第19節・読解指導と文法指導




本稿の目次                2020・01・13記
 (イ)断章・表現よみ指導の基礎理論
 (ロ)モダリティと音声表現
 (ハ)表現よみと文法的思考
 (ニ)語り口について
     説明文の語り口
     物語文の語り口






   
(イ)断章・表現よみ指導の基礎理論



わたしの表現よみ指導の根底には次のような基礎的な理論があるように思い
ます。思いつくまま断片的に書き連ねてみましょう。


            
文章と文法


ソシュールがいうように言語は、概念と音声とに支えられている。概念
「(実物の)本」と音声「ホン」の合体したものとしてある。

文法は言語そのものを支えている根本な形式である。文法は、言語が表現さ
れる前にすでに語連鎖の一つの形式として存在している。文法の形式の中に
認識内容がはめこまれて文章ができている。つまり文法は、音声表現を支え
ている一つの形式でもある。文章は、文法と音声・概念に支えられているわ
けだから、どんな認識内容も文法形式にのらなければ表現できない。

(1)太陽は西から上り、東に沈む。
(2)三角形の内角の和は360度である。
(3)太陽は東から上り、西に沈む。
(4)三角形の内角の和は180度である。
(5)ボクな花の死んだ。
(6)学校へ、からようだ。らしいを、みたいだ。
上記の(1)から(4)までは文法論(シンタクティクス)ではすべて正し
い。意味論(セマンティクス)では(1)と(2)は正しくない、(3)と
(4)は正しい。(5)と(6)は難解な現代詩的表現ではあるのかもしれ
ないが、通常の日常文では文法論上でも意味論上でも正しくない。美的特性
表現は、文法の問うところでない。


            
文法の指導


文法指導には二つの方法がある。「演繹法」(文法体系・理論の指導)と
「帰納法」(具体的例文から一般的な体系・理論を見出す指導)である。望
ましい文法指導は、「帰納法1」から「演繹法」へ、そして「帰納法2」へ
のプロセスだと思う。
「帰納法1」とは、日常生活場面の中から取り出した文例を材料にして、そ
こに文法則があることに気づかせる指導と、それら気づきの文例を総合して
体系化をめざす指導である。
「演繹法」とは、文法体系・理論のみを取り扱い指導する知識学習である。
現在の中学高校の文法指導はこれのみである。現在の学校文法は、橋本進吉
の文法体系が骨子となっている。
「帰納法2」とは、文法体系・理論での知識習得が日常生活の文の中にどう
潜み込み、活用されているか、応用されているか、役立っているか、文法則
の存在に気づかせる・見出す指導である。日常文から文法事項を見出す、切
り込む指導が現在の学校教育では殆どみられない。この欠如が文法教育を遅
滞させている原因となっている。
現在の中学高校で指導されている文法授業は「演繹法」のみの形態論と活用
論の知識詰め込み、試験のための暗記強要、苦痛を強いる授業となっている。
が、明るい話題もある。「帰納法1」「演繹法」「帰納法2」をめざした文
法指導を主張している民間研究団体がある。児童言語研究会の文法指導であ
る。ここでは「授業プリント」を用いて言語場面から認識思考と結びつけ
「法則」発見(「帰納法1」)に重点)をおいた指導をしている。これはす
ばらしい。が「帰納法2」の実践が少なく、今後の期待が待たれる。
文法教育の目的は、文法知識の習得ではなく、文法的思考を日常の言語活動
の中で気づき、言語事項を具体的に活用し応用する力を身につける指導であ
る。学校教育においては機能文法と体系文法とは別個のものではなく、補い
合って、読み書き話し聞くの中で利用し応用する文法的思考・文法感覚を身
につける指導が大切である。


         
ラング派とパロール派


ラング派は、文法はラングを取り扱うとする。法則定立的、静的、自律的・
自己完結的な性格が強い。主知主義的・合理的・客観的・形式的である。ラ
ングは、抽象的認識の結果とらえられるものだから。言語主体の認識の結果
から帰納するものなので、抽象度が高くなる。

パロール派は、文法はラングはもちろんパロールをも含めて取り扱うとする。
個性記述的、動的傾向が強い。実感を尊重し、抽象をいとい、分業的でなく、
人間の言語活動を全一的に把握する。言語活動の表層(パロール)の世界を
も考慮に入れるので、主観的、直感的で感性的傾向が強くなる。パロール派
のメンタリズムは、意味解釈(論理、心理)をも取り入れる。ポストモダン
はラングでなく、パロールを重視する。


          
  言葉と音声


音声は身体の奥底から、腹や胸や喉や口など身体のあちこちに刺激を与え、
残しながら、息とともに発せられる。音声表情は、発話者の呼吸・音声・発
音・姿勢・律動・心理感情といった「からだ全体の動き」から発せられる。

身体は音声表現することの母体である。音声表現は身体的経験である。

音声は、物理的には、時間の経過の中であらわれ、消えていく。いま、ここ
に、現在にしか存在しない。はかなく刹那的で、そしてなまなましくもある。

「音声の剥奪」とは、「具体音声」を抽象して「抽象音声」(音韻)を導い
たものである。「音声の負荷」とは、「音韻」を具体化して「具体音声」を
導いたものである。通常、音声という場合は、狭義の具体音声をさしている。

