暗誦の教育史素描(その6)    08・05・22記




自伝からみた明治初期の素読風景

                 


       
学制発布と寺子屋・漢学塾


  幕末から明治へと時代が移行していくにつれて、外国との交易が活発に
行われるようになり、時代が要請する人づくりの内容にも変化があらわれて
きます。それにつれて教育内容も変化してきます。

  明治五年に学制が発布し、新しい教育体制、教科書、教育内容の教育改
革が進められました。外国との交易も行われるようになり、欧米流の学習内
容や教育方法が取り入れられ実利主義の教育がすすめられていきます。
  新学制の教育体制は、従来の儒教主義の教育には批判的でありました。
教科書も欧米の文化・科学の啓蒙書の中から児童向きなものを翻訳して学習
材として使用しました。しだいに漢籍の教科書は使われなくなり、素読の教
授方法も衰退していくようになります。勿論、漢学者や国学者からの反対論
はありましたが。  
 
  一般社会では新聞、雑誌、小説などは言文一致体の文章が常用として用
いられていくようになります。人々の使用する日常の話し言葉も書き言葉も
言文一致体となっていきます。江戸時代の公文書はすべて漢文でありました
が、公文書も言文一致体の文章になっていくようになりました。こうして漢
籍の素読は時代が要請するものでなくなり、しだいに影が薄くなっていきま
す。

  しかし、新らしい教育体制が組織されたとはいっても、直ちに新校舎が
どしどし建設され、新しい教育内容での教科書が全児童に配布されたわけで
はありません。寺子屋を小学校として使用したところもたくさんありまし
た。従来の寺子屋や藩校の教育の考え方や指導方法が直ちに忘れ去られたわ
けでもありません。「学問とは漢籍を学ぶことだ」の流れは明治期の終りに
なっても連綿と続いていました。その証拠に民間の漢学塾は盛んでしたし、
まだ残ってた寺子屋でも漢籍の素読を教えるところがありました。

  このことは以下に引用している明治期に小学生だった人々の自伝や自叙
伝から引用した文章からも分かります。祖父や父親の間では漢学尊重の気風
がまだ根強く残っており、わが子を小学校に通学させるかたわら、放課後
に、まだ残存していた寺子屋や漢学塾や私塾(今でいう家庭教師、個人教
授)に通わせて漢籍の素読を、その他そろばん・習字・剣道・絵画などを習
わせる家庭も多くありました。祖父がいる家庭では、祖父が孫に家庭内で漢
籍の素読を教授することも多くありました。

  以下の引用を読むと、明治期になっても、寺子屋や漢学塾で、または祖
父から漢籍の素読を受けていたことが分かります。下記に明治・大正・昭和
の歴史を動かしてきた偉人たちの自伝・自叙伝の書物の中から抜粋引用して
示しています。
(お断り。明治期の国語教育史の区分けの仕方としては、教育制度から、教
育思潮史から、国語教材変遷史から、読解指導方法史から、作文指導方法史
からなど、種々の区分けの仕方があるようです。
  本稿では明治期の漢籍の素読の教授状況を偉人の自伝や自叙伝から引用
し記述することを目的にしており、素読教授においては明確な区分けとして
のまとまりがみられません。それで本稿では、機械的に十年ごとで区切って
います。明治1年〜明治9年を明治初期、明治10年〜明治19年を明治中
期、明治20年〜明治45年を明治後期、という区分けにしています。)



       
自伝・自叙伝から年表風に


本稿の記述の方法
  明治元年から明治9年までの期間、自伝・自叙伝の中にあった素読の
授業場面を抜粋引用して時系列にそって年表風に書き出しています。年号の
最初にその年に起こった政治・社会・教育のトピックスを書いているところ
もあります。出典は、それぞれの文章の末尾に記入してあります。


明治元年(慶応4年)

   大政奉還、王政復古、五箇条御誓文。

森鴎外七歳】  三月藩の儒者米原綱善から孟子を学ぶ。藩主亀井家は
代々学問の振興に勤め、また森家は医学の家柄であったので、幼少の頃から
厳しく学問をしつけられた。『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

小平邦彦の祖父
   明治元年に十一歳であった祖父は、子供の頃寺子屋にでも通って白文
の素読で漢文を学んだのであろう。白文というのは訓点をほどこしてない漢
文のことで、素読は意味を説明しないで音読させることをいう。「読書百遍
意自ずから通ず」で、素読を繰り返していると意味は自然に分かったものら
しい。
   後に私が中学の三年になった年の夏休みに、漢文がわからなくて困っ
ていると、祖父が教えてやろうという。これは有難いと思って教科書をもっ
ていくと、祖父はそれを眺めて「へー、こんなものが読めんかねー」という
だけで、遂に一言も文章の意味を説明してくれなかった。白文の素読で漢文
を学んだ祖父は、教えるというのがその意味を説明することだということに
思いが至らなかったのであろう。
   祖父は毎日朝六時に起きて風呂に入り、そこで一時間体操をする。夕
食は散歩に出て上諏訪町の端から端まで四キロ歩く。雨が降った日には町へ
出る代わりに家の縁側を繰り返し往復して四キロ歩く、という規則正しい生
活をしていた。漢学に通暁し中国の歴史に詳しかった祖父は、私を膝にのせ
て中国の歴史についていろいろ話してくれた。私はそれをお伽噺のように聴
いていた。
 小平邦彦『ボクは算数しか出来なかった』(岩波現代文庫、2002)より


