表現よみ教育の歴史・第二部     2003・3・25記 




         
       
表現よみは、いかなる音声表現か

         
   表現よみの歴史・第二部のねらいは、「表現よみとは何か(いかなる
音声表現か)」という問いに答えたいと思います。そのために、「表現よ
み」という概念が考案され、導入されるその脈絡(歴史)をたどり、明示す
ることから問いに接近しようと思います。

  第一部で書いたように「表現よみ」は、昭和20年代末、日本コトバの
会から出生したのでした。日本コトバの会の会員たちの「表現よみ」の発言
が、少しずつ国語教育界や一般社会に流布していくようになりました。やが
て国分一太郎、上甲幹一、寒川道夫など当時の国語教育界のオピニオンリー
ダーたちも国語教育雑誌などで「表現読み」を推奨するようになっていきま
す。
  昭和30年代末に、ソビエトの文学教育で実践されている文学教育理論
の表現読み教育の翻訳本が日本で立て続けに三冊、発刊されました。また、
教育科学研究会(教科研)国語部会も、「表現読み」を読解指導過程の三次
読み段階に位置づけて活発に実践報告を始めるようになりました。
  児童言語研究会では、機関誌『国語教育研究』、『児言研国語』、『国
語の授業』にたくさんの表現よみの授業実践の報告が掲載されるようになり
ました。



        
ソ連の文学教育「表現読み」


  昭和30年代末に発刊されたソビエト文学教育の「表現読み」の翻訳本
とは、次の三冊です。
 ◆ヤゾヴィツキ-、村松・小島訳『ソビエトの読み方教授』(明治図書、
     昭38・9)
 ◆クドリャ-シェフ、西郷竹彦訳『文学の教授』(明治図書、昭39・
    4)
 ◆リープキナ、村松・小島訳『ソビエトの読解指導』(明治図書、昭
  39・9)


  これらの本は、当時のソビエトの文学教育の全容が示されており、ソビ
エトでは文学教育の方法として「解明読み」(言い換え作業)と「表現読
み」との二つの方法が重要視されて指導されておることが紹介されていま
す。児童に文学作品を与えるとき教師の高い「表現よみ」能力が必要なこと
も強調して書かれています。「表現読み」とは、単なる音吐朗々の「朗読」
や棒読みでなく、作品の中味を把握し、中味を外へ向って表現する音声表現
であり、作品を真に自分自身のものとする美的かつ訓育的な教授理論である
ことなどが書かれています。

  次に、ソビエトの表現読み指導の具体例を引用してみよう。

  「初等読本に感嘆文が出てくるが、このはじめての感嘆文の読み方です
でに表現読みのしごとがはじまる。その基本になるものはその文の内容であ
る。
 「おかあさん! おかあさん! ナマズにはひげがあるんだね」 という
文を読む時、生徒は驚きを表さなければならない。それを表すためには、子
どもがナマズのひげを見て、驚いて母親に、
 「ひげがある!」
 と呼んだことを理解させなければならない。生徒にナマズの絵を見せて、
その頭に注意させる。このとき生徒はよく驚くを表わす。それから教師は、
その文を驚きを交えた感嘆文として読ませる。そうすると生徒は原文を理解
し、感動的に感知して、困難なく必要なイントネーションを見出す。
 生徒が自力で、内容を理解することによって、必要な表情を発見すること
が、この仕事の要点である。そして、そのようなしごとだけが深い教育的意
義を持ち、生徒に表現読みのカギを与える。」
    
リープキナ『ソビエトの読解指導』(明治図書)221ページ

  クドリャ-シェフ『ソビエトの読み方教授』は、全巻が「表現読み」に
ついて書いてある本です。「訳者まえがき」で、訳者・西郷竹彦は「表現読
み」の訳語について次のように書いています。

 「表現読み」と訳した原語は、こなれない訳語としては「表現的読み方」
とでもされるところだろうが、すでに、この本で説かれている読みとまった
く同じ精神に立つ音読の共同研究をすでに七年前から「表現読み」と名づけ
て実践してきている民間団体「日本コトバの会」の創出した用語を借りて
「表現読み」とすることができた(『国語年鑑』昭32年版190ページ)。一
つの用語・訳語にも歴史があることを痛感するしだいである。」
                                           5ページより引用。



         
西郷竹彦さんと表現読み


  クドリャーシェフ『ソビエトの読み方教授』の訳者、西郷竹彦(文芸学
者)は、自著のなかで、西郷さんが授業者となった教案に「表現読み」を取
り入れて授業をしています。その中の一例を抜き出してみましょう。
  今西祐行「ひとつの花」の〈たしかめよみ〉教案、授業者・西郷竹彦、
その中に次のような記述があります。西郷竹彦『文学の読み方・教え方』
(部落問題研究所,1973)より引用