日本語のリズム形式は等時的拍音形式で、メトロノームのように等間隔で動
いていく。音声はその等間隔の等時的拍音形式のなかに流れ込んでいく。リ
ズム形式が最初にあって、音声がこれにあてはめられていく。

音声に出すことで、言葉や概念、認識思考が明確になる。言葉が音声を伴っ
たとき、活字は生命のある表現となって踊り出す。ひとたび音声が発せられ
ると、何らかの意味内容と感情が呼び起こされ、独自の意味世界の時間(認
識思考の深まり)を生み出す。

物語文を音声表現すると、ある種の感情を伴った物語世界が生成される。音
声は物語世界を皮膚感覚的に、内臓感覚的に、ある種の情緒的な感情を伴っ
た音調として発音される。物語世界と読み手身体との共振作用、応答作用が
生起して、身体に反響し、広がり、表出され、音声表情となる。

音声表現は、その瞬間、その瞬間の、読み手独自の「語り方のスタイル」を
生む。その人間の独自な認識思考のスタイル・綾・言い回しに彩られる。ひ
とり一人の音声はすぐれて個性的かつ肉感的である。


            
音声と呼吸


感情という心の働きは、本源においては「からだ」、肉体と意識とを含めた
全人間の実存生活と結びついている。

「息」という漢字は、自分の心と書く。自分の心(身体・精神)と、自分の
息はリンクしている。

物語場面の緊迫の個所を読むと、読み手は興奮を呼び起こされ、動悸や息づ
かいが激しくなる。読み手の心に動揺や変化が生起し、息づかいが変化し、
音声表現も変化してくる。読み声の情感性も変化してくる。
 こうした読み手の心の動きを反映した状態の息づかいとコトバ表現を「息
づかいにことばがのっかる」とか「息にことばをのせている」とかいう。


       
メルロー=ポンティーと身体


メルロー=ポンティーは、物語世界は身体という地(背景)の上に意味とし
て浮き出してくる図(輪郭)であるという。

物語世界は身体を離れたところにはありえない、受肉している。読むとは、
物語世界を自分の方へ引き寄せてゲシュタルトとして統合して意味づけた生
成行為の産物である。

身体は、一つの客体・物体であるのに先立って、まずは世界が現れる場、世
界を構成する機能媒体である。その都度のかかわりという場面で変化しあら
われる。

音声は身体の表現機能の一つとしてある。音声は身体の意味世界を浮かび上
がらせる。どのような物理的な音調で発せられるかは、民族別(国別、地域
別)に彼ら身体に沈殿して制度化されている音調、さまざまな習慣として保
存されている音調で決まる。音声は身体が過去に体験してきたあらゆる種類
の感情を背負い込んで、それを源資にして表現される。

身体は主観とも客観とも言えない両義的な存在である。常に編み変える「生
きられた身体・世界」である。その都度のかかわり方と多様な場面であらわ
れ刷新している。身体は物語世界の場の中に動き、順応変化し、さまざまに
意味づけることによって関係性を成立させていく。微細な表現形式の変化が、
新しい意味を分泌していく。意味とは、浮き上がることであり、それは身体
から由来する。


         
現象学と一読総合法


知覚する眼差しは写真機のように受動的に世界を映してはいない。主体的に
構造化して意味づけていく。そうした存在を主体はそのつど創設していく。

ルビンの杯も見る者の態度によって、杯にも横顔にも見える。物理的実在と
して客観的に存在するのではない。見る者(主体)が、その都度の関心に従
って、そこから読みとった意味としてのみ存在していく。

物語世界は隠れた面を徐々に開示するパースペクティブな世界である。地平
と厚みを備えた世界である。しかも、常に不完全で未完成なままにとどまる。
パースペクティブの地平構造は意味が無尽蔵にあり、決して完全にはとらえ
られない。他者のうちに萌芽的に潜在する意味をさらに発展させる読み方を
していくことになる。

物語世界の読み取りの過程では、現在は、過去と未来の地平のパースペクテ
ィブの中で、幾つもの力線で区切って構造化され、次第に一定の意味を持つ
ようになる。力線とは生まれ出る状態の構成的な動性のことである。

読むとは、物語世界を力線で区切って構造化していくことである。こうした
一定の意味を持たせる構成過程としてある。読みの過程には新しい意味を分
泌し、確立する生殖性と生産性が常に見いだされる。同時に貫通線を引き出
そうとしている過程でもある。身体の声とは、もはやこの関係の通過点でし
かない。

スタンダールの小説を読みすすめていく中で、読み手は物語世界を表象し想
像し創造していく。彼の言語表現の独特のスタイルあるいは彼の身体の中に
あるラングの独特のゲシュタルトに気づき、自己の身体のラングに彼の思想
とともに導きいれていく。

 物語世界のイメージ形成に意識は常に志向的態度をとる。あらゆる経験的
知覚には感情性(情状性・気分)がつきまとう。さまざまなイメージの呼び
寄せ・遠ざけに動機づけを与えている動因は感情性(情状性・気分・欲望)
である。(本ホームページ第9章『存在と時間』(情状性・恐れ)を参照。)


