説明文の表現よみ指導 2012・02・29記 説明文と物語文とでは 聞き手意識がちがう 物語文は聞き手意識ゼロだ 「聞き手意識ゼロ」については、本ホームページの下記の章で詳述して います。 第6章「表現よみの提唱」の中の「第三章・表現よみは聞き手ゼロである」 第9章「音声・身体・文化のエッセイ」の中の「語り手の声、筆者の声」 第7章「表現よみ教育の歴史」の中の「第一部」と「第二部」 に書いています。これらは、「物語文の聞き手意識ゼロ」について書いたも のでした。物語文の聞き手意識については上記拙論をご参照してください。 以下では、説明文における聞き手意識について書きます。 説明文は聞き手意識アリだ 「聞き手意識アリ」の聞き手とはだれか 説明文は物語文と違って、聞き手を意識して音声表現します。 説明的文章は、筆者が直接に読者に向けて語っている文章です。筆者か ら読者へ語りかけている文章です。筆者は、読者が真剣に耳を傾けて聞き入 れてほしいという思いで、聞き手を意識して書いています。 説明的文章は、読者の知性と理解力に訴え、読者に納得してもらおうと する心配り(仕掛け・装置)のある書きぶりになっています。筆者から読者 へ向けての、説得を意識した書きぶりになっています。ですから、説明的文 章の音声表現のしかたは、筆者の語り口(書きぶり)にそって、聞き手に分 かりやすく理解できるように音声表現することになります。 説明的文章の音声表現は、筆者の論理展開の手順や順序がはっきりと声 に現れ出るようします。そのためには意味内容のひとまとまり、ひと区切り と休止点(切れ続き)をはっきりと声にあらわして音声表現します。筆者の 論理展開の筋道や主張内容の強調点、それらの力点がアクセントとして明確 に押し出されるように音声表現します。 説明的文章は、筆者が読者に向かって、この電気器具の操作はこうやっ てほしい(こう操作するのだ)、どうか私の話(通知、伝達事項、主張)を 聞いてほしい、私の考えを理解して(受け入れて)ほしい、私の考え(知 見)に賛同してほしい、私と一緒に共同行動してほしい、という読者への強 い伝達意図があって書いています。 本稿冒頭の表題に「説明文は聞き手意識アリだ」と書きました。「聞き 手意識アリ」の「聞き手」とは、だれのことでしょうか。小学4年生の教科 書にある説明文ならば、聞き手(読者)は小学4年生です。書き手は、小学 4年生の興味ある内容を、小学4年生に理解できる語句、構文、語法を使っ て、小学4年生を飽きさせないで最後まで読ませる記述の工夫をしながら書 いているはずです。 新聞や週刊誌のように特定の読者を予定してない説明的文章もあります。 しかし、これだって編集者は一定の読者層を想定した興味ある内容を選択し て編集しており、執筆者にそうした意図を話して原稿依頼をしているはずで す。そして執筆者は一定範囲の読者層を想定して、彼らに向かって書いてい るはずです。公正中立、客観性を旨とする自然科学系の学術論文だって、特 定の専門学者層に向かって専門用語を使って書いているはずです。 ですから、説明的文章は特定の読者を意識して、特定の読者に向かって、 私の考えを分かってほしい、理解してほしい、こんな考え方(知見)を知っ てほしい、受け手への明確な伝達意図があって書いているはずです。ですか ら、説明文を音声表現するときは、意味内容のみを伝達しているのでなく、 筆者が読者に語りかけてる熱意・熱情を感じとって音声表現を工夫しつつ読 むようにすべきです。説明的文章は、読み手は、筆者になり代わって、筆者 の思い(伝達意図)を音声表現していくことになります。筆者の思い(伝達 意図)を、筆者の熱意、熱情をこめて、筆者の声として音声表現していくよ うになります。 学校で児童が説明文を音声表現するときは、小学4年生なら、四年生に、 分りやすく伝わる読み方を工夫して音声表現していくようにします。文章内 容が教室にいる級友たちに向かって語りかけているわけですから、文章の内 容の筋道が級友たちに分かりやすく伝わるように気を使って音声表現しなけ ればなりません。