明治2年
  列藩、藩籍を奉還する。東京を帝都と定める。新聞紙の発行が始まる。

  明治二年七月、政府は東京に大学校を開設、昌平校を本校、開成・医学
両校を大学分校(のち、南校、東校と改称)とし、指導者養成をはかった
が、大学本校は皇学派と漢学派の抗争激化を機会に、三年七月、閉鎖され
た。ここに洋学による人材養成の路線が確立した。(中略)
  この時期には、むしろ、地方に近代学校設立の先駆的動きが目立った。
京都では明治元年九月、御一新の大事業として小学校の建営が府より勧奨さ
れ、十月には、一町組一小学校の計画が具体化され、翌二年五月、上京二十
七番組小学校がまず開校され、同年内に六十四の町組小学校が設置された。
福澤諭吉はこの京都町組小学校の成立を西欧的学区制度として称賛(「京都
学校ノ記」明治五年)したが、他面、この施設は学校と町組会所を兼ねるも
ので、維新期の「政教一途」の政治理念を具体化したものであった。一方、
静岡に移った徳川家が元年末に設置した徳川家兵学校(のち、沼津兵学校と
改称)は西周を頭取に迎え、その付属小学校は初等教育課程近代化の先駆を
なした。(入江宏執筆論文より)
    『幕末維新期における学校の組織化』(多賀出版、1996)より

【森鴎外八歳】藩校養老館へ2と7の日に通学した。四書を学んだ。
         『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

【坪内逍遥十一歳】 父は私を名古屋市山下新道町の柳沢という手習い
師匠の下へ入門させるため連れて行った。其の束脩が金五十疋だった。まだ
其時分には、父の頭に、丁度小さい赤蜻蛉ほどのチョン髷が乗っかってお
り、たしか、私は、紫の紐で髪を茶煎に結んでいたかと思う。が、大小は、
正月の年始の外は──いや、年始にさへも、──もう差さなかったやうに思
ふ。これが、ともかくも正式に師匠を取って、教育を受け始めた時であっ
た。(中略)
   私が受けた漢籍の教育は、十二分の厭気と怯え気とを以って、屠所の
羊の如く見台の前へ引き出され「節タル彼ノ南山、維レ石厳々」だのと審判
官が声で宣告されるのだから、初めから耳ががんがんして、心そこに在らざ
れば見れども記(おぼ)えられず、聴けどもすぐ忘れっちまふ。記えない
と、審判官は手に持っている尺何寸もある竹の字突き棒で、見台の端をぴし
りっ!
  其のたびに小羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。さ!「子曰
ク然ラズシテ罪ヲ天ニ獲レバ祷ル所ナキナリ」さ、もう一度! 何度繰り返
して読まされたからッて、──とうに問答は済んでいるのらしいけれど──
それが何の謂ひだか、到底呑み込めよう筈が無かった。(中略)
   明治初年頃には、教育制度の不備な時代であったから、都会でも寺子
屋組織は弛廃し、さうして新教育制度はまだ成立たないという時代であっ
た。尾張が藩でなくなって、名古屋県が新学令によって、先ず旧藩の明倫堂
といふ皇漢学本位、撃剣本位の中等教育機関を廃して、寺院や旧学館等を仮
に小学校に当てて、新時代の教育に着手したのは、明治四年七月以後のこと
であったからでる。
   それが出来るまでの初等教育機関は、不備を極めた旧寺小屋の残骸の
外にはなかった。さうして私の入門した柳沢といふ寺子屋は、恰も其一標本
とも見られるものであった。先代は大分評判のよかった師匠であったとか
だったが、当主は、其頃三十四五の、背の低い、其割に頭の大きい、けれど
も、顎の方で急に小さく細った顔の、どういふ威厳もない風采の男であっ
た。四インチ強のチョン髷は歴々と目に残っているが、月代は細く刷り上げ
られていたやら、総髪であったやら、おぼえていない。彼は、行燈袴を穿い
て、日がな一日、たかが三四坪の中坪を左手に見た六畳か八畳の一間の床を
後に、本箱を左右に、又後に、机と見台とを前に控えて、引ッ切りなく手本
を書く、其読みを教える、清書を直す、漢学を教える。それが其日課であっ
た。漢学といっても「孝経」に四書、五経の一部、多分「十八史略」「日本
外史」なぞが関の山であったろう。が、後の二つを習っている者を見たこと
が無かった。私は行書や楷書を習うのと四書の復習と五経の素読を目的に入
門したのであった。
     坪内雄蔵『逍遥選集 第十二巻』(第一書房、昭52)より

