音読授業を創る そのA面とB面と 11・6・23記 明治以降の素読・朗読の変遷史(明治期後編) 明治期を、二つに区分して掲載している。明治期前編と明治期後編とで ある。明治期全体を総て一枚にして掲載するとダラリと下方へナガークぶら 下がってしまう。文章が読みにくくなってしまうので、明治期全体を切れの よい個所で二つに折半している。全くの機械的な区分けにしか過ぎなく、何 ら根拠のない機械的区分けであることをお断りしておく。 明治32年刊・樋口勘次郎『統合主義新教授法』 より 下記は、樋口勘次郎『統合主義新教授法』(明32、東京同文館)から の引用である。 読書とは文字に相当する音声を発することなりとの誤解は、寺子屋時代 の遺物にして、読書科の一大弊害なりとす。書を読むは自己の思想を読むに に外ならず。かくいひたるにみにては、大に疑ふものあらむ。他人の思想を 発表したる文章を読みて、自己の思想を読むとは、自己撞着の言ならずやと。 「薩摩の藩士宇都宮十兵衛といふ人あり」といふ文章を読むとせむ。此文章 を書きし人の薩摩、藩士、宇都宮十兵衛といふ観念と、読む人のそれらの観 念とは同一なりといふべきか。決してしからず。作者は作者の心に浮かびし の薩摩、藩士、宇都宮十兵衛の観念を表出したる者にして、読者は薩摩、藩 士、宇都宮十兵衛の文字を見て、此に対する自己の観念界なるの薩摩、藩士、 宇都宮十兵衛の観念を排列するものなり。他人の文章を読むは、即自己観念 界より必要なる観念を喚起して之を他人の排列の順序に排列して了解するも のなり。之故に文字の音声をのみ教えられて誦読するは、鸚鵡の人言をまね ると一般にして、決して読書とはいふべからず。(中略) 読み方と講義とは並行せしむべし。読むことに熟達して、而して後講義 をなさしむることは、」一般に行わるる法なれども、こは大に不利なる事な り。必ず適宜に交へてなさしめざるべからず。此の如くすれば読みながら此 に連合する観念思想を喚起する良習慣を養う得べし。149ぺ 【荒木のコメント】 素読批判を行っている。「文字に相当する音声を発する」とは意味内容 を分からずに文字だけを発声している音声化を指している。音読と講義との 分離指導はよくないと主張してる。こうした素読教授を「一大弊害」とスト レートに批判している。意味内容も分からずにただ声にするだけの素読を批 判しているところに新しさがある。 「文章を読みて、自己の思想を読む」と書いてある。これは芦田恵之助の 「読むとは自己を読むことなり」が有名だが、本書『統合主義新教授法』の 前書きによると、この本は樋口勘次郎が信州上田で冬休みに小学校教員講習 会の依嘱によって数日間講義したものを芦田恵之助が同行して筆記したもの に、樋口勘次郎がそれに訂正増補を加えて一冊の書物にしたということだ。 「筆記の労に対して深く芦田君に謝する」と前書きに書いている。芦田恵之 助の有名な言葉の源流はここにあったことが分かる。 真正の読書は、自己の観念を回想しつつ進むものなるを以て、多少の時 間を要するは当然なれば、思想豊富ならざる児童の、敏捷に流暢によむ能は ざるは自然の理なり。さるをゆるゆる読む生徒を貶し、流暢によむ生徒を称 揚するが如きは、読書の真意をしらざるに座する罪にして、寧ろ静かに読め よと教ふるこそ至当ならめ。又音声は全級に達するを程度とす。世には高声 によむを活発として之を強ふる教師あれども、高声と思考とは一致しがたき 傾きにありて、却って害あるものとす。 又低声にて活気の乏しきが如きも決してとらざるところなり。斯かる生 徒を矯正せむとせば、先ずその思想を活発にすべし。活発なる思想は、活発 に発表せらるるものなればなり。 又句読に注意せしめて句毎に息をつぎ、章毎にやや長く休むべしなど教 ふる教師あれども、そはいわれなき事にして、自己の思想を読み行くに、他 人の句読何かせむ。加之、これに注意せしめんとすれば、自然思想を読むこ とおろそかになりて、口には能く読めども、思想には却って不明瞭なるに至 らむ。見よ児童の談話は、自然に正しき句読の存するを。書を読むも亦然り。 其意味を十分に了解し、自己の思想として読ましめば、句読は自ら正しから む。又読み癖は多くは意味の注意せずして早くよましむるに起因するものな り。されば之を正さむとせば、まず観念を明瞭にし、談話すると同じ心持に て、他人に其思想をききたらしむる目的にて読ましむるべし。 