第8章 表現よみの授業入門   2016・11・01記




  
児童言語研究会の
   「音読・表現よみ」について






 児童言語研究会(以下、略称「児言研」で記述)は、一読総合法という読
解指導法を提唱している。一読総合法の読解指導の中心活動の一つとして
「表現よみ」がある。(従来から「表現よみ」と「表現読み」の二様の表記
のしかたが使われてきている。本稿では「表現よみ」に統一して記述するこ
とにする。)
 表現よみの出自とその歴史についてはここでは省略する。これについては、
大久保忠利『話しかた第二歩』(春秋社、1966)に詳しい。なお、大久保忠
利(以下、人名はすべて敬称略で記述)は初めから「表現よみ」の表記で記
述している)

 児言研では1989年と1990年に、夏季アカデミー集会で「一読総合
法における音読・表現よみ」の提案を行っている。

 1989年夏季アカデミー全体会提案
    「一読総合法の読みにおける音読・表現よみ」
 提案者・岩田道雄、意見者・関可明・内藤けい子、感想発表者・大久保和
子・芳森久仁子

 1990年夏季アカデミー全体会提案
    「音読・表現よみを生かした授業づくり」
 提案者・朝比奈昭元、発表者・市川玲子・前川明、意見者・田近洵一、平
 山武夫

 以下、これら二つの提案を「岩田・朝比奈基調提案」と総称して本稿では
記述することにする。
 「岩田・朝比奈基調提案」は、児言研では「表現よみ特別研究会」を設置
し、そこでの数回にわたる研究討議をへて集約されたものが夏季アカデミー
で提案された。1989年の「岩田基調提案」1990年の「朝比奈基調提案」
を比べると、二つには基本的な違いはなく、「岩田基調提案」をそっくり受
け継いだ「朝比奈基調提案」であり、「朝比奈基調提案」は「岩田基調提
案」を授業の中にどう実践し、生かした授業にしていくかという具体的な授
業作りに主眼をおいた提案のようである。

 以下、本稿では、この二つの提案について取り上げて書いていくことにす
る。現在も二つの提案が児言研の表現よみ指導の主柱となっている考え方だ
からである。1989年提案を「岩田基調提案」と呼び、翌年の1990年
提案を「朝比奈基調提案」を呼び、二つをまとめて「岩田・朝比奈基調提
案」と呼んで以下に書いていくことにする。再度のお断りだが、人名はすべ
て敬称略で書いていくことにする。

 二つの提案があったアカデミー会場は、東京・豊島公会堂であったと記憶
している。わたしも参加者のひとりとなって傾聴した。「おお、いいじゃな
いか。これまでに言及されていなかった新規内容もあり、画期的なすばらし
い提案であることよ」と即座に反応したことを覚えている。終了後、提案者
の朝比奈先生と出会ったとき「どうだった」と問われ、同じような返答を彼
にしたことも記憶している。
 二つの提案があってから27年が経過している。二つの提案にそってわた
しも授業実践をしたり、「音読・表現よみ」理論について考えてみたりして
きた。そうした時間経過の中で、「これはおかしいな。部分的ではあるが改
めるべき個所があるみたいだな」という所感を抱くようになった。それは今
から12年ほど前のことだった。12年ほど前からそれとなくちらちらとア
タマの中にそんな所感が浮遊しだし、7年ほど前からは一段とその所感が強
くなってきた。そのことを当時、毎年、児言研夏季アカデミーの表現よみ分
科会の発表者となっていたので、分科会参加者に断片的ではあるが語ったり、
レジメに書いたり、あるいは児言研会員に語ったりしてきた。

 今から5年ほど前に児言研委員長に「音読・表現よみ」について荒木は個
人的見解があるので発表させてほしいとお願いしていた。わたしのわがまま
な要望を快く受け入れていただき、2013年11月9日、文京シビック
ホール会議室において発表会を開催していただいた。参加者は45名前後で
あった。児言研の歴代委員長(関・朝比奈・森・山岡の各氏)もわざわざ足
を運んでくれていた。厚くお礼と感謝を申し上げる。
 当日は、音声表現に関する話しは実際の読み声で理解していただくのが一
番だ、ということから児童の読み声と授業録音テープを聞いていただくこと
に主眼をおいて発表した。
 当日の発表内容は下記の通りである。

(1)授業の中にどう表現よみ指導を取り入れていくか。
  授業録音のベタ流しで児童読み声とその話し合いを紹介した。前時想起
  に取り入れた例、ひとり読み直後に取り入れた例、話し合いの中で一部
  分に取り入れた例、話し合いすべてに取り入れた例、話し合いのまとめ
  で取り入れた例、本時最後のまとめで取り入れた例、全文最後のまとめ
  で取り入れた例。
(2)上の録音とからめて「表現よみは音声解釈である」と語った。
(3)「朗読」と「表現よみ」との違いはどこか。幾つかの読み声スタイル
  の録音をとおして相違を理解していただいた。
(4)「表現よみ」と「表現読み」との表記のしかたについて。
(5)「指名音読」は「指名よみ」「指名読み」「指名表現よみ」がよい。
(6)「音読・表現よみ」は「表現よみ」一本にするのがよい。

 最後の(6)「音読・表現よみ」は「表現よみ」一本でよい、については、
おおよその主旨(骨子)は当日に語ったつもりだ。しかし、時間の都合で十
分に説明できなかったところもある。それで本稿では(6)に焦点化して肉
付けして詳しく書くことにした。

 岩田・朝比奈基調提案の以前までは、児言研では「表現よみ」という名称
一本で一読総合法による音声表現指導について語られてきた。岩田・朝比奈
基調提案では「表現よみ」から「音読・表現よみ」という名称に変更してい
る。変更後、児言研では「音読・表現よみ」の名称で音声表現指導が語られ
てきている。
 それについてわたしは少しばかりの疑義をここで書くことにする。「音
読・表現よみ」でなく、以前に戻して「表現よみ」一本でよい。そのほうが
実践面からも、理論面からも最適である、ということを書きたい。

 以下、「実践面から」と「理論面から」に分けて書くことにする。岩田・
朝比奈基調提案からの引用文はすべて『国語の授業』95(1989年12月)と、
『国語の授業』101(1990年12月)の「アカデミー報告特集」からである。


          
実践面から


 初めに、岩田・朝比奈基調提案の、提案骨子の一部分を下記に引用する。

 


「音読a」 文・文章の表記上の約束事に即して、それを正しく音声に表 
      わして読む読み
基本要素@ 発音、アクセント、基本的イントネーション、基本的な速さ。
    A ひとまとまりの意味をもつ語を、ひとかたまりとして読むこと。
      句読点、段落の切り替えなどで、適当な休止を取ること。
    B 会話文と地の文とを区別して読むこと。
表現よみA テキストを深く読み抜き、味わい楽しむため自分に向けて、 
     自分が納得するように読む(聞き手=自分)。
表現よみB Aを踏まえ、自分がその内容をどう考え、どう評価している 
     かをも含めつつ、みんなに伝えみんなと考えたり、楽しんだ  
     りするための読み(主体的な評価を踏まえ、聞き手=他人)。
表現よみC 他人に説明・解説の文の内容を客観的に伝える読み。


 上の引用個所についてわたしなりの読みとりの感想意見を書こう。


   
(1)「音読」と「音読a」との区別について


 岩田・朝比奈基調提案は、これまでの児言研の表現よみ理論・授業論には
なかった画期的な、すばらしい、新しい提案が含まれていることは前記した。
 わたしは近年になって、部分的に一部にだが、これはへん、おかしいと思
う個所があることに気づいた。それまで気にもとめていなかったところに注
意が向くようになった。その考えが次第に少しずつ強くなってきた。
 以下、それらについて焦点をしぼって書いてみたい。以下の文章は岩田・
朝比奈基調提案へのダメ出しみたいな文章が多くなってしまうが、全体とし
ては画期的な、すばらしい提案であることは言うまでもない。
 以下の文章が今後の児言研の表現よみ指導論の構築に少しばかりの参考に
なればうれしく思う。

