と言う。これはア
イムーブメントの訓練が成熟してくることからも言えるだろう。
  また、音読と朗読との区別では、「意味が声音に訴えて読むのが音読で
あり」、「聴衆を対象として審美的に読むのを朗読」とされている、一般的
にはそうだ、と書いている。が、教育現場では二つを合わせて朗読と言って
たり、両者の区別はあいまいだ、と書いている。この区別は平成になっても
あいまいであると言える。とにかく音声表現の指導は重視されるべきだと書
いている。

(寺子屋・素読授業について)
 
 昔の寺子屋時代の教授にあっては、素読と講義とが刷然と分かれていた。
素読は素読としてこれを行い、素読の出来たあとで、初めて講義を聴くとい
ふ風であった。それは漢学流の行き方で、しかも古い時代のもので、今日の
読方学習には全く参考とならないものである。今日の読方学習において読む
といふことは読んで直ちに意味をとるといふことである。内容の意味をとる
といふことを常に考へながら読むやうに指導されるといふのが今日の方針で
あらねばならぬ。何時の場合においても先行させていくのである。内容の意
味をとるといふことを常に考へながら読むやうに指導されるといふのが今日
の方針であらねばならぬ。素読は素読で行き、講義は講義で行くといふやう
なのは、昔の行き方で今日の能率的、生活的読方にはあり得べからざること
である。
  さうであるにも拘わらず、この状態が時としては往々小学校の読方学習
に現実の姿を現わしているのである。ある読方学習は「この課を読んでごら
んなさい」といって、その読む時には、内容の意味を考へながら読むといふ
ことを少しも注意したり、指導したりしない。そして読むことがすんでから
「之からわからない所をのわけを話しませう」などと言って語句、文章の解
釈をしたりする。夫は講義といってもよいであらう。これでは寺子屋時代の
読方行進をそのまま繰り返しているといはれても仕方がない。この素読と講
義を別々に切り離して学習させるといふ行き方が、結局高学年になってから
文章を読んでも、その内容の意味が解らなといふ結果をもたらしているので
ある。低学年の時代から読む時には必ず内容の意味を考へながら読む。読む
といふことは、意味を取るといふことである観念のもとに、常に指導が行わ
れ、その習慣も出来上がらなければならない。斉読の時ですら意味を考へて
読むことを指導しなければならない。かういふ見解の立てば、現在の読方能
力は必ず一飛躍を遂げるであらうことを信ずる。  46─ 47ぺ
【荒木のコメント】
  奥野庄太郎氏の素読教授批判が書いてある。「素読は素読で行き、講義
は講義で行く」というのはよくない。「内容の意味をとるといふことを常に
考へながら読む」のが「今日の能率的、生活的読方」であると主張している。
それなのにまだまだ昔の素読と講義の切り離し学習が行われていると慨嘆し
ている。



昭和5年刊・遠藤熊吉『言語教育の理論と実際』
より

 下記は、遠藤熊吉『言語教育の理論と実際』(昭5年)からの引用であ
る。遠藤熊吉氏は、秋田県小学校教師でとりわけ標準語教育に熱心に取り組ん
だ現場教師として著名である。

