上手な地の文の読み方(2) 02・02・23記 上手な「地の文」の読み方・第二部 「地の文」の種類の復習 上手な「地の文」の読み方・第一部で書いた、地の文の読み方の全体構図 を復習しましょう。同じことを書きます。この全体構図をきちんと理解して おくことがとても大切です。 地の文には、書かれ方のちがいで大きく二つに分かれます。「一人称が登 場する地の文」と「三人称だけが登場する地の文」です。前者に(イ)と (ロ)とがあり、後者に(ハ)と(二)と(ホ)とがありました。 (1)一人称が登場する地の文(三人称人物のなかに、一人称人物も 登場してる物語) (イ)語り手(一人称人物)が直接に語り聞かせている地の文 (ロ)一人称の登場人物の目や気持ちをとおした地の文 (2)三人称が登場する地の文(三人称人物だけが登場してる物語) (ハ)三人称の、一登場人物の目や気持ちによりそった地の文 (二)語り手や登場人物の気持ちがひっこんだ地の文 (ホ)語り手がすべての登場人物の目や気持ちにり込んだ地の文 「地の文」の種類と、その音声表現の違い 物語を読んだら、その物語の登場人物たちの中にに、一人称(ぼく、わ たし、おれ、拙者、我輩)人物がいるか、いないか、まず、それを調べま しょう。 一人称人物がいたら、(1)「一人称が登場する地の文」になります。 一人称人物がいなかったら、つまり登場人物が三人称人物たちだけだった ら、(2)「三人称が登場する地の文」となります。 《はじめに、これをおさえておきます。これのおさえはとても重要で す。》 これで大きく(1)か(2)かの区分けができます。これで音読のしかた の半分は解決します。 次に(1)なら(イ)か(ロ)かのどちらかです。それを調べます。 (2)なら、(ハ)と(二)と(ホ)のどれかです。それを調べます。 《これでおしまいです。簡単ですね。》 上手な「地の文」の読み方・第一部では、(1)の(イ)と(ロ)とに ついて書きました。本稿では(2)の(ハ)と(二)と(ホ)とについて詳 述します。 三人称人物だけが登場する地の文 ここでは(2)「三人称が登場する地の文」の音声表現のしかた、(ハ) と(二)と(ホ)との区別の仕方はどうか、について書いていきます。 ■(ロ)と(ハ)との区別の仕方 はじめに(ロ)と(ハ)とのちがいを説明します。 (ロ)は「一人称の登場人物の目や気持ちをとおした地の文」でした。 (ハ)は「三人称の、一登場人物の目や気持ちによりそった地の文」でし た。 上の文章の説明で、二つのちがいは「一人称」と「三人称」、「とおし た」と「よりそった」の個所です。登場人物が一人称か、三人称か、この人 称のちがいは分かりますね。 「とおした」と「よりそった」のちがいは分かりにくいです。ここが分か ると、二つの地の文の音声表現の違いがよく理解できます。 (ロ)の「とおした」は、読み手が一人称人物にとそっくり同じ人物と なって、なったつもりで、つまり、読み手は一人称人物の目に重なり、気持 ちに重なって一人称人物の思考の流れ(意識や心理感情)に同化して読み進 める音声表現のことです。 (ハ)の「よりそって」は、読み手は三人称人物の中の一人の目や気持ち につかず離れず、微妙に重なり、微妙に離れて音声表現していくことです。 (ロ)のように人物と全く重なってでなく、読み手は三人称人物の一人の気 持ち・思考の流れや思考のリズムによりそわせて音声表現していくことです。 つまり、読み手は三人称の一人の人物の後ろにぴったりとはりつき、二人 羽織のような同伴者となって、その人物が行動していること、思考している ことに積極的にはりつきながら、かつ微妙に離れながら、そこから出来事を ながめて、その三人称人物と同伴行動をしながら、音声表現していくことです。 なかなか分かりにくいですね。次に、文章で、具体的に説明をしていきま しょう。 (ハ)「三人称の、一登場人物の目や気持ちによりそった地の文」 次に、「(ハ)三人称の、一登場人物の目や気持ちによりそった地の文」 の音声表現に仕方について具体的な文章をとおしながら調べていきましょう。 ■(ハ)例文を用いての文章分析 (ハ)例文として、「大造じいさんとガン}をとりあげます。 秋の日が、美しくかがやいていました。 じいさんがぬま地にすがたを現すと、大きな羽音とともに、ガン の大群が飛び立ちました。じいさんは、「はてな。」と首をかしげ ました。 つりばりをしかけておいた辺りで、確かに、ガンがえをあさった 形せきがあるのに、今日は一羽もはりにかかっていません。いった い、どうしたというのでしょう。 気をつけてみると、つりばりの糸が、みなぴいんと引きのばされ ています。 ガンは、昨日の失敗にこりて、えをすぐには飲みこまないで、ま ずくちばしの先にくわえて、ぐうと引っぱってから、いじょうなし とみとめると、初めて飲みこんだものらしいのです。これも、あの 残雪が仲間を指導してやったにちがいありません。 「ううむ。」 