暗誦の教育史素描(その8)       08・05・22記




自伝からみた明治後期の素読風景


                  


       
自伝・自叙伝から年表風に


本稿の記述の方法
  明治21年から明治末年までの期間、自伝・自叙伝の中にあった素読の
授業風景、学校風景の文章個所を抜粋引用して年表風に時間の経過を追って
記述しています。
  年号の最初にその年に起こった政治・社会・教育のトピックスを掲載し
ているところもあります。
  出典は、それぞれの文章の末尾に記入してあります。


明治21年
   明治二十一年に雑誌『日本人』が発刊され、十九年には東京大学が帝
国大学となり、大学令の第一条に「国家ニ枢要ナル」という条件が加えら
れ、二十三年に「教育勅語」が煥発されて、ここに道徳中心徳育中心の教育
が強調される。かかる時代思潮道徳強調の時代的傾向を背景として、ここに
登場してきたのがヘルバルトの教育思想である。この学説が迎えられた理由
は、先ず第一は、彼の教育学が教育の方法は心理学が示し、目的は倫理学が
示すとなし、強い道徳的性格を作ることがあり、この時代の徳育中心の教育
要求に合致したからである。第二は、彼の学派は五段階教授法を唱え、予備
・提示・比較・概括・応用という機械的合理主義的方法が当時の合理主義的
なものを求める心に一致したからである。
        唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭28)より

   明治21年に、石川県で行った全壮丁の教育程度の調査(石川県通信
・明治22・3・25)では、壮丁4583人の中、往来物の読み書きができ
る、いいかえれば自主的に読み書きができる能力を備えるものが1869
人、約49パーセントの比率である。明治5年の新学制を通過して成年に達
した最初の世代が、このような低い率を示している。
   前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)より

【小川未明六歳】 私は明治二十一年、小学校へ入りました。小学校へあ
がらぬうちから私塾へ行って漢学とか数学の勉強をしたのですが、小学校へ
行ってからは其の帰りに剣術を習っていて、もう暗くなるのに、それから私
塾によって論語と日本外史を習って、夜おそく家へ帰ります。そうして夕飯
を食べると炬燵に入るのですが、もう眠くなってしまいます。それでも私が
その日の学課の復習をするまでは、母は決して寝せてくれません。その勉強
も炬燵にあたってするのはいけないので、起きて机に向かってやれというの
です。疲れているものですから、つい居眠りするのですけども、よく母に叱
られました。私が勉強が終わるまでな、母はランプのそばで仕事をしていた
ことを、今もうれしく思います。
     『小川未明』(作家の自伝103、日本図書センター、2000)より

【河上肇九歳】 尋常小学校を卒業し、岩国学校に入学する。岩国学校と
いうのは、高等中学校(本科二年、予科三年)進学への予備校(四年)であ
る。高等中学校から大学へ進学する。岩国学校へは十歳乃至十一歳にして入
学するはずになっていたのに、私は小学校への入学が人並みより早かったた
め、満八年後五か月で入学できた。しかし、第一学年で落第した。小学校と
違って父の管理外に立っている学校のこことて、遠慮なしに落第させたもの
であろう。でも、それから後は順次に進級し、岩国学校を卒業することがで
きた。 
  岩国学校へ通学していた頃、どういう訳でそんなことを思い立ったのか
知らないが、私は年長の友人である深井を誘って、井上先生という漢学者の
所へ、山陽の『日本外史』を習いに行っていた。父母から勧められたのでは
なく、全く自発的にやっていたことである。学校から帰ってのことだから、
それはいつも午後だったが、先生と向かい合って外史を読んでいると、毎日
決まって、門の外で千金売りが高い呼び声をして通った。その声が聞こえだ
すとなぜか私は堪えきれなくクスクスと笑い出す。相棒の深井も笑い出す。
毎日そうしたことが続いたものだから、井上先生も最初は我慢していたが、
とうとう堪忍袋の緒が切れて、教授することを断られてしまうことになって
しまった。
   私はその頃、自分の発起で、演説会の真似事をしていたことを思い出
す。私の家の筋向いに足助という友達がいたが、そのうちは藁耳で、一方の
軒下が土間の米搗部屋になっていた。私たちはそこへ三、四人のものが集ま
り、米搗臼を演壇に使って演説会をやった。
    河上肇『自叙伝(一)』(岩波文庫、1996)より

【高浜虚子十四歳】 中学校は愛媛県中学校といったように記憶していま
す。その時分、県会は極めて乱暴なもので、経費削減のため中学校を廃止に
してしまいました。私が入って半年ばかりで廃校になったので、やむを得ず
遊んでおりました。地方の人々が心配して、今度は私立の中学校を、僅かの
経費で経営するようになりまして私はそれにようやく入ることができまし
た。それが今日の松山中学の前身で、その頃は伊予尋常中学校といっていま
した。
   その時分には回覧雑誌をこしらえたり、演説会を開いたりすることは
学生仲間の流行でした。私も回覧雑誌を出しておりましたが、特にその頃文
筆の傾向があったわけではありません。演説会を開くということも、その頃
の学生の一部の流行でありました。夜になると一銭か二銭の会費を出し合っ
てお寺を借りて蝋燭を立てて、聴衆もいないところで演説会を開いて子供の
くせに天下国家を論じたこがもありました。
   高浜虚子『定本高浜虚子全集』(第十三巻、毎日新聞社、昭48) 


明治22年
   大日本帝国憲法が公布される。

【夏目漱石二十三歳】
 同級生正岡子規の顔は以前から知っていたけど、
親しい交渉はなかった。しだいに知り合う。文学的影響を受ける。紀行漢詩
文「木屑録」を脱稿する。昭和七年、岩波書店から発行する。
      荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より


明治23年
   教育勅語を発布(23・10・30)する。小学校令を改正する。

【山川均十一歳】 尋常科四年の天長節だったかと思う。教育勅語が下さ
れたというので、特別の式がおこなわれ、お菓子の包みをもらって帰った。
このときから、講堂には、はじめて神ダナみたいなものができて、「ゴセイ
エイ」(御聖影)というものが祭られた。祭日だとか進級式などには、神ダ
ナの紫の幕がしぼられて、おズシのトビラが半分ひらかれたが、中は見えな
かった。そして校長先生がおごそかに、妙なフシをつけて勅語を「ホウド
ク」するようになった。言葉は分からぬままに、ともかく「チンオモウニ」
から「ギョメイギョジ」まで、いつのまにか暗記してしまった。このあい
だ、小学校時代の老先生に、教育勅語が出て教育の方針がよほど違いました
かとたずねてみたが、教育勅語ではたいして変化しなかったが、三年後に教
育勅語の作者の井上毅が第二次伊藤内閣の文部大臣になって、教育の方針が
がらりと変わったということだった。 
   当時は、上級学校にゆくのはまれな例外で、小学校の卒業は、読み書
きの勉強に生涯の別れを告げることだったから、卒業近くになると、せめて
今のうちに少しでもというので、学校がひけてから漢学の先生のところに通
うことが流行した。大橋先生も、学校とお百姓との余暇に、こういう子供た
ちのために、自宅で個人教授をはじめていた。それで私と藤波君とあの少女
とで『十八史略』の素読をおそわっていた。    
             『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 