151ぺ 【荒木のコメント】 児童は一気に早口にすらすら音声化するのを上手な音声表現だと理解し ていることが多い。これは間違っていると教える必要がある。つっかえても よいから(流暢に読むは更によいが)文章内容を声にどう表現するか、のっ けるかに気を使って読むことだと教えることが大切だ。 昭和前期の児童たちの読み声をレコードなどで聞くと、高声で、張り上げ て、りんりんとひたすら読み上げている一本調子読みの音調が殆んどだ。意 味内容が声にのかっていない。ただ声を張り上げてずらずらと読んでいるだ け。 生き生きした音声表現をするには、意味内容をのっけようとする思いをい っぱいにすること、場面の展開や情景が声にのっけようと気を使うこと、そ うした思いが活性化してる思考状況で読み進めていくことがとても重要だ。 高声で読むか低声で読むかは、文章内容によって決定されてくる。 また、句読(間のあけ方)も、テンやマルで必ずあけるという機械的間あ けはいけない。これも文章内容によって決定されてくる。音声表現の上手下 手は間のあけ方で七割は決まってしまうといってもよいだろう。それほど間 のあけ方は重要だ。 以上、荒木の意見を書いてしまったが、樋口勘次郎氏が書いていることは 荒木の意見と同じようなことを違う表現で書いており(かなり違うとこもあ るが、そんなことはどうでもよく)朗読の具体的な指導方法をかなり細かく 指摘して書いていることに、樋口勘次郎氏の先見性ある主張に注目したい。 明治年間の文章であることに驚きを覚える。 明治33年 小学校令が改正される。明治33年は、西暦1900年なり、覚えよう。 小学校令の改正により、小学校は尋常小学校と高等小学校とに分かれる。 一校に併置するを尋常高等小学校と称した。従来の読書、習字、作文が「国 語」の一科に統合されて、読方、習字、綴方の三分科となった。漢字を制限 し、字音仮名遣いを簡易なものに改めた。 【荒木のコメント】 明治二十年代になると、作家たちから言文一致運動がおこる。日常談話に 近い口語文で文章を書こうという運動であり、坪内逍遥、二葉亭四迷、山田 美妙らが提唱者となった。明治二十七八年頃から国語国字問題がおこり、漢 字の節減、口語文の尊重が叫ばれる。明治三十三年の小学校令、その施行規 則に漢字の節減,字音かなづかいの表音化・かな字体の統一が規定される。 これ以降は若干の変更はあるが、これが敗戦後までつづくことになる。 国語教科書の文章は、従来の教科書の多くは最初の二三巻は口語文で、 後学年は文語文だったが、明治33年の小学校令による教科書は口語文を基礎 とし、それに文語文を加味するという編集方針をとったので、全巻にわたっ て口語文を採用することとなる。それで文語文と口語文とと比率が逆転した。 明治33年の坪内逍遥編集「尋常小学校用・国語読本」は口語文を重視し、欧 文翻訳調や漢文直訳調が一掃された。明治37年「尋常小学読本」は4学年ま での教材文の半分が口語文となる。高学年はまだ漢文翻訳調が残る。明治42 年「第一種読本」では6学年の半数が口語文となる。大正7年「尋常小学国 語読本」では韻文以外はすべて口語文となった。 こうして本稿冒頭で書いた「素読の条件1…読む文章は漢文、文語文で ある」は、教材文の言文一致や平易化によっては消滅していくことになる。 「素読の条件2…意味内容を教えない。文意を教授しない」と「素読の条件 5…教師(師匠)からの一方的な教え込みである」も素読と講義の分離でな く、初読の音読時に難語句を教え、教授法も問答法がとられ、二つとも消滅 していくようになった。「素読の条件4…暗誦で終了する」は、平成になっ ても引きずられており、平成23年度学習指導要領では特に詩歌・古文の名 句名文の暗誦が3,4学年で行うように書かれている。「素読の条件3…声 の張り上げて繰り返し読みをする」は、「声を張り上げて」は「馬鹿高く」 でなく、文章内容に応じて高低変化のメリハリをつけて音声表現することが 通常指導となっている。また現今の児童達の声の衰弱が叫ばれて久しく、授 業時の発表や学級会・児童会で堂々と全員に向かって歯切れよく自分の主張 を発表する能力が求められている。 明治35年刊・佐々木吉三郎『国語教授撮要』より 下記は、佐々木吉三郎『国語教授撮要』(明35、育英会)からの引用 である。