「一読総合法」と「たどり読み」      2014・12・12記





 
「一読総合法」と「たどり読み」の異同(1)





          
本稿執筆の動機   


 「一読総合法」とは、児童言語研究会(民間教育団体。略称・児言研。)が
提唱している読解指導法である。
 「たどり読み」とは、時枝誠記(東大教授)が提唱している読解指導法で
ある。
 二つの読解指導法は、微妙に類似しているところがあり、二つは同じもの、
あるいは「一読総合法」は、時枝誠記の「言語過程説」理論を適用した教育
現場での実践化だ、という理解があるようだ。実際、わたしも三年ほど前に
国語学・文法学の学者たちが集まる研究会の中でそうした発言を幾人かから
耳にした。これは、誤った理解である。「一読総合法」は、「言語過程説」
の適用ではない。こうした誤った理解は、国語教育研究者や国語教育実践家
には少ないが、国語教育からやや離れた国語学・文法学・言語学などの学
者・研究者、教育評論家などに多くいるようだ。

 たとえば、鳥越信(児童文学研究者、早稲田大教授)は、1964年(昭
和39年)に下記のような文章を発表している。

 読者論的立場に徹するという時枝氏の主張はかねての私の考えに完全に一
致する。子どもは子どもなりに、あるいは子どもが社会人に成長すればなお
さらのことだが、多忙な現代生活にあっては一部の研究者などを除いて、同
じ文学作品を何度も読み直すなどというひまはまずないのがふつうである。
とすれば、私たちのとってもっとも必要なことは、一度しか出会わない文学
作品をその都度的確に享受していく方法を身につけるということしかない。
 時枝氏は、この立場から、垣内方式と呼ばれる「三読主義」に反対してい
わゆる「辿り読み方的式」を提唱されており、これは現場で「総合法」「一
読主義」「一本勝負読み」などの名のもとに種々実践に移されていることで
ある。素人の私には、こうした読解方法にまで深く立ち入ることはできない
が、とにかく、能率的な享受の方法として、時間的・継起的・展開的な言語
の機能を押さえるということは同意できる。
 
『教育科学国語教育』71(1964年10月号、明治図書)所収、鳥越信
  論文から。16p


 鳥越信は、「時枝氏は、この立場から、垣内方式と呼ばれる「三読主義」
に反対していわゆる「辿り読み方的式」を提唱されており、これは現場で
「総合法」「一読主義」「一本勝負読み」などの名のもとに種々実践に移さ
れている」と書いている。これは変な風評のまた聞きから手に入れた誤った
理解であると思う。鳥越は、時枝は克明に読んでいるようだが、児言研の一
読総合読みの著書は読んでいないようだ。二つの立場からの論文を克明に読
んだことからの文章ではないようだ。

 一読総合法が提唱されだしたのは昭和30年代初めであるが、こうした誤
った理解は、提唱されだした当初から既にあった。児言研編集の季刊誌『国
語教育研究』の中に、児言研編集部の見解として下記のような文章がみられ
る。

 最近、一読総合法は誤って時枝誠記氏の「言語過程説」の実践化だと、い
うことが言われている。甚だしい誤解である。事実と一致しないこのような
発言は、ご本人の時枝氏にとっても迷惑だろうし、またわたしたち児言研に
とってもじつに困ることである。このような一犬虚を吠えるような無責任な
態度は多くの実践家を惑わせ、結果として、国語教育理解・実践の正しい発
展を阻害するであろう。
  
児童言語研究会編集『国語教育研究bX』(1966、明治図書)129p

 こうした誤った理解の流布は、平成の現在もある。そこで本稿では誤った
理解を正したく、二つの類似点と相違点を書いてみることにした。本稿はウ
エブサイトなので、雑誌原稿のように紙数の制限がない。それで基本的文献
の引用をできるだけ多くすることができる。デーダに語らせ、実証的に、具
体的に書いていくように配慮した。

【おことわり】
○人名はすべて敬称を略した。時枝博士とか時枝教授とか、いちいちの敬称
 は書いてない。解説文や論説文や議論文にいちいちの敬称をつけるのは、
 なじまないからである。
○人名の初出には、論文発表当時の職業(肩書)だけを(   )の中に簡
 略で書いている。
○ 「一読総合法」論者の引用文には茶色で色付けしている。「たどり読 
 み」論者の引用文には青色で色づけしている。時枝的立場でもなく、児言
 研的立場でもない論者の引用文には黄緑色で色づけしている。どちらの立
 場からの主張か、読者が読むのに一目で区別がつくように便宜を図ったつ
 もりだ。
○ 雑誌論文は紙数制限があるが、本稿はウエブ論文なので紙数制限がない。
 引用文は、できるだけ長くしてみた。主張者の論旨が正しく理解していた
 だけるように配慮したつもりだ。引用文の一部に省略している個所がほん
 の少しだがある。 省略個所には……のしるしを付けている。……の省略
 個所は、段落全部ということではなく、一段落内部の一文か二文か三文ほ
 どであり、具体例であったり、脇道にそれた話しであったりの個所で、引
 用論旨は外していないつもりだ。段落全体の省略の場合は(中略)と書き
 入れて区別した。



  
「一読総合法」と「辿り読み」の類似点



 「文章を読むとはどういうことか」について、時枝誠記(東大教授)と、
林進治(横浜・奈良小校長)は、次のように書いている。

 時枝誠記は、「たどり読み」の提唱者であり、林進治は「一読総合法」を
学校ぐるみで取り組み発表した「一読総合法の発案者・提唱者の一人」であ
る。
 二人の次の文章を読み比べてみていただきたい。二人の主張には相違点が
ないように思える。わたしが類似点をだすためにそうした文章個所だけを引
用しているからだ。

時枝誠記は、こう書いている。

 文章の基本的性質といふのは、時間的継起的に展開するものであるといふ
ことである。それは同時に全体を一望することが出来る絵画の場合と、全く
対照的である。従って、読むといふことは、文章の冒頭あるいは書き出しか
ら、順次、読み下し、読み進めて行くことである。これは、旅行の道程を、
一歩一歩、歩いていくのに似てゐる。このやうな読み方の形式を、私は、
「たどる」と名づけた。読み方教育は、要するに文章の辿り方を教えること
である。急坂は、どのようにして渡るか、川があれば、どのようにして渡る
か、速度はどのように調節するか等それと同じことが、文章をたどる場合に
考へられるのである。これが、我々が実際に書物を読み、論文を読む場合の
実情であるとするならば、読み方教育も、また、これを離れるものであって
はならないはずである。
      時枝誠記『改稿国語教育の方法』(有精堂、1963)106p


林進治は、こう書いている。
 文章の読みは、山を登るのにも似ています。基本的には文章は過程なので
す。
 道には曲折があり、険阻、平坦があります。歩みづらい所、見通しにきか
ぬ所があります。まだ、経験の少ないものほど、短い距離で立ち止り、一息
つき、前をふりかえって見行く先の予想・見通しをたてます。私たちは、部
分からすすめて全体へと進みます。文章を読むのに、まず、部分から入るが、
それはつねに全体への総合を目指します。
     『国語の授業』1984年8月発行所収の林進治論文から引用

【荒木のコメント】

 上で、時枝と林とが語っている内容に相違がないように思える。文章の読
みとは、時枝は「たどる」ことであると言い、林は「たどる」という言葉を
使ってはいないが、上記文章の引用範囲では「たどる」ということと同じ内
容のことを語っていると思う。そう読み取れる。冒頭文から順繰りに読み下
していく、という点では二人は全く一致している。
 ただし、時枝は、冒頭文から一歩一歩、つまり一語、一句、一文、一文+
一文、さらに一文+一文+一文と、たどっていくことだと書く。
 一方、林は、冒頭から順次に読み下していくことだが、前をふりかえり、
先の予想・見通しをたてて、部分から全体を総合しながら順繰りに読み進め
ていく、と書いている。この違いは大きい。
 時枝は、読み方教育は、文章の辿り方を教える教育だ、と主張している。
残念なことに、時枝の論は「辿り方を教える教育だ」の段階で止まってしま
っている。そこから先の「辿り方」はどうなっているのか、「辿り方」の具
体的な読み方の思考操作や指導方法については何も語っていない。時枝の読
み方教育についての論文はかなり読んだつもりだが、これについては、時枝
の読み方教育関係の著書のどこを読んでも書いてなかった。「辿り方」の指
導方法についてはすべて現場教師にゲタを預けてしまって、時枝自身は何も
語っていないようだ。
 一方、林は、文章の途中途中で立ち止まり、前をふりかえり、先の予想・
見通しをたてつつ、今の個所を読み深め、順次、部分から全体を総合しつつ
読み進めていくのだと書いている。林の主張する読み方(辿り方)の指導方
法(読み方の指導手順・思考操作)の実際についてのあらましの一端を書い
ている。
 林の主張する具体的な読みの辿り方指導、つまり一読総合法の授業の進め
方については、林校長が中心となって学校ぐるみで実践した著作物が下記で
ある。これを読めば、具体的な指導例、児童の発表例が詳細に書いてある。
 横浜市奈良小学校著『一読主義読解の方法』(明治図書、1966)
 横浜市奈良小学校著『言語要素とりたて指導細案』(明治図書、1966)



