「一読総合法」と「たどり読み」     2014・012・12記





 
「一読総合法」と「たどり読み」の異同(2)





         
「批判読み」について


 「批判読み」は、東京都教組荒川支部の教研サークルによって提唱され、
広く知られるようになった。荒川教研国語サークルによって1957年から5年
間、日教組全国教研集会で提案され、共同討議にかけられた。批判読みは日
教組教研集会のなかで生まれ育ってきたのだ。
 荒川教研国語サークルの中には児言研会員(村松友次、長野一三ら)がお
り、児言研でも批判読みが取り上げられ、実践されるようになった。
 荒川教研国語サークルは、1963年(昭和38)に「批判読み」の成果をまと
めて書籍を出版した。
  都教組荒川教研国語部会著『批判読み』(明治図書、1963・8)

 この『批判読み』の著書に序文を寄せている寒川道夫(明星学園教諭)
は、序文の中にこう書いている。
 批判読み? 生意気いうな。乳くさいような子どもに、文章作品を読んで
批判させるとは何事か。かいかぶりもはなはだしい。黄色いくちばしからで
る思いあがった「批判」など聞く耳もたん。──そういう「批判」の声も聞
こえないわけではありません。
 しかし、荒川教研国語サークルの面々はいうのです。
 「まあ、まってください。黙って文章を読んでいる子どもが納得し、理解
して賢くなっているとは限りませんよ。読みながら、はてな、そうかな、こ
んなことあるはずなんだがな、これでいいのか。いや、おかしいぞ。こうい
う事実も考えれば、こういう考えにはならないはずなんだがな──と、自分
の経験や知識や感情と対決させながら読む子どもの力が、もっと深く文章を
読み、理解し、あらゆる意味での自分自身の人間的な力をつけることになら
ないでしょうか。」
 そして、きっと、断乎として結論します。
 「いや、なるんです。反対にそうしなかったら、文章を読む本当の力もつ
かないし、文章を読むことによって、生まれ甲斐ある本物の人間に育てるこ
とはできないのです。」と。
 どうです。──こうまで言われたら、もう最初の、頭からの否定語は出な
くなるでしょう。
【荒木のコメント】
 「批判読み」というと、「乳くさいような子どもに、批判させるとは何事
か。かいかぶりもはなはだしい」というような批判・非難がでてくる。これ
は予想されることです。これに対して寒川道夫は、批判読みとは、「読みな
がら、はてな、そうかな、こんなことあるはずなんだがな、これでいいのか。
いや、おかしいぞ。こういう事実も考えれば、こういう考えにはならないは
ずなんだがな──と、自分の経験や知識や感情と対決させながら読む」こと
だと回答を与えている。こう荒川サークルの言辞を代弁している。「批判読
み」とは、ごくもっともなことで、当たり前のことしか主張していないこと
が分かります。

 村松友次は『批判読み』の共著者の一人であるが、この著書が出版された
翌年(昭和39)に次のように書いている。
 ぼくは「批判読み」ということを主張しているひとりですが、すぐに「批
判だけさせる読みなど無茶も甚だしい」という批判を受けます。これも名称
だけで議論をしたがる人の悪い癖です。一読主義はほかの言い方では、総合
法とか、一回精読主義とか一本勝負読みとか、立ち止り読みとか、知力総発
揮読みとか、食いつき読みとかと、さまざまに言っていますが、どうせ短い
言葉では複雑な内容をあらわそうとすれば、何かが抜け落ちることは当然で
す。総合法と言ってみたところで、すぐにかっとくる人は「総合だけさせて
分析をさせないなどとはバカげている」とくるでしょう。「立ち止り読み」
と言えば「どうしてすらすら読んではいけないのか」というでしょう。これ
らはすべてバカげた議論です。
   『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)60〜63p

【荒木のコメント】
 村松友次は、名称だけで早飲みこみしてしまう人々を嘆いている。世の中
には「内容を正しく読みとらずに、やっつけ言葉で批判する」せっかちな
人々がいるということだ。
 批判読みから話がそれるが、村松が書いている事柄をちょいっとだけ受け
継いで書いてみたいことがある。
 昭和30年代(1955〜)は、一読総合法の草創期であり、この時期は一読
総合法が創出されだし始めた時期である。一読総合法を、思考錯誤を繰り返
しながら授業実践をしておった時期である。読解方法の呼称として一読主義
とか、総合法とか、一回精読主義とか、一本勝負読みとか、立ち止り読みと
か、知力総発揮読みとか、食いつき読みとか、さまざまに言われていたと書
いている。
 林進治は、昭和13年、神奈川県女子師範の付属小学校の教員となった。そ
の時、付属の児童は三読法の授業の仕事は総て済んでいて、舞台稽古をすま
した授業演技であった。読解というものは子ども自身がどう文章に体当たり
するかであることを知った。「部分から全体へ」の立ち止まり読みは、これ
こそ国語教育の正道であると考え、あるべき読み方指導として発表したり、
神奈川県下は広く、そうした授業や講演をしてまわった。時に「分節読み」
と言い、時には「トンネル式読解法」などと呼んでいた、と書いている(児
言研編集『国語教育研究6』1965年冬号)123pより。
 林進治は、昭和13年頃から一読総合法の萌芽的考え方や授業実践をして
いたようだ。神奈川師範付属小教諭として、神奈川県下を回り、授業や講演
をしていたとある。昭和13年当時は、というか敗戦直後まで、高等師範学
校→県師範学校→付属小学校の権力機構は絶大なものであった。たいへんな
権威をもって教育現場に影響を与えていた。視学・指導主事も権力機構の末
端として権威をもって教育現場に迎えられていた。
 東京高師付属小学校の教諭が講演回りで多忙で高額な報酬を得るので、付
属小教諭を辞めて、講演回りだけにしようとしたそうである。高師付属小を
辞職したら、講演回りの要請が一本も来なくなった、という笑えない話を読
んだことがある。
 話を元に戻そう。過去に一読総合法にいろいろな名付けがあったに戻る。
 明治図書の国語教育月刊誌『教育科学国語教育』で、特集「一読主義読解
は実用主義か」(1964年2月号)があり、一読主義読解が議論されたことが
ある。昭和39年である。この特集号の「編集後記」江部編集長がこう書
いて、本特集の編集方針を語っている。
 一本勝負読みという主張が児童言語研究会の人たちから提唱されると、名
づけかたがショッキングなひびきを持ったせいか、一回限りの指導で終ると
いうのは、教育という営みをしらない暴言であるとの批判が出た。私にはそ
の批判が納得できないし、それに一読主義という名づけかたも気にいらない、
というわけで、奈良小学校へ直接出かけて、低学年と高学年の授業を観察し
てみた。その結果、批判のあたらないことはもちろんであるが、一読主義と
いう名づけかたもよくないと思った。奈良小で使っている総合法もよくない。
正確には分析・総合法とよんだほうがよいと思う。とにかく授業の充実して
いるのには驚いた。やはり、中味を正しく伝えることが先決だと思い、この
ようなシンポジュームを計画したわけである。