【長谷川伸六歳】 二十一歳以前の新コ(荒木注、「新コ」とは「長谷川
伸」のこと。つまり自分を三人称人物に仕立てて物語っている自伝)を語る
物とては、今いった目鼻も口も消えてない写真と、三通の書付だけである。
書付のうち二通は、横浜公立・吉田学校の尋常小学科第一学年と第二年と
を、「稼業ヲ履修ス」とあるもの、残る一通は七歳の尋常小学科の試験成績
報告(明治二十三年十一月二十日付)である。そのころの学期は十一月だっ
たとみえ、一年生の時の課業履修証は十一月二十日付、二年生の時は十一月
二十二日付になっている。
  新コの学校歴はこれだけであるから成績といえば、七歳の時のこれの一
ツだけしかない。習字が一番悪く六十五点、唱歌もよろしからず七十五点、
作文と修身が九十五点ずつ、算術と読書(よみかき)が百点ずつ、課目は六
ツでそれぞれ百点が定点(満点)だから六百点、それに対して七十点不足の
五百三十点しかなく、平均点は八十八・三点で七十二人中の二十五番と書い
てある。秀才とは縁のない、そしてビリの方へもいかれない児だったのだ、
新コは─── 。
    長谷川伸『ある市井の徒』(日本人の自伝、平凡社、1980)より 


明治24年
  東京と青森とのあいだに鉄道が全面開通する。

【天野貞祐八歳】 私の生まれた村は大へんな山の中です。相模の国の形
を三角形にたとえると、底辺は海岸で頂点のあたりは山国ですが、私の村は
その頂点にあたります。戸数は二百ほどで、文字通りの僻村でした。時計の
ある家も新聞をとっている家も一、二軒にすぎなかったと思います。村の旧
家で、暮らしもおそらく一番よかった家の子供の私でさえ、帽子もかぶら
ず、袴もはかず、もちろん洋服など着たこともなく、草履をはいて学校へ通
うのでした。校舎はもと寺院だった建物をそのまま用いたものでしたが、土
地が高く裏に森があり、校庭も広く、ひろびろしていました。ある夏の日に
教室用の大きなそろばんにまきついていた、たくましい青大将がいまもはっ
きり私の目がしらに浮かんできます。先生はひとりです。教科書を家へもっ
て帰ることもなく、持ち帰るにしても読本だけでした。その読本も家で予習
や復習をした記憶は全くございません。家に帰ると雨に日のほかはほとんど
例外なく毎日釣りをしたり冬になると小鳥を捕らえたりしていました。
  祖母は物語をよむのがすきでした。しかし自分でよむのは良い老眼鏡の
ない時代のことですから、目のつかれもあったのでしょう、毎日私は読む役
をいいつかりました。平家物語、太平記、八犬伝、弓張月、三国志、漢楚軍
談などのようなものでした。読み役をつとめているうちに三国志がたまらな
く面白くなり学校から走って帰って読んだりしました。家にあった三国志は
和綴五十冊のものでした。
  祖父は名主総代をつとめ漢学の素養もあり、ひとかどの人物として畏敬
されていたということでしたが、私にはただこわいおじいさんという印象よ
りほか残っていません。ただ山間の僻村で、交通の不便な時代によくこれだ
け書籍を集められたものかと、祖父に対して尊敬と感謝を禁じえません。祖
母や母から私がうけたものは結局祖父から出たものなのです。一般に和漢の
古典として認められたものが殆んどすべて所蔵されていたことはどんなにか
子供にとってしあわせであったかしれません。祖父は兄たちには自分で素読
を教え、四男の私などには、老年のためもありましょう、もはや自分では教
えず、母が祖父に命ぜられて素読を教えてくれました。
          天野貞祐『忘れえぬ人々』(細川書店、1949)より

【山川均十二歳】 尋常小学校は倉敷一の学校だったが、高等科は、倉敷
ほか六か村の組合学校で、高等精思小学校と呼んだ。いままでは、それぞれ
の村の空気のなかで育ってきた子供の群れがつきまぜられ、新しい要素で新
しい学級が形作られた。これは私に大きな刺激を与えた。どの村にも、きっ
と一人か二人は成績のすぐれた子供たちがいたように、すぐれてワンパクな
子供たちもいた。そこでどのような意味ででも、集団の水準が高まった。こ
の新しい私たちの組が二年三年と成長していくうちに、手に負えないワンパ
ク組になり、しょっちゅう先生を手こずらせた。
              『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 
  

明治25年
【山川均十三歳】 小学校の八年間を通じて、男女共学だった。しかし共
学といっても、おなじ教場でおなじ受持ちの先生におなじことを教わるとい
うだけの共学で、男生と女生とのあいだには、なんの交渉もなかった。遊歩
場は、ここからここまでが男生といった定めがあるだけで、べつだん境界物
はなかったが、因襲がはっきりと見えない線がを引いていたから、男生と女
生とが入り乱れて遊ぶというようなことはなく、双方のあいだの交渉といえ
ば、たまに遠方から悪口を言い合うとか、女生徒のほうから転げてきたマリ
を、意地悪く、見当違いの方角へ投げ返すぐらいのことだった。こういう男
女共学だったから、五年間の共学のあいだに、私は好きだった少女とも、言
葉をまじえたことは一度もなかった。
   まだそのころは、子供を高等小学までやる家庭は少数で、ことに女の
子の場合はそうだった。入学当時は六、七人いた女の子が、一学年ごとに一
人へり、二人へり、四年になると、たった一人になってしまった。
              『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 

【吉川英治一歳時の父母のこと】
   ぼくの生まれた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はま
だ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前か
ら競馬場の芝生が見えたということである。(中略)この辺りの地主で、亀
田某という人の借家に住み、それが縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親
は、一つの生活にありついていたらしい。寺子屋、幼稚園まがいの、小さい
学校を自宅でやっていたのである。元よりたくさん子供を預かったわけでは
なく、相沢の子供等が対象だった。ところが、近所に住む外国人の子供たち
も来るようになり、思いがけないでそれは成功であったらしい。
  吉川英治「忘れ残りの記」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より 
 

