音声・身体・文化のエッセイ   2016・11・11記





    
声に表情を生じさせる条件




  
目次

    はじめに
   (1)声は声帯のふるえで作られる
   (2)声の表情は呼吸に根をもつ(その1)
   (3)声の表情は呼吸に根をもつ(その2)
   (4)声は高度な伝達機能としてはたらく
   (5)声は気晴らし、気休めの機能としてもはたらく
   (6)声は認識思考力を生みだす
   (7)声は行動を調整したり発奮させたりする
   (8)声はその人の成育歴に影響を受けている
   (9)声はその人の思考スタイルに彩られている
   (10)声にすることで社会的責任が生ずる
   (11)声の表情は心身状態を反映する
   (12)声は場面の雰囲気に誘発されて多様な表情となる
   (13)声は感情の高揚感を生む
   (14)声はコトバの霊力を高める作用をもつ
   (15)声にはいろいろな表情がある
   (16)表現よみは、目で読んで、身体に感じて、声にあらわす
   (17)学校教育では音声指導は軽視されがちである



            
はじめに



 声の本質とは何か。わたしなりに声の本質看取を試みてみた。ラフなスケ
ッチであり、まだまだ足りないところがあるが、ここらへんでアップするこ
とにした。
 本稿における「声」の定義であるが、通常の人間社会の中で通達の手段と
して使われている、人間の発声器官からでる音声のことを指す。他人への通
達だけでなく、自分への通達(ひとりごと・考え)をも含む。動物の(鳴
き)声、鐘の声、八十歳の声を聞く、などの「声」は含んでいない。

 声(シニフィアン)の機能だけを取り出そうと試みたのだが、どうしても
言語(シニフィアン+シニフィエ)の機能とのからみで、言語全体の機能に
ついて論じなければならぬところも多々あった。読者からのご叱正をいただ
きたい。


  
 (1)声は声帯のふるえで作られる



 声を出すことを「発声」という。声はのどぼとけにある声帯に息(はく
息)が当たって、声帯がふるえて出てくる。声帯から出る声はとても弱い
「ブォーブォー」という声だそうで、これを「喉頭原音」という。
 声帯から出た「喉頭原音」を共鳴させると、大きな声となる。身体全体が
共鳴体だといわれる。他人と話したり音読したりするときは、特に顔面(口
や鼻やのどや胸などのすきまにある空気や骨)に声を当てて共鳴させると、
よく通る良い声になる。ほんとは頭部や胸部や腹部など身体全体が共鳴体で
ある。顔面だけでなく、身体全体に共鳴させると、どならなくても、長い時
間、らくに声を出すことができる声になる。
 「ア、イ、ウ、エ、オ、カ、キ、……」など、一つ一つの音を作って出す
ことを「発音」という。声帯のふるえが口や鼻やのどや胸などに響いて大き
な声になることは上に書いたが、その声が唇を開いたり閉じたり、摩擦させ
たり破裂させたり、舌を歯茎に付けたり離したりなど、種々の唇の動きと舌
の動きの変化、つまり構音(調音)することで、一つ一つの音(発音)が作
られる。
 声帯の長さ、太さ、厚みが人それぞれに違う。唇の動かし方や舌の使い方
も人それぞれに微妙に違う。口腔内の筋肉や咽頭や鼻腔の形も微妙に違う。
だから共鳴の仕方も音の作られ方もちがってくる。人それぞれに声質がみな
違ってくることになる。


 
(2)声の表情は呼吸に根をもつ(その1)



