暗誦の教育史素描(その7)      08・05・22記




自伝からみた明治中期の素読風景





       
自伝・自叙伝から年表風


本稿の記述の方法
  明治11年から明治20年までの期間、自伝・自叙伝の中にあった素読
の授業風景ならびに学校風景を書いてある文章個所を、以下に時間系列を
おって年表風に記述しています。年号の後にその年に起こった政治・社会・
教育のトピックスを掲載している個所もあります。出典は、それぞれの文章
の末尾に記入してあります。


明治11年
 【島崎藤村六歳】神坂学校に入学する。父から「千字文」「勧学篇」な
どを授けられ、「孝経」「論語」などの素読を学ぶ。
      『新潮日本文学アルバム・島崎藤村』(新潮社、1984)より

 【夏目漱石12歳】「正成論」を書く。漢学の初歩を断片的に習ってい
たと思われるが、独学によるものか漢学塾に通ったものかよく分からぬ。こ
れは、当時としては普通のものとみなされる(石川忠久)。森田草平は、漱
石から聞いた話として、島崎友輔の父が浅草鳥越で寺子屋のような漢学塾を
開いていたので、そこに通っていたと述べている。その時期が何時頃からか
よく分からぬが、小学校上級からか卒業してからではないかと想像される。
  漱石は、四月二十九日、市谷学校上等小学校第八級で成績優良で、東
京府から賞与を与えられる。
  漱石は、五月ごろ、市谷学校から錦華小学校へ転校する。転校先の小
学校は正式には第一大学区東京府第四中学校区第二番公立小学校錦華小学校
となる。この小学校は明治六年五月三日創立する。後に、久松学校とも呼称
され、公立小学校久松学校ともいわれる。児童数は五十四人である。明治六
年には第一大学区第四中学校区第二番公立小学錦坊学校となり、明治七年に
錦華小学校と改称される。漱石は駿河台の何処かに寄宿して通学していたと
想像される。漱石が転校して入学した時は、生徒は三百二十五人、教師は十
人である。校長はいない。但し、一等準訓導喰代豹蔵が校長格として遇され
ている。   荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より


明治12年
   「教育令」公布。文部省に音楽取調掛をおく。

【横山大観十二歳】 私は一家とともに上京して、東京・湯島霊雲寺の境
内にあった湯島小学校に入った。明治十四年の春、そこを卒業した。小学校
在学当時の教師が誰であったか、私はつい忘却してしまって、今日はどう
しても思い出せないが、私はその受持の教師から非常に可愛がられたことは
よく覚えている。なんでも遊びに来い、といっては私をその下宿に連れて
行った。それだけでは足らず、泊まって行けといっては、無理矢理に私を引
き止めた。私は先生のいわゆる下宿で、先生の床の中の抱かれて、幾度も寝
たことははっきり憶えている。
   横山大観著「大観自叙伝」(日本人の自伝19、平凡社、1982)より


明治13年
  「教育令」を改正し、中央集権化を強化する。

【片山潜二十二歳】師範学校は官立であって、予等は貸費生(荒木注、片
山潜は岡山師範学校へ入学した)として費用を出さずに入学したのである。
したがって規則は中々厳重であった。今まで自由な、むしろ不規則な生活を
送った者には非常に窮屈に感じた。寝るにも、起きるにも、食事にも、遊ぶ
にも、勉強するにも規則でキチキチと時間を守って起居動作を律せねばなら
ないので、最初は中々容易なことではなかった。まだ電気などなかったから
皆、石油ランプで勉強するので、一番に不自由を感じたのは夜八時から発声
をまったく禁ぜられたことであった。で、十時には就眠するのである。
  今までの習慣として勉強は読書であった。読書は発声して読むのであっ
た。黙読などということはほとんどしたことがない。しかるに八時後は一言
をも発音することが出来ない。すると罰せらるるのである。ことに一室に二
人の学生を同居せしめておいて、八時後は朝まで言語を発することを禁じ、
話をするなと禁ずるということは随分無法な注文である。それから十時後点
灯して勉強することは犯則であった。中には押入れで勉強する者もあった
が、これもあまりに酷だと思った。(中略)
  それでもなかにはよく時間を間違えたり、発声して犯則の罰を食ったり
する者がたくさんに一期間にはあった。僕も行く早々八時後に発生読書して
舎監に呼びつけられてしたたか叱言を頂戴したことがる。ただしこれが最初
の一度であったためにこの時には罰せられなかった。
        片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より