 岩田・朝比奈基調提案では従来の「表現よみ」から「音読・表現よみ」と
いう全体名称に変更している。提案の区分図では「音読a」と「表現よみ」
とは並置している。ということは、「音読・表現よみ」という全体名称の
「音読」は、「黙読」に対する「音読」一般をさしているのではなくて、
「音読」一般を「音読a」と「表現よみ」とに分けた「音読a」を指してい
ると考えられる。つまり「音読a・表現よみ」のことを指していると考えら
れる。
 「音読・表現よみ」とは「「音読a・表現よみ」である、という注記が隠
れているようにと思う。こうしたわたしの理解が正しければ、これはちょっ
とまぎらわしいと思うのだが、どうだろう。


  (2)「音読a」と「表現よみ」との区別について


 「音読a」と「表現よみ」とは、どのように区別されているのだろう。
 「音読a」は「文・文章の表記上の約束事に即して、それを正しく音声に
表わして読む読み」とあり、それは基本要素@ABである、と書いている。
つまり「音読a」とは、基本要素@ABの内容をさしていると考えられる。
この理解が正しければ、わたしは「音読a」について疑問に思うことがある。
 「表記上の約束事」という言葉の使い方についてである。通常「表記上の
約束事」といえば、「漢字・かな文字の使い分け、送り仮名のつけ方、記号
(テン、マル、ダッシュ、リーダーなど)の書き表し方など」のことをさす。
 岩田・朝比奈基調提案には「音読a」の基本要素として、発音、アクセン
ト、イントネーション、速さ、区切り、間、段落の転調、会話文と地の文の
読み分けが書かれている。これら内容をみると「表記上の約束事」の範囲を
かなり広義に理解しているようだ。そんなに「表記上の約束事」の概念を広
げていいのかな、と思う。

 つまり、岩田・朝比奈基調提案には、「音読a」の内容として、「音声の
基本面」(発音、アクセント)と、「メリハリづけの情感表出面」(語・
句・文の区切り、間(句読点)、イントネーション、段落の転調、会話文と
地の文の読み分け)の両側面が含まれて書かれている。
 わたしなりに岩田・朝比奈基調提案にのっかって、あえて「音読a」と
「表現よみ」とを無理に区分して音声表現の指導内容を書いてみる。
 「音読a」には「音声の基本」(発音、発声、呼吸、アクセント、滑舌)
と「語・句・文の区切り読み」が含まれる。
 「表現よみ」にはメリハリづけの情感表出の主な指導内容(イントネーシ
ョン、速さ、区切り、間、段落の転調、会話文と地の文の読み分け、強調、
テンポ)が内容として含まれる、となる。
 つまり岩田・朝比奈基調提案には、「音読a」には「「表記上の約束事」
だけでなく、「表現よみ」の情感豊かなメリハリづけの指導内容も、その両
方が含み込まれている。「音読a」の内容として「音声の基本面」と「メリ
ハリづけの情感表出面」との両方の指導内容が含み込まれて書かれているわ
けだ。「表現よみ」と並置区分として位置づけられている「音読a」、その
「音読a」の内容として、これはどうもへんに思うのだが、どうだろう。


 
   (3)「表現よみABC」の区別について


 岩田・朝比奈基調提案には、「音読a」と並置するものとして「表現よ
み」が位置している。その「表現よみ」の下位区分として「表現よみAB
C」が書いてある。だから「表現よみ」とは「表現よみABC」の三つを含
めてさしていると理解できる。
 この理解が正しいとしたら、「表現よみ」の指導内容が「表現よみAB
C」ということになり、これはおかしいと思う。聞き手が自分か、他人か、
説明文かは、音声表現している読み手の聞き手意識の軽重の差であり、情感
表出のメリハリづけ内容とはカテゴリーが全く違う領域だからである。聞き
手意識が自分か他人かの差異は、音声表現の上達において少しは考慮に入れ
るかもしれないが、直接的な音声表現の上達のための指導内容とは違うと思
うからだ。直接の上達指導の内容は、前記したように音声基本指導面と情感
表出指導面との両側面の内容であると思うからだ。
 また「表現よみA」は自分に向けた「音読a」である、「表現よみB」は
他人に向けた「表現よみ」である、と理解してよいのかな。「表現よみA」
は読み声が低位レベルの音声表現で、「表現よみB」は読み声が上位レベル
の音声表現だと理解してよいのかな。岩田・朝比奈基調提案にはそうは書い
てない。しかし、共同発表者たちが授業展開例のお話しを語っている個所を
読むと、そのように読みとれる文章個所がいくつかある。
 もしそうだとしたら、これも、おかしいと思う。

 「自分に向ける」「他人に向ける」について考えてみよう。
 「音声表現においては、読み手は同時に受け手でもあるから、表現するこ
とは同時に理解することでもある。理解と表現との往復矢印の同時進行で、
文字を目で読んだ瞬間に音声で表現している、そうした音声表現の往復進行
過程である。
 音声表現している過程では、自分に向けていると同時に他人にも向けてい
る。実際の読み声は自分にも向け、他人にも向けており、両方にまたがるあ
わいから出ている音声表現である。
 たとえ自分に向けた読み声であっても、それは他人にも向けている読み声
であって、他人を意識し、客観性を求めない音声表現などありえない。
 どのように音声表現するか、どのように作品を解釈するかは表裏一体の行
為である。実際の音声表現は、すべて根底に理解があり、理解したこと、つ
まり読み手のアタマで理解し、身体に届き、触れ合い、響き合った限りの音
声の表れである。自分のための理解とか、他人のための表現とか、学者の机
上の空論には存在するかもしれないが、実際の音声表現の現場においては、
その区別は存在しない。軽重の差はあるかもしれないが、それを区別してし
まうと実際の音声表現の現場から乖離してしまう。
 音声表現している過程の読み手の意識としては、作品世界の人物の心理感
情や行動の意図や事柄の流れ、場面の様子や雰囲気をどう音声に情感性豊か
に声にのせて表出するか、そうした意識で精一杯であり、自分に向けた読み
方をしよう、他人に向けた読み方をしようという意識は殆どない。そうした
区分けを意識して読んではいない。
 舞台公演をしている俳優・声優でも、大勢の観客が聴いていることは当然
に知っているが、観客に向けた作為的なせりふ回しや動作は避けて、作品世
界を情感豊かにありあり感を構築すること、その場面を生きることに精一杯
で、そこに全意識を集中して読んでいる・演じているはずである。一部に聴
衆向けを意識した読み声があるかもしれないが、それも作品世界のありあり
感を出すための、それに引きずられた、統制されている読み声の変化である
と思う。観客に向けたわざとらしい作為的な音声表現や動作をしたら、観客
に嫌われ軽蔑されてしまうだろう。「舞台の生活現実を生きる」ことに精一
杯である。スタニスラフスキーの言うとおりである。観客向けの演技などし
ていない。舞台は固有の時間をもつ別世界である。舞台は舞台で独自の時間
で進行し演技している。
 だから、「表現よみA」と「表現よみB」を区別することは理論上はでき
るかもしれないが、それができたとしても、それは現実の読みの姿とはいえ
ない。

 岩田氏は基調提案の最後の話しの中で、区別ができかねる、と語っている
個所がある。

 実際に、今あなたの読んでいる表現よみがAなのかということは言えない
わけで、Aが中心だけれどもBが含まれているとか、Bが中心だけれどもA
が含まれているとか、というようなどうしてもあいまいな言い方になってし
まうんですけども。そういうふうな形でこのABの違いをとらえていただけ
ればいいと思うんです。きっぱりと一つ一つの読みが二つに分けられるとい
うことではなくて、どの側面が表面に出て、そこで重要視されているかとい
う意味で考えていただければいいと思います。
           