  【片山潜十一歳】 <荒木注、片山潜は七歳(元治元年・1864)の頃か
ら村の神官に手習い、ついで住職、儒者から漢文の素読を学ぶ。以下は彼が
十一歳の時に受けた素読の様子を語っている。>
   予はやや成長してから曽祖父の昔話の外、本を読むことを教わった。
どんな本であるかというと当時民間に用いられた唯一の教科書は読書習字両
用のものでしかも僅々数種に限られていた。予の読んだ本は『名頭』『国
尽』『庭訓往来』『商売往来』であった。しこうして『名頭』は普通平民の
名前の頭文字を集めたもの、『国尽』は五畿八道の国々を順序を立てて書い
てある。『庭訓往来』および『商売往来』はその名の示す如く家庭に関する
教え、および商売上に必要なる心得を書いたもので、いずれも皆きわめて平
易にしてしかも実際的のものである。もとよりこれ等の本を教わった予はた
だ口続きで素読を暗誦しただけにて、いかに平易でも子供には字句の意味が
分からないからちょっと覚えても直ぐ忘れてしまった。故になんべんも一つ
本を教わったのを覚えている。しかもその文字は御家流というてよほど略し
たる草書の写本になっていたからなお分からなかった。(中略)   
   寺では手習いの外に「孝経」の素読を教わった。子供の時、予は妙な
癖があった。それは本を教えてもらうと、一、二度でチャンと読めるように
覚える。然るに自分の机の上に持ってきて読んでみると、一つもも読めな
い。何がなんであったかみな忘れてしまう。十四、五まではかようなふうで
あったから一年以上も寺にいたけれども、『孝経』が上がらなかった。みな
かく忘れるかというと中々そうでない。人のする話などは一度聞くと、決し
て忘れない。栄助から聞いた話はみな覚えている。ただ素読を習うとちょっ
とも意味がわからぬから、ホンの一瞬間だけ覚えているが、直きに忘れる。
この忘れるという一事が予をして子供の時に学問を嫌がらしめた最大原因で
ある。今でもわからない本を読むとかまたはクダラない演説など聞くとじき
眠くなってしまう。     
       片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より

 
明治3年
 【森鴎外九歳】養老館へ五経復誦に通った。父から和蘭文典を学んだ。
           『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より
  

明治4年
   廃藩置県が行われる。文部省が設置される。郵便局も設置される。

【森鴎外十歳】 養老館へ左伝、国語、史記、漢書の復誦に通った。藩医
室良悦について和蘭文典を学んだ。十一月に廃藩置県により養老館が廃校と
なった。       『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より


明治5年
   新学制が発布される。東京と新橋のあいだに鉄道がはしる。

   新学制は、最初の近代的学校教育制度の基本を定めた百十九章からな
る法規として公布される。文部省「小学教則」を定める。東京に師範学校が
設立される。それ以前は、大学が一つ、寺子屋は一万四、五千あった。

【片山潜十四歳】 山之上の漢学校への通学はホンの一時であった。間も
なく小学校なるものが設立された。誕生寺の一建物を利用して成立小学校と
いう名の下に設けられ数か村の子弟を収容して教育した。予は年齢からいう
ともはや小学校の生徒となるべき者ではない。また家でも農事を手伝わせね
ばならないから何時までも学校へは遣れないというし、予も学問はサッパリ
おもしろくない却って苦しみであるから別に望みもしなかった。しかるに巡
回指導(今の視学官)がわざわざ予の家に来て羽出木から一人も生徒がない
というては政府向きが悪いから、ぜひ出してくれと頼まれた。それゆえ予は
小学校の生徒となった。十四、五の少年が小学校の一年生となって糸、犬、
猫と単語を習うたものである。予等の級は一級で十四、五から十七、八の青
年がいた。しかし習う事柄も教育の方法もまったく新規であったから皆一時
は熱心に勉強した。内藤、長井という先生が教えていた。内藤先生は一青年
であったが非常に算術が上手であった。我々は両先生に頼んで夜学をはじめ
算術だとか『輿地誌略』だとかを教わった。そこうしてこの夜学では予は洋
算の分数の初歩まで習った。予は小学校へ行ってはじめて学問の興味を感じ
た。教わることは皆わかって、非常におもしろ味を与えた。
        片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より
 
【森鴎外十一歳】 島根県津和野から上京する。神田小川町にあった西周
邸に寄宿し、本郷にあった進文学舎で医学修行のためにドイツ語を学んだ。
西周家は津和野の典医で森家とは親戚関係にあった。
           『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

