第15章 リズム・リズム・リズム       2013・3・12記




    
 中井正一のリズム論




         
中井正一の略歴

中井正一の経歴については、下記のウィキペデアを参照しましょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E4%B8%80

 小見出しに「中井正一の略歴」と書いたからには、上記クリックだけだと
少々申し訳ないので、それに付け加えて、またもウェブ上の「コトババン
ク」ページからの引用ではあるが、中井の略歴の一部を加筆する。

『世界大百科事典』 第2版の解説より引用
なかいまさかず【中井正一】 1900‐52(明治33‐昭和27)
哲学者。広島県竹原町に生まれた。京都大学哲学科を卒業,講師となる。
1930年に雑誌《美・批評》を創刊。33年に京都大学法学部教授滝川幸辰が文
部大臣によってその自由主義思想のゆえに職を免ぜられる事件(滝川事件)が
起こり,こうしたファシズムの危機に対抗するため,35年に《美・批評》を
改題して月刊誌《世界文化》とするにあたり,その中心となった。36年には
これと並行して斎藤雷太郎の出していた《京都スタジオ通信》を《土曜日》
と改題して月2回刊の文化通信とし,巻頭言を書いた。

『世界大百科事典』内で中井正一について言及している個所から引用
※「中井正一」について言及している用語解説の一部を掲載している。
【世界文化】より
…しかし,執筆者があいついで検挙され,廃刊した。同人は中井正一(まさ
かず),新村猛,久野収,武谷三男,真下信一,和田洋一,禰津正志(ねづ
まさし)などの京都大学出身者で,京都で発行された。西欧の反ファシズム
の潮流の紹介(〈世界文化情報〉)のほか,中井正一《委員会の論理》のよう
な独創的論文の発表の場となった。…
【土曜日】より
…当初は《京都スタジオ通信》として1935年8月に映画の大部屋俳優であっ
た斎藤雷太郎により創刊され,第12号から《土曜日》と改題された。改題以
後は中井正一,能勢克男が編集に加わる。フランスの人民戦線の流れをくむ
活動で,映画についての記事があり,喫茶店におかれるなど,大衆文化との
接触を保ち,半世紀後の日本の各都市のタウン誌の先駆でもあった。…
【反ファシズム】より
…〈反ファシスト知識人監視委員会〉の運動を紹介した,1934年10月の小松
清の〈仏文学の一転機〉は大きな反響を呼び,知識人の行動と連帯が雑誌《
行動》を中心に広く論議されるが,左翼教条主義の立場からの攻撃で翌年半
ばには反ファシズム戦線の萌芽は踏みにじられてしまう。次いでフランスの
人民戦線政府に触発されて36年から37年にかけて,舟橋聖一らの〈行動文学
〉,林房雄の〈独立作家クラブ〉,1935年成立の〈日本ペンクラブ〉,京都
の中井正一らの《世界文化》と《土曜日》などの雑誌,新聞,組織,さらに
三木清,中島健蔵,清沢冽らの個人が,ヒューマニズムの提唱というかたち
でファシズムへの抵抗を呼びかけるが,37年の日中戦争開始とともに,それ
らの動きはことごとく一掃されてしまうのである。レジスタンス文学【渡辺
一民】

 なお、荒木はすでに本ホームページに中井正一の紹介エッセイを4年前に
書いている。第9章「読書からの落穂ひろい」の中の「裸形の哲学者・中井
正一」である。人間味あふれる中井正一の素の姿を紹介している。そちらも
どうぞ。


       
中井論文「リズムの構造」


 中井正一には「リズムの構造」という論文がある。この論文は、わたしの
知る限り、これまで日本で発表されたリズム論では秀逸の論文の一つである
と思っている。本稿では、この論文「リズムの構造」についての紹介とコメ
ントを添えてみることにする。

 「リズムの構造」の初出は、中井正一とそのグループが発行している「美
と批評」1932(昭和7)9月号に掲載された。のち、『中井正一全集 第二巻
 転換期の美学的課題』(美術出版社、1981)に再録されている。現在では、
ウェブサイト「青空文庫」にも収録されており、ウェブサイトで読むことも、
コピーすることもできる。