明治14年
 【若槻礼次郎十六歳】下記引用は、当時の校舎の粗末さを示す一例とし
て引用した。十六歳の若槻礼次郎が代用教員をしていた島根県八束郡玉湯村
大谷村大谷村小学校の一例です。
   「松江から三里ばかり離れた所に大谷村というところがある。そこの
小学校で教員が要るというので、世話をする人があって、私は間もなくそこ
の代用教員となった。私の十六歳の時である。食事つきで月給一円五十戦で
あった。小学校とはいっても初めは百姓屋の座敷のような所で教えておった
が、後には牛小舎の二階が小学校になった。下には牛がモウモウとなく。上
では生徒がドヤドヤ騒ぐ。この牛小舎の持ち主が校長で、村一番の豪家で、
村では親方々々と云われていた。(「古風庵回顧録」)
        唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭28)より
 
 【夏目漱石十五歳】 漢学塾二松学舎第三級第一課に入学し、漢文学を
学ぶ。経書から始め、唐宋の詩文を好む。特に陶淵明を好む。『唐宋数千
言』(『木屑録』序)から文学の理念を得たと思われる。(二松学舎で学ぶ
以前にも漢学塾に通っていた)
   漢学塾二松学舎は、明治十年に設立。三島中州が経営する。各級は第
一課・第二課・第三課に別れていて、半期に一課ずつ終了することになって
いた。(小宮豊隆)「私は明治三十一年にちょっと入門したが、路から少し
石段を上がったところに学舎があって教場は三十畳ぐらいかと思はれる一室
があった。ところどころ破れた古畳にうへに、細長い腰掛のような机が並べ
てあって、そこに座り、机に溢れた者は膝の上に本をのせ、本を持たない者
は隣の人の本をのぞいている。(樋口配夫『明治会見記』これは十五年あま
りの後の漢学塾二松学舎の情景を述べたものである。)第三級第三課では
『日本外史』『日本政記』『十八史略』『小学』『古文真宝』、第二課では
『蒙求』『文章規範』、第一課では『唐詩選』『皇朝史略』『古文真宝』、
第二級第三課では『孟子』『史記』『論語』、第二課では『論語』『唐宋八
家文』『前・後漢書』を講じる。
       荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より


 明治15年
 【高浜虚子八歳】 私が小学校の入った時分、小学校というのはまだ今の
ような体制を備えていなくて、半年毎に進級するような制度でした。成績が
いいと一つも二つも飛んで進級するというような、極めて不規則な制度であ
りました。その時分、既に私達の先輩には志を立てて、早くも東京に出てそ
れぞれの道を開いているような人もありました。
   高浜虚子『定本高浜虚子全集』(第十三巻、毎日新聞社、昭48) 


明治16年
   鹿鳴館が開館する。西洋舞踏の練習が始まる。


明治17年
 【河上肇五歳】  私は明治十七年三月、満四年五ヶ月で小学校へ入学し
た。その頃はまだ入学年齢に制限はなかったし、それに父は村長として小学
校を管理していたので、そんなことも自由であった。
   私は入学した年の八月十二日に、小学初等科第六級卒業という証書を
もらい、翌々年の三月十六日には、第三級修業(証書は修業となってる)と
いう証書をもらった。多分、その時だったろうと思う。私は小さな袴を着
け、父に伴われて、その頃すでに臨終の床に就いていた母方の祖父を訪ね、
その証書を見せに行った。祖父はひどくわたしを寵愛してくれ、孫の中では
私が一番その愛に浴したものだが、この時も大変に喜んで、ご褒美だといっ
て私に十銭銀貨十枚をくれた。
   学校へ通うといっても、私は毎日おんぶされて往復したのである。そ
の頃村役場と小学校とは同じ構内にあった。そして父は村長として小学校の
管理をも兼ねていたので、役場の小使いに命じて毎日私をおんぶして学校の
送り迎えをさしたのものである。私はまた学校へ行くの嫌で、毎朝その小使
いを困らした。学校の方へ向けていくと、背の上で暴れて仕方がないので、
小使いは後向きになって後退りながら、やっとのことで私を学校まで運ん
だ。弟も一緒に通学するようになってからでも、二つ年上である兄の方の私
がおんぶされ、弟の方は歩いた。書いておくのも恥ずかしいが、私はそんな
我侭をして育ったのである。
   小学校では二度賞を貰った。父は小学校の管理をしていたので、教員
の任免はその裁量に一任されていた。当然、教員たちは長男に悪い点を付け
る事を遠慮したものに違いない。悪い点を付けたので教員を取り変えたとい
うようなことすら、私は小耳に挟んだことがある。その頃、盆や年の暮れに
は、村役場の雇たちは勿論、小学校の教員たちも、みなうちへ贈り物を届け
ていた。それは酒、素麺、砂糖、菓子などであった。父も祖母も酒を嗜んで
いたので、その贈り物が一番多かったが、素麺や砂糖なども相当にあって、
それが一つの蓄えとなった。
           河上肇『自叙伝(一)』(岩波文庫、1996)より 