やや込み入って難解な、伝わりにくい文章個所はゆっくり めに、噛んで含めるように、ていねいにアクセントをつけて読み進めていく ようにしなければいけません。説明的文章は、早口よりは少々ゆっくりめに 語り聞かせる(説き聞かせる)音調がよいでしょう。筆者が読者(聞き手) に、わたしの考え(知識内容)はこうだ、このことを皆さんに伝えたい、こ れを分かってほしい、という思い(伝達意図)をこめて、筆者が強調してい る伝達内容(知識内容)を押し出して(アクセントをつけて、論理的力点を つけて)読んでいくようにします。 ただし、文種によっては音声表現にしかたが多少違ってきます。これに ついては本章「文章の種類と音声表現のしかた」で書いています。文章ジャ ンルで音声表現のしかたが違ってくること、相手を意識する音声表現の濃淡 (強弱)が違ってくることについて書いています。 「聞き手意識ゼロ」と「聞き手意識アリ」の連関 では、「説明文は聞き手意識アリだ」と、「物語文は聞き手意識ゼロだ」 とは、どう違って、どう関連しているのでしょうか。 わたしは、かつて本ホームページ第6章の「表現よみは聞き手意識ゼ ロである」の中で、次のように書いています。本稿の論旨に必要な個所だけ をピックアップして下記に引用します。 説明的文章は、筆者の主張・訴えとして、社会や自然についての事理を 分析し解明しつつ述べています。 説明的文章の音声表現は、筆者の考え・思想の明確な伝達を優先させて 音声表現します。筆者が何を読者に伝達しようとしているか、何を訴えかけ ようとしているか、筆者の主張や訴えかけの強調点をはっきりと声に現れで るように音声表現することが第一に求められます。 表現よみは聞き手ナシではありません。表現よみは聞き手を意識して、 聞き手に向けてする音声表現です。表現よみは作品世界が聞き手によく伝わ るにはどう音声表現すればよいか、その音声技術を種々に工夫して音声表現 するしかたです。 しかし、聞き手を意識するからといって、聞き手に媚びた音声表現はし ません。表現よみは、聞き手を喜ばせたり悲しませたりしようとして故意に オーバーな表情のつけすぎをすることを嫌います。表現よみは、聞き手を意 識して、誇張した、過剰な音声表現を嫌います。聞き手に分かりやすく理解 (受け取り)させようとして、わざとらしい無理な表情のつけすぎを嫌いま す。表現よみは、聞き手の「受け」をねらった、ここでこう盛り上げて笑い をさそおう、涙をさそおう、という挑発的で派手に聞き手にけしかける音声 表現を嫌います。聞き手をまきこみ、エキサイトさせるため、読み手の見て くれの個人的なパフォーマンス(語り、振り、動作)を嫌います。 これらは聞き手を意識しすぎた音声表現です。聞き手を意識しすぎる と、どうしても過剰な音声表現になりがちです。聞き手に媚びた、聞き手の 「受け」をねらった、空芝居じみた、嫌味な音声表現になりがちです。聞き 手意識過剰な音声表現は、作品世界がもつ真実感(リアリティー)からかけ 離れ、空疎に聞こえ、鼻について聞くに耐えない嫌味な音声表現になりま す。 上記で引用したことは文学的文章だけでなく、説明的文章でも同じよう なことが言えます。説明的文章は、聞き手を意識すると書きました。だから と言って「聞き手に媚びた、聞き手の「受け」をねらった、空芝居じみた、 嫌味な音声表現」はいけません。聞き手をへんに意識する読み方が強すぎる と、ばかていねいな、へんに強調しすぎる、おしつけがましい、いやらしい、 くさみのある、おかしなへんな読み調子になってしまいます。説明的文章の 音声表現は、筆者の論理展開(思考の筋道)を聞き手にそっくりそのまま素 直に正確にポンと受け渡し、冷静に客観的に淡々と聞き手に分かりやすく伝 えることが第一です。聞き手へのサービス過剰をセーブし、大げさ、やり過 ぎ、口先の技巧、独りよがり、節つけなどの夾雑物、むり、不純物を取り払 って、澄んだ声で、淡々と、さらりと、気張らず、嫌味なく音声表現するこ とが求められています。 「聞き手意識ゼロ」とは、「聞き手意識ナシ」ではありません。表現 よみは、「聞き手意識ゼロ」であって、「聞き手意識ナシ」ではないのです。 