『国語の授業』95(1989年12月)47pより

 参考資料…「表現よみC」の説明文の音声表現について。わたしの見解は、
       本ホームページ第14章「説明文における表現よみ指導」を
       参照せられたい。
 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/setumeibunniokeruhyougenyomisidou.html


 参考資料…「聞き手意識ゼロ」については、本ホームページ第6章第3節
      「表現よみは聞き手ゼロである」を参照せられたい。
 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/teisyou3.html



 
  (4)「表現よみ」は「朗読」と同じでない


 通常、「音読」と「朗読」との区別は、「音読」とは読み慣れる以前の初
期の出会いの音声表現を指すことが多く、メリハリののってきた段階以後は
「朗読」と呼ぶことが多い。だが、「朗読」と「表現よみ」とを同じとする
のは正しくない。
 岩田基調提案の中に、「朗読」と「表現よみ」とは同じだ、と書いてある。
区分図にも「表現よみ(朗読)」と(  )で記入されている。「表現よ
み」と「朗読」とは同じものだ、という認識である。これは正しくない。
 岩田氏は基調提案の話しの中で次のように語っている個所がある。

 朗読にもいろんな概念があって、節つけ読みや押し付け読みみたいな形の
主張をする人もいるし、滑川道夫さんみたいな形(荒木註・朗読が読解の結
果の表現だけではなくて、読解を進化させる機能を持つ)で朗読を深くとら
えて、我々と同じような考え方で朗読というものを主張している人たちもい
るので、その辺は区別して考えなければならない。我々が朗読というものを
広い概念でとらえておけば、あえて我々の表現よみと対立させることはない
んじゃないかと考えて、特に朗読と表現よみとを分けないで、しかし我々と
しては表現よみということばで中身を考えていこうというふうにしたわけで
す。       『国語の授業』95(1989年12月)17pより

 「朗読」と「表現よみ」を区別しない、同じものとする、という概念規定、
これには賛成できない。広い概念規定ということは、滑川意見も節つけ読み
や押し付け読みを含めるということになる。節つけ読みや押し付け読みは
我々と違うと言っているのに、です。
 「表現よみ」という概念規定が問題となっている以上、わたしたちは「表
現よみ」とは何か、という問いから出発しなければならない。「表現よみ」
という概念が考案され、導入されてきたその脈絡を明示することから話し出
さなければならない。「表現よみ」が成立した昭和30年代に戻して話し出
さなければならない。「表現よみ」は「朗読」概念を否定することから出生
した。これは大部なスペースをとることになるし、本稿の目的とするところ
ではない。割愛せざるを得ない。
 それは大久保忠利が児言研機関誌『児言研国語』『国語教育研究』『国語
の授業』『国語教育解釈学理論の究明』その他著書の中で熱っぽく「表現よ
み」の出自や表現よみ構築を語っている文章個所を執筆順にお読みくださる
のがいちばんよい。わたしたちはそこで大久保忠利が垣内松三の形象理論や
石山脩平の「音読・朗読」解釈学理論をはじめ、過去の国語教育における
「音読・朗読」理論をいかに棄却するか、そこから抜け出そうと四苦八苦し
ている姿、熱情をこめて語っている姿をありありと見出すことができる。執
筆順にお読みくださるのが一番よい。
 そうすれば、大久保忠利が歴史的な時代の制約・拘束のもとで、生きてい
る時代と深くかかわりながら、何を目ざし、何と闘い、何を手探りして手に
入れようとしていたか、刻苦しながら呻吟しつつ手探りしながら表現よみ実
践理論や一読総合法理論を構築しようとしていたか、それら一つ一つの姿を
目に見えるように理解することができる。大久保論文について児言研会員か
ら特に批判意見もなかっし、大枠で承認されていているものと理解してよい。
これら大久保論文を読むことで、わたしたちがどのような位置にいるのか、
どのような歴史的文脈の中で生きているのか、どう行動すべきか、が理解で
きるであろう。
 どのように教材をこなしていくか、教材こなし(表現よみ指導も)は、児
言研の歴史を正確にたどることで未来を創り出すチエが生まれ出てくること
になる、当然なことである。わたしがここで付け加えることができるのは、
ほんのわずかな結論だけである。わたしはかつて次のように書いたことがあ
った。

 「表現よみ」とは、表現的に読んだ最高水準の音声表現のことも指します
が、表現的に読もうと努力した低水準の音声表現のことも指します。つまり、
学校教育で「表現よみ指導」という場合は、「表現的な音声表現をめざす指
導」とか「表現的な音声表現をねらう指導」とかの意味で使っていることに
なります。学校教育で「表現よみをさせる」とか「表現よみをする」といっ
たとき、児童生徒の実際の読み声には、表現よみと言われない種々雑多な夾
雑物の音声表現(詳細、本書29p参照)が当然に入ってきます。教師は、学
校教育で、「低次な表現よみ」から「高次な表現よみ」へと高める学習指導
をしているということになります。高次な「表現よみ」をめざして、それを
意識して指導しているという大前提が基盤にあるのです。
 種々雑多な音声表現が含まれる「朗読」をめざすか、それがない「表現よ
み」をめざすか、「低次な表現よみ」から「高次な表現よみ」を意識して指
導しているか、いないか、このスタートの違いはゴールに大きく影響してき
ます。学校教育における音声表現は、やはり「表現よみ」がスタンダード
(標準的)な読み声スタイルとならなければなりません。
      
拙著『音読指導の方法と技術』(一光社、1989) 43pより

参考資料…「表現よみと朗読との違い」と「相手意識」については、本ホー
      ムページの第6章「表現よみの提唱」を参照せられたい。
 表現よみと朗読との違い
 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/teisyou2.html へのリンク
 相手意識
 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/teisyou3.html へのリンク

参考資料… なぜ「表現よみ」概念が出現したか、出自については
      第7章「表現よみ教育の歴史」を参照せられたい。
 http://www.ondoku.sakura.ne.jp/rekisi1.html へのリンク


   (5)「音読」と「表現よみ」の区別の曖昧さ


 児言研では本時展開のなかで「音読」と「表現よみ」とがどのように使い
分けられているのだろうか。以下では、「音読」を「音読a」のこととして
「音読」の用語を使って書いていくことにする。
 本時展開において「音読」と「表現よみ」とがどのように使い分けられて
いるかを調べるために岩田・朝比奈基調提案のときの同時発表者たちの本時
展開例(執筆者、関・内藤・市川・前川)と、その6年後に児言研が発刊し
た『今から始める一読総合法』の中にある表現よみ授業の本時展開例(執筆
者。鴛淵・平井・山口・大場・藤田・矢口・白須・前川)の「音読」「表現
よみ」の用語の使い分け方について調べてみた。授業者の指導意図によって
当然に多少の使い分けの違いはあるが、大枠の傾向は把握できた。大枠の傾
向をまとめると下記のようになる。(藤田先生だけは、授業冒頭から終末ま
ですべて「音読」一本の用語を使って書いている)

(1)前時の想起………「表現よみ」
(2)ひとり読みしながらの黙読・微音読………「音読」
(3)ひとり読み直後の指名よみ………「音読」
(4)解釈深めの話し合いの中………「表現よみ」
(5)解釈深めの話し合いのまとめ………「表現よみ」
(6)本時最後のまとめ………「表現よみ」