            
内辞と外辞


垣内松三著『国語の力』(不老閣書房、1922)の中に内辞・外辞というター
ムがある。

内辞は発音せられて、外辞として表出されるものである。内辞は意識し心の
中に響いているもので、それが外辞として発音せられる。

内辞の響きは想韻である。内辞は思想(情趣を伴った意識内容)と離れた心
のこもらない機械的な発音とは異なる。

内辞を内聴することは文の中に流れる作者の想韻に面接する最も深い態度で
ある。読解では作者の想韻に耳を澄ますことがもっとも重要となる。

文の形・節奏の中に作者の心の律動を感じとることが重要である。律動を感
じとるときに一音、一語、句読の微細まで皆生きていることを感じとること
だ。

〔荒木のコメント〕垣内のいう外辞は、外内言(外言)のことであり、内辞
は、純粋内言(内言)のことだと考える。また、垣内のいう外辞は、パロー
ルのことだと考える。だが、内辞は、ラングではない。ラングは社会的約束
事としての観念的な推定的実在体であるからだ。つまり、垣内のいう内辞は、
個々人が用いるアタマの中だけの想韻を伴った考え言葉・相手へのメッセー
ジの心内発話時に浮かぶ無音声の言葉操作だと考える。
こうした垣内の内辞・外辞の考え方は、1922(大正11年)に発表された見解
としては先見の明だと思う。
 しかし、垣内は、読むとは、想韻を直感で受け取ること、それがすべてだ、
と主張する。これは賛成できない。垣内が主張している読解指導方法は、ま
ず文章の大意(想韻)の「直下の会得」(直感による把握)からはじまる。
そして文段の分析、それから全文表現の細部分析へとしだいに進行する。こ
れは、わたしが信奉する一読総合法の読解指導方法とは真逆な指導過程・方
法である。

            
音声の表情


音調変化にはいろいろある。イントネーション、上げ下げ変化。強弱変化。
緩急変化。強調ストレス。上がり下がり。転調。間あけ。区切りの多少。リ
ズム。メロディー。音色などがある。
表現する方法は言葉だけとは限らない。顔つき、目つき、口つきなどの表情
や手振り・身振りもある。沈黙もある。

音声は内面心理の動きを敏感に映し出す。音声表情を聞いただけで、どうい
う伝達意識・表現意図で語っているか、どういう心理感情状態で語っている
か、どういう人間か、が分かる。

言葉の内容よりも、声の調子や音調のありようの方が、心の内を雄弁に物語
る。音調や表情のありようで話しの意味内容は大きく変わる。声こそが人間
らしさを表す核心と言える。直接のコトバ表現(伝達内容)ではない場合も
多くある。ウラを読む必要も多くある。

同じ意味内容でも「君も行きますか」「あなたもおいでになりますか」「君
も行くの?」「お前、行く?」など種々のコトバ表現(言い方)がある。

身体反応と言葉反応とは切り離せない。文章内容よりも声の調子・息づか
い・音調が心の内を雄弁に物語る。

声ばかり強めても、心の裏付けがなければ、表現は空虚に響く。メールやブ
ログばかりやっていると、言葉が身体から離れてしまう。


         
内部感覚・のめり込み


声に表情をつけて読むと、自分自身が物語世界の中を生き抜いているような、
体験しているような感じ(内部感覚)になる。直接体験のようになってくる。
文学理論では「準体験」という。

他人の痛みを自分の痛みのように感じるのに「同情」とか「共感」がある。
誰かが足先を椅子の角にぶつけて痛そうにしているのを見たとする。「ああ、
それは痛いだろうな」とやや客観的な視点で他人の状態を推測するのは「同
情」である。それに対して、「共感」は、自分も痛みを感じるような感覚に
なることである。ほかに「あのやつ、わるいやつだ。きらいだ。」といった
「反発」や「反抗」などの感情反応もある。

物語を読んでいる過程で、熱中する、のる、作品世界と波長・テンションが
同調する、といった感覚的で感情的な没入の時間をもつことがある。作品世
界が頭の中にいっぱいになり、私の中なのか、外なのか、分からない状態に
なることがある。わが身が作品世界の中にすっぽりとはまり込み、溶け込ん
で、全身がそれと響き合い、内部感覚と外部感覚の区別がほとんどなくなっ
てしまうほど同化(感情移入・没入)してしまうこともある。

体の内から動き出したものがひとりでに出る。音声がしぜんに表情として出
てしまう。思わず、知らずに出てしまう。ということも多い。
 だがしかし、そうは問屋が卸さない場合の方が殆どだ。どんなに脳中に思
い・イメージがいっぱいに膨らんでいても、のめりこんでいても、音声の表
現技術・テクニックが伴わないと、貧弱な音声表現になってしまう。表現技
術・テクニックの上達は、表現よみの継続指導によって磨かれる。単発の、
断片の指導ではダメである。
 表現よみの継続指導については、本ホームページ全体にわたって書いてあ
るが、特に  第2章「ここから始めよう、音読授業」
       第3章「やってみよう、音読の基礎練習」
       第13章「表現よみの授業」
などに特化して指導テクニックについて書いてある。これらからお読みにな
り、指導していただけるとありがたい。


           
聞く耳を育てる


文字の連なりを意味内容のかたまりとして正確に読めなくては深い読みとり
などありえない。文字の連なりを語句のまとまり、切れ続きとして音声表現
できることが国語教育のまず第一歩になすべきことである。

