上手な「地の文」の読み方(1) 01・01・28記 上手な地の文の読み方・ 第一部 物語は、地の文と会話文とで構成されています。 地の文とは、語り手の言葉です。 会話文とは、登場人物の言葉です。 地の文と会話文とでは、会話文の音声表現のほうが話し言葉なので容易だ と言われています。 次に、音声表現が困難と言われてる地の文の読み方について詳述していきま しょう。 地の文は客観的な読み方か 「地の文は感情を入れずに淡々と読み、会話文は人物が実際に語ってい るように読めばよい」とはよく言われます。地の文は「感情を入れずに淡々 と読む」とか「地の文は客観的に読み、会話文は主観的に読む」とかもよく 言われます。、これらは、半分は正しく、半分は正しくありません。 地の文は客観的に淡々と読めばいいというものではありません。地の文 でも、主観性濃厚に音声表現しなければならない文体(種類)もたくさんあ ります。 語り手の機能 はじめに、物語の文章の書かれ方を、ちょっとのぞいてみよう。 物語は、作者(作家)が作品世界の中に直接に登場して書いているので はありません。作者(作家)は語り手を登場させて、その語り手(話者とも いう)に物語世界を語らせているのです。 語り手が、人物の行動、周りの情景、事件の流れなど、さまざまに描写し て、読者に語っています。語り手は、登場人物たちを支配下におきながら、 読者に向かって語り、文学的形象として活写して語っています。 作者(作家)は、物語世界では、語り手であったり、主人公であった り、他の登場人物であったり、ないまぜ人物であったり、種々の観点(視点) や立場を保ちながら、語り手をとおして自分の文学的思想を形象として描写 しています。 人称を調べよう 地の文を音読するときは、語り手が地の文の中でどのような位置(立場) にあるか、地の文がどんな書かれ方になっているかを調べることが大切です。 地の文の音読の仕方を考えるときに第一にする仕事はこれです。書かれ方 のちがい(種類)によって実際の音声表現のしかたがちがってくるからです。 まず、登場人物の人称を調べましょう。 物語には、数人の登場人物が出てきます。「中山君」とか「ゆかりさん」 とかの人名で出てきたり、「さる」とか「きつね」とかの動物名で出てきた り、「ぼく」とか「わたし」とか代名詞で出てきたり、さまざまです。 「中山君」、「ゆかりさん」、「さる」、「きつね」などは、三人称の登 場人物です。「ぼく」、「わたし」などは、一人称の登場人物です。二人称 の登場人物は、めったに出てきません。登場しない理由は難しい議論になる のでここでは省略します。 「地の文」の種類 地の文には、書かれ方のちがいで大きく二つに分かれます。それぞれに小 区分(種類)があります。 (1)一人称が登場する地の文(三人称に混じって一人称が登場する物語) (イ)語り手が直接に語り聞かせている地の文 (ロ)一人称の登場人物の目や気持ちをとおした地の文 (2)三人称が登場する地の文(三人称だけが登場する物語) (ハ)三人称の、一登場人物の目や気持ちによりそった地の文 (ニ)語り手や登場人物の気持ちがひっこんだ地の文 (ホ)語り手がすべての登場人物の目や気持ちに入り込んだ地 の文 ■コツを伝授しよう ここで、地の文の読み方について、わたしは皆さんに、その簡単なコツ を伝授したいと思います。 物語を読んだら、その物語の登場人物たちに一人称(ぼく、おれ、わし、 わたし、わたくし、拙者、我輩)の人物がいるか、いないか、まず、それを調 べましょう。 一人称人物がいたら、必ず(1)「一人称が登場する地の文」になります。 一人称人物がいなかったら、つまり三人称人物だけだったら、(2)「三 人称が登場する地の文」になります。(2)には、前記している下位区分の (ハ)(ニ)(ホ)のどれかに入ります。 はじめに、これを押さえておきましょう。この押さえはとても重要です。 これで、大きく(1)か(2)かの区分けができました。これで音読の仕方の観 点調べの半分は終わりです。 次に、(1)なら、(イ)と(ロ)のどちらであるかを調べます。(2)な ら、(ハ)と(ニ)と(ホ)のどれであるかを調べます。これで、おしまいで す。 ■(イ)か(ロ)かの区別の仕方 ここでは、(1)について詳しくみていきます。一人称人物が出てきた場合 の物語です。一人称人物が出てきたら、(1)の(イ)か(ロ)のどちらかで す。 