「聞き手意識ゼロ」の「ゼロ」とは、存在の「アル、ナシ」ではなく、「運 動のゼロ地点」という意味なのです。 表現よみの「運動のゼロ地点」の「運動」とは、読み進めている途上 の、これら両者を行き来している意識の運動状態のことをさします。振り子 の振れで比喩的にいえば、振れが聞き手意識の方向に大きく振れすぎると、 それは聞き手意識のサービス過剰なオーバーな音声表現になります。演じす ぎ、作りすぎ、空芝居がかった嘘っぱちの音声表現になります。 振れが作品世界に没入した音声創造の方向に大きく振れていれば、完成 した音声表現になるかというと、どっこいそうはなりません。上達段階とい うものがあります。振れが作品世界の創造にどっぷりとはまって読んでいて も、初心者はうまく作品世界の創造に音声がうまくのっかてくれません。自 己陶酔した、自分だけがいい気分になった客観性のない読み方になりがちで す。読んでいる本人は上手に読んでいるつもりでも、テープ録音したものを 聞き直したり、また他者(聞き手、聴衆)の耳にはどうしよもなく下手な読 み方に聞こえたりもします。読み手の意図するように音声がうまくのっかる には、他者(聞き手、聴衆)の意見を取り入れ、厳しい共同助言をたくさん 受けながら、繰り返して練習していく、こうした絶えざる練習の成果によっ て、その音声表現は上手な読み方、客観性のあるものになっていくのです。 表現よみしている(声に出して読んでいる)途上の読み手の意識は、第 一義的には作品世界にどっぷりとはまり、作品世界の音声創造にのみ集中 し、少しでも下手さを克服しよう、上手に読もう、と努力している意識で す。他方には、聞き手(観客)を意識し、聞き手(観客)に分かりやすく伝 えよう、かつ深い感銘を与えようとサービスを加味する意識もあります。 この両者の中間位置にあって、両方向の左右に振れ(進み)つつ、同時 に両者の中間の位置(運動のゼロ地点)に常時留まろうとしている意識が働 いています。大げさ、むり、むだを省いて、自然に、素直に、ありありと、 生き生きと、情感性をそえて作品世界を素直に音声表現しようと努力してい る意識があります。 聞き手ゼロとは、「聞き手アリ、そしてナシ」の弁証法的な運動状態に あるということです。「アリ」と「ナシ」とがきわどく重なり、微妙に隣接 し、不連続の連続という矛盾的統一の運動地点にあるということです。聞き 手(観衆)に「不即不離」(つかずはなれず)、「合不合」(あうあわず) の境地で音声表現するということです。 読み手の音声表現は、このゼロ地点を基点として開示される可塑的な想 像世界の触発による覚醒と生成、その胎生から絶えず自立的かつ志向的に作 動する運動地点にある伸長と延長と抑制の想像身体の境地における音声表現 であるとも言えます。 聞き手ゼロとは、静止点のことではありません。中間の位置で静止して いるように見えることもありますが、それは両者の力のバランスが拮抗して いるためにあたかも静止しているように見えるに過ぎないのです。実際は運 動しているのです。両者の力の拮抗関係の中で意識がどちらの方向に、どれ ぐらい振れているか、中間位置で留まっているようにみえるか、振れが大き いかによって、その音声表現はさまざまな時空世界を作って微妙な現れ方を することになります。 聞き手ゼロにおけるアリとナシの両者のゆれで、聞き手アリの方向にゆれ が進むと、「語り」の読み方に少しずつ接近していきます。「語り」の読み 方にほんのちょっぴり接近した音声表現にラジオやテレビのニュース放送の 語り方(読み方)があります。ニュース放送が少しずつ聞き手(聴衆)を意 識した「語り」の音声表現、つまり聞き手へのサービス(応酬)が少しずつ ふくらんだ「語り方」になっていくと、「ナレーション」「読み聞かせ」 「ブックトーク」「紙芝居」「人形劇シアター」などの語り方になっていき ます。これら聞き手を前面にたてた「語り方」は、表現よみの聞き手ゼロの 音声表現からは少しずつ乖離していきます。 聞き手を明確に大きく意識した「語り」の音声表現には、「落語」や 「講談」や「漫談」や「漫才」や「大道芸」の語り方があります。