第15章 リズム、リズム、リズム 2013・3・23記 クラーゲスのリズム論(1) クラーゲスの略歴 1872−1956。ドイツのハノーハーに生まれる。初めライプツィヒ 大学に、後ミュンヘン大学に学ぶ。ニーチェの影響を受け、その思想を伝え て心(魂)と精神との対立をとくところから独自の性格理論を展開する。 1897年ミュンヘンに「ドイツ筆跡学会」を設立、「筆跡学雑誌」の編集 執筆にあたる。1905年には「表現学ゼミナール」を開設、第一次大戦勃 発まで隆盛を極めた。22年と23年に彼の生哲学の中核を含む『宇宙生成 的エロスについて』と『リズムの本質について』を発表し、29年には主著 『魂の対抗者としての精神』が刊行された。始終民間学者として活躍した。 著書は上記のほか『性格学の基礎』(邦訳岩波書店1957)、『表現学の基礎 理論』(勁草書房、1964)、『生命と精神』(勁草書房、1968)など。 みすす書房HPより 1872−1956。心理学者、ハノーバー生まれ。ミュンヘン大学に学 ぶ。1905年に表現学研究所を設立(1919年チューリヒ郊外キルヒベルグ に移転)。彼は筆跡学、性格学、表現学の独自の体系を試み、学問的レベル へと高めたが、これらの学の根底にはドイツ・ロマン主義の伝統を引く生の 形而上学がある。彼によれば、霊魂、自然、生は精神、自我、理性と対立し、 無時間的、抽象的理解を行う精神は生を阻害するものであり、この点から理 性的信仰を説くヤスパースらと対立する。彼は霊魂の生命力を中心に据え、 これらの運動は身体を通して「表現」されると考え、ここから性格に関する 詳細な科学的分類と体系化を行った。筆跡学もこの思想の具体的な展開であ る。主著に『筆跡学の諸問題』(1901)、『宇宙論的愛』(1922)、『生の 敵対者としての精神』(1936)などがある。 Yahoo!百科事典より 著書『リズムの本質』について クラーゲスのリズムに関する著書は『Vom Wesen des Rhythmus, 1933』で ある。この著書の日本語訳には二冊がある。 (A)杉浦実訳、『リズムの本質』、みすず書房、1971年 (B)平沢紳一・吉増克実訳『リズムの本質について』うぶすな書院、 2011年 わたしは二つの翻訳本を章ごと(ときに段落ごと)に対比しながら読み進 めた。二つの翻訳本に違いがあるとすれば、わたしの独断による感想をいう と、(A)は、どちらかというと意訳調で漢語体であり、(B)は、直訳調で 饒舌体であるように思えた。本稿では、翻訳本からの引用はすべて(B)に 統一した。(A)と(B)では訳文に違いがあるのは当然であるが、文脈や解 釈に微妙な違いがあるところも多くあり、訳文用語の使用も違っているので 混乱を避けるために(B)に統一した。 どちらの翻訳本も、わたしにとっては、かなり難解であった。この難解さ は、わたしの頭の悪さからくるのが第一だが、そのせいばかりではなさそう である。勿論、翻訳者の翻訳のせいではなく、クラーゲスの主張内容そのも のが難解であることからきているようだ。このことはクラーゲス自身が初版 本(1933)の前書きに書いている。「(わたしはこれまでリズムと拍子につ いて講演や小論など、あちこちで発表してきたが、これら)先の論文におけ る叙述が必ずしもわかりやすいものでもなかったことからかなりの誤解を呼 び寄せもしたものである。その誤解はもっとわかりやすく述べさえすれば少 なくとも一部はおそらくなしにすんだと思われる。(それで本書を出版する ことにした)」【(B)4ぺ]と書いてある。 また(A)の巻末「あとがき」(翻訳者・杉浦氏執筆、146ぺ)を読むと こう書いてある。「日本だけでなくドイツ語圏にあってもクラーゲスの所説 は往々にして難解とされさまざまに誤解もされてきたし現在もその事情は変 わらない」と書いてある。以下の拙論も、わたしの誤解や曲解を書くことに なるかもしれない。おおいにありそうである。そうであったら、お許しいた だきたい。読者の皆様にお詫びするほかはない。もしわたしの誤解や曲解が 怪我の功名となって少しばかりの有効な所見に変貌UPしていることを願う のみである。 以下、クラーゲス著『リズムの本質』について書いていくことにする。書 き方としては、各章ごとに、それぞれの章内で、荒木が重要個所だと選択し た文章部分を引用して、その引用個所についての荒木のコメントを付加して いく。必要に応じて引用個所の前後文脈をも入れた荒木なりのコメントも付 け加えていくことにする。 第一章「現象研究の意味について」 (B)2ぺより引用 リズムが現象界に属するとすれば、それは物の世界には属さない。現象に 取り組むのが現象学であり、物に取り組むのが事実学あるいは原因について の科学である。物として把握されるなら、わたしの机は常に同一の何かであ り、さらにわたしにとってはどんなときであっても同一であり、同様に任意 のどんな数の他者にとっても同一である。それに対して机の現象は絶え間な く変化している。机の現象はそれを見る方向を変えるにつれて変化し、距離 によっても、光のあたり具合によっても変化する。さらにわたしが元気はつ らつとしているときとぐったりと疲れているときとで机が別様に見えること からすれば、わたし自身の状態によっても変化する。最後に机の現象は二人 の異なる個人にとってもまったく同じであることは決してない。なぜなら二 人のまったく質的に同一の印象を受け取ることなど考えられないことである からである。 【荒木のコメント】 これ(現象)と同じようなことを、フッサール『イデーン1』やメルロー =ポンティ『知覚の現象学1』にも書いてあったと記憶する。「現象」とは 「あらわれ」と読みとってよいだろう。 クラーゲスは「リズムと拍子」について論ずる前に、立論の前提になって いる基礎を厳密に限定しておくことが重要だと書く。現象学と事実学とを区 別しておくことがリズムの定義へ向かう第一歩だと書く。事実学は原因の科 学であり、つねに同一であり変化をみない。物の現象は見る人によって違っ てくるし、見る位置によっても違う。見え方・現れはそれぞれに違う、と書 いている。 クラーゲスの生存した当時のドイツ哲学界の潮流、「生の哲学」や「現象 学」を知っておくと本書の理解に役に立つと思う。プシュケー的生命観と ソーマ的生命観、生気論と機械論、ロマン主義と古典主義などについての知 識をもつと本書理解が容易になるだろう。 (B)1ぺより引用 リズムとは時間的現象を規則的に分節化したものである、あるいは分節の ほうに注目して、リズムとは現象の時間的構成要素が規則的に反復すること である、最後にできるだけ簡潔に言うと、リズムとはある規則が時間的に現 象したものである、と。これらの概念規定は、これから少し考察しておかな ければならない現象という語をのぞけばすべて不適切である。 