小見出しは、荒木が勝手に付けている。 (素読について) 従来、読書では素読と講義とは截然二つに区画しておって、読むときに は意味を考えず、意味を考えるときには、素読することを全廃するといふ様 にして、先生は素読の三遍も教へると、生徒は覚えきるまで、素読のみを繰 り返し、漸くにして素読が覚へられると、一転して講義といふことになる。 「即ち」といふ語は「取りも直さず」と言い換え、「演説」といふ語は「演 べ説くこと」といふ訳をつけさせるやうなことを始めます。こんなことはそ もそもくだらない話であって避けた方がよからうと思います。かような弊習 は昔漢学などを学んだ遺習であり、芍くも児童の発達の程度に相応して選択 した教材である以上、そんな迂遠な手数をする必要はないと思います。読む 間にも、意味を考えつつ読むと言ふ習慣をつけて、一度読んでいく間にも分 からない所があれば、穿鑿をしていき、又読んで見て更に意味を精密にし、 つまり読んだだけで、大要の意味のお話ができる習慣をつけなければなりま せぬ。128ぺ 【荒木のコメント】 明治末年になっても、素読教授が行われていたことが分かる。佐々木吉 三郎氏は、素読と講義の分離について批判を加えている。「読む間にも、意 味を考えつつ読むと言ふ習慣をつけて、一度読んでいく間にも分からない所 があれば、穿鑿をしていき、又読んで見て更に意味を精密にし、つまり読ん だだけで、大要の意味のお話ができる習慣をつけなければなりませぬ」と批 判している。 これは現今でも通用する考え方だ。現今でも学校で通常に行われている 読解指導法であり、一般社会人が行っている読書法であり、こうしたことが 明治末年に主張されていたことに驚かされる。 (斉読について) 斉読の運命ほど哀れなるものはありますまい。私共の子供であったとき は、斉読は実に全盛時代で、ソレコソ飛ぶ鳥も落とす勢いでありました。書 物を習ふときでも、算術を習ふときでも、なんでも斉読によったものでした。 九九の表など片っ端から斉読したものです。「九九八十一」と額に線を出し て、ノベツにさけんだものであります。おまけに声の高い者がえらいやうな つもりで、叫んだものですから、三里ばかり先から、ガヤガヤ声がするから、 何でもこの先には小学校があるにちがいないといふと、果たしてありました。 三里はチト掛値であるが、一里位はたしかに聞こえたと思います。それが近 頃はトントなくなってしまひました。どういう理屈で此頃はトントやめてし まったのか、それを私は聞きたいのであります。斉読はむしろ必要なのであ ります。 斉読の利益の第一は、只今申し述べ曲節(フシ)を正すのに利益がある のであります。朗読の曲節などはただ理屈をきかせられたからといって直る ものではありませぬ。そこは唱歌と同じ様に実際にやってみた上で会得しな ければなりませぬ。一人づつやっては時間が多くかかるから、一緒にやる必 要が起こるのであります。 第二に、初歩の子供や、臆病な子供や、はずかしがる子供などを、導い て読ましてみたりするときには、斉読は矢張りよい様であります。 第三に、全体児童をして、早く一通り読ましめる、つまり、全体活動を させるには斉読の利益があります。合級授業とか、又疲労気味で動もすれば 注意散漫の恐れがある時、全体を活動させ、元気を回復し、注意をまとめて やらうとするとき妙法であります。 第四は、読み方に変化を与えるといふ利益があります。「サアこの列と、 この列、どっちが上手かな」と言って読ませると、競争心からしっかり読む 様になります。優等生だけの斉読とか、男と女、色々に分けて変化をつける ことができます。 斉読の弊害は少なからずあります。 (1)他の級に邪魔をするに至る。 (2)まだ覚えきらぬ子供に、斉読を強いると、ただ唸っているにすぎない。 (3)揃えて読まんとするから、待ち合わして読み、それがために余り重苦 しい読みをするとか、いわゆる学校口調を生ずるなど。122〜123ぺ 【荒木のコメント】 荒木の小学校の時でも、読むとは文字を声高くしてすらすらと読み上げ ることでした。それも学年一斉に出来るだけ大きな声で揃えて読みあげるこ とでした。佐々木吉三郎さんが教師をしていた明治35年もやはりそうだった んですね。一里も離れていて学校の斉読の声が聞こえた、これまたちょっと 大げさではないですかね。