明治26年
【荒畑寒村六歳】 私は姉とともに旭小学校に入学した。名古屋出身の伊
藤という先生が校長で、木造の粗末な二階建ての校舎の一部を校長の住居に
あてていた。階上と階下の板敷きの広間を、大きな木製の衝立で仕切った教
室に各学年の生徒を収容して、校長をはじめわずか二、三名の先生がこっち
の教室で読本のひとくさりを教えると、すぐ隣りへ行って算術を教えるとい
う風であった。習字の時間には、校長の奥さんが生まれたての赤ん坊を背
負ったまま、墨汁で真黒になった竹筒の水入れから生徒の硯に水を注いでま
わったり、双紙に爪で手本の字を印しておいてから書かせたりして手伝って
いた。こういう教室では生徒が静粛である筈はなく、先生の姿が衝立の陰に
消えるが早いかすぐ騒ぎが起こり、喧嘩が始まり、まるで芝居の寺子屋の涎
くりを一堂に集めたような光景を現出する。
   実際、それは学校というより寺子屋に近かった。『菅原伝授手習鑑』
の寺子屋の場で小太郎が寺入りする時、下男が重箱と机をかついで供をして
来るが、私たちの学校でも新入生の親はきっと煎餅か何かの大袋を持参した
もので、その学級の全生徒は帰りに中味の分配に与ったものである。習字の
手本は半紙を細長く折って綴じたのへ、先生がいちいち書いてくれたもので
あって、私たちはそれを買わなければならなかった。正月の書初めにも金が
いったし、冬になると階上と階下に一個ずつの大火鉢が出たが、それにも炭
代と称して金をとられた。甚だしいのは畳替えまで生徒に費用の分担を仰せ
付けたが、教室はもとより板敷きであって畳の敷いてあるのは校長先生の居
宅にすぎなかったのである。
  諸事このように金銭ずくなので、試験の成績なんかどんなに悪くても落
第の心配は絶対にない。現に私の如きは生家の家業柄、宵っぱりの朝寝坊が
その頃からの癖で、私がノコノコ登校する時分には他の生徒がみんな帰って
くるのは常であった。その上、雨が降るといっては休み、芝居見物だといっ
てすら休み、それでいてなお学年ごとに進級したのでも凡そ想像がつくであ
ろう。学校ばかりではない。家庭でも学業に関しては全然放任で家庭教育な
ぞは楽にしたくもなく、私も姉も父母と一緒に食事することさえ稀で、親子
はまるで別の世界に住んでいるようなものであった。そしてまた、先生もこ
の生徒に劣らないズボラで、伊藤校長は職員と一緒にしばしば遊郭に登楼し
て、よく馬を引いて帰るので有名であったが、それに昂じた末に奥さんはつ
いに里へ帰り、私が尋常科を卒業して転校すると間もなく学校は閉鎖され、
伊藤校長は生徒の家を廻って餞別を集めて故郷に帰ってしまった。  
       荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より


明治27年
   日清戦争が勃発する(八月)。

【谷崎潤一郎九歳】 思い出すますのは、昔は寺子屋で漢文の読み方を教
えることを、「素読を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでた
だ音読することであります。
   私の少年の頃にはまだ寺子屋式の塾があって、小学校へ通う傍そこ
へ漢文を習いに行きましたが、先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の
上を指差しながら、朗々と読んで聞かせます。生徒はそれを熱心に聴いてい
て、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読
めれば次へ進む。そういう風にして外史や論語を教わったのでありまして、
意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。
         谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫、昭50)より

【高浜虚子十四歳】 中学校は愛媛県中学校といったように記憶していま
す。その時分、県会は極めて乱暴なもので、経費削減のため中学校を廃止に
してしまいました。私が入って半年ばかりで廃校になったので、やむを得ず
遊んでおりました。地方の人々が心配して、今度は私立の中学校を、僅かの
経費で経営するようになりまして私はそれにようやく入ることができまし
た。それが今日の松山中学の前身で、その頃は伊予尋常中学校といっていま
した。
   その時分には回覧雑誌をこしらえたり、演説会を開いたりすることは
学生仲間の流行でした。私も回覧雑誌を出しておりましたが、特にその頃文
筆の傾向があったわけではありません。演説会を開くということも、その頃
の学生の一部の流行でありました。夜になると一銭か二銭の会費を出し合っ
てお寺を借りて蝋燭を立てて、聴衆もいないところで演説会を開いて子供の
くせに天下国家を論じたこがもありました。
   高浜虚子『定本高浜虚子全集』(第十三巻、毎日新聞社、昭48)


明治28年
   日清講和条約(下関条約)が成立する。
   大杉栄十一歳。高等小学校へ入ってからは、学校のほかにも、英語や
数学や漢文を教わりに私塾に通った。英語は前にいた片田舎の家の隣りの速
見という先生についた。生徒は朝から晩までほとんど詰めきりで、いつも
三、四十人は欠かさなかったようだ。数学と漢文とは、その英語の先生がい
なくなってから教わりだしたように思うが、先生の名は全くわすれてしまっ
た。
   二度目の漢文の先生は監獄の看守だった。背の低い、青い顔をした、
随分みすぼらしい先生だった。先生は朝早く役所へ出かけるので、僕はいつ
もまだ暗いうちに先生の家へ行った。生徒は僕ともで二、三人だった。冬、
三尺も四尺も雪が積もって、まだ踏み固めた道もなんにもないところを、凍
えるようになって通った。行くと、先生のお母さんが寒そうな風をして、小
さな火鉢に粉炭を少し入れて、それをふうふう吹いて火をおこしてくれた。
僕は先生のこのお母さんが可愛そうな気がして母にその話をした。母はすぐ
に馬丁に炭を一表もたしてやった。先生のお母さんは涙を流してお礼を言っ
た。その翌日からは大きな炭でカッカッと火をおこしてくれた。僕はこの先
生について、いわゆる「論語」「孟子」「中庸」「大学」との素読を終え
た。(中略)
   やはりそのころに、四、五人の友人を家に集めて、輪講だの演説だの
作文だのの会を開いた。(中略)この会での一番大きな問題は、遼東半島還
付だった。僕は『少年世界』の投書欄にあった臥薪嘗胆論というのをそのま
ま演説した。みんなはほんとうに涙を流して臥薪嘗胆を誓った。僕はみんな
に遼東半島還付の勅諭を暗誦するように提議した。そして僕は毎朝起きると
それを声高く朗読することにきめていた。
    『大杉栄自叙伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より 


