2011・8・10再録



       
わたしの高校生論文




  以下の文章は、わたしが高校二年生のときに書いた論文です。題名は、
「奥の細道・分水嶺を辿りて」です。わたしにとっては、初めて活字になっ
た文章でした。
  わたしが在学していた山形県立新庄北高等学校では、年一回、生徒から
募集した論文、随筆、詩、短歌、俳句など、それに生徒会活動報告などを冊
子にまとめて発行していました。論文には、在校教師たちが執筆した論文も
多く含まれていました。冊子名は、『生徒会誌』で、わたしの論文の掲載誌
は、第五号(昭和二十九年十二月発行)です。
  今、自分が高校二年生で書いた文章を読み返してみて、まあ、何て生硬
で、ぎこちなく、論文記述の常道が分かってない、未熟な文章なんだろうと
顔が赤くなってしまいます。まあ、だれだって、こんな若気の幼稚さと無邪
気さを経過して大人になっていくのだから、まあ、よしとしましょう。
  ということで、高校二年生時の文章はそのままに残して、本ホームペー
ジの読者には読みとり易いようにと、小見出し(太字個所)を新たに付け加
え、改行を多くして、下記に再録しています。
  なお、「奥の細道」分水嶺とは、宮城県と山形県の県境に奥羽山脈が縦
走しており、松尾芭蕉が宮城県側(鳴子→中山平→)から山形県側(→堺田→
笹森→赤倉)へと遊吟して歩いた行程の中の、堺田を尾根の頂上(分水嶺)
とする、中山平←堺田→笹森の脊梁の流れの道中を指しています。堺田部落
は、海抜およそ336メートルです。




    
「奥の細道」分水嶺を辿りて
                 
荒木 茂


  第四号本誌上(昨年度発行)に於いて、本校大類秀志先生(国語担当)
が『奥の細道』に於ける虚構について発表しておられました。筆者は『奥の
細道』に於ける平泉出発から尾花沢到着までの調査研究と、その範囲内にお
ける断片的な虚構について発表したいと思う。なお、本稿を一層確実ならし
めるため、識者のご高見をお願いする次第であります。

『奥の細道』本文
  南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎、みつの小島を過ぎ 
 て、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。此道旅 
 人まれなる所なれば、関守にあやしめられて、やうやうとして関を越す。

「岩手の里」とは
  「岩手の里」は一の関、岩手山の二説がある。一の関の説は「遥かに見
やりて」を「後に見ながら、見なして」と解釈し、芭蕉が泊ったと言われて
いる「二夜庵」と言うのがあり、一の関を「磐井の里」と呼んだ事実もある
から相違ないとの説である。確かに一の関を断流するのに「磐井川」があり、
現在も一関地方を「磐井郡」と呼んでいるので「磐井の里」と呼んだのは事
実である。『曾良随行日記』にある、五月十二日、十三日の両日泊ったと言
われる「二夜庵」があり、「後に見なして、見ながら」と解釈すれば、妥当
だと思われるが、これには問題があると思う。
  ここで問題になるのが「遥かに見やりて、岩手の里に泊る」なのだが、
これは平泉を出発して後、約十二里の道のりが特筆すべき事柄がなく、省略
されていると考えた方がよい。俳文にある「岩手の里」と「岩手山」の型か
ら察して、「岩手の里」は、仙台伊達侯の居城「岩手山町」と取った方がよ
い。
  なお、山本安三郎編『曾良奥の細道随行日記』にある「天候と旅宿一覧
表」によれば、次のように書かれてある。「無記」の項は宿泊地名である。

  五月十二日 強風 一ノ関 無記
  同 十三日 良  同所  同
  同 十四日 朝良途中雷雨後小雨 岩手山 無記
  小黒崎、みつの小島は、歌枕、佳景で有名である。


「鳴子の湯」とは
 「鳴子の湯」は、現在の鳴子町である。「鳴子」の地名は、源義経の若君
が、瀬見温泉、亀割峠で生まれ、この地で初めて泣き声を発したことから由
来すると言われている。

