暗誦の教育史素描(その10)     08・05・21記




   
明治10年代における暗誦教育




       
承前(前ページ)のまとめ


  「明治ひとけた年代における暗誦教育」の最後は、暗誦主義への批判で
終っていた。西村茂樹が報告の中で「小学教則中、迂遠ニシテ実用ニ切ナラ
ザル者アリ」それを機械的に暗誦させるだけの教育指導であった、と書いて
いた。日常生活に役に立たない知識を子ども達に暗誦させるだけの教育と批
判していた。
  暗誦批判は、西洋についての知識内容だから、という理由からではな
かった。毎日の日常生活、将来の職業知識として役に立たない、それを無理
強いして子供に暗誦させているという理由からであった。暗誦ということで
は漢籍の素読の暗誦も同じものと考えられていた。明治政府から地方諸県へ
「説諭第四則 小学ノ課業ニ多ク漢文ノ書籍ヲ用フヘカラサル事」という説
諭通達も送付されていた。地方巡視官の西村は「徒ラニ章句ノ諳誦ヲ責メ、
生徒ヲシテ無用ノ能力ヲ費サシムル勿レ」という報告書を提出していた。
   とはいっても、一方には専ら日用実利、本分たる生業・職業に直接に
役に立つ知識は必要だ、それを学習させることならば暗誦・暗記も必要だ」
という考え方もあった。


          
松野修論文から


  次に「明治10年代における暗誦教育」について書くことにする。
  はじめに、これから書く文章は、松野修の二つの論文からの抜粋引用で
あることをお断りしておく。松野氏の下記の二つの論文には明治初期の暗誦
教育についてとてもよくまとめて記述されている貴重な論文で、本テーマに
ついては松野論文につきていると思うので、以下に抜粋引用させていただき
ます。
  以下の文章には、荒木が勝手に松野氏の論文の要旨をまとめて要約して
いる文章個所があちこちにあります。松野さんが書いてないことを付け加え
ている文章個所もあります。松野氏の論旨が外れていないかと恐れていま
す。そうならないように十分な配慮をしたつもりではありますが。
  べたに引用すればよかったのだが、それではあまりの長さになってしま
う。抜粋引用や要約となってしまった。松野さん、大目にご容赦願いたい。

  詳細を知りい方は、下記の二つの論文をお読みいただくことを願う。

1、松野修『近代日本の公民教育』(名古屋大学出版会、1997)

2、松野修「明治初年における暗誦主義の変容」『名古屋大学教育学
      部紀要・第32巻・1985』

  西村茂樹が暗誦を批判したのは、日常生活から乖離した内容をひたすら
暗誦させることであって、その内容が西洋流の知識かどうかは問題にされて
いなかった。日常生活からの乖離の知識の暗誦という点では漢学も同じで
あった。一方、日用実利の知識、卒業後に実利として役立つ知識なら暗誦も
必要だ、という考え方であった。
  明治11年5月、文部省は諸学校に関する規則(小学教則、小学校図書
目録、中学教則略)などを廃止した。これをもって「自由教育令期」に入っ
たとされる。各地方の実情に応じた教則の簡易化を変則的に認める政策をと
るに至った。各地方の変則小学教則である「村落小学」「簡易小学」などに
は日常生活で必要な知識を伝達する教育ができると期待された。
  自由教育令期に入って、暗誦を主とする迂遠にして実用ならざる「問答
科」が「口授科」へと転換した。教師が適宜諸書から抜粋などして有益な話
を聞かせるのが「口授科」の教授方法であった。ここでは必ずしも暗誦が目
的とはされなかった。指導内容は例えば「男子ハ義士仁人ノ事跡ヲ演説シ、
女子ニハ貞婦烈女ノ志操ヲ務メテ佳話美談ヲ」「修身談ハ日用必須ノ言語挙
動ヨリ勧善懲悪ノ雑話ヲ説キ、……伝染病予防法ヲモ説キ、……戸障子ハ静
カニ開閉スベク」その他、海浜の小学校は網、舵、魚、塩、海藻などすべて
漁労航海に関すること、山野の小学校は草、木、鳥、獣、菜、果、穀などす
べて農業牧畜に関することの知識を指導するに主眼が置かれていた。

