暗誦の教育史素描(その9) 08・05・21記 明治ひとけた年代における暗誦教育 明治の新政府は、従来の幕府と藩を中心とした政治のしくみを変え、天 皇を中心とした中央集権国家の建設をめざした。明治五年には新学制を発布 し、新教育体制、新教科書、新教育内容の教育改革をおし進めた。江戸幕 府公認の学問であった漢籍の学習、つまり江戸時代の初等教育においては 「学問するとは漢籍の素読をすること」という思想が明治政府によって急速 に転換していくことになった。 この転換の必要性を謳い上げたのは、明治政府による学制発布による新 教育制度であり、福澤諭吉の実学思想もそれに加わった。 福澤諭吉の啓蒙思想が与えた影響 はじめに福澤諭吉の実学思想が与えた影響について書くことにする。 福澤諭吉の著作は明治初年の人々の心をとらえ、爆発的な売れ行きを示 したのであった。これについては前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』 (筑摩書房、1989)の中で詳述されている。前田愛は、福澤諭吉が明治初期 の人々に与えた影響について次のように書いている。5箇所からから引用す る。 ーーーー引用開始ーーーー 「明治三年に刊行された『西国立志編』はこれを通読せざれば、その資 格に欠くところあるの観あり、皆争そいて誦読し、異常な売れ行きを示し た。一方、明治五年二月に刊行の『学問のすすめ』の初編は、明治十年十月 間で十八万二千八百九十四部(民間経済録)を売り切ったという。民間人の 自主的な講読とはべつに公的な回路(県庁から区長を通じて各区へなど)を とおしても流布した部数が多かったと考えられる。」 90ぺより 「明治三年十一月に刊行した福澤諭吉『西国立志編』は、常に夜を日に 継ぎて供給すれども、需要者朝夕門に満ちて、催促の声喧活を極め、僅に所 望数の半ばを得るを以って幸いとなすに至る。」 90ぺより 「蘇峰が福澤諭吉の思想から影響を受けたのは、明治九年から十三年まで の同志社遊学時代である。同志社時代、『学問のすすめ』が一冊出るごとに 買って、批圏で真黒にした。坊間売って居る福澤の写真の裏に「君コソハ我 畏友ナリ」と書いていた。蘇峰は明治十三年に同志社を退学し、故郷の熊本 に帰って大江塾を開設するが、この雌伏時代に接したマンチェスター・ス クールの思想は、「畏友」福澤への姿勢を一変せしめる。明治十五年にはじ めて福澤にまみえるが、すでにその官民調和論にきびしい批判をつきつける 人であった。 植木枝盛や徳富蘇峰を代表とするこの世代は、不規則な教育 を受け、ほとんど独学で自己を形成した世代である。維新の激動を潜り抜け た苛烈な体験から伝統的な価値観を否定し去った先達達の豪放さと闊達さを なお失っていなかった世代である。『西国立志編』流の勤勉刻苦を主流とす る内閉的な道徳率に、心底から共鳴を寄せていたかは疑わしい。『学問のす すめ』の受けとめ方も、きわめて主体的であり、立身出世主義の側面だけを 切り離して受け取っていたのではない。」 93ぺより 「 植木枝盛十九歳にて土佐から上京する。三田の慶應義塾で開かれた定期 演説会、明六社の定期討論会に、殆んど毎回出席する。下宿に帰っては、パ ンに砂糖をつけてかじるという簡易生活を送りながら、『かたわ娘』『学問 のすすめ』『文明論の概略』などに読みふける。演説と著作の双方から貪欲 に摂取した福澤の啓蒙思想は、植木枝盛の自由民権思想の一つの核を形作 る。しかし、それは飽くまで一つの核にすぎなかったのであって、彼の学習 の対象が啓蒙思想のみに限定されず、基督教から江戸の戯作文学にまでおよ ぶ多元性を具えていたことは、その『日記』や『閲読書日記』によって明ら かである。しかも、明治九年の筆禍入獄、明治十年の立志社入社と、政治運 動の渦中に身を投じて行くにしたがって、彼は福澤の民権論の微温的な姿勢 に批判の目を向け始める。