暗誦の教育史素描(その11)    08・05・21記




 
明治20、30年代における暗誦教育



                   
        
教育勅語の暗記・暗誦の指導


  教育勅語は、明治23年10月30日に発布された。翌年、小学校祝日
大祭日儀式規程が制定され、御真影(天皇・皇后の肖像画写真)や勅語の暗
誦教育とともに教育勅語は学校教育を国家主義・軍国主義へと導いていく国
家的装置として働いていくようになる。

  本稿では、明治30年代、40年代における教育勅語の暗誦教育にしぼ
って書くことにする。本論題については鈴木理恵氏の下記の論文がたいへん
に詳しい。多くの資料を駆使し、簡明にまとめられている貴重な論文であ
る。わたしが以下に書く内容は鈴木理恵氏の下記の論文からの抜粋引用が殆
んどであることをはじめにお断りしておく。鈴木理恵氏の論旨をねじまげて
しまわないように荒木の下手な要約は排除するようにし、そのままの抜粋引
用だけにして、荒木の主観が入らないように最大の配慮をしたつもりである。

鈴木理恵氏の執筆論文

(1)「教育勅語暗記暗誦の経緯」(長崎大学教育学部紀要No56.1999)

(2)「大正・昭和期の小学校と教育勅語」(長崎大学教育学部教育科学
     研究報告」No55.1999)


  本稿では、(1)の論文からのみ抜粋引用しています。教育勅語の暗誦
教育の詳細を知りたい方は上記の二つの論文をお読みいただきたい。
  次の見出し項目(章)は、すべて(1)論文から抜粋引用している文章
です。
      教育勅語発布勅語──明治20年代
      勅語の旨趣貫徹の問題──明治30年代
      暗記暗誦の普及──明治40年代
      暗記暗誦をめぐる論争──明治末期

 以下、引用を開始します。
ーーーーー引用開始ーーーーー


      
教育勅語発布直後───明治20年代


  中村紀久二氏は「教育勅語の暗誦・暗書は1900年前後において、神
奈川・福岡のほか、新潟市、長野県、茨城県でも行われることとなり、明治
40年代初頭にはそれが全国的規模に拡大されるに至った」(『法学セミ
ナー増刊』1980)と、また山中恒氏は「煥発から十年後にして、教育勅語は
早くも九九なみに教室へ持ち込まれ、子ども達がやみくもに暗記させられて
いた」(『続・現代史資料9』月報、みすず書房)と指摘している。両氏は
学校における教育勅語の暗記は明治33年ごろ始まったとしているが、実際
はそれ以前から行われていた。

  明治24年6月「小学校祝日大祭日儀式規程」によって「御真影」への
拝礼と教育勅語「奉読」が学校儀式の重要な柱となった。同年11月の「小
学校教則大綱」で修身は教育勅語の旨趣に基づくことが規定され、同年12
月の「小学校修身教科用図書検定基準」で「小学校教則大綱」に適合した修
身教科書を編纂すべく規定された。これによって、教育勅語の旨趣に即した
徳目主義の修身教科書が普及した。

  明治23年9月26日、芳川文相が閣議に提出した「徳政ニ関スル勅諭
ノ議」に「教科書ノ巻頭ニ弁スルニ勅諭ヲ以テシ、臣民ノ子弟ヲシテ日課ヲ
始ムルゴトニ之ヲ拝誦セシメ、自然聖意ノ在ル所ヲ脳裏ニ感銘シ、以テ徳教
ニ風化セシメントス」と記されているのは注目される。その趣意を児童の
「脳裏ニ感銘」せしめることが期待されている。ただし、教育勅語の暗記暗
誦については明記されていない。

  当時は教育勅語の普及は教育者の力に待つところが大きいと考えられた
ようで、教育者に対して勅語を読むことや趣旨実践が奨励された。……東京
府尋常師範学校教頭矢島錦蔵は蜂須加知事筆の教育勅語を「写真に縮写して
各人常に懐にし以って朝夕奉読することこそよけれ」という勧誘状を府下の
小学校長に宛てて出したという。

  実態はどうであったか。
  正宗白鳥は明治22年居小学校高等科に入学している。「教育勅語は、
私など小学生として暗誦させられた。今なおすらすらと吟唱し得るぐらいで
ある。私は記憶がいいというので、教師から教えられた勅語の解説を教壇に
立って口真似させられたこともあった。」というのは、小学校高等科での経
験であろう。
  山川均は明治20年に尋常小学校に入学し、4年生の天長節から校長に
よる教育勅語の奉読を聞き始め、「意味は分からぬままに、とにかくチンオ
モウニからギョメイギョジまで、いつのまにか暗記してしまった」という。
  生方敏郎は「明治24年ごろ、畏き辺りから全国の小学校に御真影を教
育勅語と共に下賜された。そして三大節の祝日の式を開く初めに、校長は恭
しく勅語を朗読するのが例になった。……私たちはいつしか教育勅語を暗記
し、どこでも暗誦できるようになった。おぼろげながらその意味も分かっ
た」と書いている。
  和辻哲郎(明治22年生まれ)は「わたしの村の尋常小学校は、「君が
代」をさへ歌わない学校だったのであるから、御真影などもなかった。しか
し、教育勅語の奉読は聞いた覚えがある。勅語の文句もおにずから耳慣れた
ものになっていたと思う。無論、その文句を暗記させられたりなどはなかっ
た」と書いている。
  正宗を除く山川・生方・和辻の三氏に共通するものは、校長による勅語
奉読を聞いているうちに「耳慣れたもの」になり、「いつのまにかあんきし
てしまった」のであって、教育勅語の暗記を学校側から奨められた、あるい
は強制されたわけではなかたという点である。

  しかし、学校によっては早くから児童に勅語の暗記をさせていたところ
もあったようだ。石川県江沼郡沼部小学校など。
  
  明治27年の「熊本県庁に於いて召集せる、高等小学校長会議の知事の
諮問に対する答申」によれば、次のようにある。「教授上に於ける方法は
一、二年生に勅語の読方及び大意の解釈をなさしめ、三年生は稍々精に入り
四年生に至りては章句を分かちて、愈々精しく、且此間古人の言行出来事等
を例証して、会得せしむるを務むと雖も、彼の勅語を暗誦せしめ又は印刷物
として生徒各自に渡すが如きは自今大に取締りを加うべし」とある。生徒に
暗誦させることを「自今大に取締」まるようにとあるから、当時の熊本県に
も生徒に教育勅語を暗誦させていた高等小学校があったのかもしれない。