明治29年

明治30年

   地方視学を設置する。「師範教育令」が公布される。

【荒畑寒村十歳】 明治三十年の春、姉と一緒に小学校の尋常科を卒業し
た私は、市立吉田小学校に転じて高等科一年に入学した。校長の三留善之先
生は、おそろしく顔の長い胴から下の短い人で、三大節の儀式に声をふるわ
せて教育勅語を奉読する時の外、めったに生徒と接したことのないのも、学
級ごとに教室が独立しているのも、月謝のほかに金をとらないのも、入学の
際に煎餅の袋など持っていかないのも、男女生徒の教室が分離しているの
も、すべて私には新しい経験であった。
   私は毎夜、学校の唱歌の先生のところへ通って、学課の予習を受け
た。先生は奥さんと二人で二階借りをしていたが、ある時、先生が「おい、
また醤油が高くなるそうだよ」と言うと、奥さんが「じゃあ、塩を使うより
仕方がありませんねえ」と答えられたのを耳にして、私は子供心にも同情に
たえなかった。そんなに苦しい生活でありながら、先生は私が謝礼を持って
いくと「生徒からお金を貰っては、いけないことになっているのだよ」と
言って、どうぢても受け取らなかった。今ではお名前を忘れてしまって思い
出せないがl、赤い大きな口髭を生やした先生のお顔だけは覚えている。
   小泉美弥次という、一学級下の担任だった先生には、『日本外史』の
素読を受けた。寵姫の静が鎌倉幕府に呼び出された時、何とかいう武将が静
に挑んだという箇条に至ったとき、小泉先生はその「挑む」という意味を説
明するのにはなはだ困却されたことがあった。しかし、この早熟な生徒は
ちゃんと承知していたのである。
      荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より


明治31年
  学校教育は次第に普及しつつあったが、他方、都市は急速に拡大しつつ
あり、東京や大阪のような大都市においては貧困化した下層民の数もまた増
大の一途をたどるばかりであった。1897年(明治31年)、東京市内の学齢児
童数は十八万であったが、そのうち就学児童は七万二千人であるのに対して、
不就学児童の数は十万人をこえていた。東京では貧困者のための「「万年学
校」が坂本竜之介によって1902年(明治35)に設立された。(井野川潔、川
合章「明治大正期の教育運動」一巻の二章参照)しかし、この種の努力は例
外であり、社会一般には、教育の普及が進行しながら、しばしば底辺の教育
が忘れられた。  近代日本の名著6、永井道雄「日本の教育思想」(徳間
書店、昭42)より引用

【吉川英治八歳】 ぼくは尋常二年頃から、学課が終わっても、毎日、た
だ一人だけ、二時間ずつ、学校に残された。そして一人の英語教師から、英
語の単独授業を受けた。これからは貿易だ、英語だ、という考え方と子供へ
の方針から、父が山内先生に依頼して、ぼくに早くから外語を身につけさせ
ようとしたものだった。(中略)これも半年ほどやっていくうちに又、九歳
の一月からは、もう一つ夜学の励みが加えられた。夕方、家に帰ると、すぐ
晩飯を食べてから、スジ向かいに住んでいる漢学の先生の所へ通うのだっ
た。この先生は、まだ三十がらみの小づくりで温容な人だった。いつも黒木
綿の紋付袴の羽織を着、ぼくのお辞儀に対してさえ、礼儀正す風だった。一
番最初に先生から示された教科書は「中学漢林」で、外史や十八史略の抜粋
であった。それで多少興味づけられてから論語や小学の素読へ移った。
 吉川英治「忘れ残りの記」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より  


明治32年
   「中学校令」「実業学校令」「高等女学校令」を公布する。
  
【菊池寛十一歳】 私の家は、随分貧しかった。士族らしい対面を保ってい
るために、却って苦しかった。(中略)修学旅行などは、いくらねだっても
やってくれなかった。病気でもないのに修学旅行に行かれないなど云う子供
心の情けなさは、また格別である。私はあるとき、泣いて父に修学旅行に行
かせてくれと強請したら、父はうるさがって寝てしまった。寝ても、私は強
請をつづけていると、父はガバと蒲団の中で起き上がって、「そんなに俺ば
かり、恨まないで、兄を恨め! 家の公債はみんな兄のために、使ってし
まったんや」と云った。公債など初めからいくらもなかったのであるが、し
かし公債でもあれば、いくらか楽だと父は思っていたのだろう。
   菊池寛「半自叙伝」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より


明治33年
「市町村立小学校教育費国庫補助法」が公布される。尋常小学校の授業料廃
止になる。
   「小学校令」が改正され、尋常小学校の四年が義務教育となる。尋常
小学校で教える漢字数は1200字に制限され、仮名字体を一定にし、仮名
づかいも表音的に改められた。この仮名づかいは「棒びきかなづかい」とよ
ばれる。これらによって教科書は、難しい漢字が少なくなり、仮名書きの多
いやさしい文章に改められた。口語教材や文学教材が多くなり、低学年では
児童の興味に合う単語・短句が採用されている。石川松太郎ほか『図説・日
本教育の源流』(第一法規出版、1984)より


明治34年
   安部磯雄、片山潜、幸徳秋水ら、社会民主党を結成するが、即日禁止
となある。


明治35年
   教科書疑獄事件が起こる。


明治36年
   国定教科書制度が成立する。「専門学校令」が公布する。


明治37年
   日露戦争が勃発する。「小学校令」が改正され、国定教科書制度が確
   立する。小学校国定教科書の使用が開始する。


明治38年

明治39年


明治40年

   「小学校令」を改訂し、尋常小学校を四年制から六年制にに改め、尋
常小学校が六年、高等小学校が三年と義務教育年限が延長される。(翌年4
月施行)


明治41年
 【松本重治九歳】 神戸の諏訪山小学校へ入学する。成績は五段階評価
で、1が最もよかった。私は二年生の二学期から「オール1」に。ちなみに
一年生の一学期では算術が1で、国語が2.けれど体が弱かったせいか、体
操はヘタだった。
  諏訪山小学校時代、週に二、三回、授業が終わったあと英語と漢学、そ
して書道などを習った。小学校二、三年の頃だ。いまの子供たちなら普通の
ことだが、明治の四十年代だけに「塾通い」のハシリだったかもしれない。
  英語は、自宅から一丁ほど離れた「深沢英語塾」に、姉の朝子と通っ
た。先生は二十七、八歳で、アメリカ人との混血女性だという話であった。
生徒は私たちも含めて十人もいただろうか。英語の歌から始めて会話へ。発
音に力を入れてもらったが、上達したかどうか記憶にないのに、姉の朝子よ
りよくできたことだけは覚えている。
  漢学と書道の先生は、八木という名前で、南画家のおじさんだった。確
か英語を習うより早く小学校二、三年のときに八木先生の所に通っていたよ
うに思う。三、四年生のころには「詩書」の素読、六年生のころに「詩経」
の抜粋、さらに神戸一中の時は『十八史略』まで進んだように思う。そのお
かげか、神戸一中の漢文の授業がバカみたいにやさしく、居眠りを決め込ん
だこともある。
  父は漢籍を白文で読み、父の述懐によると、十八歳でアメリカに留学す
るころには頼山陽『日本外史』などを自由に読みこなしていたという。アメ
リカでの愛読書のひとつが『唐詩選』だといっていた。
          松本重治『わが心の自叙伝』(講談社、1992)より