『学問のすすめ』冒頭の人間平等観は肯定できて も、第六・七編にいう民権獲得の手段としての抵抗と革命を斥ける福澤の態 度には承服し得なかったのである。」 92ぺより 明治六年に常盤小学校へ入学した星野天知は七五調の『世界国尽』と 『日本国尽』を「節面白く暗誦した」といい(『黙歩七十年』)、明治七年 育英小学校に入学した内田魯庵は『世界国尽』を「飴屋の唄と一緒に暗誦し た」(「明治十年前後の小学校」「太陽」昭2・6)といい、明治九年に小学 校へ入った堺利彦は「学校へはいる前、既に福澤諭吉の『世界国尽し』を暗 誦していた」(『自伝』)という。また同じ頃高崎小学校へ入学した松本亦 太郎(心理学者)は「小学校の教科書として私の記憶に残っているものには 福澤諭吉先生の書いたものが割合に多い。(『遊学行路の記』)と書いてい る。 この世代は明治十年代の前半で一線が引かれる。それ以後、昂揚する 自由民権運動に対抗して、政府は初期の開明的、啓蒙的な教育政策を大きく 右旋回させ、儒教的なモラルの復活を図った。明治十三年十二月には「学校 教科書之儀ニ付イテハ……国安ヲ妨害シ風俗ヲ紊乱スルガ如キ書籍」(文部 省布達)の採用を禁止し、福澤の著訳書、『学問のすすめ』『西国立志編』 などは教科書のリストからはずされた。明治十四年に小学校に入学した木下 尚江は『学問のすすめ』の木版本に接しているが、それは教科書としてでは なく、課外の読み物としてであった。 94ぺより ーーーー引用終了ーーーー 以上、前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)か ら福澤諭吉の啓蒙思想が明治初期の人々に大きな影響の文章部分を引用し た。こうして福澤による実学主義の啓蒙思想は、当時の人々に江戸の封建思 想から決別する思想となった。 明治の新学制が与えた影響 次に明治政府の新学制が与えた影響について書こう。江戸幕府公認の学 問は漢籍(朱子学)であって、江戸の初等教育で行われた漢籍の素読学習、 「学問するとは漢籍の素読をすること」ということが急速に衰退していくこ とになる。これの推移について簡単に書こう。 明治五年に発布された学制は、百十九章からなる法規として公布され た。日本全国を8大区に分け、各区一大学校を設け、一大学区は32中学区 に分け、一中学区に210小学区に分けて各々に小学校を設けた。全国に大 学校8校、中学校256校、小学校5万3760校を設けることを計画し、 その費用は民間でまかなうことになっていた。小学校から大学校まで一貫し た集権的学校制度を確立すると立案された。小学校は、下等小学校四年、上 等小学校四年の四・四制を採った。 文部省「小学教則」(明治五年九月九日・文部省布達番外)も定めら れた。学年編成と国語教育関係の一部を抜粋してみよう。(太字は荒木がつ けいる) 第一章 小学ヲ分テ上下二等トス下等ハ六歳ヨリ九歳ニ止リ上等ハ十歳ヨリ 十三歳ニ止リ上下合セテ在学八年トス 第二章 下等小学ノ過程ヲ分チ毎級六カ月ノ習業ト定メ始メ学ニ入ル者ヲ 第八級トシ次第ニ進テ第一級ニイタル ○第八級 六カ月 単語読方(コトバノヨミカタ) 童蒙必読単語篇等ヲ盤上ニ記シ訓読ヲ高唱シ生徒一同之ニ準誦セシメ 而シテ後其意義ヲ授ク但日々前日ノ分ヲ暗誦シ来タラシム 単語暗誦(コトバノソラヨミ) 一人ツヽ直立シ前日ヨリ学ブ処ヲ暗誦セシメ或ハ之ヲ盤上ニ記サシム ○第七級 六カ月 単語読方(コトバノヨミカタ) 地方往来農業往来世界往来商売往来等ヲ前級ノ授ク 単語暗誦 前級ノ如シ ○第五級 六カ月 読本読方 西洋衣食住学問のすすめ啓蒙智慧ノ環等ヲ用テ一句読ツツ之ヲ授テ生 徒一同準誦ス 会話暗誦 学ブ所ヲ一人ツツ処ヲ変ヘテ暗誦シ又ハ未ダ学ハザル所ヲ独見シ来テ 暗誦セシム ○第四級 六カ月 読本輪講 既ニ学ヒシ所ヲ暗誦シ来リ一人ツヽ直立シ所ヲ変ヘテ其意義ヲ講述ス ○第二級 六カ月 読本輪講 道理図解西洋新書ノ書ヲ講述セシム 文部省『教師必読』(明治9年)には次のように書いてある。 