【鳩山春子十一歳】 私はある日の曝書(むしぼし)に、四書や五経をち
らと見まして、こんな本を読んでみたいと云う気がきざしたものですから、
ちょっとそのようなことを母に申しました。祖母だの母だのは兄の教育に非
常に工夫を凝らして色々と骨折った経験もありましたから、それならばさせ
てあげましょうと云うので、近所の漢学の先生に通わせてくれたのです。
   一軒では少しずつほか教えられぬので論語や孟子は別々の所を一日に
三軒も廻って稽古したように覚えています。私は非常に凝り屋でありまし
て、何か一つのことをするとそれに熱中します。それですから一軒の先生に
教わる位では満足できぬからそれからそれへと廻ったような訳でありまし
た。この時分(明治五六年ごろ)には随分書物を教える人が沢山御座いまし
た。それで一方には習字を始め、これも矢張りそれらの人に見て貰うといっ
たわけでありました。
   私は学校入学前に漢学の先生の所へ参りましたので初学の人より勿論
よく出来ました。それで論語や孟子の素読は暗誦するように覚えておりまし
たが詩経や書経はむずかしくて覚えにくいように思いました。(中略)
   武士の家庭では女に遊芸等はさせないのでしたから、音楽のような思
想はちっともなかったのです。都の兄が帰省しますとその時は、色々と詩吟
を教えてくれまして私は男子と同じように高声で詩吟する癖があり、これを
楽しみにしていたもので、姉と一緒によく吟じたのを覚えています。勿論意
味は分からず、唯それなりに唐詩選などを引張り回していたのです。
   私共は、かような有様で唯勉強ばかり分からぬなりに一生懸命にした
のにすぎません。論語、孟子、詩経など未だ乳飲み子に分かる道理はない
じゃありませんか。けれどもこんなものを非常に熱心に読んで、殆んど暗誦
せんばかりによく繰り返したものです。母は余り監督がましいことは申しま
せんでした。唯褒めるだけで、常に褒めてくれたものですから、朝未だ暗い
うちに起床し、朝飯前に漢文の先生の所に参り、門の開くのを待って居りま
した。その中に男児の人々が大勢参ります。女といえば私がたったひとりで
ありましたが、少しもそんなことは怪しみません。みな到着順に教えてくだ
さるので、私は第一番に教えて貰いました。
       鳩山春子「自叙伝」(日本人の自伝、平凡社、1981)より
   

明治6年
  学制発布当時の実態はどうであったか。明治六年の実態をみるに、女子
の就学率は男子の三分の一以下であり、また就学の生徒の全数は全国の人口
の二十四分の一、すなわち四・二四%に当たっているに過ぎない。しかして
就学率の男女平均が五十%を越したのは明治二十四年である。もちろんそれ
以前に五十%を越してはいるが、十八年には五十%以下になっている。
        唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭28)より
   

明治7年
   東京に女子師範学校が設立される。
   文部省令により、諸学校が一、六を休日とするもの、日曜日を休日と
するものに分かれていたのを官立学校はすべて日曜日休日とする。

森鴎外十三歳】 東京医学校予科に入学する。この時規定の年齢に満た
ないため二歳増して万延元年(1860)生まれとして願書を提出し、以後公的
にはこの年齢を用いた。この頃、漢文で「後光明天皇論」を書いた。
            『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

【夏目漱石八歳】 明治七年、第八番公立小学戸田学校へ入学する。
戸田学校下等小学校第八級に1年遅れで入学する。半年の間に二級ずつ進級
する。当時の学期は六か月で、その間に一級進む。第八級から第一級までを
四ヵ年で履修する。成績の良い時は、二級進むこともある。飛び級という。
   明治六年の全国就学率は28・13%である。明治八年には、50・
63%であった。学校数は明治六年には一万二千余、明治八年には二万四千
余。大部分は寺院や民家を借りたもので、生徒数も六十人内外であった。戸
田学校は優秀な学校の部類に属していたらしい。児童数男五十八名、女八
名、教員男子二名である。当時の小学校は、寺子屋、私塾、郷学の近代的再
構成である。  荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より