 大枠での大体の傾向は、ひとり読みしながらの書きこみ作業中と、その直
後の指名よみは「音読」を使い、それ以外は「表現よみ」の用語を使うとい
うパターン(配分区分)であることが分かる。
 これについてのわたしの感想意見を以下に書いてみよう。
 上のような「音読」と「表現よみ」との配分区別は、理論上は言えても、
実際授業では言えない。実際に授業の中での児童の読み声に基づいて音声表
現指導をしていると、そうした機械的な区分けをめざした配分の授業をする
ことはできない。
 学級内では、児童の音声表現のレベルには差がある。低位の音読レベルの
児童が急激に話し合いに入ると上位の表現よみレベルになれるとは限らない。
低位レベルの児童に高位レベルの発音や読み声を聞かせて模倣させると、模
倣上手な児童はたちどころに高位レベルの音声表現ができるようになるとい
う子もいる。しかし、これは常時のことではない。
 「ひとり読み」では「音読」を、「解釈深めの話し合い」では「表現よ
み」をねらって指導していたとしても、児童によって上達の進度はばらばら
である。ひとり読み段階ですばらしい表現よみをする子もいる。話し合いで
解釈が深まったからといって直ちに表現よみレベルに達するとは限らない。
ひとりの児童の読み声にも、発音発声指導面で教えるべき内容、表現よみ指
導面で教えるべき内容、それらがばらばらに、ごちゃまぜに混在して音声表
現されているのが通常の読み声の姿である。
 「ひとり読み」では≪音読≫を、「解釈深めの話し合い」では≪表現よみ
≫を、こうした判然とした区分けでは実際の授業は進行しない、というか、
できない。「ひとり読み」と「解釈深めの話し合い」、双方の場面に、児童
たちから「音読レベル」も「表現よみレベル」も、ごちゃまぜに、混在して
アナーキーに発表(読み声提出)されてくるのが通常の姿であるからだ。
「ひとり読み」で≪上手な音声表現≫が発表されたり、「解釈深めの話し合
い」で≪下手な音読≫が発表されたり、こうした現象はよくあることだ。 
皆さまはこうした判然とした区分けで指導しようとすると授業がやりにくく
てようがないと感じたことはないのだろうか。わたしにはやりにくくてしよ
うがなかった。結局は、こうした区分けで指導することを止めざるをえなか
った。
 担任が音声表現を継続的に指導している学級でも、1学期か、2学期か、
3学期か、持ち上がり学級か、によって学級児童の音声表現の上達レベルは
違っている。「ひとり読み」直後で上位の表現よみが発表されたり、「解釈
深めの話し合い」の中で低位の音読が発表されたりしたとする。「ひとり読
み」で上位の表現よみが発表されると、「ちょっと待て。それは別の機会で
やろう」と待ったをかけたり、「解釈深めの話し合い」で下位の音読が発表
されると、その時は「ちょっと待て。それは別の機会でやろう」と、待った
をかけたり、あるいは無視したりして進むのだろうか。それはできないだろ
う。児童からどんな読み声のレベルが発表されるかは予知できない。その時
々で発表された読み声レベルをもとにして臨機応変に指導すべき内容を見出
していくほかない。
 わたしには,表現よみ指導から音読指導を独立させてとりだし、名付けを
「表現よみ」から「音読・表現よみ」へと、「音読」を独立させる教授学上
の有効性がどこにあるのかが分からない。毎時間に、いつもいつも一斉の
「音読」指導をする必要はどこにあるのが分からない。
 わたしの表現よみ授業では、毎時毎回の「音読」の挿入指導をしようとす
ると、それがじゃまでじゃまでしようがなかった。その必要がなかったから。
 「表現よみ」の「話し合い」時間の中で実際に声に出して音声表現をあれ
これと試みさせて発表していくと、たまにへんな発音発声やアクセントで読
む子がいるが、その場合はその場その場での個別指導で修正させる、それで
十分であった。

 児童の読み声の実態はばらばらである。指導すべき多様な要因がばらばら
に混在して発表される。発音発声面では、二重母音・はぎれよい発音など、
個別に指導すべき児童もいる。へんな読み癖があって無色平らに読むように
個別指導すべき児童もいる。こうした個別指導を必要とする児童は、別に時
間をとって指導しなければならないことも出る。発音発声・アクセントのト
リタテ指導、発音しにくい言葉や語句のトリタテ指導も必要となる。


     
(6)第一読の出会いから表現よみ指導を


 ひとり読みの時間は「音読」指導にねらいをおく、というのはおかしい。
ひとり読みにおいても「表現よみ」をめざして音声表現させてよい。
 一読総合法は、文字(文章)との第一読の出会いから読み手の全知力を発
揮して語句・文・文章に反応し、読みを深めていく読解指導法である。音声
表現指導においても同じである。文字(文章)との初発の出会いから読み手
の全知力を発揮して反応し、レベルの高い表現よみを目ざして音声表現させ
ていくのがよい。
 まず「音読」だ、すらすら読めるようにする。つぎにメリハリづけの「表
現よみ」だ、という二段構えの指導でなく、初発の出会いから文字(文章)
に精一杯ぶつかって反応し、精一杯にレベルの高い表現よみをしようと努力
させるのがよい。
 なぜか。ひとり一人の児童の読み声を聞いて、これは音読レベルだ、これ
は表現よみレベルだと区別することは困難だ。音読レベルと表現よみレベル
とが混在しているからだ。どこからが音読で、どこからが表現よみか、厳密
に区別するのは難しい。実際の読み声には、音読面にまずさ・うまさの個所
があったり、表現よみ面にもまずさ・うまさの個所があったりする。上手な
表現よみができる児童にも、時にはある個所をへんな発音発声やアクセント
や無声化を有声化して読んだりする子がいる。
 まず「音読」で区切りしっかりと、すらすら読めるようにする。それから
情感豊かに声に出せるようにするという二段構え指導でなく、書かれている
作品世界の表象をうかべ、人物心理や事件の流れを頭に描きつつ、それを意
識的に音声表現にのせて読もうとする自覚的、積極的な表現よみを第一読か
ら目ざしてよい。発音発声や語句の区切りのまとまりは文章の意味世界に引
きずられて表現されてくるものだ。
 ここは音読指導の時間だ、ここは表現よみ指導の時間だ、と区別した指導
は、やりにくく、めんどうだ。しちめんどうくさくて現実的でない。実際の
授業場面では音読指導の中に表現よみ指導が入ってきたり、表現よみ指導の
中に音読指導が入ってきたり、混在している。前記引用したように「表現よ
み指導とは、表現よみをめざした指導である」として、すべて表現よみに含
めて扱うのがベストである。初発の出会いから表現よみをめざした指導がベ
ストである。
 実際の学習指導では音読指導と表現よみ指導とは重なる場合が多く、むし
ろ積極的に関連させて、区別せずに指導していくのがベストである。音読と
か表現よみとかは便宜上設定した机上区分であって実際の授業場面では殊更
に区分せずに連続混在したものとして指導していくのがよい。
 「一読総合法は「精読」一本で行う指導法だ。「精読」の中に「通読」と
「味読」を含めて分析総合していく読解指導法である」とよく言われる。こ
の言い方に「表現よみ」「音読」「朗読」を挿入して書き入れて言うとこう
なる。
 一読総合法は「精読」(表現よみ)一本で行う。「精読」(表現よみ)の
中に「通読」(音読)と「味読}(朗読)を含めて分析総合していく読解指
導法である、となる。一読総合法は、音読段階から表現よみ段階へという二
段階構えを否定した読み方で、二者が混交した分析総合のダイナミズムの進
行過程で理解を深め、音声表現していく読解指導法である。