明治18年
  文部省に図画取調掛をおく。伊藤博文が内閣総理大臣となる。森有礼
が文部大臣となる。

【野村吉三郎八歳】 
  「……同町内に在った河合という老人の教える漢学塾では、同年輩の頑
童達が、意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやってい
た。何しろ悪戯盛りの子供達だから、一組が老先生の前に畏まって授業を受
けていると、ほかの連中は先生の背後で木刀や竹刀を振りまわし、先生の頭
や肩先へ切りつける真似をしたり、赤んべえをしているが、耳の遠い老師は
そんなことはどこふく風で、前に居並ぶ腕白連中が大声張り上げて朗読する
素読を、竹の鞭を構えた泰然とした格好で熱心に聞き入って居られた。耳が
遠いので果たして聞こえているかどうかは保証の限りではないが、今から想
えば懐かしくもあり、可笑しくもある寺子屋風景であった。併し、私にとっ
てはこうした幼年時代の私塾通いが、後年に及んで大きなプラスとなった。
その頃の月謝は確か二十銭ぐらいと覚えているが、この二十銭は母としては
随分苦心をした金であったようだ」
        今野信雄『江戸子育て事情』(築地書館、1988年)より 

【山川均六歳】 私は姉が小学校へ通うていたことは少しも覚えてないか
ら、あるいは寺子屋の私塾で読み書きを習ったのかもしれぬ。当時はいっぱ
んに、女はせいぜい手紙でも書ければたくさんとされていて、父も姉の教育
について、はたしてこれ以上のことを考えていたかどうかは疑わしい。もっ
とも私の五つ六つの頃、懇意の漢学の先生がおりおりやってきて、二人の姉
に、今から思えば『論語』かなにかだろう、素読を教えていたことがあっ
た。私は聞きかじりに「シノ、タマワク」「シノ、タマワク」と口まねして
いたが、おそらく姉たちにしても、「シ、ノタマワク」という意味は分から
ず「シノ、タマワク」と覚えていたろうと思う。
              『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 

 【新村出十歳】 父は、佐藤一斉先生の直弟子ではなかったが、その高弟
の門人たりし栗本義喬翁(後に一高の漢学教授)の漢学塾に、明治十七八年
ごろ、まだ十歳未満だった私を入れるため、日本橋にあった寺子屋式の私立
小学校を中退せしめた。千葉県は下総佐原の利根川のほとりの丘陵のふもと
の漢学塾では、『論語』『孟子』『中庸』『大学』、即ち四書の素読、それ
から朱文公の『小学』の講義の聴聞、史書は頼山陽の『日本外史』、水戸の
史学者の名著たりし『皇朝史略』、それから私的には当時流行した柴東海散
士の政治小説の『佳人之奇遇』なるものを、先輩が輪読するのを、半わかり
にきいて興味を覚えたに過ぎず、撃剣のけいこ、おめんおこて、おつき、弓
道のまねごと、『唐詩選』の詩ガルタの傍観傍聴。しかしおかげで、李白と
か、杜甫とかの名詩の一端を習った。
       新村出著『新村出全集十四巻』(筑摩書房、昭47)より 


明治19年
   「師範学校令」「小学校令」「中学校令」を公布する。尋常師範学校
は師範学校とし、東京師範学校は高等師範学校と改められる。前者は小学校
の教員、後者は中学校の教員を養成する。小学校は義務教育を目的とし六年
制とする。中学校は尋常と高等に分ける。「帝国大学令」が公布され、東京
大学は、帝国大学と改称される。