これらは 「語り芸」と言われ、聞き手(聴衆)を喜ばせ、聞き手(聴衆)を楽しませ る、独特の洗練された語り方のスタイルを持っています。 説明的文章の「聞き手意識アリ」の特質 以上の引用は、すべて文学的文章の音声表現について書いたものでした。 しかし、以上の引用で述べていることは、説明的文章でも同じように当ては まります。以上に書いてある「聞き手意識ゼロ」「聞き手意識アリ」「聞き 手意識ナシ」「アリとナシのゆれ・ふれ」については説明的文章においても 同じことが言えます。 ただし、説明的文章では、本稿冒頭で「説明文は物語文と違って、聞き 手を意識して音声表現します。説明的文章は、筆者が直接に読者に向けて語 っている文章です。筆者から読者へ語りかけている文章です。筆者は、読者 が真剣に耳を傾けて受け入れてほしいという思いで、聞き手を意識して書い ています。」と書いたように、説明的文章は特定の読者に向けて書いている 文章です。ですから、特定の読者(聞き手、聴衆)を意識した文体を持って います。 説明的文章は、記述の仕方そのものが特定の読者を意識した語りのスタ イルを含んだ書き方になっています。特定の語りのスタイルと言えば、まず 思い浮かぶのは民話でしょう。「むかし、むかし、あるところにおじいさん とおばあさんがあったとさ」という語り方は「聞き手=子ども」を意識した 語り文体です。こうした文学的文章における語りかけ文体を、わたしは「語 り手が直接に語り聞かせている地の文」と名づけて、本HP第5章「上手な 地の文の読み方・第一部」の中で書いています。詳細はそちらをご覧くださ い。そこでは、新美南吉「ごんぎつね」冒頭、斎藤隆介「半日村」冒頭、 「モチモチの木」冒頭、岸なみ「たぬきの糸車」冒頭の例文を挙げて説明し ています。これら語りかけ文体の文章は聞き手(聴衆)に向かって語り聞か せているように音声表現すべきです。 では、説明的文章では、こうした明確に聞き手を意識した語りかけスタ イル(文体)になっている文章はあるでしょうか。ほんの一部、論争文など にはみられます。感情的にカッカッしながら論争をしかけ、カッカッしなが ら反論している論争文には相手を意識した語りかけスタイル(記述のしか た)になっています。特定の相手を意識した論争文の語りかけ文体の音声表 現のしかたは、筆者になり代わって読み手もカッカッしながら論争相手を論 駁する、または非難攻撃する語り方で読むべきでしょう。 しかし、多くの説明的文章は、そうした明確に語りかけ文体にはなって いません。一般的に説明的文章というものは、こうした相手を論難し非難攻 撃する感情興奮の文章は邪道とされ忌避されています。多くの説明的文章は、 カッカッとした感情興奮は極力抑え、と言うか、皆無にして、どこまでも冷 静に客観的に社会、自然、文化についての事理を論理的に分析し解明し相手 を説得していく記述の仕方が求められています。 ですから説明的文章は「聞き手意識アリ」とは言っても、文章記述のス タイルが相手に話しかけ、問いかけ、応答を意識した記述の仕方にはなって いません。直接にまっとうに相手に話しかけ、問いかけ、返答を求める記述 の仕方(文体)にはなっていません。 文学的文章は想像世界を対象にして書いています。説明的文章は現実世 界を対象にして書いています。ここから両者の聞き手意識が違ってきます。 説明的文章のほうが文学的文章よりも現実世界のついて読者に語りかけてい るだけに聞き手意識がアリの文体になっています。これについて更に付け加 えて説明していきましょう。 聞き手意識アリの文体になっている 説明的文章には、情報告知型と意見伝達型との二種類があります。(詳 細は、本章「文章の種類と音声表現のしかた」を参照のこと)。情報告知型 とは「自然、人間、社会の事物、事象について分析し解説している文章です。 意見伝達型とは「自然、人間、社会について筆者の個人的見解を開陳してい る文章です。 双方とも聞き手(読者)を想定して書いていますが、聞き手(読者)に 話しかけ、問いかけ、語りかけている記述の仕方にはなっていません。