それだけ大声だったということでしょう。それだ け盛んだったということでしょう。 ということは、江戸時代の素読教授は一斉授業ではなく、すべて個人教 授でしたから、素読教授の個別指導は音読において一斉指導の斉読にとって 代わられて指導されていたことが分かる。佐々木吉三郎氏が知っている限り では、という限定がつくが。 斉読の理解について、一方で「曲節(フシ)を正す」と書き、他方で 「学校口調を生ずる」と書いている。矛盾していますが、指導の仕方でどち らにも傾斜するのだと思います。荒木も斉読の教育的意義を強調しているが、 これについては、拙著『群読指導入門』で詳述している。 (範読について) 範読といふものは、毎時間必ずしも行うべきものといふわけではありま せぬが、読書教授上ではたいせつなことであります。 範読の目的は、二つあります。一つは、読む仕方を巧みにして、朗読法 を知らせるといふので、一つは、素読を授けるといふのであります、我々が、 未だ一度も生徒に読ましめない中に示す範読は、同時に、この二つを兼ねて 居ることが通例でありますが、生徒が既に素読を覚えて仕舞った揚句でも、 尚一度、読み聞かせるといふのは、寧ろ朗読法を巧みにするといふ方法が主 眼であります、しかし、素読を授ける方にのみ重きを置く場合はないではあ りませぬ、これは厳密な意味に於いて範読とはいひ難きものでありませうが、 今仮に範読といふ意味を広く解して、読んで聞かせるを、ことごとく含むの ものと解すれば、つまり、範読の場合は三つになる訳であります。 (1)素読を授ける上に重きを置く場合。 (2)素読を授けつつ同時に朗読法を授ける場合。 (3)朗読に重きを置く場合。 (1)の場合は、素読を授けるために教師が読んで聞かせるやり方はよい方 法ではないが、難しい文章や、生徒に自習を委ねる場合には利用できる。 (2)の場合は、教師が適当に緩急と音調で読んでいく方法である。 (3)の場合は、教師が発音、句切り、抑揚緩急を十分にして範読の範読た る価値を保って読んでいく方法である。115〜117ぺ 【荒木のコメント】 (1)の場合は、「素読を授けるために教師が読んで聞かせるやり方はよい 方法ではないが」と佐々木吉三郎氏は主張している。意味も教えずに文字だ けを音声化する素読、そうした範読を歓迎していないということだ。ここで の素読は、初読としての範読をさしている。 (2)の場合は、(1)と(2)との中間の教師の範読(軽くメリハリを つけた朗読)をさしておる。(1)と(2)の設定はどうしても江戸時代の 素読の教え方からまだまだ脱却できない論法の引きずりが見える。 (3)の場合は、メリハリ十分な、完璧な朗読を範読と呼んでいる。これこ そが範読の範読たるものであると主張している。これにも荒木は反論がある。 「範読の範読たる価値を保つ」音声表現、多くの教師の要求することはでき ないと思う。本HPの「表現よみの指導入門」章の中の「表現よみ指導のコ ツ」に詳述している。 範読をこのような三種類に分類するやり方は江戸時代の素読の指導法か ら未だ抜けきることができないでいることが分かる。 (朗読の種類について) 朗読の種類に幾種類あるかといふ問題になると、大概の人は (1)機械的読み方 (2)論理的読み方 (3)審美的読み方 と別けております。 機械的読み方とは、文字を辿って、中の意味も、碌碌分からずに読むの で「小僧の読経」「論語読みの論語知らず」などと昔からよく言われておる のは、皆機械的読み方であります。「弁慶は薙刀を以て」を「弁慶はな、ぎ なたを以て」といふ様に読んでも平気で通っていく様なもので、成程、読む は読んだに違いないが、自分も意味が分からず、それを聞いている人にも、 分かりかねるといふ様なことに陥るのであります。 論理的読み方といふは、道理意味が分かると言ふことを標準として読む のでありますから、或る所は、割合ゆっくり読むとか、又は、其音声も割合 に低く読むとかいふことがあります。それで聞いている人にとっても、別に 大へん面白いなどと言ふ事はないが、訳はよく分かるのであります。 審美的読み方といふは、従来達読などと言はれたものであります。つま り、音吐朗々たるべきは勿論、情の文は情的に、意の文は意的に、抑揚、頓 挫、緩急、強弱其宜しきを得て、読む本人も、聞く人々も、それによって愉 快を感ずる様によむのであります。 