 荒木が言いたかったことは、草創期には種々の名づけ方があり、呼称につ
いても種々に議論されたということである。現在は「一読総合法」という名
称に定着している。
 「表現よみ」も、草創期には「表現読み」と、「読み」部分が漢字表記し
ていたが、現在は「表現よみ」と、かな表記に定着している。現在、「音
読・表現よみ」という名づけ方があるが、この呼称は実践的にも理論的にも
正しくなく、「表現よみ」一本でいいと思う。これについては、後日、批判
文を詳細に書きたいと思う。


     
★時枝誠記は「批判読み」を否定する★


 話を本題に戻そう。文章内容を批判的に読むことについては、時枝と児言
研では、大きく相違している。結論だけを先に短く言えば、文章を批判的に
読むことについては、時枝は否、児言研は是である。両者の主張の論拠はど
こにあるかを調べてみよう。時枝の否は、当然に、前出した、せっかちな、
早とちりの、やっつけ言葉で批判する、無思慮な人々の愚見とは全く違う。

時枝誠記はこう書いている。
 読むといふことは、表現の楳材である文字を手懸りとして、それによって
構成された文章を通して、作者あるいは筆者の思想、立場を分かろうとする
ことである。このやうな作業には、先ず何よりも、己を虚しくして、相手を
理解しようとする寛容の態度と、正しく読むにはどのやうな方法によるべき
かといふ、生徒自身の読み方に対する批判的精神とを必要とする。それは、
伝達を成立させ、正しい理解を成就させようとする精神である。ここに批判
的精神といふのは、読まれた、表現者の思想内容についての批判ではなく、
読むといふ自己の行為に対する批判である。高等学校指導要領第一「目標」
の項に、
  生活に必要な国語の能力を高め、(中略)思考力・批判力を伸ばし
とある批判力の意味を、私は上のやうに解釈するのである。内容についての
批判は、それは国語教育の埒外のことで、それには、社会科的あるいは理科
的等の立場を必要とすることであらうが、読む行為の批判は、純然たる国語
学習の埒内のことである。今まででも、屡々内容批判が国語科の主要な任務
と考えられてきたのは、言語行為の目的と、国語教育の任務とが、混同され
た結果であって、もし内容批判を国語教育の主要な任務とするならば、国語
教師は、教材に盛り込まれた百般の事象そのものに対して責任を持たねばな
らなくなる道理であるが、国語教育の目標は、教材に盛られた思想を正しく
理解するための読みの方法を教えることであって、正しい読み方に基づかな
いで読まれた内容は、時には作者の意に反したことを理解したことになり、
従ってその内容に対する批判は、無意味なことになるか、あるいは相手を陥
れる結果にならないとも限らない。
      時枝誠記『改稿国語教育の方法』(有精堂、1963)105p
【荒木のコメント】
 時枝は、読むとは「作者あるいは筆者の思想、立場を分かろうとすること
である。このやうな作業には、先ず何よりも、己を虚しくして、相手を理解
しようとする寛容の態度」が必要である、と書く。
 また、時枝は「批判的精神が必要だ」とも書いているが、時枝の「「批判
的精神」とは「表現者の思想内容についての批判ではなく、読むといふ自己
の行為に対する批判である」と書いている。内容批判は、国語教育の任務で
なく、社会科や理科など任務である、と書く。
 「己を虚しくして」相手を受け入れる寛容の態度などあり得るだろうか。
「己を虚しくして」ということが果たして可能だろうか。先入観なしに、中
立的に相手の考えを受け入れることは第一義に重要なことであり、それは誰
もが認める。しかし、「己を虚しくして」受け入れることは、日常の人間の
認識思考行為ではあり得ないことだと思う。文学作品を読んで、感動(感情
反応)なしに読み進めることは不可能だ。説明文(特に主張文、議論文)に
おいても筆者の主張内容をそのままに読み取ることは第一義に重要なことで
あるが、筆者の主張をそのままに受け入れることは不可能でしょう。書かれ
ている事柄に対する読み手の感想意見批判は強弱の差はあっても、何かしら
は持つでしょう。「ごんぎつね」の読書感想文を書かせるとする。感想内容
は十人十色でしょう。読み手がこれまで集積してきた経験の積み重ねによっ
て対象に対する反応はみな違ってきます。それぞれに物の見方・考え方が違
っています。感想意見批判は、国語学習の埒外で、それは社会科や理科の領
分だと主張するのは無茶な主張というものでしょう。国語授業で読み手の感
想意見批判を入れずに読み取るなどはできないことです。
 時枝も、「辿り読み」を主張するとき、それの主張と同時に垣内松三『国
語の力』を力こぶ入れて、熱弁をふるるうのが常の論法だ。時枝は「辿り読
み」を主張するときいつも垣内松三の三読法を批判している。「垣内松三の
三読法を批判している」ですよ。『国語学原論』では、どのページ、どの
ページと言ってもよいほど、ソシュールの構造的言語観の批判をしているで
はありませんか。これは国語教育の領域でなく、国語学や言語学の領域だか
らと言うのでしょうか。
 
また、時枝誠記はこう書いている。
 言語は常に、聞き手読み手である相手を予想し、相手の理解を期待してな
される表現行為である。そこには、常に伝達の成立といふことが考えられて
いる。従って、ある場合には、表現の充足といふことを犠牲にしても、伝達
の達成を第一にしなければならない必要に迫られるのである。(中略)
 言語の場合、聞き手、読み手である相手は、ただ表現を受容し、理解する
者としての立場だけでなく、受容を契機として、別の行動を促される者とし
ての立場に立たされる。言葉を換えて言えば、言語の場合は、表現そのもの
が目的でなく、表現は、表現者の生活目的を達成するための手段となるので
ある。例えば、「火事だ」といふ消防署への報告は、ただそれが相手によっ
て受容され、理解されただけでは、この表現の機能は、果たされたとはいへ
ない。相手が、直に出動の手配に移ることが要求される。そのためには、
「早く来てくれ」といふ表現の追加も必要なのであるが、このやうな場合に
は自明のこととして省略される。それは、言語が、表現自身に目的の完結性
を持っていないことを物語るのである。絵画や音楽の場合でも、宗教画や宗
教音楽の場合は、ただそれが鑑賞の対象となるだけでなく、あるいはそれは
第二義的であって、主目的は、それによって、それを見る人、聴く人の信仰
的情熱を昂揚させるところにあるといへるのである。
     時枝誠記『改稿国語教育の方法』(有精堂、1963)71p
【荒木のコメント】
 時枝は、言語は常に伝達の達成を第一にしなければならぬ、と書く。全く、
そのとおりだと思う。言語は、相手に伝達する機能だけでなく、行動を呼び
起こす機能もある、と書いている。
 次のような事例を挙げて説明している。「火事だ」という消防署への報告
は、「早く来てくれ」という表現の追加が含みこまれている、と書いている。
 この例を他の例で考えてみよう。AがBに向かって、「寒いね」と室内で
言ったとする。Bは、その言葉をどう受け取るだろうか。「そうね、太陽が
傾いたから寒くなったね」の同意、「部屋内だけど、外套を着てもいいかし
ら」の問いかけ、「窓を閉めてくれよ」の要求、「暖房を入れてくれよ」の
要求など、その場面によっていろいろとAの言葉を解釈してBは行動を起こ
すでしょう。「Aは寒がりだなあ、ぼくはちっとも寒くはないよ」「窓を閉
めろって、ぼくに命令をしてるのかよ」「なに、窓を閉めろだって、自分で
閉めればいいじゃないか」の感想意見批判をもつ場合もあるでしょう。文学
作品や主張議論の文章でも、読む人の(信仰的)情熱を昂揚させる、種々の
感想意見批判をもたせることは当然にあると言えるでしょう。