次に、(イ)か(ロ)かの区分け判定の仕方について実際の文章例で調べて いきましょう。 まず、(1)の(イ)から書いていきます。 (イ)「語り手が直接に語り聞かせている地の文」 この地の文は、作品世界の中に「語り手(話者)」が一登場人物のように 出現し、つまり具体的なキャラクターとして登場し、当然のように口(顔、 姿)を出し、聞き手(読者であったり、登場人物であったり)に向かって、 語り手が直接に語って聞かせている書かれ方の地の文です。 次に、実際に、(イ)の文章をとりあげて説明していきましょう。 ■(イ)例文1「ごんぎつね」 これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞 いたお話です。 むかしは、わたしたちの村の近くの中山という所に、小さなおしろ があって、中山様というおとの様がおられたそうです。 その中山から少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつね がいました。 新美南吉「ごんぎつね」 「ごんぎつね」の冒頭部分です。一人称「わたし」が語り手となって、 「わたし」が村の茂平じいさんから聞いた話を読者(聞き手)に向かって 語って聞かせている書かれ方の地の文です。 「わたし」の目や気持ちに なって、きつねのいたずら話を語って聞かせています。語り手が読者・聴 衆に向かって語り聞かせている音調で音声表現するとうまくいきます。 ■(イ)例文2「半日村」 うう、さみさみ。これから、半日村の話をしようと思うんだが、 そう思っただけで、みぶるいが出る。 その村は、えらく寒い村なんだ。なんしろ、半日しか日が当た らないんだからな。 なぜ、半日しか日が当たらないかって? そりゃ、後ろに高い山があるからさ。 斎藤隆介「半日村」 この物語には、語り手、つまり「わたし」、「ぼく」などが、登場人物と して(文章となって)直接には登場しません。この物語を読むと、明らかに 語り手が読者(聴衆)に向かって、語り聞かせている文体の記述(書かれ方) になっています。潜在する語り手は厳然と存在しております。 ここでの語り手は、口承伝承時代の語り部やお伽の衆のような語り方、現 在の落語家や講談師のような語り方になっています。 つまり語り手は、作中人物として登場せず、半日村の人々が山を削る 作業を一平がきっかけとなり次第に全村民が共同作業する感動的な様子を、 語って聞かせる語り口調で描写し説明しています。読み手は、潜在する語り 手になって、読者(聴衆)に語って聞かせている音調にして音声表現すると うまくいきます。 ■(イ)例文3「モチモチの木」 まったく、豆太ほどおくびょうなやつはない。もう五つにおなったんだか ら、夜中に、一人でせっちんぐらいに行けたっていい。 ところが、豆太は、せっちんは表にあるし、表には大きなモチモチの木が つっ立っているいて、空いっぱいのかみの毛をバサバサとふるって、両手を 「わぁ。」とあげるからって、夜中には、じさまについていってもらわない と、一人じゃしょうべんもできないのだ。 斎藤隆介「モチモチの木」 この物語も、語り手がひょっこりと作品世界の中に顔を出して、潜在的に 登場してきていて、豆太は、こんな臆病な子供だったんですよ、と語って聞 かせています。夜中に一人でトイレにも行けない臆病な子だった、と語って 聞かせています。 読み手は、語り手の気持ちになって、入り込んで、臆病な豆太の様子を語 って、音声表現していくとうまくいくでしょう。 ■(イ)例文4「たぬきの糸車」 むかし、ある山の中に、きこりのふうふがすんでいました。山おくのいっ けんやなので、まいばんのようにたぬきがやってきて、いたずらをしました。 そこで、きこりはわなをしかけました。 岸なみ「たぬきの糸車」 物語の冒頭には、「むかし むかし あったとさ」という語り口が多く あります。民話は殆どこんな語り口で始まります。前記した「ごんぎつね」 をはじめ「大造しいさんとガン」「わらぐつの中の神様」などの冒頭の第一 段落などは、物語の中に語り手がぬうっと顔を出して、主人公人物はこんな だ、と紹介している物語が多くあります。 ここの「たぬきの糸車」も、冒頭で語り手がひょっこりと顔を出して潜在 的に登場してきて、きこりの夫婦のことを、こんな夫婦ですよ、と読者・聴衆 に向かって語って聞かせています。