然らば小学校ではどんな読み方を常則として置くべきかといふ問題にな ります。私しの考へでは、とても本式の朗読法といふものは、小学校では、 或る特別な場合の外は先ず難しい。其特別の場合とは、学芸会とか、談話会 とかいふ会合のある時の様なものであります。それで通例の場合では、論理 的読み方の少し上手なもので満足しなければなりませぬ。それですから詩歌 には、詩歌の吟詠法がありますけれど、小学校では、平常、一々、それは従 わせるまでの必要はないと思います。只、句のきり様、つづけ様などに注意 し、ハハア、成程、当たり前の文章ではなくて、アレハ詩である、アレハ歌 であるといふことが、聞き分けられる位の度にしか参りませぬ。……(中 略)……審美的読み方といふ意味をモット広く見て、小学校などで行ってい る様な読み方でも、読みきるべき所で読み切り、音声も明瞭で、気味のよく 分かる様に読めたなら、それが即ち審美的読み方である……(中略)……論 理的読み方の上乗なるものといふことにして置くのであります。118ぺ 【荒木のコメント】 朗読の種類については、明治時代は三種類に分けるのが普通だったよう だ。前述した明治31年刊の小山忠雄『理論実験読書作文教授法』(東海林 書店)には、機械的読み方、解剖的読み方、音調的読み方のネーミングで書 いてあった。佐々木吉三郎の本書では、機械的読み方、論理的読み方、審美 的読み方というネーミングになっている。荒木の知見では明治大正の教育書 を読んでいくと後者の名付け方が多く見られる。 (児童の学校読み口調について) 注意して置きたいことは、家庭の読み振りから、来て居る可笑しな口調 を除去するのと、学校口調、又は学校言葉といふ一種の口調に陥らぬ様に注 意することであります。地方地方によって、多少の違いがある様であります が、大概、家庭に於いて、書物を読む一種の妙な口調があるものです。東京 などでも随分ひどい口調がありますが、例えば「これは兵隊の絵でありま す」といふときの「あります」などは、一種尻上がりのする、変な読み様を するのでありまして、日常の言葉に使う、「あります」といふのとは、大そ う違ひます。モット平らに読まなければなりませんよといふて、聞かせて、 又読ませて見るやうにして次第に改めさせたことがありました。無論、さう 急には参りませんから、そろそろと改良していって、尋常二年頃の初まり頃 までには、チャント改めさせて仕舞ふことができる様にしなければなりませ ぬ。120ぺ 【荒木のコメント】 明治時代から平成の現在まで、朗読・音読の指導についての書物には必 ずと言ってよいほど「児童の学校読み・学校口調・へんな読み音調・独特な 読み癖」をなくせ、と書いています。荒木も書いてきた。そして「表現よ み」という読み音調を提唱してきた。これについては、本HPの全体がそれ に当てられていると言ってもよいぐらい全編にわたって書いてある。 (学校言葉について) 学校言葉といふものは、一体、随分奇妙な話であります。教育者といふ ものは言葉を純正にしていくといふことに責任があるのに、学校が変な言葉 の製造元となるなどはしめしからぬことであります。学校言葉は、例えば 「四月三日はドンナ日ですか」と問ふと生徒は「四月三日は神武天皇様の御 かくれになった日であります」といふ其口調が、如何にも奇妙であるのみな らず、必ず主辞をいはせるなどといふをやって、得意になって居るのであり ます。「君は何処へ行くか」と問はれたときに「僕は湯屋に行きます」と言 はなくても「湯屋へ」で済むではないか。主辞がなくても、動辞がなくても、 用は達せるのである。121ぺ 【荒木のコメント】 この「学校言葉」のへんな音調は、現在ではなくなっているのでは ないでしょうか。テレビの話し言葉の模倣がひろく広まって方言が消えつつ あり、テレビ言葉が通常の話し音調となっている影響が大だと思われる。 子どもも大人も、現在の日常の話し言葉は、主語や補語や述語の省略は 常態化しているのが普通です。ただし、フォーマルな話しコトバを使用する 場合、子どもが教室の授業の中や学級会の中での意見発表で、正規文という か、礼儀正しい文というか、きちんとした文構造の話し方で意見を述べよう と意識して話す場合は、教師は文素省略なしで話すことを禁止したり抑制し たりすることはなかろうと思います。