暗誦の教育史素描(12)        08・06・18記




 明治20、30年代における暗誦教育・補遺





     
教育勅語の暗誦が始まった時期はいつか?


  いつの頃から教育勅語の暗誦教育が始まったのだろうか。
  前稿と同じに、鈴木理恵『教育勅語暗記暗誦の経緯』(長崎大学教育
学部紀要ー教育科学ー56、47〜61(1999)からの引用をさせていただきな
がら書いていくことにします。
  教育勅語は明治23(1890)年10月30日に発布されました。直ちに
学校教育においてそれの暗誦教育が始まったわけではありません。
  教育勅語の暗誦教育が法律として定められ、学校教育に強制的に暗記暗
誦するように定められたのは勅語発布から二十年後を経てからのことです。
  これについて鈴木理恵氏は次のように書いています。

ーーーーー引用開始ーーーーーーー
 
 明治43年5月「師範学校教授要目」、明治44年7月「高等女学校及
実科高等女学校教授要目」および「中学校教授要目」で、教育勅語について
「勅語ノ全文ニ就キテ丁寧慎重ニ述義シ、且之ヲ暗誦暗書セシムヘシ」と定
められ、師範学校や中学校・高等女学校における教育勅語の暗誦暗記が義務
づけられた。また、明治43年3月発行の第二期国定修身教科書では、教育
勅語を児童に浸透させるための改訂がなされた。すなわち、第一期の修身教
科書では尋常小学修身書第四学年・高等小学修身書第二学年・同第四学年の
巻末に教育勅語の全文(傍訓なし)をのせていたが、第二期においては尋常
小学修身書巻四の巻首に勅語の傍訓付き全文を載せ、巻五と巻六のそれぞれ
の巻首には傍訓を省いた勅語を載せた。また、第一期修身教科書では勅語の
意味説明がなかったが、第二期では尋常小学修身書巻六の最後の三課が勅語
の大意にあてられた。
  上記のような暗記暗誦普及の諸施策を学校現場に徹底させるのに一役
かったのが視学制度であった。明治44年8月発行『内外教育評論』5−8
誌上の一教員の報告によれば、一学期に一、二回の視学巡視があって、視学
の多くが教育勅語の暗記暗誦の考査をしてその成績で学級を判定するので
「浅薄無定見なる教育者は、畢生の努力と忍耐とを以って生徒に強制するこ
とを当然に有之、生徒も亦汗を流して之に従ふ。能はずんば放課後の練習と
なり、遂に怒声と変じ、嘲罵と化す」といった状況になったという。同誌上
で三浦修吾も「諳誦させよと、上よりの命令があると、思想のない下々の教
員は、何事をさしおいても先ず諳誦させることに務め、郡視学などの前で、
児童が立派に諳誦することが出来れば、それで我が事成れリと思うやうにな
るものである」と述べている。……昭和5年に発行された『修身訓練の諸問
題』(大正12年初版)のなかで佐々木秀一(東京高等師範学校教授兼主
事)は「嘗て勅語の暗誦が同時に御主旨の徹底であると解する人が多くあっ
て、例えば、県或いは郡の当局の人々も学校視察の折にはその所管部内の学
童に勅語の暗誦解釈等を試みその結果によってこの御主旨の徹底して居るか
否かを定めようとした人もあったとかで、随分喧しい議論が交換せられたこ
とがあった」と過去を振り返っている。「諳誦諳記の如何によりて学校の全
般をトせんとする」視学や校長がいたために、教師たちが児童に教育勅語を
暗記暗誦させようと躍起になっていた当時の様子が窺える。

ーーーー引用終了ーーーーーーー

【荒木のコメント】
  明治43年には師範学校、明治44年には高等女学校、実科高等女学
校、中学校に、それぞれの学校に教育勅語の暗記暗誦をさせる教育をすべ
し、と法律で定められました。
  小学校については、法律による規定はなかったようです。しかし、小学
校教育においても上級の学校に右へならえで、暗記暗誦は幼少年期からがよ
い、ということからでしょうか、視学官が各小学校へ年に一、二回ほど巡視
に来て、その学校の評価をします。学校評価は、児童が教育勅語の暗記暗誦
ができているかどうかの採点基準で評価したということです。
  教育勅語の論旨・趣意は外において、それはどうでもよく、ただがむ
しゃらに児童に暗記暗誦を強要するだけ、ひたすらに機械的な棒暗記を強要
するだけ、暗誦ができない、覚えのわるい児童には「放課後の練習となり、
遂に教師が怒声と変じ、嘲罵と化す」といった指導状況になったということ
です。
  こうしたことが教育勅語の暗記暗誦の教育を歪んだものにしていくこと
になります。教育勅語の暗記暗誦の是非論議が盛んになったわけです。