     
勅語の旨趣貫徹の問題───明治30年代


  明治27年発行『教育時論』338号「勅語の旨趣を貫徹せしむる方法如
何」と題した文章の中で、教育勅語の旨趣貫徹がなされてない状況を批判す
る記事が出ている。
  明治30年発行『教育時論』429号「教育勅語の聖旨の貫徹如何」と題
した記事において、教育者の貫徹のための覚悟を促している。
  明治31年発行『教育公報』210号「教育に関する勅語の主旨の実際に
行わるる状況」において、学校で教育勅語の主旨徹底がなされていない原因
として、修身科の教授が未熟な准教員や無資格の雇教員によって行われてい
ることと規定の教科書によって説明的方法がとられていること、祝祭日等で
の訓戒が学力年齢の異なる児童を一室に集めておこなわれているため適当な
感情を喚起できないこと、をあげている。そのようななか成績を上げるため
に種々の方法をとっている学校の例を列挙しているが、その最初に「修身時
間の始めに高等科一年生以上をして各自の教室において起立低頭謹んで一斉
に勅語を棒読せしむ」というものがあげられてある。

  明治31年5月発行『教育公報』211号は神奈川県において議定した
「勅語の御趣旨を最も明確に尋常小学校在学児童に会得せしむる順序方法」
をあげている。それによれば、1,2年生では勅語の語句を挙げずとも一々
実践を促していくこと、3年生では勅語中の語句を挙げながら実践を促し語
句と徳行とをむすびつけていくこと、4年生では「勅語の印刷物十葉を学校
に備え付け時に之を各生徒に貸付し最も敬意を表して之を奉読せしめ遂に暗
誦し得るに至らしめ以って他日社会に出てたる後遵奉すべき道徳上標準に備
へしむ。」とある。尋常小学校4年生で教育勅語を暗誦させて将来に備えさ
せようとしている。

  明治31年5月発行『教育実験界』1−5「教育勅語につきて」と題する
論文において静岡県の高等小学校教員・渡辺金作は、高等小学校4年生の書
き取りの練習に勅語の謄写を課した。その成績が不良だった。そこで渡辺は
1週2時間の修身の時間に勅語を読んだ。その方法は、生徒が着席して静粛
になるのを待ち、修身書を机上に正しく置かせ、一同起立ののち修身書をと
らせて巻首の勅語に注目させ、敬礼をさせ、生徒に頭を垂れさせた状態で教
師による「奉読」を聞かせるという儀式ばったものであった。ときに優等生
に読ませることもあった。2,3か月で効果が現れ、全校生徒中教育勅語を
読めない者はほとんどいない状態になったという。渡辺は勅語を読めない状
況を問題視して、読めるようにすることに目的を置いていたのである。

  明治32年に長野県北安曇郡校長会において「教育ニ関スル勅語ノ精神
ヲ貫徹セシムル方法中勅語講読ニ関スル規定」が定められた。それによる
と、尋常4年生から講読を始め、4年生のうちに勅語の暗誦と筆記を終える
こと、高等4年生のうちに暗書を終えることを規定している。さらに同県松
本小学校において、明治33年4月第一週の尋常4年生修身科において、教
科書巻首の勅語を「拝読」してその解釈をあたえることとした。「勅語拝読
ニ関スル作法」について「敬虔ノ心ヲ持シ顔色ヲ整」え「直立シテ踵ヲ接シ
両手ヲ垂レ指間ヲ密接シ掌ヲヤヤ前方ニムケ小指ヲ股ニ付」して「私語外見
等ハ勿論痒キモカカズ痛キモ抑ヘサルノ覚悟」すべきことを求めている。

  明治33年2月第14議会において衆議院議員鈴木重遠・安倍井磐根等
が教育に関する建議案を提出した。諸氏は「全国ノ諸学校ニ於テ奉読スル
モ、国民全般ニ及バズ」として「之ヲ国民一般ニ奉セシムルノ方法ヲ訓示セ
ラレンコトヲ望ム」と政府に要望した。

  明治34年の茨城県における第二回連合教育会で審議されてまとめられ
た「教育に関する勅語の主旨を一層普及せしむる方法」によると「学校にお
いて注意すべき要項」15項目の中には、三大節のほか、入学・卒業式、修
身教授、講堂訓話の時に勅語を「奉読」して児童に謹聴させること、修業年
限間に一回以上は特別に勅語を教授すべきこと、各教科目用書・通信簿・児
童心得等の巻首に勅語を付記すること、勅語の額面・掛図を備え置くこと、
児童入学時に勅語写書を与えて携帯させるか学校に備え付けたものを貸し、
卒業に際しては勅語写書を与えて、「聖旨」を遵奉させるように務めるこ
と、「勅語教授の際は児童に其の文辞語句を暗記暗誦せしめ特に勅語と云う
義及勅語下賜の年月日に注意せしむること」、「児童に勅語を記誦せしむる
時は如何なる場合に於いても必ず其の容儀作法を正しくせしめ横臥歩行の際
に於いても猥に戯誦するか如きことかならしむること」などがあがってい
る。児童の視聴覚に訴えるとともに、児童自身に勅語を暗誦させて普及させ
ることが目指されている。

  明治39年11月発行『教育時論』777号「勅語奉読式」では、「驚く
べきは同学校(慈恵医院医学専門学校……引用者注)は専門学校なれば、入
学者は中学校或いは同等の学校を卒業せしものなるに、教育勅語の奉読すら
充分に為し能はざるもの少からずとのことなり」と書かれ、専門学校生が勅
語を読めないことが問題視されている。