(6)教師が表現読み
 ・と おとうさんがいって花を一りんさしだしたときに そばに見ている
みんなはユミ子はどうするとおもいましたか。
(7)教師の表現読み
 ・「キャッキャッと‥‥よろこびました」みんなは?
  (ほっとする)
(8)教師の表現読み
 ・(説明も話し合いの不要)(1)〜(8)希望者に表現読みさせる


 
           
教科研と表現読み


  教科研の表現読み指導の理論は、昭39年刊『国語教育の理論』、昭4
1年刊『続・国語教育の理論』などに出現します。これらの本から当時の教
科研の国語指導理論を書いてみよう。
  教科研国語部会では、文学作品のよみ方の指導過程を
 (1)形象の情緒的な知覚(再生)の段階
 (2)形象の論理的な分析(理解)の段階
 (3)表現読みの段階 
の三段階としています。

 (3)の段階の表現読みについて、教科研国語部会の実践家のひとり、宮
崎典男は第二次読みの「主題や思想が定着するのは単なる概念化であっては
いけなく、豊かな形象の世界に戻し、発展させることが必要で、これが表現
読みである」と書いています。また、「表現よみが目標とするものは、論理
的な理解にささえられた情緒的な知覚である。私たちの指導過程は<具体→
抽象→具体>と相互に支えあって進行してきたが、第一の段階で知覚された
形象は、表現読みの段階で次元のちがった深さで知覚されているはずであ
る。」と書いています。
  
引用個所は、国分一太郎・奥田靖雄『続・国語教育の理論』(麦書房)
  110ページより


  表現読みの特徴について宮崎典男は「自己の感情におぼれて読まない。
抑制の美徳が大切。第一の資質は正確さである」と書いています。
 
引用個所は、宮崎典男『読み方指導』(麦書房、昭50)119ページ
 より


また、宮崎は、表現読みと朗読との違いを、次のように書いています。

 表現読みということばは一般的に朗読といってよいかもしれない。しか
し、朗読は個性あるひとつの言語作品からはなれた一般的なものである。そ
こでは、作品個性からはなれて、音声の速度・声量・抑揚・発音などが指導
されるであろう。そのような指導も必要である。しかし、言作品のひとつひ
とつは個性あるものとして存在している。したがってそれを表現的に読むこ
とは、一般的な朗読の指導によっては達せられないであろう。
  
引用個所は、国分一太郎、奥田靖雄編『国語教育の理論』(麦書房、
  昭39)71ペより


  このように宮崎は、「表現的な読みは、朗読の指導では達せられない」
と書いています。これは、宮崎は当時の「朗読」の読み方は、「表現的な読
み方ではなかった」と主張していることを表わしていると言えます。当時の
学校音読の実態は、棒読み、平板読み、つっかえないことに気をつかい朗々
と声高く読み上げる読み、ずらずら読みの中に陥没のリズムをくりかえす学
童読みといわれた音声表現のしかたが一般的だったためと思われます。当時、
教師も、つかえないで、りんりんと響く声立てで読めれば上等という考え方
が一般的だったと言えます。


  敗戦後、昭和22年の学習指導要領は言語活動を重視する経験主義の方
向を打ち出しました。朗読が「聞くこと、話すこと」のなかに位置づけら
れ、「日常の言語生活では、黙読が殆んどで、音読はふだん使われない」と
いうことから黙読重視、音読軽視の学習指導要領となっています。日常の言
語生活では黙読が殆んどで、音読はしない、だから学校では黙読能力を鍛え
よう・指導しよう、ということから音読指導が軽視されました。
 こうした中で、民間教育研究団体の児童言語研究会や教育科学研究会国
語教育部会から「表現よみ」指導の重要性が提案され、継続的に実践研究と
その成果が発表されていきます。

  指導要領の音読・朗読の退行により音読能力が低下し、国語学力の低下
がみられるようになりました。やがて学力低下が社会問題となり、学習指導
要領は昭和46年になって経験主義から能力主義へと変わります。昭和46
年の指導要領から音読・朗読が「読むこと」に系統立てて位置づけられるよ
うになり、黙読重視から音読重視へと転換しました。音声表現の指導は4年
生までは理解行為の「音読」、5年生からは表現行為の「朗読」と位置づけ
られ、音読・朗読の指導が教室の中で実践されるようなりました。