子どもがそういう話し方をしようと努 力して、つかえていたなら、教師は手助けして教えてやるのが至当だと言え る。 補足資料 明治学制の進捗状況 明治学制は、米人ダビット・モルレーを文部省顧問に迎え、アメリカ風 な翻訳教科書とフランスの学区制をまねて発足した教育制度であった。教員 養成も緊急に必要なことであった。明治5年に東京小学師範学校、同8年に 東京女子師範学校が設立され、同7年に小学校教員免許規則、同10年に地方 公立師範学校の設立すべしの布達があった。 冒頭に明治学制の国語教科目を列挙したが、こうした学校体制は日本全 国が一斉に右へならへの進行で経過したかというと、明治政府の思惑通りに は進行しなかった。 その理由の第一は、指導内容は欧米の翻訳物で、庶民の日常生活とかけ 離れた非現実的な教科内容であった。 第二は、教育費の国民負担(学区内集金、寄付金、授業料徴収)で各家 庭の経済負担が大きかった。 第三に、当時は農業、漁業、林業などの第一次産業が生業で、子ども達 は貴重な家庭内労働の補助であり、学校通学は家庭内労働の減少となった。 以下は、明治の教育を受けた体験者たちが語る明治の学校風景である。 上述した明治の学校の様子や、国語授業の様子とはまた違った側面を垣間見 ることができる。体験者の独自の学校環境、勤務地環境によってそれぞれが 違った学校風景、国語授業風景をかたっている。 芦田恵之助氏が語る明治期の回想(1) 次は、芦田恵之助『教式と教壇』(昭和13年、同志同行社)からの引 用である。芦田恵之助氏は、明治6年生まれ、明治10年代に小学校に在学し て学校生活を送っている。 私は十七歳の時兵庫県氷上郡竹田簡易小学校の卒業生となりました。そ の頃には教式としても、寺子屋式をわずかに細工した 1 説話(その日の教材の大意を語る) 2 素読(先生の読みの後をついて音読) 3 講義(ことごとく文語文だから口言葉になおす) といったようなものでした。その中に師範卒業生の郡に十二名配置せられる ようになって、之に「適書」と「書取」というようなものが加わったと思い ます。「適書」とは難語句を書きぬく事で、素読の次に来り、語句の意義の 授ける新工夫であったのです。「書取」は講義の次の来て、その日に学んだ 漢字を練習するのでした。 芦田恵之助氏が語る明治期の回想(2) 次も同じく芦田恵之助氏の著書からの引用である。前記の著書と違って 『読み方教授』(大正5年、育英書院)からの引用である。 今ははや三十余年の昔、余が小学校に於いてうけたる読書教授を思ひお こすと、をかしい様な事がいくらもある。中等科の読本が漢史一班といふ四 冊本、高等科の教科書が十八史略であった。自分の先生は十八九歳であった かと思ふ。校長先生から前日に教えられた所を、翌日我等に教へて下さるの であった。教ふるは全く学の半といふ様だ。所が校長先生も月に二回、三里 を隔つるある町の漢学先生の許に通って、仕入れてこられるのであった。自 分等が読本に仮名を振ることは厳禁せられていたが、先生の本には所々に仮 名が振ってあった。教師机に画引の辞書のあるなどは常のことであった。 而して教授法としては、先生が先に一句音読して下さると、生徒は同音 に之を模唱するのみであった。これが二三回続いて、それから教師の音読と 共に生徒も同誦し、次に単読或いは斉読が許されたものだ。かくして素読が 出来上がると、第二の読み方とも称すべき講義が授けられて、これまた単独 講義の許されるまでには、中々手数のかかったものであった。今の教授法と 比すると材料が不適当であったためもあらうが変われば変わる世のならひと 驚かるる程である。 【荒木のコメント】 芦田恵之助(明6年生)の受けた小学校教育は、江戸時代の素読授業と 大きく変わっていないことに気づく。違いは教師のやや詳しい難語句の解説 や文意解釈の指導があったところだ。明治学制の問答法による指導はあまり 浸透していなかったことが分かる。「今の教授法と比すると材料が不適当で あったためもあらうが変われば変わる世のならひと驚かるる程である」と書 いてあり、現今の平成の教師たちも芦田恵之助氏と違った教育環境で同様な ことを語ることができる。 西尾実氏が語る明治期の回想 以下は、西尾実(元国立国語研究所初代所長)が受けた明治期の国語授 業の様子である。