 呼吸とは、息を吸ったり吐いたりすることである。口や鼻から空気が入っ
たり(吸気)、出たり(呼気)、することである。
 呼気(吐く息)で一つ一つの音が作られる。声帯のふるえ、唇や舌の動き
による構音(調音)、共鳴などによって一つ一つの音(発音)が作られる。
このことは前節で書いた。
 「息」とは何か。口や鼻から胸の中にある肺に空気が入ったり、肺から空
気が出たりする、その空気のことである。「息」とは、口から出たり入った
りする空気のことである。息を吐くとか、息を吸うとか、息が匂うとか、声
を出すとか、それら出し入れする空気を「息」という。
 「息づかい」とは、息の出し入れの様子のことである。「息づかいが激し
い」といえば、たとえば突然に猛スピードで走り出して息の出入りが急速に
はやまる様子のことである。「息づかいが止まる」といえば、死ぬことであ
る。または驚きや恐れなどのために一瞬息が止まる様子のことである。「息
が詰まる」といえば、息が十分にできなくなる様子のことである。
 息が合う、息が切れる、息を殺す、息をのむ、息をためるなどは、息づか
いの出し入れのそれぞれの様子のことである。
 息づかいは感情の変化と連動している。激しいショックを受けたり、緊張
を強いられたりすると、息づかい(息の出し入れの様子)がいろいろに変化
する。息が乱れたり、急に息が止まったり、すばやく息をしたり、いろいろ
な息づかいになる。
 声をだす源は呼吸(息づかい)にある。声のいろいろな表情は呼吸(息づ
かい)を源としている。声は息づかいの変形した形態である。これが音声表
現の萌芽である。息づかいのありようによっていろいろな声の表情が生まれ
出る。息づかいのありようが、声のリズム、大小、強弱、緩急、上げ下げ、
明暗、ひびきなどいろいろな表情となって現れ出る。
 話し手の表現意図(漠然とした思いのカタマリ、人間的欲望)が息づかい
の構え(軸)を作る。話し手の表現意図(思いのカタマリ)に連動して起こ
る感情変化のありようが心臓の鼓動や血流の流れに変化を与える。心臓の鼓
動や血流の流れに影響を受けた息づかいが話しの言いぶりや表情の生命リズ
ムとなって生起してきたり、話しに生動感(メリハリ)与えたりする。
 たとえば、どろぼうしたことが見つかり追いかけられるとしたら、「つか
まったらたいへん」と全速力で走りだすことになり、心臓や血流が速くなり、
息づかいが激しくなる。どろぼうの「つかまったらたいへん」という思いの
カタマリが全速力で走りださせるきっかけを与え、心臓や血流が速くなるき
っかけを与えられ、全速力で走りだす。全速力で走り出しているときの呼吸
(息づかい)のありようが、走っているときのスピーチの表情に種々の変化
を与える。声のリズム、大小、強弱、緩急、上げ下げ、明暗、ひびきなどい
ろいろな表情の変化が加わる。



 
(3)声の表情は呼吸に根をもつ(その2)



 音読(音声表現)のメリハリづけも呼吸(息づかい)を源としている。呼
吸(息づかい)のありようが音声表現のメリハリに抑揚やアクセントなど
種々の表情をつけていく。多様なメリハリの音声表情は、息づかいに根をも
ち、身体から立ち上がる。
 味気ない文字の羅列から文章内容を情感豊かに声で立ち上がらせようと意
識し努力して読むと、上手下手の差はあるが文字が息づいて種々の表情の声
となって立ち上がってくることになる。
 文章内容が読み手に大なり小なり、人それぞれに差はあるがインパクト
(感動)を与える。強い弱いの差はあるが何かしら読み手の胸にひびかせる
もの、訴えかけるものがある。読み手の感動の深まりの多少はあるが、なに
かしら読み手の心臓の鼓動や血流や呼吸(息づかい)に変化を与える。イン
パクト(感動)の深さ浅さに制御された心臓の鼓動や血流や呼吸(息づか
い)となるはずだ。
 驚愕の場面は息づかいのテンポは急速にはやまる。静寂な時間がゆったり
と流れる場面は、息づかいのテンポはゆっくりと閑寂になる。スポーツ観戦
で味方チームを応援している場面では、応援の声は感情が高ぶってせわしな
く息せき切った息づかいになるだろう。
 物語文を読むと、物語世界が読み手の身体内部に入りこみ、身体が物語世
界の時間・空間の中で息づきはじめる。そのリズムに合致した心臓の鼓動や
血流や呼吸(息づかい)になる。物語世界の流れの中に自分をおき、物語世
界のリズムに合致した呼吸(息づかい)で音声表現するようになってくる。
 文章の区切り方、間のあけ方、つなげ方、種々のメリハリづけのしかたは、
呼吸(息づかい)を源として、それと連動し導き出される。文章内容が読み
手に与える感動(交感・共振・身体との呼応・感情変化)のインパクトのあ
りように即応した呼吸(息づかい)となり、それに統御された種々のメリハ
リづけの音声表現となって表われ出てくる。
 文章の音声表現で最も重要なことは、間のあけ方だと言われている。間は
魔に通ず、生かすも殺すも間しだい、とも言われている。間のあけ方で重要
なことは、息は切っても、思いはつながっていることである。文章の意味内
容に導かれたつながる思い(感動、共振)に統御された息づかいのリズムが
微妙な間(区切りの間、情感の間)を作っていくことになる。
 物語の音声表現では、意味世界に先導されて、こういうメリハリ(情感)
で音声表現していこうという思い(想韻)をいっぱいにして読んでいくこと
が重要である。物語世界と読み手の呼吸(息づかい)のリズムが早くから合
致すると、そのあとはスムースによい調子で音声表現は流れていくようにな
る。間のあけ方もうまくいく。
 わたし(荒木)の文学作品の語り口分類の一つに「一人称人物の目や気持
ちをとおした地の文」がある。この地の文の音声表現のしかたは、一人称人
物になりきった息づかいで音声表現していくとうまくいく。一人称人物に同
期同調し、その語り手人物と同じ心理感情になって、つまり読み手の息づか
いを一人称人物の息づかいにまかせて、のっかっていく音声表現をしていく
とうまくいく読み方になる。(文学作品の語り口分類については、拙著『音
読の練習帳2』(一光社、1989)74ぺを参照)