           
文教連と表現読み


  日本文学教育連盟でも、「表現読み」を使用し、指導しています。日本
文学教育連盟のホームページに次のような記載があります。

文教連理論部・研究企画部合同部会まとめ(文責・長谷川俊)による「授業
過程(案)」の中に次のように書かれています。「表現読み」に関する記述
部分のみピックアップします。

《読みの基本的姿勢》
 表現読みを重視する。
   作品世界をくぐりぬけた(つつある)段階で、自分自身をその世界に
おきながら、思い描いた情景やそこでの人物の感情や思いを、相手に(時に
は、自分自身に)伝えるために声に出して読むこと。それにより、さらに自
分の読みが深まる。

指導過程
 第一次  作品との出会い
 第二次  読み深めのめあてづくり
 第三次  まとめ
  (ねらい・内容)
   自分自身をその世界におきながら、思い描いた情景をやそこでの人物
の感情や思いを、相手に(時には自分自身に)伝えるために声に出して読む
こと。それにより、さらに自分の読みが深まる。
  (方法・手立て)
   次の二通りがある。 
  ・作品全体を、場面ごとに分けて順次読む。
  ・読み手の好きな場面、気に入った場面を読む。
 (留意点・ポイント)
  ・自分の思いをこめて、その作品を味わいながら、声に出して読む。
  ・自分の感情や感動の素直な表現として、声に出して読む。



           
児言研と表現よみ


  「表現よみ」の出生は昭和二十年代末、日本コトバの会からだと前記
しました。日本コトバの会の創立は昭和27年3月で、翌年4月に児童言語
研究会が創立されました。
  児童言語研究会は日本コトバの会メンバーのなかの幼稚園や小中学校の
教師だった人たちが立ち上げた研究会でした。当然に日本コトバの会の研究
方向は児童言語研究会の研究方向と同じでした。前記した表現よみ提唱の草
創期の人たち、大久保忠利、若林博、山田テル、菱沼太郎、鈴木敬司、渡辺
武らは日本コトバの会と児童言語研究会の双方に所属している会員たちでし
た。表現よみ指導は彼らによって教室実践が始まりました。
  児童言語研究会において表現よみの音声表現の理論化を推進してきた人
の一人に大久保忠利(都立大学教授)がいます。昭和40年代の会員の一
人、村松友次は「このところ、わが大久保先生は、人が集まってさえいれば
火の玉となって表現よみ研究の必要性をぶつ。表現よみができずに国語教師
がつとまるものか、と」(昭和40年『児言研国語』夏号、明治図書)と書
いています。わたしも当時、児童言語研究会の参加しており、大久保先生か
らおおいにはっぱをかけられたものでした。大久保忠利は昭和40年「表現
よみ序説」の論文を発表しています。それ以後、大久保は自著や児言研機関
誌『国語の授業』に表現よみに関する数多くの論文を発表しています。
  第二回児童言語研究会夏季アカデミー(昭和40年)で小林卓巳は表現
よみの実践報告をしています。第七回アカデミー(昭和45年)からは毎
回、表現よみ分科会が設けられています。第26、27回アカデミーで
は、全体集会のシンポジュームで表現よみの基調提案が行われています。
  児童言語研究会会員による教育雑誌への寄稿論文は数多くあります。次
に会員が書いている表現よみの著書のみを挙げておきます。
 荒木茂著『表現よみ入門』一光社、1979年
 大久保忠利編『表現よみと国語教育』明治図書、1982年
 荒木茂著『音読指導の方法と技術』一光社、1989年
 荒木茂著『音読の練習帳』(全三巻)一光社、1989年
 渡辺知明著『表現よみとはなにか』明治図書、1995年
 田村操編『表現読み』あゆみ出版、1996年」
 田村利樹編『子どもと創る表現よみ』あゆみ出版、1998年
 荒木茂著『群読指導入門』民衆社、2000年
 荒木茂著『表現よみ指導のアイデア集』民衆社、2000年
 荒木茂著『すぐ使える音読練習プリント』(ひまわり社、2007)全三冊

 これら著書には、カセットテープやCDのついたものもあり、現場教師に
大いに役立っているようです。



         
なぜ「表現よみ」なのか


  これまで昭和27年「表現的な読み」の出生から記述し、昭和30年代
末まで「表現よみ」草創期のこと、それから現在までのことを略記してきま
した。
  
  最後に、本稿の目的、なぜ「表現よみ」か、について書くことにしま
す。
  昭和40年以降「なぜ朗読でなく表現よみなのか」について書いている
著書・論文の中から四人の意見を紹介します。