「尿前の関」とは
 「尿前」は、現在の尿前部落である。地名の由来については、『宮城県
温泉』には「尿前は「シリトマイの転化歟………」」とあり、また、勝峰先
生の創見もあるが、源義経の若君が初めてこの地で尿した所から由来すると
の説が妥当である。
 「尿前の関」については、荻原井泉水先生は『奥の細道を尋ねて』に於い
て、関所の名残をとどめる物として数品あげてありますが、現在は「つるべ
井戸」だけが名残をとどめておった。
  この関所について、芭蕉は「やうやうとして関を越す」と書いているが、
『曾良随行日記』には次のようの書いてある。

 
壱リ半
  尿前シトマエ、取附左ノ方ニ鳴ノ湯有
  沢子ノ湯御湯成ト云仙台ノ説也
  関所断六ケ敷之出形ノ用意可有之也


  芭蕉はこの関所において精神的な苦しみ、以上の手形の用意すべきによ
っても推察できるが、桃隣(詳しくは後)の「元禄中年陸奥千鳥」や、巌金
太郎先生の『増訂最上郡史』によっても推察できる。

『奥の細道』本文
   大山をのぼって日すでに暮れければ、封人の家をみかけて舎りを求む。
   三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

「大山」とは
  大山は、定説のとおり「中山越え」とするのが妥当である。「中山越
え」とは、中山平から堺田に至る旧道を指す。旧中山小学校から西原の台地
を通り、宮城県と山形県との県境にある関沢に至る旧道である。関沢は、堺
田部落から東方五百メートルほどの所で、現在は二軒の農家があるだけであ
る。
  その中の有路梅治家は元禄九年三月、亡師芭蕉の三回忌に、奥の細道の
旅の跡を慕って奥羽地方を巡った大白堂桃隣が泊った検断の家とされておる。
しかしこれは疑わしく研究の余地がある。
  それ故に、「大山をのぼって日すでに暮れければ」を解釈する場合、
「大山を登り終った時、ちょうどその時に日は暮れてしまったので」として
は妥当でなく、「大山を登ったり下りたりしているうちに日はもう暮れてし
まったので」とするのが妥当である。
  これについては『曾良随行日記』に次のように書いてある。

  壱リ半 村山郡小田島小国ノ内
  中山  ○堺田 出羽新庄領也中山ヨリ入口五六丁先ニ堺杭有


 「村山郡」については、巌金太郎先生の『増訂最上郡史』によれば、そ
の昔、最上郡を村山郡と呼んでいた事実があるらしい。「堺杭」は、土地の
人々に聞くところによると、四十年ほど前までは現存しておったそうである。

「封人の家」とは
 「封人の家」とは、どの場所の、だれの家か。これについては、次の三家
が候補として挙げられるだろう。

  尿前大庄屋 遊佐平右衛門家
  陣ガ森   有路十吉家
  堺田    有路慶喜家

これら三家で取材した話の要旨を次に書こう。

○尿前大庄屋・遊佐平右衛門家の話
 伊達藩領の鳴子地方を治めておった大庄屋で、七間、十七間半の大きな家
であった。芭蕉が関を通ると日が暮れてしまったので遊佐家に泊った。芭蕉
等は一見、乞食のような姿をしておったので、通常、若者たちの寝泊まりす
る部屋(厩屋とは板一枚)に寝かせられた。そこで、二日間の風雨があった
ので、三日目の朝に出発した。芭蕉等が出発した後を下女が掃除すると、
「蚤虱………」の短冊を見つけた。彼が偉い芭蕉であると分かって、若者た
ちを追わせ、中山平の所で見つけた。むりやり遊佐家に引き返させ、ご馳走
をして、若者を従者につけた。
  これら遊佐家の話は、あまりにも俳文に即しており、こしらえた話のよ
うである。これについて、荻原井泉水先生も同じ意見を述べておられる。

○陣ガ森・有路十吉家の話
 伊達藩領下の中山平地方を治めておった大きな家で、馬が十二頭、白馬が
一頭、山林が二百余町歩あった。芭蕉については、泊ったという口伝だけで、
その他は詳らかでない。

○堺田・有路慶喜家の話
 新庄戸沢藩領下で、現在の家は芭蕉生存当時からの家で、芭蕉のことにつ
いては、泊ったという口伝だけで、その他はつまびらかでない。

 以上、三家の話の要旨を書いたが、『奥の細道』に於ける「封人の家」は、
わたしは、堺田・有路慶喜家であると断定することができた。これは『曾良
随行日記』からも必然的に出てくる家である。『曾良随行日記』には、次の
ように書いてある。