声を出している自分の中には、声を送り出している自分と、その声を聞いて
いる自分の二人の自分が存在している。この読み声はよし、これはいかん、
こう修正しよう、上手に音声表現できているぞ、など。納得できない不満足
な低次な音声表現を排除しようとする二人の自分の相互浸透(対立・矛盾)
の弁証法関係の思考がある。フィードバックによる解消と解決の過程が低次
な音声表現から高次な音声表現へ、主観的な音声表現から客観的な音声表現
へと高めていく。「受け手としての自分・聞いている自分」が高まると、ぱ
っとつかんで直ちに優れた音声表現ができるようになる。

表現よみ指導は、聞く耳を育てる指導である。表れ出た音声表現が上手か下
手か、満足できるかできないか、できなければフィードバックし、直ちに修
正を加える。声に出しなら自分の評価基準と対話しながら差異化し、より優
れた音声表現を求め、再構築し、素早く現前化させていく。そうした感受性
の鋭い聞く耳を育てることが大切である。こうした評価的修正能力の耳を身
につけることを、わたしは「聞く耳を育てる」「耳を肥やす」「内面の聞き
手育て」などと呼んでいる。

「聞く耳」の瞬時の評価的修正能力がやがて身体に棲みつくと暗黙知となる。
前景としての図が地としてやがて後退していくよう訓練していく指導が必要
である。評価的な内言操作(自己内対話)がしだいに省略化し脱落して瞬時
の表現よみができるよう「聞く耳を育てる」ことだ。家庭学習における繰り
返しの読み声練習でも評価的修正を活用するように指導する。




   
(ロ)モダリティと音声表現




 モダリティとは、語り手の主観的な判断や態度を表している表現のことで
す。
 例えば「太郎は学校へ行った。」という文があったとします。これは
「太郎は学校へ行った。」という客観的事態をあらわしている命題文です。
これに対して「太郎は学校へ行ったらしい。」「太郎は学校へ行ったよう
だ。」「太郎は学校へ行ったかしら。」などの文は、「太郎が学校へ行っ
た。」という客観的事態に、語り手の主観的な判断、態度を付け加えている
文です。
 これら三つの文は、「太郎が学校へ行った。」という命題文に対して、
語り手がプラスアルファー(発話時の語り手の心的態度、客観的事態に対す
る語り手の主観的な言表態度)を付け加えています。「らしい」「ようだ」
「かしら」などは、語り手の主観的な判断、態度を表明していることばで
す。これらをモダリティと言います。

 モダリティは、文法論でいうヴォイス、テンス、アスペクトとならぶ文
法範疇のひとつです。モダリティはムードと呼ばれることもあります。モダ
リティは、音声表現するときに語勢や上げ下げや強弱や緩急などを伴うこと
が多くあります。もちろん平らにすらりと読む場合もあります。話し手の主
観的な態度や気持ちの表明だから、文学作品では会話文に多く表れ出てきま
す。

 説明文の場合はどうか。説明文は、筆者が読者に向かって、ある事柄を
解説したり、自分の主張を表明したりしている文章です。説明文は筆者の社
会事象や自然事象に対する主観的な判断、気持ち、評価が文章のいたるとこ
ろにちりばめられています。筆者の主観がちりばめられている文章個所がモ
ダリティ部分です。筆者が読者にここを主張したい、訴えたいという事柄は、
音声表現では種々の抑揚を伴って表現されます。小中学校の説明文は、解説
文や観察記録文や意見文や主張文が多くあります。だから、強調表現の抑揚
づけが多く用いられることが多いです。

モダリティをしめす語句には、次のようなものがあります。動詞(命令形、
断定形)、助動詞(らしい、ようだ、そうだ、まい、たい、か、かしら等)、
副詞(たぶん、おそらく、きっと等)、副助詞(さえ、だけ、こそ等)、接
続助詞(ので、から、が等)、終助詞(ね、さ、よ等)、形式名詞+だ(は
ずだ、のだ、わけだ等)などがあります。




   
(ハ)表現よみと文法的思考




下記は、東京新聞2018年8月25日 投稿欄よりの引用です。

      
文法に偏った古文内容疑問

         会社員 村松宏信 46歳 (東京都大田区)

 高校生の息子が、国語の古文に苦しんでいます。古文は日本語のルーツで
不要とは思いません。しかし、センター試験に向けた高校古文は些末な活用
語尾の変化など文法に偏り、「ややこしい」という嫌悪感を残すだけで、大
学進学後は忘れられてしまうでしょう。
 先生方は古文が多くの生徒に嫌われる現状に疑問は持たないのでしょうか。
それよりも、古文の文章の奥深さをじっくり味わうような授業にできないで
しょうか。現代文で行うように「この場面での光源氏の心境を説明せよ」と
応用力を試すのもよいでしょう。
 暗記なら、平家物語の名乗りのような名場面の数々を覚えさせる方が、
後々教養として生かせるのでは。入試制度改革時には再検討を期待します。