暗誦ノ課ハ教師ヲシテ便捷ヲ得セシムル為ニ設ル所ニシテ即チ 生徒ノ能ク其最前ノ本課時ニ於テ授ケラレタル所ヲ覚了スルヤ否ヤヲ試査シ 且ツ未ダ曾テ知ラシメサル所ノモノヲ試ミル為ニ設ル所ナリ 文部省発行『教師必読』(明治9年刊) ●ゴジ活字は生徒の暗誦までを目標とする、または教師の復誦を高唱する指 導方法を指定している個所で、荒木が太字にしています。「単語暗誦」と 「会話暗誦」という科目もあります。まだまだ江戸時代の素読の指導方法が 踏襲されていることが分かります。 新学制は素読暗誦の指導方法が踏襲されていた 前田愛は自著『著作集第二巻・近代読者の成立』の中で次のように書 いている。 「新学制が施行されてからも、父兄の間では漢学尊重の気風が根強く 残っていたから、子弟を小学校へ通学させるかたわら、家庭や塾で漢籍の素 読を習わせることが多かったらしい。「教師の自宅へ通って、課外に漢籍の 稽古をする事が競争的に行われた」(田岡嶺雲『数奇伝』)幸田露伴は朝暗 いうちに起きて、蝋燭の光の下で大声を上げて復読をすませ、それから登校 するのを日課としていた。この厳しい訓練によって露伴は「文句も口癖に覚 えて悉皆暗誦して」仕舞って居るものですから、本は初めの方を二枚か三枚 か開いたのみで、後は少しも眼を書物に注がない」程に熟達したという。 前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)より また、学制発布時には文部省発行、民間人発行、師範学校発行など多種 類の教科書が発行された。教師用指導書も幾つか発行された。著名な教師指 導書の中に、暗誦について次のように書いている。 ○諸葛信澄『小学教師必携』下等小学第八級「読物」の項 五十音図ヲ教フルニハ、教師、先ヅ其教フベキ、文字ヲ指シ示シ、音 声ヲ明カニシテ誦読シ、第一席ノ生徒ヨリ順次ニ誦読セシメ、然ル 後、調子ヲ整ヘ、各ノ生徒ヲシテ、一列同音ニ、数回復サシムヘシ ○諸葛信澄『小学教師必携』下等小学第七級「読物」の項 書物ヲ授クルニハ、文字ニ注意セシムルコト、肝要ナルガ故ニ、熟語 ノ意味、又ハ文中ノ大意ヲ、日常ノ会話ヲ以テ、縷々説キ諭シ、必ズ 暗誦等ヲ為サシムベカラズ ○暗誦教科書『小学諳誦十詞』が明治六年に発行されている。これには物 体、霊魂、学術、労働、経験、治乱、交通、文明、敬神の十項目につ いて小学生に暗誦しやすいように七五調で書かれている。人物では、 ナポレオン、ワシントン、豊臣秀吉が尊敬すべき人物としてあげられ ている。 これ等を読むと、漢籍の素読の指導方法を引きずっていることが分か る。まず教師が文字を示して誦読してみせ、次に生徒が誦読(復誦)し、最 後には暗誦させる、という指導方法であることが分かる。 次は、三重県の田舎の小学校の事例である。明治7年に開校した大矢知 学校(三重県朝明郡)の教育課程を紹介する。読書と習字のみを抜粋引用 し、算術の引用は省略する。 第八級 読書 知恵ノ環初篇等ヲ授ケ之ヲ暗誦セシム 習字 平仮名、片仮名等ヲ習ハシム 第七級 読書 知恵ノ環二篇等ヲ授ケ、及ヒ郡町村名ヲ暗誦セシム 習字 楷書ヲ授ク 第六級 読書 単語篇ヲ暗誦セシメ及ヒ日本国尽知恵ノ輪三篇ヲ等ヲ読マシ ム 習字 前級ノ如シ 第五級 読書 府県名を暗誦セシメ世界商売往来、知恵ノ輪四篇、窮理図解 等ヲ読マシム 習字 前級ノ如ク或ハ単語篇中ノ字ヲ呼ビ随うテ之ヲ書シム 第四級 読書 世界国尽、勧善訓蒙、学問ノススメ等ヲ授ケ回読セシム 習字 行書ヲ授ク 第三級 読書 西洋新書等ヲ読マシメ及ヒ命令ヲ回読セシム 習字 前級ノ如ク字形稍小ナルヲ学バシム 第二級 読書 西洋事情性法略等ヲ授ク 習字 草書或ハ細字ヲ授ク 第一級 読書 既ニ学フ所ノ窮理図解ヲ講述シ及ヒ日用文ヲ作ラシム 梅村佳代「学制期の小学校創設と子どもの学習内容の検討」奈良教育 大学紀要・第55巻第1号(2006)より引用 これらで分かるように明治7年の大矢知学校(三重県朝明郡)の教育課 程には江戸時代の素読暗誦の指導方法が踏襲されて指導されていることが分 かる。