 
(4)声は高度な伝達機能としてはたらく



 声は他者への高度な伝達機能として働く。このことは当然なことで、ここ
に詳細を書く必要もなかろう。ほかの動物とくらべて人間の言語は高度な伝
達機能をもっているからである。
 書店に行けば『上手な話し方』『論理的な話し方』『話し上手は聞き上
手』類の書籍がたくさん並んでいる。これらには上手な伝達のしかた、下手
な伝達のしかた、上手なコトバづかい、伝え方のコツ、敬語の使い方、音
調・言いぶり・言い方、態度、顔付き、物腰、服装などいろいろと書いてい
る。
 人間の伝達手段としては手話とか身ぶりとかサインとか標識とかイコンと
かいろいろあるが、言語は最大の高度な伝達手段であることは言うまでもな
い。類人猿から人類へ移行した当時、集団生活の伝達手段として言語(話し
コトバ・音声)が伝達ツールとして出現した。年月が経るにつれ、音声の物
質的記憶のツールとして文字が出現した。音声で存在していたコトバを視覚
化するための記号として文字が出現した。このことから分かることはコトバ
の本質は音声にあるということである。「字の言葉」は仮の姿であり、「声
の言葉」が言葉本来のものであると言える。
 伝達のしかたには、「文字による」「音声による」の二つがある。音声か
ら文字へと物質化することで肉声(言いぶり、微妙な綾)は切り捨てられ、
意味が重視され、難解性が生じてきた。文字で書かれた文章は、音声が消滅
し、身体性も消失してしまっている。生き生きした肉声の音声表情がふり落
とされている。文字(文章)を音声表現するとは、音声の消滅した文字から
活気と生彩に満ちた声の表情を蘇生させる行為である。
 文字(文章)は味気ないインクのシミの羅列にしかすぎない。音声による
伝達は受け手に音声表情によって大きなインパクトを与える。強調、上げ下
げ、速さ変化、強弱変化、間のあけ方、リズム変化などでより多くの生き生
きした情報を与える。また音声による伝達は相手にエモーショナルに働きか
け、文字だけでは伝えられない真実を伝える。



 (5)声は気晴らし、気休めの機能としてもはたらく



音声による話しことばは、文字による書きことばと較べて堅苦しさから離
れることができる。文字(文章)を書いたり文字(文章)を読んだりするこ
とよりも、直接に声で話したり聞いたりする方がずっと容易で気苦労なしで
のんきに構えて通達ができる。
 声による通じ合いは、伝達内容よりも親密な絆や人間関係を深めるために
も使用される。そこでは伝達内容はあまり重要でない語り合いもある。茶飲
み話、井戸端会議、四方山話、無駄話、世間話、とりとめのない立ち話の類
である。雑談をノリで楽しむ語り合い、気がおけない友だちとわいわい楽し
む語り合いの類である。
 これらは気晴らし、気休め、心理的解放のための語り合いである。特別の
要件はなく、屈託のない、気らくな、気安い、出たとこで話が移っていく語
り合いだ。日ごろのうっぷんをぶちまけて、心がすっきりする語り合いもあ
る。意味内容よりも、相手と触れ合うための、親密の度を深めるための、気
晴らしのための、時間つぶしのための語り合いでもある。
 ハイデガーはこれらの語り合いを「空談」と呼んで蔑視している。ハイデ
ガーは「空談」は気晴らし、気休めでしかなく、本来的な実存の可能性を見
失っている語り合いである、と言う。「頽落」している無駄話でしかない、
と価値づけている。ハイデガーは、気晴らし、気休めの機能としてはたらく
話しコトバを人間本来の価値あるコトバではない、と評価する。そして死と
向き合うコトバを高く評価している。(詳細はハイデガー『存在と時間』第
4章35節を参照)