時枝誠記はこうも書いている。
 国語教育の目的は、言語の表現、理解の行為を訓練する学科であるから、
それら行為の完成は、行為者の人間的完成によってはじめて成就されること
である。国語教育は、表現し理解する行為者としての人間教育に帰するので
あって、それ以外に国語教育と人間教育との交渉する余地は、第一義的には
考へられない。それは、ある教材を読むことによって、感銘を受け、それに
よって人間が高められるといふこととは根本的に異なるのである。……人の
書いたものは、たとへ自分の主張とは相反するものであってもその意のある
ところを誤りなく公正に理解しようとする寛容の態度を養うことが、国語教
育における人間教育であって、書かれた事柄が内容的に見て優れたものであ
るか否かといふことは、国語教育においては第二義的なことである。
         時枝誠記『言語生活論』(岩波書店、1976) 263P
【荒木のコメント】
 時枝が批判読みを否定するこれまでの引用と同じ内容である。ダメ押しの
二番煎じのお茶であるが、こうした主張をあちこちの書いているものですか
ら、ここにも引用した。
 
北村薫(作家)の本を読んでいたら、次のような文章個所が見つかった。
  大体が、書きたいことというのは、当人にとっても、一つの《混沌》で
あったりする。そこから生まれた作品に、どう取り組むか。今度は、そこで
読み手の創作力が問われるわけですね。
 宮部みゆきさんが「火車」を出された時、色々な評が出ました。その時、
「わたしが全然、考えもしなかったような解釈をされたりして、色々と褒め
ていただくんです。恐縮してしまいます。──いいんでしょうかね?」
 と、おっしゃいました。だから、
「勿論、いいんですよ。夏目漱石だって、時代と共に、色々な見方がされる。
それに耐え得るから大きいんでしょう。作品を豊かにする解釈が出るという
ことは、つまり、その作品がそれだけの大きさを持っているということです。
だからね、誇っていいんですよ。」
 と、申し上げたら、
「そうですねっ、プラス思考ですねっ」
 と、微笑まれました。
 こういうことですよね。
これは、いい例ですけど、《どうしてそんな、おかしな解釈が出来るんだ》
と首をひねる批評もある。作品に何も与えず、奪っていくだけの論評ですね。
 小説は、個条書きやマニュアルではありません。だからこそ、そういう奇
妙奇天烈な見方をされることもある。
 小説を書いている限り、乱暴狼藉を働かされても仕方がない。逆に、批評
が作品を豊かにすることもあるわけで、これは表と裏ですね。
       北村薫『北村薫の創作表現講義』(新潮社、2008)28ぺ



     
★児言研は「批判読み」を肯定する★


 村松友次はこう書いている。
(村松友次は、児言研や都教研集会で批判読みを主張し、批判読みを中心に
なって作り上げた教師たちのひとりである。)
 ぼくは「批判読み」という主張を理論的、実践的に進めていますが、これ
も第六次ごろの日教組教研集会で、主体的な読解、批判的な読解、物の見方
考え方、感じ方をどう伸ばすか、などの主張や実践を取り入れてそれを推し
進めたもので、決してぼくらだけの専売だとか独創だなどと言っていません。
「批判読み」というのも、えてしてこれを攻撃する人たちは、内容批判ばか
りさせるのではないか、社会科の授業とまちがえているのではないか、など
と言いたがります。真の批判読みはどこまでも言語表現自体に即して、その
言語表現を事物と対応させることによって、そこに生まれる感動や疑問や批
判やを大切にするものでなければならないと考えています。……
 一読法と批判読みとの関係は、前者が方法、後者が認識育てあるいは作品
に対する態度の問題であると言えるでしょう。
   『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)60〜63p
【荒木のコメント】
 「批判読み」というと、内容批判ばかりさせて、内容を正しく理解する・
内容を寛容な態度で正確に素直に受け取る指導をしないのではないか、とせ
っかちに、短絡的に、受け取られる嫌いがなきにしもあらずです。それは前
出したように「批判読み」というネーミングからきている部分がかなりある
と思う。わたしはこれまで批判の内容を「感想意見批判」と言ってきた。こ
れらが「批判」に含まれているとわたしは理解している。「批判読み」には
「素直に受け取る、寛容な態度で受け取る」も当然に含まれているとわたし
は思うし、村松のいう「物の見方考え方、感じ方をどう伸ばすか」の指導だ
と言ってもよい。
 村松は、「批判」とは「言語表現自体に即して、その言語表現を事物と対
応させることによって、そこに生まれる感動や疑問や批判やを大切にする」
ことだ、と書いている。

また、村松友次はこう書いている。
 一読総合法は読みの力を高めることをめざすが、それは内容を離れて方法
だけがひとり歩きすることではない。「認識」「思想」の向上が「方法」に
転化する。ここに認識・思想の高めをめざす主体読み・批判読みというもの
が考えられねばならない。認識の獲得というものは必ず主体的・批判的なも
のだから。
    児童言語研究会編集『児言研国語5』(1965、明治図書)6p
【荒木のコメント】
 村松友次は、対象に対する認識思考は「必ず主体的・批判的なものだ」と
書いている。ごく当たり前の、普通のことを語っている。対象への認識思考
は「己を虚にして、己を無にして」などできない主体的能動的な行為なのだ
から。村松は「批判読み」とは「主体読み」と同義だと書いている。「批判
読み」の名称は「批判」をやや強めに押し出しているわけだが、それが誤解
を生むことになっている。
 村松友次も著者のひとりである、東京荒川教研国語部会著『批判読み』
(明治図書、1936)の中に次のような文章がある。