語り手の目と気持ちになって語っていくと、 冒頭部分の音声表現はうまくいくでしょう。 (ロ)「一人称の登場人物の目や気持ちをとおした地の文」 (1)の(ロ)に話が進んできました。 (1)の(ロ)は、読み手は一人称人物の目や気持ちになって、重なって、 入り込んで音声表現していく読み方です。 この地の文は、語り手が登場人物の中の一人と重なり合い、重なり合った 登場人物が前面に出て(つまり、語り手が後ろに引っ込んでしまい)、前面 に出た一人称の登場人物の目や気持ちをとおして説明したり描写したりして いる語り口の地の文です。 このような地の文は一人称人物(僕、わたし、わし、拙者、我輩など)の 目に見えた事柄(事件、事物対象)を、一人称人物の気持ち(心理感情)や 考え方(思想)になって、その人物になったつもりで同化して、音声表現し ていくとうまくいきます。 次に、実際に、(ロ)の文章を取り上げて説明していきましょう。 ■(ロ)例文1「その日が来る」 あれは、三月二十九日のことだ。 「福引券が十回分たまったから、引いてきて。」と、母さんが言 った。 ぼくは、自転車に乗って、駅ビルの入り口にある福引所に行った。 「はい、十枚ね。」 福引所の若い男が、大きなすばこのような物を指さした。 ぼくは、丸いあなに手をつっこんで、三角形のくじを十枚取った。 一まい目のくじを開くと、「残念賞」という黒いゴム印がおしてあ った。二まい目も、三まい目も、四まい目も、五まい目も、六まい 目も、七まい目も、八まい目も、九まい目も、それだった。しかし、 最後のくじには、「三等賞」という赤いゴム印がおしてあった。 「わぁ、当たり。」と、男の人の横のいた女の人が、目を大きく して立ち上がった。どんな賞品がもらえるんだろう。ぼくのむねは、 高鳴り始めた。 森 忠明「その日が来る」 登場人物の中に一人称「ぼく」が出てきます。だから(1)「一人称が登 場する地の文」となります。では、(イ)か(ロ)か。 この地の文は、「ぼく」の目や気持ちをとおして、ぼくのしたこと、 ぼくの周囲の様子、僕の気持ちなどが書かれています。「ぼく」の目に見 えたこと、その時のぼくの気持ちがとても詳細に描かれています。 「ぼく」の身になって、「ぼく」の気持ちになって音声表現するとうま くいきます。 福引を引く文章部分では不安な中にも一縷の希望を託して、「ぼく」の 気持ちになって読むとよいでしょう。 くじを次々に開けていく場面では、ぼくの気持ち、すなわち、期待 と残念の入り混じった息づかいと動作(思考)の緩急変化、それを間の開 け方やリズム変化や上げ下げ変化などで工夫して音声表現していくとよい でしょう。 ■(ロ)例文2「ヒロシマのうた」 わたしはその時、水兵だったのです。 広島から三十キロばかりはなれた呉の山の中で、陸戦隊の訓練を 受けていたのです。そしてアメリカの飛行機が原爆を落とした日の 夜、七日の午前三時ごろ、広島の町へ行ったのです。 町の空は、まだ燃え続けるけむりで、ぼうっとけむっていました。 ちろちろと火の燃えている道を通り、広島駅の裏にある東連兵場へ 行きました。 ああ、その時のおそろしかったこと。広い連兵場の全体が、黒黒 と、死人と、動けない人のうめき声で、うずまっていたのです。 やがて東の空がうす明るくなって、夜が明けました。わたしたち は、地ごくの真ん中に立っていました。ほんとうに、足のふみ場も ないほど人がいたのです。暗いうちは見えませんでしたが、それが みなお化け。目も耳もないのっぺらぼう。ぼろぼろの兵隊服から、 ぱんぱんにふくれた素足を出して死んでいる兵隊たち。べろりと皮 がはがれて、首だけ起こして、きょとんとわたしたちをながめてい る軍馬。(以下略) 今西祐行「ヒロシマの歌」 登場人物の中に一人称「わたし」が出てきます。だから(1)「一人称が 登場する地の文」となります。では、(イ)か(ロ)か。 この地の文は、語り手が顔を出しておしゃべりしてるのではなく、一人称 「わたし」の目や気持ちをとおした語り方の文体になっています。「わたし」 の目や気持ちになって、「わたし」に同化して音声表現するとうまくいきます。 第一段落は自己紹介です。「水兵」をはっきり輪郭づけて読みます。 第二段落は、「わたし」の行動を描写しています。わたしの目に見た様子 と、その時々の気持ちをくっきりと声に出るように音声表現していきます。 