   
(6)声は認識思考力を生みだす


 黙って考えているとき、わたしたちはアタマの中でコトバを操作して考え
ている。つまり、ひとり言をしながら考えている。ひとり言をするとは、何
かについて考えていることである。ひとり言は認識思考のツールである。
 ひとり言は、考えコトバ、思考のコトバである。アタマの中だけでひとり
言しながら何かについて考えるコトバを内言(内語、心内語)という。それ
に対して口唇から外界へ声を出して他者へ伝達するコトバを外言という。外
言は必ず内言を通して語られるコトバであるから、外言を外内言と呼び、内
言を純粋内言と呼ぶ学者もいる。
 黙ってのひとり言は、音声を伴ったコトバ操作である。アタマの中だけで
しゃべっている考えコトバ、アタマの中だけで音声を伴った考えコトバであ
る。アタマの中だけで自分に向けて音声を伴って操作しているコトバ、それ
は考えコトバである。ひとり言とは、黙って考えている音声つきの考えコト
バである。ひとり言はきちんと整った文であるとは限らない。単語の羅列や
術語だけの羅列である場合が多い。
 ひとり言をするとは、無意識を意識化することでもある。ひとり言は、意
識の有意味作用を生みだす。内辞としてのひとり言は、前言語状態(意識と
無意識とのあわい、意識の深層)の中で、表現意図(その人の瞬間々々に点
滅する人間的欲望)の求めに応じて不規則に浮遊してくるシニフィアンを結
びつけ、組み合わせ、組織化していく。こうして表現者の表現意図を形成し
ていく。
 ひとり言は、無意識を意識として呼び出し、思考内容をコトバ(シニフィ
アン)でからめとってまとまりのある観念として定着していく。ひとり言が
継続すると断片的なコトバ(断片的な思考内容)がちらちらとアタマの中に
浮遊し、それらを結びつけ整序づけていくことになる。黙って考えるとは、
それらちらちらを整理し、論理的整合性のある文+文として定着していくこ
とになる。
 アタマの中でひとり言を操作することで、わたしたちは客観世界について
の認識思考を深めていくことができる。客観世界は、意味場としての思考対
象であり、主体内部ではマグマ状のカタマリ、意味発生の現場である。ひと
り言という声つきコトバを操作することで、ときに黙ってひとり言をしつつ
考えを深めたり、ときにひとり言を小さく声に出しつつ考えを深めたり、と
きにひとり言を紙に書いて考えを深めたり整序づけたり、他者と語り合いな
がら考えを深めたり、語を選択し、文法則にのっとった文+文として整合性
ある思考内容として定着させていくことで堅固な思考内容となる。こうして
ひとり言は人間の人間らしい高度な認識思考機能として働く。



(7)声は行動を調整したり発奮させたりする



 声は自分(他者)の行動を調整したり制御したり発奮させたりする作用を
もつ。
 電車の運転手が発車するとき運転席で片手をあげ「発車オーライ」または
「出発進行」の声を発する。こうした指さし確認の声出しは、車掌も、ホー
ムの駅長や駅員も行う。声に出すことで、指をさすことで、自分の行動を明
確に意識にのぼらせ、安全運転の再確認の点検操作の実行動をしている。自
分の行動を統制し、調整し、指示し、命令し、行動意志を明確に意識にのぼ
らせ堅固にしている。
 バスの運転手が交差点にさしかかると「右オーライ」とか「左オーライ」
とかの声を発する。あるいはアタマの中だけで声を発したり指さし確認をし
たりする。警察官が学校に来て交通安全教室を実施する。そのとき、交差点
では「右を見て、右よし」とか「左を見て、左よし」とか、そういう言葉を
児童に声を出させて、安全確認の意識化を堅固にしてから渡るように指導す
る。
 これらコトバを言うことで安全に発車すること、横断することをはっきり
と意識にのぼらせ、安全行動に集中する効果を発揮させようとコトバを言わ
せる。漫然と行動するのでなく、コトバを声に出して言うことで、自分(他
者)の行動を調整したり、統制したり、制御したりしようとしているわけで
ある。アタマの中での黙ってのひとり言確認よりも、声に出しての確認のほ
うがずっと行動制御の効果大、ということからである。
 神社の長い石段を上ると途中で疲れがくる。すると「イチ、ニ、イチ、
ニ」とか「よいしょ、よいしょ」とか「よいしょ、こらしょ」とか声を出し
て上り始めることがよくある。声に出すことで、疲れが軽くなり、らくに上
れるような気になる。声に出すことで、「よし、上るぞ」と、張り切って上
る強い意志がわき出てくるような気になる。声に出すことで精神を発奮させ
るわけである。また、声に出すことで、らくな気持ちで上れる気にもなる。
 運動選手が競技(運動)前に「気合を入れる」という場面がある。「ヨッ
シャー」とか「ヨシ」とか「ハッー」とか「エィー」とかの掛け声を競技直
前に言ってから実戦に臨むことがある。掛け声を自分に言うことで精神を集
中させ、気持ちを奮い立たせ、勢いと弾みをつけ、志気を鼓舞させるためで
ある。