 マスコミの洪水の中で「考えない人間」が再生産されている。「主体的
に・批判的に考える人間」を育てることこそ、教育・国語教育の今日的課題
であるとともに、父母の真の教育要求にこたえる道でもある。
    東京荒川教研国語部会著『批判読み』(明治図書、1936)274p
【荒木のコメント】
 「批判読み」とは「考える人間をそだてることだ」とある。読むとは、
「情報を受け取る」といった受動的なものだけではなく、実際は受動的に受
け取るだけにとどまることはできない。自分としてどうそれを見て、考える
か、その態度をきめる能動的な働きも働いている行為でもある。こうした読
む行為がごく自然な日常の読みの姿(認識思考)だと言えるだろう。読みは
文章の展開をたどって、筆者とともに考え、ときに共感し、ときに反発し、
ときに怒りや疑問を抱きつつ読み進めるのが普通の姿である。読むという行
為は、常に読み手の主観を通して対象(書かれている事柄)を認識するわけ
だから、読み手の主観的判断がいつも挿入されているはずだ。読み手の主観
的・主体的な判断を脱落させた読みの姿などはあり得ないことだ。
 近年、文部科学省も児童生徒の論理的な評価的(批判的)思考を育成する
指導を推奨している。
 文部科学省は、読解力を育成するため、平成17年12月に『読解力向上に関
する指導資料──PISA調査(読解力)の結果分析と改善の方向』をまと
めて発表した。この報告書の「改善の具体的な方向」に書かれている三項目
の方策を引用してみよう。

 教科国語を中心としつつ、各教科、総合的な学習の時間等を通じて、次の
ような方向で、改善の取り組みを行う必要がある。
 @テキストを理解・評価しながら読む力を高めること。
 Aテキストに基づいて自分の考えを書く力を高めること。
 B様々な文章や資料を読む機会や、自分の意見を述べたり書いたりする機
  会を充実すること。


 上の引用で「理解・評価しながら読む力」「自分の考えを書く力」「自分
の意見を述べたり書いたりする力」の育成重視の項目に注目したい。これは
文部科学省の国語科改善の方向に書いてある文章なのだ。
 PISA読解力は、情報を取り出し、複数のテキスト、つまり立場や見解が異
なったり、種類が異なったりする複数の資料を読み比べて、適切な根拠を示
して自分の判断や意見を論理的に評価的に組み立てて表現する能力高めをね
らっている。従来の文章の詳細な受け取り読みだけであった指導の在り方を
改め、自分で資料を集め、目的に応じて的確に読みとり、評価的(批判的)
に熟考し、自分なりの考えをもって論理的に意見を述べる(書く、話す)能
力の育成が重視されている。そのための言語活動例も示されている。
 時枝誠記や垣内松三らが読解指導で主張する「己を虚しくして」とは、全
く逆方向の教育方針が示されている。現在では、文部科学省から率先して評
価的(批判的)な読み取りを推奨している。これはメディア・リテラシィ教
育とも言われている。

時枝誠記が京城帝国大学在職中に書いた国語政策論にこう書いてある。
 半島人は須く朝鮮語を捨てて国語に帰一すべきであると思ふ。(中略)
韓国併合といふ歴史的な一大事実は、正にこれを言語生活にまで及ぼすこと
によって完成せられるのである。国語的統一といふことは統一国家の一の象
徴といはなければならないが、国語への統一といふことは、半島人にとって
はもっとも内面的な又精神的な一の福利である。二重言語生活を脱却して単
一な国語生活に帰着せしめるといふことは、朝鮮統治の半島人に与へる如何
なる福利にも劣るべきものではない。国語を母語化するといふことは、一朝
一夕に成就し得ることはできないが、朝鮮に於ける国語教育に関与するもの
は斉しくこの理想に向かって邁進すべきであると思ふ。
  植民地の中の「国語学」安田敏朗 三元社より
  時枝誠記「朝鮮における国語─実践及び研究の諸相─」昭和18年

【荒木のコメント】
 大日本帝国は、太平洋戦争下で朝鮮総督府に朝鮮民族に対して皇民化政策
を推し進め、日本人化することを要請した。朝鮮人に教育勅語の適用を受け
させ、朝鮮人を太平洋戦争にも動員しようとした。朝鮮半島に日本語を普及
させ、朝鮮人を日本国民化しようとした。韓国併合(1910)前の国語は朝鮮
語であったが、併合後は日本語が国語とされた。日本語普及政策により朝鮮
人を「忠良ナル皇国臣民」に育成しようとした。国家の統一は国語の統一で
ある、それが第一という国語政策がとられた。こうした事実は、台湾でも同
じであった。
 かつて、国語教科書に「最後の授業」(ドーデー)という教材があった。
そこには、国土は占領されていても我らの国語が使える限りは、わが国は生
きている、というようなことが主張されている文章個所があったと記憶して
いる。朝鮮人に日本語を強制的に使わせることは、朝鮮語を抹殺させ、朝鮮
民族を抹殺させ、朝鮮の民族文化を抹殺させ、朝鮮国を抹殺させることにあ
った。
 時枝誠記は、上記のような文章を書き、それらの一翼を担ったことは間違
いない事実である。
 しかし、時枝に同情する面も多くある。「言語教育か文学教育か」で時枝
との論争相手であった西尾実(国語学、国語教育学)も、「大東亜戦争完遂
の眼目は、大東亜全域に日本語を普及させることである」(『日本語』194
3・1)と、権勢におもねる言語政策論を書いている。日本国全体の時代の趨
勢がそうであったから、どうしようもなかった時代だった。大日本帝国の権
勢におもねなければ非国民と非難され、危険人物として官憲の尾行をうけ、
はては監獄にいかねばならなかったのだから。

戦後になって時枝誠記は上記の文章に次のように書いている。
 私が朝鮮に在任中、国語常用運動というものが行われたことがある。日本
語の使用を、朝鮮人の日常の家庭生活にまで及ぼさせようとする運動で、そ
のために少なからぬ摩擦を起こしたことがある。朝鮮人の朝鮮語、日本語に
よる二重言語生活を、一本にしようとする理想はよしとしても、日本語を、
あらゆる生活にまで浸潤させようとすることは、朝鮮における日本語使用の
意義の限界を越えた抽象的な理想にしか過ぎなかったのである。朝鮮人側が、
しばしば朝鮮語を日本語における方言と同一に扱うべきことを要求したのは
正しいことであった。
    『国語教育講座』(刀江書院、1951) 所収時枝論文 64P
【荒木のコメント】
  上の文章は、敗戦から6年が経過したときに書いた論文の一部である。
「朝鮮語、日本語による二重言語生活を、一本にしようとする理想はよしと
して」と書いている。「よしとして」に問題があると思う。「朝鮮語を日本
語における方言と同一に扱うべきことを要求したのは正しいことであった」
と書いている。「正しいことであった」に問題があると思う。
 わたしが指摘した問題個所に、読者の皆さんは、いろいろな感想意見批判
をもつだろう。「過去の自分の主張に今も自信たっぷり、すばらしいです
ね」「戦後6年もたって、まだ、そんなことを言っている。けろりとしてい
る」「過去の自分の言動に反省のかけらもみられない」「それなりの反省や
言い訳をしたらどうなの。そう書く以外に仕方なかったんでしょ」「子供だ
ましの言い訳は聞きたくないよ。責任のとり方をはっきりさせろ」など、読
み手によっていろいろな感想意見批判があるだろう。こうした反応が自然な
読みの姿でしょう。先につなげれば、ここまでが国語科、これは社会科、こ
れは理科などと区別して読むことはできないでしょう。「己を虚しくして、
相手を理解しようとする寛容の態度で、無批判的な受け取り読みをしなさ
い」と主張するのは実際的でない読み方、無理というものでしょう。