第八級・第七級・第六級・第五級の「読書」はすべて「暗誦せしむ」 とある。第四・三級にある「回読」とは「何人かで書物を回して読むこと」 である。当時の一般社会人も、突然に政治体制が変わったからといって急激 に素読暗誦から抜け出すことはできなかったことは容易に想像できる。 これについて前田愛は、前掲書『著作集第二巻・近代読者の成立』の中 で次のように書いている。 「新学制が施行されてからも、父兄の間では漢学尊重の気風が根強く 残っていたから、子弟を小学校へ通学させるかたわら、家庭や塾で漢籍の素 読を習わせることが多かったらしい。「教師の自宅へ通って、課外に漢籍の 稽古をする事が競争的に行われた」(田岡嶺雲『数奇伝』) 幸田露伴は朝暗いうちに起きて、蝋燭の光の下で大声を上げて復読をす ませ、それから登校するのを日課としていた。この厳しい訓練によって露伴 は「文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して」仕舞って居るものですから、本は初 めの方を二枚か三枚か開いたのみで、後は少しも眼を書物に注がない」程に 熟達したという。」 130ぺより 一般民衆に歓迎されなかった明治学制 明治五年の学制発布時には、学制に対する一般庶民の理解(協力)が低 く、これには文部省の苦労も多かったようだ。普及活動にかなり労力を費や さねばならなかったようだ。ある地方においては父母たちがまとまってわが 子を学校へ登校させないという反対運動もあったようだし、学校焼き討ち事 件もあったようだ。農家では、文字を書くことが極めて少なく、中には何か 月も、何年も、筆をとったことがないという人が多く、そうした実情におい ては学校は必要としていなかったのだ。 地租改正による地方税の負担増、教育費の加重、父母が教育の必要を認 めない、教育期間が長期だ、などの理由もあった。学制発布当初の学校教育 は日常生活に役に立たない指導内容が多く、一般民衆にとっては経済的負担 が多く、学校焼き討ちという過激な行動も起こったほどだ。 そこで父母の教育費負担の減額、教則の簡易化、在校時間の短縮、子ど もが家事・家業をを手伝えるようにするなどの意見も出た。 玉城肇は、次のように書いている。 「農民達は就学についてはほとんど熱意を感じていなかったばかりでな く、かえって強い反感をさえ感じていた。その反感は明治六年前後の学校破 壊暴動となって現れている。例えば明治六年六月に鳥取県下に起こった農民 暴動は、竹槍をひっさげた千人、あるいは二千人のものが戸長その他の家々 を破却したり、あるいは一、二件に放火したりしたが、小学校も二、三ヶ所 破却した上に、学校の生徒を打擲し、「小学校御廃止の事」を請願してい る。同じ年に北条県下(美作国)、小倉県、島根県等に同様な暴動が起こっ ているが、明治九年になってもそれは終息せず、同年十二月に三重県で起 こった農民暴動は「至る処区役所、学校等を焼毀」している。これらは地租 改正にともなう農民の困窮に端を発した暴動で、米価の引き下げ貢米の引き 下げ、地券交付についての苦情を請願の中心とするものであったが、小学校 に対しても非常に大きな反感をもっていた。それは学校の設立や運営に農工 商に至るまで多額の寄付(少なきも数百円)をとられることについての反感 ばかりでなく、教育内容の遊離、授業料の負担、就学者の状況などから農民 のとっては無用の長物であった学校に対する反感が二重にも三重にも加わっ たのである。 玉城肇『現代日本教育史』(刀江書院、昭和24)より 片山潜は自伝の中で次のようの書いている。 