 わたしも投稿者に同感です。現在の学校文法は、役立たずの知識の弄びで
しかありません。文法とは暗記するもの、楽しくも、おもしろくもない、い
わばお義理のような学習、試験のための学習、生徒にとっては苦行でしかあ
りません。
 本ホームページでは、文章の意味内容を音声表現する、つまり「表現よ
み」することによって、楽しんで文章内容を声で表現する、同時に、文法的
思考を身につける学習について書いています。
 表現よみをすると、文章内容をどう音声表現したらよいかを考えるように
なります。強弱変化、緩急変化、イントネーションなど。区切り・間・転調
の取り方もあります。前者は筆者の表現意図や相手意識にかかわる部分が多
く、後者は文・文章の構文法則や文章全体の構成・構造、または一文内部の
文内構造の構文規則にかかわる部分が多くあります。文・文章を音声表現す
ると、このように文章全体、または、一文内部の文法則の分析に目がいくよ
うになり、文法則が見えてくるようになります。
 「花が咲いた」の文を音声表現すれば、音調の変化によって「完了の
文」になったり、「感嘆の文」になったり、「疑問の文」になったり、「反
語の文」になったりします。「行くの」の文では、「疑問の文」になったり、
「命令の文」になったり、「強い意志の文」になったりします。
 学年発達段階の違いもありますが、その場その場で「完了の文」とか「疑
問の文」とか「命令の文」とかの文法用語を教えて指導できます。これぐら
いの用語は小学低学年からも難解とはいえず、教えることができるでしょう。
わかりやすい用語に変えてもよいでしょう。
 修飾・被修飾がある文章を音声表現するには、文章のどの部分がどの部分
に係っているか、どこからどこまでをひとつながりに読むか、どこを区切る
か、などをつかまえて読むことが大切となります。語句のかたまりごとにバ
ラで区切って読むのでなく、修飾語・被修飾語とか係り部分・受け部分とか
の文法用語で理解させ、係り受けを意識させて音声表現していくようにしま
す。係り受け方が分かれば、一文の内部構造(文法則)が目に見えるように
なってきます。音声表現の区切り方・間のあけ方が文法則と関連付けて理解
できます。表現よみ指導に「修飾語・被修飾語」とか「係り受け」とか、こ
のような文法用語を取り入れて指導していきます。こうすることによって、
冷たい文字の羅列では見えなかったもの、ただ漠然と意味内容で音声表現し
ていた文・文章に、文法法則や構文法則が現れ出て、より確かな文法的思考
で、意識的な音声表現ができるようになります。

 本ホームページの本章(第16章)「ことばのきまりと表現よみのしかた」
では、次のような指導例が書いています。
     第1節 文末の音声表現のしかた
     第2節 副詞の音声表現のしかた
     第3節 副助詞の音声表現のしかた
     第4節 感動詞の音声表現のしかた
     第5節 連体修飾の音声表現のしかた
     第6節 連用修飾の音声表現のしかた
     第7節 比喩の音声表現のしかた
     第8節 時間順序の音声表現のしかた
     第9節 個条書きの音声表現のしかた
     第10節 接続詞の音声表現のしかた
     第11節 接続助詞の音声表現のしかた
     第12節 主部まとめ「の」の音声表現のしかた
     第13節 指示語の音声表現のしかた
     第14節 はめこみ文の音声表現のしかた
     第15節 オノマトペの音声表現のしかた
     第16節 重ね言葉の音声表現のしかた
     第17節 ならべ表現の音声練習のしかた
     第18節 対比表現の音声練習のしかた

 拙著『音読の練習帳 ことばのきまりと音読のしかた』(一光社、1989)
には、次のような指導例が書いてあります。
   第1章 文末表現と音読のしかた
     命令の文  禁止の文  問いかけの文  さそいかけの文
     希望の文  伝聞の文  推量の文  打消しの文  意志の文
     過去形の文  現在形の文
   第2章 文章の組み立てと音読のしかた
     ならべ表現の文章
     「問いー答え」表現の文章
     文の組み立て 
      はめこみ文  「なにが」のならんだ文
      「どうすr」のならんだ文  つながり文(重文)
      係るコトバ(修飾語) 、受けるコトバ(被修飾語)
      骨組み文と係り受け  位置が離れて述語に係る
      特別な組み合わせで述語に係る
      係り受けそしめすテン
      意味内容の区切りをしめすテン
      さまざまな係り方、区切り方(1)
      さまざまな係り方、区切り方(2)
      いろいろな符号
   第3章 特別なコトバの音読のしかた
      擬声語  擬態語  感動詞  接続詞
      男コトバ 女コトバ

 これまでの文法指導は、文字に書かれた文だけを対象にしてきたきらい
があります。文法対象を、ソシュールのラングのみを扱ってきた傾向にあり
ます。文法対象は、ラングであるという理解が根強くあったからです。音声
表現というパロールは文法論の対象外とされてきました。
 けれど、人間の話し言葉は、音調や言いぶりの変化で、意味内容に大きな
違いが表れ出てきます。文字に書くと同じなのに、 口頭からでる話し言葉
の音調で表現されると、イントネーションや、強弱・高低・ 緩急・音色な
どの変化で、意味内容が多様に変化し、文法的事実も違ってきます。