  明治7年に民選議員設立建白書が政府に提出された。言論によって政府
を批判する自由民権運動が始まった。明治13年には国会期成同盟がつくら
れ、明治政府は運動を厳しく取り締まるようになった。自由教育令から改正
教育令(明治13)が布達されると、それを受けて、「小学校教則綱領」」
(1881・明治14年)が制定された。
  文部省は明治13年には教科書として使用を禁止する書目を発表した。
福澤諭吉、箕作麟祥ら啓蒙的用学者の著作ばかりでなく、文部省自身が刊行
した道徳書もこれに含まれていた。その年の暮れには、国安妨害、風俗紊乱
のおそれある書物をはじめ教育上弊害ある書物は教科書として採用しないよ
うに通達を出している。明治14年になると教員の啓蒙活動を制限する施策
も出され、教員の演説や雑誌編集が禁止された。学校校舎を政治集会だけで
なく文化的活動にも使ってはいけないという指示も出された。

   自由教育令の「口授科」は、「小学校教則綱領」の制定に伴って急速
に衰退していった。しかも興味深いことに、この教則の転換期に「暗誦の過
多」への批判が再び登場した。「小学校教則綱領」が制定されてから暗誦主
義に対する議論が再び再燃してきたのだ。
  文部省は「小学校教則綱領」ではじめて各教科の目的・内容を規定し
た。教育内容への直接的干渉を規定した「改正教育令」を受けて、「小学校
教則綱領」が定められるやいなや、暗誦への批判が中央官僚はもとより、地
方学務当局者からも下されることになった。  
  明治十四年「京都府年報」は、「子弟学科ノ繁ト多量ナリコトニ苦シ
メラル、之ガ思考観察ノ諸力ヲ養フニアラズ。……父兄ニ於テハ学事空疎不
適切ナルヲ憂フルモノアリ」と暗誦の過多によって父兄の学校への信頼を失
いかねないと訴えている。
  宮城県を訪れた文部省書記官・伴正順も、各校の教育内容が「概ネ実用
ニ疎ク、高尚ミ馳スル」傾向を指摘し、しかも地理科、歴史科では生徒がた
だ口先で覚えているだけで、「試ミニ口授ヲ以テ問答セシムレバ、生徒ノ答
フル、唯筆ヲ口ニ換フルノミニテ学科ノ真旨ヲ解スルモノ殆ド稀ナリ」と暗
誦を批判し、同じ趣旨を福岡県を訪れた時も繰り返している。島根県を巡視
した小林小太郎も「其書中ノ文章ヲ暗記スルニ止リ、其意義ニ至リテハ措テ
問ハザルモノノ如シ」と、暗誦が事柄の理解に帰着してない点を繰り返し指
摘している。(中略)

  暗誦への批判だけを捉えるなら、その指摘は六年前の議論(荒木注、前
ページ「明治ひとけた年代における暗誦教育」の中の望月、松野論文参照)
の再現のように見えてくる。ところが今回の暗誦への批判は、暗誦の過多を
排除する方向ではなく、徳育の重視を導出する論拠となっている点で異なっ
ていた。上記の小林小太郎「巡視功程」では、島根県における普通教育の不
振の原因を修身教育の軽視に求め、「畢竟近時ノ教育法タル、知育ヲ先ニシ
徳育ヲ後ニスルノ流弊ニ因ルニ非ザラヤ」と結んでいる。徳育の涵養を重視
する意見は、明治15年『文部省第10年報』に載せられたすべての「巡視
功程」に現れている。(中略)
  明治15年における「知育偏重、徳育涵養」という議論の背景には、前
年の「小学校教則綱領」の制定があった。『文部省日誌』に掲載された教則
を見る限り、明治13年までは各地域で独自に教則が制定されていた。しか
し明治14年を境に一斉に「小学校教則綱領」と同型のものへと転じていっ
ている。暗誦主義への批判がこの教則の転換を正当化し、「改正教育令」を
支持する意図のもとに展開されたことは想像に難くない。
  暗誦への批判の真意が徳育の強化にあったとするならば、その方向に抵
触しない限りでの暗誦は残存する余地があったのである。それどころか、徳
育涵養論に有効な限りで暗誦の積極的な提唱すら並立しうるのであった。事
実、「嘉言善行等ニ至テバ皆一定ノ教科書ヲ講読シテ其事実ヲ記憶セシム」
と暗誦を積極的に奨励する教則は、跡を絶つことがなかったのである。