【荒木のコメント】 一般的な常識として、現在の日本でも、クラーゲスの生存した当時のドイ ツでも、リズムとは「規則的に分節化した等時間隔の反復」という考え方が ある。クラーゲスは、こういう考え方は間違いだ。「リズムとは時間的現象 の規則的な分節化だ」という考え方は不適切だ、と書いている。 先ず冒頭で、一般的な常識的なリズム観に対して刺激的な反論を加えてひ っくり返す主張をしている。どこがどう間違いなのかについては第二章以下 に縷々と書いていくことになる。 第二章「拍子についての暫定的所見」 (B)7ぺより引用 時間的現象要素の規則的な反復という命題によって定義されているものは もちろん現実に経験可能な何かである。ただしかしそれはリズムではなく、 単なる系列あるいは拍子である。もしあらかじめ拍子タクトの最重要な属性 について簡単な予備考察を行わなわなかったら、始めから方向を間違える危 険があるだろう。tangere=触れる、突く、打つに由来する拍子taktは、音 響芸術においてはもともと弦を規則正しく打つことあるいは爪弾くことある いはまた時間の歩みを打楽器によって強調することに用いられるものであっ た。 【荒木のコメント】 第二章の冒頭で「リズムと拍子とは違う」、先ずこれをはっきりさせてお く必要がある、そうでないとこれから考察する方向を間違えてしまうと書い ている。時間的規則の反復はリズムでなく、単なる系列あるいは拍子である、 と語っている。 (B)8ぺより引用 機械仕掛けで動くハンマーで三分の一秒おきに金属製の台を同じ強さで打 つようにする。聞き手が音の大きさや間隔を見積もろうとしないで素直に印 象に身を委ねるときには、バラバラの音の系列ではなく二音ずつに分節した とりわけ長短格の音群が聞こえる。それゆえその聞き手は音の継起の中に実 際にはまったくそこにはないものつまりアクセントの周期的交代を聞き取り、 このために聞き手には隣り合った音が二つすつの音群であるように聞こえる のである。その音群はときには短長格の形をとることもある。そしてその音 群同士が少し高く聞こえたり、少し長く鳴っているように聞こえたりするこ ともある。 【荒木のコメント】 機械仕掛けで動くハンマーで金属製の台を同じ強さで打つことにする。聞 き手が素直に印象に身を委ねるときには、バラバラの音の系列ではなく二音 ずつに分節した音群で聞こえてくる、と書いている。例えば、振子時計の音 に耳を澄ますと「タックタックタックタック」と言い表されている音でなく、 「チックタック・チックタック」の二音ずつに分節した規則正しい音群の交 代として、聞こえてくる、と語っている。 そしてクラーゲスは、こうした「拍子を産み出しているのはわれわれであ る」[8ぺ]と語っている。「聞こえるものを拍子で区切ったり拍子に合わせ て「朗誦したリ」するように促す力や威力がわれわれ自身の内部にあって、 それが可能な限り単純な音群形成を志向しているということである」[9ぺ] と書いている。つまり拍子は人間の精神作用によって生ずる、と語り、文章 を音声表現(音読、朗読、表現よみ)するときも、文章の文字系列を拍子で 区切ったり、音群を形成するよう促す力・威力が精神内部にある、と語って いる。つまり精神がそうしている、と語っている。音声表現(音読、朗読、 表現よみ)を支配しているのは精神である、と。 (B)12ぺより引用 区分する作業は分割する作業である。そして分割はすべて境界設定によっ て生じる。「現象における逃走」に境界線を引くこと、そこに精神の唯一の 本源的な行為の本質がある。 【荒木のコメント】 音群系列の成立は、区分する作業、分割する作業による。この境界設定に は、精神作用によるという本源的な行為の本質がある、と語っている。音群 系列の成立は「精神の境界設定によって生ずる・手に入れることのできる形 象だ」[8ぺ]と語っている。 (B)14ぺより つまりリズムは生命現象に普遍的にあるものであり、自明にように、人間 もまた生きている性情としてはリズムの一部である。それに対して拍子は人 間の作業である。リズムは拍子がまったくなくてももっとも完全な形で現象 しうるが、それに対して拍子はリズムが同時にはたらいていなければ現象で きない。 【荒木のコメント】 つまり、リズムと拍子とは異なる、のだ。リズムは生命現象(人間もまた 生命現象)として普遍的にあるのであり、拍子は人間の作業(精神のはたら き)としてある。リズムは拍子がなくても現象するが、拍子はリズムとの協 働でしかあらわれない、と語る。リズムと拍子との協働については後述(第 五章、第九章、第十章)にもある。 第三章「分節化された連続性としてのリズム」 (B)21ぺより引用 ギリシャ語のレイン=流れるに由来するリズムの語を文字通りに受け取る なら、それは何か流れるものであり、したがって途切れることのない連続性 である。規則の現象は均等に分節化された系列というかたちをとる。そして このような系列には連続性が欠けている。巻尺に規則的な間隙で認められる 線は巻尺という現象の連続性を中断している。庭の垣根の規則的に並んだ支 柱は、それらのあいだの空間を間隙に変化させる。この垣根の格子にもリズ ムが現象しうることは否定できない。しかしこのことを基礎づけることがで きるためには、その前にリズムが現象するのは確かに隙間それ自体の中にで はないことを確認しておかなければならない。 【荒木のコメント】 ギリシャ語の語源から、リズムとは、流れるもの、途切れることのない連 続性である、と語っている。規則の均等に分割された系列という拍子には連 続性が欠けていて、リズムとは言えない。巻尺も連続性が欠けていて、リズ ムではない。垣根の支柱にはリズム現象が見えるが、隙間それ自体にはリズ ム性はない、と語っている。 つづく文章でリズムの代表例として水の波を挙げている。水の波は、時間 の中で推移する運動である。強音節に弱音節の拍子が続くように、波の山に 谷が続く。山と谷とは境界づける打音に相当するが、打音となるサインのよ うなものはない。無数の中間状態の交代、上昇と下降が滑らかに移行してい く。波には転換点で尖った角もない。角のない、分節化された運動が途切れ ることなく連続している。波の現象は、振子時計の拍子を打つ歩みの現象と 本質的な相違がある。ここで重要なことはリズムは物質や物でなく、現象で あるということである。「打拍の境界という意味が精神によって時間現象の 中に持ち込まれたものであるとしたなら、われわれの把握する能力は波の現 象に後からやっとついて行くものである。この事情が教えるものは、境界づ ける標識のないあらゆる分節化は非精神的な起源をもつことである。しかし、 波の運動はそれ以上にさらに反精神的でさえある。」[(B)24ぺ]と書く。 どんな拍子にも始まりと終りとがあるが、波には始まりも終わりもない。 波は無限のものである。波が始まり終ったとは言わない。寄せては返す、と いう。波打ちは過程以外ではない。