  十六日 堺田ニ滞留大雨宿和泉屋庄ヤ新右衛門兄之
  十七日 快晴堺田ヲ立


「和泉屋庄ヤ新右衛門兄」とは
  それでは、和泉屋庄ヤ新右衛門兄について吟味してみよう。
 「和泉屋」については、とんと見当がつかない。有路慶喜家は村人から通
称「親方」と呼ばれている。本校の早坂宗成先生(歴史担当)は「庄屋は地
方によって呼び名が違い、この地方(新庄市を中心)では親方と呼んでいた
らしい」と説明された。これで「庄屋」は解決される。なお、堺田部落には、
このような例(茶屋、馬車屋、関沢)が多くある。
  「新右衛門」については、有路慶喜家の菩提寺は最上郡向町にある天徳
寺であり、この寺の過去帳には掲載されていないが、元禄以前に死亡した
「新左衛門」の名が掲載されている。それで推察するに、「新左衛門」と
「新右衛門」とでは、一般に「新左衛門」が早く名付けられたというから、
「新右衛門兄」は「新左衛門」を指し、「新右衛門」は有路家の消息不明に
なられた人か、あるいは、他にお婿さんに行かれた人であろう。また、有路
慶喜家は、堺田部落でも稀に大きく、どっしりとした、いかにも庄屋らしい
家である。

 『奥の細道』本文
   蚤虱馬の尿する枕もと


 「封人の家」候補に挙げた三家の間取りを聞くに、どれも厩舎が脇にある。
しかし、それ故に芭蕉が厩舎に寝せられたと解するには少し無理があるだろ
う。
 「馬」と「尿」については、地名が「尿前の関」なので「尿」の字が出
た、堺田は小国郷に属し、馬の産地で有名なので「馬」の字が出たと解する
のは妥当でなく、「馬」も「尿」も素直に解釈して、よしなき山中の状態・
様子をよく表した句であるとするのがだとうではなかろうか。詳しくは後に
述べることにする。

『奥の細道』本文
  主の云う、是れより出羽の国に大山を隔てて道さだかならざれば、道し
  るべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ひて人を頼み侍れば、
  究極の若者、反脇差をよこたへ、樫の杖を携へて、我々が先に立ちて行
  く。けふこそ必ず危き目にも逢ふべき日なれと、辛き思ひをなして後に
  ついて行く。主のいふにたがはず、高山森々として一鳥声聞わず、木の
  下闇茂りあひて夜行くが如し。雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け
  踏み分け水をわたり岩に躓きて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に
  出づ。かの案内せしをのこ云ふやう、此の道必ず不要の事あり、恙なう
  送りまいらせて仕合せしたりと、悦びて別れぬ。あとに聞きてさへ胸と
  どろくのみなり。


「大山」について
 「出羽の国に大山を隔てて」の「大山」とは、どこにある山か。大多数の
研究者は、漠然と「大きな山」を指してると解してるが、大阪女子大学の山
崎喜好先生は、大森山、熊ノ返上、戸平山を指してると言い、いろいろある
が、わたしは山刀切峠(なたぎりとうげ)を指してると思う。理由は後に述
べる。

「最上の庄」について
  尾花沢町と新庄市の二説がある。荻原井泉水先生は新庄市と断定してい
る。学習院大学の岩田九郎先生は「新庄市を中心とする最上領内」と断定し
ている。奥の細道実地踏査に来ていた新潟県立長岡第二高校の大島秀夫先生
に偶然にお会いした時、これについて質問したところ「元東北大学・飯野哲
二先生は随行日記発見以前に、赤倉の山刀切峠を越えて、最上の庄は尾花沢
であると断定なされ、随行日記にはやはり、山刀切峠を越えて、尾花沢に行
った事実が記され………」と語っておられた。
  これらの事柄や土地の人々に聞くところによって「最上の庄」は尾花沢
を指し、その堺田、笹森、赤倉、一刎、尾花沢の道中の唯一の山「山刀切
峠」が「大山」であると断定する。
  では、紙数の関係上、堺田と尾花沢間の随行日記、ならびに最上町向町
に現存する芭蕉の句碑についての記述は割愛し、最初に約束しておいた本研
究行程範囲における断片的にはなるが虚構論について書くことにしよう。