小学 4年生の教科書説明文ならば、小学4年生を聞き手(読者)として、小学4 年生向けの興味ある話を、小学4年生向けの語彙を使い、小学4年生向けの 語法を使い、小学4年生向けの構文を使い、小学4年生向けの文章構成にし て書いています。つまり、説明的文章の聞き手(読者)意識とは、文章の語 彙、語法、構文、文章構成などの中に沈殿散在し含みこまれており、明らか な話しかけ、問いかけ、応答してる文章記述にはなっていません。これが説 明的文章の「聞き手意識アリ」という通常の文章スタイルです。 説明的文章の「聞き手意識アリ」とは、その説明的文章の語彙、語法、 構文、文章構成の中に含みこまれているのです。説明的文章の「聞き手意識 アリ」の音声表現は、書かれている自然、人間、社会の事理を分析し解明し ている論理展開、その論点の論理的力点をメリハリとして音声に表れるよう に読んでいけばよいのです。説明的文章は、取立てて話しかけ、問いかけの 音調で音声表現する必要はないのです。説明的文章の「聞き手意識アリ」は、 書かれている自然、人間、社会の事理を分析し解明している文章の論理展開 の線条的な文章の連なりの中にポテンシャルなものとして沈殿し含みこまれ ているのですから、取立てて話しかけ、問いかけ、応答してる音調で音声表 現する必要はないのです。 説明的文章の音声表現で最も重要なことは、自然、人間、社会について の事理を分析し解明している論理展開(論運びのしかた)のありさまが聞き 手に分かりやすく伝わる工夫をしつつ読みすすめることです。読み手は、筆 者を代行して、筆者と同じ思い(伝達意図、発想)になって、筆者の主要な 主張点を、論理的力点にアクセントをおいて聞き手に分かりやすく伝えるこ とに気を配って音声表現をしていくようになります。 話しを分かりやするために 話しを分かりやするために、誤解があることを恐れずに大胆に言えば、 小中学校の児童生徒の説明的文章の音声表現の仕方は、ラジオやテレビのニ ュース放送の読み方(語り方)に最も近いということができます。聞き手 (聴衆)に媚びることなく、また、私的感情を極力抑えて、冷静に、ひたす ら正確に事理(情報内容)を聞き手に分かりやすく伝えることだけに集中し て音声表現します。文章内容(文脈)のひとまとまり、ひと区切りと休止点 に留意して間をあけ、事理(情報内容)が浮き立つように論理的力点のメリ ハリをつけて音声表現していくようにします。 アナウンサーのニュース原稿の読み方と、児童生徒の説明文の読み方で の違いは、ニュースが厳正中立に私的感情を入れることは禁止ですが、児童 生徒の説明文の読み方には私的感情を入れることは許されます。(詳細は本 章にある「私的感情の入れ方」を参照のこと)。また、ニュースは、ニュー ス原稿作成者の私的感情の表現意図を差し入れることは厳禁ですが、説明文 は筆者の私的感情や表現意図は正面から挿入されていますから、説明文の音 声表現では筆者の私的感情や伝達意図を音声表情に入れることは当然のこと だと言えます。 説明文の音声表現で最重要なこと 説明文の音声表現で最重要なことは、聞き手に分かりやすく伝えること です。「聞き手に分かりやすく伝える」とは、事理(情報内容)が浮き立つ (メリハリがつく)ように工夫して音声表現するということです。聞き手に 分からせたい思いをいっぱいにして、かんで含めるように読むようにします。 聞き手の顔色を見ながら、ていねいに分かりやすく伝えるようなつもりで読 むようにします。 ただし、聞き手(聴衆)に媚びた語り聞かせ方、へんにわざと押しつけ がましい、空芝居じみた音調にするということではありません。作りすぎた、 空疎に聞こえる、わざとこしらえた読み音調、へんな読み音調や、へんな読 み癖のある音声表現はよくありません。表現よみ初期は、ゆっくりと、かみ くだくように、事理(情報内容)が浮き立つこと、それのみが浮き立つこと に集中して音声表現していくようにします。余計な、へんな読み音調や読み スタイルは必要ないのです。素直な読み方、意味内容だけがポンと浮き立つ だけの音声表現にします。 |
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