      
暗記暗誦の普及───明治40年代


  当時の牧野伸顕文相は、明治40年5月に開かれた師範学校校長会に対
する諮問の第一項として「小学校児童をして卒業後永く教育勅語の旨趣を奉
戴実践せしむべき適当の方法如何」をあげた。答申では「在学中に聖旨を充
分に会得せしめ且聖旨に基きたる良習慣を訓練」する必要があるとの認識に
基づき、そのための具体的方策として第一に「小学校在学中に児童をして聖
勅の諳誦に熟達せしむる様教育すること」、第二に「聖勅の大体及各徳目に
つき其の趣旨を発揮するに足るべき適当の歌詞歌曲を文部省に於いて選定し
之を普く各小学校に於いて教授せしむること」、第三に「小学校の最後の一
学年に用ひしむべき修身書は特に聖勅の衍義を以って之を充て且其の装丁を
堅牢優雅にして卒業後も永く之を保存し生涯遵守すべき経典となさしむるこ
と」、第四に「修身教授及一切の訓戒、訓話等は成るべく聖勅の語句に帰着
せしむること」があげられている。この答申は、9月に普通学務局長から各
地方庁にあてて通牒が出されて、実施が求められた。明治41年4月に尋常
小学校の修業年限延長によって六年制義務教育が施行されて以来、明治末に
かけて、就学率が98%に、通学率も8割をこえるようになった。このよう
な時期であったからこそ、本通牒は子供たちへの教育勅語暗誦の普及に大き
な役割を果したと考えられる。

  明治42年11月『教育持論』885号「詔勅棒読所感」には、沢柳前文
部次官のことばとして「今日まで此の勅語の御主旨が如何に奉戴せられ、如
何に実践躬行せられたかといふ事を考えて観れば、尚ほ大に奮励努力しなけ
ればならぬと、痛切に感ずるものである。……又或人は朝夕この物語を奉読
せしめようとし、又或県では小学校の生徒をして、悉くこれを暗誦暗書せし
めようとしてをる、苟くも師範学校の卒業生として、完全に教育勅語を奉写
することが出来ぬといふことは遺憾のことである」とあるが、形式的な暗誦
については「それを以って足れリとすることは出来ぬ」としている。

  明治43年5月「師範学校教授要目」、明治44年7月「高等女学校及
実科高等女学校教授要目」および「中学校教授要目」で、教育勅語について
「勅語ノ全文ニ就キテ丁寧慎重ニ述義シ、且之ヲ暗誦暗書セシムヘシ」と定
められ、師範学校や中学校・高等女学校における教育勅語の暗誦暗記が義務
づけられた。また、明治43年3月発行の第二期国定修身教科書では、教育
勅語を児童に浸透させるための改訂がなされた。すなわち、第一期の修身教
科書では尋常小学修身書第四学年・高等小学修身書第二学年・同第四学年の
巻末に教育勅語の全文(傍訓なし)をのせていたが、第二期においては尋常
小学修身書巻四の巻首に勅語の傍訓付き全文を載せ、巻五と巻六のそれぞれ
の巻首には傍訓を省いた勅語を載せた。また、第一期修身教科書では勅語の
意味説明がなかったが、第二期では尋常小学修身書巻六の最後の三課が勅語
の大意にあてられた。

  上記のような暗記暗誦普及の諸施策を学校現場に徹底させるのに一役
かったのが視学制度であった。明治44年8月発行『内外教育評論』5−8
誌上の一教員の報告によれば、一学期に一、二回の視学巡視があって、視学
の多くが教育勅語の暗記暗誦の考査をしてその成績で学級を判定するので
「浅薄無定見なる教育者は、畢生の努力と忍耐とを以って生徒に強制するこ
とを当然に有之、生徒も亦汗を流して之に従ふ。能はずんば放課後の練習と
なり、遂に怒声と変じ、嘲罵と化す」といった状況になったという。同誌上
で三浦修吾も「諳誦させよと、上よりの命令があると、思想のない下々の教
員は、何事をさしおいても先ず諳誦させることに務め、郡視学などの前で、
児童が立派に諳誦することが出来れば、それで我が事成れリと思うやうにな
るものである」と述べている。……昭和5年に発行された『修身訓練の諸問
題』(大正12年初版)のなかで佐々木秀一(東京高等師範学校教授兼主
事)は「嘗て勅語の暗誦が同時に御主旨の徹底であると解する人が多くあっ
て、例えば、県或いは郡の当局の人々も学校視察の折にはその所管部内の学
童に勅語の暗誦解釈等を試みその結果によってこの御主旨の徹底して居るか
否かを定めようとした人もあったとかで、随分喧しい議論が交換せられたこ
とがあった」と過去を振り返っている。「諳誦諳記の如何によりて学校の全
般をトせんとする」視学や校長がいたために、教師たちが児童に教育勅語を
暗記暗誦させようと躍起になっていた当時の様子が窺える。