     本論個所の行程にみられる虚構論


  芭蕉の翁、本名松尾甚七郎宗房と言い、元禄二年三月二十七日を首途と
し、門人曾良を伴って、江戸深川芭蕉庵を出発した。漂白奥羽長途の遊吟旅
行を試み、その最大の目的地松島の好景に陶酔した。三代の栄耀一睡のうち
にして功名一時の叢、田野となり果てた平泉で時移るまで涙を流した。象潟
の好景を見んと南部道を後にし、とぼとぼと羽前の国に向うのだった。
  ここから「奥の細道・分水嶺」の行程領域が始まる。およそ二千四百キ
ロに上る奥の細道全行程の中で最大の難所、死線を越えてと称されている
「南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎、みつの小島を過ぎて、
鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす」が始まるのであ
る。
  奥の細道に於ける虚構についてはいろいろ論じられているが、本校・大
類秀志先生(国語科担当)は、本誌第四号に於て、冒頭では「極端に言いま
すとつくりものこしらえものである」と言い、結句では「つまり虚構の文は
芸術的な仕上げを加える所から来る」と言っておられる。蕉門十哲の一人、
各務支考は「言語は虚に居て実を行うべし。実に居て虚に遊ぶ事はかたし」
と言っている。つまり、芸術的な仕上げをするためには虚構が必要なのであ
る。
  本稿の『奥の細道』行程個所の範囲内に於ても、二三それを言い出すこ
とができる。
  ひとつは「三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」である。堺田滞在の
随行日記は前記しておいた。それによって分かることは、堺田滞在は、元禄
二年五月十六、十七日の二日間である。これは「二日風雨荒れて」と言うよ
り「三日風雨荒れて」と書いたほうがよりインパクトが強くなり、前にも書
いたが、よしなき山中でやるせなく日をつぶす気持ちや、蚤虱にまで悩まさ
れるどうしようもなくふさいだ気持ちが特出し、余情性が出るので、二日が
三日に推敲されたのだろう。
  次は、芭蕉研究家たちが、この個所を「奥の細道最大の難所」とか「死
線を越えて」と断定しておられるが、そう断定することができないように思
う。『奥の細道』に於いて、異色のある個所「一家に遊女も寝たり萩と月」
の導入部、つまり、「今日は親不知、子不知、犬戻、駒返しなどいふ北国一
の難所を越へて、疲れ侍れば」の個所(土地)であったかも知れない。この
問題は、『奥の細道』全般を研究している研究家に期待する。
  筆者の見聞によれば、笹森から新庄に至るには、尾花沢経由が本線で、
瀬見温泉経由が支線であったらしく、瀬見経由に於いては、現在の県道は支
線で、亀割峠を通るのが本線であったらしい。また、岩出山から封人の家と
一応断定した有路慶喜家までと、同家から尾花沢までの難所を土地の人に聞
くに、大探沢、小探沢があって、特に鳴子から堺田までに至る方が困難であ
ったらしい。この点、有路慶喜家からあとを困難と書いている『奥の細道』
本文とは矛盾する。ここに虚構を見出すことができる。
  これは、芭蕉が尿前の関に於ては事実、精神的に苦しんだので、有路慶
喜家では中間的(精神的、肉体的)に苦しみ、次に肉体的な苦しみを書こう。
これに「高山森々として鳥一声きかず………」の芭蕉独自のタッチで筆を走
らすことが作用して、芸術的な仕上げのための虚構・虚実論からしぜん難儀
でない道をこう表現したのであろうと思う。

「蚤虱馬の尿する枕もと」の句
  この句に対していろいろ論じられるだろうが、筆者は次の二点から考え
てみよう。「去来抄」と「黒冊子」に書いてあることから考えてみる。

○去来抄に曰く
  去来曰く、いとざくらの十分に咲きたる形容、よくいひおほせたるに侍
  らずや。先師曰く、いひおほせて何かある。余ここに於て肝に銘ずる事
  あり。
○黒冊子に曰く、師のいはく、
  俳諧の益は俗語を正すなり。つねに物をおろそかにすべからず。此の事
  は人の知らぬ所なり、大切なりと伝へられ侍るなり。