  朗読の根本条件は、『話す様に読む』と言ふことである。文体の如何を
問わず、散文、韻文、詩歌を問わず、談話体に読むべしと言ふにある。朗読
を話す様にすると言ふは、百般の朗読法に適切なものと言ふ訳にはいかない。
けれども我々に於いて、話の様に読むといふ事は、言語生活の普通の姿に接
近させることである。話の様に読むと言ふ事が、言語活動の陶冶に欠くべか
らざる方便であると言ふ見地からで、韻文、詩歌に至るまで話す様に読ませ
るのは、話す様に読む態度を徹底させるためである。
  朗読は兎角誦読の調子に流れ易く、調子によって作られた習慣は容易に
取れない。正しいアクセント、読み方に変わるには大なる苦心を要する。此
の点は発音矯正にも、見逃してならない事で、朗読法がアクセント、発音矯
正に最も重大なる関係を有する所以もここにある。  156ぺ
  朗読は自ら意味が分かり、聴く人にも意味が通じる様に読まれねばなら
ないし、それには話口調にする事が必要であるけれども、吾々の朗読法は、
殊に『ゆっくり、はっきり、高く、しっかり』を目標にし、しかも普通の談
話の調子よりも、速度をやや緩める程度にすることを忘れてはならない。加
之児童が、勢い所謂朗読調子に陥いり易いことに鑑み、朗読は最も厳正を期
さねばならない。一語一語正確に、発音、アクセントを正し、句読に留意し、
調子を整え、語句、文章の意味を明瞭に把握し、又重念して読む等の注意も
忘れてはならない。漫然たる流暢な素読より、拙でも正確な朗読の法が言語
教育にとって重要である。故に朗読に際しては、出来るだけ読本にとらわれ
ない様に注意せしめ、充分耳の訓練を積まねばならない。朗読によって、所
謂朗読の調子に流れない様にすれば、話し方の基本は読み方によって殆ど達
せられる。158ぺ
【荒木のコメント】
 この書物は、勿論発音矯正、アクセント、訛音直しなどについて重点的に
書いてあるのだが、上記引用は朗読に関わる個所を抜き出している。朗読に
ついて書いてあったも、標準語教育の考えが通底していることが分かる。
『話す様に読む』も、『ゆっくり、はっきり、高く、しっかり』読むも、こ
れは音声表現(朗読)の仕方にとって最重要な条件であるが、ここでは標準
語教育の基礎教育としての位置づけからの主張と考えてよいだろう。「話す
様によむ」「談話する様に読む」も、そこからきていると思う。標準語教育
をとりはずした『話す様に読む』『ゆっくり、はっきり、高く、しっかり』
読むは、現今の音声表現指導でも学ぶべきことである。



昭和7年刊・日下部重太郎『朗読法精説』より
  下記は、日下部重太郎『朗読法精説』(中文館書店、昭和7)から
の引用である。当時の現場教師たちの著書を読むと、この書物があちこちに
引用されていることに気づく。まあ、一種のバイブルみたいに教師たちに読
まれていたようだ。

目次
 第一 序説
 第二 朗読法とは何か
 第三 朗読練習の方法
 第四 発音法
     一、発音器官の事
     二、国語音の要素
     三、語音変化の事
     四、アクセントの事
     五、発音練習の事
 第五 表出法
     一、句読
     二、重念
     三、昇降
     四、読み声の高低・強弱・緩急
     五、読み声の高低・強弱・緩急の文例
     六、詞藻と表出法
 第六 朗読法余説
 付録
  一、日本「早言」集
  一、アクセント文例
  一、「五十音図」の研究
  一、朗読法精説索引

【荒木のコメント】
  この書物で「重念」(ちょうねん)という言葉が珍しく目を引いた。今
では使われなくなった言葉だ。今でいう「強調表現」のことだ。日下部氏は
こう書いている。「重念」とは「重く念む」といふ意義の支那語である。英
語に之をエンファシス(emphasis)と呼び、抑揚又は強調などと訳し、或語
をその前後より強く発音することである。しかし重念といふ方が、一層適切
で且称え易いやうに思ふから、此処に重念の名称を用いる」と。

  日下部氏は、西洋の朗誦術(エロキューション)には次の三つがあると
言う。

1、演述即ちオラトリー(Oratory)
 この中には演説や講話や談論や対話などを含み、身振りや手まねを伴う場
 合もある。
2、暗誦即ちレシテーション(Recitation)
 既成の文章を復原することにおいては朗読と同じであるが、文章を見ない
 で行うのである。
3、朗読即ちリーデング(Readinng)
 既成の文章を見てこれを読み上げることである。暗誦は朗読のできた後に
 行われるのであり、演述に熟達するためには朗読と暗誦との素養を要する
 次第である。
【荒木のコメント】
  日下部氏は、朗読は、暗誦と演述(演説)へと発展していく基礎である
と書いている。このような朗読の考え方は、西洋だけでなく、日本でも同じ
である。平安時代には和歌や漢詩が楽器の伴奏により一定の曲節をつけて吟
唱される「朗詠」が流行した。現在でも、詩歌は声高らかに朗詠するのが良
しとされている。落語や講談も、その語りには一定の語り節があり、エン
ターティンメントとしての誇張した身振り、演出が良しとされている。政治
家の演説も聴衆に強い感化性を与える雄弁口調が良しとされている。日本に
は、かつて日常談話と切れた言葉をいかに人工的に技巧的に言表するかとい
う弁論術、朗詠術が流行したことがあった。朗読も、これらと同じように誇
張した節つけ読みが良しとされている。
  そうした音声表現の仕方に対して、もっと素直な、癖のない、意味内容
だけがそっくりとポンと声に出ている、素直な語り口がよいという意見も一
方に主張されるようになってきている。朗読の読み方に於いても、学校での
標準的な音声表現の仕方は癖のない、節がついてない、素直に意味内容が出
ている読み振りがよい、つまり「表現よみ」の読み振りがよい、そうした主
張もされるようになってきています。