      
三読法批判では一致する



 三読法とは、垣内松三『国語の力』の著書で主張され、それが種々の変形
はあるが、石山脩平、西尾実、輿水実、沖山光、奥田靖雄らによって受け継
がれてきた読解指導法である。石山脩平の通読・精読・味読の三段階指導は
有名である。
 一方、一読総合法は、その表題が示すように一読法であり、児童言語研究
会によって創案された読解指導法である。時枝誠記の「たどり読み」理論も
一読法である。あらっぽい言い方だが、おおざっぱにはこういう区分けで間
違いはないだろう。
 一読法は、三読法の批判から生まれた。この点で、児言研の「一読総合
法」と、時枝誠記の「たどり読み」とは類似していると言える。これについ
ては本節で詳述することにする。
 では、児言研と時枝誠記とは、三読法についてどう論じているかを調べて
みよう。両者が三読法を批判している論点は微妙に違っている。それらも調
べてみよう。


     
★時枝誠記はこう三読法を批判する★  


時枝誠記はこう書いている。
 従来の読み方教育の方法に、一つの疑問が湧いて来る。それは、垣内松三
のセンテンスメソッドに採られている方法である。(大正11年刊『国語の
力』)。垣内方式に従うならば、教師は、児童に、先ず作品なり、教材なり
の全体を通読させ、全体印象を捉えさせ、更に立ち返って、作品を分段に分
けて、構想を理解させるといふ順序で、学習が展開するのである。この方式
は、既に述べたて来たところで明らかなように、日常の読書の実際とはかけ
離れたものである。
 全体の通読が可能なのは、教科書に取られた教材が、多くの場合に短編で
あるか、長編の一部であるからであって、一般には、読書の第一段階に、通
読の段階を設けるといふことは、先ずあり得ないことである。一般の読書の
方法は、ただ一回切りのたどり読みである。ある部分を、再度読み直す場合
でも、その部分のたどり読みである。して見れば、読み方教育の目標は、文
章の重要な部分と、挿入的付属的部分とを、嗅ぎ分けながら、読み進めて行
く、たどり読みの方法を教えることでなければならない。この方法は、文章
そのものの性質から見て当然であると同時に、実際の読書の方式がそのやう
になっていることからも、妥当性を主張することが出来るのである。
      時枝誠記『改稿国語教育の方法』(有精堂、1963)107p
【荒木のコメント】
 時枝は、「三読法は日常の読書の実際の姿とかけ離れている」と書いてい
る。日常の読書は、全体を通読し、さらに分段に分ける読み方はしない。た
だ一回きりの辿り読みであり、第一段階に通読段階をおくのはいけない、日
常生活における実際の読書方式に従うべきだ、と書いている。

また、時枝誠記はこう書いている。
 教室における子どもたちの言語的実践の教育は、子どもたちの実際の言語
生活に直結するやうに立案計画されてゐなければならないことを意味するの
である。ところが、従来一般に行われてきた、垣内方式に基づく通読、精読、
味読の三段階の読みの進め方は、日常の読書生活の実際とは、いたくかけは
なれたものであって、それは必ずしも読み方指導とはいふことができないも
のなのである。いふならば、それは教材の対象的把握、対象的認識に類する
ことであったのである。作品の作者は、子どもたちが耳を傾けるべき当の相
手として位置づけられるよりも、作品を生産した創作主体として、極めて客
観的に捉えるやうに教えられることが多いのである。
 垣内方式を実演したといはれてゐる芦田恵之助の授業記録を見ても、その
一班が察せられる。授業者は、しばしば作者の工夫について、子どもたちに
感想を求めているるのである。これは、作品が子どもたちの前に、客観的に
対象的に置かれていることを意味するに他ならない。(垣内松三『国語の
力』13、14、15頁)
 西尾実博士の、主題、構想、叙述の追求についても同様のことがいへるの
であって、それは作品の読む態度を教えたものであるよりも、作品の対象的
分析のよりどころを教えたものと解するべきものなのである。……
 西尾氏においては、教材に対する受け取り方の姿勢といふものは、作品を
対象的に取り扱う文学研究あるいは国文学研究の影響と見られるのであって、
このやうな態度からする教材研究が即読み方指導と考えられていたのである。
このやうな立場では、読み方の指導の本当の意味といふものは、まだ明らか
にされていない。一読主義の方法は、教材の対象的認識の態度とは別の、真
に読む態度とはどういふものかを考える読み方指導に道を拓くであろうと期
待されるのである。
     『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)17p
【荒木のコメント】
 時枝は「垣内方式に基づく通読、精読、味読の三段階の読みの進め方は、
日常の読書生活の実際とは、いたくかけはなれたものである」と書いている。
 ついで、「垣内方式を実演したといはれてゐる芦田恵之助の授業記録」を
批判している。国語教師なら誰でも知っている「冬景色」の授業を批判して
いる。
 さらに、西尾実の三読法(主題、構想、叙述)を批判している。
 そして一読主義の方法(一読総合法)に賛意をしめし、期待している、と
書いている。

また、時枝誠記はこう書いている。
 文章は、そこから析出された部分(章、節、段落等)の組み合わせから成
るのではなく、冒頭或いは書き出しの展開(発展)において成立するもので
ある。文章の体験は、常に表現の展開を「たどる」継時的行為としてのみ成
立するのであるから、この継時的行為を、同時的印象に置き換えたのでは、
文章の正しい読み方とは言えないし、また正しい文章の把握とは言ふことが
出来ない。……垣内教授のセンテンスメソッドは、文章から析出された段落
の組み合わせにおいて、文章全体を把握しようとするのであるから、展開の
追求といふことが軽んぜられて、文章の対象的把握に陥る傾向がある。これ
は造形美術の類推において文章表現を理解しようとしたところに原因がある
が、一方、当時(大正十年代)の国語教育が、国文学における作品研究の影
響を受け、またそれを模したことも一つの大きな原因ではなかったかと考へ
る。生徒に教材を読ませるといふことは、その教材を一つの対象として把握
させることと考へられていた。読む体験の追求を、読まれたものについての
論理的構成にすりかへたのでは、文章の正しい把握とはいふことが出来ない。
垣内方法において、冒頭といふことが殆ど重要な 意味を持ちえなかったの
は、以上のような理由によるのであらう。
 文章の正しい読み方は、読む体験そのものを静態的、同時的なものに置き
換へることではなく、流動的、継時的に作品を辿ることでなければならない。
これは非常に困難なことではあるが、言語過程説の最も根本的な作品に対す
る考へ方である。
 文章を読むといふことは、表現の一地点から他の地点に「たどる」ことで
あり、読むことを教へる読み方教育の真意は、表現を「たどる」能力を身に
つけさすことである。
        時枝誠記『文章研究序説』(山田書院、1960) 69P
【荒木のコメント】
 時枝は「文章の体験は、常に表現の展開を「たどる」継時的行為としての
み成立するのであるから、この継時的行為を、同時的印象に置き換えたので
は、文章の正しい読み方とは言えない」と書く。そして「文章の正しい読み
方は、読む体験そのものを静態的、同時的なものに置き換へることではなく、
流動的、継時的に作品を辿ることでなければならない。」と書いて、これが、
「言語過程説の最も根本的な作品に対する考へ方である。」と、時枝の根本
的な考え方と結びつけて述べ、これらを論拠に三読法を批判している。