【横溝正史六歳】 明治41年ごろのことだが、その時代にも幼稚園(荒
木注、場所神戸)というものは存在していた。しかし、幼稚園へ行くのは金
持ちの子弟と限られていて、わが家みたいな貧しい家庭では幼稚園などには
やってもらえなかった。そのかわり私は小学校へ入る前、一年間寺屋という
のへ通わされた。思うに姉の指導よろしきをえて、そのころの私はすでにア
イウエオやいろははいうに及ばず、漢字もそうとう読み書きできたし、算術
なども二桁ぐらいなら足し算、引き算、掛け算、割り算なども可能であっ
た。したがって父が私を寺屋へ通わせたのは、幼稚園などではあまりにも幼
稚すぎると思ったのかもしれない。しかし当の本人としてはそうは思えな
かったとみえ、わが家から寺屋へかよう途中に幼稚園があったが、そこで
嬉々として遊び戯れる同年輩の子どもを見ると、私は幼な心にも劣等感のこ
りかたまりみたいになり、幼稚園の反対側の道を顔をそむけて走りすぎたも
のである。寺屋へ通っているのは私より年長の子どもばかりであった。思う
にそれはいまの塾みたいな補習教育場であったろう。塾生は二、三十人もい
たろうか。家はふつうの仕舞屋(しもうたや)づくりになっていて、二階が
六畳と四畳半くらい、そこに私より年長の子どもがひしめき合っていた。そ
こでは読み書き算術とお習字を教えるのだが、成績によって進級自在であっ
た。     横溝正史『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店、平成14)


明治42年
  【島崎藤村三十七歳】 初めて『浮雲』が出た時は、私はまだ十六歳で
あった。『あいびき』や『めぐりあい』の訳が「国民の友」に出た頃、私は
白金の学校にいた。二葉亭という人はその時代から私の胸に刻みつけられ
た。私ばかりではない。私の友達は皆そうだった。柳田國男君がまだ若かっ
た頃、私と君と一緒にある雑木林のなかで夕方を送ったことがる。「ああ、
秋だ──」とその時柳田君は『あいびき』の中を私の暗誦して聞かせた。あ
の一節は私もよく暗記したものだ。   「長谷川二葉亭を悼む」より

   ここに明治42年の学芸会のプログラムがある。
   明治42年3月に、千葉県師範学校付属小学校で行われた学芸大会の
プログラムを見ると、全出し物37のうち朗読発表7、談話発表6、暗誦発
表3がある。学芸会のプログラムの中に「朗読」、「談話」(荒木注。「談
話」とは演説、スピーチのようなものだと思う)、「暗誦」があるのは、こ
れら三つが当時の国語授業の中でそれだけ重要視されていた証拠だと言えよ
う。

   第4回学芸大会挙行順序    千葉県師範学校付属小学校  
                   明治四十二年三月二十一日
一、振鈴ノ合図ニヨリ児童、本校四年生、保護者、職員、来賓順次着席
二、樂音ノ合図ニヨリ一同敬礼
三、誠ノ道(唱歌)……合唱
四、学校長開会ノ辞
五、作業
第一部
1  笠置落       (暗誦)………尋五、六
2  人をそねむな    (談話)………尋三
3  伊能忠敬      (唱歌)………尋六
4  精神一到何事不成・国恩に報ず   (書方)………尋五
5 「明治二十七八年戦役」ノ一節(読本朗読)……尋一、二、三、四、
                        五、六
6  酒と煙草      (対話)………尋三、四
7  一寸法師      (唱歌)………尋一
8  普通商業と銀行業  (談話)………高二、三男
9  絵の説明      (綴方朗読)………尋一、二
10 第二校舎ヨリノ眺望 (手工)………尋一、二、三、四、五、六
11 旅順口       (唱歌)………尋四
12 栽培        (談話)………高一男         
13 神功皇后      (読本朗読)………尋二
14 平重盛       (唱歌)………尋五
15 物品進撤ノ礼    (作法)………高一女
16 処世ノ歌      (暗誦)………高二、三女
17 呼鈴        (理科実験)………尋六
18 琵琶湖       (唱歌)………高一女
19 鳥外二ツ      (図工)………高二、三男
第二部
20 四季ノ月      (唱歌)………尋五、六
21 寒暖計       (点字読方)盲生
22 「滝沢馬琴著作ノ苦心」ノ一節 (読本朗読)……高二、三女
23 がん        (唱歌)………尋二
24 人ニ迷惑ヲカケルナ (談話)………尋一
25 白石少佐を思う   (暗誦)………高二、三男
26 Cunting      (英語対話)………高一男
27 金太郎       (唱歌)………尋一、二
28 北国めぐり     (談話)………尋五
29 「地球」ノ一節   (読本朗読)………尋四
30 北白川宮殿下    (唱歌)………尋三、四
31 明治三十七八年戦役 (談話)………尋五、六
32 太郎ト次郎     (読本朗読)………尋一
33 豊臣秀吉      (唱歌)………尋三
34 水の旅行      (対話)………尋六
35 冬季休業中の日誌  (綴方朗読)………高一女
36 漂白作用      (理科実験)………高一男
37 荒城の月      (唱歌)………高一、三女
六、講評
七、学校長閉会ニ辞
八、小さき砂(唱歌)………合唱
九、樂音ノ合図ニヨリ一同敬礼
十、来賓以下順次退席
             『千葉県教育百年史』第三巻史料編より


(参考資料)

  下記は、上記した千葉県師範学校付属小学校学芸会・明治42年実施か
ら、27年後に出版された、千葉春雄編『読本朗読の実践的研究』昭和9年
発行に書いてある、各学校で朗読会を実施する場合の一般的な朗読会の全体
構成の雛形・マニュアルとして紹介されているものです。執筆者は坂本功氏
です。
  昭和9年当時、下記のような朗読会がいたるところの小学校で実施開催
されていたかどうかを知る手がかりは持ち合わせていません。が、当時は、
「朗読」が重要視されていたこと分かります。また、審判団によって採点さ
れ、優秀な出演目に賞状と賞品が与えられていたことは驚きです。当時は、
かなり質の高い朗読・暗誦・談話が求められていたことが分ります。採点基
準(A〜F)は参考になります。