昭和9年刊・山内才治『素直な読方教育』より
  下記は、山内才治『素直な読方教育』(賢文館、昭9)からの引用で
ある。

 朗読は出来るだけ文に忠実にしかも素直にしなければならぬ。発音やアク
セントや強弱や、其他種々注意しなければならぬ処もあらうが、要するに意
味の自然による素直な朗読が望ましい。
  この朗読について、西博士がその著『教育と道徳』に斯う言っている。
「最良の読み様は、何の表情もなしに一語一語只忠実に正確に発音せよ。而
して聴者が、自分自身で聴きとり、自分自身で解釈し、自分自身で想像する
様せよ。汝若し作者の意を殊更に示さんとせば、作者と聴者との間に汝と言
ふものを挿む事になり、元来僭越または虚栄の業である」これは朗読の仕方
について、ことにも教師の範読についての戒めと言っていいと思ふが、読方
教育全野に渉る注意、而してそれが、素直な読方教育と言ふものへの裏付け
とも考へられて痛快である。109--110ぺ

【荒木のコメント】
  音声表現は「素直な読み方」でなければならない、と言うことは荒木も
これまで何度も主張している。山内才治は「意味の自然による素直な朗読が
望ましい」「最良の読み様は、何の表情もなしに一語一語只忠実に正確に発
音せよ」と書いている。これは荒木との同じ「素直な読み方」ではあっても、
かなりの隔たりがある。「何の表情もなしに一語一語只忠実に正確に発音」
とは、現在、眼の不自由な人への音訳の読み方と同じである。目の不自由な
人へのボランテア朗読の読み方がそうである。音訳の読み方は、音声表情を
つけることなく、平板にのっぺりに単調に読むだけがよいと言われている。
事実を、感情をこめないで知らせるだけ、あとの受け取りは聴者の自由な判
断にゆだねる読み方である。読み手・語り手の感情に左右されたくない、書
かれている事柄への感情反応は聞き手・聴者の自由な判断だけで受け取りた
い、ということからである。山内氏は「聴者が、自分自身で聴きとり、自分
自身で解釈し、自分自身で想像する様せよ」と書いてる読み方は、現在の音
訳の読み方であると荒木は読みとった。



昭和9年刊・千葉春雄編『読本朗読の実践的研究』
より

 下記は、千葉春雄『読本朗読の実践的研究』(厚生閣書店、昭和9)
らの引用である。この書物は、現場教師たち十名からなる共同執筆の論文集
であり、内容は多岐にわたる。本稿では朗読の定義や具体的な指導方法につ
いて目についた個所から引用する。