       
 (7)三読法への回帰がある


  岩田・朝比奈基調提案では全体名称が従来の「表現よみ」から「音読・
表現よみ」に変更している。なぜ「音読」を挿入したのか、岩田・朝比奈基
調提案には、その理由については一行も語られていない。ぜひ知りたいとこ
ろだ。何人かの児言研会員に質問してみたが、確かな返答を受けたことがな
い。
 「音読・表現よみ」の中の「音読」の用語は、前述したように「声に出さ
ないで読む黙読」に対する「声に出して読む音読一般」の「音読」を指して
いるのではなく、「音読a」と同じものとしての「音読」の用語使用である。
つまり「音読a」=「音読」である。
 ここで使われている「音読a」の用語は、「音読」一般ではない。読解指
導の展開過程にある教育用語として使われている。教材全体の指導過程や本
時の指導過程にある基本作業の一つとしての教育用語として使われている。
 これは石山脩平「三読法」にある読解指導の展開過程にある「通読=音読、
味読=朗読」という用語使用と同じ性質の教育用語である。通読段階で「音
読」指導をする、味読段階で「朗読」指導をする、という「音読」「朗読」
の用語使用と同じ使い方である。
 岩田・朝比奈基調提案では、一時間の授業展開の中で、まずひとり読みで
「音読」をやり、次に解釈深めの話し合いや最後のまとめで「表現よみ=朗
読」をやるという2段階構えの指導となっている。「表現よみ=朗読」と書
いたが、前述(4)で書いたように岩田提案では「表現よみ」と「朗読」と
は同じものだと語っているので、「表現よみ=朗読」という記載のしかたで
よいことになる。
 かつて石山脩平は、通読・精読・味読の三読法を提唱した。通読では「音
読」の指導を徹底せよ、味読では「朗読」の指導を徹底せよ、と主張した。
これが石山脩平の三読法の音声表現指導の主柱となっている。
 岩田・朝比奈基調提案は、1時間の授業展開においては、まず「音読」を、
次に「表現よみ=朗読」を、という2段階構え指導となっている。これは、
石山「三読法」の展開過程と酷似している。大きく異なるところは全文通読
をするか、しないか、である。「音読」から「朗読=表現よみ」へという段
階指導は全く同じである。
 こうした「音読」から「表現よみ=朗読」へという2段階構え指導には、
石山脩平「三読法」への回帰が見てとれる。石山脩平「三読法」の変奏曲を
かなでている、と言える。ここには少年の日にアキアカネが舞う秋の夕暮れ
の木造校舎と運動場をなつかしむ、自分が受けた国語授業の暮れなずむ郷愁
への残滓が見え隠れしている、と言える。
 石山脩平『教育的解釈学』(賢文館、昭10)を読むと、通読の要件として
「素読・註解・文意の概観」の三つをあげている。石山の当面の課題は、寺
子屋以来の「素読」をどう克服し、組み換えていくかだったようである。石
山は賀茂真淵や本居宣長の古典研究を読み、そこから依拠すべきヒントを得
て、新しい形(内容)で註解(講釈)を入れて、音読から朗読への三読法読
解を構築しているとわたしは理解した。石山は古文・漢文の研究法からヒン
トを得て、通読(音読)、精読(音読)、味読(朗読)の三段階法を提唱し
ていると理解した。
 現行の小中学校の国語教科書の現代文(口語文)は大体が一読すれば分か
る文章である。こうした文章には一読総合法の読解学習が最適である。古文
学習、漢文学習、英語や仏語など外国語学習においては、石山の主張する、
まず「音読(通読)」をして、それから「精読・味読」から「朗読」へと
いう三段階法があるのかもしれない。つまり素読・註解・文意の概観の通読
段階があるのかもしれない。そうでないという意見者も当然におられること
だろう。今後の課題である。


           
理論面から


 岩田・朝比奈基調提案の以前は、児言研では「音読」と「表現よみ」につ
いてどのように語られていたのでしょうか。本章ではそれについて書いてみ
たい。岩田・朝比奈基調提案の以前の『国語の授業』誌、会員の著書、夏季
アカデミー「表現よみ」分科会の発表者たちの文章から探ってみることにす
る。


     
   林進治の文章から(1)


 林進治は著書『人間づくりの読書指導』の中でこう書いている。

 表現よみというのは、音読とも、朗読とも違います。違う点は、聞き手を
意識するのではなくて、ひとり読みで、頭の中につくられた表象、その表象
にまつわっている感情、それを自分の声帯を通じて自分の声として表現する
読みです。これこそが、理解と表現の接点となります。表現よみは、ことば
を生きたはたらきとして体で受けとめ、自分のものとします。
    『人間づくりの読書指導』(一光社、1980) 114pから引用

 林進治は、児言研では一読総合法構築・提唱の中心メンバーの一人であり、
校長として学校ぐるみで一読総合法発表会をやり、日本中から教師たちが学
校訪問・授業参観に訪れ、日本の国語教育界に大きな影響を与えた。林進治
は、わたしが独身教師だった浅間台小学校勤務時の校長であり、4年間、し
ばしば授業参観を受け、一読総合法授業や表現よみ授業について懇切なご指
導を受けた。林校長は、第一読から「表現よみ」指導であり、初めは「音読
指導をせよ」とは言わなかった。
 林進治は、上の引用で「表現よみは、音読とも、朗読とも違います」と書
いている。岩田・朝比奈基調提案にある「表現よみと朗読とは同じだ。音読
指導をせよ」とは全く違う主張をしている。ここに注目したい。


         
林進治の文章から(2)


 また林進治は著書『一読総合読み実践入門』の中でこう書いている。

 昔、朗読ということが言われました。通読・精読とすすんで、仕上げの段
階で、朗々とこれを読みきかせる、これによって、作者の想を未到する。ひ
とり自分ばかりでなく、それを多くの人にも読み聞かせる。こうした読みが
朗読でした。
 (……石山脩平の三読法理論によると)通読や精読ではまだ子どもはたど
たどしい読みがむしろふつうであるから、黙読や微音読を主とすべきであっ
て、音読することがあっても朗読とはよばない。これらの労苦があって、そ
れをこえてのちに朗読は作者になりかわって、作者が読むであろう読みを実
現することである。
 朗読は読み手が通読・精読とすすんだ後の報酬として楽しむものとしてい
ます。そして暗誦にまですすむことによって、その文体を身につけ、書く土
台とし、また、音声表現の力をきたえねる方法にしようとしています。
 この考えは、今に広く残っていますが、私たちは考えを異にします。
 私たちは、理解を深めるために表現し、表現をなりたたせるために理解を
深めるようにします。理解も表現も外的行為を通すことによって身につくと
いう立場です。
 したがって、第一にあくまで、読み手のための読みです。ひとに聞かせる
読みでなく、自分が読んで、自分に聞かせる読みです。
 第二に、最初から表現よみです。全文章がすっかり読めて、「さて朗読」
というのではないのです。最初から味わい楽しむ読みをめざし、それを自分
の声帯に実現していくのです。
 「初めから? まだ読みの能力の低い子どもにそんなことができるか」た
しかにそのことは疑問になります。
 そのための授業として、私たちは一次から三次までの表現よみの機会を設
定します。
 まず第一次の表現よみは、最初の読み、ひとり読みです。これは表現よみ
を見出す読みです。文字・語・文、文=文と音韻を求め、語としての音のま
とまりを見出し、文の形にそれを位置づけるのです。アクセント、イント
ネーション、プロミネンスは、この中でそのあり方を定めていきます。それ
をさがしだし、音声として表現する、その決断の中に、一つ一つの語のねう
ちが定められます。もちろんそのためには、今まで述べてきた、表象化や具
体化、一般化や抽象化、感想・意見出し、見通し・予想、プランの仕事が果
たされていなくてなりません。はじめから、朗々とよどみない進行は期待で
きません。立ち止まり、小さく後に立ちもろり、先に進んではまた立ちどま
り、時には大きく立ちもどって、読まなくてはなりません。したがってこれ
は表現よみへの読みです。(…………)
 表現よみは、つねに表象や事実を追いつつ、新しい意味を見出す楽しい仕
事です。
 また、表現よみによって、文体を学び、話すことの修練が積まれる絶好の
機会になることは言うまでもありません。それだけに、この機会は最後だけ
にとりあげるのでなくて、はじめからもっと、多くの機会をとりあげるべき
です。ひとに聞かせるということを目的としなければこのことはじゅうぶん
に可能です。 
林進治・横浜児言研『一読総合読み実践入門』(明治図書、
       1976)49pから引用