大造じいさんは、思わず感たんの声をもらしてしまいました。 ガンとかかもとかいう鳥は、鳥類の中で、あまりりこうなほうで ないといわれていますが、どうしてなかなか、あの小さい頭の中に、 たいしたちえを持っているものだなということを、今さらのように 感じたのでありました。 椋 鳩十「大造じいさんとガン」 ■語り手は誰によりそっているか 三人称の登場人物「じいさん」と「ガン」が出てきます。語り手は、じい さんの目や気持ちによりそって語っていることがお分かりでしょうか。ガン によりそっては語っていませんね。 語り手はじいさんの目や気持ちによりそって語っています。つまり、語り 手は、じいさんが沼地で目にしたこと、ガンの飛び立つ様子、飛び立ったあ との沼地の様子、それをじいさんと同じ様子を目でみており、同じ考えにな って語っています。ガンが飛び立ったあとの様子、じいさんになって巧緻に たけたガンの行動を分析したり、ガンの行動に感嘆したりして語っています。 それを読み手は、語り手に重なって、二人羽織のようにじいさんの後ろに はりついて語っています。ガンの全体像を視線の中に入れながらも、対象と してガンの行動を分析し、ガンの行動に感嘆しつつ、じいさんと同じ気持ち (思考)になって思考し、読み進めています。 前記している本文の「じいさん」を「わたし」と入れ替えて読んでみまし ょう。入れ替えても、ちっともへんじゃありませんね。素直に読み進むこと ができます。しかし、語り手は、「わたし」でなく、「じいさん」と書いて あるので、(ロ)一人称人物の場合のように「わたし」にそっくり同一人物 となって読み進むことはできません。 「じいさん」の文字(文章)を音声表現するときは眼前に「じいさん」の 姿形を対象化してイメージして読んでおります。ここが「とおして」と「よ りそって」の大きなちがいです。 「とおして」のときは、読み手は「わたし」にすっかり入り込んでいるの で、「わたし」の姿形を対象化してイメージすることはできません。「より そって」のときは、じいさんの姿形が見えており、「じいさん」を外側から 対象化して客観的に読み進めることになります。 「秋の日が、うつくしくかがやいていました。‥‥‥「はてな」と、首を かしげました。」 この文章個所を音声化するときは、読み手はじいさんを 対象化し、外側からじいさんとガンの姿形をとらえ、その様子を紹介するよ うに読み進むことになります。「つりばりをしかけておいたあたり」から、 読み手はしだいにじいさんの目や気持ちに重なって読んでいくようになります。 「気をつけてみると」あたりから、じいさんの心内語のような地の文の書か れ方になっているので、読み手はじいさんの目や気持ちに全くといってよい ほどに重なって読んでいくようになります。ここの文章部分は読み手は、初 めは異化(対象化)して読み、だんだんと同化に移行していき、全くといっ てよいほどの同化に接近します。 しかし、読み手はじいさんに完全に入り込んで(同化して)読み進めてい くかというと、そうはなりません。つづく文章「ガンとかかもとかいう鳥 は、鳥類の中で‥‥‥」の文章部分から先を読むときは、じいさんの思考を 反省的に分析し、対象化して読まなければなりません。 最後の文末表現はこうです。「今さらのように感じました。」でなく、 「感じたのでありました。」と書いてあります。ここで語り手は、ひょっこ り顔を出して、じいさんの行動をつきはなし対象化して、反省的に解説や説 明を加えている言い方になってます。この文章部分を音声表現するときは、 読み手はじいさんの行動(思考)をそばから眺めて、ややさめた気持ちで音 声表現することになります。 ですから、「なって」は、同化して音声表現することであり、「よりそっ て」は、場面によって同化したり異化したりの、どちらかに片寄の軽重のち がいはあるにせよ、同化と異化とのないまぜや重なりで音声表現することに なります。 (二)「語り手や登場人物の目や気持ちが引っ込んだ地の文」 次に、「(二)語り手や登場人物の目や気持ちが引っ込んだ地の文」の音 声表現の仕方について具体的な文章を用いながら調べていきましょう。 ■「(二)地の文」の特徴 これから(二)「語り手や、登場人物の目や気持ちがひっこんだ地の文」 について説明します。 「語り手や、登場人物の目や気持ちがひっこんだ地の文」では、語り手は 作品世界の背後に退き、作品世界に介入してきません。この地の文は、これ までの(イ)、(ロ)、(ハ)のように語り手が物語世界の時空間の中に身 を置かず、語り手はその時空間を包む世界、つまり人物たちの行動や事件の 流れを外側から背後から眺めているスタンスをとって語っています。つまり、 この地の文は、読者に、直接に物語世界(事件)を目撃させ、それを目前に しているかのような描かれ方になっています。 だから、この地の文で支配的となるのは場面描写です。