(小田正義執筆から)
 朗読とは、発音を正確にし、音節を明瞭にし、声の抑揚を明白にし、優美
で巧みな方法で、文章の意味を十全に聴者に伝えるやうに読むことである。
然し、現今朗読の目的を考えつつ、聴者に文章の意味を伝えるために行うも
のであらうか。成程「勅語奉読」「祝辞・弔辞の朗読」「脚本朗読」「テキ
ストをもつラジオ放送」等、伝達を目的とする朗読である。22ぺ
  実は最近復興してきた朗読指導も、話すやうに読む朗読を繰り返し繰り
返し行わせることによって、話す標準語の教養をしようとしているのである。
書く標準語を普及せしめた国語読本を朗読させることによって、話す標準語
の普及徹底を期さうとした朗読指導の新提唱は、実に卓見である。けれども、
朗読を表現の様態とのみ捉える考えは、もっと実際的に言うなら、朗読は他
人に聞かせるためにするのだといふ考えは、朗読の意義を内容を甚だしく弱
め、朗読指導の機会を迷わせる。23ぺ
  何となれば、朗読指導をするのは通常読方の時間に於いてであるが、そ
の読方指導は理会せしめることを主眼として行う場合が多い。否、理会のみ
に全時間を費やしている者さえ多い。私は朗読を表現するためにのみ行うの
でなく、理会するために行うのであると考えたい。23ぺ
  朗読とは、「読み上げること」であるから、厳密には暗誦や朗詠などと
は区別されなければならない。然し、暗誦は文章を暗記してテキストを持た
ない朗読であり、朗詠は曲節をもつ朗読であると考えられるし、私は暗誦や
朗詠を含めて「朗読指導」たる語を用いている。26ぺ
朗読指導の要点と指導法
1、姿勢・態度の訓練
2、発音の指導
3、アクセント指導
4、句読の指導
5、調子・抑揚の指導
6、速度の指導
上手に読むには
1、おちついて(姿勢・態度)
2、はっきりと(発音・アクセント)
3、くぎりよく(句読)
4、すらすら(読字・流暢)
5、心になって(発想)
この要点は、児童に暗記させておいて、自分の朗読の工夫に、他人の朗読の
批評に、常に用いさせるやうにする。42─57ぺ
【荒木のコメント】
  小田正義氏は、「他人に聞かせるための朗読」「話す標準語普及のため
の朗読」「理会のための朗読」について語っている。昭和9年当時にこうし
たことが問題になっていたことが分かる。また音読指導の要点や指導法では
メリハリをつける観点や注意点についてかなり突っ込んだ具体的指導法が書
いてあることに気づく。1〜5については、それぞれに解説文がついている
が引用を省略した。

桜井満執筆から)
  「朗読法とは、口語体なり文語体なりの文章を正しく且趣味あるやうに
読み上げる方法です。言い替えると、聴く人に文章の意味が十分に理解させ
るのみならず、文章の美質も能く感ぜられるやうに読み上げる術、まあこれ
がその定義です」日下部重太郎氏はかう朗読法に定義を与えて居る。神保格
氏はたしか「朗読といふと何かかう朗々と読み上げることのやうに思われる
が、単に音読といふほどの意味に考えてよい」と言って居られたやうに思う。
両氏の見解は大体大同小異である。日下部氏の言われるやうに、朗読は芸で
あり術である。……
  朗読指導の根底は日常の話言葉にある。談話にある。だから、朗読の調
子なども、所謂立板に水といふやうな特別の読み調子は絶対に排斥せねばな
らない。「お話をするやうに」といふことでなければならない。148─150ぺ
【荒木のコメント】
  桜井満氏は、「朗読指導の根底は日常の話言葉にある」と言い、「お話
をするやうに」音声表現することを強調している。「談話するように朗読す
る」という朗読観も以前からあり、本稿でも引用をしてきた。これは標準語
教育とも関連し、学校読みという変な読み調子矯正指導とも関連づけて主張
されている。また、朗読の定義については、桜井満氏だけでなく日下部重太
郎『朗読法精説』『国文朗読法』からの引用を多くの教師たちがしている。
日下部氏の著書は当時の教育界に大きな影響を与えていたことが分かる。

(染谷四男也執筆から)
 