 林進治は上の引用個所で石山脩平「三読法」の音読・朗読理論を要領よく
まとめている。再度、わたしなりに簡単に骨だけ書けば、「通読」と「精
読」段階は「音読」であり、味読段階は「朗読」である、となる。
 林進治は、「石山の考えは今に広く残っていますが、わたしは考えを異に
する」と書いている。そして、「最初から表現よみです。全文章がすっかり
読めて、「さて朗読」というのではないのです」と書いている。これは岩
田・朝比奈基調提案と意見を異にしている。
 林進治の考え方はこうである。文章との第一読の出会いから表現よみをさ
せていく。低次の表現よみから高次の表現よみを目ざして指導していく、と
主張しているのだとわたしは理解する。
 こうした考え方は、当時の児言研会員の一般的な考え方だったと思う。そ
れが岩田・朝比奈基調提案から何故か「音読」が一読総合法の読解指導に差
し込まれて「表現よみ」一本から「音読・表現よみ」という名称になった。
なぜ、「音読」が差し込まれたのか、その理由はなぜかが一行も語られてい
ない。わたしは不思議に思う。


        
 林進治のの文章から(3)


 さらに林進治は著書『一読総合読み実践入門』の中でこう書いている。

1、題名読み
 題名読みでは、さまざまの可能性を秘め、視角だけが設立されて、なにが
視野に浮かびでるか、さまざま想像される、期待の門出をする仕事です。
教師としては、豊かな想像の翼を広げるとともに、翼のかげになる問題意識
をよびさますことが必要です。なお、翼をひろげるのに妨げになるのは、こ
のことについての基本的な知識や経験の欠如で、これを補う用意も必要とな
ります。

2、ひとり読み
 自分の読んだ結果を外的行為として書き出します。これらの仕事をすすめ
るには、文字と文字、語と語を関係づけ、同時に表象と表象、事実と事実の
関係をおさえて位置づける仕事が軸となりますが、これらの複雑な関係づけ
やその結果を明確におさえて読みすすめるには、書きこみが有効です。表現
をチェックし、傍線を引き、関係個所を線で結び、メモ(書き込み)するこ
とが効果的です。
 一応共同の立ち止まりまで読みすすめ、書き出しをすませたあとは、読み
とり得たすべてが表現できる読みをめざして、自分の声帯の訓練としての表
現よみを重ねる仕事にすすみます。

3、第一次の表現よみ
 基本作業(表象化・具体化、抽象化・一般化、感想意見出し、予想、まと
めプラン)がどれだけすすんだかは端的に表現よみにあらわれます。この基
本作業をすすめたあとを点検し、たしかに表現を踏まえたかを自らあきらか
にし、とぎれがちであったひとり読みの総合を一段と昇華させるのが表現よ
みの役割です。できるだけ、ひとりひとりがその機会を持つべきだし、また、
仲間のそれを聞き合うことが、深めあい、豊かにしあう大きな役立ちを果た
します。

4、話し合い
 第一次表現よみにつづいて、話し合いに入ります。
 この話し合いのねらいは、一つには外的行為にうつすことによって、内言
として捉えていたものを整え、明確にすることにありますが、二つにはこれ
を仲間の相互評価によって、補い合い、正しあい、深め合っていくことです。
これを教師の評価によって、さらに、たがいに確かめ合い、深めあうことで
す。
 したがって、この場面では、みずからも大勢の前に出すとともに、仲間の
発言を学びとり、教師の評価をうけて、自己変革をはかっていくことがだい
じです。

5、第二次の表現よみ
 第一次の表現よみは自力読みでの精一杯の読みであったのですが、話し合
いにより、共同思考によって、新たな視点が与えられ、表象も感情も豊かに
なり、具体化も的確になり、いっそう広い視野からたてられた、予想や見通
しを持った、いっそうの実りを示すのが第二次の表現よみです。

6、前時をうける仕事
 ふつう一時間二つの立ち止まりぐらいが適当で、次の時間を迎えることに
 なります。
 前時の学習をうけつぐときは、進行の断絶をつくらないこと、そのために、
(1)本時部分の予想や、見通しを出しあって、ひとり読みにはいる。
(2)前時までの部分の、あらまし、その展開を一応さらった、本時にはい
   る。
(3)いままでの学習部分を表現よみして、本時に入る。
 これらの組み合わせの方法が選ばれます。読みの能力がすすむにしたがっ
 て、これらはかるく扱われてもよいのです。すすんだ能力の子どもなら、
 すぐ本時部分のひとり読みに入って、おのずと過去は甦ってきて、無理な
 く入れるようになります。

7、第三次の表現よみ
 最後の立ち止まりを終われば読みは完成します。読み終わった感想、意見
を書くとか、「創作話かえ」として、視点人物をかえて書き直すとか、脚本
に書きかえるとか、このあとの発展や後日談を書くなど考えられますが、必
ずしも、なくてはならぬ仕事ではありません。
 ぜひ必要なのは第三次の表現よみです。全文をあらためて、新しい体験と
して、より高められた体験として表現することです。この読みによって、こ
と細かな読みの作業は、生き生きとした姿となって、感動的な体験を生みだ
してくれます。
      
林進治・横浜児言研『一読総合読み実践入門』(明治図書、
      1976)67pより


 林は、一読総合法の1時間授業の展開過程の中に「第一次表現よみ」「第
二次表現よみ」「第三次表現よみ」の名付けを与えている。
 「第一次表現よみ」とはひとり読み直後の音声表現のこと、「第二次表現
よみ」とは話し合いの中での音声表現のこと、「第三次表現よみ」とは最後
のまとめ段階の音声表現のことだと書いている。
 林の第一次・第二次・第三次の表現よみとは、一読総合法の授業展開の時
間の流れを機械的に区分けした便宜的な名付けだとわたしは理解した。授業
が展開するにつれ次第に児童たちの音声表現レベルは当然に上達するわけだ
が、上達レベルのメリハリづけ能力の向上というスキルレベルの区分けでは
なく、どちらかといえば授業展開の時間流れの機械的な区分への名付けであ
るように理解した。
 第一次・第二次・第三次の名付けは、必要かどうか、わたしはあまり賛成
とは言えない。わたしはこれまで「ひとり読み直後の表現よみ」「話し合い
の中の表現よみ」「最後のまとめの表現よみ」という名付けで語ったり、書
いたりしてきている。これで十分に用が足りている。


   
     大久保忠利の文章から(1)


 大久保忠利(都立大)は、日本コトバの会表現よみ部会のチューターとし
て発足当初から表現よみ構築に理論的にも実践的にもリードしてきた学者で
ある。児言研機関誌に表現よみ自己訓練の体験から紡ぎ出した論考を多く発
表している。

 
今日、目にするように、他の指導過程を終わってのち、最後に「表現よ
み」と、まるで単なる「仕上げの過程」に封じ込めるだけに止めようとする
ことは、全く「表現よみ」を自分で自己訓練をしたことのない人間の、きわ
めて浅はかなキメテカカリ以外の何ものでもありません。第一読から「表現
よみ」を適用できるのです。
 大久保忠利『国語・文学教育とコトバの心理』(大明堂、1968)30p

 大久保は、「今日、目にするように」と書き、執筆当時(1968、昭43)に
一般的だった朗読指導、つまり「最後のまとめ段階、仕上げとして朗読をさ
せる」そのような音声表現指導はよくない、と書いている。第一読の初発の
出会いから表現よみをさせるのがいい、と書いている。これは、初発の出会
いは「音読」で、最後のまとめは「朗読」だという石山脩平「三読法読解」
への痛烈な批判を含んでいる。


        
大久保忠利の文章から(2)