学校全体が一丸となって実施する、朗読会について書こう。
1、朗読会開催日時
2、朗読会、種目、朗読、暗誦、談話、対話、レコード。
3、出演種目割当
 尋常一年 朗読2 暗誦1 談話1  同二年 朗読2 朗誦1 談話1
 同 二年 朗読2 暗誦1 談話1  同三年 朗読2 暗誦1 談話1
 同 五年 朗読2 暗誦1 談話1  同六年 朗読2 暗誦1 談話1
4、役員、審判長、審判、
5、大会順序
 イ開会の辞 ロ児童出演 ハ審判長審査報 ニ賞品・賞状授与
 ホ閉会の辞
6、事務分担
 イプログラム作成係 ロ賞状賞品係 ハ進行係
 審判採点標準。審判は児童の朗読、暗誦、談話などの成績を審査して、
 優、中、劣を判定する。その標準は次の事項による。
 イ採点は十点法による。
 ロ本学期の主力点が明瞭に表れているものを尊重する。
   A都市の児童と農村から来た児童との環境を考慮すること。
   B児童の努力点を認めること。
 ハ採点
   A一般態度(礼の仕方、姿勢、昇降壇の態度、落ち着き具合)
   B練習の態度
   C発音(イとエ。ヘとヒ。シとス。チとツ。ジとヂ)
   Dアクセント
   E朗読、暗誦の態度。
    お話をする読み方か 抑揚、継続に気をつけ 自信のある読み方
    内容を理解した読み方か 室内に行渡る音声か 速度、緩急は正し
    いか
   F話し方の態度
   「話」は自己のものになっているか 面白味はあるか 中心点を十分
    に力説しているか
次に、朗読会のプログラムを述べてご参考にしよう。

  1、談話 あわてにはとり  1年
  2、暗誦 ひよこ  2年
  3、朗読 日本三景  3年
  4、綴方 魚つり  4年
  5、対話 長生きする動物  5年
  6、暗誦 瀬戸内海  6年
  7、唱歌 凱旋  
  8、対話 オフロ  1年
  9、朗読 とけい  2年
  10、綴方 小鳥の死  3年
  11、対話 脚の数  4年
  12、談話 軍旗の話  五年
  13、朗読 画師の苦心  6年
  14、遊戯 人形  
  15、朗読 デンワ  1年
  16、対話 しりとり  2年
  17、綴方 けい馬 3年
  18、朗読 獅子と武士  4年
  19、綴方 僕のこしらえた船  五年
  20、対話 国旗  6年
  21、遊戯 海
  22、唱歌 鯉のぼり  
  23、レコード 話し方(花さかじじい) 
  24、レコード 朗読(水兵の母)
  25、レコード 東郷元帥吹込「軍人勅語奉戴五十周年記念講演」
  26、成績報告 
  27、賞状・賞品授与
 千葉春雄編『読本朗読の実践的研究』(厚生閣書店、昭和9)より引用


明治45年(大正元年)
   明治天皇崩御。

【湯川秀樹五歳】 ある日─私が五つか六つの時だったろう─父は祖父に、
 「そろそろ秀樹に、漢籍の素読をはじめて下さい」
と言った。
  その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならん
だ古色蒼然たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ入って
ゆくことになった。
  一口に四書、五経というが、四書は「大学」から始まる。私が一番初め
に習ったのも「大学」であった。
  「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれも
これも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岸壁であった。
  まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。
それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。すると
その1ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まる
で巨大な岩山であった。
「ひらけ、ごま!」
と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岸壁であった。夜ご
と、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。
  祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の
先が一字一字を追って、
「子、曰く……」
私は祖父の声につれて、音読する。
「シ、ノタマワク……」
素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖
心を呼び起こすのであった。
     湯川秀樹『旅人──湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)より


大正2年
 【湯川秀樹六歳】 書道は私たちの姉妹兄弟の、すべてが山本先生から
習った。小学校へ入る前から、私はけいこに通わされた。姉たちの、護衛に
つかわされたような形だった。山本先生の家は、御所の蛤御門のところを、
西に入った辺りにあった。私は週に一度、長姉可横と次の姉妙子について、
河原町の家から清和院御門をぬける。姉たちと私とは、ずいぶん歳が開いて
いる。けれど当時の風習として、男と女とが肩を並べるようなことは、姉弟
でもしなかった。姉たちが道の左側をゆけば、私は右側をゆく。それが別に
不思議でもなんでもない時代であった。
   そのうちに、先生の方から河原町の家に来てくれるようになった。習
い人数がふえたせいだったろうか。 
   山本先生は童顔で、かっぷくのいい人であった。若い頃に中国に渡
り、揚守敬に書道を学んで帰ったという。揚氏は中国書道の北碑派の一人と
いわれ、中国書道の一つの伝統を伝えた人だ。山本先生の教え方は、弟子に
筆をとらせると、机の向こう側から腕をのばして、その筆の上端を握って逆
さ字を書く。こちらはその筆の動きについて手を動かし、先生の筆法を会得
するというやり方だ。
     湯川秀樹『旅人──湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)より



             
結び


最後に、結びとして荒木の簡単なコメントを書くことにします。

明治20年代初期の教育状況

  明治20年代初期の教育状況を唐沢富太郎、前田愛の二氏は次のように
書いています。

  「明治二十一年に雑誌『日本人』が発刊され、十九年には東京大学が帝
国大学となり、大学令の第一条に「国家ニ枢要ナル」という条件が加えら
れ、二十三年に「教育勅語」が煥発されて、ここに道徳中心徳育中心の教育
が強調される。かかる時代思潮道徳強調の時代的傾向を背景として、ここに
登場してきたのがヘルバルトの教育思想である。この学説が迎えられた理由
は、先ず第一は、彼の教育学が教育の方法は心理学が示し、目的は倫理学が
示すとなし、強い道徳的性格を作ることがあり、この時代の徳育中心の教育
要求に合致したからである。第二は、彼の学派は五段階教授法を唱え、予備
・提示・比較・概括・応用という機械的合理主義的方法が当時の合理主義的
なものを求める心に一致したからである。」
      唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭28)より

  「明治21年に、石川県で行った全壮丁の教育程度の調査(石川県通信
・明治22・3・25)では、壮丁4583人の中、往来物の読み書きができ
る、いいかえれば自主的に読み書きができる能力を備えるものが1869
人、約49パーセントの比率である。明治5年の新学制を通過して成年に達
した最初の世代が、このような低い率を示している。」
   前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)より
 