 朗読法又は朗読といふことは一体何を意味するかといふに、朗読といふ
言葉の意味を国語辞書によって見ると、「読みあぐること」「声高く読みあ
ぐること」「ほがらかに読むこと」等で何れにも共通していることは「よみ
あぐる」といふ点である。而も「声高く」「ほがらかに」といふことによっ
て、そこに朗読法といふことが如何に読まれたかといふことが想像される。
  以上辞書的な解説であるが、何となく物足りなさを感ずる。西洋のエロ
キューションの意義として述べられている「言語の意味を聴者が十分了解す
るやうに発表するばかりでなく、なほ言語の力と美と諧調とも感ずるやうに
発表する術である」(日下部重太郎)又これを言い替えてみると「言語文章
を正しく且趣味あるやうに、言い表し又は読み上げる術である」(同)と言
ふことが適当である。「言い表し又は読みあぐる」は原文の文句をそらで覚
えておき、之を音声に表すことで、それは暗誦といふことになる。
  従って「暗誦」も「朗読」に一部と見ることになるのである。それは朗
読も暗誦も一定の文句を音声に発するといふ点で全く同じである。尚朗読に
関係の深い我が国の読物、語物、謡物、等について考へて見るに、読物は全
く朗読の一種と見ることが出来、古来の大衆を目当として書かれた読物は、
黙読するといふより朗読によって味わうために存在したといふことができる。
語物は平家物語をはじめ軍記物語、徳川時代の浄瑠璃は朗読に音楽的な節が
加わったもので音楽的な要素が多分に含まれている。又謡曲の如き更に音楽
的な要素が多くなり、節が大切な役目をしていると言われている。このこと
によって我が国の朗読が音楽の力を得て、音楽的な方面に発展していったこ
とが首肯できるのである。363─364ぺ
抑揚調子とその具体的指導
  大体符号を定め、児童との約束の上指導すると割合に効果的に行われる。
私は大体、次のやうな符号を使用している。
Λ  頭部を強めてだんだんに弱めていく
∨  下部を強める
Λ∨ 中部を強める
棒線 ある部分を強める
波線 ふるはせながら強める
―  断続するところ
〓  声を切るところ
⊂  句読点のある場所をつづけて読む
 プリントして渡せばよいのであるが、低学年に於いては、一々口唱して説
明しなくては徹底しない。これも、全文に亘ると飽きてしまふので、一課の
中心になる個所を選んで行うとよい。又或る場合には、児童に符号をつけさ
せて、その理由を書かせて相互に批判させてみるのも面白い。216─220ぺ
【荒木のコメント】
  染谷四男也氏も日下部重太郎氏の言説を引用して記述している。染谷四
男也氏は、ここで朗読を広義に解釈していることに気づく。朗読は暗誦も含
み、語物、謡物、浄瑠璃など音楽的な曲節をつけたものまで含めて朗読と名
付けていることが分かる。こういう朗読観は当時はかなり多いように見受け
られる。これら総てはエロキューションの一種として捉えられているので、
聴者への感化的伝達をめざしており、「朗読・朗詠・朗誦・誦読・吟誦・演
述・曲節・謡い・祝詞・宣命・声明」などは総て同一レベルにありったから
である。
  染谷四男也氏は本書で「記号づけ指導」について書いている。同じく池
田宗矩氏も「音読記号づけや音声表現の具体的な留意事項」を書いている。
記号づけ指導については、はじめて目にした文章である。先駆的な提言とし
て注目に値する。
  なお、本書『読本朗読の実践的研究』には、文例によって間のあけ方の
違いがあることを書いている川口半平氏、文種によって音読の仕方が変化す
ることを書いている富沢俊夫氏などの実践紹介にも荒木は注目した。
  本HPの「音声・身体・文化についてのエッセイ」の章にある「昭和初
期の朗読指導と児童読み声の実態」は、本書『読本朗読の実践的研究』の池
田宗矩氏と副田凱馬氏との論文から引用して紹介している。昭和初期の朗読
指導はどんなだったか、児童読み声の実態はどんなだったか、読み音調や読
み癖はどうだったか、などについて紹介している。



昭和9年刊、田中豊太郎『読方教育の実践原理』
(賢文館)より


 下記は、田中豊太郎『読方教育の実践原理』(賢文館、昭9)からの引
用である。荒木が勝手に(  )の見出しをつけて引用している。

(読振りの上達段階について)