【片山潜十四歳】 山之上の漢学校への通学はホンの一時であった。間も なく小学校なるものが設立された。誕生寺の一建物を利用して成立小学校と いう名の下に設けられ数か村の子弟を収容して教育した。予は年齢からいう ともはや小学校の生徒となるべき者ではない。また家でも農事を手伝わせね ばならないから何時までも学校へは遣れないというし、予も学問はサッパリ おもしろくない却って苦しみであるから別に望みもしなかった。しかるに巡 回指導(今の視学官)がわざわざ予の家に来て羽出木から一人も生徒がない というては政府向きが悪いから、ぜひ出してくれと頼まれた。それゆえ予は 小学校の生徒となった。十四、五の少年が小学校の一年生となって糸、犬、 猫と単語を習うたものである。予等の級は一級で十四、五から十七、八の青 年がいた。しかし習う事柄も教育の方法もまったく新規であったから皆一時 は熱心に勉強した。内藤、長井という先生が教えていた。内藤先生は一青年 であったが非常に算術が上手であった。(中略) 昔の百姓は実に呑気なものであった。ほとんど知識を要しない。習慣こ れすべてを支配したものである。これが実に法律であり憲法であった。しこ うして当時の百姓は人文上からみれば狭隘なる天地に蟄息していたものであ るが、ただこの狭い社会でも彼等はその思想は単純であり、欲望は僅少であ ったからさらに狭隘を感ぜずまた窮屈をも感ぜなかった。日々彼等の思想を 煩わすものは、すなわち彼等の談話は政事でもなく経済でもはた社会問題で もない。作物の出来、不出来、仕事の進行、日々の気候、寒暑、天気の予想 もしくは近所隣りに風聞くらいのもので、他郷のことに至りても非常の出来 事の起こるにあらざれば知れない。いわんや広き社会の事実においておやで ある。 片山潜はこう書いている。「巡回指導(今の視学官)がわざわざ予の家 に来て羽出木部落から一人も生徒がないというては政府向きが悪いから、ぜ ひ出してくれと頼まれた。それゆえ予は小学校の生徒となった。十四、五の 少年が小学校の一年生となって糸、犬などを習った」と。片山潜の村の人々 は、新政府と提携し、素直に協力していたことが分かる。 また、学校の学問などは百姓の日常生活とは関係ない、百姓の日常生活 には役に立たない、学校の知識は要しない、という考え方だったことが分か る。この考え方は昭和20年代中頃まであり、荒木の中学校卒業時、「百姓 には学問はいらない」という考え方が一般社会にあり、高校へ進学する同級 生は学級一割か二割でしかいなかった。成績優秀でも高校へ進学しない同級 生がたくさんいた。 文部省の学事巡視官らが与えた影響 明治五年に学制発布、小学教則の施行と相次いで発せられた中央文教政 策は地方諸県において小学校建設が行われ、新教育体制がすすめられていっ た。 しかし、文部省の意図が地方諸県の一般民衆に周知徹底するにはなかな か容易ではなかった。中央政府の学制取調掛は、地方諸県へ教育新体制の啓 蒙活動に一つとして次のような「説諭・十二則」の通達を出した県もあっ た。(下記には第六則まで記述、第六則〜十二則までは省略してる) 説諭第一則 人皆小学ノ教育ヲ受クヘキ事 説諭第二則 人員ニ因テ其区ヲ分チ小学ヲ設立スルノ趣旨 説諭第三則 小学教科書斟酌ノ事 説諭第四則 小学ノ課業ニ多ク漢文ノ書籍ヲ用フヘカラサル事 説諭第五則 小学設立ノ措置ニ大異同アル事 説諭第六則 小学教科ヲ以テ洋学ト称スヘカラサル事 ここで注目したいことは「説諭第四則 小学ノ課業ニ多ク漢文ノ書籍ヲ 用フヘカラサル事」とあることだ。学制発布当時は江戸時代の漢籍の教科書 や素読方法がまだまだ指導方法として存在していたことだ。説諭第四則に 「禁止」とは書いてないが、「多く用いるな」と警告を発していることに注 目したい。 