この過程を何か分節化されたものにして いるのは、境界ではなく、この過程自体において区別することのできる方向 の対立でしかないのだ。クラーゲスは、本書では、水の波の例を使用してリ ズムの代表例として説明する。 第四章「意識と体験」 (B)30ぺより引用 生命過程は体験過程要するに体験以外の何ものでもない。したがってわれ われの肉体の細胞はどれも疑いなく生きているので、それゆえ直接知ること は決してできないことではあるが細胞もやはり体験している。そして同様に また全肉体の細胞集団においてもまた細胞は疑いなく生きている(同じよう に全肉体は細胞において生きている)ので、細胞は体験しつつ肉体の体験に 関与する。そして逆にまた肉体の体験は肉体の中の一つ一つの細胞の体験に 関与するのである。とにかくそのことから生じる結果が外部のきっかけによ っては理解できない感情の形でわれわれの意識に告げられるのである。例え ば睡眠がそのような意味で眠る人の体験であろう。眠りながらまったく意識 を伴わないような状態にあるとき、どのようにしてそれが体験であることが 立証されるというのであろう、と。 【荒木のコメント】 クラーゲスは「生命過程は体験過程である」と語る。睡眠も体験である、 つづく文章個所で、その例の一つに「頭時計」を出している。人間は夜に寝 てもあらかじめ決めた時間に十分と違わず正確に目を覚ますことができる。 目が覚めたとき、どれぐらい時間が経過しているかも言うことができる。人 間は完全に無意識な状態でも世界の生起現象を体験しているのだ。睡眠中で も生命の体験は流れつづけているのだ。このことで分かることは体験一般に ある無意識性である。 (B)30ぺより引用 体験は意識されず、意識は何ものも体験できない。それゆえ覚醒の生命状 態と睡眠の生命状態とが区別されるのは、覚醒体験が意識された何かであり 睡眠体験が無意識な何かであることによるのではない。そうではなくつねに 無意識な体験に、もっぱら覚醒の生命状態においてだけ、体験されたものを 覚証する能力が付け加わるということによるのである。したがって二つの生 命状態が相違するからといって、その二つを切れ目なしに互いに結びつけて 考えたり、二つに共通するものをまさに睡眠の生命的性格に求めたりしても まったくさしつかえない。 【荒木のコメント】 ここでも生命体験の無意識性について語っている。生命体験の覚醒と睡眠 とは切り離されるが、覚醒にも睡眠にも生命的性格が存するのであり、覚醒 の波打ちの下を睡眠の流れが途切れることなく流れており、睡眠における生 命リズムは途切れてはいない。覚醒と睡眠の交代の基礎に生命リズムの交代 があり、生命体験の途切れはない。生きていることは無意識的な生命体験の 流れであるのだ。 (B)40ぺより引用 精神的行為が行われていることを体験している拍子の体験は目覚めさせ覚 醒を維持する。それに対してリズム体験は、もしそれが実際いわば意識の下 部で経過するなら、それが優勢になればなるほどあらゆる緊張が緩みそして それゆえにとりわけ(!)睡眠状態に導くことになるものであろう。このこ とは経験によって確かめられる。長いあいだ緩やかに打ち寄せる海の波の音 に耳を澄ませ、同時にそれを目でも見ている人は間もなく緊張を緩める夢の 中へ入っていく。そして適当な場所にいたなら最後に眠りの中に落ち込んで いく。 【荒木のコメント】 「拍子の体験は目覚めさせ覚醒を維持する。それに対してリズム体験は、 それが優勢になればなるほど睡眠状態に導くことになる」と語っている。リ ズム体験はねむり薬のためのお酒なのか、と言うかもしれないが、リズム体 験は寝酒ではないとクラーゲスは言う。「生命過程と精神の行為」を区別す ること、「体験内容を意識の対象」から区別すること、が大切だと言う。無 意識的な睡眠体験の特性を知れば、寝酒とはならないこと当然だ。睡眠は体 験の一形態であり、覚醒体験の充足と強さ・支配力が増大すればするほどし だいに意識はますますぼんやりするようになり、意識が消失することさえあ るのだ、と語っている。 (B)42ぺより引用 その人をとりわけ感動させ魅了させ震撼させるものは一人一人でみな違う。 海に落ちる夕日、恋人の姿、ベートーベンの交響曲、そして彼が感動し魅了 され震撼されればされるほどに夕日や恋人や交響曲の形象によってその人の 心情が満たされる、そしてそれだけそれらの形象は彼の思考や意欲の対象で はなくなると主張したなら、その人は同意してこれるだろう。生命の担い手 が体験の中に「吸い込まれている」、その中に完全に「没入している」、完 全に「沈潜している」、そして生命の波が静まった後に初めて「ふたたびわ れに返った」と言葉がわれわれに判断させるとき、言葉はそのとおりのこと を意味しているのである。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、拍子は人間のなす行為(精神・意識・理性)であり、意識 的な精神作用による反復運動であると語っている。これに対してリズムは生 命(霊魂)であり、体験的(無意識的)な分節と持続性を伴う生命現象であ ると語っている。また、拍子体験は人間を目覚めさせ、覚醒させるが、リズ ム体験は睡眠状態に導く、とも語っている。生きることは眠ることと同じよ うなものである。リズム体験は意識下で優勢になれば緊張を解いて夢見心地 にさせ、ついには寝入らせてしまう、と語っている。 文学作品と読んでいると、いつのまにか作品世界の中にどっぷりとはまり こんで、読み手が作品世界の中に生きているような、現実に行動しているよ うな感覚になる。作品世界に同化し、没入し、拉致されてしまった感覚状態 になる。作品世界が読み手の心を襲い、没入し、沈潜している度合いの深さ が深いほど、クラーゲスのいうように夢見心地の世界にはまり込んでいる境 地にあることは確かであろう。「生命の担い手がリズム体験の中に「吸い込 まれている」、その中に完全に「没入している」、完全に「沈潜している」 と語り、「作品形象は読み手の思考や意欲の対象ではなくなる」状態になっ ている、と語っている。これをクラーゲスはリズム的生命世界の中に没入し ていると言う。 「作品形象は読み手の思考や意欲の対象ではなくなっている」とは、読み 手は活字・文字を忘れて、どっぷりとはまりこんで作品世界の中に吸いこま れて登場人物たちと一緒に行動している、文字が消えてしまって、文章を読 んでいるという意識が消えてしまって、形象世界を現実世界として生き、行 動している意識状態の中にあるということだろう。この体験が海の波の音に 耳を澄ますと眠りの中に落ち込んでいくというのと同じだ、とも語っている。 クラーゲスは、これを生命体験、つまりリズム体験だ、と語っている。これ ら生命体験を、人間の意識的な精神作用による拍子体験と区別せよ、リズム (生命)と拍子(精神)を混同するな、と語っている。