  それでは、芭蕉はどれ程、この句を余情的に、また俗語を生かしている
だろうか。さすが俳聖だけあって十二分に生かしていると思う。芭蕉は季吟
(貞門)、梅翁(談林)に学び、俳諧のクライマックスなる独自の俳風を打
ち立てた。芭蕉芸術の発展過程を如実に表したものとしての文学史的に価値
大なる句であるということができるであろう。
  本校・大類秀志先生(国語担当)は、本誌第四号の紙上においてこう書
いている。「芭蕉はこの作品の中に立ちあらわれる自己を客観化し、それに
ユーモラスな扱いを加えているのです」と。
  頴原退蔵先生は『俳諧文学』においてこう書いている。「俳諧の通俗性
に於る文芸的意義は置きおきかえられたにして、をかしみの要素が全く捨て
られたのではない。それどころか蕉風俳諧の展開は、言わばこの通俗性に依
存するをかしみの内面的深化だと解することも出来た」と。
  これらの説明から考えると、この句の内面的深化の空白は、をかしみを
超脱した、さび、しをり、ほそみ(かるみはない)で充満し、芭蕉がいかほ
ど風雅の誠を愛したかということが、筆者の脳裏に底光りするような仄かな
気韻を幽かに遠く暗示し、筆者をば、西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於
ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける、其の貫通する物は一つなりに
於ける物の次元の違った永遠の世界へと誘惑するのである。   (終り)



            
後日譚


  上記の拙論は、とりたてて見るべき内容のない駄文ですが、敢えて一つ
だけあげるとすれば、「封人の家は、有路慶喜家である」と見定め断定して、
表明していることです。この指摘を、日本で初めて発信した論文であり、
ちょっぴりと意義がある言えるかもね。
  前述したように、この拙論は、わたしが高校二年生の時に書いたもので
した。在学高校の『生徒会誌』(昭和29年12月5日発行)に発表したも
のでした。
  この拙論発表から15年後のことです。昭和44年(1869年)に、有路
慶喜家は、松尾芭蕉『奥の細道』の中にある「封人の家」として国の重要文
化財の指定を受けました。「奥の細道」全行程で、芭蕉が泊った宿として
そのまま現存している建物は、この「封人の家」だけだそうです。
  現在は、下記のWebページに見られるように「封人の家」には「奥の
細道」の多くの研究者が訪れており、観光スポットとしても、たくさんの
見学者が「封人の家」参観に訪れるようになっています。
  読者の皆さまも、近くにお立ち寄りになったとき、ぜひ見学なさってみ
たらどうでしょう。


「封人の家」に関するWebページ

  ☆封人の家「おくのほそ道」俳句学習教材
http://www.hirama.net/wiki/wiki.cgi/okuno?page=%C9%F5%BF%CD%A4%CE%B2
%C8


  ☆封人の家MMステーション
  http://mm-station.org/kankou/post-1588

  ☆最上町資料写真と解説(1)
  http://www.bashouan.com/pwPhoto12.htm

  ☆奥の細道歩き旅・鳴子温泉〜赤倉温泉へ
  http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-33.html


封人の家と「分水嶺」の写真あり
執筆時の高校二年生のとき、分水嶺の場所があるとは知りませんでした。
 論文の題名と偶然の一致です。今、この写真をWEB上で見出して、
 ちょっぴり、驚いています。


http://45723082.at.webry.info/200802/article_9.html へのリンク

 http://blogs.yahoo.co.jp/kpmjp106/20490934.html へのリンク

 西村京太郎は、小説の中で「分水嶺に見えない分水嶺」と紹介しています。
 下段引用参照。


「封人の家」の虚構に関するWebページ●
   
(「虚構」とは、嘘を書いて芸術性を高めることです。)

  ☆奥の細道・封人の家考
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_208.htm

  ☆最上町と封人の家と「蚤虱」の句について
    http://www.bashouan.com/pwMogamimachi.htm

  ☆芭蕉は眠っているか?「封人の家」
    http://www.hakubutu.jp/?p=1105



        ●ある小説の中にある分水嶺描写

 西村京太郎『生死の分水嶺・陸羽東線』という新潮文庫があります。平成
28年3月1日発行の文庫本です。この本の中に上述してきた堺田にある分
水嶺の自然描写があちこちに記述してあります。上で書いてきた分水嶺がこ
の小説の舞台になっているのです。
 分水嶺の傍らでひとりの若い女性(川島マリヤ)の死体が発見されます。
十津川警部が活躍します。例の西村京太郎のミステリー小説です。
 この小説の中にある、分水嶺を描写している一部分を下に引用してみます。
「分水嶺に見えない分水嶺」という描写文もあります。
 下記引用場面は、ストーリーを読んでなくても、堺田にある分水嶺の様子
がありありと想像できるように書かれています。フィクションとはいっても、
分水嶺の現実の様子をかなり正確に描写していると、思います。