      
暗記暗誦をめぐる論争───明治末期


  小学校・中学校・高等女学校・師範学校において教育勅語の暗誦や暗写
が課せられるようになると、暗記否定論が登場すると同時に、暗記是認論者
でも問題の在所は児童生徒が物語を暗記してないことではなく、暗記のさせ
かたに移っていった。
  明治44年6月から8月にかけて『内外教育評論』誌上で教育勅語の暗
記暗誦が論争された。論争の仕掛け人は同誌主筆の木山熊次郎であった。木
山は「吾輩が近時頗る寒心に堪えない事は、頻りに教育勅語及戊辰詔書の諳
誦暗写が勧められ、既に発表せられた師範学校や高等女学校の教授要目に
は、之を明記せられてある事である。当局者の熱心には感服するが……此の
如きは、真に聖旨を体得せしむる所以でないと思うのである。」と問題を提
起した。「十年ぐらい昔から小学校で八釜敷教育勅語を教え暗記さした学校
もあり、又他方には然らずして、教師が教育勅語の御精神を鼓吹したが、八
釜敷暗記暗誦を強いない学校もある」といった状況が、「近頃の如くに教育
勅語の暗記暗誦が訓示せられると、一般教育界は、又も無意味なる暗記暗写
をやる事なきや」と暗記暗写一辺倒になるのではないかとの危惧を抱いた。
 『内外教育評論』5−6の論説は「教育勅語及戊辰詔書の取扱法如何」と
テーマを掲げ、在大学院某文学士、文部省視学官の小西重直と小泉又一、
慶応義塾大学教授稲垣末松らの意見を掲載した。暗記暗誦に反対の立場をと
る某文学士は、反復練習は教育勅語のありがたみを薄れさせ、ついには何と
も感じさせなくしてしまうとして、「機械的の読み方を生徒に強いて勅語の
御精神を吹き込む」とやり方を批判している。小西重直は、無意味に暗記暗
誦しただけでは効果はなく、義理を弁えたうえでの暗記暗誦でなければなら
ない。
「勅語の御言葉に実際の行為を結びつけるにしても、真に暗記暗誦が出来て
居なければ駄目」と述べた。小泉又一は、教育勅語及び戊辰詔書を暗記暗誦
させることについての世間の非難「暗記暗誦は機械的であって教育的効果が
薄弱である。恰も僧侶が経文を誦するが如く無意味なものである」あるいは
「余り暗記暗誦をせしむることは、至尊に近づき奉るやうで其れが為に却て
尊敬の念を薄くする虞あり」に対して、それぞれ「暗記暗誦と云う事は主で
はなくして、御精神を銘記しし、大御心に答え奉るのにあるのであるから、
暗記暗誦は其の方便として課したのである。然しながら唯々御精神を了解し
たのみで暗記暗誦が出来ないと云う事は宜しくない。真に御精神を了解した
ならば暗記暗誦が出来る筈である……又暗記暗誦すると云う事に依って、其
味が益々深くなり感じも強くなる」「御精神を伝える為には勅語に親しませ
ねばならない。敬遠しては駄目である」と述べている。また、「教育勅語の
教授に就いては教育社会では従来色々の苦心をして居るが、其の苦心をして
居る割に効果の伴わないのは、徒に無意味の暗記暗誦をさせたり、乃至は余
りに分析的に取り扱うやうな方法のみに依ったからであろう」と従来の教授
方法を批判している。稲垣末松は「暗記暗誦の必要大であり」と題して「暗
記暗誦せしめないで、是が実行を期せようとするなどは、恰も種を蒔かんで
実を得るやうと同じである」「教育勅語と戊辰詔書は日本国民の生命であ
る。して見ればそれ夫れに就て傍ら即ち第二の副業として、読書習字をやら
するも必要な事である」と述べた。
  小西・小泉・稲垣はいずれも、機械的な暗記暗誦ではなく、勅語の精神
を理解して実行に結びつけるための暗記暗誦を主張している。これに対し木
山は勅語精神理解のために暗記暗誦が必要とされる理由が分からないと繰り
返し述べて、むしろ「余り無意味な暗記暗写をやらすと、学生生徒は之に慣
れて、成程暗記もすれば暗写もするが、極冷淡に無関係の態度をとりて之を
やる様になると思う」と自らの体験を下に反論した。

  『内外教育評論』5−7で木山は「教育勅語の強制的暗記教授は非」と題し
た社説を掲げている。小学校1,2年生には勅語の理解ができているはずが
なく「小学生には教育勅語に御示しになって居る諸道徳の観念が未だ無い」
したがって、小泉らが示した解釈はかえって暗記暗誦の否認の理由になると
している。また、暗記暗誦にどれほどの教育的効果があるのか疑わしい。教
育勅語の暗記暗誦と道徳的成長との因果関係は明らかでないとしている。教
育勅語はその主旨を体得すればいいのであって、「何でも彼でも教育勅語の
みいひ、無理矢理に之を諳誦諳記などなせると、勅語に対する尊厳の念が自
然に起こらぬ」と述べた。木山は勅語の趣旨を生徒に体得させるための具体
的方法として「修身教授の際にでも、生徒が実際に感奮する様な教材を以っ
て、聖旨の示し給ふ所の道徳的情操を養して置けばよい。……荘厳の式場で
今迄多くの学校でやって居る様に奉読すれば、実は自然に暗記が出来、又常
に有難く感ずるものである。」と述べ、修身教授や祝祭日等の儀式における
「奉読」で十分であるとの考えを示した。

  『内外教育評論』5−8の論説は「教育勅語の強制的諳記教授の是非」
と題して、三浦修吾と一教員の文章を載せた。……一教員の務めている学
校の属する郡では暗記暗誦が強制されていた。しかし、尋常2年生を受け
持っている一教員は、「彼等に之を諳誦せしむるの勇気は、どう考えへても
出で申さず候」と告白し、尋常1・2年生に暗記暗誦させることに反対の意
見を述べている。また、教育勅語の問題点を視学制度との関係で具体的に指
摘している。県視学が6年高等生に対して教育勅語の内容を尋ねた際、
「田舎の素朴な純朴なる生徒」は、視学の「いかめしい顔つき」に「異常な恐
怖心」を抱いているのに、その人から勅語に関して詰問され追及されて、
「全身緊張して言語も明白なる能はず、大なる圧迫と恐怖とを以って之に対
し居」ったという。このような苦しい経験の結果、子ども達が教育勅語にど
のような感情を抱くことになるだろうかと問題を投げかけている。

  また、学校現場からは勅語「奉読」に関して次のような批判があがっ
た。大正9年10月発行『教育時論』1278号岐阜県安八郡森小学校訓導三輪
善吉「毎朝の教育勅語奉読について」によれば、……毎朝の教育勅語の奉読
について「非常によい様だが私には甚だ以って感心できない」とし、批判を
展開している。「毎日奉読すると有難味が少なくなる」という批判が一方に
あったが、三輪の批判点は別のところにあった。学校側は「毎日奉読さへす
れば其趣旨が徹底出来ると思って」小学校1年生から「奉読」させようとし
たが、当の子ども達は教育勅語の読み方も意味も理解できないのでついつい
「奉読」中も横を向いてしまう。それに対して「勅語を奉読しているのに横
向いているのは何事だ」と叱責が飛んでくる。毎朝繰り返すことは教育勅語
の「奉読」を形式的にしやすいこと、教育勅語の意味や読みのわからない低
学年生にとって勅語を毎朝「奉読」したり勅語の頭を下げることは、勅語を
「何か知らん有難いもの」として偶像崇拝しか受け取られなくなり、なぜそ
れが有難いものか考えなくなってしまう。このような偶像崇拝を排すべき
だ、というのが三輪の主張だった。