また、時枝誠記はこう書いている。
 
垣内法式の理論の根本にある、最も重大な失考は、時間性表現である文章
と、同時的表現である絵画とを同一視、混同したことである。絵画の同時的
全体把握に相当するものを文章に求めて、それは、文章全体を通読すること
によって得られるとし、それを出発点として国語教育を展開させようとする
のである。先ず全体を抑えて、その中に部分を位置づけようといふのである
が、それは絵画や彫刻には当てはめることはできても、時間的、継時的、線
条的な文章表現には適用できないことなのである。文章といふものは、冒頭
あるいは書き出しから順次展開の形式において成立する表現である。絵画や
彫刻が、構成的表現であるとするならば、文章は、音楽とともに展開的表現
であるといはなければならない。展開といふことは、冒頭や書き出しに内蔵
されているものを、時間に従って、具体化し、現出することである。その有
様は、写真のフィルムを、現像する作業と似てゐて、それ故に、展開にも写
真の現像にもともとdvelopといふ語が用ゐられるのである。文章読解は、冒
頭、書き出しを出発点として、その展開を踏みしめながら、順次読み進めて
いく行く作業として成立する。それは、知らない道を、地図を調べながら、
方向を誤らないやうに「道をたどる」ことに似ているので、私はこのやうな
読解方法を、「文章をたどる」とか、「たどり読み」と名づけたのである。
     『教育科学国語教育』63号(1964年2月号、明治図書)18p
【荒木のコメント】
 時枝理論を読むと繰り返し出てくる、文章は音楽と同じに時間的表現・展
開的表現であり、絵画や彫刻の同時的表現・構成的表現とは全く違う、とい
う言辞があるが、ここにも出てきている。垣内法式の三読法は、時間的表
現・展開的表現でなく、同時的表現・構成的表現として扱う指導法だからダ
メと書いている。
 終わり個所で、「たどり読み」と名づけた理由が書いてある。「道をたど
る」ことに似ているので、私はこのやうな読解方法を、「文章をたどる」と
か、「たどり読み」と名づけたのである、と書いている。
 教育現場で「たどりよみ」というと、時枝の言うような使い方は少ないと
思う。通常は下記のような使い方である。
・「初めて読む文章なので、たどりよみしかできない子がいる」
・「一字一字は読めるが、辿り読みになり、文節意識が欠如している子がい
  る」
・「一字一字をゆっくりとたどり読みをし、確実に文字を押さえて音読させ
  ていく」
・「文字は読めるが、たどり読みしかできない」
・「指をそえて文章の行をたどることで、注意の散漫を避け、行の混乱をな
  くす指導をした」
・「源氏物語」を古語辞典を引きながら、辿り読みをしていく。
というよな使い方が行われている。時枝の「たどり読み」の使い方は、そう
ではなく、文章一般の読み方の、通常の基本的な姿をさしていると考えてよ
い。

 時枝誠記は、文章論を取り入れた「辿り読み」を主張している。下記のよう
書いている。

 読むといふことを、「たどる」といふ概念に置き換へることが出来るのは、
文章表現が展開するからであり、展開であるといふことは、文章の継時的線
条的な根本性格に由来するのである。
 展開といふことは、あるものが他を生み出すことであり、それは、あるも
のが他のものを生み出す可能性を持ってゐることであり、生み出されたもの
についていへば、それはあるものの拡充であり、完成である。例へば、漢詩
絶句の起承転結の説明にとられる次の表現、

  大阪本町糸屋の娘、    起
  姉は十六、妹は十五。   承
  諸国諸大名は刀で斬るが、 転
  糸屋の娘は目で殺す。   結

 冒頭の起句は、説明せられるべき事柄の提示で、承句は、その説明であっ
て、両者合して、文における主語述語と同様の関係が成立する。この場合、
起句を、独立格から成る一個の単文と見ても、承句との関係からいへば、主
語─述語の関係と同じになる。第三は転句といはれてゐるが、一、二句と全
く無関係なものが持出されるのでなく、糸屋の娘が男を悩殺するといふ一つ
の属性の連想において、「諸国諸大名は刀で斬るが」の思想が持出され、結
句と合して、糸屋の娘の述語となってゐる。すべては、冒頭の起句の持つ可
能性の発揮であり、その拡充完成である。
 ここで大切なことは、これらの句句について、その構図的な配置において、
その論理的な関係を考へることでなく、一つの句が他の句を生み出す関係に
おいて、その論理性を考へるべきことである。この論理をたどることが、即
ち表現を「読むこと」であり、またこの論理に従って表現することが、「書
く」ことである。表現は、決して部分の組み合はせによって成立するのでは
ないのである。このことは、起承転結の名目それ自身がそれを示してゐて、
承とは、起を受けてゐる句であり、転は、起承を転ずるものであり、結は起
承転を結ぶものである。
        時枝誠記『文章研究序説』(山田書院、1960) 71P

時枝誠記は、上の文章にすぐ続いてこう書いている。

 文において、その成分相互の間に入子型構造形式が存在することは、今ま
でも屡々述べてきたことであるが(『日本文法口語編』第三章三・四「句と
入子型構造」)、この原理は、文章展開にも適用出来ることである。
 前掲の詩句において、承転結は、すべて起句に示された題目の説明である
……承は起を受けて、主語述語の関係を構成しつつ、それが、転結の結合し
た述語に対して主語の位置に立つのである。この表現は、形式的には、二文
より構成されるてゐるが、起承は、結の「糸屋の娘」に代置されて、当然転
結の主語としてその中に包摂されてゐると見ることが出来るのであるから、
その形式に拘わらず、これを一文と見ることも可能なわけである。このやう
に展開の構造を見て来ると、文章における段落の句切れといふものが、決し
て絶対的なものでなく、相対的なものであることがわかる。
        時枝誠記『文章研究序説』(山田書院、1960) 72P
【荒木のコメント】
 上の引用文は、時枝のいう「語論。文論。文章論」における「文章論」の
カテゴリー書籍からの抜粋文であるということだ。
 時枝は、読むとは文章の冒頭から順繰りに読み進めていくことだと書く。
時枝は、文章の最後まできたときの読み方はどうなのかについては書いてな
い。文章全体の読みの指導については何も書いていない。順繰りに読み進め
てきて、最後尾の文章末まできたら、読みの指導はそこで終わり、なのかど
うか、これについては何も書いていない。文章の全体を読み終えたとき、全
体から先行の部分部分をふり返って読み直すとか、読み直さないとか、何も
語っていない。
 これについては上の引用文からヒントが得られそうだ。全体からふり返っ
て文章の展開の仕方を調べるについて書いている。ここで時枝が念を押して
強調していることは「ここで大切なことは、これらの句句について、その構
図的な配置において、その論理的な関係を考へることでなく、一つの句が他
の句を生み出す関係において、その論理性を考へるべきことである」と書い
ていることだ。つまり、文章全体の構図的構造的な配置がどうなっているか、
静態的に論理的関係を把握することではなく、文章の句句(部分部分)につ
いて、一つの句(先行する部分)が他の句(後続する部分)をどう生み出し
ているか、事柄が生起し連続する関係を把握(指導)することだ、というこ
とである。そう読み取れる。
 つづけて後半の引用文では、「文の成分相互の入子型構造形式は、文章展
開にも適用出来る」として、前掲の詩句の入子型構造形式について述べてい
く。
 つまり、部分と全体という用語をつかって言えば、時枝は部分から後続す
る部分へと順次に読み進めていくだけでなく、全体から部分をふり返る指導
もあると読みとった。ふり返って事柄の生起する論理的関係を把握する指導
も、読み方の指導としてあると、わたしは推測して読みとった。そのことは
起承転結という文章が生起する関係を力動的に把握する用語をつかって言及
していることに典型的に表現されていると思う。そういう意味での文章全体
の客体的な構造・構図的な配置関係(時枝は嫌いな言葉のようだが)はある
と語っていると、そうわたしは読み取った。