【幸田露伴7歳】
  手習いの傍、徒士町の会田といふ漢学の先生に就いて素読を習ひました。
一番初めは孝経で、それは七歳の年でした。元来其の頃は非常に何かが厳重
で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないといふ家の掟でしたから、
毎日〃〃朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったやうな箱の
上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞ひました。さうすれば先生のとこ
ろから帰って来て後は直ぐ遊ぶことが出来るのですから、家の人達のまだ寝
ているのも何も構うことは無しに、聞こえよがしに復読しました。随分迷惑
でしたさうですが、然し止せといふことも出来ないので、御母様も堪えて黙
って居らしつたさうです。此復読をすることは小学校へ往くやうになってか
らも相変らず八釜敷いふて遣らされました。
  併しそれも唯机に対つて声さへ立てて居ればよいので、毎日のことゆえ、
文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞つて居るものですから、本は初めの方
を二枚か三枚開いたのみで後は少しも眼を書物に注がず、口から出任せに家
の人に聞こえよがしに声高らかに朗々と読んで居るのです。そして誰も見て
居ないと豆鉄砲などを取り出して、ぱちりぱちりと打って遊んで居たことも
ある。さういふところへ誰かが出てくると、さああわてて鉄砲を隠す、本を
繰る、生憎開けたところを読んで居るところと違って居るのが見あらはされ
ると大叱言を頂戴した。
   作家自伝『幸田露伴』(日本図書センター、1999)より引用


明治8年
   学制期の小学校校舎・教室は、どうなっていたか。明治8年の文部省
年報によれば、二万余の小学校の内、四十%が寺院の借用、三十%弱が民家
の借用、新築校舎は二十%に満たなかった。学校規模も一学校一教員で単級
学校というのが六割近い状況であった。学校施設・設備の標準化は、明治十
年代半ばからはじまったが、学校に校長も置かれていなかった。つまり、学
校管理者と教員とは別だったのである。
  石川松太郎ほか『図説・日本教育の源流』(第一法規出版、1984)より

【森鴎外十四歳】 この頃『古今集』『唐詩選』『句集』『心の種』(橘
守部)などを読んだ。    『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より


明治9年    
【森鴎外十五歳】 医学校の学資給付を請願し、官費生となる。
           『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

【夏目漱石十歳】 小学校時代からの幼な友達である画家島崎友輔の父親
が浅草の鳥越に寺子屋風な漢学塾を開いていたので、そこに学んだこともあ
る。漢学塾は他にもあったが、その中では大きいものの一つであったらし
い。但し、年齢から推定すれば、市谷学校に転校してからである。明治九年
九月以降と推定され、数え年十歳である。漢学塾は牛込かと推定される。
    荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より

【田岡嶺雲七歳】 予が学校の六級に進んだ頃、新聞が始めて県下(荒木
注、高知県)に発刊せられた。予は父に請ふて新聞を取る事の許を得た。其
の折の嬉しさは、臆病な予が自分で町へ出て、其の社へ往って注文して来た
のでも想像せられる。新聞は『高知新聞』といふ隔日発行の小型な四頁のも
のであった。新聞に書いてある論文や記事には読めない個所が少なくない。
又、読めても分からぬながらに、之を読む事が一つの楽しみであった。……
当時政府の言論に対する圧迫は随分酷烈であった。土佐は殊に「自由は土佐
の森より出づ」と言いはやされて、自由民権の発祥地たり、中堅たり、又策
源地であったが為、政府の注目も厳であったが、新聞の論調も過激であった
らしい。新聞は頻々と発行停止に遭う。終には発行禁止となって、新聞の葬
式などといふ奇矯な事も行われた。兎に角此の頃は一種の革命的な殺気が
漲っていた。
   此の頃であったろう。学校から帰ると、父に『小学』の素読を習う
た。飴色の厚い表紙の大きな本に、重々しい四角な文字が威儀厳然と並んで
いるのが、何となく尊いやうであった。「小学序、古は」と口移しに教えら
れるのを、夢中で覚えた。訳も判らず難しい者とは思ったが、漢籍を習ふと
いふ虚栄の誇の為に、左程厭だとも思わなかった。小学校へ草子などを入れ
る文庫と、手習机を持ち込んだ時代であるから、学問の上に未だ寺子屋時代
の風が全くは去らなかった、従って教師の自宅へ通って、課外に漢籍の稽古
をする事が生徒間に競争的に行われた。『国史略』から『日本外史』『十八
史略』といふやうな順序であった。「天地未だ開けざる時、混沌として鶏子
の如し」といふ『国史略』の開巻第一の語を難しいと思った。
       『田岡嶺雲全集・第五巻』(法政大学出版局、1969)より


明治10年
  京都と大阪のあいだに鉄道がはしる。
  東京大学が開設される。法学部、理学部、文学部、医学部からなる。
東京英語学校は、東京大学予備門と改称して、東京大学に付属させられる。

【森鴎外十六歳】 東京医学校は東京開成学校と合併、東京大学医学部と
改称された。その本科生となった。
           『森鴎外全集別巻』(筑摩書房、昭46)より