  昭和5年出版『修身訓練の諸問題』で佐々木秀一は「教育勅語の御精神
徹底の方法如何の問題に関連して、その暗誦の問題が、一時喧しかったこと
は、未だ読者の記憶に消えないところであらう」と述べていることから、こ
のころには暗記暗誦をめぐる議論は終息していたことが窺える。
  昭和9年出版『勅語の聖訓と道徳教育』で、亘理章三郎は「昔の教育法
が機械的記誦に偏していたのに反動して、近来の教育法は機械的記誦を忌避
するの傾が多いが、私は或る場合は或る程度に置いては、却って之が合理的
な教授法であると思ふ」と述べている。明治40年代に勅語の暗記暗誦を肯
定していた人々でさえ機械的な暗記暗誦については否定していたのとは隔た
りが見られる。昭和9年の頃には、機械的暗記暗誦の肯定論が出るほど勅語
の暗記暗誦が当たり前のことになっていたといえるかもしれない。
ーーーーー引用終了ーーーーーー

以上、鈴木理恵氏執筆論文「教育勅語暗記暗誦の経緯」(長崎大学教育学部
紀要、56、1999)からの長文の引用を終了します。鈴木先生に感謝し、お
礼を申し上げます。


              
結び


 最後に、結びとして荒木のコメントを書きます。

 教育勅語の解説については下記のURLをクリックして下さい。

           http://kan-chan.stbbs.net/docs/chokugo.html

    http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyouikutyokugo.htm

               http://www.stop-ner.jp/chokugo.html


教育勅語は学校行事・儀式とのあわせ指導で国家主義教育の効果的な
 役割を果した●


 ☆山住正巳は、教育勅語が学校教育でどのように取り扱われたかについ
て次のように書いている☆

 
 1891年、小学校祝日大祭日儀式規程が公布され、これによって、紀
元節・天長節などの祝祭日に教師・生徒一同が式場で行う儀式の内容が定め
られた。その内容は、御真影(天皇・皇后の写真)への拝礼、万歳奉祝、勅
語捧読、校長訓示、祝祭日唱歌合唱などである。これは独特な神秘的・宗教
的雰囲気をもった儀式であり、このなかで子どもたちは国体の尊厳を感じ、
忠君愛国の精神を身につけていったのである。規程では、当日、生徒に茶菓
を与えてもよいとされており、多くの学校では式終了後、紅白の和菓子を持
ち帰らせた。祝祭日の印象を強める巧みな手段であった。
  2年後の93年には、この祝祭日にべき唱歌八曲(「君が代」を含む)
が官報に告示された。この頃から儀式をはじめ学校教育のさまざまな、場面
で教育勅語とともに重視されるようになったのが、「日の丸」と「君が代」
である。    山住正巳『日本教育小史』(岩波新書、1987)より引用


 ☆鈴村一成『下町少年倶楽部』(エスジーエヌ、2001)の中に天長節と全
校式典と教育勅語奉読の様子が次のようにリアルに書かれています☆

  入学して間もなく「天長節」の日がやって来た。四月二十九日である。
厳粛な式典が始まる。
 ”今日の佳き日は大君の 生まれ給いし佳き日なり……”と在校生全員で
天長節の歌を唄う。ピアノを弾くのは、袴を胸高につけた根元「女先生」で
ある。
  校長先生が白い手袋をつけ、モーニング姿で壇上に登る。続いて新川教
頭先生。
「最敬礼!」
の声で私たちは教えられたとおり、手のひらが膝に届くまでの深い深いお辞
儀をする。
 ”ギイッ”と奉安殿の扉が開く音がする。上目遣いで眺めると、するする
と薄い白幕が左右に分かれている。天皇、皇后の御真影が姿を現す。
「なおれ!」
 の声で頭を上げると、教頭先生が黒い四角いお盆に入った巻紙を、校長先
生の前にうやうやしく差し出す。校長先生は最敬礼をしてから巻紙を受け取
り、
「朕おもうに皇祖皇宗……」
と教育勅語を奉読し始める。その間私たち児童は、先生を含めて全員が頭を
下げて拝聴しなければならない。奉読が進んでしばらく経つと、決まってあ
っちこっちで鼻汁をすすりあげる音が聞こえ始める。上目遣いに見る校長先
生のの視線は、まだ巻紙の中ほどだ。まだまだ続くのだと思うと、余計に鼻
をすすりあげたくなる。
  物音一つしない式場は、教育勅語奉読の間、鼻をすすりあげる音と、わ
ざとらしい咳の音だけが支配する。
「御名御璽」という呪文のような言葉を聞くと、
「ああ、やっと終わった」
という思いで、みんないっせいに吐息をつきながら頭を上げることができる
のだった。そのあとは、校長先生のお話。話の途中 ”畏れ多くも”という
言葉を聞くとみんな姿勢を正した。その後は必ず”天皇陛下におかせられま
しては”と続くからだった。
  式典の唯一の楽しみは、終わると小学校の徽章を象った紅白の落雁が配
られたことだった。家ではこの落雁を神棚に供えてから、家中で一かけらず
つ味わうのだった。

 ☆山中恒『少国民はどうつくられたか』の中で教育勅語の奉読儀式の体験
を次のように書いている☆

  儀式のある日、私たちはいわゆる一張羅で登校した。普段は袖口など手
拭代わりに鼻汁をこすったりして、ぺかぺかに光ったものを着ていたが、み
んな一張羅のよそ行きを着て、きゅうくつそうに運動場でたむろしながら、
手持ちぶたさな時間をすごす。いつもなら犬の仔のように取っ組み合って地
べたを転げ回って遊ぶ連中なのだが、この日ばかりはみんな神妙にしてい
る。
  やがて「気をつけ」ラッパが鳴る。一回それぞれの場所で、式場である
講堂の入り口に注目し、「不動の姿勢」をとる。この不動の姿勢というのは
『歩兵操典』につぎのように書かれてある。