 ここまで書いてきたところで、時枝誠記が書いている次のような文章個所
が新たに見つかったので付け加えておく。

 文章を辿る場合に必要なことは、何度も振り出しに戻る必要のないやうに、
重要なことは、見落としのないように、読み進めることであって、そこには
非常な緊張感が要求されるのは当然である。一回の読みで、事がすまされる
といふことは、読書生活の理想であると同時に、一読主義、辿り読みの理想
でもあるので、教室の指導もそれを目標にして計画される必要があるのであ
る。
 辿り読み、あるいは一読主義といふことは、速読あるいは安易な読み捨て
を意味するものではない。仮に振り出しの戻った場合でも、あるいは何べん
でも読み返す場合でも、そこに辿り読みの原則が守られなければならないの
は当然である。話し言葉の場合に、振り出しに戻ることが不可能なやうに、
同様なことは、文字言葉の場合にも要求されることは、極めて見易い道理で
ある。   『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)19p
【荒木のコメント】
 。時枝誠記は「何度も振り出しに戻る必要のないやうに読め」「仮に振り
出しの戻った場合でも、あるいは何べんでも読み返す場合でも、そこに辿り
読みの原則が守られなければならない」と書いている。この点では、時枝の
「辿り読み」と児言研の「一読主義読解(一読総合法)」とは考え方が一致
している。時枝は「一読主義、辿り読みの理想でもある」と書いている。
 上でわたしが『文章研究序説』の引用文章を取り上げて、まごつきながら
ごたごたと推測して書いたことと同一のことが書いてある。やはり本人の文
章は明快で簡潔で短文章ですっきりと書いてある。


      
★児言研はこう三読法を批判する★


 村松友次(都・荒川9中)は、こう書いている。
 時枝誠記氏が指摘するように、垣内松三のセンテンスメソッドの最大の誤
りは、本来継起的、線条的で、時間的に展開する文章というものを、空間芸
術である絵画や彫刻と同一視した点にあった。
 ここから導き出された日本の国語教育における読解指導のパターンは、ま
ず最初に作品全体を通読してつかみ、次に部分部分の精読をし、最後に全体
を味読することによって、最初につかんだ全体像を確認したり、修正したり
するというものであった。
 輿水実氏と並んで、体制側国語教育の理論的指導者である沖山光氏が、垣
内の犯したと全く同じ誤りを犯している。
   児童言語研究会編集『国語教育研究13』(1967、明治図書)81p

【荒木のコメント】

 村松は、時枝に全面的な賛意を示している。ここの引用範囲では、三読法
を批判する論点では、時枝と村松とは全く同意見だと書いている。
 また、村松は、垣内松三をはじめ、輿水実も、沖山光も、三読法であり、
同じ誤りを犯している、と書いている。
 村松は、この論文を書いた時点では、荒川9中教諭であった。古参の児言
研会員である。のち、東洋大学短期大学教員になったときに<時枝誠記博士
の「読み」の理論について>(東洋大学文学部紀要1952)という時枝読み論
への批判論文を書いている。児言研編集『児言研国語bP』(1964)の48p〜
52pにも時枝批判を書いている。時枝と村松とは、上の引用範囲では合致す
るが、言語観では大きく相違する。

林進治はこう書いている。
 「構造」ということばを避けた方がよくはないか。いわば文章は流れであ
り、動きである。……文章の冒頭は、頭の部分として客観的にすがたを示し、
働きとしては、展開の緒になるが、そこに発したものは、二段、三段へと解
け込み、それを成立させ、その中に変貌し、転生していく。その一連の働き
の中に文章は成立し、読みは形成されていく。読みによる体験とはその流れ
に身を投ずることである。こうみていけば文章は構造というよりは、働きで
あり流れであり形成過程であって、読みはその動きをおさえ、流れにのるた
めの「関係づけ」を支えとしてなりたつ。
   児童言語研究会編集『国語教育研究8』(1966、明治図書)12p

【荒木のコメント】

 ここで林は「構造」をどういう意味で使っているのかは分からないが、全
文章構造とか通読による全文章把握による構造理解と了解して大きな間違い
はないと思う。あるいは、三読法の支柱となって展開した垣内松三『国語の
力』(不老閣、大11)に書いてある下記の読みの全文章の構造(全形象)
の直下の会得をいってるのかもしれない。

 文の真相を観るには文字に累はさるることなく、直下に作者の相形を視
なければならぬ。文の解釈の第一着手を文の形に求むるといふ時、それは文
の連続の形をいふのではなくして、文字の内に潜在する作者の思想の微妙な
る結晶の形象を看取することを意味するのである。
            垣内松三『国語の力』(不老閣、大11)84ぺ

 ここで、垣内は、文を読むとは、直下に文字の内に潜在する作者の思想の
微妙なる結晶の形象を看取することだ、と書く。これに林はまず全文章を読
んで全体を把握させるという指導ではいけないと反対する。垣内は「文字に
累はさるることなく」「文の連続の形をいふのではなくして」と書くが、こ
れこそが読みの基本的な原則だ、全く逆である、と林は主張している。文章
は流れであり、動きである。形成過程であり「関係づけ」を支えとして成立
する、読みによる体験とはその流れに身を投ずることである、と書いている。
文章は構造というよりは、働きであり流れであり形成過程である。この林の
考えと同じことを時枝も書いている。上の林の文章範囲内の記述内容では時
枝も同意見だと思う。三読法批判では時枝も林も同意見である。

また、林進治はこう書いている。
 形象理論の解釈学が国語教育実践の指標となってからすでに半世紀になる。
 垣内松三の形象理論では、「読」とは形象(生命の外的表徴により客観化
されたもの)を読むので(生命は)直観以外に理解の道はないとし、直下の
会得こそが文章理解の法であると規定している。
 石山脩平の解釈学には、「文章は生命の表現であるが、その表現は分節
化・線条化により成り立つ」と規定されているが、この理論の体験構造・表
現構造の考え方は今日大いに学ぶべき点はある。
           ○
 従来読みの学習指導として三層法がとられてきたのは、形象理論、解釈学、
西尾理論などによって文章構造が、叙述層、示現層、象徴層であるとか、あ
るいは主題、構想、叙述の三層からなるというこの構造の考え方に従って、
常に全文を対象にし、直観によってその生命を体得し、しだいに分析し総合
しようと考えてきたからである。
 たしかに、文章を客観的存在とし、静的にその構造を分析すれば、そのよ
うな説明になろうが、それは文章を読解するという働きにはつながらない。
やはり読み方そのものの働きに即さなければならない。
           ○
 このような考え方から、形象理論や解釈学に対して、はやくから反論がだ
されていたが、まず垣内理論に猛然と反駁したのが奥野庄太郎で『国語の
力』に対しては、「こんなものが世におこなわれてはたまるものではない」
と反対ののろしをあげている。
 また昭和12年には、勝部謙造が読むということの流動性に着目し「部分
と全体の生きた関係をたぢりつつ読まねばならない」とか「常に予想し、全
体に関係づけて部分を読む」というような非常に画期的な指摘をしている。
しかしこれらの反論は歴史的には高く評価できるが、第二信号系理論をふま
えた今日の一読総合法と違って、言語と認識・思考の関係がおさえられてい
ないことからくる限界を含んでいることはどうしようもないことであった。
           ○
 体験構造は、理念・事象・情調の三契機によって成り立つというが第二信
号系の参加が決定的な役割を果たす。自然、社会、人間等(外界)その現実
に密着するだけでなく「ことば」の参加によって(概念の参加によって)現
実が過去をふまえることができ、さらに現実を出て未来を展望することも可
能になる。
 外界は写真のように頭脳に反映するのでなくて、概念や、概念の内容とな
っている具体的知識や経験に補われ、選択されて反映する。こうした外界の
流動、主体の活動の中にしだいに統一意識、価値をめざす方向が見出されて
くる。それによって個々の事象間の関係づけ、再分析、捨象、抽象、再構成
が繰り返される。その間の感情の揺れ動きに情調が見られる。
 体験の構造はことば(外言、内言)によって、事象を分析し、分析した事
実をさらに新しい観点から関係づけ、整理し、すじみちをつけ、総合するこ
とによって成立する。
           ○
 文章を読解するにあたっては、文字をたどり、語を見い出し、語と語との
関係をおさえ、文と文とのつながりを求めて段落へとしだいに総合する。こ
の間には表象化、具体化や抽象化・一般化が幾度となく往復作業として行わ
れ、それが、時間の流れ、場の移り変わり、原因と結果、理由、条件、一般
と個、事実と意見などの関係をあきらかにする支えとなる。このことばの側
面と事象の側面とを結びつけ、具体と抽象の相互回路ををつくっていく。こ
れこそ思考を伸ばすもっとも緊張度の高い仕事となる。
 したがって、しだいに事象・構想・主題があきらかになり、表現をおさえ
たきめこまかな読みとりができてくる。また同時に、納得のいかない、いっ
たいどうなるだろうという期待・見通し・予想・疑問もわきたってくる。こ
れらから必然的に読む自分と作者との対決をよぶことにもなり、思考力をね
りみがく重要な機会を生み出す。
   児童言語研究会編集『国語教育研究6』(1965、明治図書)114p