大久保忠利の意見
  大久保忠利は、日本コトバの会創立の発起人のひとりで、創立当時の研
究部長でした。のちに「日本コトバの会」運営委員長や会長を歴任し活躍し
ました。
「表現よみ」育ての親といってもよく、日本コトバの会では毎月の表現よみ
の実技研修で講師役でリードし、その理論化と普及に精力的に尽力しまし
た。
 大久保は次のように書いている。彼の本から三箇所、引用します。

「第一に、日本では以前から「朗読」という語と「音読」という語があっ
た。改めて「表現よみ」という語でわれわれの実践を呼ぶにいたった理由を
かいつまんでのべておく。それはつぎのような理由による。
(1)「表現よみ」は、定義どおり原文の内容を「表現しながら読む」とい
う点に重点がおかれていることは、言うまでもない。
(2)「朗読」でも、同じく内容の表現をねらっていることは、たしかであ
る。したがって「朗読」と呼ばれている音読の中には、われわれの目指す
「表現よみ」と同じものが含められていることは事実である。
(3)ところが「朗読」と呼ばれる音読には広さからいってわれわれが「表
現よみ」とは呼べない他のものがふくまれている。−詩歌を節をつけて音読
する「節つけ読み」、それと、音読者の主観をあまり強く出して聞き手に無
理に聞かせようとする「押しつけ読み」。これらの読みにわれわれは反発す
る。それらの読みとわれわれの読みとを区別するために、われわれの読みの
本質をそのまま表わして「表現よみ」と名づけたのであった。」
   
大久保忠利『話し方第二歩』(春秋社、昭41)213ページ

  作者は「内言」を喚起しながら「文字化」しており、その内言には当
然、感情が加わっています。会話文は感情的な読み分けが大切です。わたし
たちは、(1)その作品・文章そのものが当然求めている知的感情的「読み
方」をまずつかみ、・(2)その上で読み手自身がさらに独自の読みをくふ
うするのです。それが「表現よみ」の原則です。よくある、テレビやラジオ
その他での「朗読」なるものや講談・物語の読みともちがう大切な一点は、
それらの朗読なるものは、読み手の側にすべて一定の型ができあがってい
て、その型のほうに作品をはめこんで読むのに対し(このほうがクロウト受
けや聴取者受けはしても、「表現よみ」から見れば邪道だと見ています。だ
から、わたしたちの読みを「朗読」と呼ばず、「表現よみ」と区別して呼ん
でいるのです。)
  わたしたちの「表現よみ」は、作品の一つ一つの質に合わせて、各段落
・各文・各語句においてその作品自体の要求する音声化を求めつつ、しか
も、その中に読み手自身の主体性と個性を十分に生かす、そういう読みであ
り、まさにそこを目ざして読むことによって、作品をより豊かに鑑賞しつ
つ、読み手自身の精神を豊かにする、そういう読みなのです。
   
大久保忠利『国語教育本質論』(春秋社、昭48)200ページ

「表現よみ」は、「音声による批判的味読」ですから、「聞かせる意識」は
なくなるのです。「聞き手ゼロ」です。そうやって自己訓練をした上で、発
表会などでは「聞き手ゼロの意識で読み、それを聞いてもらう」という心境
を維持して読むのです。図式化すると、「音読」には、「朗読」と「表現よ
み」とがあります。「朗読」には「節つけよみ」と「聞かせよみ」がありま
す。「表現よみ」は「聞き手ゼロ」でよむ読み方です。
 
大久保忠利『国語教育・構造と授業』(あゆみ出版、昭50)116ページ


宮崎典男の意見
  宮崎典男は、教科研国語部会で中心的に活躍していた理論家の一人で、
すぐれた実践家(宮城、小学校教師)でもあります。彼の昭和55年刊『文
学作品の読み方指導』(むぎ書房、昭55・6)を読むと、「表現読み」
は、第3次の「総合読みの段階」の典型的な活動として位置づけられていま
す。「表現読みとは、読者がよみとったその作品につぎこまれている思想や
感情をその高さとゆたかさにおいてあざやかに積極的に表現する読みだ」
(423ぺ)と書いています。「総合読みの段階」では「作品の主題、理想の
思想や感情の表現」が強調されています。
宮崎『文学作品の読み方指導』(むぎ書房、昭55)の中から「表現読
み」と「朗読」とにちがい、二か所、引用します。