 「リズムの構造」の初出論文は、1932年(昭和7年)である。
 クラーゲスの「リズムの本質」の初版出版は、1933年(昭和8年)である。
 中井論文初出はクラーゲスより1年前である。二人の活躍時期が重なって
いることが分かる。もちろん二人に面識や交流はなく、それぞれ独自の構想
による発表だと思われる。
 ご両人の生存年は下記の通りで、ともに第1次大戦・第2次大戦という暗
い谷間の中で苦悩し呻吟し思考し、思想を形成してきていることが分かる。
  クラーゲス 1872年(明治5年)−1956年(昭和31年) 享年84歳
  中井正一  1900年(明治33年)−1952年(昭和27年) 享年52歳



       
  三つのリズム解釈


 わたしは、論文「リズムの構造」をウェブサイト「青空文庫」からコピー
して読んだ。A4版で8枚というごく短い論文である。『中井正一全集 第
二巻』(美術出版社)では、B5版で14ページとなっている。
 中井は、リズムを語るに、三つの立場・立脚点があると書く。

 一般に自然的現象ならびに肉体的現象における反復現象を、数学構造に射
影して解釈することによってリズムを考察するしかたがある。ロッツェ、
コーヘンなどの美学者をその中に数えることができるだろう。
 反対にこれら反復現象を、生命的構造に射影して解釈するしかたもまた可
能である。ヴォリンガーのいわゆるBewegungsausdruckの考えかたはその方
向を指し示すであろう。
 さらにまた、その反復現象を、歴史的構造に射影して解釈する立場もある。
ギンスブルグ、マーツァの考えかたがその方向を指し示す。

【荒木のコメント】
 三つの立場を、順に番号つけて簡単に整理してみる。
  
(1)「自然的現象ならびに肉体的現象における反復現象を、数学構造に射
    影して解釈する」立場。

(2)「反復現象を、生命的構造に射影して解釈する」立場。

(3)「反復現象を、歴史的構造に射影して解釈する」立場。

(2)と(3)の「反復現象」の前に付く修飾語は(1)と同じく「自然的
現象ならびに肉体的現象における」「反復現象」である。
 上記引用個所の直後を読むと、それら三つの「名付け」が書いてある。下
記左側
「………的解釈」が名付けである。簡単な内容付記で整理すると次の
ようになる。

(1)
「数学的解釈」……「反復現象を、数学構造に射影し解釈する」立場

(2)
「存在論的解釈」…「反復現象を、生命的構造に射影し解釈する」立場

(3)
「歴史的解釈」……「反復現象を、歴史的構造に射影し解釈する」立場

 クラーゲスと対比してみると、(1)はクラーゲスの「拍子」に当たるだ
ろう。(2)は「リズム」または「拍子とリズムの協働」に当たるだろう。
(3)の歴史的解釈についてクラーゲスは主題化して直接に論じてはいなか
った。が、あえて入れるとすれば、(3)は(2)に含まれ、(2)の延長
線上にあると考えられる。

以下、一つずつ、具体的に検討していくことにしよう。



      
(1)数学的解釈のリズム


 第一のリズムの解釈のしかたは、数的本質構造に現象の反復性を射影する
ことによって、存在の内面を見透すと考える考え方である。それは、一言に
していえば、函数的射影をもって、あらゆる領域への関連をはたす数学的構
造を存在の内面的構造として考える考え方と歩を同じくしている。ルネッサ
ンス的主知性がそこに長く尾を引いている。デカルト、ライプニッツ、スピ
ノザを貫く数学性よりはじめて、体系論者としてのカント、さらに新カント
学派のすべてがその連なりの中に数えられるべきである。
 かかる考え方よりもたらされるものは、ロッツェの時間軽量Zeitmessung
としてのリズムの考え方が代表である。すなわち、時間の客観的法則性の人
間的認識がそこにある。すなわち質的なるももの量化がその根本的考え方で
ある。

【荒木のコメント】
 「第一のリズムの解釈のしかた」とは、もちろん「数学的解釈によるリズ
ム」を指している。このリズム観は、要するに一言でいえば、自然現象・社
会現象・身体現象のすべてにある反復現象を、すべて数理的に客観的に厳密
に当てはめて把握すること、それら存在の内面構造をすべて数的構造として
考える考え方である、と語っている。また、時間を客観的な法則性として把
握するしかた、すなわち質的なるものを量化して把握するしかた、これが数
学的解釈の根本的考え方である、と語っている。