文部省は新学制の教育体制の進捗状況はどうであるか、各地方でうま く受け入れられているか、巡視官を日本各地に派遣し現状報告をさせてい る。その報告書が『文部省雑誌』に掲載されて残っている。報告書の中で文 部省巡視官は地方教育における暗誦教育の弊害についても報告している。 これについて望月久貴は、自著『明治初期国語教育研究』の中で次のよ うに書いている。この報告書は明治八年三月の報告である。 ーーーー引用開始ーーーーー 「文部省巡視官が「諳文部教則には「単語諳誦・会話諳誦」の教科があ り、師範教則には上等小学の各級に毎週2時間の「諳記」があったにもかか わらず、文部省巡視官が「諳誦ノ幣」を指摘している。 たとえば「文部省雑誌」第五号(明治八年三月十日発行)には独乙小学 校教授ノ景況及び論説が掲載されており、暗誦に関する次のような文章があ る。 「第三 教授方法ノ種類」に 其方法ニ又種々アリ仮令ハ教師生徒ノ目前ニ於テ一綴ノ文章一句ノ語言 或ハ談話詩歌等ヲ反復復誦シ生徒ヲシテ之ヲ諳誦セシムルモノアリ之ヲ諳誦 ノ教授法ト云フ(中略)就中諳誦ノ教授法ハ其最モ易キモノニシテ昔時ハ何 レハ学校ニ於テモ通例此法ヲ採用シテ一千六百年ヨリ八百年ノ頃マデハ之ヲ 一ノ良法ト思ヘリ 此教授法ハ全ク機械ヲ使用スルト同一ナルヲ以テ之ヲ機械ノ教授法ト云 ヒ之ニ反スルモノヲ理解ノ教授法ト云フ是生徒ヲシテ専ラ理解セシムルヲ要 スルモノナリ蓋昔時ノ学校ニ於テハ此諳誦法ヲ専用シテ教師ハ生徒ノ諳誦セ ルヲ聴キ其誤ヲ正スヲ以テ務トシ素読、算術、習字、唱歌等ニ至ルマテ亦コ ノ機械ノ教授法ヲ用イタリ然レモ当時名声アル学者中ニ於テ己ニ此法ヲ不可 トナスモノアリシガ他ノ固陋ナル者ハ其当時流行セルヲ以テ猶此法ヲ固守セ リラチチウス(理学者一千六百三十五年ニ死ス)云ク諳誦ノ法ハ人ノ性ヲ束 縛シテ強テ理会セシムルト云ベシ故ニ諳誦ヲ以テ学バントスルモノハ其諳誦 ノ言語ニ固着スルカ故ニ却テ理会スルニ疎ク遂ニ物理ヲ推窮熟考スルノ念ヲ 失スルニ至ルト其他後世ノ教育家此ノ教授法ヲ不可トナルモノ亦多シ」 望月久貴『明治初期国語教育研究』(渓水社、2007)472ぺより ーーーー引用終了ーーーー 同様な事柄について、松野修が自著『近代日本の公民教育』の中で次の ように書いている。はじめに西村茂樹が出てくるが、彼は文部省の巡視官で ある。 ーーーー引用開始ーーーー 「西村茂樹は六十日間にわたって約二百校の学校を視察したのち「巡視 報告」と、将来の課題を述べた「巡視功程付録」を提出している。「学制」 布達後の教育事情に関する中央官僚の代表的な意見とみなされるこの文書 で、次のように述べている。「諸県共ニ其教育スル所ハ知ヲ第一トシテ徳之 ニ次ギ、……教員ノ能ク教授ニ勉強スル者……生徒ノ能力ノ疲労ハ之ヲ顧ミ ズ……頻ニ生徒ニ暗記暗算ヲ教ヘ込ンデ」(『文部省第四年報』明治9)い る。熱心な教師ほど生徒に暗誦を強いており、この点を改善すべきだという 意見である。同じ時期、文部一等書記官・水野遒も、「今ノ如ク読方課業中 ニ過多ノ地誌歴史ヲ参入シ、専ラ暗記ノミヲ勉メシムレバ、知ラズ知ラズ生 徒ノ記憶ヲ偏重ナラシメテ、其理解力ヲ消耗スルニ至ルベキヲ以テラリ」 (『文部省第五年報』明治10)とし、教科書の章句を諳んじさせる教授方 法を批判している。 (中略) この時期の暗誦への批判は、西村が先の報告書で「小学教則中、迂遠 ニシテ実用ニ切ナラザル者アリ」と指摘したように、日常生活から乖離した 内容を暗誦させることに向かっていたのであって、その内容が西洋流の知識 化どうかについては問題とされてない。日常生活から乖離という点では漢学 の同じである。神田孝平は上等小学以上の過程での漢学について「強チニ漢 学ヲ害アリトスルニハ非ザレドモ其学ブ所、次第ニ賤民前途生業ノ目的ト相 径庭シ、或遂ニ基本分タル生業を屑トセザル風ヲ長ゼント計リ難シ」と、抽 象的な漢学学習の弊害を指摘している。」 