          
文法教育について



 時枝誠記も児言研も、文法教育の重要性を強調する。この点でも、時枝と
児言研では考え方が一致している。両者の主張点のどこが一致して、どこが
相違しているか、時枝と児言研との文法教育の異同について調べててみよう。
 時枝も児言研も、文法教育は、児童生徒の理解(読む、聞く)と表現(話
す、書く)をスムーズに言行為させる基礎として生きて働く形で指導するに
ねらいを置いている。それには体系的に系統的に指導すべきだという点では
一致している。
 しかし、両者の文法体系は大きく相違する。両者の細かな文法体系の一つ
一つに深入りすると本稿の主題と外れてしまうので、ここでは両者の文法教
育の基本的な考え方を対比的に紹介することにする。


     
★時枝誠記の文法教育論のあらまし★


時枝誠記はこう書いている。 
(文法体系論でなく、文法教育論のあらましを次のように書いている)
 
私は、昭和24年、私の文法学説に基づく文法教科書を世に出した。この
教科書の理論を支えるものとして、私は、岩波全書中に、『日本文法 口語
篇』を書いた。従来、殆ど定説のやうに学校教育に用いられていた、橋本進
吉博士の『新文典』及びその系統を引く国定教科書「中等文法」に対して、
この新しい文法教科書を世に送ったことは、その後、文法教育界に、種々の
問題を巻き起こす種となったことは事実である。その一つは、文法教育の目
的についてである。……以前は、文法教育を、言語についての法則発見の学
科とする考へ方が強かったが、戦後においては、そのやうな文法学的意味に
おいて、文法を課するといふ考へ方を全部払拭して、文法は、国語教育の中
心的課題である講読、表現に役立つものとして課せられなければならないこ
とを強調した。たとへ文法体系を教へる場合でも、それは、体系を教へるこ
とが主目的でなく、文章の理解や表現に、文法が活用されるために必要なこ
とであるとした。
         時枝誠記『国語学への道』(三省堂、1957)114p

【荒木のコメント】
 時枝は、従来からの学校文法であった橋本文法を骨子とした学校文法は
「言語の法則発見の学科」であったが、これではいけない。講読、表現に役
立つ文法教育であるべきだ。体系を教えることが主目的でなく、文章の理解
や表現に活用される文法教育であるべきだ、と主張している。

また、時枝誠記はこう書いている。
 
文法教育の目的は、国語についての法則を教えて、国語の実践に、自覚を
与えることである。従って、文法の法則を記憶することが目的ではなく、国
語を正しく読み、かつ話すことが目的なのである。故に、文法の法則を学ば
なくとも、文法的自覚を与えるならば、それは既に文法教育を行ったことに
なるのであって、体系的文法は、云わば、その自覚を整理したものにすぎな
いのである。例えば、
  本がある。  本もある。
といふ二つの表現の意味上の相違を、「が」と「も」の二つの語の区別に結
びつけて自覚したとすれば、これも文法的自覚の一つである。児童生徒は、
この二つの区別を、実際生活上で区別して用いているが、まだ、それを自覚
するにまで至っていない。文法教育は、このやうな経験の整理を目指すので
ある。(中略)
 私は、普通教育における国語科の目的は、言語的実践、即ち、「話すこ
と」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」の能力を養ふものであると考へ
ることから、文法科も、これの奉仕するものでなければならないと考へ、戦
前の科学主義の文法教育を批判するやうになった。口語文法といへども、そ
れは、口語の実践に役立つもの、その基礎となるものでなければならないと
考へるやうになった。文法現象そのものの観察が主でなく、与へられた文法
的知識によって、正しく「話し」かつ、「読む」ことが出来るやうにするこ
とが大切で、文法的知識によって、国語の実践に対する自覚を確かにすべき
ことを説いた。文法現象の観察は、言語の学問に属することで、普通教育で
やるべきことではないとしたのである。
 以上のやうな見地からするならば、今日の口語文法は、その組織、範囲に
ついて問題があるのであって、それは、全く文語文法の組織、範囲を踏襲し
たものであるから、口語の実践に必要な文法体系は、その必要に応じて、別
個に考案される必要がある。私が、口語文法の体系中に、「文章論」を設け
て、文を超えた作品として文章の構成を明らかにすることの必要性を説いた
のは、その一端を示したものである。従来、詳細に説かれた「活用」「接
続」等の部分は、口語法としては、さまで重要な部分とは考へられないので
ある。   時枝誠記『国語教育の方法』(習文社、1954)127〜131P
【荒木のコメント】
 時枝は、文法教育の目的は、「文法の法則を記憶することが目的ではなく、
国語を正しく読み、かつ話すことが目的である。文法的な自覚を与えること
である」と書いている。「文法的な自覚を与える」とは、文法教育のねらい
を示す的確な表現であると思う。従来の学校文法は、文法の法則を記憶する
ことであった。品詞論や活用論の丸暗記だけで、文法嫌いを作ってきたとい
う事実がある。こういう反省からも時枝の主張がなされたのだろうと想像す
る。文法的自覚の例として「が」と「も」の指導例を挙げている。
 これからの文法教育は、「文法現象そのものの観察が主でなく、与へられ
た文法的知識によって、正しく「話し」かつ、「読む」ことが出来るやうに
することが大切」と主張している。
 また時枝は、語論・文論を超えた、作品として文章の構成を明らかにする
文章論を指導することが必要だと書いている。従来の「活用」「接続」等の
指導は、重要な部分とは考へられない、と書いている。

また、
時枝誠記はこう書いている。
 文章において文脈を辿るに必要な、文章上の道標の一二を挙げてみようと
思ふ。
 その一は、正しい文法指導である。正しい文法指導は、正しい読解の支え
である。ところが、今日一般に、文節による分解といふことが、文法の出発
点において教へられている。
例えば、
    くちばしの赤い鳥が飛んでいる。