 【島崎藤村十四歳】 寄宿先(銀座四丁目)の吉村忠道の伯父武居用拙に
「詩経」「左伝」を学ぶ。芝の三田英学校に入学、九月、神田の共立学校
(のちの開成中学)に転校する。
       『新潮日本文学アルバム・島崎藤村』(新潮社、1984)より

 【山川均七歳】 私の尋常小学時代には、イト、イヌ、イカリではじまる
単語を並べた読方の本いがいには、教科書というものはなかったと思う。習
字のお手本も、紙を持ってゆくと、先生が書いてくれた。このお手本をなく
したりしわくちゃにして、よく先生に叱られたものだ。それで読本のことを
「イトイヌ」といっていたばかりでなく、学校にあがってイトイヌを習うと
いったふうに、「イトイヌ」が小学教育の代名詞みたいになっていた。
   やや上級になって、算術と作文を習った。作文は「梅見に人を誘う
文」だとか「婚礼に人を招く文」「金子借用を依頼する文」「同返事」など
という、おもに手紙の文例を教わった。祭礼に招かれた返事に「当日は豚児
めしつれて御邪魔仕るべく」という文句があったのを今でも覚えている。手
紙のほかにも「机の記」などという題で「机は木にて造り読み書きの時用い
るものなり……」といったような、記事文というようなものがあった。
   それから行儀作法の課目があった。フスマのあけ方、しめ方だとか、
来客へのお茶の出し方、食膳の運び方、ご馳走の食べ方、など教わった。
             『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より  
 

明治20年
 【山川均八歳】  私は遅生れのため、数え年八つになって、小学校にあ
がった。ほんの僅かのあいだ、そのころはじめてできた幼稚園に通うた。村
の人たちは「ヨーテン」といっていた。神崎先生という小学校の先生の背の
高い美しい奥さんが、たった一人で五、六人の子供たちに、そのころはオル
ガンもなにもなかったので、手拍子で歌など教えていた。私はこの「ヨーテ
ン」で、「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」をおぼえた。しかし村人たちは、
まだ「ヨーテン」の必要を感じなかったので、まもなく立ち消えになった。
   倉敷村には古くから、代官所のなかに明倫館という、いわゆる「郷
黌」なるものがあったが、これはごく限られた人に、おもに儒学を教えたと
ころで、一般町人に公開された学校ではなかった。明治六年ごろに、明倫館
が廃止されて小学校が設けられたが、やはり明倫小学とか小学明倫館などと
呼ばれていたらしい。この小学がのちに小学校と改称され、私が小学校へあ
がった明治二十年ごろに、はじめて尋常科と高等科とに分かれた。小学校に
なると、さすがに昔の「郷黌」とはちがい、課目も儒学ばかりでなく、西洋
の新知識なども教えたらしいが、それでも今日の小学校よりも、昔の「郷
黌」の形式に近いものだった。
   明治二十年の春には高等小学の1年だった次のほうの姉も、家庭で裁
縫を習わせるという理由で退学させた。しかし二十二年の秋には岡山の山陽
英和女学校に入れている。この学校も、安部磯雄さんが少しのあいだ教えて
いたことのあるミッション・スクールだったが、これも二年くらいで辞めさ
せて、一時は活花や茶の湯のけいこをさせていた。私は茶の湯の宗匠の、あ
のわざとらしいへんな手つきなど真似て、みなを笑わせていた。こういうふ
うに子供の教育についてはかなりでたらめで、定まった方針などなかったよ
うに思う。しかし家庭の中には、子供たちを強く支配している一定の空気が
あった。昔の家風というようなものはすでに崩れていたが、剛直で気位の高
い父の気質と、武士道的な厳格な父の道徳観とが、これに変わっていた。二
人の姉も、私も、家庭のそういう空気を呼吸して大きくなった。
   明治二十一年の三月、上のほうの姉は、十六歳で、私の家と真向かい
の林家に嫁入りした。   『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より