西尾氏は明治22年生まれです。明治29年当時の国語授 業のこと、小学校時代を思い出して次のように書いている。 わたくしが、小学校へ入学した明治29年に、初めて国語として学んだ読 書入門という教科書は、明治20年にできた文部省蔵版本であったが、まず、 「ハト ハナ トリ キリ カンナ ナシ クリ ミカン」というような単 語があり、ついで、「マツ ニ ユキ。ツキ ニ クモ。」というような連 語があり、さらに、「カラス クロク、ヒ アカシ。」というような文があ るというような組織をもっていた。しかし、それを教えてくれた先生は、読 方・暗誦・書取という方法の機械的適用であったから、「ヒ アカシ」が 「日 赤し。」の意であることに気がついたのは、よほど後年になって、当 時を思い返した時のことであった。その時はただ「ヒアカシ」とつづけて読 んで暗誦させられていたので、それが何のことやら、意味を理解しようとす る手がかりさえ失っていたもののようである。おなじ悩みは、「ココニ フ ヂ ト ボタン ト アリ、キミ ドノハナ ヲ コノムゾ。」という文の 「キミ ドノハナ」が「君、どの花を好むぞ」であったのだと知ったのは、 これまた、よほど後年であった。 しかし、わたくしが、小学校の六年間を学んだのは、信濃の南の端の、戸 数わずか八戸の小さな谷底の分教場で、一人の先生が、一教室で六学年の児 童を、同時に教えるというような学校教育であったから、「キミ ドノハナ ヲ コノムゾ。」の意味がわからないままに暗誦させられていたのかも知 れないと思って、わたくしよりも、はるかに整った学校で小学校教育を受け てきた家内に、このことを話してみた。家内は、わたくしが学んだこの読書 入門を学んでたいなかったけれども、家内の姉が、やはりこの本を学んでい たので、一つの記憶を持っていた。それは、こうである。学校へあがったば かりの姉が、ある日学校から帰ってくると、それを待ちかねていた母は、 「きょうは、キミドノハナでも習ったかや。」とたずねたというのである。 してみると、不備な学校で学んだのはわたくしだけでなく、、「キミ ドノ ハナ ヲ コノムゾ。」の「キミ ドノハナ 」は、「キミドノハナ」とし て、あたかも、花の名前であるかのように読みならわされて、それで当の児 童だけでなく、家族の間にも通っていたらしい。まだまだ、児童の心理にも 遠く、日常の言語生活からも離れた国語教育であったことが、明示せられて いる、ひとつの事例であると思う。 『国語教育問題史』(刀江書院、昭和25)3〜5ぺ 【荒木のコメント】 西尾氏は、「わたくしが、小学校の六年間を学んだのは、信濃の南の端 の、戸数わずか八戸の小さな谷底の分教場で、一人の先生が、一教室で六学 年の児童を、同時に教えるというような学校教育であった」と書いている。 荒木が受けた小学校教育も、大体は西尾氏とそんなに変わらない教育環境の 学校であった。それについては本HPのプロフィールに書いている。 西尾氏の受けた国語授業は「読方・暗誦・書取という方法の機械的適用 であった」と書いている。江戸時代の素読授業の方法を受け継いでいるが、 それの悪い面を受け継いでいる授業であったようだ。江戸の素読授業は、通 常は、「素読」(師匠の音読を模倣し繰り返す。暗誦する)→「講義」(師 匠が一方的に叙述を追って注釈する)→「輪講」(年長者が師匠の口真似で 同じことを復講する)という順番であった。「講義」または「輪講」が省略 されることも多くあったそうだ。西尾氏の受けた国語授業は、「講義」も 「輪講」もなく、あるのは素読だけで、意味も分からず教師の音読を口真似 で暗誦するだけだった。明治29年当時、長野県の山間の分教場の国語授業 は、江戸の素読授業とまったく同じであったことが分かる。ただ、教材文が 漢籍でないところが大きく違っている。 奥野庄太郎氏が語る明治期の回想 次は、奥野庄太郎『心理的読方の実際』(文化書房、昭5)からの引用 である。奥野氏は、明治16年生まれ、明治20年代に小学校に在学し、大正 から昭和初めまで東京・私立成城小学校訓導として勤務した。成城小学校は、 大正年間に沢柳政太郎(貴族院議員、東北大・京大総長歴任)が創設し、児 童の自発活動を重んじた新教育運動を展開した学校である。 