第8章「表現よみ授業入門」        2016・3・28記




    
なぜ音読授業は技術指導になりがちか




          
 まず概念規定から



 本稿でいう「音読授業」とは、文章を音声表現(単なる文字の音声化では
ない。文章内容の音声表現です)する授業をさしています。つまり、文章内
容を声にのせて「表現よみ」することをさしています。
 本稿でいう「技術指導」とは、ここの文章個所で間を二つ分あける、ここ
の語句を強調して読む、ここの文末をのばして上げる読み方にする、ここの
段落冒頭は転調して読みだす、ここは早口で追い込んで読み進めていく、こ
の文末はゆっくりと次第に声量を落として読み納める、ここはびくっと驚い
た気持ちをこめて読む、というような意味内容に応じた音声のメリハリづけ
のテクニック(技術)のことをさします。



  
 音読指導はどうしても技術指導の話し合いに傾く


 わたしは本稿で「音読指導はどうしても技術指導の話し合いに傾く。メリ
ハリづけの技術指導になるのが当然だ」ということについて書くことにしま
す。こういう言い方は誤解を招きやすいですが、いわゆる読解指導と音読指
導と、二つの相違点を明確にするには、こうした観点で記述した方が分かり
やすく理解できると思うからです。
 今から43年前、わたしの所属する横浜児童言語研究会で、一読総合法に
よる表現よみ授業「力太郎」(上笙一郎)の報告をしたことがありました。
参加者にその授業テープ録音を聞いたいただきました。その時の合評会で林
進治さんから下記のようなご意見をいただきました。(林進治さんは、わた
しが横浜・浅間台小に勤務していた時の校長。一読総合法の提唱者のひとり。
林校長と同一勤務校であった四年間・一読総合法の指導を直々に受けた。こ
のテープ録音の発表当時は、他校の校長となっていた。)
 以下に林進治さんのご講評の一部を書きます。そのままでなく、読者の便
宜を図って理解しやすく敷衍して書いています。(詳細は、本HPのアーカ
イブス録音公開・第18章第3節のア「力太郎」授業の合評会、林進治さん
の実際の語り声を聞いて下さい)

 一読総合法の授業というと、一般的に、読んでわかったことを話します、
ようすを話します、気持ちを話します、人物になって話しかえて言います。
表象化とか、分からないこととか、疑問とか、感想意見出しとか、こうした
ことが断片的に話し合われるが、肝心の押さえどころが明確に押えられてい
ない授業が多くみられる。話し合いが細かなことだけで、それて終わったし
まうことが多くみられる。
 きょうの荒木さんの表現よみ授業で言えば、文章の一つひとつの個所につ
いて、間とか、強調とか、緩急変化とか、区切りとか、転調とか、どう読ん
だらよいかという音声表現の技術的な話し合いが多い。「働いても働いても
ふろもわかせんほどびんぼう」の「……も……も」とか、「とんとむかし」
の「とんと」とか、「……そうな」という語り口、今日の授業ではここがは
っきりしなかったが。一日の汗にまみれた労働の、せめてもの楽しみ・喜び
が風呂に入ること、ひとふろあびることであった、そういうことが押さえら
れていない、そういう労働と風呂との肝心な押さえどころが総合されて話し
合われていない、当時の暮らしている状況が十分に話し合われていない、そ
ういうオシサのある授業になっている、
というご講評をいただきました。

 林進治さんのご意見は、全くその通りで、指摘された事柄についての、わ
たしの意識のなさもりあり、林さんのおっしゃるとおりで、首肯するだけで
す。肝心の押さえどころが弱かった、その通りです。
 以下、林さんのご講評について、わたしの言い訳や自己反省や少しばかり
の反論を含めて書くことにします。