「朗読活動」は「総合読み」の段階での「表現読み」と密接し、そのちがい
は微妙である。「表現読み」が、作品の主題や基本的な思想を音声手段に
よってきわだたせることを目標としているのに対して、朗読活動では、その
知覚し、理解したものを、もう一度、作品に対する自分の感じかた、自分の
態度をとおして表現する点にその微妙なちがいがある。(453ぺ−ジ)

  表現読みと、俳優の芸術的な言語表現とおなじにみることはできない。
俳優は特別に調整された音声と、読みに対する専門的・組織的な長期の準備
をもっている。また、その音声は舞台の上で観客を意識して、そのはたらき
かけの効果をあげるための、つまり、演出のための読みなのである。また、
その読みは身体的、視覚的、音楽的な種々の手段と結合した読みなのであ
る。したがって、この段階で生徒に要求されるものは、俳優に要求されるも
のとおのずかれちがってくる。(434ページ)


渡辺知明の意見
  渡辺知明は、長年、日本コトバの会の事務局長であり、会の運営の重鎮
として活躍してきています。表現よみの読み手としては実力者のひとりで、
独演会の公演では常時、チケット完売、会場満員の盛況です。下記引用はす
べて渡辺知明『表現よみとは何か』(明治図書、平7)からです。

一般に声を出して読むことは朗読といわれますが、表現よみと朗読とではよ
みについての基本的な考え方がちがいます。朗読では聴衆にテキストの内容
を聞かせて伝えるのが重点ですが、表現よみは聞き手よりもよみ手自身の理
解に重点をおきます。   
3ページより引用

表現よみの目的はテキストの内容を深く理解すると同時に声で表現すること
です。それに対して、朗読の目的はテキストを聞き手に伝えることにありま
す。    
31ページより引用

朗読と表現よみとをあえて比較するなら、次のような表になります。それほ
ど大きな差はないものを対比したものですから、極端に対立的に受けとらな
いで下さい。   

【対比点】       【朗読】     【表現よみ】
聞き手への意識ーーーつたえる・聞かせるーーー聞き手ゼロ
よみの目的ーーーーーテキストの伝達-----ーーテキストの理解
よみの声ーーーーーー客観的ーーーーーーーー主観的
よみの印象------ーー聞き手へのおしつけーー作品の内容
調子ーーーーーーーー独特のよみ調子ーーー作品の要求する調子
対象テキストーーーーすべての分野の文章ーー文学作品とくに小説
文章の理解---ーーー文法的平坦さー-----ー作品の立体構造
よみ手の態度ーーーー自己放棄ー------ーー自己表現
よみの目標ーーーーー作者の意図ーーーーーよみ手の理解
                     
34ページより引用


荒木茂の意見
  わたしの意見は、拙著『表現よみ指導のアイデア集』(民衆社、平1
2)の10ぺ〜13ぺに、4ページにわたって書いてあります。ここに全文
引用はとてもできません。ここでは、その中から一部分だけを引用しましょう。

 朗読とは種々雑多な読み音調、すべてを含んで使われております。わたし
たちが主張する「意味内容の表現価だけを音声表現するしかた」の「表現よ
み」も含むが、その他、朗読は、節つけ読み、オーバーな押しつけ読み、口
先の技巧読み、平板な一本調子読み、早口読み、小声読み、メロディアス読
み、陥没読み、へんな読み癖など、音声表現のいらぬ夾雑物、むり、むだ、
不純物などを全て含む音調で使われています。

 巷間では、朗読はこんな使われ方もしています。裁判官が判決文を朗読す
る、検事の調書朗読、衆議院議長の解散詔書の朗読、提案者が議案書を朗読
する、組合で大会宣言を朗読する、結婚式で誓いの言葉を朗読する、聖書の
朗読、詩人が自作詩を朗読、祝辞や弔辞の朗読、などの使い方もあります。
これらの読み音調は文章をたんに音声に変えているだけ、文字をずらずらと
読み上げるだけの音調にしかすぎません。

 現今、これら種々雑多な「朗読」の概念が、学校教育における理想の読み
音調、標準的な読み音調が定まらない原因の一つとなっており、これが音読
指導の停滞を招いている原因ともなっています。上述した種々雑多な「朗
読」の音声表現の仕方が学校における児童の読み声としてどれでもよいとい
うことにはなりません。教室での音読の読み声のありかたが種種雑多であっ
てよい、アナ−キーであってよい、ということにはなりません。
 現在、朗読の概念の内包には、あれもこれもごった混ぜの、多様な、混濁
した意味内容が含まれています。このままでよいということにはなりません。
 学校で児童生徒が身につける(教師が指導する)べき標準的な音声表現の
仕方(音調)があるべきでしょう。学校教育における標準的な(スタンダー
ドな、ノーマルな、基本的な、理想の)音読の読み声(音調)があるはずで
す。これが「表現よみ」なのです。文章の表現価のみに焦点づけて音声表現
の指導をしていこう、そこに焦点をすえ、同時に読解能力も高まる音読指導
(音声解釈、oral interpretation)を指導していこう、こうした理由から
「表現よみ」が主張されているのです。



