音読授業を創る  そのA面とB面と    06・7・21記




  句読点の音声表現のしかた




           
句読点とは


  本稿では、句読点とは、文章記述の符号として使われている「句点と
読点」の二つを指しています。句点とは、「まる」のことであり、読点と
は、「てん」のことです。
  しかし、句読点を広いカテゴリーでくくることもあります。文字以外の
いろいろな符号をすべてを句読点と呼ぶこともあります。下記のような符号
をすべて句読点と呼ぶことがあります。これらは、くぎり符号とも呼ばれる
こともあります。
(1)「 。」まる・句点・しろまる。
(2)「 、」てん・読点。
(3)「・」なか点。くろまる・ぽつ・中ぐろ。
(4)「  」かぎ。
(5)『  』ふたえかぎ。
(6)(  )かっこ。パーレン。
(7)〔  〕かくがっこ。
(8)「──」ダッシュ・なか線・ぼう。
(9)「……」てんてん。
(10)「=」つなぎ。
(11)「、、、」わきてん。
(12)「――」わき線。
(13)「?」疑問符。
(14)「!」感嘆符。
  これら句読点は、次のような目的で表記上の手段として使われます。
(イ)文や語句の切れ続きをはっきりさせる。
(ロ)文の文法的、理論的構造を示して、文の意味をたやすく正確に伝え
   る。
(ハ)文章にリズム・調子・口調をつけて、書き手の気分や癖を伝える。



       
機械的な指導方法は不可


  昔から学校教育では、句読点の音読指導でこんな教授方法があるそうで
す。
  子どもが教科書の文章を音読している途中で、読点(てん)個所にくる
と、手をチョンと一回打つ(または、首をコクンと一回下げる。または足で
床を一回、軽く打つ。)、音読している途中で句点(まる)個所にくると、
手をチョンチョンと二回打つ(または、首をコクンコクンと二回下げる。ま
たは足で床を二回、軽く打つ。)、その分だけ文章の「てん、まる」個所で
間をあけつつ読み進む、というやり方です。こうした教授方法で文章の「て
ん、まる」個所で間をあけて読むことを指導する方法です。
  わたしは、この指導方法には賛成できません。こんな機械的なやり方で
文学作品を情感豊かに音声表現することはできませんし、説明的文章を内容
が相手に分るように伝える音声表現をすることはできません。
  一年生の教科書の説明文では、一文が短いですから、大体はこの方法で
間に合うかもしれませんが、一年生教科書の文学作品になると長文の一文も
出現してきますので、この方法では間に合わなくなります。
  例えば、「くまさんが、ともだちのりすさんに、ききにいきました。」
(光村1上、はなのみち)という句読点が二か所ある一文があります。この
一文では、音読する場合、「ともだちのりすさんに」の下に読点がついてい
ますが、ここでは間をあけないで「ともだちのりすさんにききにいきまし
た。」までひとつながりに続けて音読したほうが意味内容が分断されないで、
聞いていてよく分る音読になります。
  てんやまるの個所ごとで手を打ったり、首をこっくりしたりすれば、読
み声の勢いが分断され、味も素っ気もない、つまらない、意味内容が途切れ
た音声表現になってしまいます。コンピューター制御のロボットが機械的に
しゃべってる音調みたいになりがちです。

  これまで荒木は、一年生最初から「まる(句点)では、殆んどそこで休
んで読みます。てん(読点)では、休むところ、続けて読むところ、てん
(読点)がなくても休むところ、いろいろあります。」と指導してきまし
た。また、一年生最初から、間には一つ分、二つ分、三つ分などの間(休む
ところ)があることも指導してきました。この指導方法で不都合なところは
ちっともありませんでした。
  一年生の国語授業の前半はかな文字の読み書き指導で終わりますが、一
年生後半からは文章の音読学習がはじまります。わたしは一年生夏休みあけ
からは、強く読むしるし、弱く読むしるし、速く読むしるし、ゆっくりと読
むしるし、間のしるしの一つ分、二つ分、三つ分などを指導してきました。
そのしるしを教科書本文の右側の余白に書き込ませる指導を少しずつはじめ
てきました。そのしるしづけに従った実際に音声に出して音読する指導をや
ってきました。
  荒木としては、せいぜい大きくゆずって、一年生の時期だけは、間をあ
けて読むことに気を使って読むという指導目標から昔ながらの音読方法(手
を打つ、首をこっくりする)で指導することは大目に見て、片目をつむっ
て、そしらぬふりして、少しは許せます。
  しかし、二年生以上からは、昔ながらの方法は絶対にやめるべきだと考
えます。こういう機械的な指導方法では二年生以上の教科書の文章では間に
合わなくなるからです。文章内容に見合った、自然で表現性豊かな音声表現
にはならないからです。
  一年生で昔ながらの手を打ったり、首をこっくりしたりの方法で指導す
ると、二年生になってその癖が出て、なかなか矯正できなくなるという場合
も出てきます。ですから最良の方法は、昔ながらのやり方は一年生最初から
やらないのがいいのです。