 この考えかたはそれがすでに一つの誤謬であったのにもかかわらず、時
代ならびに芸術を支配してしまった。例えば、この考えかたより出発して、
音楽そのものさえ数的に一定化するの危険にまでもたらしめた。しかもこの
リズム論が今の一般のリズム論ですらあるのである。
 このリズム論のもつ危険性は、相対性理論があらわるるにいたって露わ
にされたとも考えられよう。すでに時間そのものが、ものの動きより生じ、
グリニッジ天文台の時計はその一つの便宜的説明にしかすぎなくなった時、
リズムの根底をなしている音楽的メトロノームは何を意味することとなるか。
時計的俗衆的時間になぜに音楽がその支配権を藉さなければならないか。

【荒木のコメント】
 この数学的解釈のリズム観は、誤謬であり、危険性をもっている、と語っ
ている。ところが、このリズム観が残念なことに時代ならびに芸術まで支配
してしまった、と書いている。


 
ここにこの考えかたへの難点があると考えられる。待てば千年といったよ
うな、時間の内面を構成する距離の人間学的構造にまず視点が向けらるべき
であったのである。かかる数学的リズムの解釈によっては、それは一つの運
命的寂寥すらが、リズムの内面に規定されて、数多いリズムそのものの構造
の展望にとっては一面的不自由性をすらあたえることとなる。それはいわば
単に過去の反復をのみ意味し、機械的であり、蓋然的であるにすぎない。
 外国歌謡を習った子どもに、日本の三味線のリズムを教えることがはな
はだしく困難であると一般にいわれている事実は、あるいはここに起因する
のではないかと思われる。ルネッサンス的主知主義が人の情趣的領域に数学
的解釈を侵入せしめたことのもたらす誤謬が、ひいては音楽そのものの冰れ
る数学化をもたらしたといえるであろう。そのことがルネッサンス以前を保
持する東洋的なるものと相抵触するとも考えられるであろう。
 しからば東洋的リズムをも解釈の範囲にまで置くことのできる解釈学的
立場は、いずれにそのシュテルングを置くべきであろうか。

【荒木のコメント】
 数学的解釈のリズム観には運命的寂寥すらが感じとれると書いている。つ
まり、「一面的不自由性」「機械的であり、蓋然的である」「人の情趣的領
域に数学的解釈を侵入せしめたことのもたらす誤謬」があり「音楽そのもの
の冰れる数学化をもたらした」「東洋的なるものと相抵触する」などの例を
あげて批判している。これらは、クラーゲスが行なった拍子批判と相通ずる
ものがある。
 東洋的リズムについて、外国歌謡リズムと日本の三味線リズムとの違いを
例にして語っている。東洋的リズムの一つとして「間」の存在があると言い、
これが次の「存在論的解釈のリズム観」の中核的タームとなって続いていく。



     
(2)存在論的解釈のリズム


 ヴォリンガーのいわゆる Bewegungsausdruck すなわち「運動の非物質的
表現における物質の克服」の考えかたはリズムの解釈にとっては他の道を指
し示すものである。そこではすでに時間の客観的法則化ではなくして、むし
ろ時間の主観的把握の姿をもってあらわれる。さきに射影の概念が意味した
ものは、これでは邂逅の思想をもって更えることができるであろう。さきの
ものが質の量化の過程をたどっているとすれば、これは量の質化の方向をた
どるともいえよう。すなわちそれはすでに自然数的な加数ではなくして、無
理数的な切断の無限をも連想せしめる。すなわち、それはロッツェの時間計
量 Zeitmessung ではなくして、時間切断 Zeitschnitt とも解釈できるであ
ろう。というのは、リズムに対する東方化を意味する。例えば東洋的思想に
おける、念々という言葉において示されるごとき、時の内面的無限において
何物かをねらうにあたって、一刻もさきにすることもできず、一刻も遅れる
こともできないところの、法機の極促を意味する。それがその中にあること
で、初めてあることを知ることのできる真の「内」を知るこころである。存
在「内」の意味は、かかる「時の会得」において初めて理解される。日本語
において、「間ま」の意味するものがかかる構造をもつ。間が合う、間がは
ずれる、間が抜ける、間がのびるなどのものがそれである。それは空間的領
域にも融通し、また社会的領域にも例えば仲間、間に合うとして用いるごと
く相入する底のものである。

【荒木のコメント】
(1)の「数学的解釈」のリズム観は、「反復現象を、数学構造に射影して
   解釈する」であった。
(2)の「存在論的解釈」のリズム観は、「反復現象を、生命的構造に射影
   して解釈する」であった。
 上記引用個所では(1)と(2)とを対比しながら説明している。これら
対比を簡単に表化すると次のようになる。上下が対応している。