       
「表現読み」か「表現よみ」か


  「表現読み」か「表現よみ」か。表記のしかたの「ヨミ」部分が漢字
か、ひらかなか。
  この用語の概念の外延は、文章内容の要求する(意味する)表現音声と
しての音価(音声価)のみを、素直に自然に(よけいな無理、むだ、夾雑物
を入れないで)音声表現する、という規定はだれもが認めるのではないで
しょうか。
  この用語の概念の内包は、各論者の主張点、強調点によって、またはそ
の文脈が意味する内容によって相違はあるでしょう。しかし、外延の同じ用
語が、二つの表記のしかたがあることは、よいことではありません。二つは
同じ概念(用語)なのに、表記が違うと、異なる内容の用語だと誤解して受
け取られてしまうことにもなります。
  これまでみてきたように昭和30年代末までは、すべての著書、論文の
記述は「表現読み」と、「ヨミ」が漢字書きの表記となっています。昭和4
0年以降からは、日本コトバの会会員や児童言語研究会会員の著書、論文の
記述は殆んど「表現よみ」の表記となっています。昭和40年以降の教科研
国語部会の著書、論文では、殆んど「表現読み」の表記で、若干「表現よ
み」が見られます。教科研の著作物では「表現読み」が多いようにみられま
す。教科研でも、表記が一定していないようです。
  これまで、「表現よみ」についての著書・論文の中で表記のしかたが問
題視され、話題になったことはありません。本稿が初めてです。
  これまで論者たちが著書、論文に書くとき、二つの表記を意識的に使い
分け、主張をもって書き分けているとは、わたしには思われません。なんと
なく従来の流れで無意識に使っているように思われます。
  この用語の出自は、前述してきたように昭和20年代末、当時の「朗
読」というある種の型はめの読み方に対立し、否定するものとして「表現的
な読み」とか「表現的な読み方」が文脈の中のフレーズで使われ、それが短
縮して「表現読み」という呼称と表記で使用されるようになったのでした。
  わたしが日本コトバの会に入会し、初めて表現読み部会に参加して録音
機をつかった実技練習を開始したのは昭和37年(24歳)からです。テキス
トは、石川達三『風にそよぐ葦』や山本有三『路傍の石』でした。昭和30
年当時は、わたしもみなさんが使用している「表現読み」の表記を使ってい
ました。
  しかし、昭和40年代からは「表現よみ」の表記を使っています。その
理由はこうです。草創期は「表現的な読みをする、表現的な読みをしよう」
という文脈的な用法で用いられ、それが「表現読み」と短縮したのでした
が、この「表現読み」の語感を改めて考え直してみると、「表現よみ」の方
がよいように思われます。「表現読み」の「読み」は、「読む」の連用中止
法の名詞的用法ですが、「読み」ですと、どうしても動詞「読む」の動作
性、声に出して読むの動作性が強く出ます。動作性を脱落させ、固有名詞と
しての名詞性(事物性)をはっきりと表出するには「表現よみ」のほうがよ
いと、私は考えます。
  日本コトバの会、児童言語研究会では、ここ20年は「表現よみ」の表
記で一定して使用されてきています。これからは「表現よみ」で固定して使
用されていくのではないでしょうか。
  このように「表現的な読み方」→「表現読み」→「表現よみ」となって
定着し、落ち着くわけですが、これは福沢諭吉の「演説」という言葉がたど
った現象と同じ経過であると言えましょう。
  福沢諭吉は著書『学問のすすめ』の中で、「演説」を提唱していること
は多くの人に知られています。福沢は『学問のすすめ』の中で「演説」とい
う言葉を使ってスピーチの重要性を強調していますが、『学問のすすめ』が
出版された当時は、「演説」という言葉は必ずしも定着していたわけではな
く、他にも「談論」、「演舌」、「講演」、「口演」、「講談」、「講筵」
などの言葉が「演説」と同じ意義として使われていて、「演説」に落ち着く
までしばらくの時間がかかり紆余曲折もあったようです。