そして生命の波が引 いたあとに「再び我に返った」という体験は、作品を読み終わったあとに日 常の現実に戻ったということである。このへん、荒木の理解による自己流の 解釈であることを断わっておく。 第五章「リズムに拍子をつける可能性について」 (B)46ぺより引用 リズムと拍子とが対立しているからといって、運動の連続性がリズムとし て体験されるためにそこに拍子が加わらなければならないような特定の場合 があることを妨げることはまったくないことが分かるであろう。それゆえや はり決定的なものは運動なのである。太古より、またありとあらゆる民族に おいてゆりかごの運動が子供を寝かせるために利用されたが、その場合誰し も感じることであるが、重要なのは揺すられる運動であって、その運動に必 ず伴う折り返し点ではない。例えば誰かがゆりかごを揺するたびに折り返し 点でほんの少しのあいだとめて短い休止によって拍子を強調しようとしたと すると、ゆりかごの子供は寝つくどころか不安に感じておそらくは泣き叫ぶ 出すであろう。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、リズムは無意識的(体験的)な生命現象であり、拍子は意 識的な精神作用の所産である。リズムと拍子とは対立してるからといって全 く相互連動してないということはない。リズム運動の連続性の体験に拍子が 加わることによってリズムと拍子とは人間の中で融合・協働・共応しうるの である。昔からどの国でも子供を寝かせるのにゆりかご運動を利用してきた。 この例がそうである。ゆりかごの寝かしつけ例で重要なのは快いリズミカル なゆさぶりリズム運動であって、ゆさぶりの折り返し点で、わざと通常のリ ズムを変更させて、暫時の小休止を与えて拍子を強調したら子供は不安に感 じて泣き出すだろう。これは拍子の分割価値がリズムの持続価値より優勢と いうことからきている。これは拍子とリズムとが融合・協働・共応してる例 である。 上記引用の直前に、列車が線路の継ぎ目の上を回り続ける車輪のガタゴト の音について書いている。列車に乗って車輪の機械的な音(拍子)を聞くと もなしに聞いているうちに、しばしば緊張が緩んで夢の中に落ち込んだりま どろみの夢に移行(リズム体験)することがある。これは「リズム体験が目 覚めさせかつ覚醒を維持するが、リズム体験は緊張を緩めて夢に移行する」 わけだが、車輪の拍子が緊張を緩めるのでなく、この例では「拍子と不可分 に結びついた前方へ動かされている体験が緊張を緩める」のである。「何ら 精神的努力をしないでも前進運動は車輪の立てる音の中に聞き取られるので あり、そうであるからこそほかに見られないほど高度に機械的な拍子でもリ ズムを緩めるような波打ちにわれわれをゆだねるのである」(B)45ぺと、 書いている。 この例では、運動の連続性がリズムになるための周期的交代に拍子を導入 することによって生じるわけだが、そのためには「動かされている状態の連 続性が境界を区切る音の分割力よりも優勢な値をもち続けていなかればなら ない」[(B)46ぺ]のである。これと同一箇所の翻訳本(A)杉浦実訳では 「運動状態の持続価値が、境界づけ作用をする音響の分割価値よりも優勢を 保つことが前提である。」となっている。ともに同一の事柄を言葉を変えて 日本語に訳しているにすぎない。要するに、リズムの生命を遮断する分割価 値よりも、リズムの持続価値が優勢な場合には、拍子はリズムの効果を高め 活発にする作用がある、ということである。 第六章「反復と更新」 (B)49ぺより引用 数学的正確さで動く振子時計はない。しかしそれの誤差はふつう人の気づ くことのできる限界のかなたにあり、したがって現象の領域にはない。それ に対して自然の水の波は、どれもその前のどの波とも目に見えて異なってい る。拍子が同一のものを反復するとすれば、リズムについてはこう言わなけ ればならない。リズムでは類似が回帰する、と。さてまた類似のものの回帰 は流れ去るものとの関係ではそれの更新と考えられるので、端的にこう言わ なければならない。拍子は反復し、リズムは更新する、と。 【荒木のコメント】 ここでも拍子とリズムとの違いの一つの例を語っている。拍子の例が振子 時計で、リズムの例が水の波である。拍子は同一のものの反復(機械的繰り 返し)であり、リズムは類似するものの回帰(再帰、更新)である。端的に 「拍子は反復し、リズムは更新する」と言える、とクラーゲスは語る。 これまで「拍子は精神に所属し、リズムは生命に所属する」について語っ てきたが、リズムは反復の連続性よりも更新という事態において鋭く現れて くる、と語る。精神をもっている人間のみが拍子を前の拍子と同一のものを 作り出し、尺度を基本尺度と同一のものを作り出すことができる。精神をも たない自然は模像や反復といった同一物は作り出さない。若木は親木の模像 ではないし、動物の子は親の模像ではないし、木の葉もほかの木の葉の模像 ではない。これらはすべて類似物であり、更新・回帰・再帰である。宇宙の 運行の周期も類似である。無数の系列の区別できる一つ一つの分節は類似し ている、つまり更新であり、拍子ではなく、リズムであるのだ。 われわれはリズムの類似体験の中に生起の感知性の基盤を認めることがで きる。リズムの類似体験と同一物の機械的反復とは根本的に異なっている。 同一物のものは思考が産み出した思考物であり、類似体験は精神作用とは独 立に(無関係に)生じた体験内容なのである。ここでは、リズムは類似の更 新、拍子は同一物の機械的反復と、二つの違いを語っている。 (B)52ぺより引用 昼と夜、潮の満ち干、月の満ち欠け、四季、植物の世界のさまざまな姿は 決してまったく同一ではないが確かに類似した間隔で交代する。それと同じ ような仕方で、覚醒と睡眠、清新な気分と疲労感、空腹と満腹、喉の渇きと 水分への嫌悪、それどころか原初の人間においては性的欲望と性的無関心の 時期も交代する。海がやはりまた周期的な潮の満ち干に伴う波の動きを示す ばかりではない。風が吹くと森も、麦畑も、砂丘も同じように波打ちのであ る。したがって砂丘やバルハン砂丘の連なりの波との類似にまた同じくその 波の形に、リズムを見て取ったとしても当然のことであろう。植物の葉の周 期的な起き上がりと垂れ下がりは、二十四時間周期の温度サイクルに照応す る。そして日照時間の交代とともに根の成長速度は周期的に増大しまた減少 する。そしてまた別に芽の成長の回旋リズムもある。実際、最近の研究で確 かめられたところによれば、成長過程は決して直線的に起こるのではなく、 常にリズム的に起こるという。特に人間の肉体生命と心情生命とを観察する と、結局のところ出会うのは生命のどの局面をも支配するリズムである。脈 拍を、呼吸を、女性の月経、体重の一日のそして一年の変動を、身長の一日 の変動を、そして疑いなく肉体の交代過程に基礎をおく創造の喜びにあふれ た高揚感と瞑想的な内省の欲求との潮の満ち干を思い起こしてほしい。