(1)は、時間の客観的法則化 質の量化 自然数的な加数  時間計量

(2)は、時間の主観的把握  量の質化 無理数的な切断  時間切断

 わたしは、「時間計量」と「時間切断」を対比して語っているところがす
ばらしと思う。つまり(2)においては「間」が重要であると。存在論的リ
ズムにおいて重点的に問題となるのは、間をいかに上手にとるか、というこ
とだと語っている。(1)と(2)との違いは間であると、間を重点的に取
り上げている。日本の伝統芸能の世界では「生かすも殺すも間しだい」と昔
から言われてきた。間は、生きている時間である、語っている時間である、
饒舌な時間である、緊張のはりつめた時間である、単なる休止でない、と言
われてきた。
 日常生活では、間が合う、間がはずれる、間が抜ける、間がのびる、など
と使われている。人間関係では、仲間、間に合う、などとも言われる。間は、
時間領域だけでなく、空間領域をも含んでいる、と書いている。
 間のリズムが重要視されるのは、東洋である。数学的解釈リズムから存在
論的解釈リズムへの移行は、間のリズムの東方化を意味する。東洋思想に
「念々」という言葉があるが、時間系列の一瞬一瞬に思いをこめて、間のタ
イミングをいかに力動的に上手に入れるか、「一刻もさきにすることもでき
ず、一刻も遅れることもできないところの、法機の極促を意味する」間がと
ても重要である、と力説している。力動的に立体化した間を入れた表現をす
ることで、真の「内」を知るこころができ、「内」なる意味の味得ができる、
つまり真の「時の会得」が得られる、と語っている。


 それは、音楽のようやく技の熟するにいたって、師の「許し」「伝授」
などの形式をもって伝えらる底のものである。数的リズムはここにいたって
は、一つの理解の階段にしかすぎない。それをあえて乱すのではない。ただ
その内面なる無限の距離に面するのである。ここではすでにリズムの原始形
態であり、単に時間的に解釈されたる呼吸、歩み、血はすっかり異なった意
味を盛ってくる。いわゆるイキが合う、あるいは呼吸の会得の場合、音楽は
すでに拍子だけでは解釈がつかなくなってくる。拍子の内奥によき耳だけが
味到せんとする呼吸が内在する。それは腹八分目に吸いたる息を静かに吐く
にあたって、その一瞬の極促において経験する阿(口+云)あるいは世阿弥
のいわゆる律呂の意識でもあろう。しかし、その意味の根底にはすでに生理
的呼吸を遠く超えて、生そのものを通路として、存在の本質にただちに横超
する気分としての本質理解が内在するといわなければならない。存在の理解
の Wie を存在現象の Was の中に自己表現的に邂逅すること、そこに仮象存
在 Paraexistenz の深い意味がある。そこでは気分は気合ともいわるべき構
造をすらもつ。そこでは歩みとは実に白露地への躍進と乗り越え berstieg
を意味する。スポーツの愉悦の大部分はかかる本質現象の技術的領域におけ
る邂逅において理解できる。スポーツでストロークと称するものはあきらか
にかかるリズムの深い構造に邂逅する。テニスでは一打であり、ボートでは
一漕ぎである。しかもそれがすべて一刻一刻の全生命を意味するのである。
一つ一つの跳躍を意味する。それは単に拍子をもってしては解きがたきもの
が内在する。一ストローク一ストロークの内に真に「内」を見いだしうる無
限境がある。そこにこそ深いリズムの内的構造があると考えられる。
 かくて、ここではリズムの原始構造である呼吸、歩行、脈搏などのもの
が単なる拍子としての時計的時間構造をのがれて、むしろ量的なるものの質
化への方向をたどって、新しき解釈の領域にその形態をととのえる。和歌、
俳句のリズムはかかる意味において捉えらるべきである。そのもつ呼吸はす
でに肺を越えている。