             
結び


最後に、結びとして荒木の簡単なコメントを書くことにします。

漢学塾にはいろいろな種類があった

  大きくは二つの種類に分けられるようです。本格的な漢学塾と、寺子屋
風な漢学塾です。一般的には、江戸時代は、漢学塾は漢籍を教える高等教育
機関であり、寺子屋は「読み、書き、そろばん」を教える普通教育機関であ
りました。
  本格的な漢学塾とは、江戸時代の各藩が設立した藩校や、漢学者個人が
設立した漢学塾のながれを引きずっている漢学塾です。夏目漱石の学んだ漢
学塾「二松学舎」や、新村出が学んだ「千葉県は下総佐原の利根川のほとり
の丘陵のふもとの漢学塾」などがそうでしょう。山川均が書いている明治6
年ごろになくなったという明倫館もそうした漢学塾の一つでしょう。
  教科書として使用したテキストは、漱石が学んだ漢学塾では、『日本外
史』『日本政記』『十八史略』『小学』『古文真宝』、『蒙求』『文章規
範』、『唐詩選』『皇朝史略』『古文真宝』、『孟子』『史記』『論語』、
『論語』『唐宋八家文』『前・後漢書』などが挙げられています。
新村出の漢学塾では、『論語』『孟子』『中庸』『大学』、『小学』、『日
本外史』、『皇朝史略』、『唐詩選』などが挙げられています。
  寺子屋風の漢学塾は、野村吉三郎の学んだ漢学塾、山川均の姉が学んだ
漢学塾などがそうであろうと思われる。野村吉三郎の通った私塾とは、通っ
た時代は明治十年代の私塾のことですが、まだ江戸時代の寺子屋の名残りを
十分に残している漢籍を主とした寺子屋のことだと想像できます。
  「幕末維新期にいたって、庶民の求める知識、教養のはばが広がり、寺
子屋が私塾に著しく接近し、私塾も習字を教育課程に組み込むようになり、
私塾と寺子屋とのあいだには、はっきりした一線をひくことができなくなっ
た。これがやがて明治学制の小学校を中核とする国民教育を形成する素地と
なっっていった。」(『神奈川県教育史・通史編上巻』神奈川県教育委員会
発行、昭53年)と書いてある。そうであるならば、寺子屋風の漢学塾は、
習っている漢籍の本、その種類、カリキュラム、時間数、素読・講・、会読
・輪講・質問などのあるなしによって種々雑多な漢籍の学習が行われただろ
うことが想像できます。
  また、島崎藤村は、父親から、「孝経」「論語」などの素読を学んでい
たという。
  山川均の家には「私の五つ六つの頃、懇意の漢学の先生がおりおりやっ
てきて、二人の姉に、今から思えば『論語』かなにかだろう、素読を教えて
いたことがあった。」と書いている。家庭教師が家にやってきて漢籍の素読
を学んだ、ということもあったことが分かります。

小学校への入退学は、保護者の自由に委ねられ
 ていた


  新村出は、「明治十七八年ごろ、まだ十歳未満だった私を千葉にある漢
学塾へ入れるため、日本橋にあった寺子屋式の私立小学校を中退せしめ
た。」と書いています。当時はこのような自由が出来た、ゆるやかな教育制
度の時代だったことが分かります。「中退」とは千葉の小学校へ「転校」し
たことなのか、そのへんのことは不明でです。
  山川均は、「明治二十年の春には高等小学の1年だった次のほうの姉
も、家庭で裁縫を習わせるという理由で退学させた。しかし二十二年の秋に
は岡山の山陽英和女学校に入れている。この学校も、安部磯雄さんが少しの
あいだ教えていたことのあるミッション・スクールだったが、これも二年く
らいで辞めさせて、一時は活花や茶の湯のけいこをさせていた。私は茶の湯
の宗匠の、あのわざとらしいへんな手つきなど真似て、みなを笑わせてい
た。こういうふうに子供の教育についてはかなりでたらめで、定まった方針
などなかったように思う。」と書いています。学校の中退や入学が、保護者
の好き好みというか、家庭の事情による都合というか、かなり自由にできた
ことが分かります。
 山川均は、「私は姉が小学校へ通うていたことは少しも覚えてないから、
あるいは寺子屋の私塾で読み書きを習ったのかもしれぬ。」と書いていま
す。これまた、小学校への入学は保護者の都合で「入学させる、させない」
は自由だったことが分かります。 
 
学制発布当時の小学校の呼称について

   夏目漱石の転校先の小学校名が「転校先の小学校は正式には第一大学
区東京府第四中学校区第二番公立小学校錦華小学校となる」と書いてありま
す。
  何ゆえにこんな長たらしい名前かというと、明治五年の学制の学校設立
計画はこうです。日本全国を8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区
に分け、各中学区を210のの小学区に分け、各学区ごとに1校ずつの学校
を設立すること、と決められた。全国で合計、大学8、中学256、小学
53760校が予定された、ということから、こんな長たらしい名称になってい
るわけです。
  