  西村茂樹は、明治9年に「巡視功程」の結論として「教員ノ能ク教授ニ
勉強スル者ハ頻リニ生徒ニ暗記暗算ヲ教ヘ込ム」と、過重な暗誦を批判して
いた。
  しかし、その彼が明治13年には暗誦の積極的な提唱者へと転身するこ
とになった。この年、西村は文部省教科書編集局に入り、「学制期」に主流
を占めていた欧米系の翻訳道徳書を替えるべく文部省刊行の修身書『小学修
身訓』を編纂していた。西村はその凡例で、この書の内容を熟読暗記させる
よう指示しているのだ。その理由は、子どもに理解困難な語句があってもこ
れを暗記させれば「年長ズルニ随ヒ、漸々其意味ヲ了解スルヲ得。一生之用
フルモ尽スコト能ハザル者アラン」と考えていた。
  西村が「小学修身訓」を編纂するにあたって暗誦を積極的に提唱した理
由は、儒教を中心としつつ欧米道徳も盛り込んだ徳育涵養の教科書を編纂す
ることにあった。その際、小学校で修身の学理を理解させる必要はなく、
「瀋陽謹慎畏敬愛望ノ感覚ヲ誘導」すれば足りる、という意図があったの
だ。(中略)

  こうして明治十三年以降における暗誦への批判は、徳育涵養論を導出す
るための口実でしかなかった。そのため、断片的な知識の詰め込みとしての
暗誦主義を克服する契機とはならなかった。断片的な知識の詰め込みを「暗
誦主義」と名付けるとすれば、これと対をなすものは、合理的認識に裏付け
られない、その場限りの品行のよさを求める「操行主義」である。修身科の
評定基準がこれらの両側面に分解され機械的に合算されることで暗誦主義は
教授方法として固定されていったのだった。
  明治13年の「小学教則綱領」は、明治初期の道徳・修身教育の性格を
大きく変化させた。体系的な社会認識の枠組みを取り払って断片的な教訓や
修身談の集合へと分解再編するものであったのだ。こうして教科書に記載さ
れた「嘉言善行」を暗誦させるものへと変化していった。
  暗誦主義はいったん排除される方向に向かったものの、形式的な徳育主
義がかえって暗誦を復活させる契機となった。無内容な知育に対しては暗誦
は強く批判されながらも、無内容な徳目の暗誦に対してはその弊害が自覚さ
れることはなかったのだった。
   松野修『近代日本の公民教育』(名古屋大学出版会、1997)より

(荒木注、このあと修身科の重視教育へと、教育勅語の暗誦教育・天皇制国
家主義教育へとすすんでいく。次のページ「明治30、40年代の暗誦教育」を
参照のこと)


    
参考資料──『小学教則綱領』抜粋


 
≪明治14年に文部省は「小学校教則綱領」を制定した。明治10年代の
教育施策に大きな影響を与えたのは「小学校教則綱領」であった。「小学校
教則綱領」の公布によって近代的な学科過程として小学校の教科が分化し
た。この教則によって、明治五年の学制にあった「読書、習字、算術」(読
み書きそろばん)の他に、修身、地理、歴史、博物、物理、化学、生理、幾
何、経済、図画、唱歌、体操、裁縫などの教科が加えられた。その教育内容
は一応、近代化した教科過程として編成されていた。これによって教育施策
として修身を最重視するようになった。≫

 『小学教則綱領』明治十四年五月四日  文部省布達第十二号 
≪以下に修身・読書(読方のみ、作文省略)・歴史の項のみ抜粋する。≫
第二条
小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩及唱歌、体操トス
但唱歌ハ教授法等ノ整えフヲ待テ之ヲ設クヘシ
第三条
小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続
ニ地理、歴史、図画、博物、物理ノ初歩ヲ加へ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等を設
クルモノトス
第四条
小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、算術、地理、博物ノ初歩及唱
歌、体操、裁縫ノ続ニ化学、整理、幾何、経済ノ初歩ヲ加へ殊ニ女子ノ為ニ
ハ経済等ニカヘ家事経済ノ大意ヲ加フルモノトス
第十条 修身
初等科ニ於テハ主トシテ簡易ノ格言、事実等ニ就キ中等科及高等科ニ於テハ
主トシテ稍高尚ノ格言、事実等ニ就テ児童ノ徳性ヲ涵養スヘシ又兼テ作法ヲ
授ケンコトヲ要ス
第十一条 読書
初等科ノ読方ハ伊呂波、五十音、次清音、仮名ノ単語、短句等ヨリ始テ仮名
交リ文ノ読本ニ入リ兼テ読本中緊要ノ字句ヲ書取ラシメ詳ニ之ヲ理会セシム
ルコトヲ務ムへシ中等科ニオイテハ近易ノ漢文ノ読本若クハ稍高尚ノ仮名交
リ文ノ読本ヲ授ケ高等科ニオイテハ万分ノ読本若クハ仮名交リ文ノ読本ヲ授
クヘシ凡読本ハ文体雅馴ニシテ学術上ノ益アル記事或ハ生徒ノ心意ヲ愉ハシ
ムヘキ文詞ヲ包有スルモノヲ撰用スヘク之ヲ授クルニ当テハ読法、字義、句
意、章意、句ノ変化等ヲ理会セシムルコトヲ旨トスヘシ
第十五条 歴史
歴史ハ中等科ニ至りリテ之ヲ課シ日本歴史中ニ就テ建国ノ体制、神武天皇ノ
即位、仁徳天皇ノ勤倹、延喜天暦ノ政績、源平ノ盛衰、南北朝ノ両立、徳川
氏ノ治績、王政復古等緊要ノ事実其他古今人物ノ賢否、風俗ノ変更等ノ大要
ヲ授クヘシ凡歴史ヲ授クルニハ務テ生徒ヲシテ沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ
殊ニ尊王愛国ノ士気ヲ養成センコトヲ要ス


