音読力も、黙読力も、重要なり(2) 02・9・23記 第二部 黙読力が重要なわけ 音読のデメリット (1)読みの速度が遅い。 文字を音声化するから、読みの速度が制限される。一字一字をていねい に、はっきりと音声表現しようとすれば、いっそう読みの速度は遅くなる。 (2)他人の邪魔になる。 他人がその場におれば、読み声が他人の邪魔(騒音)となり、他人の迷 惑になる。 (3)他人に笑われる。 子供ならともかく、大人が他人の前で声を出して読んだら、精神がおか しんではないか、近づかないほうがいい、離れよう、と思われてしまう。大 人の音読に対するそうした社会的な偏見がある。大人が声を出して読んでは いけないという社会的な思い込みがある。 (4)教室内では注意をそがれる。 他人の読み声に気をとられる。他人の読み声が騒音となり、注意が集中 しなくなる。 (5)社会人の読書生活は黙読が一般的である。 子供が社会人となった場合、黙読が一般的で、音読は会議や発表会や講 義における説明、解説、引用紹介なづ例外的にしか使われない。 (6)情報化社会では、音読は非能率的である。 情報化社会では、多くの情報(データ)の中から必要な情報(データ)を 取り出すことが要求される。いちいち音読してれば、時間がかかってしまう。 必要な情報(データ)を短時間で探し出すには音読は不適である。黙読がよい。 黙読の利点はどこにあるか 教師は、上手な音読のしかたについては指導します。しかし、上手な黙 読の指導はしているでしょうか。黙読の意図的かつ計画的な指導はしていな いように思われす。わたしはここで、黙読にはこんなすばらしいメリットが ある、黙読指導を見直し指導法を開発しよう、ということを提案したいと思 います。 わたしたちは授業中、子ども達に教科書や副読本や資料集を黙読させる場 面がよくあります。ただ漫然と黙読させていることはないでしょうか。 黙読の目的や方法をはっきり指示しているでしょうか。いま黙読させて いるねらいは何か、何のために黙読をさせているのか、黙読のねらいをはっ きりさせて指導しているでしょうか。上手な黙読のやりかたはどうするの か、その指導段階を意識して、意図的に指導しているでしょうか。 黙読をすると、子ども達にどんな力が身につくのでしょうか、四つにまと めてみました。 (1)日常生活の、ふだんの読みの力が身につく。 (2)短時間にすばやく読む能力が身につく。 (3)自分のペースで楽しみつつ読む能力が身につく。 (4)情報獲得読みの能力が身につく。 以下、これらについてくわしく書いていきます。 日常生活における読みの能力が身につく わたしたちの日常生活の読みは殆んどが黙読です。新聞を読む、小説を読 む、週刊誌を読む、雑誌を読む、手紙を読む、取り扱い説明書を読む、効能 書きを読む、掲示物を読む、回覧版を読む、これらの読みは、通常は黙読で す。声に出して読むことはめったにありません。必要があって、だれかに読 んで聞かせる以外は黙読です。日常生活においては、黙読力とか速読力とか はとっても必要な能力です。 音読すると、声に出すことに気をとられ、文章内容の把握よりも音声表 現の上手下手に神経がいき、理解が妨げられることもあります。黙読は他人 に迷惑をかけることもなく、日常生活に適合した読書法であり、便利で実用 的な読みの方法だと言えます。集中力をもって素早く読み取る能力はとって も大切です。 短時間にすばやく読む力が身につく 黙読は、短時間にすばやく読む力を高めるのに効果を発揮します。音読 では、一字一字の文字や文字群を目で追い、一字一字を落ちなく、正確に 拾って声にしていかなければなりません。一字一字の文字や文字群に引きず られるため、読みの速度は制限され、読むスピードの自由が奪われます。 これに対して黙読は、音読と違って、文字の上を移動する眼球が一字一 字でなく、語句のまとまり、連文節のまとまり、文のまとまりとして読み進 めていきます。あらまし、あらすじ、大意など必要な事柄だけの意味内容で つないで、つかめばよいわけですから、とばし読み、拾い読み、斜め読み、 必要な重要語句を探してつなげた文意の把握など、短時間にすばやく読むや り方で進めることができます。