【田山花袋七歳】 私は歩み寄った。読書の声は湧くやうに中から聞こえ
た。それは昔の大名長屋のやうなところで、なまこじつくいの塀の上に、
所々街頭の塵にまみれ、西日の暑い光線に焼けた小さな窓がつづいて見られ
た。包荒義塾といふ大きな招牌がそこにかかっていた。湧くやうに聞こえる
読書の声! 私はなつかしくなって、小さな姿を其窓に寄せた。其処には修
行に出ている兄がいるのである。しかし一面には、かういふ小僧姿の弟を他
人に見られる兄を気の毒がって、私は公然兄を訪れて行かうとはしなかっ
た。無邪気な憐れな小さな気兼よ。
   私は兄がひよつくり出て来れば好いと思った。そして「お、お前か」
かう言って、肩から手をかけて呉れれば好いと思った。兄は一家の運命を双
肩に担って、寝る日も寝ずに勉強している。下駄を買う銭もなく、着たきり
の着物で、ぼろ袴を穿いて、そして一生懸命に勉強している。それを思う
と、私の艱難なんか、まだ言うに足りないと幼心に思った。しかし、一面で
は、かうして兄が勉強しているのが羨ましく且悲しかった。
   兄の通ったやうな漢学の塾は、其頃到る所に合った。中村敬宇の同人
社、三島中州の二松学舎、その時分の書生は、天下の事を談ずるといふ風な
ものが多かった。弊衣破袴、蓬髪乱頭、さういふことを見得にして、中でも
殊に脂粉の気に近づくものをいやしんだ。包荒義塾は、八家文の素読では名
高い塾で、先生は、中村謙、峰南と号し、昌平黌の助講をしたことがあっ
た。    田山花袋『東京の三十年』(日本図書センター、1983)より

【私(家永三郎)の父】 は明治六年生まれで、明治十年前後に小学校へ
入ったようである。(中略)父は小学校で使った教科書に「神は天地の主宰
にして、人は万物の霊長なり」と書いてあったということを、後に私に話し
てくれたことがある。たぶん明治初年に広く行われていた洋書の翻訳を教科
書に使ったのであろう。
   そのころの小学校の教科書は、自由発行・自由採択の時代で、当時世
間に広く行われていた一流の思想家の著書や翻訳書を、そのまま教科書とし
て使用していたのである。たとえば福澤諭吉の『西洋事情』とか、津田真一
郎の『泰西国法論』とか、神田孝平の『性法略』とか、加藤弘之の『立憲政
体略』とかいった書物が、学校教科書として行われていた。それらの書物
は、今の言葉で言えば、いわば社会科の教科書のようなものであって、その
中に西洋先進諸国の近代立憲主義の思想が豊富に盛り込まれていた。
   もちろん西洋の理論をいわば直訳したようなものであって、こんなむ
ずかしいものを、まだ封建時代の夢からさめきれない一般日本国民がどの程
度まで理解できたか、はなはだ疑わしい。ことに小学校の子供などが、こん
なむずかしいものをどうして勉強したのか想像もつかないけれど、昔の人は
子供の時分から四書五経の素読などで勉強する習慣もあったようであるか
ら、案外私たちが想像するほどの障害はなかったのかもしれない。
   そして直訳的であるということは、日本人にとって、あるいは理解の
困難をもたらしたかもしれないけれども、直訳的であるだけに、それは欧米
の近代民主主義の古典的精神を、後年の「日本的民主主義」とか「民本主
義」とかのような、日本的なゆがみを伴わない、忠実な形で紹介したもので
あったから、これらの書物が広く行われたということは、たといそれを正確
に理解したとはいえないにしても、日本国民の間に近代民主主義の精神を浸
透させる上には、何程か効果があったに違いないと思う。
   このような時代が続いた直後に、自由民権運動が全国的に盛り上が
り、一時は専制政府をして深い危機感を抱かせるほどの大きな盛り上がりを
示した。それがやはり上のような明治初年の教育と無関係ではないように思
われる。だからこそ明治政府は民権運動に狼狽するのあまり、明治十三年、
初めて教科書統制の政策を発動し、今までの自由発行・自由採択の制度に
あったのに、この時にいくつかの書物を指定して、学校での使用を禁止する
措置をとった。さきほどあげたような書物は、いずれもこの時に使用禁止の
処分を受けている。つまり民主主義の思想を含んだ教科書を学校で使用する
ことが、この時からできなくなったのである。
   それ以来、日本の教育はひたすら国家主義の道へと一路偏向を続けて
いくのであるが、父親はたまたま、教育の国家統制の始まる直前に小学校へ
入学して、私に話してくれたようなキリスト教思想で書かれた翻訳教科書を
つかっていたようである。おそらくそのような明治初年の啓蒙期の文明開化
の精神が、生涯父親の思想形成の上に大きな影を落としていたのではないか
と思われるふしがある。
      家永三郎『一歴史学者の歩み』(岩波現代文庫、2003)より