【荒木のコメント】
 (2)は「反復現象を、生命的構造に射影する」立場であった。クラーゲ
スのいう「生命」を、ここで中井正一も使っている。中井正一は生命につい
てはクラーゲスのように詳細には述べていない。「反復現象を生命構造に射
影する」とだけ書いている。その「生命」の具体的説明をストレートには書
いていない。ということは、「反復現象を、生命構造として・認識する・組
み替える・捉え直す」ということであろう。反復現象を、生命的なものとし
て構造化する、ということだろう。中井は、「間」を代表的な生命として例
示しているのだと思う。
 「間を」「生命として」構造化する具体例として、いくつかの例を挙げて
説明している。個別的に取り出してみよう。
◎間は技である。技が熟することが必要である。間と限らず、スポーツや芸
 道や職人世界における「技」というものは師匠から弟子に伝授する、免許
 皆伝する類の「底のものとしてある技」である。
◎「技」は、数的リズムをあえて乱す性質のものでなく、数的リズムの内面
 にある生命によってもたらされるものである。数的リズムの原始形態を超
 越したもの、数的リズムの機械的な時間の呼吸や歩みとは異なったもの・
 上昇したもの・弁証法的に高まったものである。「技」とは、訓練(熟 
 練)の積み重ねによって呼吸が合った、イキが合った、それが身体化・肉
 体化したものが「技」である。間とは、「技化した間」である。
◎「技化した間」の会得は、「音楽でいえば機械的な拍子だけでは解釈がつ
 かなくなり、拍子の内奥によき耳だけが味到せんとする呼吸が内在」した
 性質のものである。「よき耳だけが味到」と書いてあるが、これは重要な
 指摘である。音楽や朗読では「耳を肥やす」、絵画や舞踊では「目を肥や
 す」、 食通では「舌を肥やす」ことがとても重要だからである。学校教
 育の目的は、「肥えた耳」「肥えた目」「肥えた舌」それに「肥えた心」
 を養成することだと言ってよいだろう。
◎「技としての間」は、「生理的呼吸を遠く超えて、生そのものを通路とし
 て、存在の本質にただちに横超する気分としての本質理解が内在する」と
 書いている。「気分は気合ともいわるべき構造」とも書いている。「気 
 分」はハイデガーの「情状性」に通ずるものであろう。音声表現(音読・
 朗読・表現よみ)では、テクストに内在する気分(情状性)に導かれ、文
 意の流れ(文字の線条性の流れ)のダイナミックなメリハリづけ音声の中
 の区切りが重要となる。音声表現全体の起伏に富む立体的なリズムの流れ
 の中にさしはさまれる微妙なタイミングの間の取り方の重要性である。荒
 木は音声表現(音読、朗読、表現よみ)の上手下手の七割は「間」の取り
 方で決まると、これまで言ったり書いたりしてきた。音声の起伏とテンポ
 の流れ、それに間のあけ方で、音声表現のリズムが決まると言ってよいだ
 ろう。それほど「間」とは、恐いものである。
  「間」は「魔物」とも言われる。「間」は、モノでもなくコトでもない。
 浮遊する空間・すきま、である。「間」は他人に教わるものでなく、瞬間
 的な状況判断で直ちに自分で決めて使っていくべきもの、身につけていく
 べきものである。だから音声表現(音読、朗読、表現よみ)の七割は  
 「間」との格闘であるとも言える。
◎スポーツする喜びは、このような「技化したリズム」に出会うことだと、
 中井は書いている。水泳のひとかきひとかき、テニスや卓球のひとふりひ
 とふり、スケートのひとすべりひとすべり、ボートのひとこぎひとこぎ、
 これらが「技化したリズム」と出会うこと習慣化すること、その取り込み
 と身体化が重要である。中井正一の言葉でいえば「そこにこそ深いリズム
 の内的構造がある」「かくて、ここではリズムの原始構造である呼吸、歩
 行、脈搏などのものが単なる拍子としての時計的時間構造をのがれて、む
 しろ量的なるものの質化への方向をたどって、新しき解釈の領域にその形
 態をととのえる」となる。
 以上、荒木の見解をかなり含めてコメントしたが、大きな間違いはないと
思うが、どうだろう。
(注記)
 上記引用文個所で、中井は難解な漢語を一部に使っている。
「法機」「極促」「横超」「白露地」「阿(口+云)」などである。
「(口+云)」は、パソコンで打てない漢字で、口偏に「云う」の「云」を
つくりに書いた漢字、つまり「伝える」の「伝」のニンベンでなくクチヘン
にした漢字のことである。それが「阿」の次ににくっついた漢字二字の熟語
である。
 これら五つの漢語を、図書館にある厚さ10センチ以上の分厚い大判漢和
辞典で調べてみた。が、出ていなかった。『新明解現代漢和辞典』(三省堂、
2012)、『学研新漢和大字典』(1978)などで調べたがいずれにも出てない
漢字である。多分、中井正一の造語なのでしょう。意味内容は前後の文脈の
流れから大体は推察がつく言葉である。