短時間にすばやく文章内容を把握する能力 は、わたしたちの日常の読み生活ではとても重要なこと、必要なことです。 自分のペースで楽しんで読む力が身につく 黙読はとばし読み、拾い読み、斜め読みなど、自分流に勝手きままに自 由自在な速度で読み進めることができます。黙読は個室的な読みに適してい ます。自分ひとりの部屋で、作品世界を密やかに生き、文章世界を勝手気ま まに想像して楽しむことができます。誰の干渉も受けず、自分で自由に遊び つつ、途中で立ち止まったり、連想したりしながら、自分のペースで楽しん で読み進めることができます。声に出さないで読んだ方が(上手に音声化し ようとする規制がなく)心の中に奔放にイメージを浮かべて楽しんで読むこ とができます。 黙読は理解(内容把握)が目的であり、読みは手段です。音読のように 音声というわずらわしさがなく、文章内容に深く沈潜し、集中して、共感し たり反発してリしながら、読みを楽しむことができます。孤独な室内の中 で、心を落ち着けて、自由にイメージし、密やかな自分の内耳の声を入れて つぶやきながら、静謐な時空の中で読みを楽しむことができます。最近、学 校で流行している「朝の読書」運動は、これら黙読のメリットを利用したも のだと言えます。 情報獲得読みの力が身につく 黙読は、調べるため、内容をつかむため、考えるための読みに威力を発 揮します。黙読は、調べ読み、探り読み、流し読み、斜め読み、とばし読 み、重要語句を探しての文意把握などの読み活動に威力を発揮します。 今の社会は、たくさんの情報に満ちあふれており、高度な情報化社会と 言われています。情報化社会では、データを探す能力、ざっと読んですばや く必要なデータを見つけ出す能力、データを批判的に摂取する能力、データ を編集する能力、主体的に活用する能力などが要求されます。 総合学習は、黙読力を身につけさせるよい機会です。総合学習は「自ら 学び、自ら考え、主体的に判断する」力を身につけさせるねらいで設定され ました。各人が課題や疑問を持ち、それに答えを出すにはどんな手順や方法 をとればよいか。課題や疑問に合致する必要なデータはどこにあるのか、ど うしたら入手できるか、集めたデータをどう評価し、取捨選択し、組み立て (編集し)、どう記述していくか、などが重要な学習内容となります。 グループ学習で作業をすれば分担・協力の指導内容も加わります。資料 (データ)の分析総合は、ていねいな音読などやっていられません。黙読 で、短時間でぱっと必要な事柄を読み取り、どう切り取り、編集していく か、どう集約し、どう論理的に展開させ、どうコメントしていくか、などが 重要な学習内容となります。 黙読の達人から学ぶ 世の中に「読む技法」の達人はたくさんいると思われます。「上手な本 の読み方」とか「読書術」とか「上手な読書の方法」とかの著作物もたくさ んあります。以に、読む技法の達人のひとりとわたしが常常、驚嘆を深くし ている人の読書法を紹介します。立花隆(評論家)さんの本の読み方です。 ■立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』(文芸春秋、1995)■ に書いてあることを、以下に紹介します。 立花隆さんは、読書には「読書それ自体が目的である読書」と「読書が 何らかの手段である読書」と、二種類があると言います。前者は「文学書を 読む」といったような、1ページからページを追って順繰りに読み重ねてい く精読法の読書です。後者は例えば料理の作り方調べのような「知識なり情 報なりを獲得するという目的の読書」であると言います。『ぼくはこんな本 を読んできた』の中では、立花隆さんは後者の読書法について詳述していま す。 以下、わたしが同書の中から本稿のテーマにそって、興味を引いた文章 個所を幾つか引用することにします。 ここ半年ばかり「中央公論」で『脳死』という連載をやっております (95年)。これを書くために買いまして読みつつある医学書というのは、金 額にすると五十万円は軽く越えていますし、積み重ねると、三メートルから 四メートルくらいになるんじゃないかと思います。今までも、大体大きな仕 事をやるときには、三メートルから四メートルは関係の資料を読むというこ とにしています。