師範学校の寄宿舎生活は非常に窮屈だった

  片山潜は二十二歳の時、岡山師範学校に入学した。師範学校は教員養成
のための学校です。片山潜は、師範学校に入った寄宿舎生活のことを書い
ています。師範学校の寄宿舎の生活は細かい規則があって、規則が厳格で随
分と窮屈な生活を送ったとあります。

  西尾実は、明治39年(18歳)に長野師範学校に入学した。寄宿舎生
活について次のように書いている。
「長野師範の寮では、一年生だけは、同一学年だけが八人ずつ各室に分かれ、
部長四年生・副部長三年生が指導してくれた。二年からは各学年混成の部屋
で、それに部長・副部長があった。そのほか四棟の寄宿舎には舎長が一人ず
つあり、舎監もあって、毎夜舎監には当直がいた。寮生の生活は起床・朝食・
授業の終始・放課後の外出・帰舎・夕食・就寝などラッパで知らされたこと
など、軍隊式だった。そのほか、入浴時間などもラッパで知らされたように
思う。」    『西尾実国語教育全集・第十巻』教育出版、昭和51)より

  当時の師範学校とはどういう性格のものであったか。本稿の読者の多く
が小中学校の教師でしょうから、昔の教員養成のための学校について書いて
ある文章部分を、二つの著書から下記に引用しています。山住正巳著『日
本教育小史』(岩波新書、1987)と、唐沢富太郎著『日本教育史』(誠文堂
新光社、1953)から引用しています。

はじめに山住正巳著『日本教育小史』(岩波新書、1987)からの引用です。
ーーーー引用開始ーーーーーーー

教員養成の重視
  森有礼が学制改革にあたって力を入れたことの一つは、この教育内容を
教える教師の養成であった。師範学校は高等と尋常の二種とし、前者は東京
に一校、後者は各府県に一校ずつ設置することとし、師範学校の生徒には
「順良、信愛、威重」という三気質を身につけることが求められた。
  三気質は抽象的で、どのようにも解釈できそうだが、森によれば、師範
学校生徒には、「自分の利益を謀るのは十の二三にして、其の七八は国家必
要の目的を達する道具」であるとの自覚が大事であった。この考えに立つ
と、三気質もにわかに具体性を帯びてくる。人を、なかでも子どもを信じ愛
することは大事だといわれても、やはり上司に対しては従順で、国家の権力
・権威を背景にして子どもにのぞむという師範型の教師が、ここから浮かん
でくるのである。
  師範学校重視は給費制にもあらわれており、全生徒に、衣食の他、日用
品、一週間手当てなどが給与され、墨・紙・ペン・鉛筆などは「時の需要に
応じて適宜」支給され、靴下は今日のそれと比べて破れやすいという弱さも
あったがつき二足が支給されるなど、かなり優遇されていた。 49ぺより

師範学校と高等学校との違い 
  しかし、生活や各種訓練には軍隊方式がとりいれられ、学問・精神面で
は優遇からほど遠かった。全員が入れられる寄宿舎では、舎監の下に規則正
しい生活が要求された。これは高等学校(1886年に高等中学校として発足、
94年に改称)が同じく全寮制をとりながら、大幅な自治が認められていた
(たとえば一高寮歌「ああ玉杯の花うけて」には、「自治の大船勇ましく」
「理想の自治に進むなり」とあった)のとは大きな違いである。高校生は帝
国大学進学を予定されていた青年であり、その自治は指導者養成機関にのみ
認められたものであって、特権意識と裏腹になっていた。(同寮歌では「栄
華の巷低く見て」とか「汚れる海に漂える我国民を救わんと」とうたってい
た)。皆寄宿舎=全寮制も、教育対象によって異なる方式がとられていたの
である。 49ぺより

軍隊式訓練の導入
  師範学校の軍隊式訓練は体操にも及んでいた。体操については、その教
育を開始するため七十八年に体操伝習所が設置され、アメリカから教師リー
ランドを招き、近代的普通体操の普及をはかっていたようにもみえるが、こ
のときすでに陸軍の士官・下士官計四人を教官とし、歩兵操練も教科のひと
つにあげられていたのである。洋式の体操・体育は、まず軍隊で軍事上の必
要から導入されたので、学校での体操実施にあたっては、軍の協力をえなけ
ればならなかったのであろう。このような経過の延長として、森は体操だけ
は文部省から陸軍省へ移管して、忠君愛国の精神、嘗艱忍難の気力を育てよ
うと提案した。
  この移管は実現しなかったが、森は高等師範学校長に陸軍省軍務局長山
川浩を、同校体育教官には陸軍将校を現役のまま任命した。師範学校に軍隊
方式が持ち込まれれば、そこを卒業した者の就職する各学校にその影響が波
及するのが当然である。 50ぺより
ーーーーー引用終了ーーーー