              
結び


  明治10年代の暗誦教育を、松野修氏の論考にしたがって簡単にまとめ
てみよう。
  明治11年に入って自由教育令期になった。これによって暗誦を主とす
る非実利の「問答科」から「口授科」へと転換し、日常生活と関連づけた教
育内容が教えられるようになった。
  しかし、明治14年になると「小学校教則綱領」が制定され、「口授
科」は急速に衰退していった。興味深いことに、「暗誦の過多」への批判が
再び登場した。「小学校教則綱領」が制定されてから暗誦主義に対する議論
が再び再燃してきた。
  ところが今回の暗誦批判は、暗誦の過多を排除する方向ではなく、徳育
の重視を導出する論拠となっている点で異なっていた。「小学校教則綱領」
は徳育・修身の重視に特徴があり、徳育涵養論に有効な限りでは暗誦も必要
だ、という暗誦の積極的な提唱が出てきた。事実、「嘉言善行等ニ至テバ皆
一定ノ教科書ヲ講読シテ其事実ヲ記憶セシム」と暗誦を積極的に奨励する教
則は、跡を絶つことがなかった。
  こうして、明治20年代から更なる修身科の重視教育へ、そして教育勅
語の暗誦教育・天皇制国家主義教育へとすすみ、1945年の無条件降伏に
よって終止することになる。

  以上は、中央の教育施策からみた暗誦教育の状況であるが、各地方のす
べてが必ずしもそうした実践状況であったと言えないこと勿論である。
  下記の玉城肇の著書には、授業はただひたすら誦読するだけ、これは読
書だけでなく、すべての教科においても同じで、各教科のテキストを誦読・
読了すれば授業はすべて終り、という指導方法だったと書いている。

  ところが教育方法は、明治十五年になっても、旧態依然たる有様であっ
た。高峰秀夫が諸学校の教授を観察して、明治十五年十二月に文部省におい
て府県学務課長へ演説したところによると、「一例を挙げれば、物理学を教
授するの法、或いは徒に教科書を誦読せしめて、能く文字を読了すれば即ち
物理学を理会したるものと見做し、且其試験の法も、亦物理書を出して之を
通読せしむるに止まるものなきにあらず、是文字を先にし観念を後にするな
り……其他の諸学科に於いても当今の教授法たるや、皆各々特別の知識を与
え心力を練磨養成するの効を奏することなく、数多の学科一の完全ならざる
読書科に異ならず」(高峰秀夫先生伝)という有様であった。このような方
法であったから、「児童は之を誦読すること数年にして尚其意義に通ぜざる
こと此々皆然り、其心意の暢発を妨げ事物を探究するの念を圧殺するもの実
に此の法より甚だしきものなし」(同上書)といわれているように、明治十
五年ごろになっても教育内容が実質的に変化したと見ることはできな
い。……教師自身も小学校を卒業したばかりの、変則な教育を受けた者が多
かったのであるから「学力寺子屋の域を脱しなかった」のも無理はなかっ
た。(中略)
  どの学科もただ、教科書を読むだけ、しかもその字義、章意をすら十分
に明らかにしない教授方法であってみれば、生徒にとっては空疎な教育を授
けられる過ぎないのであって、生活に密着する教育どころの沙汰ではなかっ
た。      玉城肇『近代日本教育史』(刀江書院、昭和26)より


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