  教育勅語は明治23年に発布されました。師範学校、高等女学校、実科
高等女学校、中学校に暗記暗誦教育が法律として定められたのが明治43、
44年です。そのあいだの期間、明治23年から43年までのおよそ20年
間、教育勅語の暗記暗誦の教育はどうだったのでしょうか。
  これについて、鈴木理恵氏は、正宗白鳥、山川均、生方敏郎、和辻哲郎
の四氏の個人的体験の例を出して、次のように書いています。

ーーーー引用開始ーーーーーー
 
 正宗白鳥は明治22年に小学校高等科に入学している。「教育勅語は、
私など小学生として暗誦させられた。今なおすらすらと吟唱し得るぐらいで
ある。私は記憶がいいというので、教師から教えられた勅語の解説を教壇に
立って口真似させられたこともあった。」というのは、小学校高等科での経
験であろう。
  山川均は明治20年に尋常小学校に入学し、4年生の天長節から校長に
よる教育勅語の奉読を聞き始め、「意味は分からぬままに、とにかくチンオ
モウニからギョメイギョジまで、いつのまにか暗記してしまった」という。
  生方敏郎は「明治24年ごろ、畏き辺りから全国の小学校に御真影を教
育勅語と共に下賜された。そして三大節の祝日の式を開く初めに、校長は恭
しく勅語を朗読するのが例になった。……私たちはいつしか教育勅語を暗記
し、どこでも暗誦できるようになった。おぼろげながらその意味も分かっ
た」と書いている。
  和辻哲郎(明治22年生まれ)は「わたしの村の尋常小学校は、「君が
代」をさへ歌わない学校だったのであるから、御真影などもなかった。しか
し、教育勅語の奉読は聞いた覚えがある。勅語の文句もおにずから耳慣れた
ものになっていたと思う。無論、その文句を暗記させられたりなどはなかっ
た」と書いている。
  正宗を除く山川・生方・和辻の三氏に共通するものは、校長による勅語
奉読を聞いているうちに「耳慣れたもの」になり、「いつのまにかあんきし
てしまった」のであって、教育勅語の暗記を学校側から奨められた、あるい
は強制されたわけではなかたという点である。

ーーーー引用終了ーーーーーー

【荒木のコメント】
  正宗白鳥は、高等科において「教育勅語は、暗誦させられた」と書いて
います。正宗白鳥の高等科入学は明治22年ですから、23年の勅語発布か
ら1年か2年あとに勅語の暗誦教育を受けたことになります。勅語発布の直
後ということになります。
  山川均は、学校儀式における校長の勅語奉読を何回か耳にしているうち
いつのまにか勅語を暗記暗誦してしまった、と書いています。山川均が尋常
小学校に入学したのが明治20年ですから、4年生の天長節から校長の勅語
奉読が始まったとあります。つまり、明治24年から校長の勅語奉読を耳に
しており、いつのまにか勅語を暗記暗誦してしまいました。
  生方敏郎は、山川均と同じに学校儀式で校長の勅語奉読を何度か耳にす
るうちに暗記暗誦してしまった、と書いてあります。    
  和辻哲郎は、校長の勅語奉読は聞いた覚えはあるが、その文句を暗記さ
せられたことはなかった、と書いてあります。
  
ーーーー引用開始ーーーーー
 
 明治30年代初めまでに小学校時代を過ごした正宗、山川、生方、和辻
のうち正宗を除く3人に共通するのは、校長による勅語「奉読」を聞いてい
るうちに教育勅語が「耳慣れたもの」になり、「いつのまにか暗記してし
まった」のであって、教育勅語の暗記を学校側から奨められた、あるいは強
制されたわけではなかったという点である。
  しかし、学校によっては早くから児童に勅語の暗記をさせていたところ
もあったようで、石川県江沼郡江沼小学校は明治26年に「勅語ノ主旨ヲ貫
徹スルコトニツキ講究実験シタル事項」として「児童稍文字ノ知識アルニ至
レバ勅語ヲ暗記セシムルコトトナス、然ルトキハ勅語全体ニ就テ説話ヲナス
ニ当リ大ニ其便益アルヲ覚ユ」という報告を行っている。