  両かかとを一線上に揃えて之をつけ、両足は約60度に開きて等
  しく外に向け、両膝は凝らずにして之を伸ばし、上体は正しく腰の
  上に落ち着け、背を伸ばし且少しく前に傾け、両肩をやや後に引き
  一様に之を下げ、右手を以って確実に銃を握り、左腕は自然に垂れ、
  掌を股に接し、指は軽く伸ばして之を並べ、中指をおおむねズボン
  の縫い目に当て、首及頭を真直ぐに保ち、口を閉じ、両眼は正しく
 
 之を開き前の方を直視す。

で、この「気をつけ」ラッパは、奉安殿から、天皇・皇后の写真及び勅語謄
本が式場である講堂へうつされるという合図である。校内が水を打ったよう
にしぃーんとしずまりかえると、ラッパ手の傍にいる当番職員が「最敬礼
!」と号令をかける。最敬礼は天皇および皇族、王公族のみに対して行う敬
礼で、次のように規程されている。

  最敬礼は先ず姿勢を正し、正面に注目し、上体をおもむろに前に傾

  けると共に手は自然に下げ、指先が膝頭の辺に達するのを約45
  度にとどめ、およそ一息の後に、おもむろにもとの姿勢に復する。
  殊更に首を屈したり、腰を折ったりしないようにする。

最敬礼がすんで、講堂の入り口に注目していると、校旗を掲げた先導職員が
渡り廊下から講堂へ向かう。ややあって校長が御真影を俸持して講堂へ入
る。つづいて大きな盆に勅語謄本を入れたうるし塗りの長方形の箱を載せ、
更に紫色の袱紗(ふくさ)を掛けたものを俸持した教頭が従う。次に1メー
トル半ほどの間隔を置いて三人ほどの職員が護衛する形で続く。この一行が
しずしずと講堂へ入り終わったところで、「直れ!」の号令がかかる。それ
でも、まだ「気をつけ」の姿勢をくづすことは許されない。ややあって、
「解散」のラッパが鳴り、私たちはほっとする。最初の「気をつけ」ラッパ
が鳴り、「解散」ラッパが鳴るまでの間は、たかが4分ぐらいなものだが、
その間の緊張感は大変なものであった。それこそ極めて<神がかり>で、不
気味な静寂が学校全体を支配した。しかし私は必ずしも、その雰囲気はくら
いではなかった。むしろ、崇高で厳粛な行事に参加しているという充実感さ
せあったような気がする。そして、その間、私は真に天皇の赤子(臣民9で
あると思うことができたように思う。いま考えると、なんとも奇妙なことで
あるが、天皇・国体信仰の呪術は完璧に私をとらえていたと思う。
  さて、<解散>ラッパを合図に私たちは三三五五、控え室である教室へ
入る。そこへ、これまた黒の礼服を着た担任の教師が現れ、式に臨む際の注
意を与える。四大節や卒業式の前日には授業をつぶして、本番さながらの予
行練習が行われた。その予行練習での注意が、もう一度繰り返される。たと
えば「君が代」「勅語奉答歌」「式歌」をうたう前に咳払いをしてはなら
ぬ、御真影の覆いを取るとき、背伸びして上目遣いに見てはならぬ、勅語奉
読を拝聴する際に鼻汁をずるずるすすってはならぬ、式の最中にきょろきょ
ろしたり、あくびをしてはならぬなどがしつっこく厳しく申し渡され、いよ
いよ式場である講堂へ入る。
  ややあって来賓席へ在郷軍人会分会長や、町長、地元有力者、保護者会
会長などのお偉いさんが着席して、いよいよ式が始められるのだが、校長の
緊張感は大変なもので、私たちにもびりびり伝わってくるほどであった。
山中恒『少国民はどうつくられたか』(筑摩書房、1986)136〜138ぺより

≪いよいよ式は始まったわけだが、長い引用になるので本式の入り口で以下
は割愛せざるを得ない。以後、このような儀式が延々と続くわけだ。山住正
巳氏の文章にあったように、この後、御真影への拝礼、万歳奉祝、万歳奉
祝、勅語捧読、校長訓示、祝祭日唱歌合唱などとつづく。下記の山川均の文
章でもその様子が描写されている。山川均も多分「御真影の覆いを取ると
き、背伸びして上目遣いに見てはならぬ」と注意を受けていたことだろう。
しかし山川坊やはそうしなかった。式の一部始終を私は知ってるんだぞう、
というやんちゃ坊主な性格と自慢話を聞かせているような、荒木にはそんな
風に山川氏の文章から読みとれる。≫

下記の山川均、荒畑寒村の自伝の中にある教育勅語の文章部分の関連
 資料があるので紹介しよう●

  
 ☆教育勅語は明治23年10月30日に発布された。その年は、山川均は
十一歳であった。彼は自伝の中で次のように書いている☆

 
【山川均十一歳】 尋常科四年の天長節だったかと思う。教育勅語が下さ
れたというので、特別の式がおこなわれ、お菓子の包みをもらって帰った。
このときから、講堂には、はじめて神ダナみたいなものができて、「ゴセイ
エイ」(御聖影)というものが祭られた。祭日だとか進級式などには、神ダ
ナの紫の幕がしぼられて、おズシのトビラが半分ひらかれたが、中は見えな
かった。そして校長先生がおごそかに、妙なフシをつけて勅語を「ホウド
ク」するようになった。言葉は分からぬままに、ともかく「チンオモウニ」
から「ギョメイギョジ」まで、いつのまにか暗記してしまった。このあい
だ、小学校時代の老先生に、教育勅語が出て教育の方針がよほど違いました
かとたずねてみたが、教育勅語ではたいして変化しなかったが、三年後に教
育勅語の作者の井上毅が第二次伊藤内閣の文部大臣になって、教育の方針が
がらりと変わったということだった。    
              『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 

(荒木注。井上毅は教育勅語の原案を元田永孚と共に書き下ろした人。明治
26年に文相に就任し、実業教育の国庫補助で工業教育の充実、高等中学校を
高等学校に、大学入学者の為に予科を設けた。同盟休校への厳重取り締ま
り。校長・教員心得内示。管理体制強化を指示。女子就学促進のための裁縫
科設置の奨励。市町村の財政が許せば小学校の授業料を徴収しない。就学促
進のための小学校二部授業。貧困児童に夜学、日曜学校を奨励。小学校修身
教科書の国費による編纂、体育重視など。)