   
「文章の句読点」と「音読の句読点」


  「文章の句読点」とは、筆者が文章の執筆時に書き入れた「まる、て
ん」のことです。教科書に記載されているままの「てん、まる」のことで
す。
  「音読の句読点」とは、音声表現するときに文章のところどころでほん
のちょっとした間をあけて読みすすむときの間あけのことです。
  音読の句読点には、いろいろな種類があります。文終止を示す間、意味
内容の区切りを示す間、論理的なつながりを示す間、係り受けの間、強調の
間、情感や余韻を表す間、言いよどみの間、期待もたせの間、反応確かめの
間、考えている間、沈黙の間などいろいろあります。
  「文章の句読点」と「音読の句読点」の二つについては、MY HPの
「学年別教材の音読授業をデザインする」の第5学年にある「なぜ、おばけ
は夜に出る」解説文をお読みください。そこにはこの教材を材料にして「文
章の句読点」と「音読の句読点」の二つについて詳細な記事が掲載されてい
ます。五つの例文をあげながら、クイズ形式で詳述してあります。
  下記をクリックすると、「なぜ、おばけは夜に出る」の個所が出ます。

   http://www.ondoku.sakura.ne.jp/gr5nazeobakeha.html へのリンク



          
参考資料(1)


  永井智雄(俳優座俳優)さんは、彼のご著書の中に、「句読点に注意
しながら、句読点を無視することも必要」ということを書いています。それ
を、下記に引用しましょう。

ーーーーーーー引用開始ーーーーーーーー

  句読点について言えば、「句読点に注意しながら、句読点を無視するた
めの研究」が必要になってくる。これは、ちょっと矛盾するように思われる
かも知れないが、文章を、生活的によりリアルにして行き、冷たい活字に息
を吹きこむために大切である。《注意しながら、無視する》──というの
は、《 、》や《 。》のところで、かならず言葉を切る必要はないという
ことである。《小説》などの場合は特にそうだが、作者は、朗読されるのを
意識して、文章を書いているわけではない。文字として黙読されるのを考え
ながら書いている場合のほうが、はるかに多いのだ──これは決して作家や
作品の価値をおとしめるものでないことは、もちろんである──。
  『石うすの歌』の場合で言うと──「おばあさん、わたしがひく
わ。」……。この句読点はこのままでいい。おばあさんの次の《 、》で、
ちょっと言葉を切り、「わたしがひくわ。」が強調されるわけだ。
  しかし次の──「そうかい。おばあさんは精も根もつきてのう。力が出
んのじゃ。」……という表現の場合は、「おばあさんは」のあとの《 、》
は無視したほうがいい。そしてむしろ、次の「もう」の後に《 、》があっ
たほうがいい。つまり──「そうかい。おばあさんはもう、精も根もつきて
のう。力が出んのじゃ。」……。この表現、この句読点の方が、おばあさん
の気持ちが表現しやすくなる。
  さらに、「お姉ちゃん、わたしもやるわ。」という、瑞枝が、気をとり
なおす言葉は、このとおりの句読点になるだろうが、「と、すぐに手をかけ
ました。」の「と」のあとの《 、》はいらない。文章では《 、》があっ
ても、朗読する場合は、無視したほうがよりリアルになるのだ。こういうこ
とは、《劇文学》の場合でもよくあることだ。(中略)
  朗読にあたっては、「句読点やその他の記号に注意をはらうこと」──
これがまず大切……。そして注意が行きとどき、生きた言葉にするために
は、「句読点、その他の記号を、無視したり、移しかえたりする場合もある
こと」……。これが第二のポイントだ。

ーーーーーーー引用終了ーーーーーーー
      永井智雄著『朗読術入門』(あゆみ出版、1980)151ぺ




         
参考資料(2)


  谷崎潤一郎(作家)さんは、「句読点は合理的には扱え切れない。」
と、彼の著書の中に書いてあります。
  これは、現在というか現在までというか、日本語には句読点の使い方の
正式かつ厳密な句読法(きまり・規則)が確立していないことを示していま
す。てん、まる、かぎ、ふたえかぎ、てんてん、ダッシュ、なか点などの符
号の正式な使用法が決定していないからです。漠然とした、あやふやな決ま
りはありますが、筆者によってかなりの自由度があります。つまり、いいか
げんな、幅の広い使われかたをしている、という現状にあるのです。