松野修『近代日本の公民教育』(名古屋大学出版会、1997)100ぺより ーーーー引用終了ーーーー さらにまた、松野修の論文から引用しよう。松野は大学院生だった若き 日に次のように書いている。 ーーーー引用開始ーーーー 「西村「巡視功程」『第四年報』1876や、水野「巡視功程」『第五年 報』1877でかれらが批判していた「読本」や「地理」の授業の実態はどうい うものでだったのか。堺県の「教員授業ノ景況」はそのありさまを詳しく伝 えている。 [教師がまず]其問ハント欲スル所ヲ唱ヘ、地理初歩中半島ノ事ヲ問ハント 欲セバ、一方ハ大陸ニ続キ一方ハ海中ニ突出セル地ヲ何ト名クルカ。又半島 ハ如何ナル形ヲナセルヤ。或ハ地球ノ表面ニ画ケル縦線ヲ何と云ヒ、横線ヲ 何ト云フノ類。又某ノ国ハ何道ニ属セルカ。某国ハ幾郡・人口幾許、某山名 ・某山脈ハ何国ニ起リ何国ニアルノ類ナリ。鞭ヲ挙グ、児童鞭声ニ応ジテ右 手ヲ挙グ、此時挙グル所ノ鞭ヲ下セバ児童ハ鞭ト共ニ手ヲ下ス。然ル後、教 師一人ヲ指シ其事由ヲ如何ト問フ。 典型的な一問一答の一斉授業が紹介されている。(中略) この時期の暗誦主義への批判は、西村茂樹が報告の中で「小学教則中、 迂遠ニシテ実用ニ切ナラザル者アリ」としていたように、日常生活にまった く役だたないことばかり覚え込ませている点にむかっていたのであって、そ の内容は西洋についての知識だから、という理由からではない。役に立たな いという点では漢学も同じである。「巡視功程」の中に、上等小学校以上の 段階で漢学を学ぶのは悪いことではないが、「其学ブ所、次第ニ賤民前途生 業ノ目的ト相径庭シ、或遂ニ基本分タル生業を屑トセザル風ヲ長ゼント計リ 難」くなるから宜しくない「次第ニ賤民前途生業ノ目的ト相径庭シ、或遂ニ 基本分タル生業を屑トセザル風ヲ長ゼント計リ難シ」(「巡視功程」『第五 年報』1877)という意見が出てくるゆえんである。(中略) 試験のために暴走しがちな暗記の偏重を防ぐため、新潟県では教則で 「徒ラニ章句ノ諳誦ヲ責メ、生徒ヲシテ無用ノ能力ヲ費サシムル勿レ」とわ ざわざ指示せねばならなかった。」 松野修「明治初年における暗誦主義の変容」『名古屋大学教育学 部紀要・第32巻・1985』74ぺより引用 ーーーー引用終了ーーーー 以上の二論文の引用個所ををまとめると、文部省巡視官の指導は「暗誦 はよろしくない」ということであり、その主な理由は下記にようになるだろ う。 ○小学ノ課業ニ多ク漢文ノ書籍ヲ用フヘカラサル事。 ○就中諳誦ノ教授法ハ其最モ易キ方法ナリ。 ○暗誦ハ全ク機械ヲ使用スルト同一ナル機械ノ教授法ト云フ。理解ノ教授法 タルベシ。 ○地誌歴史ハ生徒ノ能力ノ疲労ヲ顧ミズ、頻ニ生徒ニ暗記暗算ヲ教ヘ込ミ、 過多ニ専ラ暗記ノミヲ勉メシメ、知ラズ知ラズ生徒ノ記憶ヲ偏重ナラシ メ、其理解力ヲ消耗スルニ至ルベキヲ以テナリ。 ○小学教則中「暗誦ハ迂遠ニシテ実用ニ切ナラザル者」である。「実用と掛 け離れた抽象的な問答教授法」と「暗誦」とは「児童ノ前途生業ノ目的ト 相径庭スル」ものである。 ( とはいっても、一方には専ら日用実利、本分たる生業・職業に直接に 役立つ知識を学習させることならば暗誦・暗記は必要だ、という考え方も あった、ということだ。) 結び 最後に、荒木の「暗誦」についての簡単なコメントを書くことにする。 明治ひとけた年代の暗誦教育は、一言で言えば江戸時代の漢籍の素読方 法を踏襲していた、ということだ。明治五年の学制では、「単語暗誦」 「会話暗誦」という科目があり、暗誦ずばりの科目名が二つもある。これは 江戸時代の漢籍の素読という初等教育の指導方法を踏襲している、というこ とだろう。 「単語読方(コトバノヨミカタ)」という科目もある。これの指導方法 は、教師が「単語篇等ヲ盤上ニ記シ訓読ヲ高唱シ、生徒一同之ニ準誦セシ メ、日々前日ノ分ヲ暗誦シ来タラシム」とある。