ずっと昔の寺子屋時代の読方学習はいふまでもなく暗記と文字学習であ った。明治五年学制発布頃ではまだ教科書も「実語教」とか「女大学」とか 「庭訓往来」とかいふやうなもので、学習法も矢張寺子屋式であった。明治 十九年、二十年に文部省著作の読書入門、尋常小学読本が発行せられた、そ の時分でも矢張読方学習は寺子屋式に近いもので、素読と講義と別々の学習 であった。明治三十六年になって国定尋常小学読本が民間諸読本の長所をと って編纂せられたが、その着眼も甚だ漠然としたものであって、従来ものを 改竄補綴に過ぎないといってよい。明治十九年、二十年時代の読本がすでに ドイツ読本の模倣であった。この模倣に加ふるに補綴を以てしたであるから、 ただ総合的といふだけで、何等の特色を見出すことが出来なかった。その時 代からずっと明治四十年頃まで大体に於いて読方学習は事物注入教授の時代 であったといふことが出来る。48ぺ ─(中略)─ 読方教材を通して西洋の事物を理解せしめ、その文化を一日も早く吸収 するやうに務めたのである。であるから、この当時においては読方学習は文 字学習ではなくして、知識習得の学習であった。西洋文化理解の学習であっ た。事物主義の読方がその当時に於いては大いに必要であったのである。か かる理由のもとにこの事物主義の風潮は強い根を読方学習の世界に張ったの である。49ぺ ─(中略─) 明治四十年頃からその事物主義の反動として今度は形式方面の学習に留 意されるやうになってきた。(読方学習の対象となる方面は常に符号(形式 )と、意味(内容)の二方面であるから、形式の次に内容、内容の次に形式 と、この二方面が時代の要求に応じて交錯流動していくのである)これには 故佐々木吉三郎氏の「国語教授法集成」の如き著が影響を与えていると思う。 この形式重視の声は今までだんだん深入りして小学校における文法修辞法重 視の時代を形成した。尋常三四年の子どもをつかまへて、名詞とか代名詞と か動詞の語尾変化の練習を行わせ、それならまだよいがむづかしい修辞上の 比喩法、反語法、対句法、倒置法、漸層法などいろいろな修辞法を読本の語 句に割り当ててこれを教授するとか、或いはその課が頭括式式であるとか、 尾括式文章であるとか、いろいろむづかしいことを言って子どもを苦しめた のである。事物主義の弊から脱しようとして読方学習が今度は修辞学習に脱 線してしまったのである。 しかしかうした無理な読方学習がいつまでも謳歌されているわけではない。 大正の初め頃であったか、大体その時分から芦田氏や友納氏などによって形 式、内容両主義の合一霊肉合致の読方が主張されだしたのである。51ぺ 【荒木のコメント】 明治年間の教育状況を、奥野庄太郎氏なりの把握の仕方で紹介してくれ ている。あらましの流れがかいつまんで理解できるように書いてくれている。 明治教育の研究者たちも奥野氏と似たようなことを書いている。 荒木が注目したのは後半の文章個所である。明治学制では発足時に教科 目の一つに「文法」があったが、これは「当分欠ク」と但し書きがある。音 楽に「唱歌」もあったが、これも「当分欠ク」と但し書きがある。外国の教 科目を移入して明治学制を構成した急ごしらえのにわか仕立ての無理がこれ らの科目にあり、一科目として成立するにはまだ準備不足であった。 奥野氏は、「明治四十年頃からその事物主義の反動として今度は形式方 面の学習に留意されるやうになってきた」と書き、形式主義と内容主義のこ とを書いている。また明治40年頃に文法教育が行われたと書いてある。 「尋常三四年の子どもをつかまへて、名詞とか代名詞とか動詞の語尾変化の 練習を行わせ」とある。現今の中学生・高校生が学習する内容を小学3,4 年生に指導していたということだ。それだけでなく、「比喩法、反語法、対 句法、倒置法、漸層法、頭括式、尾括式」などの文章修辞学まで小学3,4 年生に教えていた、と書いてある。これは大学文学部で習う内容だろう。奥 野氏は、これを「事物主義の弊から脱しようとして」と書いているが、これ は極端に偏向した事物主義の弊害であって、明治時代のまともな事物教育に ついては、唐沢富太郎『唐沢富太郎著作集1』(ぎょうせい、平成4)に詳 細が書いてある。 |
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