    くちばしの┃赤い┃鳥が┃飛んで┃ゐる

のやうに分解される。しかし、これでは、この文の統一の姿といふものは頭
に浮かんでこない。文法理論が、読みの進行を妨げているので、正しい読解
には、それを支える正しい文法理論が要求される所以である。
 その二は、行替えで一字下げの段落構成の形式である。段落は、一般には
段落相互の関係といふ観点で取り上げられることが多い。しかし、このやう
な取り上げ方は、読み進めるための方法といふよりは、作品の対象的処理に
属することである。読みの道標という観点からいふならば、行替え一字下げ
の形式によって、話題が転換され、文脈が曲がり角にきたことを知る上に重
要だといふことになる。段落は、それが文章構成に直接関係するやうに説明
されることがあるが、文節が、文構成の成分と必ずしも合致しないやうに、
段落は必ずしも文章の構成の要素とは一致しない。段落の書き出しの形式は、
文脈の屈折を知る道標として受け取るべきであらう。
      『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)21p
 
【荒木のコメント】
 ここには、時枝の主張する文章論の一端が示されていると思う。従来の学
校文法では、一文を幾つかの文節に分解して、文節相互の関係をつかむ指導
であった。文章では幾つかの段落に分けて、段落相互の関係をつかむ段落構
成の関係をつかむ指導がおこなわれた。文節分解では文統一の姿は把握でき
ない、時枝の入子構造で把握すべきだ、時枝は、段落は「話題が転換され、
文脈が曲がり角にきたことを知る」指導をすべきだ、と書いている。「話題
転換や文脈の曲がり角」という指導は、文法(文章論)指導ではなく、わた
しの主張する「表現よみ」における「転調」というメリハリづけ指導で、文
章を音声表現する読みの指導の中で教えることができる。「話題転換」の指
導は、段落変わりの文頭個所を間をあけて、やや声を高めに明るく読みだす
という音声をとおした表現よみ指導の中でもっとも効果的に指導できる。表
現よみ指導は、語論・文法論・文章論の指導の一翼を担う有効な指導でもあ
る。時枝にはそこまで頭が回っていないのが残念である。わたしはこれにつ
いて書籍を上梓している。『音読の練習帳3・ことばのきまりと音読のしか
た』(一光社、1989)である。本ホームページの第16章「ことばのきまりと
表現よみのしかた」にも同様なことを掲載している。

 時枝誠記の文法教育についての主な著書を紹介する。
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波全書、1950)
時枝誠記『日本文法 文語編』(岩波全書、1954)
時枝誠記『古典解釈のための日本文法』(至文堂、1960)
時枝誠記『文章研究序説』(山田書院、1960)
時枝誠記監修『講座 日本語の文法』全四巻(明治書院、1967)
  第1巻『文法論の展開』   第2巻『文法の体系』
  第3巻『品詞各論』     第4巻『文法指導の方法』
上の全四巻は時枝文法を主題とした文法講座である。時枝は全四巻を目にす
ることなく逝去されたそうである。第一回配本『品詞各論』だけは病床でお
目に通されたそうである。


      
★児言研の文法教育論のあらまし★


 時枝の文法体系は、詞辞論、入子構造などの独自な文法体系をもっており、
通称「時枝文法」と呼ばれている。
 一方、児言研の文法体系は、主語を「あたま」、述語を「からだ」、修飾
語を「きもの」などの児童用語を用いたりしており、通称「児言研文法」と
呼ばれている。
 児言研文法の初本は、昭和31年発行、講座・小学校の国語教育『文法教
育』(春秋社)であり、それ以後、児言研からは多くの文法教育に関する論
文や著書が発表されている。最近刊の文法書だけを書こう。

松山市造・小松善之助編『新・文法教育の実践(初級)』(一光社、1974)
松山市造・小松善之助編『新・文法教育の実践(中級)』(一光社、1974)
松山市造・小松善之助編『新・文法教育の実践(上級)』(一光社、1974)
児童言語研究会編集『たのしい文法の授業・低学年』(一光社、2009)
児童言語研究会編集『たのしい文法の授業・中学年』(一光社、2009)
児童言語研究会編集『たのしい文法の授業・高学年』(一光社、2009)

 本稿では、時枝文法と児言研文法の類似点、相違点のあらましを紹介する
ことにある。本稿は、両者の細かな文法体系に深入りすることが主題ではな
い。細かな文法体系については上記した両者の著書をご覧いただきたい。
 本稿は、時枝「辿り読み」と、児言研「一読総合法」との異同が主題であ
り、両者の読み理論と文法教育とに連関する事項、それにかかわる文法体系
の一部の相違点だけの紹介になる。

松山市造(学習院初等科教諭)は、こう書いている。
 
これまでの日本の文法学の本をみますと、大部分を形態論(語論)に当て、
構文論については、おざなりに扱っているという感じの本が多いようです。
(『日本文法学概論』山田孝雄著などは、その中で、構文論にかなり力を入
れていますが)。ことに文法教育のために作られた、中学校の教科書(旧
制・新制とも)は、語論が主体になっていて、構文論がきわめて弱いことは、
周知の事実です。このことが文法を人間の頭で生きてはたらく文形成の能力
としてとらえさせることなく、まるで暗記中心の科目と思わせてしまい、教
師でも生徒でも、興味のうすいものにしてしまったのです。
 文法教育は、日本語そのものについての「知識」を得させることが一つの
ねらいとなっていますけれど、ただ「文法をしっている」、それも、構文法
をお留守にして単語の種類や使われ方を知っているだけでは、読んだり、書
いたりという中では、あまり役だちそうにありません。わたしたちは、文法
の語イ力とともに、コトバ送り・コトバ受けおよび内言行為をささえる基礎
となる能力と見てきましたから、それには構文論がなくてはならないと、わ
れわれ自身の手でその確立に努めてきました。そして、構文論と形態論とは、
相互に統合されたものとして、発展的に扱うのが、効果が大きいことを実践
でつかみつづけてきました。
    松山・小松編著『新・文法教育の実践』(春秋社、1973)27p
【荒木のコメント】
 児言研の文法論に多く出現する「構文論」とは、「文論」と大体は同じで
あり、一文の文内内部構造がどうなっているかを主に論する学問分野である。
 松山市造は、児言研の発足当時からの会員であり、児言研文法の草創期か
ら関わり、実践的立場から積極的に提案して児言研文法をリードしてきた一
人である。
 松山は、ここで従来の文法教育は語論中心で、丸暗記させるだけの指導、
教師も生徒も興味の薄い、文法嫌いを作った教科であった、と書いている。
この点では、時枝誠記と全く同意見である。
 また、従来の文法教育は、語論・形態論が中心で、構文論がなかった。読
んだり、書いたりという中では、あまり役立たなかった、コトバ送り・コト
バ受けに役立つ指導内容でなければならない、と書いている。この点でも時
枝誠記と類似している。
 ただし、上の松山の文章を見ても、語イ指導の重視、内言力高め重視、構
文論重視、構文論と形態論との相互統合で発展的に扱う、などの言葉表現が
あるように、時枝と児言研では全く同一な文法観、文法教育観ではない。両
者の著書を読めば大きく違っていることが分かる。