(8)声はその人の成育歴に影響を受けている



 声は生理的なものであると同時に社会的文化的なものでもある。声には、
家族や学校や地域などの生まれ育った土地の文化がしみこんでいる。生まれ
育った生活環境のちがい、人的交流の違いなどによって、語えらびや文つく
り、言いぶりやしゃべり口調がちがってくる。
 生まれ育った地域の人々のものの考え方、コトバづかい、しゃべり癖が知
らず知らずのうちに模倣して育っている。ものの考え方や表現のしかた、言
いぶりやしゃべり口調がいつのまにか模倣して写しとられてしまっている。
しゃべりの言い振りの中に、その家族の独自な生活の息吹、暮らしの匂いが
現れ出てくる。
 幼児のしゃべり声は、触れ合う機会が最も多い母親のしゃべり方に類似し
てくる。幼児は母親のしゃべり口調や癖をいつのまにか模倣し、吸いとって、
コトバを獲得していく。乳児期、幼児期、学童期は家族のなかでも特に母親
と触れ合う(語り合う)機会がもっとも多い。知らずのうちに母親の声(言
いぶりやしゃべり口調や癖)に同調してコトバを獲得していく。
 学童期、青年期はいつも一緒の親友や学校・学級の校風・級風に影響を受
けて育つ。社会人になれば職場の社風や気風に影響を受ける。職業のちがい、
役職のちがいなどによってもものの考え方、コトバづかい(語えらび文つく
り)、言いぶりやしゃべり音調がちがってくる。
 声には生まれ育った文化がしみこんでいる。写しとられて身についていく。
日本人は立て板に水を流すごとくに流暢に話す人よりも、とつとつと誠実な
物言いをする人のほうが好まれる。アメリカ人やイギリス人はつかえながら
とつとつと話す人は嫌われるそうだ。このように物言いのしかたやしゃべり
音調には、その土地の文化(国柄、伝統、気風、風土)によっても違ってく
る。



(9)声はその人の思考スタイルに彩られている


 しゃべり声には、その人の思考スタイルが反映している。その人だけがも
つ認識思考のスタイル(型)が露出してくる。その人の考えを言語で分節化
するプロセスの語えらび、文づくり、言い回しのスタイル(形態)のありよ
うが言いぶりやしゃべり口調となって現れ出てくる。
 しゃべり声には、ものの見方や考え方、論理の運び方、筋道のつけ方、コ
トバの選択、話しの組み立て方、言い回し方、しゃべり口調やスピード、感
情の出し方などが、独自のスタイルとなって現れ出てくる。
 音声表現(音読、朗読、表現よみ)をすると、その人の日常の話し方、言
いぶりが読み声の中に重なって現れ出てくる。その人の個性的なしゃべり口
調、独特なしゃべり癖やイントネーションが文章の読み声(音声表現)の中
に重なって現れ出てくる。その人の人格や人柄が読み声(音声表現)の抑揚、
上げ下げ、リズム調子の中に重なって現れ出てくる。
 しゃべり声は「人格つきの声」として立ち現れてくる。その人の声(言い
ぶり)を聞くと、その人の人格や性格が理解できる。しゃべり声にはその人
の人柄や能力を含めた全人格がにじみ出ている。その人の裸形な人間像が、
言いぶり、しゃべ口音調の中に現れ出てくる。その人の自己像をそれとなく
開示している。その人の人格、年齢、経歴、職業、教養、階級、健康、生活
状況、暮らしぶりまで現れ出ている。



 
(10)声にすることで社会的責任が生ずる



 ひとたび声にして相手にコトバを発すると、語った内容についての社会的
責任が発生する。相手にコトバを発すると、いいかげんなこと、無責任なこ
とは言えなくなる、責任を持たねばならなくなる。声は相手との社会的な契
約として発せられる。ひとたび声にすると、個人(話し手の意見・話し内
容)の欲望は、音声を媒介にしてパブリックな言語行為として外面化してし
まう。
 声はその人が相手に対して、また広く社会に対して、話し手がどう立ち向
かおうとしているか、どんな態度と真情で対峙しているか、生活への覇気、
気構え、意気ごみ、などが言いぶりの中に現れ出てくる。言いぶりには、そ
の人の人格や持ち味が出るばかりでなく、「社会の中で人間としてどう生き
ているか」という倫理観や正義感をも含めて現れ出てくる。声の言い振りの
中に人間らしさの核心が現出してくる。


  
(11)声の表情は心身状態を反映する



 声には心身状態のありようも反映してくる。毎日元気溌剌と生活している
人の声は生き生きと弾んでいる。悩みや苦労を抱えたり、病気で寝込んでい
る人の声は暗く沈みがちにある。このように声の表情と心身状態とは密接な
関係にある。
 声の表情は話し手の心身状態を映し出す。声の表情にはその時々の話し手
の心身状態を敏感に表わしている。話し手の心身状態は声の表情にもっとも
正直に現れ出る。毎日を生き生きと自信に満ちて生活している人の声は、声
に張りがあり、生活力やパワーやバイタリティーが感じとれる。心がふさい
だ人や病気がちな人は、弱々しく沈みこんだ声になる。
 このように声の表情にはいろいろな個人情報が含みこまれている。声の表
情には心身状態のほかにも、性別、年齢、職業、階級、社会的地位、経歴、
人柄、性格、態度、土地柄や国柄なども現れ出てくる。