       
表現よみ」を外国語で言うと


 「表現よみ」のことを、外国語ではどんな単語で表現するのでしょう。今
から20年ほど前(正確には1984年)になりますが、「朗読」と「表現
よみ」の違いをよく知っている三人の大学教授に直接に質問してみたことが
あります。

 英語では、どんな単語で表現するのでしょう。
 井上尚美(東京学芸大学教授)は、次のように言いました。
 「朗読」は「reading  aloud」ですが、それだと、ただ声に出して読むと
いう意味になってしまいます。「表現よみ」は内容理解にもとづく表現をつ
けて読むということですから、英語教育でいう「oral interpretation」が
いいと思います。

 大久保忠利(東京都立大学教授)は、即座に「表現よみ」は「expressive
reading」だと答えました。大久保案は、英語表現にはない新造語であり、
井上案は英語表現枠内での当てはめだと言えます。

 ドイツ語では何と表現するのでしょうか。
 下川浩(独協大学教授)は、次のように言いました。
 大久保忠利流に言えば、「expressives lesen」であるが、「表現よみ」
は、よりドイツ語的な表現にして「ausdrucks lesen」とするのがよいでしょ
う。「ausdrucks」は、「外側へ押し出す表現」という意味です。と答えて
くれました。



以下、2012・5・9付加新原稿


              
補遺


  本章「表現よみ教育の歴史・
第一部」(前ページ)「表現よみの出
自」
個所で、「表現よみ」の用語(固有名詞)の出生、いつから使われるよう
になったか、について書いた。
  昭和29年発行、日本コトバの会編『教師のための国語科』という本の
文章のなかに音読の音声表現の仕方としての「表現的な読み」という記述が
見出されると書いた。この「表現的な読み」が昭和31年になると、「表現
読み」という用語となり、固有名詞として固定した、と書いた。昭和31年
「日本コトバの会」の月例研究会で「表現読み」が論題のテーマとなったり、
教育雑誌、教育書などの中にも音声表現の仕方の「表現よみ」(固有名詞)
が使われ出すようになった、ということを書いた。

  「表現よみ教育の歴史・第一部」(前ページ)の章を執筆したのは1003
年であったが、この「表現のための読み方」という言葉が初出したのは、も
っと前にもあったことが9年後の現在になって分かった。「明治以降の素
読・朗読の変遷史」を調べていく中で分かってきた。

 石山脩平『教育的解釈学』(賢文館、昭10)に下記のような文章があ
るのを見出した。第3篇「解釈の方法」の中の、第6節「味読(鑑賞)段階
の任務」に下記のような文章がある。

  この段階は読者が作者に代わって文の想を発表することを要件とするも
のであって、田中氏が「表現のための読み方」と言はれた「朗読」が必然に
この任務を負はされる。朗読と共に「暗誦」もまたこれを果たすことは勿論
であり、更に「感想発表」の如きも作品の含意の展開を読者に行ふものであ
って、「表現のための読み方」に属せしむべき仕事である。


 おなじく石山脩平『国語教育論』(成美堂書店、昭12)にも「表現の
ための読み方」の語句が見出される。下記は、第2編「国語教育方法論」の
なかの「味読その指導」にある文章からの引用である。190ぺに書いてあった。

  優秀な児童は殆ど最初から自分の文を読むかの如くに読むのであるが、
これは既に一挙にして通読・精読・味読を兼ねているわけである。田中豊太
郎氏が朗読を以て「表現のための読み方」(注58)と言はれたのも、読者が
宛も自己を表現するかの如き態度(即ち自分の作品を読むかの如き態度)を
以て読むからである。
(注58)田中豊太郎氏『読方教育の実践原理』 


 石山脩平氏が『国語教育論』の注記58で紹介している田中豊太郎『読方
教育の実践原理』(賢文館、昭9)を読んでみた。「表現のための読み方」
については56ぺ〜58ぺに書いてあった。下記に引用する。