つまり、江戸時代の漢籍の 素読方法「師匠の訓読→児童の復誦・準誦→児童の暗誦」という指導順序と 全く変わらない方法である。ただしテキストが漢籍でなく、単語集という違 いはある。 また、大矢知学校(三重県朝明郡)の場合も、第八級から第四級まで の「読書」は最終の到達目標は「暗誦」となっている。第三級からの「回 読」にしても、できれば暗誦という含みがあるとみてよいだろう。 一方、明治の新学制が各地方においてどう進捗しているか、進み具合は どうか、を調査している文部省の調査官は、一般民衆の日常生活に役立たな い、非実利の知識を教え、機械的の暗記暗誦させるだけ、「専ラ暗記ノミヲ 勉メシムレバ、知ラズ知ラズ生徒ノ記憶ヲ偏重ナラシメテ、其理解力ヲ消耗 スルニ至ルベキヲ以テラリ」と報告している。暗記偏重を改めるべきだと、 新学制の指導方法の改善を指摘している。 つまり、明治五年の新学制は、江戸時代の漢籍の素読の流れを引きずっ ており、一般民衆からも文部省巡視官からも歓迎されてなかったのである。 指導方法としての暗誦批判があったのである。 玉城肇『近代日本教育史』の中に次のような授業風景が書いてある。 ーーーー引用開始ーーーー 明治七年八月に改正した、師範学校編集の小学読本巻一の内容を見る と、「……爰に二枚の図あり。皆人の、働く状を画けり。○初の図は、田に 下りて、秧を植るところなり。○この人は、肘も脛も、露はせり。これ働く に、便なるがゆえなり。 次の図は稲を刈るて我家に、持ち帰る所なり。○又稲を採きて、米を取 る所を見るべし。○此人々の、衣は、汗に濡ひて乾くときなし。……」とい う調子であって、その挿絵(田植えと稲こきの図)には、ちょん髷の男が苗 を植え、稲をこいでいるところが描かれている。 これでは、どうにも生活に密着した内容ということはできない。百姓の 子ども達は、田植えをする時に何のために肘や脛を捲り上げるかを知りつく しているし、働けば、着物が汗に濡れて乾くことのないことも、知りすぎる ぐらい知っている。それをあえて、もっともらしく教えたのであるから、生 徒にとっては苦痛というより他はなかったであろう。しかもそも文字は非常 に難しい漢字を使用している。これが一年生の後期、すなわち六歳の子に教 えられた教科書の一部である。当時の人々は「四書五経を暗誦することより 学問を始めた人が大部分であったから、仮名まじり文などは如何に漢字が多 くても何とも思ってはいなかったらしい。 とはいえ、それは四書五経の教育を受け得たような一部の子供たちに とってだけのことであって、一般の農民や、商家の子弟にとっては無縁のも のだったであろう。しかも、その教授法は、教師がまず句読ずつを唱え、生 徒は一斉に暗誦するのであって、字を読むというよりむしろ暗誦をしたもの だそうだ。それでは教科書がどんなに新式になり、内容が改善されても、寺 子屋式の教育と殆んど変わりなかったはずである。 (玉城肇『近代日本教育史』昭和26、刀江書院、27ぺ) 明治八年頃か、文部省が新しい教育内容を速やかに普及させるために教 科書を出版し、それにならって新しい教科書が続々と出版されたけれども、 小学校における教育の内容は、相変わらず読書、習字、算術(いわゆる読 み、書き、そろばん)の三つの基本教科に限られている有様であった。しな わち、寺子屋時代の教科課程をぬけ切らなかったのである。ただ読書や習字 に新しい教科書が使用され、算術にはそろばんの外に洋算が加えられた程度 の変化に過ぎなかった。教授方法も上記した暗誦を主とする寺子屋方式で あった。 (玉城肇『近代日本教育史』昭和26、刀江書院、31ぺ) 最後に、本稿を書くにあたり、松野修さん、前田愛さん、梅村佳代さん、 望月久貴さん、玉城肇さんの諸論稿がたいへんに役立ったことを記しておく。 このページトップへ戻る |
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