 大久保は、前記と同じようなことをあちこちに書いている。もう一か所だ
け引用しよう。著書『国語教育本質論』の中から。

 表現よみは、「まず作品を慎重に読んでから、さて」ということばかりと
きまっているわけではありません。ぶっつけに表現よみをやって、作品の表
現を音声化し、内容を理解し、映像化し、しかも非反省的意識を豊かに喚起
しつづけられるのが一番いいのです・   205pより
 あまりやってもいない人の書く「文学教育論」にも出てくるように固定し
て「通読」の次にさて「精読」そして「表現よみ」ではないのです。
1、第一読でもやらせる。
2、クラスでの一斉下読み・読みの工夫の指導。
3、ひとりずつの部分よみ。
4、「この前の時間までのことを話してごらん」といって短く「要約」のし
  かたを教えるだけでなく、「はじめから、この前までのところを表現よ
  みしてください」で、情景をこめてシックリ思い出させることもできる。
5、自宅で楽しみ読みの味をおぼえさせる。 
     大久保忠利『国語教育本質論』(春秋社、1973)221pより

 大久保は、ここでも前出と同じに「第一読でも表現よみをやらせる」と書
いている。このことを、いの一番に書いている。「通読」の次にさて「精
読」そして「表現よみ」ではないのです、と書いている。ここには、石山脩
平「三読法・通読段階で音読を、さて味読段階で朗読を」への痛烈な批判が
こめられている。
 前記『国語・文学教育とコトバの心理』の執筆は、1968年(昭43)であり、
本引用『国語教育本質論』の執筆は、1973年(昭48)である。上述した林進
治の「第一次表現よみ」などの『一読総合読み実践入門』執筆は、1976年
(昭51)である。
 これら先輩たちの主張が岩田・朝比奈基調提案(1989年,1990年)では継
承されてなく、断絶しているのである。弁証法的「発展」として「音読・表
現よみ」として継承されているのだ、と主張するのだろう。しかし、何故に
そうなったかの理由がどこにも語られていない。なぜ「音読」が挿入された
かについて一行も語られていない。

 また、大久保は、著書の中で表現よみの上達レベルには三段階があると書
いている。この上達三段階の初出は『話しかた第二歩』(春秋社、1966)で
あった。書道のコトバを借りて、表現よみの上達レベルを「楷書読み」「行
書読み」「草書読み」と名付けた。
 「楷書読み」「行書読み」「草書読み」とは何か。大久保の著書から引用
してもよいが、それよりも現場教師たちの論文から、現場教師の発想・立場
から三段階レベルを解説している文章を引用したほうがわたしたち現場教師
には参考になるだろう。そう思って、下記に5人の小学校教師の三段階レベ
ルの解説を引用してみた。
 執筆者によって、三段階レベルを「楷書読み」「行書読み」「草書読み」
の名称でなく、「入門期」「発展期」「習熟期」または「初級レベル」「中
級レベル」「上級レベル」などと名付け方が違っている。名称は違うが、
「表現よみ」の上達レベルを大きく三つに区分けする点では同じである。


           
斎藤郁子の文章から


 斎藤郁子(元川崎市公立小学校教諭)は表現よみの三段階スキルレベルを
次のように書いている。

    大久保忠利・斎藤郁子編『表現よみと国語教育』(明治図書、
                  1982)175pより引用。

上達の三段階
(1)楷書読みの段階
  文字言語を正しく音声化する段階です。発音、発声、読みぐせ、アクセ
  ント、方言、などが問題になります。読み続け方、切り方、また、あが
  ることなどからの脱出も大切です。
(2)行書読みの段階
  気持ちをよりよく表現する為にいろいろ読みを工夫する段階です。強弱、
  高低、速さ、調子の変化、地の文、会話文、間のとり方など、の工夫を
  します。
(3)草書読みの段階
  自由自在に表象をうかべ、その情感にあった表現よみができる段階です。
  軽く、やわらかく、ひくく
  はいる、なりきる、のりうつる
  の合言葉のように読める境地です。




       
根本由美子・田島まき子の文章から  


 根本由美子・田島まき子(お二人とも元埼玉県公立小学校教諭)は、三段階
スキルレベルを次のように書いている。
 下記は、彼女らが2002年・児言研夏季アカデミー・表現よみ分科会で
発表した「ベロ出しチョンマ」(斉藤隆介)のレジュメからの引用である。
 お二人は、1990年頃から埼玉児言研の与野大宮サークルで表現読みの
三段階の実験的授業を始め、下のような段階表にまとめたそうだ。

表現よみよみの三段階
(1)文字言語を正しく音声化する段階(楷書読み) 
   ・読み癖、アクセント
   ・ゆっくり、はっきりと
(2)工夫して気持ちよく表現する段階(行書読み)
   ・間(句点、読点)のとり方
   ・強弱、高低
   ・速さ、調子の変化
   ・地の文、会話文
(3)自由自在に様子を思い浮べ、情感豊かに表現する段階(草書読み)
   ・かるく、やわらかく
   ・ひくく、つよく
   ・はいる、なりきる



           
田村操の文章から   


 田村操(元東京都公立小学校教諭)は、三段階スキルレベルを下記のように
書いている。
 田村操編『表現よみ・その理論と教育実践』(あゆみ出版、1996)
巻末折り込み表からの抜粋引用である。

表現よみ指導段階表
(1)入門期
   ・語意識を持って大きな声ではっきりと読む。
   ・文意識を持って句読点まで続けてはっきり読む。(正しい発音で読
    む)
   ・場面の様子や人物の特徴をとらえて楽しく表現よみする。
   ・会話文で登場人物の気持ちが表れるように表現よみする。
   ・登場人物の行動や気持ちを考えながら表現よみする。
(2)発展期
   ・会話文と地の文の文を読み分け、地の文でも登場人物の気持ちが表
    れるように表現よみする。
   ・情景や登場人物の心の動きが表れるように表現よみする。
(3)習熟期
   ・地の文で情景が伝わるように表現よみする。
   ・情景や登場人物の人柄、心の動きが伝わるように表現よみする。
   ・話をするときのような自然な口調で読む。

 田村操の指導段階表では、上の引用のほかに「表現よみ指導段階表」には、
表現よみの要素T「発声・発音」と、表現よみ要素表U「調子(音色、声の
大きさ・強さ・高さ)、文末表現、強調、間、転調」などの段階項目の付随
した表が記載されている。ここでは省略している。ここでは上の「表現よみ
の目標」の段階項目のみ引用している。


         
荒木茂のウェブページから  


 わたし(元横浜市公立小学校教諭)の三段階レベルについては、児言研編集
『国語の授業』誌(1976年7月)や『表現よみ入門』(一光社、1979)や『表
現よみ指導のアイデア集』(民衆社、2000)などに書いてある。ここでは本ホー
ムページにあるものを紹介する。
 下記をクリックしていただけるとありがたい。二面あるので、最下段「次
へつづく」のクリックもどうぞ。
  http://www.ondoku.sakura.ne.jp/tyuukyuureberu1.html へのリンク