       
言い訳や自己反省や少しの反論


 音声解釈(Oral interpretation)による表現よみ指導をなさっていな
い先生、読解の話し合い指導ばかりを熱心になさっている先生からみれば、
わたしの表現よみ指導の授業を耳にすると、音声のメリハリづけの技術・テ
クニックの指導に片寄った話し合い授業になっている、そうした話し合いが
多く、文章内容を読み深める読解指導がおろそかになっていると思われるか
もしれません。
 わたしは、これまで俳優・声優・アナウンサーが講師を務める社会人の朗
読研究会に幾度も参加して実技指導を受けてきました。そこでの話し合いは
「こういう文章内容だから、ここで間をいくつあけるべきだ」「ここはゆっ
くり(速く)読む。その理由はこうだからだ」「こういうふうに解釈できる
から、ここで強調する」「人物のこういう伝達意図だから、ここの会話文の
文末は昇降調で読む」「こういう理由から、ここは密やかに読む。」と、メ
リハリづけの理由を一つひとつ意味内容を分析と関連付けて言うことはめっ
たにありませんでした。
 微妙な音声変化の一つひとつに理由づけを語ってから音声表現することは
困難だからです。成人でも困難なのですから、まして、小中学生に理由づけ
を一つひとつ語らせることはとても無理です。もちろん、理由がはっきりし
ていている場合は語らせていいことは言うまでもありませんが。
 成人の朗読研究会における話し合いの多くは、実際に音声表現した結果に
ついて「……の雰囲気(感じ)が出ていた、出ていなかった」とか「……の
雰囲気(感じ)にして読むべきだった」とか「人物の……という気持ち・話
し意図が読み声の前面にもっと出てたほうがよかった」とか「ここの場面は
……だから、……の雰囲気(気分、情趣、情調)の声調にして読むべきだっ
た」という自己反省が語られ、その中で文章の意味内容が話題として出てく
る、という話し合いが大部分でした。
 つまり、実際の音声表現の結果からメリハリづけの技術的な話し合いをす
るのが殆どでした。実際の読み声の結果についての自己反省として生まれた
作品解釈(分析)とメリハリとの連関の語り合いはなくもないが、それはわ
ずかでした。「これこれの理由から、これこれの意味内容だから、ここのメ
リハリはこうですべだ。」と、微妙な音声変化の一つひとつに意味内容と関
連づけて語ることはめったにありませんでした。(関連、本HPの第8章に
ある「なぜこう音声表現するかの理由をいわせてはいけない」を参照)



       
読解授業と表現よみ授業との違い


 読解という読み深め授業の話し合いの多くは、コトバによる理詰めな分析
や感想意見だしの話し合いが多くなります。読解授業では、読み深めの分析
的な解明的な話し合いが多くなります。
 文学作品では、場面の様子、場面展開の流れとその因果関係、人物の行動
意図・気持ちとその変化、人物像、人物同士の関係、事件の推移とその明確
化、主題、感想意見だしなどの分析的な理づめな話し合いが多くなります。

 これに対して表現よみ授業では、発声発音、線条的な文章の区切り方、間
のあけ方、抑揚、緩急変化、強弱変化、遅速変化、強調、転調、情感や余情
の表出など、音声表現のメリハリづけの技術的な話し合いが多くなります。

 読解授業では、作品内容をコトバによる理屈づけての、分析的思考、理性
的思考、解明的思考による話し合いの話題が多くなります。表現よみ授業で
は、音声のメリハリづけという直感的思考、感性的思考、聴覚的思考、総合
的思考による話し合いの話題が多くなります。
 表現よみ授業では、読解授業でのコトバによる分析的な理性的な思考操作
は深層に沈殿しており、表層では音声表現のメリハリづけの話し合いの話題
が突出してきます。つまり、表現よみ授業では、作品世界を直感的、感性的、
聴覚的、総合的に思考する、つまり、パッパッとした即自的なその場その場
での瞬間的な音声のメリハリ選択の思考が要求されます。音声によるメリハ
リ表出という技術・テクニックに焦点化した話し合いの話題が当然に多くな
ります。

 本ホームページの第18章12節「力太郎」授業の合評会で、林進治さん
が「とんと」「そうな」「…も…も」などの語句の押さえがあいまいだった、
主題に結びつく肝心のまとめの押さえ(労働)の話し合いが欠けている、な
どの指摘をしてくれています。林進治さんのご指摘は全くその通りで、授業
者としてはとても参考になりました。わたしとしては押さえたつもりになっ
ていましたが、指摘されて、不十分であいまいな押さえだったとあとで気づ
きました。
 「とんと」とは、辞書によると「すっかり。まるで。まったく」(広辞
苑)とあります。ここでは「ずっとずっとむかしのことだよ、はなしだよ」
ぐらいの意味でしょう。「そうな」は、伝聞の「そうだ」で、「伝え聞いて
いる。言い伝えられている。という話だ。」という意味でしょう。「…も…
も」は、同じ言葉を繰り返して意味を強調している働きで、ここでは「いく
ら・どんなに・働いても働いても」というほどの意味でしょう。
 「力太郎」の授業は、わたしが20代の若輩教師だったときの実践です。
とかくすると若輩教師は前へ進むことだけに精一杯で、そこで押さえるべき
整理まとめがおろそかになりがちです。荒削りな、おおざっぱな、表面だけ
をざっとなぞって教えた気になっている、粗野な授業になりがちです。これ
は、わたしだけでなく、若輩教師一般にいえることではないでしょうか。こ
の点、年配教師は、くどいほどに時間をかけて整理まとめをていねいに授業
します。細かいところに配慮が行き届いた、念入りな授業をします。へんな
言い訳になりましたが、若い先生たち、わたしの失敗をご参考になさってく
ださいね。