明治期末も、大正初期も、盛んだった漢籍素読

  天野貞祐は、「私の祖父は和漢の古典として認められたものが殆んどす
べて所蔵してていた」と書いています。湯川秀樹は、「祖父は、幼時から漢
学を学び、終生漢籍に親しんできた人である。秀樹の父親が祖父に素読を教
えるように頼んだ」と書いています。また、天野貞祐の兄たちは祖父から素
読を習った、湯川秀樹は大正元年から祖父に漢籍の素読を習い出した、と書
いています。
  このように湯川秀樹さんの例から分かることだですが、大正時代に入っ
てからも漢籍の素読教授が当たり前に行われていたことが分かります。
  しかし、漢籍の素読で育った祖父母や父母たちが死亡し、世代交代が進
んでいくにつれて、漢籍の素読学習の体験者が少なくなっていき、素読教授
はしだいに衰退していくことになります。

漢籍素読での人気教材は「日本外史」であった

   荒木が読んだ限りでの自伝、自叙伝においては漢籍のテキストとし
て名前があがっている書物は「日本外史」が最も多かったです。自伝、自叙
伝の中で漢学塾で「日本外史」を学習したと書いている主な人物の名前を挙
げてみると、田岡嶺雲、坪内逍遥、夏目漱石、新村出、河上肇、荒畑寒村、
小川未明、吉川英治、松本重治の父など。これについて前田愛氏は次のよう
に書いている。
  「明治22年までに設立された東京の女学校のうち、漢文を正課に組み
入れているところでは、すべて例外なく頼山陽『日本外史』が教科書として
採用されている。ほかに『大日本史』や『国史略』が併用されているところ
もあるが、それは二、三校にすぎない。
   明治29年の『東京遊学案内』(明治時代の受験案内として毎年発
行)を見ると、陸軍士官学校と陸軍幼年学校の漢文の問題は、『日本外
史』『日本政記』の訓読と解釈がそれぞれ一題ずつ出題されている。37年
の『東京遊学案内』を見ると、漢文を出題した官立学校十三校のうち三校が
『日本外史』を問題文に選んでいる。頼山陽『日本外史』と『日本政記』と
はもっともポプラーな漢文の教科書の一つであったし、『日本外史』は漢文
入門の役割を果していた教科書であった。
   中村真一郎氏は、『頼山陽とその時代』のなかで、明治時代における
『日本外史』の普及度を伝える次のようなエピソードを紹介している。『明
治初年生まれの私の外祖母は、文字通りの無学な田舎の一老媼に過ぎなかっ
た。しかし、彼女は中学生の私が漢文の副読本『外史鈔』を読み悩んでいる
時、台所に立ったままで、私の読みかけた部分を延々と暗誦して聞かせてく
れた。明治の初めの地方の少女は、『日本外史』を暗記することが初等教育
であったのだろう』。これは私たちから遠くへだてられてしまった言語生活
のある領域を垣間見させてくれる証言である。地方生まれの一少女が老年に
至るまで、『日本外史』の文章をその記憶の中にらくらくと蓄えていたこと
は、明治という時代にあっては日常の話し言葉の世界とは次元を異にするも
うひとつのことばの世界が、人間の生理に即して呼吸づいていたことを示し
ているように思われる。」
   前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)より

放課後の塾通いは明治期も盛んだった

  明治時代も学校の放課後の塾通いは盛んだったことが分かる。明治・大
正・昭和をリードしてきた英傑たちの自伝や自叙伝を読むと、けっこう塾通
いが盛んだったことが分かる。時代をリードしてきた英傑たちだからかどう
か分からないが」、一般庶民の子供達も塾通いが盛んだったのかどうかは判
断資料の持ち合わせがないから分からない。自伝、自叙伝を読む限りでは
けっこう盛んだったことが分かります。
  鳩山春子さんは、「朝まだ暗いうちに起床し、朝飯前に、漢文の先生の
門が開くのを待っていた」と書いています。平成の世でも朝飯前に塾へ行く
子供は通常はみられないことでしょう。
  松本重治さんは、「小学校の勉強が終わった後、週に二、三回、授業が
終わった後、英語と漢学と書道などを習っていた。」と書いています。
  小川未明さんは、小学校へ上がらぬうちから私塾へ行って漢学とか数学
を習っていた。母はその日の復習が終わるまで寝せてくれない。疲れて居眠
りすると叱られた。」と書いています。

【鳩山春子十一歳】(明治5年)の塾通い
   私共は、かような有様で唯勉強ばかり分からぬなりに一生懸命にした
のにすぎません。論語、孟子、詩経など未だ乳飲み子に分かる道理はない
じゃありませんか。けれどもこんなものを非常に熱心に読んで、殆んど暗誦
せんばかりによく繰り返したものです。母は余り監督がましいことは申しま
せんでした。唯褒めるだけで、常に褒めてくれたものですから、朝未だ暗い
うちに起床し、朝飯前に漢文の先生の所に参り、門の開くのを待って居りま
した。その中に男児の人々が大勢参ります。女といえば私がたったひとりで
ありましたが、少しもそんなことは怪しみません。みな到着順に教えてくだ
さるので、私は第一番に教えて貰いました。
       鳩山春子「自叙伝」(日本人の自伝、平凡社、1981)より
   
【松本重治九歳】(明治41年)の塾通い
  諏訪山小学校時代、週に二、三回、授業が終わったあと英語と漢学、そ
して書道などを習った。小学校二、三年の頃だ。いまの子供たちなら普通の
ことだが、明治の四十年代だけに「塾通い」のハシリだったかもしれない。
  英語は、自宅から一丁ほど離れた「深沢英語塾」に、姉の朝子と通っ
た。先生は二十七、八歳で、アメリカ人との混血女性だという話であった。
生徒は私たちも含めて十人もいただろうか。英語の歌から始めて会話へ。発
音に力を入れてもらったが、上達したかどうか記憶にないのに、姉の朝子よ
りよくできたことだけは覚えている。
  漢学と書道の先生は、八木という名前で、南画家のおじさんだった。確
か英語を習うより早く小学校二、三年のときに八木先生の所に通っていたよ
うに思う。三、四年生のころには「詩書」の素読、六年生のころに「詩経」
の抜粋、さらに神戸一中の時は『十八史略』まで進んだように思う。そのお
かげか、神戸一中の漢文の授業がバカみたいにやさしく、居眠りを決め込ん
だこともある。
  父は漢籍を白文で読み、父の述懐によると、十八歳でアメリカに留学す
るころには頼山陽『日本外史』などを自由に読みこなしていたという。アメ
リカでの愛読書のひとつが『唐詩選』だといっていた。
          松本重治『わが心の自叙伝』(講談社、1992)より