  谷崎潤一郎(作家)さんは「源氏物語」の須磨の巻の一部分をご自身
が現代語訳した下記の文章を取上げて、句読点の使用法について言及してい
ます。

   あの須磨と云う所は、昔は人のすみかなどもあったけれども、
  今は人里を離れた、物凄い土地になっていて、海人の家さえ稀
  であるとは聞くものの、人家のたてこんだ、取り散らした住ま
  いも面白くない。そうかと云って都を遠く離れるのも、心細い
  ような気がするなどどきまりが悪いほどいろいろにお迷いにな
  る。何かにつけて、来し方行く末のことどもをお案じになる
  と、かなしいことばかりである。


  谷崎潤一郎さんは、上記のご自身の現代語訳について、次のように書い
ています。

ーーーーーー引用開始ーーーーーーーーー

  句点が終止の印、読点が区切りの印だと云いますけれども、例えば前記
の源氏物語の訳文を御覧なさい。ああ云う場合に、あれを三つのセンテンス
と認めれば、「面白くない」で句点、、「「お迷いになる」で句点、、「こ
とばかりである」で句点、でありますが、あれを一つのセンテンスと認めれ
ば、最後「ことばかりである」の所へだけ句点を打ってもよいし、まだ彼処
でも完成していないと認めれば、全部を区切りの印・読点にしてしまうのも
よい。却ってそのほうが余情があるという見方もあります。
  現に、今私は「読点にしてしまうのもよい。却ってそのほうが」と書き
ましたけれども、「あれを一つのセンテンスと認めれば」の句が「余情があ
る」まで懸かっていると解釈しましたら、この「しまうのもよい」の下の句
点を読点にしても差し支えない。
  また、「見方もあります」がその前の「印だと云いますけれども」を受
けているものと解釈しましたら、「御覧なさい」の下の句点までも読点にす
ることが出来ましょう。ですから、句読点と云うものも当て字や仮名使いと
同じく、到底合理的には扱い切れないのであります。
  そこで私は、これらを感覚的効果として取り扱い、読者が読み下す時
に、調子の上から、そこで一息入れて貰いたい場所に打つことにしておりま
すが、その息の入れ方の短い時に読点、やや長い時に句点を使います。この
使い方は、実際にはセンテンスの構成と一致することが多いようであります
が、必ずしもそうとは限りません。
  わたしの「春琴抄」と云う小説の文章は、徹底的にこの方針を推し進め
た一つの試みでありまして、例えばこんな風であります。

(荒木注。ここで「春琴抄」の長文引用が彼の著書の中に記述されている
が、本稿ではほんの一部分だけの記述にする)

   女で盲目で独身であれば贅沢と云っても限度があり美衣美食
  を恣にしてもたかが知れているしかし春琴の家には主一人に奉
  公人が五六人も使われている月々の生活費も生やさしい額では
  なかった何故そんなに金や人手がかかったと云うとその第一の
  原因は小鳥道楽にあった就中彼女は鶯を愛した。

  ここで、私の点の打ち方は、
一、センテンスの切れ目をぼかす目的
二、文章の息を長くする目的
三、薄墨ですらすらと書き流したような、淡い、弱々しい心持を出す目的
などを主眼にしたのでありました。

ーーーーーー引用終止ーーーーーーーー
       
谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)151ぺより引用



             
後記


  以上、二つの参考資料で、次のことがらが分ってきます。
  俳優・永井智雄さんの文章からは、句読点は音声表現するとき大事にし
なければならない、句読点を粗末に扱って自分勝手にすべて無視して読んで
よいとはならない。
  しかし、生きた言語表現・自然な語り読みの音声表現にするには、必ず
しも句読点にしばられて音声表現する必要はない、ときに無視して音声表現
することも多くある、ということです。
  文豪・谷崎潤一郎さんの文章からは、作家・筆者・書き手の表現意図・
モチーフ・主題化意識や、強調の置き方や、情緒・情感・余情・雰囲気の創
り方や、レトリック感覚や、文章への審美的センスなどによって句読点のつ
け方が随分と相違する、ということが分ります。単なる機械的な息継ぎの記
号ではない、ということが分ります。

  句読点のうち方の一般論をいえば、
  教科書の場合の句読点は、音声表現のことを考えてうたれているかとい
うと、そうではなく、大体は意味内容の区切りや文章論的な文内構造のまと
まりからうたれていることが多いようです。
  また、作家(物語)・筆者(説明文)が文章を書き進めている、そのと
きの思考の流れや息づかいや気分やリズムで句読点をうつ場合もあるようで
す。


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