前に、『農協』を書いたときも、そのくらい読みました し、共産党のことを書いたときは、その倍くらい読みましたし、ロッキード 裁判をフォローしていく過程で読んだ法律書もそのくらいのなります。 そういう大きな仕事だけではなく、小さな仕事では、最近「アニマ」と いう動物雑誌で河合雅雄さんというサル学の先生と対談することになったと き、書店に行きまして新しいサル学関係のものを片っぱしから買って読んで みました。大体一メートルぐらいで、金額にして五万円か六万円ぐらいにな りまして、その対談料が六万円だった。馬鹿みたいな話ですけれど。 (同書 52ページから引用) 私はまず大金を持って神田の書店街に行く。ここで”大金を持って” と”神田” というのが欠かせない点だ。 ”大金”というのは、私の生活水準からすると、三万円ぐらいを意味す る(1975年当時)。必ずしもこれで全部本を買ってしまおうというので はない。三万円を持っていれば、一万五千円ぐらいまで気軽に使える。欲し い本を前にしてケチらないですむように、懐は必要以上に暖かくしておいた ほうがよい。 そして、本はいちどきに購入してしまったほうがよい。独学で一番難し いのは、志を持続させることだが、そのためには、前もって相当のお金を 使ってしまった方がよい。たいていの人はケチだから、先にお金をかけてし まうと、元手をかけた分ぐらいは取り返そうと勉強するものだ。 (同書 59ページから引用) 神田に行ってすることは、本屋をハシゴして、自分の学ぼうとする分野 で出されている新刊書を片端から見ていくことである。神田のよい点は、新 刊書の大書店が林立していることである。書物というものは、いかなる大書 店でも品揃えに限度がある。だから少なくとも三軒ぐらいの大書店を回って みないと、一つの分野で出ている新刊書を見つくすことはできない。 (同書 61ページから引用) 家に帰ったら、買ってきた本は書棚に入れないで、机の上に積み重ね る。書棚に入れてしまうと、なんとなしにそれですんでしまったような気に なるが、机の上に置いておけば読まねばならぬ気がしてくる。 あとはただひたすら読む。まず軽い概説書を読みとばす。教科書的入門 書を読む。一冊読むと、だいたいの輪郭がつかめるから、二冊目からは楽に なる。 精読する必要はない。ノートもとらないほうがよい。はじめからそんな に張り切りすぎると、必ず途中で挫折する。ノートを取りながら精読したり すると、二時間で読める本に二日もかけてしまうことになる。一冊の入門書 を精読するより、五冊の入門書をとばし読みしたほうがよい。ノートを取ら なくても、ほんとに重要なことはどの本でも繰り返されているから自然と頭 に入る。ノートを取る代わりに、アンダーラインを引いたり、ページを折っ ておけばよい。あとは索引を頼りにすればよい。本は粗末に扱ったほうが役 に立つ。後で古本屋に売るときのためにきれいにしておこうなどとケチなこ とは考えない方がよい。 よくよく選んで買ったつもりの本でも、実際に読んでみるとつまらない という本が必ず出てくる。できが悪いというだけでなく、どうしても、その 著者の考えについていけないという場合もある。その場合には、即座に読む のを止める。買い込んだ本の二割くらいは、そういう本になると覚悟してお いた方がよい。一冊しか買わない場合には、どうしてももったいない気がし て、無理やり読んでやはりつまらなかったと思い、結局、時間と頭のムダ使 いに終わるが、いちどきに二十冊も買い込んでおけば、二冊、三冊途中で読 みやめても、どうということはない気になれる。 (同書 70ページから引用) サイエンスの場合、重要な情報というのは、必ず図版を利用して記述し てありますから、冒頭の前書きや目次、概論の部分だけ読んで、あとは図版 を中心に見ていく。そうすると理解が早いんです。 (同書 140ページから引用) はじめから終わりまで読むべき本と、必要なところだけ拾いだして読め ばいい本とがある。要はいかに効率的に、自分に必要な部分を見つけるかで す。目次、索引を利用するのはもちろん、これくらいの(一秒に一回ぐらい のペースでページをめくりながら)スピードでめくっていくだけで、不思議 に必要なところに目が留まるんですよ。人間の脳の働きにそういう能力があ るってことは、脳のことを勉強していく中でわかってきた。