  文は、内面的には作者の心持の表現であり、作者の心持を言葉に宿し文
に宿して現して、形としての表現が出来ているのである。即ち文は作者の表
現である。文を、前者の様に内面的に見ないで、文は文として見、随って表
現せられた、その形式的な語句、文章といふものを重く見るのである。けれ
ども、また前の形式論者の様に客観的な冷静な文だけの形の研究といふ意味
ではないのである。
  随って読方教育は、この表現を読ませることであるといふのである。そ
の表現せられた文字・語句・文章を通して表現しようとした作者の心持を読
みとり、味はひとるといふことを重んじたのである。
  自己を読むといふ主張が、如何にも内面的で深刻な作用をいっているの
に対して、ともするとこの真意を理解することが出来ないために、全く主観
的に文を解釈してしまう恐れがある。それを心配して、表現を読むと(荒木
注「表現を読むと」まで、傍点がうってある)いったのは注意すべきことで
ある。文には必ず読むべき必然的なものがある。(荒木注「必ず読むべき必
然的なものがある」まで傍点がうってある)。勝手に自己の感想なり、甚だ
しきは自己の連想をもって文を読んでいくといふ様なものではおぼつかない
のである。つまり自己を読むといふことは、文を読むことに対して主観的に
内面的に考へたものであるが、表現を読むといふ主張は文を客観的に見ても、
その文に必然的な内容の存することを前提として、その表現されただけの内
容を過不及なく読んでいくといふ態度である。表現されただけの内容を読む
といふことは、読方教育としての当然の態度であると思ふ。自己を読む主張
も、主張者自身では実際にはそれ程的外れのとをやっていたり、出鱈目のこ
とをやっているのではないが、これを真似て真意が分からずしてやっている
ものに対しては、どうかするとこの主観的連想的なことに走ることまでも認
めていくことになるので、この表現を読むといふ主張の方が一般的に間違ひ
のないものだと思ふ。    56ぺ〜58ぺより


  田中豊太郎氏の「表現のための読み方」とか「表現を読む」とかの主張
は、文は作者が表現しようとしたもの(作者の内面を、心持を、真意を)読
みとるべきであり、「自己を読む」といって主観的に恣意的に読んではいけ
ない、そんな危うい読み方をしてはいけない、と芦田恵之助「読むとは自己
を読むことなり」をやんわりと暗黙に批判している文脈の中の文章のように
読みとれた。
  田中豊太郎氏は「表現のための読み方」を直接に音読朗読の読振りに結
びつけて論じていないが、これを石山脩平氏は優秀児童が一挙に通読・精
読・味読を兼ねた朗読として、これが「表現のための読み方」であると論じ
ている。

 岡山師範付属小『実践朗読法と話聴教育』(明治図書、昭11)、第1
章「朗読法の根本問題」の中の第5節「朗読法の真髄とは何か」にも、「表
現のための読み方」と類似した記述があった。朗読は「自己満足の読み」に
終わってはならぬ、「表現の読み」でなくてはならぬ、という文章があるの
を見出した。

  朗読はどこまでも其の文章を書いた人がその時に、真に考へ、本気にそ
の心持となり、此を他人に告げようとして出した音声、その音声と同じ音声
を出すこと即ち、真の言語行動、自然の言葉と同じ音声を出す事なのであっ
て、どこまでも意味表現を主とする読方を言ふのである。其の文を如何に理
解し、如何に鑑賞しているかを、その文を通して発表せんとする「表現の読
み」でなくてはならぬ。朗読は決して単なる「自己満足の読み」に終わって
はならぬ。少なくとも国語科学習上の朗読は個人本位であることはゆるされ
ぬ。
    36ぺより

 以上、四つの著書を紹介した。
昭和9年発行、田中豊太郎『読方教育の実践原理』(賢文館)
昭和10年発行、石山脩平『教育的解釈学』(賢文館)
昭和11年発行、岡山師範付属小『実践朗読法と話聴教育』(明治図書)
昭和12年発行、石山脩平『国語教育論』(成美堂書店)
  これらの書物から分かることは、昭和10年前後から「表現のための読
み方」「表現の読み」「表現を読む」などの語句で直接に間接に音声表現の
仕方に関わる記述があることが分かった。
  本ホームページの「表現よみ教育の歴史・第1部」の「表現よみの出
自」個所では、昭和30年前後から音読の音声表現の仕方としての「表現的
な読み」という文章記述が見出されると書いたが、これは誤りであることが
わかった。昭和10年代から、「表現のための読み方」「表現の読み」「表
現を読む」というような語句・フレーズの使われ方が見出される、というこ
とが分かった。
  そして、昭和31,2年ごろから「表現読み」「表現よみ」という用語
の固有名詞に定着して使われるようになった、ということになる。しかし、
田中豊太郎、石山脩平、岡山師範付属小の書籍に書いてある「表現のための
読み方」「表現の読み」「表現を読む」は、文章の表現内容を客観的に読み
とることが重要という主張であり、音声表現の読み音調・読み調子のあり方
については述べていない。昭和31,2年以降の日本コトバの会における
「表現的な読み方」「表現よみ」という読み音調・読み調子を含めた主張と
は内容的には相違している。


            
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