また、松山市造はこう書いている。
 わたしたちは、山田文法を主柱とし、これに諸家の説を参考にして、自称
「児言研文法」を組み立て、独自の文法教育体系を提案した。これが昭和3
1年に出た『文法教育』である。新しい文法教育のありかたとして当然のこ
とながら、構文論に重点を置き、それに品詞指導を組み入れたものである。
この点では、画期的なものと自負しているが、指導論に重点を置いたため、
文法論の面では、基本的な線を述べたにとどまった。また、そこで、一方に
実践を重ねながら、文法論の整備にも力を注いで、『言語要素指導』明治図
書に至り、次のような線に今ではたどりついた。
 すなわち、従来、漠然とラングとパロールとの関係でとらえられていたコ
トバを、
  @素過程(要素・派生・複合に三分)──ラング
  A現象過程──パロール
という関係でとらえ、素過程のそれぞれをさらに細かく分析して、その語形
を具体的に例示した。そして、文法教育としては、この素過程をきちんと指
導することが大切であり、そのためには、現象過程を素過程に還元させたり、
素過程を現象過程として表現させたりする往復作業をさせなければならいと
考えた。(この要素過程の中の「単位文の形成」は、最近日本に伝えられた
チョムスキーの「文法の構造」で呼ぶ「核文」の考え方に、派生・複合の素
過程は、その変形理論に似ているので、少なからずびっくりしている次第)
   児童言語研究会編集『児言研国語bR』(明治図書、1965)14p

【荒木のコメント】
 
この松山論文は、1965年(昭和40)に書かれたものであり、児言研
文法の成立と発展過程の一段階を表現している文章である。現在は、正面き
って素過程とか現象過程とかの用語で説明はしてないが、そうした考え方は
弁証法的に包含されている。
 また、松山は当時(昭和40)、日本の言語学会で話題になりだしたチョム
スキーの深層構造・表層構造における核文と、これまで児言研が主張してき
た単位文(派生・複合の素過程)との類似について下記のように書く。
 児言研文法の「単位文」の考え方と、当時言われ出したチョムスキーの
「核文」の考え方が類似しており、「少なからずびっくりしている次第」と
書いている。
 なお、児言研文法にはじめて「変形文」を位置づけた著書に次がある。
  児童言語研究会編集『たのしい日本語の文法』(一光社、1975)

大久保忠利(都立大教授)は、こう書いている。
 語イと文法の力を子どもに身につけさせることが、認識力、思考力育ての
根底になる。それなくしては、コトバの効果的な発達を保証し得ないという
立場から、児童言語研究会は、文法は文法として独自のコースを組んで教え
るべきことを主張する。文法は、系統的な不断の指導をしなければ、真にそ
の効果を期待することはできないと信ずるからである。資料の選び方、活動
のさせ方は、読み方や作文と関連づけてもよいが、目的論的には、あくまで
も文法学習そのものをねらったコースである。それは、言行為の指導として
の読み方・作文・要素的指導としての発音・文字・それぞれ必要な時間をと
って指導されるのと同様な考え方である。
 文法指導の基本的方針として、次の各項をたてる。
(1)構文法指導を中心とする。語・品詞。活用などは文の部分を抽象的に
   とり出してまとめたものと考え、「形態論」を構文法と同じレベルで
   は考えない。
(2)構造の単純な文から始めて、しだいに複雑な文へという過程をとって
   指導する。
(3)子どもの発達段階に応じて、知的な理解を図り、それが実践上の能力
   となるように指導する。
(4)それぞれの文法則が、人間の認識・思考と密接につながっていること
   を自覚できるように指導する。
   児童言語研究会編集『国語教育の基礎理論(その3)』1969発行
【荒木のコメント】
 大久保忠利は、児言研文法を理論的にリードしてきた学者であり、児言研
文法の大まかな骨子は大久保の文法理論が継承されている。あくまでも大ま
かな骨子であり、松山市造・小松善之助らをはじめ児言研会員たちの共同討
議によって教育現場の児言研文法として構築されている。大まかな骨子作り
に児言研東京例会で野林正路(当時・千葉大講師)を講師として連続講義を
受けたこともあった。
 大久保は、国語科は児童生徒の認識力、思考力育てに中心的に責任を負う
教科であるとし、語イ教育、文法教育の取り立て指導を主張している。大久
保が書いている文法指導の基本方針(1)〜(4)は、現在も児言研文法で
踏襲されている。大久保は文法の知識とその能力は、表現理解行為の内言過
程(大久保の「コトバの網と外内言行為」の能力高めに連関しており、それ
らの指導によって、考えそのものを論理的にキチンとすすめられるようにな
る、と主張している。

林進治はこう書いている。
 総合法は、言語要素のとりたて指導を前提とする。言語要素の取り立て指
導は、総合法をなりたたせる基礎である。とりたて指導は読解のためだけに
必要なのではなく、そのこと自身日本語を身につけるという重要な目的を持
った仕事である。……コソアドことばはコソアドことばの、重文なら重文の
指導の系統をきめこまかにおさえ、厳密に段階を踏んで学習させ、ドリルを
積まなくてはその能力は育たない。……もちろん文法的知識を片っ端から教
えこむというのではなく、認識を確かにするために概念にあみの結び目にな
る基本語や文の構造や、表現意図をつかむためになる基本的な文型を順次指
導し身につけておけばよい。
     『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)11p
【荒木のコメント】
 ここで林は、一読総合法と言語要素指導(つまり文法指導)との連関につ
いて書いている。コソアド指導、重文指導を例にして、段階をふんで学習さ
せるべきこと、ドリルを積まなくてはその能力は育たない、と書く。
 林は「段階をふんで学習させ、ドリルを積まなくてはその能力は育たな
い」と書く。この林の文章表現だけを切り取れば、時枝が主張する能力主義
の教育方法と一致する。時枝は、旧版『国語教育の方法』を改稿したわけは、
新しく能力主義の国語教育を打ち出すために『改稿国語教育の方法』を書い
たとある(『改稿国語教育の方法』1p)。時枝は国語能力を高めるには反
復練習して訓練する教育方法が必要だ、戦後の経験主義教育(経験はいずり
まわり教育)ではだめだ、と主張する。
 時枝誠記の能力主義による教育方法とはこうである。

(能力主義の教育は)同じ行為を、意識的に繰り返し、習慣たらしめようと
するのであるから、そこに、訓練、練習を伴うのは当然であり、訓練、練習
によって始めてその目的が達せられるのである。その点、国語教育は、ス
ポーツ、音楽などと共通した性格を持っている。
         時枝誠記『言語生活論』(岩波書店、1976) 288P