      
(3)歴史的解釈のリズム


 今、一つの考えかたが残っている。
それは、歴史的考察である。
歴史が歴史の上に載っているごとく、時間が時間の上に載っているごとく、
リズムもまたリズムの上に載っているのではないかという考えかたである。
あらゆる時代に時代の様式があるように、あらゆる歴史論が歴史それみず
からの中に転ずるように、リズムもまた、時代の様式の中にその構造を変容
メタモルフォーゼしつつ発展するのではないかという問いは、実に数学的解
釈ならびに存在論的解釈とは全然異なった構造をもつ。

【荒木のコメント】
 上の引用個所は「歴史的解釈」について記述していく導入部分である。
「リズムも、時代の様式の中にその構造を変容しつつ発展する、数学的解釈
や存在論的解釈とは全然異なった構造をもつ」と語っている。つづく文章で、
「リズムがリズム自体を時間構造の根底である歴史的推移によって変換を要
求せられつつある」とも書いている。要するに、リズムは(他のものと同様
に)歴史的推移(時代の様式・枠組の推移)によって変化していく、という
ことである。


 問題はリズムである。
 リズムが歴史性をもっていることのザッヘ的考察において、よき一つの
例を私はここに提出しよう。さきにボートの例をとった。舵手の数学的拍子
で漕いでいる場合、そのリズムは数学的解釈の範囲を越える必要はない。し
かし、それがよき漕手の内面に立ち入って、一ストローク一ストロークのね
らいが安心のいく域にまでねらわれるにあたって、そのねらうこころのきわ
みにリズムの本質をもたらす場合、いわゆるその呼吸、そのイキはすでに数
学的解釈を越えて、すでに人間学的、存在論的解釈を必要とするといわなく
てはならない。しかし、それですでに、解釈のつかない場合が生まれてくる。
例えば、それは八人なら八人が構成する一艇のタイムの記録が数週間の練習
記録において必ず一つのリズミックなカーヴを描くのを経験する。それは野
球における打数においてもあらわれるものであり、そのカーヴの底部を一般
にスランプという不可解なる語をもっていいあらわしている。それは一人一
人の体力においてもすでにあらわるるものがあるが、チームにおいてはその
合成ならびに合成以上に一つの性格としてそのカーヴをもっている。その
カーヴの山に試合をもっていく技術が指導者の大きな役目でもある。それは
決して数学的なあるいは物理的なものではなくして、微妙な精神力が鋭く働
いている。一本の電報がそのスランプをも乱しうるものなのである。しかも、
決して個人のいかなる孤立したる努力もがその集団の喘ぎ、苦しい脈搏、重
い歩みを左右することは困難なのである。かかる潮の増減、波搏ちこそ、何
ものもが解くことを遮断されたる深いリズムの内底でなくてはならない。重
い重い多くの数かぎりない集団の地ひびきする足音、すなわちテンポあるい
は盛り上がりまた世阿弥のいわゆるしづみともいわるべきものなのである。
いかなる楽器もが表現できない。トーキーが初めて表現できるかもしれない
ところの歴史の深い内面の暴露なのである。

【荒木のコメント】
 中井は、リズムが歴史性をもってることを、ボートの例で示している。
 「舵手の数学的拍子で漕いでいる場合、そのリズムは数学的解釈の範囲を
越える必要はない」これはクラーゲスのいう機械的な「拍子」段階で漕いて
いるレベルだといってよいだろう。これを中井は「数学的拍子、数学的解釈
の範囲」と呼んでいる。
 次の「存在論的解釈」段階を「よき漕手の内面に立ち入って、1ストロー
ク1ストロークのねらいが安心のいく域にまでねらわれるにあたって、その
ねらうこころのきわみにリズムの本質をもたらす場合、いわゆるその呼吸、
そのイキ」段階だと書いている。何となく分かるようであまりすっきりとは
分からないが、荒木が自分勝手に想像するに、漕ぐリズムに調子が出てきた、
よい調子でスピードが出ている、ペースがつかめて漕いでいる、よい気分で
安心して漕ぐことができてる、これならよいタイムが出そうだ、最高記録近
くまで出そうだ、がんばろう、そんなよい気分のリズムで漕げている、とい
うことだと思う。
 しかし、毎回毎回そうとばかりは限らない。調子のいい時もあれば、調子
の悪い時もある。ここから第三段階「リズムの歴史的解釈」の話が始まる。
 たとえば漕手が八人の場合、一人の漕手が体の調子が悪いとか悩み事があ
るとかの場合もあろう。それがチーム全体のチームワークに悪影響を与える
こともある。チーム全体がいつもいつも調子よく、ベスト記録を保持できて
いるとは限らない。スランプという時期もある。数週間の記録をとれば、ば
らつきが出てくるのは当然である。「チームにおいてはその合成ならびに合
成以上に一つの性格としてそのカーヴをもっている。そのカーヴの山に試合
をもっていく技術が指導者の大きな役目でもある。それは決して数学的なあ
るいは物理的なものではなくして、微妙な精神力が鋭く働いている」と中井
は書いている。精神力だけではないと思う。体の具合や悩み事などもある。
家庭内不和や友人との不仲もある。中井はそれを含めて精神力といってるの
かもしれないが。