ーーーー引用終了ーーーーー

【荒木のコメント】
 これらの引用から考えるに、地方地方によって、または学校学校によっ
て、教育勅語の暗記暗誦の教育がまちまちであったことが分かります。
 小学校においては「暗記暗誦の指導をせよ」という、文部省筋からの通達
はなかったようです。が、当時の教育状況からして、教育勅語は暗記暗誦ま
で指導をしてもよい、したほうがよい、のぞましい、というような、そう
した雰囲気や空気があったことは確かです。そうしたエピステーメーを教師
達はそれとなく感じ取って教育勅語の暗記暗誦の教育に積極的な態度をとっ
た学校(教師)、または消極的な態度をとった学校(教師)、または無関心
な態度をとった学校(教師)、さまざまだったと想像できます。
  こうした教育状況を経過した20年後には、師範学校、高等銃学校、中
学校において教育勅語の暗記暗誦の強制教育が法律の規定のもとに指導され
ていくことになります。こうした当時を支配していた道徳律は、フーコー流
にいえば非理性と狂気との共犯関係を胚胎していたということになります。



       
教育勅語の暗誦教育を受けた体験談


  教育勅語の暗記暗誦の教育は、昭和20年8月15日の敗戦の日まで継
続していったことは言うまでもありません。
  。教育勅語の暗記暗誦の強制教育は、各学校ではどんな風に指導された
のでしょうか。子ども達は喜んで暗誦教育を受けたのでしょうか。授業風景
はどんな様子だったのでしょうか。実際に指導を受けた人々のなまの声を聞
いてみたいなあ、と思いました。
  それでウェブサイトで「教育勅語 暗誦 暗記」と書き入れて、検索し
てみました。いくつか見つかりましたので、以下に引用しています。ウェブ
サイトのブログでは、ブログ管理者・記入者の氏名が、記入してなかった
り、ハンドルネームであったり、詳細なプロフィールがあったり、さまざま
でした。そこで本稿では、ブログ管理者・記入者の氏名だけを掲載して、職
業や年齢やその他の紹介はいっさい省略することにしました。
  ブログのみなさんの文章は、長い文章、短い文章、いろいろです。みな
さんの文章を読むと、教育勅語の暗記暗誦教育の教室場面が、どんな授業を
受けていたかがよく分かります。教育勅語の暗記暗誦の教育を受けた体験談
とはいっても、一様ではありません。みなさん、ばらばらで、その想い出と
重なっている価値感情も、ひとり一人が違っています。
  みなさんの文章を読んで、小学校4年生から教育勅語の「暗記暗誦」の
指導が開始されていた、ということが分かります。
  最後部の山中恒さんの文章は、彼の著書からの引用です。ウェブサイト
からのものではありません。


 
中村茂隆さんの体験談
 明治23年(1880年)10月30日から昭和20年(1945年)8
月15日まで、日本には「教育勅語(「教育に関する勅語」)」というもの
があった。
 先に述べた「四大祝祭日」(「宮城遥拝・四大節・日の丸」参照)の小学
校における式典行事の中心は、校長先生による「教育勅語」の「奉読」で
あった。天皇の言葉を代読するということで、これを読み違えた校長先生が
切腹自殺なさるという悲劇まで起こった。
 「教育勅語」は3年生までは聴いていても呪文のようなもので、皆目理解
できない。4年生の2学期になると、全員がこの全文(以下に示す)を暗誦
しなければならない。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣
民尭ク忠ニ尭ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ
精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和
シ朋友相信ジ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓
發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦
緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕
カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古
今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其
徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御?