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、上記の一つ一つの事例はすべて周期的更新による類似間隔 の交代であり、すべてにリズムを見て取ることができる、と語る。このあた りはクラーゲスの独特なリズム観であり、わたしたちの常識的なリズム観と は違っている。わたしたちは、昼と夜、潮の満ち干、月の満ち欠け、四季交 代などに生命があるとは通常は考えない。これについてクラーゲスは、それ は、あなたは「誤った概念規定から出発した狭めた枠はめのリズム観(理 解)だ」(B)59ぺ、と語っている。クラーゲスを読んでいるわたしたち はクラーゲスの立論基盤に立って思考していくことが読み方として要求され ている。リズム観の概念規定の枠はめをクラーゲスの立論基盤に立脚すれば、 そのように変更すれば、それなりにクラーゲスのリズム観を理解することが できる。立論の基盤を拡張すればそれなりに理解できる。 上記引用で理解困難な語句について書こう。「原初の人間」とは、(A) 杉浦実訳では「性観念のない原始人」とある。「疑いなく肉体の交代過程に 基礎をおく創造の喜びにあふれた高揚感と瞑想的な内省の欲求」とは、 (A)杉浦実訳では「身体の変化に基因するところの、仕事の喜びによって 感情が昂揚した時と瞑想的内省を求める時の交代」となっている。「バルハ ン砂丘」個所では、(A)杉浦実訳では「バルカーネ船の波の形にリズムを 認めても不当ではない」とある。「バルハン砂丘」個所については、「バル ハン砂丘」についての荒木の知見は皆無だが、わたしは「砂丘の波のうねり にもリズムがある」と大雑把に受け取ったが、これで間違いはないだろう。 クラーゲスが上記で挙げているリズム例をもう一度、簡単に整理してみよ う。昼と夜、潮の満ち干、月の満ち欠け、四季の変化、植物の世界のさまざ まな姿、覚醒と睡眠、清新な気分と疲労感、空腹と満腹、喉の渇きと水分へ の嫌悪、原初人の性的欲望と性的無関心の時期交代、海の周期的な潮の満ち 干に伴う波の動き、風が吹くと森も、麦畑も、砂丘も、それらの波打ち、植 物の葉の周期的な起き上がりと垂れ下がり、日照時間の交代による根の成長 速度の周期的な増大と減少、芽の成長の回旋リズム、脈拍、呼吸、女性の月 経、体重や身長の変動、肉体の交代過程に基礎をおく創造の喜びの高揚感と 瞑想的な内省の欲求。クラーゲスはこれらにリズムととるのだ。類似間隔の 交代と周期的更新、つまりリズム的生命をみてとっている。 (B)54ぺより引用 生命体的生命においてはすべてが更新されるのであって、反復されるもの は一つもない。反復は計算可能である。したがって、更新はただ見積もるこ とができるだけである。したがって列をなす渡り鳥の羽ばたきや、手綱をつ けられていない馬が疾走する姿や、魚群が波打ちながら泳ぐ姿にリズム的な 拍動を見ていると思うことは容易に理解できるのである。しかしまた、拍子 に従って飛んだり、走ったり、泳いだりすることが動物にはできないのは、 われわれがただの一時間でも拍子に従って呼吸することができないのと同じ であると付け加えるなら、必ずや賛同していただけるであろう。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、リズムは生命であり、類似するものの反復であり、更新で あると主張する。一方、拍子は精神であり、同一のものの機械的反復である、 と主張する。であるから肉体生命においては機械的な計算をすることで周期 間隔を決定することはできない、と語る。しかし、近似値(誤差あり)は見 い出すことはできる。歯の抜けかわり、出産や月経、疲労や食欲、呼吸の深 さと持続、脈拍の頻度と強さなど、正確な周期できっちりした計算で割り切 れるものでないが、おおよその見積りはできる。しかし「拍子に合わせて」 馬が疾走したり魚が泳いだり人間が呼吸したりすることなどはできない。 つまり冒頭引用に言葉をつけたして分かりやすくすると「生命体的生命に おいてはすべてが更新されるのであって、(拍子のように機械的)反復され るものは一つのない。(拍子における機械的)反復は計算可能である。した がって(生命体生命のリズムの類似による)更新はただ見積もることができ るだけである。」となる。類似した周期においてのみ、類似した現象がリズ ムにしたがって回帰するのだ、と語っている。 第七章「リズムの時空性」 (B)60ぺより引用 空間的現象でもないような時間的現象などありはしないし、時間的現象で ないような空間的現象などありはしない。そして現象の時間性のリズム的分 節化はしたがって常に同時に現象の空間性のリズム的分節化であり、逆もま た同じである。 【荒木のコメント】 クラーゲスは語っている。リズムは空間性をも支配している、と。造型芸 術家は、リズムに空間性があることを認める。建築物のリズム、筆跡のリズ ム、樹皮の模様のリズム、木の葉の葉脈のリズムの空間性があることを認め る。熟れたクルミの殻の溝、その中身の迷路のように曲がりくねったしわ、 虫が木の皮の内部に穿った錯綜した穴は不規則でしたがって反復不可能であ るが、しかし完全なリズムをもっている、と。クラーゲスは、これらにリズ ムを認める。 「音が奏でるリズムはどんなものでもリズム的な運動を生み出さずにはい ないし、リズム的な運動はリズム的な音を生み出さずにはいない」[(B)6 2ぺ]と語っている。舞踏のリズミカルな音の響きは、同時にリズミカルな 運動をひきおこし、逆にリズミカルな運動はリズミカルな音の響きをひきお こす。運動には時間と空間が伴っており、したがってリズムにも時間性と空 間性が伴っているのだ、と語る。 音の響きのリズムを、強さ、高さ、持続、音色、量感だけで記述してはい けない。誰かがフルートの音を聞くとすると、聞こえた場所の特定(部屋の 中、下の部屋など)も同時に経験している。これは「音の発生基盤でなく現 象自体」を経験しているからであり、われわれは音を聞き取りながらとりわ け現象する空間にも気づいているのだ。したがって音の響きのリズムは時間 現象を分節化するばかりでなく、それを越えてさらに空間現象をも分節化し ているのである。音のない色彩空間に比べて、リズム的音響はリズム的運動 をひきおこし、われわれの心を力強く動かし生命的威力・生命的効果のある 空間を形成しているのだ。空間と時間とは現実の現象において分かちがたく 結ばれており、相互に依存している。現象面からみれば空間分節化なしにど んな時間的分節化も生じないし、同様にまた時間的分節化なしにはどんな空 間的分節化も生じない。リズムには時間表現と同時に空間表現も伴っている のだ。とクラーゲスは語っている。 第八章「分極した連続性としてのリズム」 (B)70ぺよ引用 ロマン主義の哲学は、的確にも三という数字の古代的聖性にいたる基盤と なる誘因を突き止めた。