【荒木のコメント】

 文章を生命とみて、直下にこれを体得するというのが三読法である。まず
全文章を読んで、そこに流れている生命をパパッと直観で、直下に会得する
(読みとる)というのが三読法である。石山脩平も三読法であるが、「表現
は分節化・線条化により成り立つ」と書いているところは評価できる、と林
は書く。
 林はこうも書いている。「体験の構造」とは、「ことば(外言、内言)に
よって、事象を分析し、分析した事実をさらに新しい観点から関係づけ、整
理し、すじみちをつけ、総合することによって成立する。」と書く。
 また、「文章を読むとは」、「文字をたどり、語を見い出し、語と語との
関係をおさえ、文と文とのつながりを求めて段落へとしだいに総合する。こ
の間には表象化、具体化や抽象化・一般化が幾度となく往復作業として行わ
れ、それが、時間の流れ、場の移り変わり、原因と結果、理由、条件、一般
と個、事実と意見などの関係をあきらかにする支えとなる。このことばの側
面と事象の側面とを結びつけ、具体と抽象の相互回路ををつくっていく。こ
れこそ思考を伸ばすもっとも緊張度の高い仕事となる。」と書いている。つ
まり、文章を読むとは、「全体から部分へ」ではなくて、「部分から全体
へ」の順序でなくてはならない、と主張している。
 時枝は、冒頭文から次の文へ次の文へと辿って読む、ということだけしか
言わないが、林は「文字をたどり」だけでなく、「語を見い出し、語と語と
の関係をおさえ、文と文とのつながりを求めて段落へとしだいに総合する。
この間には表象化、具体化や抽象化・一般化が幾度となく往復作業として行
われ、それが、時間の流れ、場の移り変わり、原因と結果、理由、条件、一
般と個、事実と意見などの関係をあきらかにする支えとなる。」と、具体的
な辿り方、その読み方の思考操作・手順を明らかにしている点が一歩進んで
いると言える。


      
児言研と時枝誠記との相違点



 私はこれまで、時枝誠記と林進治との引用を多用して語ってきた。その中
で、時枝誠記と林進治とが語っている内容には相違はないように見える、と
書いた。一読総合法理論は、児童言語研究会(略称で児言研)の会員の中で
討議され集積されてきた財産としての一読総合法理論である。林進治が書い
てる一読総合法理論と、児言研の一読総合法理論とは全く同一だとは言えな
いが、大枠では同一と理解してよい。個人発表の論文であるから表現に微妙
な差異が出てくることは当然である。
 時枝誠記と児童言語研究会(林進治)との読みの理論では、類似点がある。
読むとは文章の冒頭から順繰りに読み進めていくことだ、学校の読みの指導
でも、文章の冒頭から順繰りに読み進めていく指導方法でなければならない、
この点では、両者の意見は一致している。両者は三読法による読みの指導方
法を否定し、一読法を主張している点でも一致している。
 三読法とは、初めにざっと全体を読み、次に前に戻って精読を全文末まで
していき、三回目にまた前に戻って情調のただようように味読する指導をし
ていく、という三段階の読みの指導段階である。両者は、三読法を否定して
いる。垣内松三『国語の力』(三読法の理論的な指南著書)を、書名を挙げ
て真正面から否定する論文を書いている点でも全く同一である。
 ただし、時枝誠記と林進治(児童言語研究会)では、大きく相違している
論点がある。両者が主張している背景(バックグランド)が大きく違ってい
る。つまり、両者の背後にある哲学思想が、言語観が、教育観が、読みの基
礎理論が、大きく違っている。
 どこが、どう違っているか、これら総て(哲学思想、言語観、教育観)に
ついて書くことはできない。本稿の主題は「時枝と児言研の読みの理論の異
同」であり、本稿では両者の「読みの基本理論の異同」を述べればよい。
 両者には、まとまった哲学思想、教育観の著書はない。両者の論文の中か
ら断片的・部分的に書いている文章個所を探して見出すことはできるかもし
れない。それは本稿のテーマに直結していないので止める。
 両者の言語観については、重厚かつ蘊蓄に富む独自の言語観がある。これ
についても割愛する。本稿のテーマに直結していない。が、これに関わる、
わたしの知得する文献だけを紹介しておこう。これら文献を読むと、言語観
においては、時枝と児言研では大きく相違していることが分かる。


       
★時枝誠記の言語観について★


 時枝誠記の言語観は、「言語過程説」または「言語過程観」と呼ばれてい
る。時枝の言語観については、彼の主著である下記の著書を読むのがいい。
時枝誠記『国語学原論 言語過程説の成立とその展開』(岩波書店、1941)
時枝誠記『国語学原論 言語過程説の成立とその展開 続篇』(岩波書店、
     1955)
(『国語学原論』『国語学原論続篇』の岩波版は古書店で入手できるかどう
か、あっても高価である。現在、岩波文庫で廉価で入手できる。)

 言語過程説については、大久保忠利(児言研会員・都立大教授)の批判論
文がある。
   『文学』(岩波書店、1951年6月)所収の大久保忠利論文
   時枝誠記氏のソシュール批判を再検討する──時枝氏「言語過程観」
   批判の序説として

上の大久保忠利論文に対する時枝誠記からの反論文がある。
   『文学』(岩波書店、1951年9月)所収の時枝誠記論文
    言語の社会性について──大久保忠利の「言語過程観批判の序説、
    に対する答を含めて

時枝誠記の言語論にはフッサール哲学の現象学の影響があると言われてい
 る。
 これについては、わたしも少しばかりの駄文を書いている。本ホームペー
 ジの第15章「時枝誠記のリズム論(1)」の中の「場面とは」「場面と
 リズム」の見出し個所に書いている。

    http://www.ondoku.sakura.ne.jp/tokieda1.html へのリンク


 時枝の国語教育論文を集成した簡便な書籍がある。時枝のアウトラインを
理解するには重宝な書籍である。
 浜本純逸編『現代国語教育論集成・時枝誠記』(明治図書、1989)
 石井庄司編『時枝誠記国語教育論集1』(明治図書、1984)
 石井庄司編『時枝誠記国語教育論集2』(明治図書、1984)


     
★児童言語研究会の言語観について★


 児言研の言語観に関する著書・論文は多くあるが、手始めに児言研を
理論的にリードしてきた大久保忠利の下記の四著を読むとおおよそが分かる。
  大久保忠利『コトバの機能と教育・国語教育』(明治図書、1962)
  大久保忠利『国語・文学教育とコトバの心理』(大明堂、1968)
  大久保忠利『国語教育解釈学理論の究明』(勁草書房、1969)
  大久保忠利『全面発達の国語教育』(一光社、1981)

第二信号系理論
 児言研の言語観の基礎に第二信号系理論がある。また、ソシュールを継承
し発展させた「ラング(社会ラング、個人ラング)」と「パロール」がある。
また、ソビエト心理学の知見から得て発展させた大久保の「コトバの網」
「外内言、純粋内言」「思考力高めは外内言高めだ」などがある。これらの
大まかな論は上記した大久保の四著に書いてある。

 一読総合法が提唱され日本全国に広まっていった昭和30〜60年代には、
国語教育界において言語と第二信号系とを関連づけて国語教育を論ずる著書
や論文が多く出ている。波多野完治(お茶の水大)、乾孝(法政大)、熊谷
孝(国立音楽大)、大久保忠利(都立大)らがいた。

 本稿では、当時、児言研内部で第二信号系理論がどう受け取られ、どう論
じられていたか、その一端を引用してみよう。

大久保忠利は次のように書いている。
 言語の本質を研究するのに「言語学」(カギツキゲンゴガクと読む)のワ
ク内ではダメであることを見抜き、ぼくは早くから、心理学・論理学・哲学
その他の成果を「言語学」と並行して学ぶことを心がけてきた。
 とりわけ、「第二信号系」理論は、児言研ではその創立の最初から(昭和
26年創立)、ずっと全会員が学習をつづけてきていて、文法教育でも、一
読総合法でも、児言研の案出していった国語教育理論は、その土台に、他の
周辺科学とともに第二信号系理論を基礎とした「心理学」が、言語の本質を
解明しつつ見事にすえられてきた。
   児童言語研究会編集『国語の授業』(一光社、1975・4月)116p