 それはすでに歴史的集団的歩みのもつ反復性である。そこではボートに
おけるように記録的報告と、それについでなされる企画的実験、それらのも
のが数学的機能的目算と、存在論的付託的目標によって繰り返さるるのであ
る。常にそこでは、清算と企画、過去と未来が一つの実験性をもってそのテ
ンポの中に混入する。それは単に機械的ではなく、また個人的でもなく、ま
ったく集団的である。そして、単なる蓋然性にたよるものでもなく、また偶
然性でもなく、必然性に向っての戦端である。

【荒木のコメント】
 八人乗りボートの事例から分かってくるように、「リズム」のもつ本質と
して「歴史的集団的歩み」の観点を欠くことはできない、と書いている。記
録データをとり、そこから今後の方針を立案し、実行してみては新たな実戦
計画を立てる、それの繰り返しが重要である。現場実践(実戦)と、そこに
おける数字的データの収集、その現状分析から導き出される目標作り(企画
計画立案)、再度の現場実践(実戦)、これの繰り返しの実戦経過(歴史)
がとっても重要だ、それもただ机上の空論ではだめだ。現場実践(実戦)を
とおした、「清算と企画」や反省の繰り返しが重要である。「過去と未来が
一つの実験性をもつ」ような「歴史的集団的歩みのもつ反復性」が重要であ
る、と中井は力説している。


 データを駆使して勝利へ導いた野球の例を一つ書こう。
 下記引用は
二宮清純『プロ野球の一流たち』(講談社、2008)からの引用
である。ちょっとばかり昔の話であるが、お読みいただくとありがたい。

 野村克也といえば代名詞は「ID野球」。あらゆるデータを駆使して緻密
な野球を展開する。そんな野村のことを私は野球学者と呼んでいる。もっと
正確にいえば彼の専門は配球学である。
 あれは1997年のシーズンのことだ。野村はヤクルトスワローズの指揮を執
っていた。
 前年、リーグ制覇したジャイアンツは西武ライオンズからFAで清原和博
を獲得するなど三十億円を超える補強を行った。開幕ゲーム、予想通り巨
人・長島茂雄監督は先発マウンドに五年連続開幕勝利を目指す斎藤雅樹を立
てた。誰の目にもヤクルトの不利は明らかだった。
 ところが試合後、東京ドームのお立ち台に立ったのは斎藤でもなく清原で
もなく、前年のシーズンオフに広島カープを自由契約になった老兵・小早川
毅彦だった。
 まさかの開幕ゲーム三連発。老兵の大爆発でヤクルトは六対三と勝利し、
その余勢を駆けて日本一まで上りつめた。小早川のバットは斎藤をつぶし、
三十億円軍団までをも倒してしまったのである。
 実は試合前のミーティングで、野村は小早川にこんなアドバイスを送って
いた。
「斎藤はワンスリーのカウントになると、決まって外角にヒュッと曲がる
カーブを投げてくる。これを誰も打とうとせん」
 野村の指摘通りだった。コースこそやや内側だったが狙い通りのカーブが
ヒュッと外角から入ってきた。フルスイングではじき出された打球は一直線
にライトスタンドに飛び込んだ。
 それにしても、なぜ野村は「ワンスリーのカウントからヒュッと入ってく
るカーブを狙え」と告げたのか。実はここに「配球学」の真髄がある。
 謎解きをしよう。打者心理として、ワンスリーほど有利なカウントはない。
きわどいコースやストライクでも、気にいらないコースは見逃せばいいわけ
だから、必然的に待ち球は甘いストレート系のボールということになる。有
利なカウントでは、どうしても一発を欲しがるのが打者心理というものだ。
特に小早川のような長距離ヒッターにはその傾向が強い。
 これまで斎藤は、それを逆手にとって巧みにカウントを整えていた。すな
わち、「ワンスリーからのカーブを狙え」との野村の指示は秘策という名の
毒針だったのである。
 試合後、小早川は語った。
「アウトコースを狙っていたので、体が開かずにすんだ。もし最初からイン
コースを狙っていたら、体が開いてファウルになっていたかもしれない」