というのは、あらゆる生命体的生命の現象は(そし てそれとともにもちろんその本質も)双極性の観点からとらえなければなら ず、それゆえこの双極性に対すれば全体は第三のものであることを示したか らである。したがって両極は、どちらもがそれが現にあるためにはそれを補 完するもう一方を必要とするが交換は不可能な相異なる二つの事態であるこ とに自ずからなるであろう。ロマン主義者たちはこのことについて厳密に定 義することはしなかったが、二三の誤りはさておいて多くは的確に応用され た。それを考察すればたったいま上で述べたことを次のように補足して、生 命学的極性概念はつまるところ物理学の貰い子的極性概念とは異なるもので ある理由を明らかにすることが必要になる。つまり両極の重さは決して平衡 状態に達することはなく必然的に異なっており、そのために依存関係もまた その程度も変化するのである。例えば中枢神経系と植物神経系とにあるとさ れる極性を取り上げてみよう。それも「頭」と「心」の区別の深い根拠を分 析するためにこの極性を取り上げるならば、かなりの人では「頭」が支配的 で他の人では「心」が支配的であることを、われわれが今日なおもちろんた だ心理学的意味においてではあるがそれとなく伝えていることからわかるよ うに、一方の神経系が優勢になったりもう一方の神経系が優勢になったりす るのである。 【荒木のコメント】 「あらゆる生命体的生命の現象は双極性の観点からとらえるべきだ」と語 っている。物理学の極、例えば地球の北極と南極、ここでの極とは球状の回 転軸の両端の極のことであり、電気の陽電子(+)と陰電子(−)では双方 の中和があるが、「生命学的極性概念はつまるところ物理学の貰い子的極性 概念とは異なるもの」である、と語っている。生命体的生命では、それぞれ の極は他を相互に補完する他を必要とする交換不可能な相異なる存在である と言う。また両極の勢力は平衡になることはなく依存関係にあり、どちらか に傾斜し変化している、と語っている。その具体例として中枢神経系と植物 神経系(自律神経)について語る。中枢神経系と植物神経系(自律神経)に おいては、「一方の神経系が優勢になったりもう一方の神経系が優勢になっ たりする」と語っている。 (B)71ぺより引用 ロマン主義は、すでに述べたように、極性思想を宇宙の極性思想にまで拡 大することに何のためらいも見せていない。そしてわれわれがバッハオーヘ ン以来知っているように古代や先史の象徴語と一致して、夜と昼、明と暗、 冬と夏、凋落と成長、死と誕生、保存と分配、定着と彷徨、制御と駆動との リズム的交代の中に、同様にまた地と天、月と太陽、水と火、女と男、下と 上、後ろと前、右と左とのリズム的交代の中に何よりも消滅に従って分極し た宇宙的生起を見い出すことになんの疑念ももたない。 【荒木のコメント】 クラーゲスは「拍子は精神作用による同一のものの反復であり、リズムは 生命現象であって類似するものの更新である」と主張していることはこれま でにも書いてあった。クラーゲスは、リズムの双極性という「極性思想を、 宇宙の極性思想にまで拡大することに何のためらいもない」と書き、宇宙現 象にもリズム的生命現象をみてとっている。その具体例は、第六章の引用個 所にもあった。その事例を再び列挙すると、昼と夜、潮の満ち干、月の満ち 欠け、四季の変化、植物の世界のさまざまな姿、海の周期的な潮の満ち干に 伴う波の動き、風が吹くと森も、麦畑も、砂丘も、それらの波打ち、植物の 葉の周期的な起き上がりと垂れ下がり、日照時間の交代による根の成長速度 の周期的な増大と減少、芽の成長の回旋リズムなどがそうであった。 第八章では、さらに「夜と昼、明と暗、冬と夏、凋落と成長、死と誕生、 保存と分配、定着と彷徨、制御と駆動とのリズム的交代の中に、同様にまた 地と天、月と太陽、水と火、女と男、下と上、後ろと前、右と左とのリズム 的交代の中に何よりも消滅に従って分極した宇宙的生起を見い出すことにな んの疑念ももたない」と書いている。 クラーゲスは、「夜と昼、明と暗、冬と夏、凋落と成長、死と誕生、保存 と分配、定着と彷徨、制御と駆動」の中にもリズム的交代があり、さらに地 と天、月と太陽、水と火、女と男、下と上、後ろと前、右と左の中にもリズ ム的交代があると言う。これらには「消滅に従って分極した宇宙的生起を見 い出す」と言う。これらを、リズム的交代生起にするものは「(物理学的 な)測定可能なあいだ(中間に)ではなく、上昇と下降の、そして下降と上 昇の質的対立がリズム的交代現象たらしめているのだ」と語っている。類似 した新しいものが生じるためには更新による滅びがなければならない、と語 っている。これらについては、次節「クラーゲスのリズム論(2)」にある 三木成夫の論文引用に分かりやすく書いてある。そちらをお読みになるとさ らに具体例で理解できるでしょう。 (B)72ぺより引用 来ると去る、近づくことと離れること、満ち潮と引き潮、受け取ることと 手放すこと、出会いと別れとは(すべての機械や定規が実現している)時間 的空間的区間を分割する規則には含まれていないものである。分割規則その ものが軽やかな心情にとってはこれらを心情へともち込むきっかけとなるこ ともないとは言えないかもしれないが、しかし満ち潮と引き潮、受け取るこ とと手放すこと、出会うことと別れることという人生の免れがたい交代につ れてあらゆるリズム的な脈打ちを何よりも人間の生命を映し出す深い感動に 変えるものは、ただそのような分割規則にはふくまれていないものだけなの である。このことを感じることのできない人は、偉大な韻律学者であったと しても、リズムには永遠に縁がないままであろう。 【荒木のコメント】 出会いと別れ、誕生と死別、転勤と入社、繁栄と衰退、受容と放棄、入金 と出金などは規則的な分割則をもってない。定期的な間隔で生起するもので はない。人間生活における転変はいつ起こるとも限らず、深い感動を伴うリ ズム的脈動は分割されない運動状態が不可欠である。リズムの運動の停滞・ 滞留はありえず、類似したものの回帰、つまり更新が不可欠である。これら 両極の生成消滅のリズム的交代は、人間界または自然界のリズム的脈動によ って起こる、と語っている。 第九章「拍子の生命的内実」 (B)77ぺより引用 未開人の全生活は多少ともいわば連続するリズムの中で振動している。祭 礼のために踊る、祭りに踊る、踊りながら互いに相手を非難する歌を歌いな がら裁判を行う、踊りながら戦いを始める、つらい仕事を一緒に歌を歌い拍 子を取り踊りながら行うと言っても誇張でないであろう。しかしここでしば しば夜を徹して続けられる特別な舞踏の祭り(例えばオーストラリア原住民 のコロボレーダンス)を見ておこう。そこではまったく単調なメロディーが 続けられる中、つねに強調されるのは荒々しく打楽器が刻む拍子であること がわかる。