 小学校での文法指導は、児童の日常の言語生活を向上発展させる役立つ
実用性に富むものであるべきでしょう。これは先述した従来の学校文法の批
判と反省からも言えることです。これまでの学校文法は活用論と品詞論が重
視されてきました。文法学習と言えば、品詞の分別や活用の暗記の強要ばか
りでした。
 これまでの学校文法は、形態論と活用論のみの丸暗記教育でした。それら
判別・判定の指摘を問いかけたりして生徒を苦しめてきた授業でした。文法
嫌いを作ってきた教育でした。
 これからの文法教育は、日常生活に役立つ指導が求められています。日
常の理解行為や表現行為に役立つ文法指導は、構文論と文章論が主柱になる
べきです。形態論と活用論はこれらに副次的に取り入れるぐらいでいいので
す。文法体系のみの指導だけではいけません。日常の言語生活に生きて働く
ような、役立つ文法指導が求められています。
 音声表現に連関した文法事項は、日本語の文法法則の全てを覆うことは勿
論できません。一部分ではありますが、文・文章はすべて音声表現できるわ
けですから、かなりの指導内容があると言えます。
 日常使用している文・文章の音声表現から日本語の文法則や構文規則に気
づき、それを見出していく指導が求められています。音声表現の指導は、児
童に文法的思考を身につけさせるに大きな効果を発揮します。音声表現だけ
で文法則や構文規則の全てをおおうことはできませんが、音声表現の指導と
文法的思考を連関させると、かなりの効果を発揮します。

 文や文章のどこで間をあけて読むか、どこを粒だてて強調するか、どこ
からどこをひとくくりにして軽く流していくか、どこをつなげ、どこを畳み
かけ追い込んで一気に読んでいくか、などを考えることは、意味内容と連関
させながら、文の文内構造(主語・述語、修飾・被修飾、対立・対比、事件
の流動や切迫など)や、文章全体の構文構造(文相互の意味連関、段落相互
の連関)を明らかにすることで明確な音声表現となります。文・文章を音声
表現するということは、このような文内構造や文章構造の文法則の分析を避
けてとおることはできません。
 静的に客観的に文法則や構文則を扱うのでなく、日常の話し言葉の音声
変化という、動的に音調表現を扱うことで、文・文章の生き生きした生命を、
文・文章の客観的な文法事項と随伴させて扱うことで、文法が見えてくるよ
うになります。文法に気づいてくるようになります。
 文章の生き生きした生命を音声表現するとは、筆者の表現意図にそって、
筆者の意識の流れに随伴する、つまり筆者の内面からの律動性に随伴する、
そうした筆者の意識のリズムを、音声にのせて表現することが必要となりま
す。上手に音声表現するとは、こうした筆者の伝達意図と心理感情の動きを、
筆者の呼吸を、息づかいを声にしていくことが大切です。筆者の伝達意図・
伝達内容が聞き手に十分に伝わるには文法則や構文則のきまりに合致した音
声表現をしていかなければなりません。

ことばを構成する要素は、音声と意味であるという言語構成観(ソシュー
ル)は一般に承認されています(時枝理論もありますが)。文章は適切な音
声で表現することによって、文章の意味内容は十分に甦り、冷たい文字の羅
列は生き生きと立ち上がり、踊りだすようになります。棒読みや不自然な読
みでは、筆者の伝えたい文章内容が十分に聞き手に伝わりません。メリハリ
をつけて表現することによって、自分も十分に理解できるようになるし、相
手(聴衆)にも伝わるようになります。




      
(ニ)語り口について




 音声表現は、文章の語り方、つまり「語り口」に合致させて読むことが大
切です。説明文には説明文の語り口があり、物語文には物語文の語り口があ
ります。
 はじめに説明文の語り口について、次に物語文の語り口について書いてい
くことにします。


           
説明文の語り口


 「語り口」を見出すには、「書きぶり」を調べると理解できます。
 説明文の読みとりは「何が書いてあるか」(内容把握)の理解だけでは
いけない。どんな内容を、どのような手順・順序で書いているか。どのよう
に文章が組み立てられ、最後に筆者はどのように結論づけ、読者に何を訴え、
どうしてほしいのか。読み手は、それに対してどう思うか。こうした「書き
ぶり」を読みとることが重要です。
 どのような語り口(書きぶり)になっているか、を調べてみよう。

・ここは、序論部分、本論部分、結論部分の個所である。
・ここは問題提起で、ここは問題解決の論理展開の文章部分で、ここは結論
 部分である。
・筆者はなぜこんな問題提起をしているのか。なるほど、そう言われると、
 自分もこの問題提起には同感だ。よし、同じ土俵に立って読み進めてみ
 よう。
・ここはデータ(現象の取り出し、事実の報告)個所である。つまり根拠で
 ある。 
・これらのデータ(事実例、具体例)をあげて、こう理由づけている。ここ
 は筆者のデータ(根拠、証拠)の整理 まとめ個所である。こう束ねて 
 整理し 理由づけている。
・こういう論理的展開で、こう結論へと導いている。
・ここは筆者の個人的な感想・意見・主張である。ここは筆者の主観的な意
 見・主張個所である。ここは筆者の視点からの個人的な意見の開陳であ
 る。
・自分は筆者の主張に納得できるか、できないか。何となく分からないとこ
 ろがないか。自分はどう思うか。納得できない個所があるとしたら、どん
 なところか。