              
結び


 結びとして荒木の簡単なコメントを書くことにします。

素読に使用した教科書
  かれらが使用した素読の教科書は漢籍が最も多いです。が、それだけで
なく往来物なども、素読の教科書としてとして使われていることが分かりま
す。
  幕末期になると外国との交易が始まり、オランダ語やドイツ語や英語を
学習した人も出てきます。
  漢学塾といってもいろいろあり、森鴎外の学んだ養老館のように本格的
な漢学塾から夏目漱石の寺子屋風の漢学塾まであったようです。使用した教
科書も、指導者の好みや考えによって、生徒の学力レベルによって、各人に
与えられた教科書はまちまちであったようです。
森鴎外=四書、五経、左伝、史記、唐詩選、国語、和蘭文典、ドイツ語
坪内逍遥=孝経、四書、五経、十八史略、日本外史
片山潜=孝経、名頭、国尽、庭訓往来、商売往来
鳩山春子=論語、孟子
田岡嶺雲=小学、国史略、日本外史、十八史略

素読の授業風景
  坪内逍遥=≪私が受けた寺子屋の教育は、十二分の厭気とを以って、屠
所の羊の如く見台の前へ引き出され≫≪心そこに在らざれば見れども記(お
ぼ)えられず、聴けどもすぐ忘れっちまふ。記えないと、審判官は手に持っ
ている尺何寸もある竹の字突き棒で、見台の端をぴしりっ! 其のたびに小
羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。≫と書いています。湯川秀樹
さんが祖父から素読を受けたときの様子と全く同じですね。
  田岡嶺雲=≪学校から帰ると、父に『小学』の素読を習うた。飴色の厚
い表紙の大きな本に、重々しい四角な文字が威儀厳然と並んでいるのが、何
となく尊いやうであった。「小学序、古は」と口移しに教えられるのを、夢
中で覚えた。訳も判らず難しい者とは思ったが、漢籍を習ふといふ虚栄の誇
の為に、左程厭だとも思わなかった。≫と書いています。≪漢籍を習ふとい
ふ虚栄の誇の為に、左程厭だとも思わなかった。≫とは、漢籍を習う誇り・
虚栄心のようなものが当時の時代風潮としてあったのでしょうか。それとも
個人的な虚栄心や自尊心のみからだったのでしょうか。
  鳩山春子=≪朝未だ暗いうちに起床し、朝飯前に漢文の先生の所に参
り、門の開くのを待って居りました。≫と書いています。当時は子供達が朝
飯前の一仕事に漢学塾に行って勉強する風習があったようですね。掛け持ち
というか、リレーのようにして次から次へと漢学塾を渡り歩いて学習したと
も書いてありますね。
  田山花袋=≪かういふ小僧姿の弟を他人に見られる兄を気の毒がって、
私は公然兄を訪れて行かうとはしなかった。無邪気な憐れな小さな気兼
よ。≫と書いています。小僧姿の弟(田山花袋)の気持ちを察すると心が痛
みますね。兄の気持ちを察する弟のそれはいじらしくもあり、かつ不憫にも
思われます。

学制発布当初の学校体制の様子
  坪内逍遥が受けた寺子屋の個所には、明治初年頃の教育制度が不備な時
代のごたごたしている様子が手に取るように書かれています。
  明治五年の学制発布したばかり、教育制度の一大改革というか一大建設
ですから、さぞやごたごとしたことだろう。明治の学制期の小学校校舎・教
室は、どうだったろうか。
 ≪明治8年の文部省年報によれば、二万余の小学校の内、四十%が寺院の
借用、三十%弱が民家の借用、新築校舎は二十%に満たなかった。学校規模
も一学校一教員で単級学校というのが六割近い状況であった。学校施設・設
備の標準化は、明治十年代半ばからはじまったが、学校に校長も置かれてい
なかった。つまり、学校管理者と教員とは別だったのである。≫
  石川松太郎ほか『図説・日本教育の源流』(第一法規出版)より引用

  坪内逍遥が書いている、当時の教育制度や寺子屋の様子を下記に紹介す
る。
  坪内逍遥は、安政6年(1859)に美濃国(当時尾張藩)加茂郡大田村に
生まれた。明治2年(逍遥11歳)に尾張名古屋郊外上笹島村に移住した。
明治2年4月は逍遥が残存寺子屋に入学した年でもあった。その頃は、父子
ともに結髪し、式日の外出には帯刀したという。
  逍遥は、明治2年当時の教育制度を次のように書いている。「特に私の
学齢時代は教育制度が不備な時代であった。都会でも寺子屋組織は弛廃し、
さうして新教育制度はまだ成立たないとういふ時代であった。尾張が藩でな
くなって、名古屋県が新学令によって、先づ旧藩の明倫堂といふ皇漢学本位、
撃剣本位の中等教育機関を廃して、寺院や旧学館等を仮に小学校に当てて、
新時代の教育に着手したのは、明治4年7月以後のことであった。それが出
来るまでの初等教育機関は、不備を極めた旧寺子屋の残骸の外にはなかった。
さうして私が入門した柳沢といふ寺子屋は、恰も其一標本とも見られるもの
であった。」
  逍遥は、私はあたり一面畑か水田、笹島の宅から、始終うねりくねった
細っこい田のあぜみちを伝って柳沢の家に通った。柳沢家の寺子屋は次のよ
うであったと寺子屋の様子を書いている。以下『逍遥選集 第12巻』第一書
房刊より引用