これらの打楽器はその外形のあふれんばかりの多様性によって最 古の発達段階の運動形象を自在に操っているのである。しかし少なくとも最 重要なものだけでも名を挙げておこう。打ち合わせるとがちゃがちゃと鳴る 武器、石板、鳴子板、小太鼓、椀型小太鼓、タンバリン、銅鑼、鐘、鈴、マ ラカス、ガラガラ、うなり棒、リズムが音として表現されるときは、比較的 連続的なメロディーによるほうがメロディーを絶えず拍子づけて中断させる 打音によるよりもうまくいくとどうしても想定せざるをえない。そうなると われわれは厄介な問題の前に立たされることになる。つまりそれにもかかわ らず原初の舞踏やそれゆえわれわれの考えでは計測的規則に対してリズムの 流れが決定的に優位であることを要請した原初の生命段階の姿に近づけば近 づくほど、打拍が優勢になるのはなぜかということである。 【荒木のコメント】 リズムと拍子との連関について、クラーゲスは未開人の生活によくみられ る踊りと打楽器使用の例を挙げて語っている。精神文化に乏しい未開人の生 活は連続するリズムの中で生活している。単調なメロディーの中に荒々しい 打楽器が拍子を刻んで打ち鳴らされている。そこでのリズム表現は、メロデ ィーを中断させるような打音(拍子)よりは、比較的連続的なメロディーの ほうがリズムがうまく表現されている。それにもかかわらず、未開人の舞踏 においてはリズムに優位性がある。原初の生命段階の姿に近づけば近づくほ ど打拍(拍子)の優勢(支配力)があるのはなぜか、という問題が出てくる。 その答えはすぐ下段に書いてある。 (B)80ぺより引用 ボリヴィアのトーバインディアンの歌謡は次のような拍子によって表わさ れる。四分の五、四分の四、四分の五、二分の三、四分の六、二分の三、四 分の七、四分の四、四分の六、四分の五、四分の六、四分の七、四分の11、 四分の四。それにもかかわらずこのようにして規則性よりリズム的流れが優 位にあるというわれわれの要請は、リズムがいわば拍子の限界領域で動いて いる未開人の歌謡によって確証されることがわかる。それなら打拍の優勢と いうわれわれを悩ませた矛盾は、むしろ初期発展段階のリズム的作業をみず から分断してしまうようにみえる。しかしそのような歌謡もまれならず多く の人が一緒になって、したがって実際には拍子を取って歌われているのであ って、ただ拍子を聞き取ることがわれわれには困難であるだけなのである。 このことを熟考するなら、拍子にもある生命的内実を開く鍵が見出されるこ とを約束する道がどちらに向かっているか、その方向性を間違えることは決 してないであろう。 【荒木のコメント】 「拍子は、音による分割の鋭さ、厳格な規則性とその継起、強調された打 音、打音と打音との同一の間隔、強弱の二拍子の交代」[(B)80ぺ]など に特質をもつ。ベルリン「心理学研究所」の学者たちによる未開人の音響研 究によると、必ずしもそうはなっていなかった。メロディーを拍子によって 分節化する分析作業は困難であった。二拍子、三拍子、七拍子と多彩な系列 をなして次々と継起するするものもあった。トーバインディアンの歌謡の例 では、種々の拍子の流れがみられた。このことは「規則性よりもリズム的流 れが優位にある」「リズムがいわば拍子の限界領域で動いている」ことの確 証であると言える。つまり、「(リズムだけでなく)拍子にも生命的内実が 見出される」ということである、とクラーゲスは語っている。 つづく段落の文章にはこう書いてある。未開人の踊りと音響には遊び半分 に拍子を無秩序に投げ散らしているところがあるが、未開人に内面的リズム の豊かさがあるから拍子を失うことはない。内面的リズムが衰弱してる場合 (われわれ、現代人場合)はリズムを保つ秩序だった拍子が必要となる、と 語っている。 一般に生命事象には「(どんな種類のものであれ)妨害あるいは欠乏はそ れに見舞われた生命過程を強化する」[(B)82ぺ]という事実がある。湿 った大地ではほんの指の長さしか根を生やさない植物が、砂漠では何メート ルもの深さまで根を下ろし、根毛の数を何倍にも増やす。先端を石膏で固め ると、妨害に向けられる成長圧は12気圧まで高まる。動物の内臓器官は使 用されれば強められ、使用されなければ弱まる。したがって抵抗に刺激値を 与えてみる、一定の条件のもとで精神が生命事象の道を遮断すると、その遮 断された生命事象の中に平均値を超えた圧力をおこさせる作用が生起する。 つまり拍子(精神)はリズム(生命)を強める働きをするのだ、とクラーゲ スは語っている。 (B)87ぺより引用 二拍子においては繰り返される間合いが同一であるところに精神が証明さ れ、それに対して上昇と下降とが交代するところに生命が証明されるのであ る。規制する境界を設定することと、揚音と抑音の交代やアクセントの強弱 の交代によって設定された境界に向かって駆り立てられるように感じること とはそれぞれ別のことである。以前に詳しく述べたように単に精神だけでな くなおそのほかの何かが二拍子には関与していなければならないのであるが、 いまやこれこそリズムであることがわかった。そのときには未解明のままに おかれた疑問、つまり受動的に聞き入る人は確かに系列は聞き取るが、なぜ 一音系列を聞き取らないのかという疑問に対する回答はこうである。なぜな らその人の中で行なわれる境界を区切る精神の行為は拍動の上昇と下降とに よって同時に規定されているからである。もちろん本物の脈拍は韻律的なチ ックタックとは全く異なるものであり、むしろ急激に上昇し砕け散って下降 する波に似ている。聞き手が機械が打つ拍子の規則的な継起を聞いてときお りそれと意識しないでイッチニ、イッチニ、イッチニと言うふうに数を数え るきっかけを与えるようなものではまったくない。このことからはっきり言 えることは、分節化はたとえ生命的揺動を必要としてはいても精神的加工の ために行われるのである。そのようにして発生した系列が拍子の系列になる なるためには、この生命的揺動が精神的加工に劣らず同じように意のままに なり効力をもつものでなければならない。 【荒木のコメント】 要するに結論は「拍子(精神)は、リズム(生命)と抗争しながら、しか もなおリズム(生命)と結びつく」(B)86ぺ、ということを語っている。 逐条的に分かりやすく言っていけば、拍子の典型である二拍子においては、 精神は等間隔な規則的反復で示され、生命は上がり下がりの交代で示される。 規則づける境界を設定する精神作業と、揚音と抑音、あるいは強音と弱音の 交代による境界づけへとせきたてる生命作業がある。二つは別ものである。 が、二拍子には精神だけでなく、リズムも関与している。受動的に知覚する 人においても、境界づけする精神行為に脈拍の往復運動が同時に作動してい る。もちろん本物の脈拍はチックタックという拍子とは全く異なるものであ り、脈拍の上昇と下降は、上昇し下降する波に似ている。