第三、四、五段落は、「わたし」の目に見えた、死臭ただよう異様な光景 を精細なタッチで描写しています。「ああ、その時のおそろしかったこ と。」は、わたしの心理感情表現であり、限りなく独り言に近い、カギかっ こにして音声表現してもよいほどの地の文です。「ちろちろと燃える火、黒 黒とした死人、動けない人のうめき声、地ごくの真ん中、目も耳もないのっ ぺらぼう」など、凄惨かつ非情な恐怖の惨状を目にした「わたし」、その 「わたし」の気持ちに、読み手の気持ちを重ねていき、、その重なりの気 持ちで音声表現していくようにするとよいでしょう。読み手は、「わたし」 の気持ちになって、入り込んで声に出して読むようにするとうまくいきます。 ■(ロ)例文3「月夜のみみずく」 冬の夜ふけのことでした みんなが ねしずまったころ とうさんとわたし でかけたよ みみずくさがしに でかけたよ 風は ぴたりとやんでいた 木はまるで 大男の銅像みたい 静かに静かに立っていた 月の光が きらきらこぼれて そらいちめんに まぶしいばかり はるか とおく せなかのほうで 汽車が 汽笛をならしたよ 長く低く さびしい歌みたい とうさんが 耳まですっぽり かぶせてくれた 毛糸のぼうしを通りぬけ 汽笛は しんしん聞こえます(以下略) ジョン・レイヨン作・ 工藤 直子訳「月夜のみみずく」 登場人物の中に一人称「わたし」が出てきます。だから、(1)「一人称 が登場する地の文」です。冬の夜、「わたし」は父と二人で森の中へみみず く探しにでかけます。その冒頭部分です。 この物語詩全体が「わたし」の視点で描かれています。「わたし」の目に 見えた冬の夜の光景、歩行の進行につれて、光景も変わり、「わたし」の思 いもさまざまに動き、変化していきます。 その都度の気持ち(思い、感 慨、思惑)の変化、推移を詩的な叙情で描写しています。 音声表現の仕方は、一人称人物「わたし」と重なねて、一人称人物(「わ たし。少女」)の目や気持ちになって、入り込んで、音声表現していくとう まくいくでしょう。 ■(ロ)例文4「きいちゃん」 きいちゃんは、教室の中で、いつもさびしそうでした。たいてい のとき、うつむいて、独りぼっちですわっていました。 だから、きいちゃんが職員室のわたしのところへ、「せんせい」 って、大きな声で飛びこんで来てくれたときは、本当にびっくりし ました。こんなにうれしそうなきいちゃんを、わたしは初めて見ま した。 「どうしたの」 そうたずねると、きいちゃんは、 「お姉さんが結婚するの。わたし、結婚式に出るのよ」 って、にこにこしながら教えてくれました。 「わたし、何着て行こうかな」 と、とびきりのえがをで話すきいちゃんに、わたしも、とてもうれ しくなりました。(以下略) 山元 加津子「きいちゃん」 「きいちゃん」が主人公で、語り手は「わたし」(先生)です。この物 語は「わたし」の目に見えたこと、「わたし」の気持ちが、とても詳細に 記述されています。 「わたし」の目には、きいちゃんが、「いつもさびしそう、たいていうつむ いて、職員室に飛びこんで来て、うれしそうなきいちゃんを初めて見、にこ にこしながら教えてくれた、とびきりのえがをで話すきいちゃん‥‥」に見 えたと、「わたし」は、きいちゃんを、そのように受け取っています。 視覚的な様子の受け取りだけでなく、その様子を見た「わたし」の、今 までと違った驚きの気持ちが、文章記述のウラから十分に湧き出しております。、「本当にびっくりした、大きな声で飛びこんで来てくれた、わたしも、と てもうれしくなりました」などの直接的な表現記述からもそれが了解できます。 (ロ)「一人称の登場人物の目や気持ちをとおした地の文」は、語り手 の視点が一人称の目や気持ちと重なり、一人称人物の内面世界をとおして語 っています。一人称人物の気持ちをとおした評価的態度からも語られていま す。 物語「きいちゃん」は、「わたし」(担任教師)の目や気持ちからみた 「きいちゃん」のことを書いた、告白的な体験を語っています。このような 書かれ方の文章は、「わたし」の目や気持ちになって、入り込んで音声表現 するとうまくいきます。 ■(ロ)例文5「じろはったん」 広樹、あんたも、ここへきて、腰かけなれ。 わたしはな、お墓まいりにくるとかならず、この鐘つき堂の石段に、腰 おろして、ひと休みするんや。 