 もちろん明治天皇が直接書かれたものではなく、政治家に国文学者・漢文
学者が協力して作り上げ、「天皇のお言葉」として発布したのである。
原文は上記の通りで、句読点・濁点は省かれ、送り仮名は旧い型である。天
皇の「お言葉」なので振り仮名は使われていない。このままでは小学校4年
生に読めるわけがない。当然先生の指導の元に仮名を振って暗誦したのであ
る。この度60年ぶりに出してみたが、あの時必死で暗誦したおかげで、全
文振り仮名なしでも読めたのには驚いた。
暗誦の成果を発表する時間が来る。先生が教室の一隅から順番に指名してゆ
く。起立して暗誦するが、途中で言葉を忘れ立ち往生すると、立たされたま
ま、順番は次へ移ってゆく。一回では終わらず、全員が勅語全文を暗誦でき
るようになるまで何日も繰り返される。
立たされては不名誉だというので、暗誦する日の前夜には、両親の前に正座
して、予行演習が行なわれ、完全に暗誦できるようになるまで、両親も徹底
して付き合ってくれた。
勅語の内容について、先生から一通りの説明はあるが、子供達にとって意味
は二の次、一にも二にも暗誦である。だから「教育勅語」の内容や発布され
た意味が分かったのは,戦後になってからで、その時には「教育勅語」の存
在は無効になっていた。
 ただ、最近会った高校時代の級友で熱心なクリスチャンが、昨今の世の乱
れは「教育勅語」がなくなったからであり、これを復活させるべきだと真剣
な顔で言ったのが印象に残っている。今問題になっている「教育基本法」は
「教育勅語」に代わるものとして作られたと聞く。今回それを「見直す」と
いうのは、その内容を「教育勅語」に近づけるということだろうか。ここで
は、その議論は止めておく。
 ところで、「勅語」の冒頭の「朕惟フニ」は「チン思うに」と読む。朕は
当時、天皇自身が自分のことを言う時に使った一人称の代名詞である。それ
は男性の大事な個所の愛称と音が同じで、男の子にとっては大層身近なだけ
に、妙に気になる音である。それゆえにこの文節に対する不謹慎なパロ
ディーがいくつも誕生し、瞬く間に男の子の間に広まった。当時それは明ら
かに「不敬罪」に該当するようなものであったが、私達はそれが男の子同士
の世界以外には絶対漏れないという不思議な確信をもっていたから、暗誦で
きずに立たされた子も、一回で合格した優等生も、ともに笑い転げて愛唱
し、そのことによって、暗誦の重苦しい緊張から解放されたのであった。
因みに当時、3年生以上は男女別の学級編成だったから、女の子はこのパロ
ディーを知らないと思う。
              
 過日、母校・東京藝術大学音楽学部同声会兵庫支部の総会に出席、その後
の懇親会で、昭和19年(1944年)卒業の大先輩N先生(女性)のお隣
に座り、戦争末期の東京、卒業してすぐに高等女学校に勤務された時代の神
戸の様子などを詳細に伺った。
 話の流れから教育勅語が話題になった時、N先生は物凄いスピードで、教
育勅語を一気に暗誦された。この勅語を暗誦した最後の世代に属する私は、
どこまで思い出せるか試してみたくなり、先生に「もう一度ゆっくり」とお
願いして、その後についていった。戦後の日本ではタブーである教育勅語
の、さらに問題の個所になると、先生は内緒話をするように手で口をおお
い、声を落としてそらんじられ、その仕草がとても可愛らしかった。
 続いて神武天皇から昭和天皇まで124代の天皇名(私も暗誦した記憶は
あるが、ほとんど思い出せない)を、これまた「立て板に水」で暗誦なさる
のだが、「継体(第26代)」の所でピタリと停められ、「ここで一旦途切
れますでしょ」と至極当たり前のことのように言われたのには驚いた。天皇
家の血統が「万世一系」ではないという説をご承知なのだ。
 その先生が「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己
を持し、博愛衆に及ぼし・・・って、今でも通用するわ。何にもおかしいこ
とない」とおっしゃった。
高校時代の同級生で熱心なクリスチャンであるN君が、最近のモラルの低下
は教育勅語がなくなったからで、これを復活させる必要があると、真剣な顔
で訴えたのを思い出す。
さらにN先生が「一旦緩急あれば義勇公に奉じ・・・これも当たり前のこと
よね」と言われ、虚をつかれた私は絶句した。
 以上の話は、あの戦争を体験した現在70歳以上の人たちには通じる(N
先生・N君の意見に賛否両論あるとしても)が、戦後生まれの人達には何の
ことかチンプンカンプンで、関心のもちようがないかもしれない。
しかし戦後、教育勅語に代わるものとして、1947年(昭和22年)に教
育基本法が制定され、その見直しが現在大きな問題になっていること、中で
も「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の個所は、もっとも問題になっている
「愛国心」と深く関わる個所である。
当時、意味も理由も分からず、教育勅語(小学4年生で)、や歴代天皇名
(5年生で)を暗誦させられ、今頃になって、その意味や理由を考えている
70歳以上の者達の一人としては、戦後生まれの人たちに、まず「ありのま
まの戦中」を知ってもらうこと(これ自体、大変難しいことなのだが)、憲
法・教育基本法の見直しに関する議論は、その上で、自分自身の意見と判断
をしっかりもって、自由にやっていただきたいと思わずにはいられない。
 私は日ごろから小学校高学年以上の児童・生徒には「君が代」の歌詞の意
味を教えるべきだと考えている。その上でこれを国歌と考えるかどうかは、
子供達の判断に任せたらよいし、必要なら討議させたらよい。