事件がくりひろげ られる場面の事実そのものを、背後から、外側から、読者に、紹介するだけ の書かれ方になっています。この地の文を音読するときは、だれか一人の登 場人物の目や気持ちになったり、また、よりそったりしては読みません。物 語世界を、外側(背後)から、淡々と紹介するだけ、説明するだけ、場面を 眼前に出すだけの音声表現となります。誤解を恐れずに言えば、アナウンサ ーがニュースを読むときのような淡々とした客観的な音声表現となります。 ■(二)例文を用いての文章分析 (二)例文として、「一つの花」を取り上げます。 「一つだけちょうだい」 これが、ゆみ子のはっきりおぼえた最初の言葉でした。 まだ、戦争のはげしかったころのことです。 そのころは、おまんじゅうだの、キャラメルだの、チョコレート だの、そんな物はどこへ行ってもありませんでした。おやつどころ ではありませんでした。食べるものといえば、お米の代わりに配給 される、おいもやまめやかぼちゃしかありませんでした。 毎日、てきの飛行機が飛んできて、ばくだんを落としていきまし た。 町は、次々の焼かれて、はいになっていきました。 ゆみ子は、いつもおなかをすかしていたのでしょうか。ご飯のと きでも、おやつのときでも、もっともっとと言って、いくらでもほ しがるのでした。 すると、ゆみ子のお母さんは、 「じゃあね、ひとつだけよ」 といって、自分の分から一つ、ゆみこに分けてくれるのでした。 「ひとつだけー、ひとつだけー。」 と、これがお母さんの口ぐせになってしまいました。 今西祐行「一つの花」 三人称が登場する物語です。ここでは、三人称の、ゆみ子、お父さん、 お母さんが登場します。(ハ)か(二)か(ホ)かのどれかです。 「一つの花」の文章は、三人称のだれか一人の目や気持ちによりそった書 かれ方になっていません。戦争のはげしかった頃の様子、ゆみ子やゆみ子た ち一家のようす、ゆみ子一家におこった出来事を、淡々と外側から客観的に 紹介して語っているだけの描写文です。 だから、音読するとき、読み手は、登場人物のだれかの目や気持ちに入り 込んで読むことはできません。人物たちの行動、まわりの様子、出来事をな がめているように前へポンとさしだす音声表現になります。ゆみ子一家の出 来事をたんたんと説明し紹介するだけの音声表現となります。作品世界でく りひろげられている事実(事件の流れ)そのものを、そっくりそのまま、浮き 立つようにアクセントをつけて、ポンと前へさしだすつもりの音声表現にす るとうまくいきます。 同じようにニュースを読むアナウンサーも、だれか一人の人物の気持ちに 入り込むことはせず、外側から淡々と紹介するだけの客観的な語りで読んで います。 (ホ)「語り手がすべての登場人物の目や気持ちの入り込んだ地の文」 最後に、「(ホ)語り手がすべての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地 の文」の音声表現について具体的な文章を用いながら調べていきましょう。 ■「(ホ)例文」の特徴 いよいよ地の文の小区分(種類)の最後になりました。最後の(ホ) 「語り手がすべての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地の文」について説 明します。 (ホ)の地の文の特徴について書きます。この地の文は、語り手が全知全 能となってすべての登場人物の思想・感情に自由に出入りします。神の視点に 立って俯瞰し、すべての登場人物の気持ちを知りつくし、すべての登場人物 に自在に移動して描き出します。語り手がすべての登場人物の意識(目や気 持ち)の中に自由自在に入り込み、登場人物たちや出来事を外側から、内側 から自在に描写し、時には解説や注釈や論評をさしはさんだりして語りま す。 だから、(ホ)「語り手がすべての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地 の文」の音声表現のしかたは、読み手はすべての登場人物の意識(目や気持 ち)に自在に入り込み、すべてを知りつくし、すべてを見抜いている断定的 な音声表現となります。語り手が神のように悠然と俯瞰しながら各人物の心内 に自由に出入りし、パノラマ的眺望で語るので、読み手は、一人物(自分) の心内を劇的に語ったり、他人物に論評を加えたり、自他をふくむ全体を俯 瞰しながら人物や事件に干渉したり解説や論評を加えたりして語っていきます。 作品としては構成の緊密性に富むので、音声表現のしかたでは、この物語 の特徴である話の筋立てや筋の運びの変化のおもしろさを浮き立たせ、それ を粒立たせる音声表現になります。 ■(ホ)例文の文章分析 小川未明『赤いろうそくと人魚』を例文にして書きましょう。この作品 は、次のような文章で書き出しています。 人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北 の海にも棲んでいたのであります。 