(略) 自分に関心があることがあれば、目がパッとそれを捉えることができ る。つまり、脳には、自動的なモニター作用みたいなものがあるわけです。 それを利用すれば、一秒一ページでも読める。最近、速読術の本を買って読 んだら、似たようなことが書いてあった。 もちろん、必要な部分に目が留まったら、そこは意識を集中してちゃん と読むんですよ。それと僕は、読むときに徹底的に本を汚すんです。ページ を折るとか、鉛筆で書き込みをするとか。付箋を付ける時も、色を変えたり とか。 (同書 142ぺージから引用) 黙読力を高める方法 次は、わたしがここで考えついたアウトラインの指導方法です。あなた の指導学年に適するプランで肉付けして役立ててください。 (1)フラッシュカードの利用 一年生の入門期で行われる指導方法です。教師が単語のフラッシュ カードを提示し、子ども達にすばやくひと目で読み取らせる練習です。 (2)視線の移動を速くする練習 同じ文章個所(同じ段落内)を繰り返して黙読する。内容把握をしな がら、上から下へ、上から下へと、文字上の視線の移動をすばやく動かす練 習をします。 次に、別の(新しい)文章個所を、上から下へ上から下へと、すばや く視線を移動し、書かれている内容を読み取る練習をします。一定範囲内 で、どんなことが書いてあるか、教師が質問して子ども達に答えさせます。 (3)はや読み競争 一定時間内に、できるだけ多くの文、文章を読む練習をします。先生 が指定した時間内で、できるだけ速く内容把握をしつつ、文字上に視線を走 らせます。また、一定の文章範囲に書いてあることで先生が質問して答えさ せたりもします。 ふつう黙読では、音声は出ていないが舌筋肉は振動しており、心の中 では文字を音声に変えて読んでいます。ここでの黙読練習では、できるだけ 舌筋肉の振動という音読を抑え気味にし、文章のかたまりをひと目で見て、 パッと直接に文章内容をつかむ黙読練習をさせます。 (4)かたまりとして読む練習 文、文章の線条にそって順次、視線をすばやく移動しつつ、意識とし ては語句や文節や連文節の大きな視野、文意の小区分としてのかたまりとし てつかんで読む練習をします。すばやく視線を移動しつつも、文意のかたま り、区切りでつかんで、かたまりで視線の瞬時の小休止を置きつつ、内容を つかみながら、先へ読み進む練習をします。 また、自分の課題や疑問にせまる黙読での読み進め方の練習をしま す。本(一定範囲)から何を読み取り、つかみ出せばよいかを明確に意識さ せ、必要でない文章個所は捨て、重要な文章個所は拾う、こうして自分の課 題や疑問に合致した内容をすばやくピックアップする黙読力を高めます。 しだいに、横読みや拾い読みで探して黙読する力を身につけさせます。 キーセンテンスやキーワードやキータームでピップアップする力、探してい る内容の文章個所を、線でなく面として、ピックアップして読み取る力を高 め、身につけさせます。 (5)目的をはっきり意識して黙読する 黙読指導は、単に「うるさいから、やかましいから、他人の邪魔にな るから、黙って読め」だけではいけません。教師はどんなねらいで黙読させ ているのか、子ども達は何を読み取るために黙読をしているのかをはっきり 意識して読ませることです。教科学習では、与えられた課題(設問)に合致 した文章個所を黙読ですばやく探し出すスキル(技能、技)を身につけさせ す。 総合学習では、自分達で設定した課題や疑問、これらに合致した本(資 料)はどこにあるのか、どうしたら入手できるのか、実地調査(探検)やイ ンタビューは必要ないのか、取材申し込みのやり方、面接(質問)内容のメ モ、挨拶やお礼の仕方、なども学習させます。 探した本(資料)は、一ページから順次に読み進めるのでなく、課題や 疑問に合う文章個所をすばやく見つけ出すこと、そのためには、この本(資 料)には大体なにが書いてあるのかを、はじめに目次や索引から見つけ出す こと。この本(資料)は、どんなねらい(発想、切り口)で書いてあるか を、「はしがき」や「あとがき」や目次や索引や本全体をぱらぱらとめくっ てざっと読んで大体の内容把握をすること、などを学習させます。 