 もう一つ、今度は、唐沢富太郎著『日本教育史』(誠文堂新光社、1953)
からの引用です。
ーーーー引用開始ーーーーー

森と師範教育
  森有礼は師範の改革には畢生の努力を捧げ、制度の改正のみならず実際
上これに力をそそぎ、細大漏らさずその改革にたずさわり、人事の任免にも
注意を払い、当時陸軍省内において重要地位を占めていた山川浩を東京高等
師範学校校長に任じ、この高等師範学校こそ「普通教育の本山」たらしめん
とし、また尋常師範学校教育に対してもこの上なき熱意を示した。
  次にしからば彼が目指した師範教育の内容は如何であるかというに、彼
は師範学校においては知識学科よりも人物養成に力を入れ、三気質として威
重Dignitty、信愛Friendship、順良Obedienceの三つを掲げて師範教育の
目標とし、しかも以上の如き三気質を実現する方法として師範学校に毎週六
時間の兵式体操を学科過程の中に入れ、これによって国家主義的精神教育を
施し、なお寄宿舎制度を設けて全寮制度をとり、その教育を徹底的な軍隊式
教育となした。それで彼以後寄宿舎は寝台となり、男子師範も女子師範も洋
服に改まり、組長、什長、学友などという組織となり、すべてラッパによっ
て生活を規制したのである。(中略)
  なお彼は師範生をあくまでも陸海軍の学校と同等公人として取り扱い、
学費支給を完備して、食物被服日用品および一週間手当てを公費をもって支
給したのである。なお彼はみずから師範学校を巡視してその指導に当たって
いる。
  たとえば明治20年彼は御影師範学校を巡視し、教授の実際を観察した
が、そのとき代数の教師が教科書を開かせ、国語教授の如く書中の実理を講
義していたのであるが、彼はこれを永く見ておりその教授の迂遠に辛抱でき
なくなり、突然教卓に近寄り大喝一声「何をしているか」と叱咤してそのま
ま教室を出て行った。それで茶瓶頭の先生は狼狽する、随行者は顔色なしと
いう光景であった。
  なお彼は秋田師範学校付属小学校において教生の実地授業を視察した
時、作文時間中のことであるが、教生がその日用往復文のうち「失礼ながら
御願云云」の文字を教えたところ、彼は嚇然として怒り、生徒の面前におい
てみずからその教案を指頭で突き出し、「失礼のことを人に頼むことやあ
る」と大喝一声「無用の文字を弄するな」と叱責したというがごときこと
は、彼の巡視した至るところの学校においてなされたのである。
  彼の明治教育史上における影響力はきわめて大であった。蓋し彼は首相
伊藤博文とは肝胆相照らし内閣唯一の学者であり、かつ外国通として内閣に
重きをなしていたのであり、しかも当時は未だ議会はなく、内閣の意志はは
すなわち国家の意志でありであり、内閣の同意によって何事も容易に実行す
ることができたからである。とくに森は閣議においても勢力があり、彼の意
見は大抵通り、また彼はすこぶる専断主義の人で、かくて彼は極端な国家主
義の教育を実現し、教育の力によって遺憾なく中央集権の実を挙げようと努
力したのである。
  彼は一か月の内に七八回位文部省に出るだけで、あとは何時も感謝の中
に引き込んで居て大抵のことは独断で決定し命令した。とくに官吏の任免に
ついては、奉任官以上は次官にも誰にも相談せず、どんどん自分の親戚や知
人を採用した。それらのなかには随分いかがわしい乱暴者もあって、次官の
いう事など上の空で、一日中仕事もせずに遊んでいるという有様であった。
かくのごとく彼が独断専行で、人物の如何を問わず自分の知人ばかり採用す
るので、或る人が彼に向かって、あんな無能な人物を入れてどうする積もり
かと問うたとき、彼は役に立たぬ分だけ自分が働くから大丈夫だと答えたと
いう。(「男爵辻新次翁」141頁以下参照)
  森の国家主義的教育政策は、その後23年の改正小学校令第1条におい
て「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活
ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」とあるが、これに対し
て江本千之は「改正小学校令の要旨」として道徳教育とは「皇室に忠にして
国家を愛し、父母に孝にして長上を敬し、兄弟に俤にして卑幼を慈し、朋友
に信にして自己を重んずる等」(「江本千之翁経歴談」上、96頁)の心志を
修養せしむること、国民教育とは「我帝国は、紀元以還実に二千五百有余年
の沿革を経、其言語習俗気風制度国体等、皆本邦特有の性質を存せざるはな
く、而して其宇内に於いて特に比類なきものは、万世一系の天皇を奉戴する
最大栄誉と最大幸福とを有すること」(同上99頁)を救うることにあるとな
している。
  森有礼の国家主義教育政策の後をついだのは井上毅であるが、なおその
間とくにわが国における近代国家の成立とともに、国家主義教育の性格を決
定的にしたのは明治23年の教育勅語である。
ーーーー引用終了ーーーー