 上の五人の教師は、著名な師匠のもとで長年、小説や物語の音声表現の実技
指導を受けてきた教師たちである。師匠名と受講期間を(  )の中に記入
すると、斎藤郁子(大久保忠利・20年以上)、根本由美子(巌金四郎・1
2年間)、田島まき子(巌金四郎・12年間)、田村操(山内雅人・20年
以上)、荒木茂(大久保忠利・20年以上、滝田裕介・5年間)である。い
ずれの師匠も今は物故者となってしまっている。
 上の5人の教師たちの3段階表は、そうした長期にわたる実技訓練の修業
体験と学級児童への授業体験から生み出された産物である。実技訓練や授業
体験なしで、その場の思いつきで作成した3段階表ではない。
 上の5人の教師たちの3段階表の内容は、それぞれが文章(表現)は違っ
ているが、対象としている事柄(内容)は同じことを指していて、わたしは
それぞれに納得できる。
 通常は、楷書よみ(入門期、初級レベル)段階を教育術語としての「音
読」と呼んでいるのだろうが、5人の教師ともすべて「表現よみ」一本であ
る。「音読」と「表現よみ」とを区分けしていない。
 区分けしないわたしの理由はこうである。語のまとまり、語句のまとまり、
文のまとまりで区切って読む、つまり「音読」するには、単なる文字づらの
区切りではなく、意味内容からの、音声による「表現」であり、「表現よ
み」であるからだ。「意味内容の表現」が土台になっているからだ。オウム
やロボットのような機械的な区切りとしてのずらずら読みの区切りでなく、
意味内容を土台にした、意味内容から導き出された、意味内容のまとまりの
区切りからの音声表現であるからだ。
 つまり、第一読においても単語や語句や文の区切り読みは、意味内容から
導き出されたものであり、そこには当然に情感性を伴った音声による「表
現」「表現よみ」も含まれている。意味内容(単語や語句や文の区切り)を
音声で表現しようとすれば、当然に情感性も加わってくるはずだ。情感性の
多い(上手)、少ない(下手)の差はあるが、情感性も加わってくる。音声
表現の上手下手は別にしてです。初読の音声表現においても上手下手の違い
は別にして意味内容からくる単語・語句・文の区切り・まとまりだけでなく、
情感性も伴ってくる。読み手によって楷書読みレベルもいれば行書読みレベ
ルの児童もいて当然である。

 第一読の音声表現の発表においても、上手な音声表現、下手な音声表現が
混在して児童たちから発表される。上手下手の差がはっきりしている児童も
いるが、大多数は上手下手の差は微妙な差の違いとなって発表される。上手
な個所、下手な個所がまったく逆な児童もいれば、微妙に違っている児童も
ざらで、混交して発表されてくる。大多数が一部に上手な読み声もあれば、
一部に下手な読み声の側面がある。上手とも下手とも言えない、どっちつか
ずの読み声が殆どだ。多種多様な音声表現のしかたが混在して発表される。
 発表時期が4月か、9月か、12月か、3月かによっても、持ち上がり
学級かどうか、によっても上達レベルがちがってくる。学年段階によっても
上達レベルがちがってくる。こうした児童たちの読み声の実態であるから、
ここでは「音読」指導の時間だ、ここでは「表現よみ」指導の時間だと、常
時、1時間の指導展開を機械的に区別したねらいをおいて指導するのでなく、
「表現よみ」一本で指導していくのが現実的でありベストな指導方法である。
発音発声面も情感づけ面も混在させて指導していくのがよい。もちろん、発
音発声面のトリタテ指導、情感づけ面のトリタテ指導の時間もあってよい。

 かつて学習指導要領は、「音読」を理解領域に(小一〜小四)、「朗読」
を表現の領域に(小五〜中学)に位置づけていた。この考え方に引きずられ
て「音読」と「朗読・表現よみ」とを区別して、「音読」は理解段階の読み
声だ、「朗読・表現よみ」は理解したものにより情感をこめた表現段階の読
み声だ、と主張する教師たちがいる。こうした考え方を主張する教師はけっ
こう多い。
 これについて岩田基調提案の中で岩田は次のように語っている。
 (学習指導要領は)音読を理解領域に位置づけて、朗読を表現領域に位置
づけて、領域を分けている。理解と表現という二つの側面を二元化して、分
離して位置づけていると同時に、その二つを発達段階の違いとして位置づけ
ている。その辺に指導要領の音読・表現よみに対する考え方が出ていると思
います。つまり、理解と表現というものを分離した上で、理解の上位に表現
を置いてしまう。逆に表現することによって理解を深めるという認識コース
を無視してしまうのです。 『国語の授業』95(1989年12月)18pより

 この文章個所の岩田提案に荒木は大賛成である。さらにわたしの意見を付
け加えておこう。
 子どもの実際の読み声を聞いて、これは理解の段階の「音読」だ、これは
表現の段階の「朗読」だ・「表現よみ」だ、などと区別がつけられるはずが
ない。読み声はすべて「表現」である。理解しつつある過程や、理解した結
果を、すべて「表現」している。理解と表現とは常時、往復矢印で相互浸透
関係の一体化している過程の言語行為である。音声表現はすべて根底に理解
が存在しており、それを音声にのせて表現しているのだ。二つを区別できる
と主張する人がいるならば、二つの区別のついた実際の読み声を聞かせてほ
しい。
 俗に「朗読」に対する「音読」とよばれているものは、初期の(低次の)
意味内容の音声による表現であるからして、「音読」も「表現よみ」である
ことに変わりはない。
 音声表現は、常に理解と表現とは二重性の統一(弁証法的な相互浸透関
係)として存在している過程の産物である。児童ひとり一人の実際の読み声
は、「こことここは音読の側面が強く、こことここは朗読・表現よみの側面
が強かった。ここは音読とも朗読・表現よみとも、どちらであると判定でき
かねる・微妙な混在した重なりが感じられる読み声だった。(分りやすく言
えば)」という微妙な差異としてしか現象しない。「理解」と「表現」との
統一としての差異、二つの微妙な重なりの上手下手の強弱の差異のある読み
声のとしてしか現象しない。


          
田近洵一の意見から


 1990年の夏季アカデミー・朝比奈基調提案の時、田近洵一(東京学芸
大)がシンポジュームの意見者の一人として登壇している。そこで田近洵一
は朝比奈基調提案について次のような意見を述べている。

 朝比奈先生の最初の理論的なお話しにいきますけれども、そういう点で表
現よみは常に読みの成立と共にあると言っていいだろうと思います。おそら
く、そこが朗読という言葉との違いだろうと思うんです。朗読というのは音
声表現の完成段階であると、一応考えられます。したがって、文章を読んで
読みぬいて、その意味内容を十分につかんだ上で、それをいかに表現するか
というのが朗読でありますけれども、しかし、表現よみはまだ意味把握が完
全にできていない段階で、表現よみを取り入れながら読みを成立させ、ある
いは深めていく。そういう意味で、表現よみは読みの成立と共にあると言い
ましたけれども、言葉を変えると、絶えず読みの成立を促すものであると 
言ってもいいだろうと思います。しかも、その読みは絶えず生成変容進化し
続けるのであります。ある段階で完璧な読みの成立というものは考えられな
い。…(中略)…表現よみはそういう読みとと共にありますから、絶えず読
みの成立と共にあり、読みの成立を促すものである。そのように考えるとき
に、表現よみと名付けることの意味があると私は思うわけであります。
 
『国語の授業』(一光社、1990年12月、アカデミー特集号)52〜53p

 ここで田近洵一は「朗読」と「表現よみ」との区別を的確な表現でまとめ
て述べている。
1、「朗読」は音声表現の完成段階であり、文章を読んで読みぬいて、その
  意味内容を十分につかんだ上で、それをいかに表現するかというのが朗
  読である。
2、「表現よみ」はまだ意味把握が完全にできていない段階で、表現よみを
  取り入れながら読みを成立させ、あるいは深めていく。そういう意味で、
  表現よみは読みの成立と共にある、言葉を変えると絶えず読みの成立を
促すものである。

 「表現よみ」はまだ意味把握が完全にできていない段階から始まり、表現
よみを取り入れながら読みを成立させ、読みの成立と共にあり、読みを促す
ものである。こうした田近洵一の直截なまとめコトバは、なんと「表現よ
み」の核心を衝いた言い表し方だろうと感心させられる。「表現よみはまだ
意味把握が完全にできていない段階から始まり」は、朝比奈基調提案にある
「音読・表現よみ」の「音読」導入と「表現よみ」を分離させた提案につい
て、間接的に反論している言及だと、わたしは読みとった。


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