イッチニ、イッチ ニと機械的でかつ規則的な打音は、脈拍がきっかけでおこるのではない。こ うした数かぞえの分節化は精神の加工作用がしからしめているのである。そ れに加えて生命の働きが有効に作用しているからである。生命的揺動が拍子 の規則的系列に有効に働いているからである。 つづく段落では「ガラガラ、リンリン、ガチャガチャ鳴る自然音(拍 子)の音色の中にリズム値を見い出すことができる」と書いている。未開人 の舞踏の音楽の中に、椀型小太鼓の単調な繰り返し、貝殻のタンバリンのカ チャカチャ、踊子の腕輪が動いてカチャカチャと拍子に合わせて鳴る音に、 どんな魅惑的なメロディーよりもはるかにわれわれの血を騒がせ意識を眩ま せるものがある。舞踏の伴奏音は「余りにも内的なものとしてとどまるため ふつうはそれについて説明できにくい。未開人の打拍はそれが厳しく節度を もってなされてもその音色の力で過程全体が大気的な振動で充満されてしま う。この大気の振動は部分的な印象を一つ残らずその息吹で総て包み込んで、 嵐のようなリズムの息づかいの波浪の中に呑み込んでしまう、と語っている。 要するに「第九章では、生命体に抵抗を与えるとかえって生命力を増進さ せうるとおなじく、リズムに拍子の抵抗を与えると、リズムは屈折し、それ によりリズム価を高める。それのみならず、生命力が横溢している場合には、 単調な拍子ですら強大な表現力を発揮するようになる。これらのことを、未 開人の音楽から例証できる、と語っている。 第十章「展望」 (B)94ぺより引用 踊るにせよ歌うにせよ、詩作するにせよ絵を描くにせよ、彫刻するにせよ 家を建てるにせよ、リズム的な造型を生み出す人の立場からこの事態を評価 するか、あるいはリズム的現象に単なる傍観者として立ち会っている人の立 場からこの事態を評価するかということはまったく無関係である。傍観者と しては、わたしが単なる傍観者であることを越えてリズムにとらえられ感動 しているただそのかぎりでだけ、わたしはリズムを体験することができる。 そして造型家としては韻律と拍子を生み出すことを許すわたしの随意によっ てではなく、やはりまたただ心をとらえられ感動することからだけ、わたし はリズムを表現することができるのである。造型家でもその自主的な行為的 活動は、その随意が無力化してリズム的拍動に運ばれていく、まさにそのか ぎりでリズムを形成するであろう。 【荒木のコメント】 クラーゲスは、リズムの「喜び」は何に基づくのか、と問う。それは造型 がもつリズム的内実と一致したときでありそれに尽きる、と答える。リズム が人間を深く感動させ、心の底から揺さぶる作用は、リズムを造型する人の 立場から考えても、傍観者としてリズムとかかわる人の立場から考えても、 同じことである。違いはない。傍観者としては、わたしが単なる傍観者であ ることを越えてリズムにとらえられ感動しているただそのかぎりでだけ、リ ズムを体験することができるのだ。造型家としてはやはりただ心をとらえら れ感動することからだけ、リズムを表現することができるのである。造型家 でもその自主的な行為的活動は、わたしの随意が無力化してリズム的拍動に 運ばれて、リズム的脈動に入り込みはまり込んだ時に、まさにそのかぎりで リズムを形成し表現することができるのである。傍観者でも、造型家(形成 者)でも、韻律や拍子を作り出そうとする随意(恣意)の力ではなく、随意 (恣意)が弱まり、無力化して、感動によってのみ、感動のリズムに心を奪 われている・はまり込んでいる・のっているときのみ、リズム的拍動にひた すら運ばれてたゆたっているときのみ、リズムを形成することができるので ある。 (B)95ぺより引用 同じような技量の二人の練達の踊り手がいたとしよう。二人が踊り始めた が、一人はいままさに激しい怒りにとらえられており、一方でもう一人はす ばらしい幸運に出会っていたとする。二人のうちのどちらがそのような状況 でよりリズム的に踊ることができるであろうかと、自問してほしい。答える までもないことであるが、しかしなぜ幸運に恵まれた人のほうがよりリズム 的に踊れるのかという疑問については答える必要がある。しかしここでまた 思いがけなく同じ効果を示す別の場合が思いつかれる。その他の比較できる 事情が同じであるときはやはりまた若者は年寄りよりもよりリズム的に踊る。 少しだけ酔った人は完全にしらふの人よりよりリズム的に踊る。それゆえ原 始民族の踊りの祭りは、まれならず同時に酒を飲む祭りでもあったのである。 怒りに比べた喜び、老人に比べた若者、しらふに比べた軽い酔いの三つの例 に共通するものとは何か。抑制的感情からの自由あるいは解放である。それ ゆえ情動がリズムを生み出すのではなく、特定の激情、状態、人生段階と結 びついてそれに対立する人生段階、状態、状態、激情につきまとっていたあ る種の抑制が脱落することが、リズムを生み出すのである。しかしそれでは 抑制が解除された後にリズム的に拍動することができるその抑制されたもの とは何なのだあろうか。こう言おう。その答えは既に詳しく示されている、 と。すなわち生命それ自体が抵抗を乗り越え優勢になるにつれて、過程や形 をリズム化するのである。したがってリズムの中で振動するということは生 命の拍動の中で振動するということを意味する。したがって人間にとっては さらにその上に、精神が生命の拍動を狭く抑制している枠が一時的に取り払 われることを意味するのである。 【荒木のコメント】 立腹した人と楽しい気分の人とでは、楽しい気分の人のほうがリズミカ ルに踊る。若者と老人では、若者の方がリズミカルに踊る。少し酔った人と しらふの人では、酔ったの人の方がリズミカルに踊る。これらから分かるこ とは、リズミカルな踊りには「抑制感情からの自由と解放がある」というこ とになる。それゆえリズムを生み出すものは情動・情緒の働きではなく、 「特定の激情、状態、人生段階と結びついてそれに対立する人生段階、状態、 激情につきまとっていたある種の抑制が脱落することが、リズムを生み出す のである」と書いている。つまり、生命そのものが精神の抵抗を乗り越えて 優勢になるにつれてリズムを生み出すのである、と。リズムの中で振動する ということは生命の拍動の中で振動するということである。これは精神が生 命の拍動を狭くしている抑制から一時的に取り払われることである。リズム 化するものは生命そのものであり、精神が生命の拍動を抑制しているものを 取り払うことで生命リズムの拍動の中で振動することができるのである。生 命は個体にただ「貸し与えられている」だけなのである。リズムのなかで振 動することは心情の発現の一方法であり、生命の大海にひたりたゆとうこと も心情が更新される一方法である。 以下、次節「クラーゲスのリズム論(2)」につづく |
||
このページのトップへ戻る |