 ☆荒畑寒村は、明治30年、彼が高等科一年のときの校長・三留善之先生
は、「三大節の儀式に声をふるわせて教育勅語を奉読した」と次のような文
脈の中で書いている。三大節とは、紀元節、天長節、明治節のことだ。「三
大儀式に声をふるわせて」と書いてあるところに荒木は注目した。なぜか。
 下記の文章を読むと、荒木には「声をふるわせた」理由が何とはなしに理
解できる。皆さんもそうでしょう。☆

 
【荒畑寒村十歳】 明治三十年の春、姉と一緒に小学校の尋常科を卒業し
た私は、市立吉田小学校に転じて高等科一年に入学した。校長の三留善之先
生は、おそろしく顔の長い胴から下の短い人で、三大節の儀式に声をふるわ
せて教育勅語を奉読する時の外、めったに生徒と接したことのないのも、学
級ごとに教室が独立しているのも、月謝のほかに金をとらないのも、入学の
際に煎餅の袋など持っていかないのも、男女生徒の教室が分離しているの
も、すべて私には新しい経験であった。
       荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より


 ☆山中恒『ボクラ小国民』(辺境社、1974)の中に書いてある次の文章を
読むと、山川、荒畑の両氏が書いてある文章内容がより膨らみをもって明
晰、判然と理解できるようになってくることでしょう。次に引用します☆

  教育勅語が発布された後、よく修身の時間に、火災で御真影を焼失して
しまった校長が割腹自殺を遂げたという話を聞かせられた。そこでは御真影
というものは、ただ単に天皇の写真の複写といったものではなく、天皇その
ものに擬せられたのである。(中略)
  太平洋戦争期になると、御真影、勅語謄本に対する扱いは神経質にな
り、生徒児童に優先して、奉護されることになる。(中略)確かに教師たち
にとっては、御真影だの勅語だのというものは、頭痛の種であった。学校は
子どもの教育のための施設というよりは、御真影、勅語謄本奉護のための施
設といったほうが良い施設であった。そこでもしものことがあれば、校長は
その一命を投げ出さねばならないのである。こうなれば児童生徒に優先され
ることも当然だろうし、執拗な最敬礼を強いる教師が出てくるのも当然で
あった。(中略)
  とにかく式典にはかならず「教育勅語」が奉読され、その間にぼくら生
徒は、礼法にのっとり、頭を下げて拝聴しなければならなかった。式場のあ
ちこちからおこる、ズルズルという鼻水をすする音を伴奏に、校長はいわゆ
る<勅語節>とよばれる一種独特な調子で読みあげる。(中略)いつはてる
ともなくズルズルという鼻水をすする音が続き、最後の<御名御璽>が終
わって、もう一度敬礼した後、元の姿勢に戻ると、いっせいに鼻水をすすり
あげる音が、まさにシンフォニーのごとく式場である講堂を圧したのを思い
出す。特に紀元節(2月11日)のころは寒いし、かぜひきも多いので、それ
がことさら激しかった。
  そういえば、ぼくらの子供の頃には、かなり高学年になってからも二本
ばなをたらしているのが多かった。薄着と栄養不足のせいだったかもしれな
い。みんな服の袖口で、はなをひっこするので、袖口はナメクジのあるいた
あとみたいに、ピカピカ光っていた。
  或る儀式の時、たまたま校長が不在で、教頭が教育勅語の奉読をやっ
た。普段気さくで、話がうまく、ぼくら生徒の間で人気のあった教頭は、緊
張のために、顔まで別人の如くで、まるで中風になったみたいにかたかたふ
るえ、声も甲高く上ずっていた。式の後で、ぼくらは校長の勅語奉読と比較
して、読み方の速度がどうの、ふるえて泣いているみたいだったなどと感想
を述べ合い、「カンロクノチガイ」という言葉を使って批評しあった。しか
し、ピンチヒッターとしての当人にしてみれば、最高に神経を消耗するもの
であったろう。うっかり読み違いや、読み飛ばしなどしたら、始末書とか減
俸とかいったペナルテーがあったのではないかとさえ思われる。
       山中恒『ボクラ小国民』(辺境社、1974)68〜76ぺより

☆上記に「火災で御真影を焼失してしまった校長が割腹自殺を遂げた」とあ
る。こうした話は外にもあった。森川輝紀は、次のように書いている☆

  1896年(明治29)6月、三陸津波に襲われた校舎から「御真影」
を奉護しようとして、岩手県上閉伊郡箱崎尋常小学校教員の栃内泰吉が殉職
している。教員の生命をかけても奉護すべき神聖性を御真影はもつことにな
るのであった。以後敗戦までに御真影や教育勅語の奉護のために殉職した教
員は、30人に達している。
 辻本正史・沖田行司編『教育社会史』(山川出版社、2002)287ぺより


暗誦は「教育勅語」だけでなく、「宣戦の大詔」も暗誦強制させられ
 ていた●

 
  山中恒著『御民ワレ』(1975、辺境社)によると、暗誦の強制は「教育
勅語」だけでなく「宣戦の大詔」もだったと書いてある。「宣戦の大詔」は
「敵米英ニ撃チ勝ツ」ための練成という具体的な目標を持っていた。次のよ
うに書いてある。

  「この「宣戦の大詔」は毎月「大詔奉戴日」に読まれるほかに、「教育
勅語」とペアでしばしば奉読式が行われることになる。そのうちに上級学校
(中学)や少年航空兵などの陸海軍志願兵を受験するものは、「教育勅語」
同様に、暗誦しろといわれ、校長は上級生にしばしばその謹解とやらを講義
することになる。
  しかし、この「宣戦の大詔」は「教育勅語」にくらべて文章も長く、字
数にして約二倍半もある上、語句が難解であったから、これを暗記するのは
かなり苦痛な学習を必要とした。」
            山中恒『御民ワレ』(1975、辺境社)368ぺより