【荒木のコメント】
  教師養成のための専門教育を受けた師範学校を出た人は大変な教職専門
家や村の知識人としてもてはやされたようだ。大威張りで校内を取り仕切る
ことが出来たみたいだ。その様子を古田大次郎(十歳、明治44年)は次の
ように書いている。上述した文章内容と合致していることに気づきますね。
 【古田大次郎十歳】六年の時には、広川という二十三、四の師範を出たば
かりの先生が担任した。この先生と同時に新井という体操の先生が新任して
きた。元気のいいかなりの辣腕家だった。先生は来ると早々、校内に大改革
を施した。それは全校の生徒を軍隊組織にしたことであった。まず、男生女
生を各中隊として大隊を作り、各級は小隊となって、さらに小隊は分隊に別
れ、各隊には隊長というものをおいた。この分隊長以上で各級の役員会議を
組織した。こうした具合で、学校はまったく軍国主義化してしまった。 
  古田大次郎『死刑囚の思い出』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より


通常「書物を読む」とは「音読が普通」であった
 
  片山潜は、師範学校生だった当時、つまり明治13年頃は、読書とは音
読することであり、黙読する習慣はなかった、と書いている。本を読むと
は、声に出して読んだのであり、黙って読むことはしなかった、ということ
だ。つまり寄宿舎生活において夜八時以後の勉強(読書)ができなかった、
勉強(読書)することが禁止されていた、ということだ。
 次のように書いている。その部分だけ引用しよう。

 ≪師範学校は官立であって、予等は貸費生(荒木注、片山潜は岡山師範学
校へ入学した)として費用を出さずに入学したのである。したがって規則は
中々厳重であった。今まで自由な、むしろ不規則な生活を送った者には非常
に窮屈に感じた。寝るにも、起きるにも、食事にも、遊ぶにも、勉強するに
も規則でキチキチと時間を守って起居動作を律せねばならないので、最初は
中々容易なことではなかった。まだ電気などなかったから皆、石油ランプで
勉強するので、一番に不自由を感じたのは夜八時から発声をまったく禁ぜら
れたことであった。で、十時には就眠するのである。
  今までの習慣として勉強は読書であった。読書は発声して読むのであっ
た。黙読などということはほとんどしたことがない。しかるに八時後は一言
をも発音することが出来ない。すると罰せらるるのである。ことに一室に二
人の学生を同居せしめておいて、八時後は朝まで言語を発することを禁じ、
話をするなと禁ずるということは随分無法な注文である。それから十時後点
灯して勉強することは犯則であった。中には押入れで勉強する者もあった
が、これもあまりに酷だと思った。(中略)
  それでもなかにはよく時間を間違えたり、発声して犯則の罰を食ったり
する者がたくさんに一期間にはあった。僕も行く早々八時後に発生読書して
舎監に呼びつけられてしたたか叱言を頂戴したことがる。ただしこれが最初
の一度であったためにこの時には罰せられなかった。≫
        片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より
 
  片山線氏は、明治時代には「黙読の習慣がなかった」と言う。読書はす
べて音声に出して読んだ、と言う。このことについては前田愛『著作集第二
巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)の中の「音読から黙読へ」という
章で詳述されている。わたしも別稿でこれのついて書くことにしたいので、
ここではこの指摘だけに留めておく。


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