 教科書の説明文は、落ち度のない文章構成や文章内容になっているのが
殆どです。ですから、児童生徒が教科書の説明文を読むと、まず意味内容を
知識として知ることは当然ですが、ほかに、説明文や観察記録文や意見文は
こういう論述の仕方にすればいいのか。科学的な認識の仕方・思考方法とは
こういう手順で論理展開で書いていけばいいのか。科学的な認識の手順とか
方法を学ぶことが大切な学習内容となります。書かれている知識を学ぶだけ
でなく、知識を獲得する思考展開方法を盗み取ることが重要な学習内容です。
 説明するとはこういう書き方にするのか、観察記録文・主張文・論証文は
それぞれこういうふうな書き方にすればよいのか、こういう手順で、こんな
書きぶりで書けばいいのか、などを知ることが重要な学習内容となります。
 冒頭はこんな書き出し(課題提示)にすればいいんだな。こういうふう
に論理を展開していけばいいんだな。説明の順序や追及の仕方はこういうふ
うに書いていけばいいんだな。データの並べ方やつなげ方や理由づけや最後
のまとめ方はこういうふうに書けばいいんだな。などを学ぶことが重要です。
 こうした論理展開の仕方を身につける・自分で文章表現・作文できるよう
になるには、くりかえし文章を読むこと、表現よみすることがとても役立ち
ます。表現よみの上達を目指して繰り返し練習することで、いつのまにか文
章の書きぶりや論理語いが身体に染み込みます。繰り返し読むことはとても
良い方法です。

  筆者の説明内容に対して、読者が読後感想をもつことも重要です。
・「なるほど、そうか。これについてはちっとも知らなかった。考えもしな
 かったことだ。よいことを教えられた、よい勉強になったぞ。これは驚き
 だ。感動を覚えた。これはへんだ。ここはどうもよく分からないな。図書
 館の本や資料で調べてみよう。知ってる人に聞いてみよう」という感想を
 持つことです。
・「へえ、そうなの。○○っておもしろいな。すごいことなんだな。」  
 「○○に興味をもったぞ。もっと知りたくなった、もっと調べてみよ 
  う。」
・「論理展開を図解や表に整理すると一目で見られるんだな。これはよい方
  法だ」
・「書き方の展開に工夫がされている」「言いぶり、表現のしかたがすば 
  らしい」「書き方のわざのコツがつかめたぞ。」
・「意味がよく読みとれないな。あっ、そうか、こういう内容だったんだ」
 など。

  説明文の学習が終了したあと、発展学習として、終了した説明文の文体
(書きぶり、文章展開や構成、論理語い)をまねて使って、別の題材を与え
て作文(説明文)を書かせる学習をするのもよい方法です。
 わたしがかつて実践した例を紹介します。小学2年生を担任していたとき、
国語教科書に説明文教材として「手のしごと」という題名の文章がありまし
た。この教材文の学習が終了したあと、発展学習としてこの教材文の文体
(書きぶり、文章展開や構成、論理語い)をまねさせて、別の題材(目のし
ごと、耳のしごと、口のしごと、足のしごと)を与えて、説明作文を書かせ
たことがあります。
 拙著『音読指導の方法と技術』(一光社、1989)の189〜192ぺージに「手
のしごと」をまねた「口のしごと」「足のしごと」の荒木学級児童が書いた
説明作文を掲載しています。
 説明文学習ではPISA的読解力や作文力を高める指導も大切です。上記した
「手のしごと」から「口のしごと」「足のしごと」「耳のしごと」「目のし
ごと」などに発展した説明文作成の実践例もその一つです。自らの資料集め
(図書館・ネット・インタビュー)、資料編集、文章作成、全員の前での口
頭発表など。現在はネット社会ですから、ネットリテラシーの情報活用能力
高めの学習も重要な学習内容です。

 筆者について知ることも大切です。中学校から高校・大学・社会人へと年
齢が上がるにつれて筆者について知ることが重要となってきます。
 説明されている事柄のおもしろさに引きこまれ、集中して読んでいるとき
は、筆者を意識して読んでいることはあまりありません。だが、読みつつあ
る意識のどこかに筆者はいつも存在しているのが通常の読みの心理です。冒
頭の問題提示文や最後尾の結論部分や、文章の途中途中の書きぶりには筆者
の顔(意見)が大きく小さく・薄く厚く見え隠れしています。書かれている
事柄(世界)の中に没頭して読んでいるときでも、筆者が書いたものとして、
筆者を意識して読んでいるはずです。音声表現するときでは、大きく小さ
く・薄く厚く見え隠れしている筆者の顔出し意見の書きぶりに応じて表現よ
みしていくようにしているはずです。
 筆者はどんな人だろう、どんな主張をしてきているのだろう。どんな著
書や論文を書いてきているのだろう。筆者について新たな興味を抱くでしょ
う。筆者がこれまで書いた他の論文や著書を探し求めて読み出すこともあり
ます。いま読んでいる文章内容を一層深く理解できるようにもなります。
 筆者がなぜ、こういう問題提起をしているのか。この筆者は何故にこれ
を主張しなければならなかったのか、現実に生活している場所で、どういう
事柄からこれを主張し訴えているのか、前提にある事実が分かってくると、
筆者の主張がいっそう深く理解できるようになります。

     説明文に多くある語り口の語句と音声表現のしかた

・接続詞「つまり」は、これ以上進めない詰まった地点、前に話したことを
 言い換えたり、要約したりするときに使う。「AつまりB」のとき、「A
 =B」である。Bは常にAより抽象的である。音声表現するときは、「つ
 まり」の前でちょと間をあけ、やや強めに「つ」を読み出すとよい。A部
 分をひとかたまりに、「つまりB」部分をひとかたまりに対等の意味内容
 にして音声表現する。