 中井正一はボートレースの例をとりあげて説明していた。それで、大学
ボートレース大会の事例も書こう。
 この事例は
ウェブサイトからの引用である。東京・戸田ボートコースにお
いて第39回全日本大学選手権大会が行われ、関学は全クルーが準決勝進出
を果たすことはできなかった。
 どんなスポーツでもそうだろうが、大会の成績結果を反省し、次の試合に
向けて新たな目標を作成して練習を積み重ねていく。敗因はどこにあるか。
どうやったら解決できるか。ボート部の先輩が築いてきた伝統を守り、現在
の部員クルーが目標を設定しチームワークを発揮して精一杯に精進と努力を
重ねる、当然のことだ。中井がいう「歴史的集団的歩みのもつ反復性」と、
その「弁証法的発展」を求める、のである。

試合後の関学クルーのコメント
女子シングルスカル・井藤万莉子(社2)「初の全日本インカレで、すご
く緊張した。シングルに乗り始めてから1か月ほどしかなく、出場を諦めよ
うかとも思ったが、だんだん調子がでてきて、楽しいレースができたと思う。
他のクルーと比べると技術が未熟で、漕ぎも弱かった。コンスタントでの粘
り、一本一本の強さを上げていきたい」

女子ダブルスカル・原奈津子(法3)「課題はあるが、自分たちの力は出し
切れたので、後悔はない。一本一本の漕ぐ力が弱いし、スピード感が違った。
個人的には初の全日本インカレで多くのことを吸収できたと思う。今後は関
西で実力をつけて、他校に『関学と対戦するのは嫌だ』と思わせられるくら
いになりたいと思う」

男子シングルスカル・井出将洋(社2)「思い通りにれえすを運ぶことはで
きなかった。関東とのレベルの差が大きく、今までやってきたことが全く通
用しなかった。日頃の練習からレースを意識し、まず1000bを関東勢と
競えるほどの力をつけたい。来年は関東でも関学の名前が響くように頑張り
たい」

男子舵手つきフォア・松本敬弘(法4)「4年生になってから、どれだけ周
りから支えられているのかを感じた。結果で返せなかったのは悔しいが最後
までぷれえやあとして戦えてよかった。練習よりもよいれえすだったが、課
題のスタートが足を引っ張ってしまった。コンスタントに関しては、準決勝
でも十分戦えるほどに鍛えられた思う。後輩には期待できる新人も多く、今
までとは違ったクルーとなって頑張ってほしい。この2試合をやりきれてよ
かった」


ふたたび中井正一「リズムの構造」論文に戻ろう。

 それは来たるべき時代の歴史的形態においてすでにそうである。あらゆ
る計画は常にかかる記録的カーヴのリズムに向って厳粛であるはずである。
 それがはかりしれないのは、人間の無知、すなわち機能的凾数の計算の
不正確と、付託的目標の見透しの不明のゆえである。記録と企画が、そのす
べてを乗り越えるはずである。そして人間が何であるかを学び問い、会得し
ていくのである。かかる喘ぎにおける呼吸が、人間なる無限なるアンチノ
ミー的構造を見透す重き歩みでもある。それを人々は弁証法とよんでいる。
歴史性とよんでいる。私たちの未来のリズムの内面にはかかる集団的問いへ
の喘ぎが潜んでいるといわなければならない。

【荒木のコメント】
 本論文の結びに当たる文章の一部分である。これまで(3)で書いてきた
ことが、リズムの弁証法であり、歴史性である、とまとめている。「かかる
喘ぎにおける呼吸が、人間なる無限なるアンチノミー的構造を見透す重き歩
みでもある」と書く。この引用文は決して明るくはない、が、決して
暗く陰鬱でもない。「無限なるアンチノミー的構造」が人間に与えられた試
練であり、使命であり、運命である、と中井は言いたいのであろう。明るい
展望を見透させ、力強い気力を与えてくれる本論文のまとめである、と思う。


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