課題や疑問に合致したことが書いてある章や段落個所をすばやく探して、 そこだけを黙読すればよいことを学ばせます。こうした目的意識や課題意識 を明確にした調べ読み学習を身につけさせます。 現行の学習指導要領は、「生きる力」のための国語教育が強調され、総 合学習を補強するような国語授業が展開されています。国語教育は日常の言 語生活を薄っぺらに這い回る体験学習ではいけないと、わたしは考えます。 基礎基本をとりだし、重要内容は繰り返し、スキルを徹底指導していくべき だと考えます。これについての詳述は、本稿のねらいではありませんので、 ほかの機会にゆずります。本ホームページ全体がその答えだともいえましょ う。 (6)答え探し競争 教師が子ども達に次のように問いかけます。「先生が問題を出します。 この問題の答えは1ページから52ページまでの中に書いてあります。52 ページに紙片をはさんでおきましょう。(または、この本1冊、でもよい) ゴミはこのように再利用されている、ということについて書いてあるペー ジを探しなさい。そこに、五つの再利用のしかたが書いてあります。五つ、 言える人は、手をあげなさい。一番早くページを見つける人は誰かな。五 つ、早く言える人は誰かな。ハイ、ヨーイ、ドン」 何度かこうした指導の機会をもうけ、その都度、チャンピオン賞をあげ たりすると、子どもは燃えます。 (7)インターネット検索 学校にもインターネットが普及してきました。教室で子ども達がイン ターネットを活用し、調べ学習をするようになってきました。今後、ますま す増えていくでしょう。教室の中でインターネットから情報を収集し、それ を資料として編集し、文章や図表に整理し、発表する場面が、ますます増え ていくことでしょう。ネチケットやセキュリテーや有害コンテンツや非合法 ショッピングなどがあることの指導も必要となってきます。 まず、インターネットの上手な検索のしかたを学習させることです。イ ターネット検索で得た資料は膨大で、その洪水に立ち往生することもあるで しょう。資料は受け取るものでなく、活用していくものです。自分で主体的 に資料に働きかけ、膨大な資料を切り落とすこと、いらないものを切り落と すこと、自分の課題や疑問に照らし合わせ、どの観点から切り込みを入れる か、どんな切り口で、どの資料を活用し、編集し、文章や図表に整理してい くか、こうしたことが重要な学習内容となります。 資料の編集は、ジクソーパズルを完成するようなものです。資料の編集 には、何のために資料を集めているのか、どんな内容の資料を必要としてい るのか、つまり与えられた課題を忘れないで、それに焦点化し編集していく ようにします。資料をどのように束ね、どう並べると読者におもしろく、興 味あるように聞き取らせる(読み取らせる)ことができるか、こうした聴衆 (読者)を意識したコメントの仕方も指導します。 せっかく調べたのだから、あれも入れたい、これも入れたいということ になりがちです。自分達の課題(テーマ)に合致した内容で、一番伝えたい こと、一番知らせたいことを大胆に強調して書いていくことの重要性を学ば せます。 資料同士を新たな角度から交点を結ばせ、新しい回路で、どのように独 自性を出すか、編集の全体構成プランを俯瞰し、他グループとの差異化・オ リジナリテーを出すこと、独特な視点や意見を出すこと、こうした高度なコ メント力を要求することも必要です。 インターネットの資料(データ)の中には商業的な商品としてある種の 思い入れで書かれ、作成されたものもあります。データ-内に配置している 商品販売の仕掛け見抜くことも大切な学習です。また、学者が発信するアカ デミックな資料から、誰でもが書き込む掲示板のようなナマな資料もあるこ と、これらをどう活用するか、捨てか、これも大切な学習内容です。資料 (データ)には、真実のある種のねじまげや、意図的な嘘が入れてあったり すること、掲示板には相手を陥れるための意図的な賞賛や批判や誹謗中傷も あることなども知らせます。 21世紀の読みの力とは 21世紀は、私たちにどんな読書能力を要求しているのでしょうか。学校 教育では、子ども達にどんな読書のスキル(技能、技)を身につけさせなけ ればならないのでしょうか。 若い評論家、東浩紀さんの意見を聞いてみよう。