 わたしの「力太郎」授業について、林進治さんは、本日の表現よみ授業で
は「どう読んだらよいか、どう読んだらよいか、という話し合いだけで、総
合されてこない授業」になっていると語っているところがあります。音声表
現のメリハリづけのテクニック・技術の話し合いとその実際の音声表現だけ
で、肝心の押さえどころを総合する話し合い活動が欠如している、総合が欠
如していると語っいます。
 これには、わたしは少しばかり意見を異にするところがあります。文章内
容を声に出して表現するということは、そのこと自体が「総合」行為である
ということです。音声表現は瞬間的直観的感性的な総合表現行為であります。
物語でいえば、事件の流れ、事柄の推移、人物の心理感情、場面々々の雰囲
気・気分・情調をすべて包み(含み)込んで、つまり総合して音声にのっけ
て表現している結果の音声表現です。

 端的な言い方をすれば、「ここで三つ分の間をあける」「ここは、ゆっく
り、のんびりと読む」「ここは、追い込んで、たたみかけて読む」「ここの
語句は強めて読む。弱めて読む」「ここの場面は、静かに、ひっそりと読み
すすむ」「悲しそうな気持ちになって読む」「びっくりして、驚いて読む」
……という児童の発言内容は、解釈深めの話し合い内容である、解釈深めを
した結果のから生まれた発言内容である、ということです。単なる音声表現
の技術的な、テクニックの発言内容だ、と考えてはいけないということです。
物語世界の事象(出来事)を直接に分析的に解明的に取り上げて話し合って
る発言内容ではありませんが、音声表現に重点をおいた言表総合に移行した
「音声総合表現行為」の発言内容であるということです。

 声に出して読むということは、文字づらを単に声にしているのでなければ、
空読みでなければ、文章内容を脳中に膨らませて、読み手の身体(精神と肉
体の共応)に響かせて音声造型しようと意識を集中して音声表現しているの
であれば、その音声表現行為はたとえ立派な造型物、つまり上手な音声表現
(読み声)でなくても、そう努力している表現過程そのものは総合的な読解
行為であるということです。声に出して読むということは、総合行為なので
す。読解における総合行為は、コトバによる理屈での解明的な話し合いだけ
ではありません。意味内容を音声にのせようと意識を集中して読んでいるプ
ロセス自体も総合行為であります。
 だからといって、コトバによる(理屈による解明的分析的な)「まとめ」
の話し合いを否定しているわけではありません。それはとっても重要な読解
の総合行為であることは言うまでもありません。コトバによる分析的解明的
な総合行為、音声造型による表現よみの総合行為、この二つの特質と区分け、
二つの相互浸透、弁証法的な高まりが重要となってきます。これについては
論題が大きなテーマとなりますから、別稿で論ずることにします。本稿では、
林進治さんが指摘した「どう読むかという、音声表現の技術的な話し合いだ
けで、総合がない」というご意見について、音声表現の技術・テクニックの
話し合いは総合行為である、単に言いぶりをあやつるテクニックをあれこれ
話し合っているのでない、解釈深めの結果としての「音声総合表現行為」で
ある、いうことについてわたしの考えを述べました。