【荒木のコメント】

 上の引用で大久保は、児言研では創立時から「言語学」のワク内ではダメ
で、心理学、論理学、哲学、とりわけ第二信号系理論をずっと全会員が学習
をつづけてきた」と書いている。当時、児言研の会合でそうした理論学習が
授業研究と同時並行してもたれていた。パブロフはもちろん、ルリア、ヴィ
ゴツキー、スミルノフ、ルビンシュタイン、レオンチェフ、ガリペリン、ソ
シュールなどの講読会や文献一部紹介などが行われていた。授業分析の討論
の中でこれら人物が友達のように出てきて実践と結びつけて語られていた。
 ある時、当時の児言研委員長であった小林喜三男が「おい、みんな、来月
の例会で、おれは、パブロフをこう理解している、という一枚プリントを全
員、提出しようじゃないか」という提案があった。わたしも一枚プリントを
提出した。
 村松友次(都・荒川9中)は、ロシア語に強く、児言研編集『児言研国語』
『国語教育研究』『国語の授業』誌にロシアの国語教育文献を翻訳してたく
さん紹介した。第二信号系を基礎とするソビト心理学やソビエト読み理論の
論文を多く紹介した。、村松はリープキナの翻訳著書(明治図書)も上梓し
た。のち、村松は松尾芭蕉研究の大家となり、東洋大学短期大学の学長を務
めた。
 
林進治はこう書いている。
 読み手は「ことば」を信号系としてはたらかせ、語─語、文─文、部分─
─部分を関係づけることによって、しだいに総合へむかい、頭脳に第二の現
実を形成すること。それによって、知識を、経験をそして、知恵と感動をよ
びさましていく。熊谷孝氏はこれを準体験という。つまり、第二信号系に反
応して、第一信号系を呼びたて、それを統一して体験として形成していく過
程、それが読みである。
   児童言語研究会編集『国語教育研究8』(1966、明治図書)11p

【荒木のコメント】

 林はここで、読むとは第二信号系に反応して、第一信号系を呼び立てて、
体験として形成していくことだ、と書いている。つまり、読みの指導では、
言語という第二信号、信号にうんと反応させる指導をしていく、ということ
だ。一読総合法では、ひとり読みの時間を設け、書き込み・書き出しという
外内言をフルに発揮させる第二信号反応時間を与えている。このアイデア
(思考操作与え)も、第二信号系理論から生まれた?、というか、ヒントを
与えられ、そうした第二信号系理論の学習の生動の中で実践的に生み出され
たものである。

小林喜三男(都・江北小)は、こう書いている。
 子どもが文章を読んで、その内容がわかるということは、どういうことな
のであろうか。結論から先に述べる。それは第二信号系条件反射が十分に行
われた時、はじめて可能だということである。
 われわれはこの解明をパブロフの理論から学んだ。
○人間に作用する多種多様な条件反射は二つの信号系にわけられる。
@一つは人間に直接作用するすべての条件刺激であり、これは人間と動物に
 共通な第一信号系である。
Aコトバとコトバの組み合わせ、および、これらを基礎として生ずる結合は
 第二信号系を構成する。これは人間にだけあるものである。
○第二信号系の刺激は第一信号系の刺激と結合してはじめてその意義をもつ。
 書かれた文章は現実世界の本物や現象を第二信号系として反映したもので
 ある。故に、文章を読むということは、文章(第二信号系)を、現実世界
(第一信号系)にもどすことである。ここに理解が成立する。ただし、この
 場合、第一信号系への近づき方の「粗}「密」によって、理解の「浅」 
 「深」の差が現れる。……
 一読主義は、必要と思われる段落で立ち止りしつつ読む。注意の範囲が狭
ければ狭いほど、それだけ注意の集中度は高くなることは心理学が証明して
いる。一少部分の立ち止る個所個所で生徒たちの「表象化されたこと」「読
解されたこと」「関係づけされたこと」などが密度濃く話し合われる。これ
らはいずれも文を文字の集まりとして読まずに、第一信号系に近づけて読ん
だ結果である。……
 従来の三読主義ではこの第一信号系への近づきは余りにも形式的で、した
がって粗であった。最初の通読段階で生徒が読んで分かった度合いを目に見
える「あかり」でたとえればどういうことが言えるであろうか。
 ある段階でぽっとあかりがともる。しかし筋を追うのを急ぐために、その
あかりが光度を増さないうちに、つぎのあかりがまたぽっとつく。こんな程
度の理解ではなかろうか。
 さて、三読主義では通読段階での読みは低調でも、次の精読の段階でボル
トをあげられるのだと言うが、そうはいかない。一度不十分に形成されてし
まった動的ステレオタイプを変えていくことはなかなか困難であることは心
理学の証明することである。生徒の意欲喪失、したがって教師の一方的な語
りの過剰、通読の後の精読の何時間の授業の味気なさは教師であれば誰でも
経験していることであろう。……
 ルビンシュタインは言う。「人間的思考の特色は、人間に直接に感覚的に
知覚せられる現実との相互作用であるのみでなく、(すなわち動物と共通で
ある第一信号系条件反射のみでなく)、人間と、言語で客観化され、歴史的
発展の進行の中で形成され、個々人の発達の進行において人間とするところ
の知識体系との相互作用(すなわち第一信号系と第二信号系との相互作用)
であるという点である。
 「思考は客体によって規定される。しかし、客体が思考を規定するのは、
直接的、無媒介的、機械的でなく(すなわち、ワトソン流の単純なS→Rのよ
うな方式ではなく)、分析作用、総合作用、および一般化の過程を介してで
ある。この過程は端緒的完成データを変形し、客体の本質的諸特性を純粋な
形で具現させる」
 刺激S→(屈折反応O)→反応Rのような過程は、人間が言語を所有している
ことによってはじめて可能な機能である。よりよい反映力をつけるために
「内的条件の固めと整え」こそ何をおいても国語教育の中核としなければな
らない。児言研の国語教科構造はこの核を中心にして組み立てられている。
     
『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)43p 
【荒木のコメント】
 小林は、ここで、第二信号系理論と読みの理論との連関を完膚なきまでに
咀嚼して結合し論じている。わたしの下手なコメントを必要としない明解な
論旨である。前述した小林の「一枚プリントを出そう」の提案時に、上のプ
リントを小林が提出したものかどうかは昔のことで記憶にない。



 
「一読総合法」は「辿り読み」の継承でない



 本節の導入として前述したことをもう一度書いてから始めたい。わたしは
「一読総合法とたどり読みの類似点」の「荒木のコメント」で、次のように
書いた。

 時枝は、読み方教育は、文章の辿り方を教える教育だ、と主張している。
残念なことに、時枝の論は「辿り方を教える教育だ」の段階で止まってしま
っている。そこから先の「辿り方」はどうなっているのか、「辿り方」の具
体的な読み方の思考操作や指導方法については何も語っていない。時枝の読
み方教育についての論文はかなり読んだつもりだが、時枝の読み方教育関係
の著書のどこを読んでも書いていなかった。「辿り方」の指導方法について
はすべて現場教師にゲタを預けてしまって、時枝自身は何も語っていない。

 これが事実であるなら、時枝の「辿り読み」理論の弱点であると言える。
時枝は「辿り方」の具体的な思考操作や指導方法については、何も書いてい
ない。書いてはいるが、比喩でごまかしている。例えば「読み方教育は、要
するに文章の辿り方を教えることである。急坂は、どのようにして渡るか、
川があれば、どのようにして渡るか、速度はどのように調節するか等それと
同じことが、文章をたどる場合に考へられるのである。」と。こうした比喩
表現でごまかしている。これが弱点で、これでは何も言ってないことになる。

 山下七郎(横浜・奈良小副校長)は、文章の「辿り方」の具体的な思考操
作や指導方法について次のように書いている。
 山下七郎は、林進治が奈良小学校の校長で、山下七郎は副校長で、二人の
タッグで学校ぐるみで一読主義読解の指導実践に取り組み、公開授業の発表
をした当人たちである。山下七郎は次のように書いている。