  柳沢の家の表がかりは、京都式で、一体の格子造り、一方に方寄せた格
子戸をくぐると、そこからずっと背戸まで行抜けの土間、右手は壁、左手は
二間四枚の舞良戸に、狭い一尺幅ぐらいの上がり段。舞良戸を開けて上ると、
そこと其次ぎの間が教場で、たしか八畳二間(ま)のぶッ通し、其奥に更に
二間(ま)あって、其かたかたが前に言った師匠の居間、かたかたが台所で
あったかと思う。尚ほ中坪を隔てて、縁側つづきに、奥に、家族の住む処が
あったのだが、一度も入ったことがなかったから、よくは思い出せない。
  寺子は三十人内外。十二三が年長で、、七つ八つが最年少であった。一
畳に少なくとも二人づつ、例の天神机を控えて列を作り、まづ二列に向いあ
って一の平行線を形造ると、次に第二それが隣列の一線と背中合わせに座っ
て、同じく平行線を画くといふ按排に、めいめいの毎日の座り場所が定めて
あった。
  さうして放課後は、毎日当番が二人づつ残って、跡の掃除をすることに
なっていた。狭い処に目白押しをして而も向かい合って、互いにべとべとの
草紙はぐつては書くおだから、善悪共に少し意地っ張りがいれば、すぐに取
っ組み合いが始まる筈だが、準天才の卵らしいのは勿論、半秀才のお身代わ
りなりさうなのも、涎繰りの正統らしいのさへもいない平凡を極めた少年団
であっただけに、至極平穏平穏無事。尻と尻とが衝突する後列同志の時たま
の境論も、大抵は雌雄の不判明な、甘ったるい名古屋訛りの談判が二三分間
交換されるぐらいで、泣き寝入りになるのが定まりであった。
  或いは、何かの拍子に、喧嘩に成り、一人が突き出す、一人は怒鳴る、
野次が囃す、一同が群童意識でどよみを挙げるといふやうな場合でも、師匠
の一喝と言っては当たらない、甚だ優柔な甚だ威厳のない
一声にさへも、すぐに鎮まってしまうやうな甚だ御し易い小雀共であったか
ら、十一、十二、十三と、約三年間、尤も一年の三分の一は休んだでもあら
うか、通っていたにも拘らず、つひぞ一度も、線香と茶碗とを持って机の上
に立って鼻汁を垂らしたともなければ、立たされて垂らしているのを見たこ
ともなかった。ほど、それほど、私の寺子屋に於ける経験は平凡な、単調な
ものであった。   

  片山潜・十四歳の個所には、≪巡回指導(今の視学官)がわざわざ予の
家に来て羽出木から一人も生徒がないというては政府向きが悪いから、ぜひ
出してくれと頼まれた。それゆえ予は小学校の生徒となった。≫と書いてあ
る。
  片山潜の短い文章から明治政府の「必ず邑に不学戸なく家に不学の人な
からしめん事を期す」という時代の意気込みが日本全国の村落のすみずみま
でいきわたっていた様子が読みとれます。「政府向きが悪いから、ぜひ出し
てくれ」という言葉・言いぶりに、村の人々の気持ちの違い・齟齬がちょっ
ぴり感じとれます。

学制発布当時の教科書
  家永三郎は、当時は≪明治初年に広く行われていた洋書の翻訳を教科書
に使った≫と書いています。そのころの小学校の教科書は、自由発行・自由
採択の時代で、当時世間に広く行われていた一流の思想家の著書や翻訳書
を、そのまま教科書として使用していたこともあった。たとえば福澤諭吉の
『西洋事情』とか、津田真一郎の『泰西国法論』とか、神田孝平の『性法
略』とか、加藤弘之の『立憲政体略』とかいった書物が、学校教科書として
行われてもいた。それらの書物は、今の言葉で言えば、いわば社会科の教科
書のようなものであって、その中に西洋先進諸国の近代立憲主義の思想が豊
富に盛り込まれていたのです。
  石川松太郎ほか著『図説・日本教育の源流』によると、文部省は明治六
年、四十七種類の小学校教科書の目録を示し、教科書を追加した。うち、東
京師範学校編集教科書は『五十音草体図』『五十音図』『濁音図』『数学
図』『算用数字図』『習字本』『加算九九図』『乗算九九図』『小学読
本』『地理初歩』、文部省へ編集教科書は『図法解梯』『史略』『物理階
梯』、このほかでは入門教材として『単語図』『連語図』などの掛図があっ
た、と書いています。翻訳物の外にこうした教科書もありました。
 

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