        
表現よみは音声解釈の学習だ


 表現よみ指導は、音声にすることで内容の理解を深めていく学習です。つ
まり、「Oral interpretation」(音声解釈、口頭解釈)による学習活動
です。音声にすることで、身体を通して、身体に響かせて解釈を深めつつ、
作品世界を味わい楽しんでいく活動です。
 読解授業の「解釈深めの学習」と、表現よみ授業の「音声表現の技術・テ
クニックの学習」とは別個のものではありません。両者は、常に往復矢印の
表裏一体(弁証法的高まりの相互浸透作用)の構造になっています。メリハ
リづけの技術・テクニックの話し合いは、意味内容の読み深めの思考と表裏
一体となっています。読み深まりによって音声表現のレベルが高まり、音声
表現のよしあしを思考し修正していくことによって読み深まりがまた高まっ
ていきます。(詳細は、拙著『表現よみ指導のアイデア集』(民衆社)の1
8ページ、表現よみ授業の弁証法過程の図解を参照)
 つまり、表現よみ授業で多く行われるメリハリづけの話し合いは、音声に
よる文章内容の解釈深めを同時にしていることになります。往復矢印の思考
操作をしているのです。音声にすることで解釈を深めているのです。音声の
良し悪しを耳にしながら解釈深めの思考操作をしているのです。このことを
「Oral interpretation」と言います。
 わたしたちは、文字を音声にかえることで、目だけで黙読した時には気づ
かなかったこと、分からなかったことが分かってきます。こうした経験はだ
れでもがたくさんもっています。多くの人がこうした経験をしています。黙
読では理解できなかったことが、声に出して読むことで理解が深まります。
理解できない文章個所は、声に出して読むことで理解が可能になる、こうし
たことも多くの人が経験していることです。
 音読(文字ずら読みでない、意味内容を声にのせて読む。表現よみのこ
と)と、黙読(黙って目だけで読む)とを比較すると、音読(表現よみ)は
うんと神経を使います。音読(表現よみ)すると、黙読時のように読み流す
ことができません。いいかげんな読みができません。2ページも表現よみす
ると、神経がへとへとに疲れてきます。
 文章の読み深め理解が基盤・深層にあり、そこから導出されたものが音声
表現の技術・テクニックとなって現出してきます。深層にあるマグマ状態が
常に表層に上昇しており、こう読めと押し出して、感性的感覚的直観的に命
令しているのです。どう音声表現(表現よみ)するかの話し合いは、内容理
解と切断したものではありません。表現よみ授業は、文字を声にするだけの
ずらずら読み、単なる音声化テクニック・技術の話し合いではありません。
表現よみの学習は、深層に読み深めの思考操作がマグマ状態で潜在しており、
深層のマグマをどう音声のメリハリづけ、音声のテクニック・技術に結び付
けていくか、その訓練(スキル)、身体化、血肉化の指導が音読(表現よ
み)だと言えます。


        
「力太郎」の授業について


 上記した「力太郎」(上笙一郎)の授業は、1973年に実施したもので
す。今から43年前、拙著『表現よみ入門』(一光社、1979)の執筆以前の
授業です。当時は、日本の国語教育界で現場教師からの音読・朗読にかんす
る実践記録の論文発表は、あったかなかったか、未開拓で、断片的な話題
になることはあっても、授業実践が本格的なテーマとして論じられることは
ことはありませんでした。
 「力太郎」の授業も、わたしの表現よみ指導の草創期の試行錯誤の実践例
です。
 その当時、わたしは、日本コトバの会・表現よみ部会で、そこの主任講師
である大久保忠利(都立大教授)さんの表現よみ理論に学びつつ、「表現よ
み」の実際の音声実技訓練を受けていました。そして、わたしの国語授業に
表現よみを試行錯誤しつつ取り入れていました。その授業録音を横浜児童言
語研究会の会合に持参して、皆さんの討議にかけ、助言を受けました。横浜
児童言語研究会でも当時は一読総合法の指導過程の研究だけであり、表現よ
みの授業研究はありませんでした。「力太郎」は表現よみを一時間の授業の
全部に学習活動として取り入れた授業であり、横浜児童言語研究会では初め
ての提案発表でした。
 「力太郎」の授業録音アーカイブスの合評会での林進治さんはじめ皆さん
の発言は、そうした草創期の時期の発言であることをおことわりしておきま
す。今では物故した人もおり、わたしにとってはなつかしい人々の肉声です。
 本稿では、林進治さんの「肝心の押さえどころの指導」と「音声表現の技
術的な話し合い」との関連について述べてみました。
 以上、わたしが横浜児童言語研究会で初めて表現よみ授業の発表をした時
の皆さんのご講評の一部と、それについての私のコメントを書きました。若
造教師が先輩教師の教えを嬉々として乞うておった未熟教師時代の録音で、
わたし個人にとっては、先輩教師の肉声が耳にでき、ほんとになつかしく、
セピア色の写真のように思い出がいっぱいつまった録音です。


 これまで、「なぜ表現よみ授業は技術指導になりがちか」、表現よみ授業
における技術指導の重要性について書いてきました。
 最後のまとめとして、表現よみ授業においては、もっとも重要なことがあ
ります。究極の目標があります。それは、技術指導を通しながら、文章を声
に出して読むことの楽しさ、声で文章内容を工夫しながら多様に情感豊かに
表現するおもしろさ、声で解釈を深め、声で文体の微妙な綾・妙を味わい、
工夫しながら音声表現する、楽しさ、おもしろさ、醍醐味を身につけること
です。これが目標で、技術は手段にしかすぎません。


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