 時枝誠記は、文章が絵画とちがい、音楽のように継時性の表現であり、線
条的に展開される特性を強調して、たどり読みを主張している。
 もちろん、文章表現は、絵画・彫刻と異なって、時間的に展開されるもの
であり、線条性を特質とする。まず、全体を直観するといっても、線条をた
どる以外にみちはないわけである。
 さて、この表現をたどるというのはどういう心的活動を展開するものであ
ろうか。
 例えば「おにども山からもうでるな」という文題をみる。子どもたちは
「おにども」から、赤おに、青おに、おそろしい顔、つの、など、鬼につい
てのさまざまの経験・知識を「おに」ということばから引き出し、「ども」
だから赤、青、黒、さまざまの鬼のあつまった表象を思い浮かべるだろう。
 また、鬼どもという対象(主部)に対して、「もうでるな」という、命令、
禁止をしている述部を見て、さらに「山から」という修飾語を関係づけて、
その場面や情景を、具体化し、表象化し、(それらを文として総合する中
で)ゆたかな想像を働かせる。そこで、
 ・わるい鬼たちが山にたくさんいるんだ。
 ・いつでも出てきて、悪いことをするんだろう。
 ・何とか出てこないようにしたい。
 ・きっと、おもしろいことを考えて、鬼たちが出てこられないようにする
  んではないか。
 このように、「読む」という仕事は、語と語、文と文、部分と部分、これ
らを相互に関係づけることによって、(そのことは、自分の知識や経験を呼
び起こし、その関係づけの中で、さまざまの想像を働かせることである)分
析と総合の相互往復していく働きである。この分析と総合の絶えざる相互往
復によって、物と物、事と事、人と人、物と事、人と場面などさまざまの間
の関係がおさえられ、これによって、くわしい話しかえ、短い話しかえ、
(この作業によって、具体化、表象化、抽象化、一般化がなりたつ)、見通
し、予想、感想、意見だし、まとめ、プランの仕事が成立する。
 くりかえして言えば、語彙、文法(言語要素)をおさえ、これによって、
関係づけを成り立たせ、読解の諸作業を展開するわけである。わたしたちの
読解作業を関係づけを軸として行われるというのは、言いかえれば、分析を
ふまえた総合によって(さらに言えば言語要素をおさえて)進められるとい
えよう。
  児童言語研究会編集『児言研国語bT』(明治図書、1965)125p

【荒木のコメント】

 時枝は「読み方教育は文章の辿り方を教える教育だ」で止まっている。山
下は、時枝の先を、読みの思考操作や指導方法を実践的な経験を踏まえて編
み出し、具体的に語っている。
 時枝は「読み方教育は文章の辿り方を教える教育だ」と言っていながら、
文章(教材文)の具体的な辿り読みのしかた、その教授方法については何も
語っていない。林・山下の奈良小グループの読解指導の教育実践は、時枝の
先(足りないところ)を語っている。
 林、山下たちは、時枝理論と連結させて、それを補強することを意識して
実践したのではない、ということだ。この点、国語教育を論じる識者の中に
誤解して語っている人がいるので、両者の相違を明確に区別しておく必要が
ある。
 時枝の「辿り読み」という読み方理論は、彼の言語過程説から必然的に出
生してくる方法である。一方、林・山下の奈良小グループの一読主義読解法
は、垣内松三らの主張する形象理論や解釈学の三読法では子どもに読みの力
が育たないという切なる指導体験の猛反省から出生した読みの指導方法論で
ある。二つの出生の相違をはっきりと区別しておく必要がある。
 林・山下の奈良小の教師たちは、児童言語研究会に所属し、児童言語研究
会の会員たちと一緒に研究討議して、一読総合法を提唱している。当時の児
言研内部で、学校ぐるみの授業実践でリードしておったのが林・山下の奈良
小グループであった。
 わたしは、林・山下の奈良小時代から児童言語研究会に所属しており、児
言研の研究会に参加していた。わたしが児言研に入会した当時は、一読総合
法が提唱され始めたばかりの時期であった。その時分、わたしはまだ独身教
師であった。国語授業といえば、文章がすらすら読めて、漢字の書き取りが
できればよい、国語授業はいちばん難しいなあ、というような認識しかなか
った、そんな未熟な新米教師であった。児言研の研究会にはまじめに参加し
た。先輩教師たちから一読総合法の具体的な指導方法の多くを学んだ。
 そこでの児言研の話し合いでは、三読法否定(垣内松三の形象理論、石山
脩平の解釈学理論への反論)論議は盛んに語られていたが、時枝誠記の名前
が出ることはなかった。児言研の研究会は主に現場教師たちの会であり、一
読主義読解の具体的な指導方法、授業作りについての話し合いが主要なテー
マであった。児言研は民間教育団体の中でも実践家の集まりという評判があ
った。
 児言研の「一読総合法」と、時枝の「辿り読み」とは、直接に連結したも
のではない。また時枝誠記を継承・発展させたものではない。そのことは、
次の時枝の文章を読むと分かる。1964年に月刊雑誌『教育科学国語教育』
(明治図書)誌上で、特集「一読主義読解は実用主義か」が掲載された。林
進治が一読主義読解を提案し、幾人かの国語教育研究者が、林提案に対して
パネリストとして意見を述べている。意見者の一人として時枝誠記も参加し、
書いている。林進治提案に対して時枝誠記は冒頭で次のように書いている。

 林進治氏の「総合法による読解指導」を読んで、私が年来、理論的に追求
してきたことが、既に現場教師の立場からも、同じような問題が提出され、
実践されていることを知って、私の主張が、必ずしも架空の論でなかったこ
とを知って、力強く感じた次第である。(中略)
 林氏の、垣内方式に対する批判として打ち出された、この総合法は、でき
ない子どもに力をつけようとし、自ら読もうとする意欲を育てようとする現
場的願いに出発してゐるものであることが語られている。現場的経験のない
私の立場からする主張は、専ら文章並びに文章読解の理論の追求から出たも
のであって、林氏の提案と並べて、私の立場からする理論の成立の経緯を、
ここに明らかにすることは、国語教育において、理論と実践をからみあわせ
るためにも、必要なことと考える。
     『教育科学国語教育』63(1964年2月号、明治図書)16p


 時枝はこう書いて、つづけて自己の言語過程説から導き出される「たどり
読み」論や垣内松三の三読法批判について書き出している。
 上の時枝の文章から、「一読総合法」と「辿り読み」とが結果として同一
点があることを述べているが、時枝が林校長の奈良小に行き指導したとか、
児言研の研究会に時枝が参加して何度か講義したとか、意見を述べたとか、
そういう接点はないことが、上の時枝の文章で分かるはずだ。

 何度も書くようだが、「時枝は、読み方教育は、文章の辿り方を教える教
育だ」と書く。しかし、残念なことに、時枝の論はその段階で止まってしま
っている。これが時枝の「辿り読み」理論の弱点だ」と書いた。時枝理論を
現場実践で引き継ぐ教師たちがいなかったのが時枝の弱点となっている。こ
れが、日本の国語教育において大きな損失になっているとも言える。

 わたしが上で述べたような意見は、今回いろいろと調べていくうちに既に
幾人かの人々によっても語られていることが分かった。わたしのは二番煎じ
の茶でしかないことが、本稿を書くにあたり、いろいろと文献を調べていく
中で分かった。

 
林進治は、昭和41年(1966年)にこう書いている。
 時枝さんは、文章の読みとりにおける分析・総合の絶えざる相互作用の具
体的な姿、そのありようについてほとんどふれていません。このことの解明
こそは読みの成立過程を明らかにし、その能力をたしかめる鍵をひそめてい
ることを考えれば、たいへん残念なことです。
  児童言語研究会編集『国語教育研究8』(1966、明治図書)14p


 
輿水実(国立国語研究所員。国語学、国語教育学)は、平成2年(1990
年)にこう書いている。
 この両方の講座(注・『国語教育講座』刀江書院)に編者として顔を出し
ているのは時枝誠記氏と私である。時枝さんは全日本(注・全日本国語教育
協議会で出した明治図書の講座本)の講座には大乗気で、そのいわゆる「能
力主義」の普及に一生懸命だった。私はこの編集委員会で、「時枝さん、あ
なたの主張はなかなかいいが、いい実践家と結びつかなくてはだめだ。いい
実践家と結びつけば、あなたの言語過程説も実際になるが」といったことを
覚えている。
      