いつもはひとりやけど、きょうは、うれしいな、孫といっしょで。 さあ、ここへおいで。 ここからは、村が、ひと目に見わたせる。 村のむこうを流れとるのが大川。丸山川の上流でな。 ずーっと流れて、日本海へ流れこむんや。(以下略) 森はな「じろはったん」 一人称の登場人物「わたし」が出てきます。この地の文は、おばあさんが 「わたし」という語り手となって登場し、わたしが孫の広樹に向かって語り 聞かせている地の文です。おばあさんの気持ちになり、重なって、孫に語り 聞かせている音調・口調で音声表現するとよいでしょう。 ■(ロ)例文6「ほらふき男しゃくのぼうけん」 さあ、子どもたち、これからわがはいのぼうけんりょこうのお話をし て聞かせよう。 とてもほんとうとは思えないことばっかりだが、これは決してうそで はなく、ほらなのだ。だから、みんなわがはいのことを、ほら男しゃく と呼んでいる。 なに、ほらってなんですか、だって? ほらは、うそとはちがうのだ。(以下略) ビュルガー作、松代洋一訳「ほらふき男しゃくのぼうくん」 一人称の登場人物「わがはい」が出てきます。この地の文は、「わがは い」が「子どもたち」に向かって語って聞かせている書かれ方の地の文で す。語り手「わがはい」の主観で彩られた世界です。 「わがはい」の人物の目を通して、気持ちを通して、「わがはい」の身 になって自分の行動を音声表現するとうまくいきます。 語り手「わがはい」が、自分のほら話を、自信たっぷりに自慢げに意気 込んで語り聞かせています。そうした音調で自信たっぷりに音声表現する とうまくいくでしょう。 ■(ロ)例文7「すずかけ写真館」 すずかけ写真館のことは、まだ、話していなかったね。え、なん だか、ふしぎな名前って? そう、たしかにふしぎな写真館だった なあ。 あれはこの家にくらすようになって、ほんの一月もすぎていなか った。 そうだよ。ぴっこも、たあぼうも、まだ生まれていないころだよ。 そのころ、うちには、自転車がなかった。まだ、買えなかったの さ。 会社の帰り、父さんは、夕暮れの道を急いでいた。(今夜のおか ずはなにかなあ)なんて考えながらね。 そんな時、声をかけられたのさ。 「もしもし、すみませんが。」 見ると、十字路のところに、せの高い男の人が立っていた。グレ ーの短いコートを着、黒っぽい旅行かばんをさげていた。 「星の池はどこでしょうか。」 「さあ。」 と、父さんは、小首をかしげたよ。(以下略) あまんきみこ「すずかけ写真館」 この地の文は「父さん」が語り手となり、わが子(ぴっこ、たあぼう)に 向かって、家庭内での親しげな語らいとして、父親がわが子に語り聞かせて いる書かれ方の文です。「父さん」の気持ちになって子どもたちに向かって 語って聞かせている音調で音声表現するとよいでしょう。 「父さん」は一人称でなく、三人称ですね。これは話し相手がわが子 (ぴっこ、たあぼう)なので、たまたま語り手は自分「わたし」のことを 「父さん」という名称を使っているわけで、ほんとは語り手は「わたし」と か「ぼく」とか「わし」とかであるべきはずのものです。 ですから、「父さん」を、例えば「わたし」と入れ替えて記述していっ たとしても、そのつもりで読んでいったとしても、少しもへんでなく、当た り前に、素直に読み進めることができます。もともと「父さん」には潜在す る語り手「わたし」がいるのです。これは一人称人物の語り手の変型と考え るべきものです。 ■付記(1) 地の文については、拙著『群読指導入門』(民衆社、CD2枚付き、3200 円)に詳述してあります。上述でまだ理解不十分な方は、こちらをご覧くだ さい。群読は、物語や詩の地の文を、どう台本化するかが カナメ となり ます。この本全体が地の文について書いてあるといってもよいでしょう。 地の文の出生、特徴、種類、内容に即した地の文の分析の仕方、語り手 とは何であり、その役割、間接話法の地の文、自由間接話法の地の文、その 音声表現のしかた、実際の読み声、など。上述してきた地の文の詳細を知り たい方、興味のある方は、どうぞ。 ■付記(2) 下記・「次へつづく」をクリックしてみましょう。「地の文の読み方」 第二部のページが開きます。「地の文の読み方」第二部の最後尾に読者の 皆さんにお知らせしたいことも書いてあります。「参考資料」の章をお読み ください。お知らせが書いてあります。 次へつづく |
||