 時枝は「国語教育はスポーツだ、訓練だ、練習だ」と書く。これが時枝の
能力主義教育で強調されている指導方法である。これは『声に出して読みた
い日本語』で大ブームをおこした斎藤孝(明治大教授)の優れた日本語を暗
誦させて身体化させる、教育は体育だ・鍛えるだ、という指導方法と類似し
ている。教育にはそうした一面の指導方法もあることは否定できないが、そ
れを全面的かつ絶対的な指導方法であるとは認めることはできない。スポー
ツは娯楽・楽しむに本質があり、強制的に一方的に苦痛を与えるだけの練
習・鍛錬の指導には賛成できない。

 現在の児言研文法の特長について山室和也(国士舘大学)は、次のように
簡明にまとめて書いている。
 まず、児言研文法の特長の一つに、文の成分論がしっかりしていることが
挙げられる。学校文法では明確にできていない補語の問題も文の成分として
取り出されている。
 特長の二つめとして、文の核をなすものとして単位文として、複雑な文に
ついての考察にも対応しやすいようにしていることが挙げられる。これによ
って、複数の単位文がつながってできている「重文」と、単位文が文の成分
を構成する「複文」とに分けられている。
 そして、三つめの特長は、文法指導の体系が、小学校段階から中学校段階
までの九年間で系統立てて作られていることである。教材文に現れる文の構
成を見てもわかるように、ある学年で単発に指導すれば終わりというもので
はない。同じ文法項目であっても、典型的で平易なものから、何度かに分け
て繰り返し指導することが望ましい。それが組み込まれている点では、指導
する教師の側として非常にありがたいものである。

  
児言研編集『国語の授業』(一光社、2008年2月)所収の山室論文
【荒木のコメント】
 児言研文法の詳細は、前記した最近刊の児言研文法書、六冊に書いてある。
詳細を知りたい方は、2009年刊・一光社版の三冊だけでもご覧いただきたい。
 大久保忠利の文法書や論文も多くあるが、下記の三冊を読むとよい。
大久保忠利『日本文法陳述論』(明治書院、初版1968、改訂版1974)
大久保忠利『楽しくわかる日本文法』(一光社、1976)
大久保忠利『新・日本文法入門』(三省堂新書、1974)



      
★児言研文法と時枝文法の相違点★


 時枝文法と児言研文法との相違点を挙げたら切りがないほど幾らでも書け
るだろう。時枝は言語過程説を主張してるが、児言研は大枠ではソシュール
の構成的言語観の立場に立つ。児言研は、時枝の詞辞論・入り子型構造・零
記号は否定する。時枝は「形容動詞」を認めないが、児言研では認める、な
ど。
 本稿では二点だけ書くことにする。「主語」と「助詞」についてだけ書く
ことにする。


★主語について★

 時枝誠記は、主語・客語・補語・述語について次のように書いている。

 国語に於いて、主語、客語、補語の間に、明確な区別を認めることが出来
ないといふ事実は、すべてが述語から抽出されたものであり、述語に含まれ
る構造的関係に於いて全く同等の位置を占めてゐるといふことからも容易に
判断することが出来る。
       時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店、1950)269p


 大久保忠利は、単位文の「主部+述部」について次のように書いている。
(ここでは、話しのつながりから、主部を主語、述部を述語、と読み取って
も大きな誤りはない。)

 主部は、あるもの・ことについての、人間の判断の「それについてのべら
れる部分」であり、述部は「その主部についてのべ(てい)る部分」である。
 すなわち、これが人間の「判断」そのものであり、人間は、一つ一つの判
断を生成して、対象を分析総合してたしかな認識と言表をおこなうのです。
そして、対象についての「真」を言表する責任があるのです。
   松山市造・小松善之助編著『新・文法教育の実践』(春秋社、1973)
   所収の大久保論文から 27
p
【荒木のコメント】
 主語についてだけ言えば、時枝は「主語は述語の含まれる」と書き、大久
保は、主語は判断の対象であり、述語は判断内容である、と書く。大久保は
主語独立論である。主語省略文は、主語が留守になっているだけ、主語はあ
る、という論である。


★助詞について★

時枝誠記は、「助詞」(辞)について次のように書いている。

 辞は、「ジ」「てには」「てにをは」と呼ばれ、語の二大別の一として、
詞に対立するものである。語の構造上から云へば、概念過程を経ないところ
の表現で、その一般的性質は、大体次のやうに要約することが出来る。
(1)表現される事柄に対する話手の立場の表現である。
(2)話手の立場の直接的表現であるから、つねに話手に関することしか表
   現出来ない。
(3)辞の表現には、必ず詞の表現が予想され、詞と辞の結合によって、始
   めて具体的な思想の表現となる。
(4)辞は格を示すことはあっても、それ自身を構成し、文の成分となるこ
   とは出来ない。
        時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店、1950)162p

大久保忠利は、時枝の上記引用の「辞」について次のように反論している。

 「助詞」だが、時枝によれば、これは「辞」であり、「話手の立場の直接
的表現である」と規定している。(『日本文法口語編』162ぺ)時枝の考え
は、じつは「現象学」のノエシス・ノエマをすっぽりと品詞分類に適用した
ものにすぎない。(この出所を最もよく示すのは、『文章研究序説』202ぺ
だ。時枝は、結局、佐竹哲雄『現象学概論』から採用したもののようであ
る。)
 大久保の意見──助詞について言えば、これは決して、時枝の言うような
「話手の立場の直接的表現」などではない。そうではなくて、たとえば、つ
ぎの助詞について言えば、──の下が大久保の意見だ。
  の──所属についての客体的関係の表現
  に──場所(その他)についての客体的関係の表現
  を──志向(その他)についての客体的関係の表現
 すべての「客体的関係の表現」である。時枝の言うように「主体的立場の
表現」とする考えはまちがっている。
  児童言語研究会編集『国語教育研究bW』(明治図書、1966)158p

【荒木のコメント】
 大久保は、時枝の助詞(辞)について上のように反論している。わたしは、
どっちがどうこうという言辞を弄するだけの知識も能力もなく、コメントは
できないが、両者の違いがどこにあるかが理解していただければありがたい。

 大久保の上記引用の文章は、≪吉本隆明『言語にとっての美とはなにか』
を解読する≫という論文名の中からの引用である。吉本隆明は、この本の中
で時枝文法を高く評価しており、時枝文法を吉本の言語理論に積極的に取り
入れて論じている。大久保は、それについても批判している。以下は、上記
の大久保の引用文に直ぐ続けて書いている文章である。ここでは、大久保は
時枝を批判し、吉本を批判している。

 このように、吉本が、品詞分類にまで自己表出と指示表出とを適用しだす
ことは、上で見たように次元の混同と時枝的考えの無批判的援用という二重
の誤り・混乱を残してしまっていることになった。時枝のかいかぶりもいい
所である。
  児童言語研究会編集『国語教育研究bW』(明治図書、1966)158p



         このページのトップへ戻る