輿水実『昭和国語教育個体史』(渓水社、1990) 382p



              
付記


 本稿をWeb上にアップした二週間後、時枝誠記「たどり読み」指導を全校
あげて研究し発表した学校があることを知った。時枝「たどり読み」理論を
受け継いで学校一丸となって研究した著書があることを知った。それについ
て付記する。

姫路市立勝原小学校著『「たどり読み」の実践的研究』(黎明書房、1975)

この著書を読むと、この著書を刊行した当時(1975年、昭和50)の校長・大
西久一氏が研究をリードして全校教師が一丸となって研究し実践し、それを
まとめた労作のようである。
 大西久一校長は、昭和21年より広島高等師範学校付属小で26年間勤務し、
その後公立小学校に転勤した、戦前・戦中・戦後にわたる教師生活を送った、
と書いてある。師範学校を卒業した頃は形象理論、解釈学が華やかで、三読
法で授業したが、いっこうに子どもの読みの力が身につかない、「直観、自
証、証自証」とか「通読、精読、味読」でなく、「文章を層的に読み進める
よりも、文章を初めからたんねんに読み進めることによってこそ、読みは深
まっていくのではないか」という確信を抱くようになり、そこから時枝理論
の「たどり読み」指導の研究に接近した、と書いてある。
 この点、大西久一校長と、既出している林進治校長(横浜・奈良小校長)
とは、同年代であり、経歴も似ているし、国語教育観も似ている。国語教育
畑で研鑽を積み重ねてきて、形象理論、解釈学に疑問を抱き、それを批判す
る形で通読を重視する読解指導を主張する点でも似ている。
 大西久一は、この著書の「まえがき」で「わたしが「たどり読み」の研究
をしてみようと思ったのは、皮肉にも時枝博士が亡くなられたからのことで
ある。」と書いている。つまり、時枝誠記が勝原小学校に来て授業参観をし
て感想を述べたり指導助言をしたりしたとか、「たどり読み」の講義を勝原
小の教師たちに授けたということはなかったということである。時枝誠記と
勝原小学校の教員との直接の接触はなかったということが分かる。勝原小の
教師たちが、時枝「たどり読み」理論の論文を読んで、そこから「たどり読
み」の実践開発の指導研究を進めていった、勝原小教師たちによる独自な
「たどり読み」理論の現場的適用の教育実践であったということである。
 勝原小の「たどり読み」授業の特色の一つに下記のような指導法があると
書いている。

 たどり読みの指導は「題目読み──冒頭読み──展開読み──終末読み」
という過程を追い、それは「屈折読み──ひろげ読み──まとめ読み──予
見読み」という実践操作を通して展開される。子どもたちの読みとりの発表
もこうした過程や実践操作に即してなされる。
        勝原小学校著『「たどり読み」の実践的研究』205p

 
 この授業展開の指導例を読むと、一読総合法とはかなり違っていることが
分かる。どこうがどう違って、どこが同じなのかは、この著書を読んでいた
だく以外にない。ここで勝原小学校の「たどり読み」授業の実際を紹介する
つもりはない。にわか勉強でまちがった紹介をしてしまっては勝原小学校に
申し訳がない。
 ただし、この著書の198ページに「一読総合法と、どうちがうのか」とい
う大見出しの文章個所がある。そこには勝原小の立場からみた一読総合法の
把握の仕方が書いている。それを紹介して、わたしのコメントを付け加える
ことにしたい。
 そこには、こう書いている。

 たどり読みは時枝博士のいわゆる「言語過程説」に立つものであり、一読
総合法は第二信号系理論をよりどころにするものである。したがって両者の
ちがいはその言語観の相違にある。……しかし、問題は、こうした言語観の
相違が「読むこと」の指導上に、どのようなあらわれ方をするかということ
である。……一読総合法は「部分→部分→」と読み進めて「全体」にいたる
ということになる。これに対して「たどり読み」は、「部分から部分へ」と
冒頭から順次読み進める限りでは変化はないが、その「部分」はいつも「全
体」とのかかわりにおいて問題にされている。すなわち、いつの場合でも、
部分の読みとりは、全体をふまえて進められるということである。これを主
題や要旨の読み取りについていえば、前者は「分析⇔総合」(つまり、右向
き→、左向き←、との相互に両方向矢印の往復)の読みの繰り返しによって
主題・要旨は最後におのずと読みとられるべきものとの立場であるが、後者
では「文章は表現意図(主題)の展開である」との立場から、読みとりの最
初から問題にする。
勝原小学校著『「たどり読み」の実践的研究』199ぺ

【荒木のコメント】

 両者は言語観が違っている、その通りである。これについてはわたしも時
枝と児言研の言語観の相違について前述している。
 わたしの考えでは、勝原小と児言研では、具体的な授業過程、つまり、思
考操作や話題の取り上げ方による授業の進め方では違いはあるが、「部分」
と「全体」との関連指導・順次読み進めていき、弁証法的に読み深める指導
展開をしていく点では違いはないと思う。一読総合法も、勝原小の「たどり
読み」の場合も、「いつの場合でも、部分の読みとりは、全体をふまえて進
められる」という指導方法では全く同一である。この点では勝原小は一読総
合法を誤解している。ただし、時枝は「文章の冒頭から読みは始まる」と繰
り返し書いているが、一読総合法は「題名読みから読みは始まる」という点
では違っている。
 また、勝原小は「文章は表現意図(主題)の展開である」との立場から、
これを読みとりの最初から問題にする」と書いている。一読総合法は、最終
的には「表現意図(主題)」を把握し、それの展開過程を把握することに主
目標をおかない。「表現意図(主題)」の把握、それの展開過程の把握で終
りとしない。一読総合法は、順次読み進めながら、語や句に鋭く反応しつつ、
場面を表象豊かに話し合い、くわしく話変えたり、みじかく話変えたり、入
り込んで話変えたり、こうして場面をありありと思い浮かべたり、感想意見
だしをしたり、先を予想したり、具体化したり抽象化したり、全体プランを
予想しながら部分を位置づけたり、部分の副題をつけながら読み進んだりし
ていく。過去をふり返りつつ、先を予想しつつ、現在を読み深めていく授業
を進めていく。

 また、勝原小は一読総合法についてこうも書いている。

 「一読総合法」と「たどり読み」とのもう一つのちがいは、前者では「基
盤過程・基礎課程」を設け、ここで発音、文字、語い、文法をとりたてて指
導するのに対して、後者では文章の読み進める過程で指導することを原則と
する。
 (A)読みとりに入る事前の指導
 (B)読み進める過程での指導
 (C)読みとりの終了後の指導
 以上は「読みとりの基本的立場」と「言語要素指導の面」からの問題にし
たわけだから、その他の相違も認められよう。……
 「たどり読み」と「一読総合法」とは、どこがどう違うのか、を問題にす
るよりも「読みとりのあるべき指導」を求めて、その実践理論を構築するの
がわれわれの立場であり使命であろう。根拠にする言語観によって指導法が
左右されるとはいえ、そのこと自体が問題ではない。
       勝原小学校著『「たどり読み」の実践的研究』199ぺ


【荒木のコメント】

 「一読総合法」では、文法指導のとりたて指導を提唱している、その通り
である。勝原小では、とりたて指導でなく、読み指導のあらゆる場所(事
前・事中・事後)で指導していくという立場である。ここは大きく違ってい
る。勝原小の著書の中に、言語要素の指導内容としてどんなものがあるか、
著書の中に学年別の大まかな指導内容や指導方法を書き入れていただくと、
後続する研究校や教師たちに大きな参考になったと思う。また、時枝文法と
の連関も示していただくと参考になったと思う。
 勝原小は最後に「根拠にする言語観によって指導法が左右されるとはいえ、
そのこと自体が問題ではない」「読みとりのあるべき指導」を求めて、その
実践理論を構築するのがわれわれの立場であり使命であろう。」と書いてい
る。最後の締めくくりのご挨拶文であるから、どうこう意見を申し上げるの
は野暮というものだろう。素直に黙って丁重に聞き入れるのが紳士というも
のだろう。が、一言だけ、言語観の違いによって、あるべき実践理論の構築
が大きく違ってくる、ということを忘れてはいけないだろう。


         このページのトップへ戻る