 (12)声は場面の雰囲気に誘発されて多様な表情となる



 声の表情は、その時々の場面の雰囲気・空気に影響を受けて発せられる。
声の表情は、その場面々々の雰囲気や空気や気配に支配された話し手の心理
感情から発信される。「その場は、そういうことを発言できる空気でなかっ
た」ということが言われることがあるが、その場面の雰囲気・空気・気配が
違うと、同じメッセージであっても違った内容となって発信されることも起
こる。、
 声の表情は、話し手と聞き手との立場のちがい、年齢差、緊張関係や場面
をとりまいている空気や気分などによっていろいろと変化する。話し意図は
依頼か同情か謝罪か懇願か感謝か言い訳か報告か厳命か指示か……によって
も話しぶりはいろいろと変化してくる。声の表情は、その場面をとりまいて
いる雰囲気や緊張関係や話し意図によっていろいろと変化する。
 話し手にとっては情報内容を相手の聴覚に訴えて伝達するわけだが、受け
手にとっては聴覚よりも視覚や触覚や第六感で受けとる側面が大きい。情報
内容よりも話しぶり・声の表情で受けとる側面が大きい。話し手の身体表情
(顔つき、身ぶり)、話しぶり(声の上げ下げ、大小、強弱、リズム、緩急
の変化)、話しぶりの生動感(陽気、歓喜、驚、怒、悲、寂、悔、楽)など
のほうが、情報内容よりも真実を含んで表現している場合が多い。伝わるの
は、情報内容よりも、話し手の声の表情(音調、口調、話しぶり)のほうが
大きく影響する。


    
(13)声は感情の高揚感を生む



 相手を叱るとき、叱るコトバを相手へ投げ与える(投げ与え続けている)
と、怒りの感情がいちだんと増幅することは多くの人が体験的に知っている。
相手を非難したり怒りをぶつけたりすると、その声が自分の感情を刺激し、
非難や怒りの感情の起伏が一段と膨張し激しくなる。
 スポーツの応援で、チームの応援団が声をそろえて一斉に「フレー、フ
レー、赤組」とか「ニッポン、チャチャチャ」とか声援を送ると、勝利を願
う集団の意思統一の感情が一色に染まり高まる。声をそろえて一斉に全員が
声を大きくして声援を送ることで、いっそう統一感情がもりあがり、高揚感
が高まる。統制された感情が盛り上がり、士気が鼓舞され高揚感が増幅する。
声は感情の高揚感を生み出す産婆役となる。
 第二次大戦中、日本の学校教育で、戦意高揚、戦争賛美の詩歌、宣誓詩、
軍人勅諭などを児童生徒が全員で声をそろえて一斉に読み上げる群読指導、
集団朗読指導が実施されたことがある。全学級児童または全校生徒が一斉に
声をそろえて高らかに言うことで、八紘一宇、戦意高揚、一億一心、挙国一
致強化への一極集中の精神主義を注入する教育効果を発揮した。集団で声を
一つに相合することで「気持ちを一つに纏める」「集団的興奮、集団奮起の
高揚」の教育的効果をねらった軍国主義教育であった。これも「声は感情の
高揚感を生み出す産婆役となる。感情の高揚を生む」の使われ方の一つであ
った。


 
(14)声はコトバの霊力を高める作用をもつ



 声は言霊(ことだま)の神秘性を高める作用をもつ。言霊とはコトバに宿
っている神がかりの霊力のことである。言霊としてのコトバが語られる声の
表情には独特な音調(語り口)をもつものが多い。
 お経は仏陀の教えを説いたものであるが、音を長く引きのばす独特な唱え
声には死者を弔う霊力があると信じられている。大勢の僧侶たちが節をつけ
てうたいあげる朗々とした「声明」の唱え声にも霊力があると信じられてい
る。
 神主が祝詞をあげる独特な唱え音調の声、祈祷師が神仏に平安を祈って唱
える独特な音調の声、呪術師が神霊や精霊に呼びかけて超自然な現象を起こ
そうとする独特な音調の声、これら唱え声は神秘性の霊力効果を発揮すると
信じられている。彼らの独特な音調の唱え声は、聞き手にエモーショナルに
働きかけ霊力があると信じ込ませる力をもつ。
 巫女がトランス状態になって神託を受けて告げたり、死者の口寄せを告げ
たり、これら素朴なトツトツとした語り音調の声にも、聞き手(受け手)は
霊力があると信じ込み、ありがたく受け入れる。「古代人は、声そのものに
霊魂を感じ、そこに霊的なエネルギーが存在すると感じていた」(松本直
樹)。その残滓が現代にも生きている。
 前記(13)「声は感情の高揚感を生む」における大声での集団一斉の朗読
や唱えコトバも、声の言霊の力が働いていると言える。大勢で声をあげて唱
えると、自分自身がその世界の中を生き抜いているような、体得しているよ
うな気持ちになる。一斉に声をあげて唱える(叫ぶ)とその世界が直接に自
分のものになっている気持ちになってしまう。