北の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人 魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。 雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。 どちらを見てもかぎりない、ものすごい波がうねうねと動いている のであります。 文末に注目してみよう。「棲んでいるのでありません」、「棲んでいたの であります」、「動いているのであります」。このように語り手は、すべて を知りつくしたコトバ表現で冒頭を書き出しています。つづく文章はこうで す。 なんというさびしい景色だろうと人魚は思いました。自分たち は、人間とあまり姿はかわっていない。魚や、また底深い海の中に 棲んでいる気の荒い、いろいろなけものなどとくらべたら、どれほ ど人間の方に心も姿もにているかもしれない。それだのに、自分た ちは、やはり魚や、けものなどといっしょに、冷たい、暗い、気の めいりそうな海の中にくらさなければならないというのはどうした ことだろうと思いました。 はじめに語り手は「人魚は思いました」と、人魚を対象人物として描いて います。つづいて語り手は「「人魚」でなく、「自分たち」と書き出してい て、一人称人物(自分、わたし)の心内語(意識、思考)のように物語って いきます。つづいて「どうしたことだろう」で止めないで、「と思いまし た」と人魚の思考を外から対象化して描き、語り手は人魚の心内のすべてを 知り尽くした俯瞰した立場で結びます。 本文引用が長くなるので、引用をさしひかえますが、おばあさんがお宮の 石段の下で人魚の赤ん坊を拾う文章部分では、おばあさんの喜びの心内に入 り込んだ書かれ方になっており、家に帰るとおじいさんが待っていて、こん どは、おじいさんの喜びの心内に入り込んだ書かれ方になっています。 娘(人魚)は香具師に大金で売られていくことになります。 娘(人魚)が、年より夫婦に泣いてねがう場面、次のような文章がつづき ます。 私は、どんなにも働きますから、どうぞ知らない南の国へ売ら れて行くことをゆるして下さいまし。」と、いいました。 しかし、もはや、鬼のような心持ちになってしまった年より夫婦 はなんといってもききいれませんでした。 語り手は「鬼のような心持ち」と書き、人物の心の奥底まで見抜いてい る、語り手の干渉ともいえる過剰な感化的評価コトバを年より夫婦に与えて います。語り手は、語られる事柄、物語世界に対して完全に優位にたち、登 場人物たちの行動のパースペクテヴのすべてを支配していることが分かりま す。 次は、香具師が娘(人魚)を迎えにやってくる場面の文章です。 娘は、また、すわって、ろうそくに絵をかいていました。すると このとき、表の方がさわがしかったのです。いつかの香具師が、い よいよその夜娘をつれにきたのです。大きな鉄格子のはまった、四 角な箱を車に乗せてきました。その箱の中には、かつて虎や、獅子 や、豹などを入れたことがあるのです。 このやさしい人魚も、やはり海の中のけだものだというので、虎 や獅子とおなじように取りあつかおうとするのであります。もし、 この箱を娘が見たら、どんなにたまげたでありましょう。 香具師が娘(人魚)をつれに鉄格子のついた車でやってきます。ここで語 り手は「やさしい人魚」と書いて、「人魚」を「やさしい」と評価し、香具 師には「虎や豹とおなじように取りあつかおうとするのであります」と論評 を加えています。また、娘は「どんなにたまげたでありましょう」と、語り 手の評価的な注釈をさしはさんで語っています。このように「語り手がすべ ての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地の文」では、語り手は登場人物の 行動に対して語り手の角度からの論評や批評や注釈を加えたりして語ってい ます。 「語り手がすべての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地の文」は、一登 場人物の限定された視点から描かれるのでなく、語り手が変幻自在にすべて の登場人物に入ったり出たり、ときに後退して全体を客観描写したり、とき に論評や批評や注釈を加えたりして語っています。 また、この種の物語の内容は進展が速く、変化に富むので、だれの視点 であるかがあいまいなままの地の文の文章個所も多くあります。音声表現の 仕方では、語り手のスタンスにとらわれて音読していくことが基本である が、視点の転変が激しく、そうした語り手の変幻自在な変化のリズムにはり つき、そのリズムにのることに努力しつつ音声表現していくことが求められ ます。 トップページへ戻る |
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