【小川未明六歳】(明治21年)
  私は明治二十一年、小学校へ入りました。小学校へあがらぬうちから私
塾へ行って漢学とか数学の勉強をしたのですが、小学校へ行ってからは其の
帰りに剣術を習っていて、もう暗くなるのに、それから私塾によって論語と
日本外史を習って、夜おそく家へ帰ります。そうして夕飯を食べると炬燵に
入るのですが、もう眠くなってしまいます。それでも私がその日の学課の復
習をするまでは、母は決して寝せてくれません。その勉強も炬燵にあたって
するのはいけないので、起きて机に向かってやれというのです。疲れている
ものですから、つい居眠りするのですけども、よく母に叱られました。私が
勉強が終わるまで、母はランプのそばで仕事をしていたことを、今もうれ
しく思います。
     『小川未明』(作家の自伝103、日本図書センター、2000)より

  江戸時代の鎖国期までは男子の学問は漢籍(朱子学)だけでよかった。
が、幕末になって外国との交易をするようになると、オランダ語や蘭学(医
学)、英語、ドイツ語、航海術などの学問が必須のものとなっりました。そ
れに書道、剣術、音楽などのお稽古事の私塾もできて、子ども達は種々の塾
通いに行くようになりました。
  明治後期の本稿部分だけの塾通い、誰がどんな塾に通ったか、簡単に
まとめてみよう。
河上肇=漢学
谷崎潤一郎=漢学
大杉栄=英語、数学、漢文
荒畑寒村=学課の予習、漢学
吉川英治=英語、漢学
松本重治=英語、漢学、書道

千葉師範学校付属小学校・学芸大会プログラム
 から見えること


 実施時期は、明治42年3月21日である。プログラムを各種別してみ
ると、唱歌9、談話4、読本朗読3、暗誦3、綴り方朗読2、対話2、理科
実験2、ほか1である。最も多いのが唱歌9で、次が談話4で、談話とは、
修身的な講話・スピーチが主なものだったようだ。次に朗読(読本、綴り
方)が5、暗誦が3であり、この朗読と暗誦は全プログラムの22%を占
め、日常の授業の中でも朗読や暗誦がかなり重要視して指導されていたこと
を示している証拠だと思われます。
  下記は、上の学芸大会プログラムとは関係ありません。今野敏彦『昭和
の学校行事』(日本図書センター、1989)の中に書いてあった資料を使わせ
ていただき、荒木が整理して書いたものです。
  大正5年3月実施である尋常小学校の学芸会のプログラムをみると、三
年生以下のプログラムには
朗読・話し方・談話14、書き方1、図画3、唱歌6、相撲1、手工1、そ
の他3となっています。
  四年生以上のプログラムには
朗読・話し方・談話11、書き方3、図画3、唱歌6、舞踏3、手工2、作
法2、裁縫1、算数1、その他3となっています。
  大正5年の学芸会プログラムをみると、たまたまかどうかは分かりませ
んが、暗誦がプログラムから消えていることが分かります。
  昭和3年、東京の関口台小学校の学芸会プログラムをみると、
児童劇1、唱歌4、お話7、対話8、唱遊5、席画3、対話唱歌2、理科
1、席書1となっています。
  昭和10年、同じ関口台小学校の学芸会プログラムをみると、
児童劇14、唱歌4、お話1、朗読7、童踊3、暗誦1、書方1、詩吟1と
なっています。
  関口台小学校の場合、昭和3年では朗読0、暗誦0と皆無であったが、
昭和10年では朗読7、暗誦1とあり、朗読と暗誦とが再登場していること
が分かります。
  全体的傾向としては、朗読・暗誦が時期によって増えたり、減ったり、
一概にこうだとは言えないことが分かります。

この時期、若者に「演説会」がもてはやされた●

【河上肇九歳】
   私はその頃(荒木注。明治23年、11歳頃)、自分の発起で、演説
会の真似事をしていたことを思い出す。私の家の筋向いに足助という友達が
いたが、そのうちは藁耳で、一方の軒下が土間の米搗部屋になっていた。私
たちはそこへ三、四人のものが集まり、米搗臼を演壇に使って演説会をやっ
た。        河上肇『自叙伝(一)』(岩波文庫、1996)より

【高浜虚子十四歳】 
   その時分(荒木注。明治21年、14歳)には回覧雑誌をこしらえた
り、演説会を開いたりすることは学生仲間の流行でした。私も回覧雑誌を出
しておりましたが、特にその頃文筆の傾向があったわけではありません。演
説会を開くということも、その頃の学生の一部の流行でありました。夜にな
ると一銭か二銭の会費を出し合ってお寺を借りて蝋燭を立てて、聴衆もいな
いところで演説会を開いて子供のくせに天下国家を論じたこがもありまし
た。  高浜虚子『定本高浜虚子全集』(第十三巻、毎日新聞社、昭48)
 
【大杉栄十一歳】  
   やはりそのころ(荒木注。明治28年、11歳)に、四、五人の友人
を家に集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いた。(中略)この会で
の一番大きな問題は、遼東半島還付だった。僕は『少年世界』の投書欄に
あった臥薪嘗胆論というのをそのまま演説した。みんなはほんとうに涙を流
して臥薪嘗胆を誓った。僕はみんなに遼東半島還付の勅諭を暗誦するように
提議した。そして僕は毎朝起きるとそれを声高く朗読することにきめてい
た。     『大杉栄自叙伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より

【荒木のコメント】
  河上氏も、高浜氏も、大杉氏も、若者達が自主的に集まって天下国家を
論ずる演説の練習会を開いている。当時の若者達が血気盛んであって、日本
国家の現実を憂い、日本国家はこうあるべきだと若々しく論じている姿が見
えてくる。多くの聴衆を前にしてではなく、それを予定しての練習会のよう
である。
  これは福澤諭吉の影響が大きい。福澤は『学問のすすめ』のなかで「演
説とは英語にてスピーチと言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思
うところを人に伝うるの法なり。我が国に古よりその法あるを聞かず、寺院
の説法などは先ずこの類なるべし。西洋諸国にては演説の法最も盛んにし
て、政府の議員、学者の集会、商人の会社、市民の寄合いより、冠婚葬祭、
開業開店等の細事に至るまで、僅かに十数名の人を会することあれば、必ず
その会につき、或いは会したるその趣意を述べ、或いは平生の持論を吐
き、……」と書いている。
  この福澤諭吉『学問のすすめ』は明治初年に大ベストセラーとなった。
行列ができるほどで、若者達はあらそって読んだと言われる。福澤は明治7
年に三田演説会を組織し、翌年に演説館を建設した。知識人たちは封建思想
を排除し、自由民権の近代思想を積極的に学び取り、進取の気迫に満ちてお
り、さかんに討論会や公開演説会を開催したようだ。
  当時、まだ若かった青年前期の河上氏も、高浜氏も、大杉氏も、そうし
た空気の中で呼吸しており、そうした雰囲気の中で彼らは天下国家を論ずる
練習をグループを集めてやっていたというわけです。


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