   
(15)声にはいろいろな表情がある



 伝達の場では、語り合いの意味内容(シニフィエ)以外にもいろいろな情
報が発信されている。言いぶりやことば調子やしゃべり口調、イントネーシ
ョンや強弱や緩急やリズムの変化など、音声(シニフィアン)そのもののい
ろいろな表情の情報を含んで伝達される。音声で語られると、声のいろいろ
な表情を伴って生き生きした生命ある伝達場面が形作られる。
 話し手から相手への伝達意図やその時々の感情によって、いろいろな声の
表情が現れ出てくる。いろいろなしゃべり口調・言いぶりとなって出てくる。
文の意味内容よりも、言いぶり・ことば調子・しゃべり音調のほうが相手に
与えるインパクトが大きい場合も多くある。ことば調子・音調・言いぶりの
方が、話し手の心の内を雄弁に物語っているからである。

 声の表情(音調、口調、言いぶり)は、多様である。思いつくままに書い
てみよう。

驚きの声(言いぶり)、陽気な声(言いぶり)、喜びの声(言いぶり)、悲
しそうな声(言いぶり)、後悔している声(言いぶり)、さみしそうな声
(言いぶり)、どなる声(言いぶり)、やさしくなぐさめている声(言いぶ
り)、つまらなそうな声(言いぶり)、疲れた声(言いぶり)、陰気な声
(言いぶり)かなしみをこらえた声(言いぶり)、嘆き悲しいんでいる声
(言いぶり)、哀願している声(言いぶり)、トゲのある声(言いぶり)、
そっけない声(言いぶり)、いらいらした声(言いぶり)、酔った声(言い
ぶり)、非難してる声(言いぶり)、上品な声(言いぶり)、下品な声(言
いぶり)など。


<そのほか、ランダムに挙げる>

動揺した声、命令した声、不安げな声、依頼してる声、回想してる声、不機
嫌な声、自信に満ちた声、なだめている声、堂々とした声、朗らかな声、明
るい声、暗い声、おしころした声、快活な声、弱々しい声、力強い声。

だみ声、どすのきいた声、しゃがれ声、かん高い声、低い声、くぐもった声、
くもり声、金切り声、ふるえ声、地声、うら声、はぎれよい声、ボソボソ声、
図太い声、とんきょうな声、キンキン声、丸みのある声、なめらかな声、つ
きさす声。

ささやき声、朗々とした声、枯れた声、しわがれ声、がらがら声、豊かな声、
か細い声、息もれ声、なめらかな声、きしり声、張った声、甘い声、うたう
ような声、ゆるみ声。


おろおろ声、しおがら声、くもり声、さびしそうな声、ふるえ声、なみだ声、
ねこなで声、ねぼけ声、こもり声、忍び声、しめり声、だみ声、どら声、ど
す声、鼻声、作り声、静止声、ばか声、割れた声、産声、うるみ声、

 相手との語り合いの場面では、上で列挙した多様な声の表情・音調・言い
ぶりだけでなく、身ぶり、しぐさ、顔の表情、ゼスチャーといった外面的な
身体表情によっても伝達内容に大きな情報を与える。



(16)表現よみは、目で読んで、
       身体に感じて、声にあらわす




 上の見出しの言葉は、わたしの表現よみの師匠、故大久保忠利(元都立大
教授)さんがしばしば語ったり書いたりしていた言辞である。
 「目で読んで」とは、「文字を目で読む。文章内容を読みとる」というこ
とであろう。
 「声にあらわす」とは「声にして文章内容を表現する。情感豊かに表情を
つけて声であらわす」ということであろう。大久保さんは肉体化のできてい
る人は「声にあらわす」でなく「声にあらわれる」である、とも語っていた。
 「身体に感じて」とはどんなことだろう。以下、わたしなりの考えを書い
てみることにする。(ここでは語呂の上から「身体」を「しんたい」でなく
「からだ」と読むことにする)。
 一言でいうと、「文章内容を身体でつかんで、身体にひびかせて、身体ご
とで表現する」ということだろうと思う。
 「文字を目で読む」と、読み手内部に琴線に触れてくるものがある。いろ
いろな感動となって触れてくるものがある。文章内容が読み手の既有の知
識・感情と触れ合い、同調し、反発し、多様に共振してくる。文章を読むこ
とで、多様な反応(感動)が呼び起こされる。読み手内部に触発されて、さ
まざまに突出し、出現してくる事柄がある。それらが結合し、動きだし、脈
動し、うねりとなり、身体全体の奥深くまでひびき広がって立ち上がってく
る。「身体に感じて」とは、そういうことだろうと思う。
 「身体ごとで表現する」とは、アタマ(大脳)だけで読むということでな
く、身体全体で読む(音声表現する)ということであろう。身体全体で読む
とは、身体の奥深くまでひびいいて受肉化した共感や反発や批評などの共振
反応をまるごとの声にのせて文章の線条にそって区切りをつけつつ、情感を
添えて音声表現する、ということだと思う。もちろん、アタマ(大脳)で読
んでいるのだが、身体全体にひびいた感情反応の声として、多様な表情をつ
けながら、身体まるごとの声として表出するということである。音声にする
と、自分で一つの解釈を与えてしまうことになる。
 声は身体に根をもつ身体言語である。声は身体に裏打ちされている。読み
手内部の奥深くで、音声表現の構え・軸が作られる。現象学的見地(サルト
ル、プイヨン、イーザーなど)からいえば、声は読み手のその時々の心理感
情に深くかかわっていて、読み手内部の非反省的意識のあわいから反省的意
識として現出したそれぞれの場面を、身体まるごとの反応としていろいろな
声の表情として文章の線条性にのって表現する、ということになる。