  以上、山中恒『ボクラ小国民』、『御民ワレ』の両著書に書かれている
ことは本稿タイトルの「明治20、30年代」のこととは限らず、昭和20年の敗
戦(大日本帝国の軍国主義教育の終焉)までの長い期間を含む。特に国民学
校(昭和16〜敗戦)の皇国民育成教育において顕著に実施されていること
は言うまでもない。

 ☆これも国民学校時代のことであるが「軍人勅諭」も初等科四年生以上は
全員暗誦できるとして暗誦指導が行われた。戸田金一『昭和戦争期の国民学
校』には、「宣戦の詔書」「青少年学徒ニ賜リタル勅語」には、天皇の学徒
に対する期待が述べられており、天皇の命令や期待の言葉を暗誦すること
は、臣民としての忠誠の自覚を促すもの。天皇への忠誠の証し」と考えられ
ていた、と書いてある。そして、次のようにも書いてある。

 
「中でも軍人勅諭(1882年1月4日)の五箇条は、初等科四年生以上の全員
が暗誦可能と考えられたように、よく知られ、覚えやすいものであった。
    一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし
    一、軍人は礼儀を正しくすべし
    一、軍人は武勇を尚ぶべし   (「一」は「ひとつ」と読む)
    一、軍人は信義をを重んずべし
    一、軍人は質素を旨とすべし   
これは軍人勅諭という軍人の心得である。」
戸田金一『昭和戦争期の国民学校』(吉川弘文館、平成5)132ぺより


宣戦の大詔URL http://www.tanken.com/kaisen.html

明治20・30年代、他教科においても暗誦目的の指導が行われていた●

  次は、玉城肇『近代日本教育史』からの引用である。
 

  明治26年に学習院初等科に入学した武者小路実篤は「学校の勉強は興
味がなく、いやいややった」(「教育」昭和24年12月号)と書いている。ま
た明治5年に入学した山川菊枝は「あの時代に学校は形式主義で詰め込み主
義で、実に面白くないものでした」(「教育」昭和25年1月号)と書いてい
る。
  それはなぜであったか。歴史や地理などがいわゆる「暗記物」で、「天
皇や、時の大臣」などの名を覚えたり、その業績を覚えることに集中されて
いた。図画は写生はなどは聞いたこともなく、お手本を習うばかり、作文は
候文と記事文とで候文の方は「出産祝いに物を送る文」、「下女の斡旋を頼
む文」などと子供の生活とは縁のない題で書かされるのでは、どうにも興味
をもちようがなかったのである。
  すこし遅れた明治30年代の初めにことであるが、当時の小学校の子ども
達は「修身の時間を敬遠した。好きだという子はいなかった。教場の入り口
にかかっている時間割で修身という字を見るとつまらなくなる。兄弟仲よく
教えられてきても家に帰るとすぐにだめになるし、家では母からなにかとい
えばすぐに「修身を教わっていて」と叱られる」明治31年に小学校に入学し
た宮本一枝の「思い出」)と記されているように、修身もまた、というより
は修身こそは最も小学生にとっては無縁のものだったのである。つまり重要
な科目が、生徒の生活とは無関係のものであり、それを形式的の詰め込まれ
ていた。それにもかかわらず、形式的な教育を強行しなければならなかった
というのは、国家主義的、尊王的な教育をほどこす必要にせまられていたか
らにほかならなかった。  
      玉城肇『近代日本教育史』(刀江書院、昭和26)より


明治30年代、「唱歌」が暗記暗誦の教授上の装置として利用されて
 いた●


  三東功『唱歌と国語』(講談社選書メチエ、2008)を読むと、明治三十
年代、唱歌が純粋に音楽教育を目的にしたものでなく、暗記暗誦させる教授
上の「装置」として利用されていたと書いてある。「曲の力で、歌詞を暗記
させる旋律奴隷の唱歌」(小出晃平)として、修身唱歌、軍歌、鉄道唱歌、
人物唱歌などがあったという。これについての詳細は本書をお読み下さい。
下記に一部を紹介しましょう。
  例えば修身唱歌の一つ「東京府民・公徳唱歌」(明治35年刊行)の歌
詞は、二十五番まであり、曲調はハ長調四分の二拍子の曲となっている。盛
り込むべき内容が多い分、おのずと歌詞が長くなっている。一番と二十四番
の歌詞のみを下記に書いてみよう。

   上には万世一系の、天皇をいただきて、
   御膝のもとに居住する 我東京府民等は、
   忠と孝との行いを、しばしのひまも忘るなよ   (一)

   男子は海陸軍隊に、身を捧ぐべき務めあり、
   女子は子孫を教育し、世に立たすべき務めあり、
   我等ちひさき国民も、心は世のため君のため   (二四)

  今日でもよく耳にすることの多い「汽笛一声新橋を」という鉄道唱歌が
ある。この唱歌の正式名は「地理教育・鉄道唱歌」であり、明治33年の一
年間で、第一集東海道から第五集の関西、参宮、南海各線に至るまで刊行さ
れていて、歌詞は全部で334番まであるという。
  下記に、三東功が鉄道唱歌について書いている文章の一部分を引用して
みよう。

  334番まである鉄道唱歌の長さの原因は、各地の風物や歴史、名産品
などを詠み込むという一点にあり、そのことに文学的意味を持たせるなどと
いうのは少々強引である。冒頭は確かに大変に有名である。

        汽笛一声新橋を
        はや我汽車は離れたり
        愛宕の山に入りのこる
        月を旅路の友として

   しかし新橋では気合が入っていた歌詞も大阪あたりでは次のような調
子である。

        おくり迎ふる程もなく
        茨木吹田うちすぎて
        はや大阪につきにけり
        梅田は我をむかへたり

  これでは車掌の停車駅案内のようであるが、地理教育を銘打った唱歌で
ある以上、こうした部分は致し方なかったのかもしれない。それを「詩」と
呼ぶかどうかは別問題だからである。これは、往来物などを通じてそれまで
行われていた地名暗記教育のひとつである。
     三東功『唱歌と国語』(講談社選書メチエ、2008)128ぺより



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