・「AいいかえるとB」、「AすなわちB」は、意味内容では「A=B]と
 同じである。音声表現するときは、A部分をひとかたまりに読み、心持ち
 ょっと間をあけ、やや強めに「つまりB」部分を読み始めるとよい。  
 「A」部分内部と、「つまりB」部分内部をひとかたまりにして読むとよ
 い。

・逆接の接続詞・接続語「しかし。だが。ところが。けれども。〜のに。〜
 が。〜けれども。」などは、意味内容が反対に逆につながっている。音声
 表現のしかたは、これら接続詞の前で、ちょと間をおいて、やや強めに読
 み出していくとよい。

・「〜と思う。と感じる。ではないだろうか。ではないかと思う」筆者のあ
 いまいな心情心理をあらわしている表現である。婉曲な言いぶりの心情
 表現であるが、たまに筆者の断定表現として受け取ってよい場合もある。
 やわらかい表現を使ってはいるが、筆者の強い主張(断定)が隠れている
 と解釈してよい場合もあるので注意を要する。意味内容に応じて強めに、
 すんなり平らに音声表現する。筆者の主観的なモダリティを表す。

・「AではなくB」前を否定し、筆者の主張はアトにきている。音声表現の
 しかたは、「Aではなく」部分と「Bである」部分とのあいだに間をあけ
 て区分けする。A部分とB部分、二つの部分を対比し、二つの部分の内容
 のまとまりと違いが明確になるように読みすすむ。

・「もちろん。たしかに。なるほど。むろん」のアトには、筆者によって否
 定される内容がくる文が多い。そのアトに「しかし、だが、けれども、 
 が」などの接続詞・接続助詞がきて、アトに筆者の主張がくる場合が多 
 い。音声表現のしかたは、前者と後者のあいだに間をあけ、二つを区分け
 して対比し、内容の違いが分かるように、区別けして、明確になるように
 音声表現する。筆者の主観的なモダリティを表す。

・「ようです。ちがいない。だろう」などは、筆者の信憑・確信の強さの度
 合いをあらわす、不確かであることをしめす推量表現である。「たぶん、
 おそらく」などの副詞が つくことも多く、蓋然的な推論をあらわす。決
 めてかかりや思い込みに陥るのを防ぐ表現である。「たぶん、おそらく副
 詞)は「ようです。ちがいない。だろう」(文末)までつながる息づかい
 で読みすすめていく。筆者の主観的なモダリティを表す。
 「ようです」と書いていても、正直なところ筆者の強い断定「ちがいない。
 そうなのだ」である場合もあるので注意を要する。

・「このように……」の言い方は、今まで述べたことを一括して結論づけて
 いる。 読者を結論に導く言い方である。最後のまとめ、あるいは今まで
 述べてきたことのひとまずのまとめ言葉に使われる。音声表現のしかたは、
 軽く間をあけてから、転調して(語調をかえて、明るく、やや強めに)読
 みだすとよい。

・「さて」(話題変え)である。音声表現のしかたは、「このように」と同
 じ。「さて」の前で軽く間をあけてから、転調して読み出すとよい。

・逆説の接続詞(だが、しかし、けれども、一方、とはいっても)は、音声
 表現では、順接の接続詞と比較すると強調音調になることが多い。これま
 で述べてきたこととは違いますよ、すんなりとつながりませんよ、目立た
 せて音声表現する。上二つの 「このように……」や「さて」と 同じ音
 声表現のしかたになる。順接の接続詞は、逆説と違って、強調しないで、
 平らに、すんなりと音声表現することが多い。

・「副助詞」(は、も、でも、こそ、さえ、まで、ずつ、しか、だけ、きり、
 ばかり、ほど、くらい、など、やら、)は、事柄について筆者がそれをど
 う取りあげようとしているか、その取りあげる態度、気持ち、立場を直接
 に表現している。これら副助詞は文脈にもよるが、多くは音声表現のと 
 きは強めに読まれることが多い。筆者の主観的なモダリティを表す。
                            
   説明文に多くある語り口の文章類型と音声表現のしかた
 
 これについては、拙著『音読練習帳3「ことばのきまりと音声表現」』
(一光社、1989)で詳述している。
     第2章「文・文章の組み立てと音読のしかた」
を参照せられたい。重複記述になるので割愛する。


          
物語文の語り口


 「物語文の語り口」と、その音声表現のしかたについては、本ホームペー
ジにある
     第5章・上手な「地の文」の読み方、
     第4章・上手な「会話文」の読み方
を参照せられたい。「語り口」という観点からのアプローチでは説明してい
ませんが、内容は「語り口」と同じことが書いてあります。
 そこには、物語文の文章類型(書きぶり・語り口)と音声表現の関連につ
いて詳述しています。語り手がどのように現れ出てくるかによって語り口が
違ってきます。語り口の類別と音声表現のしかたの違いについて詳述してい
ます。
  また、拙著『音読練習帳2「情感豊かに音読する方法」』(一光社、19
89)にも詳しく書いています。
    第2章「地の文のよみかた」
    第1章「会話文のよみかた」 を参照せられたい。

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