東さんは、1980年 以降をポストモダン社会と呼んでいます。1980〜90年代はポストモダ ンの萌芽期と位置づけてよいと、私は思います。21世紀のこれからはポス トモダン社会の成熟期へと入るとみてよいでしょう。(21世紀のどこまで 続くかは予測不可能です。)東さんは、日本社会のポストモダン化と情報技 術の急速な発展は私たちの文化の姿を大きく変えたと言います。東浩紀『動 物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)を読むと、ポストモダン (資本主義後期)の社会を読み解く重要な構成要素の一つに「データベース 型世界」があると言います。 近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが、ポストモ ダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み 込みしだいではいくらでも異なった表情を現す。 (同書 53ページ) つまり、近代の大きな物語が凋落し、多文化主義の小さな物語が表層に 林立し、シュミラークルが増殖するのだ、と言います。人間主体の読み込み によって「オリジナルであろうと、コピーであろうと、価値が変らなくな り、すべての記号が根拠をもたず浮遊し始める。」(85ページ)と言い、 ポストモダン社会はこうしたシュミラークルな消費社会を楽しむ社会になる だろうと言います。「動物化」とは、「(動物のように)やっかいな人間関 係を介在しなくとも容易に欲求が満たされる」ということであり、ポストモ ダン社会は、シュミラークルの擬似的な表象、小さな物語を自分なりにデー タベースから取り込んで作って楽しむ、そうした消費社会であると言いま す。データベース型社会は、フーコーの規律訓練型権力でなく、セキュリ テーの原理で統制される環境管理型権力であると言います。 東浩紀さんが言うように、深層に大きな物語(リオタール)がなくな り、データベースが取って代わり、そこから各人がそれぞれの読み込みで小 さな物語を表層に作るという社会が到来していることはまちがいないでしょ う。東浩紀さんはデリダの研究者らしくオリジナルとコピーの対立からシュ ミラークル(ボードリヤールが二項対立の消滅として捉えたもの)を位置づ けるが、果たしてそうなるかどうか今後の世の中の進展をみていかなければ なりません。いまマスコミで住基ネットが話題となっていますが、こうした IT化は早晩、避けてとおれない社会になることは目に見えています。 いま学校教育でメデアリテラシー教育の重要性が指摘されています。 データベースの探し方、データ-ベースをどう読み取るか、どう編集する か、どう利用し日常生活に役立てていくか、今後学校教育の大きな課題だと いえます。すばやい黙読の読み取りのスキル(技能、技)指導も、指導方法 の確立と倫理的価値陶冶を含めて今後の課題だといえます。 学校教育では、明治から大正、そして敗戦までは、読み方教育といえば 音読指導でした。寺子屋の素読からはじまり「読書百遍意自ら通ず」の指導 法で何回も音吐朗々と声に出して読めば直観力で内容がパッと分かってくる という指導法でした。これらの時期には家屋の軒下を通ると子ども達が読本 を朗々と読む声がよく聞こえてきたものだ、とはよく昔話に聞きます。 わが国の黙読指導の歴史はまだ浅いのです。敗戦後の昭和22年版「学 習指導要領」(国語科)に、はじめて黙読指導が位置づげられました。しか し、黙読を指導するといっても子ども達がほんとに内容を読んでいるのどう か、理解しているのかどうかが調べられず、黙読指導の研究が不十分まま現 在に至っています。わたしがここに一つの提案をしました。すばやい黙読の 読み取り指導は、国語科だけでなく、総合学習や社会科や理科など他教科や 他領域でも責任を持って行われるべきものでしょう。また、黙読指導は、黙 読それのみの指導だけでなく、他教科の学習内容とからめながら、自主調べ や総合学習などで、黙読の能力を意図的かつ計画的に高める指導をしていく べきでしょう。 トップページへ戻る |
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