第一項 機械的読方
  機械的読方は昔から素読と言はれているもので、別に意味も考へずに文
字をたどって滔々と読んでいくのである。昔は論語読みの論語知らずと言っ
て、訳も分からずに機械的に論語を読んでいった。寺子屋などで小さい子供
に日本外史、国史略や大学や中庸のような漢籍までも読ませた。これは総て
機械的な読方、即ち素読であって、これも全然無意味なことではないけれど
も、今日の小学校の教材を、今日の子供に読ませるとしては、その必要はな
いと思ふ。事実、子供自身から言って機械的な読方又は素読といふものにな
ることが出来ないと思ふ。読めば大体判るのであるからその形だけは機械的
な読方になっていても、その内面は論理的または審美的な読方になっている
のである。しかし形から見て機械的な読方と言っても差し支えないような読
振りをしている子供があるからこれらは早く矯正したいものだと思ふ。今日
の小学校では採用する必要のない読振りである。
第二項 論理的読方
  論理的な読方といふのは、その内容をはっきりと理解していく読方と言
ってもよいものである。これは説明文とか評論文のようなものを読む場合の
態度であって、一語一句を忽せずに、話の筋を明確にたどっていかせる読方
である。
第三項 審美的読方
  審美的読方は、美しく読むといふことであって、その文のもつ言葉の調
子、響、心持といふものを読振りの上にまで現していこうとするものである。
そこに音の強弱・緩急・高低などを入れて標準的な読方をすることである。
だから、これを一人で読み上げる時には朗読となってくる。情感的な教材な
どの於いては努めて、この審美的な読方、即ち朗読の態度をとらせて読むと
いふ、その仕事から、読振りの指導からも、内容の作品的な価値を感得させ
ることに努めたいものだと思ふ。指導過程中に於いて最も多く使われるのは、
この第三段に於ける鑑賞的取扱いの場合であるが、それもそこで始めて審美
的な読方を指導するといふのでなくて、そこに於いて完成するといふ意味で
最初からこの読振りを行わせたいのである。また教材の性質によっては最初
からこの読振りで接していくものだといふ読振りの訓練を日頃つけておきた
いものである。    165ぺ〜168ぺより

【荒木のコメント】

  機械的読方は素読のことである、と書いている。「昔は論語読みの論語
知らずと言って、訳も分からずに機械的に論語を読んでいた」今の子どもは、
読めば意味内容の大体が分かるのだから素読は当てはまらない、と書いてあ
る。
  論理的読方は説明文に当てはまる、審美的読方は文学文に当てはまる、
と言っているように読みとれる。審美的読方とは朗読のことであって、「内
容の作品的な価値を感得し」「鑑賞的取扱い」で審美的読方を指導すると書
いてある。
  審美的読方は、機械的読方→論理的読方→審美的読方というような段階
的に指導するのでなく、最初から審美的読方の読振りを指導していくのがよ
い、とも書いている。

  同じ名称の三段階「機械的読方、論理的読方、審美的読方」で主張し
ている他の論者がいる。下記の4名で、それぞれ意味する内容はみな違って
いることが分かる。四人四様であることが分かる。詳細は、本章で引用を交
えて書いていた。第10章「明治以降の素読・朗読の変遷史」のそれぞれの
ページをお読みいただきたい。

佐々木吉三郎、明治35年『国語教授撮要』(育英会)の「機械的読み方、
論理的読み方、審美的読み方」

千葉春雄、大正15年『読方教授要説』(厚生閣書店)の「機械的読み方、
論理的読み方、審美的読み方」

田中豊太郎、昭和9年『読方教育の実践原理』(賢文館)の「機械的読み方、
論理的読み方、審美的読み方」

岡山師範付属小、昭和11年『実践朗読法と話聴教育』(明治図書)の「機
械的読方(素読)、論理的読方(正読)、審美的読方(美読)」

  その他の名称も入れて一覧で示せば下記のようになる。詳細な内容は、
それぞれのページを調べていただきたい。明治、大正、昭和、平成の年代別
順になって記述している。

坪内逍遥
明治24年執筆「読法を興すさんとする法」(逍遥全集11巻)春陽堂
機械的読法
文法的読法
論理的読法

小山忠雄、明治31年発行『理論実験読書作文教授法』(東海林書店)
機械的読方
解剖的読方
音調的読方

佐々木吉三郎、明治35年『国語教授撮要』(育英会)
機械的読み方
論理的読み方
審美的読み方

山口徳三郎、秋田喜三郎共著『読方教授の新研究』(東京以文館)
機械的範読
理解的範読
審美的範読

秋田喜三郎、大正8年『創作的読方教授』(明治出版)
機械的読み方
理解的朗読
審美的朗読

千葉春雄、大正15年『読方教授要説』(厚生閣書店)
機械的読み方
論理的読み方
審美的読み方

田中豊太郎、昭和9年『読方教育の実践原理』(賢文館)
機械的読方
論理的読方
審美的読方


岡山師範付属小、昭和11年『実践朗読法と話聴教育』(明治図書)
機械的読方(素読)
論理的読方(正読)
審美的読方(美読)