(17)学校教育では音声指導は軽視されがちだ



 「学習指導要領」には、音読・朗読に関する学年配当の指導内容が記述さ
れている。そうは書かれているが、学校現場では、音読・朗読・表現よみの
指導はあまり指導されていない現状にある。文章の読解指導と、文章の記述
指導(作文指導)に時間を取られて、文章の意味内容を思いをこめて、たっ
ぷりと声にだして音声表現するという指導はおろそかにされている。文章の
読み深め指導の話し合いで時間が余ったから、ちょこっと最後に音読させて
終わりというのが現状となっている。

 最近、脳科学者から音読の教育効果大が主張されてきている。音読の教育
効果が指摘されてきているが、学校現場の受けとめはまだまだである。
 川島隆太(東北大、脳科学者)の著書から2か所だけ引用してみよう。

 「黙読」よりも「音読」するほうがずっと脳を活性化させることもわかっ
てきました。目から文字の情報を入力して、それを頭の中で処理する、とい
うのが「黙読」という読み方ですね。
 それに対して、目からの情報を頭の中で整理して、それを口から発声し、
さらに発した音を自分の耳で聞く、というのが「音読」ですから、黙読より
ずっと入り組んだシステムです。28p
 日本語の文章を声に出して読むと、黙読したときとほぼ同じ場所がはたら
きますが、全体的にその範囲が広くなります。とくに「ものごとを考えたり、
覚えたりするときにはたらく」前頭前野や、「言葉の意味を理解しようとす
るときにはたらく」ウェルニッケ野が、よりたくさん活動します。
 その活動する範囲は、大脳全体の70%以上にもなります。それほど多く
の神経細胞が、いっせいに活発化するのです。実のところ、わたしはこの音
読ほど脳が活発化しているのを見たことがありません。それこそ数百にもの
ぼる実験のなかで、一番なのです。69p
   
『音読と計算で子供の脳は育つ』(二見書房、平成20)より引用

 学習指導要領は、「話すこと、聞くこと」「書くこと」「読むこと」の三
領域で記述されている。学校現場では「読むこと」(読解指導)や「書くこ
と」(文章記述指導、作文指導)の指導に比べて「話すこと、聞くこと」
(聞き方・話し方、話し合い、討議・討論など)指導は、おろそかにされて
いる。「読むこと」(読解指導)や「書くこと」(文章記述指導)の指導に
時間を奪われて、「話すこと、聞くこと」の時間がないがしろになってしま
う、というのが現状である。
 教育現場では、こうした現状を正当化する意見もある。「話すこと、聞く
こと」の指導は、毎日の国語授業で話し合い活動は行われている。他教科授
業でも話し合い活動は行われている。学級会の話し合い活動、クラブ活動や
部活動の話し合い活動、学校行事や学校生活全般で、場当たり的ではあるが、
その場その場で生きた話し合い活動は実施している。話し合いのルール・発
表のしかた・感じよいコトバづかいなどの指導は、その場その場で指導して
いる。だから国語時間で取り立てての計画的な「聞く・話す」の指導は必要
ない・カバーされている、という理由もあるのだろう。
 しかし、現行の学習指導要領には「話すこと、聞くこと」の指導時間の指
定まで決められている。国語授業の中で取り立てての「話すこと、聞くこ
と」(音読、朗読も含まれている)の時間指定は下記のとおりと書かれてい
る。これら時間指定は殆ど守られていない現状にある。

 「話すこと、聞くこと」に関する指導については学年ごとの年間の指導時
数を配当している。低学年では年間35単位時間程度、中学年では年間30
単位時間程度、高学年では年間25単位時間程度である。時間のとり方とし
てある時期にまとめて単位を設定したり、1単位時間の中に15分程度の短
い時間を組み合わせたりすることなど工夫して設定していくことが重要であ
る。      文部科学省発行「小学校学習指導要領解説・国語科編」  
       (平成20・6)より引用



        
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