「四月の末でも、この辺は雪がありますよ」
 運転しながら、安東が教えてくれた。
 どの車も、まだスタッドレスタイヤを履いているという。
「この先に、堺田という駅があるのですが、その近くに、分水嶺があります。
そこで、川島マリヤさんが亡くなっていました」
「分水嶺というと、そこから川が日本海へ流れていくか、太平洋に流れてい
くかが分かれるという、その分水嶺ですか?」
 遠山が、聞いた。
「その通りです。これから、そこへ向かいます」
 と、安東が、いった。
「分水嶺というと、当然、山の上のほうですよね? まだ、雪がたくさん残
っているんじゃありません?」
 君子が、目を細めて、きく。
「それがですね、ここでは、海抜三百メートルくらいの高さのところにある
んですよ。全国的に見ても、珍しいそうです。今では、そこがパワースポッ
トになっていて、家族連れや若いカップルが見に来たりしています」
 と、安東が、教えてくれた。
「高さ三百メートルの分水嶺ですか」
「正式には、三百三十八メートルだと、いわれています」
 外が寒いせいか、安藤刑事が、気を利かせて、車のヒーターを入れてくれ
た。
 道が、緩やかな上りになる。一面の雪景色である。
 三百三十八メートルがどれほどの高さなのか、遠山には、見当がつかなか
った。さすがに、車は、登り坂に入って行く。しかし、車は、すぐ停まって、
「着きましたよ」
 安藤が、いった。
 遠山と君子の二人は、車の中から周囲を見渡したが、分水嶺らしきものは、
どこにも見えない。平坦な雪景色である。
 遠山の頭の中では、分水嶺というからには、滝のような渓流が、二手に分
かれていくところを想像してしまうのだが、そんなものは、どこにも見当た
らなかった。第一、滔々と流れる川自体が、どこにも見当たらないのである。
山脈も見えない。
 それでもあ、安藤刑事にうながされて、二人は、車から降りた。
 風が、やたらに冷たい。おまけに、粉雪も舞っている。
 そこにあったのは、石造りの分水嶺の碑であった。
 しかし、目に入ったのはそれだけで、川らしきものは見当たらない。
「こちらです」
 安藤が案内してくれたところにあったのは、どうみても、小川である。
 さすがに、流れている水はきれいだが、規模でいえば、川というよりも、
ドブといってもいいくらいだ。水がチョロチョロ流れているが、底が浅い。
「これが、分水嶺です」
 と、安藤が、いった。よく見れば、一本になって流れてきた水が、そこで
二つに分かれている。
 君子が、無邪気な声で、
「まるで、田んぼのあぜみたい」
と、いった。
 たしかに、見た目は、そのとおりである。そこに、小さな案内板が立って
いた。
 といっても、一メートルぐらいの棒が立っていて、それに「太平洋」「日
本海」と書いて方向を示した板が、挟んでいるだけで、どうみても手造りで
ある。これが、はたして大河となって、日本海と太平洋に、それぞれ流れて
いくのだろうか?
 しかし、よく見れば、チョロチョロとだが、水は流れている。平坦に見え
ても、左右に、ゆるい傾斜があるのだ。「分水嶺に見えない分水嶺」という
言葉が、遠山の頭に浮かんだ。
「ここに来た皆さんは、この景色を見て、ビックリされるんですよ。こんな
小さいものなのかと、意外に思われましてね。分水嶺というと、皆さん、も
っと壮大なものを、想像してしまうようですね」
 安藤は、さらに言葉を続けて、
「この二つに分かれた小さな流れのそばで、川島マリヤさんが、うつ伏せに
倒れていたのです」
 たしかに、そのあたりには、白い雪が、まだ残っていた。
 死体で発見されたときの川島マリヤは、まるで雪に包まれているかのよう
に見えたと、安藤が、いった。
 少し間をおいて、
「寒いから、車に戻りましょう」
 と、安藤が、いった。
 三人は、車に戻り、川島マリヤが死んでいたという場所に、車から目をや
った。

      西村京太郎『生死の分水嶺・陸羽東線』18ぺ〜23ぺより

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