【荒木のコメント】
 芦田恵之助がこれら上達の三段階について批判意見を書いている。  
 芦田恵之助『読み方教授』(大正5年、育英書店)の中で「機械的・理
解的・審美的」の3段階について批判している。以下に引用する。

  朗読法もまた重要問題である。読み振りに機械的・理解的・審美的の三
様あることは、我が教育界に夙に唱へられている。しかし余は不幸にしてこ
の種の読み振りを画然と区別して聴いたことがない。外国にあるのかもしれ
ないが、我が国には未だ定まれるものが無いのではありまいか。読み方教授
が他人の文章をたどって、自己を読むものとしたら、機械的・理解的・審美
的の区別は無意味なことになってしまふ。世に文字をたどって、機械的に発
音する読み方に満足する者があらうか。文を読むに理解的ならざる読み方が
あらふか。文中に含まれる感情を音声にあらはすのが審美的読み方ならば、
自己を読むといふよりも、他人に聞かせるのが目的らしい。されば世人の読
み振りを分類すると、機械的・理解的・審美的の三様あるといふ意ならば聞
こえる。又発達的に見ると、機械的より・理解的・審美的に進むとの意なら
ば聞こえるが、朗読法としてこの三様ありとの意は甚だ領解に苦しむ。自己
を忠実に読む者は、知的の材に対しても亦その読み振りをなすのである。故
に朗読法に於いてただ音声の長短・緩急・抑揚等に三様の差異を工夫するよ
り、自己の所感を基礎として、読み方を工夫し、自己の満足を標準となすべ
きである。           80ぺから引用


【荒木のコメント】

  芦田氏は「世に文字をたどって、機械的に発音する読み方に満足する者
があらうか。文を読むに理解的ならざる読み方があらふか」と書いている。
全くその通りであるが、音声表現しつつある読み手の意識の中ではそうであ
っても、結果としての音声の現れとなって出た場合は、種々雑多なものとな
る。上手な読み声もあれば下手な読み声もある。結果として表れ出た読振り
に上手下手の段階があり、いちおう、おおざっぱに機械的→理解的→審美的
という段階で進むということだと理解してよい。自己の所感で満足に読んだ
つもりでも、声に出して読んでみると思うように音声表現されないというの
が通例なのだから。結果としての読み声の上手下手ををおおざっぱに区分け
すれば3段階になる、ということである。
  「機械的・理解的・審美的の三様あり」とは、読み振りの上手下手のレ
ベルのことである。一般論で言えば、機械的朗読とは文字を目で拾って一字
一字を一本調子に平板に単調に音読することだと解してよいだろう。理解的
朗読とは、文章内容を理解しながら、意味内容を探りながら初歩的なメリハ
リをつけながら音声表現することだと解してよいだろう。審美的朗読とは、
情感性豊かに、たっぷりしたメリハリをつけて音声表現することだと解して
よいだろう。

  さらにまた、だめ押しの付け加えをしましょう。わたし(荒木)の「表
現よみ」の上達の三段階と五段階を紹介しましょう。
  本ホームページの第8章「表現よみの授業入門」の中の「わが学級児童
は中級レベルなり(その1)」には「上達の3段階」について書いています。
  「わが学級児童は中級レベルなり(その2)」には「上達の5段階」に
ついて書いています。それぞれのレベル内容についても書いています。

  さらにまたまた、だめ押しの付け加えをしましょう。
  上記した上達三段階が日本の国語教育の歴史の中でどんな主張の流れに
なっているか、のほんのちょっとだけの、大雑把なアウトラインを書きます。
現在までの歴史的な音読観の流れがご理解いただけるだろうと思います。

石山脩平『国語教育論』(成美堂書店、昭12年)
 通読…………素読、音読
 精読…………音読
 味読…………朗読、暗誦、感想発表

小学校学習指導要領(昭和43年版以降)
 1・2・3・4年…………音読(理解するための)
 5・6年……………………朗読(味わい、他人に表現するための)

小学校学習指導要領(平成20年版)
 1・2年…………音読
 3・4年…………音読、暗誦
 5・6年…………音読、朗読、暗誦

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