★新川美耶子さんの体験談
   新川美耶子は、教育勅語を暗記させられた世代である。「神武」から始
まる天皇の名前も代順に暗唱できる。彼女が小学生だった頃は、1人ずつ校
長室に呼ばれて、校長と教頭の前で暗唱する試験があったのだ。第二次世界
大戦中には、親元を離れる「疎開」も経験した。  ブログ「季節風」より


★志村幸雄さんの体験談
  多田姓の私の実父は、北海道の道東地区で生涯を教職に奉じた。
小さな学校が多かったので、「校長」のオヤジから直接教わることも珍しく
なかったが、その印象を一言で言うと、子どもの教育、なかんずく自分の子
どもには、たいへん厳しかったこと、小学校の腕白仲間が教室の掃除をさ
ぼったり、何か悪さをする。それが露見すると、罪状認否(?)もそこそこ
に、よその子どもを叱る前に、まず自分の子どもの私を叱る。それもたいて
いの場合は、かなりちからのこもったゲンコツが飛ぶ。戦後の民主主義教育
の中では想像もつかないような"軍国主義的教育"の実践者だった。
 そんなオヤジに終身を教わったのだから、たまらない。終戦の年に小学校
の4年生だった私は、教育勅語の暗誦を怠って大目玉をくらったものだ。歴
代天皇の名前の暗誦の場合もそれは同じで、これまたオヤジの監督の下、家
で泣き泣き暗記に努めたのを今でも覚えている。私は、日本に独創開発が乏
しいのは詰め込み主義教育にあり、と信じてやまないが、その原点は案外、
戦時中のこの種の教育にあったのかも知れない。
 戦時下といえば、当時の小学校には、その規模の大小を問わず、校庭の一
角に奉安殿があり、そこに天皇・皇后の写真(いわゆる御真影)や教育勅語
が安置されていた。何か式典があるごとに、校長が鉄の扉を開け、両手で高
くかざしながら式場に運び出すわけだが、オヤジはこの管理や取り扱いに殊
のほか神経を使っていた。なんでも近隣の小学校の校長が、奉安殿の階段を
後ずさりする際に転倒し、御真影を放り出すという一件があったのだそう
だ。「不敬罪」という懲罰があることを子どもながらに知ったのも、この時
である。


★比屋根麻里乃(沖縄タイムズ社会部記者)さんの取材執筆
  学校では修身の時間に毎回、一人一人教育勅語の暗唱をさせられた。
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ…」と、天皇のために尽くすことを教える文章を
抜き出して意味を書かせる試験や、神武天皇以降の歴代百二十四人の暗記確
認などがあった。
 「天皇陛下」。授業や講話で教師が口にすれば、児童はいかなるときも瞬
時に起立しなければならない。ちょっとでも遅れたり、直立不動の姿勢を崩
すと、ビンタやチョークが飛び、叱責された。「下手に疑問を持ったら先生
に殴られた。生徒同士も監視し合って、『起立の時、動いていた』などと先
生に告げ口した」

 教える立場だった北城さん自身、「天皇陛下」という語を聞くと、今でも
背筋を伸ばしてしまう。「子どもたちは素直でした」。戦前の教育のことを
思うと、北城さんの胸はうずく。

 少しでも統制を乱す者に下される厳しい制裁と監視体制が、物を言わない
「天皇の赤子たち」を育てていった。(社会部・比屋根麻里乃)
沖縄タイムス 2006年6月18日朝刊24面


関良知さんの体験談
  教育勅語をうまく暗記できないと相対でビンタ。


★上月保孝さんの体験談
  私は1年生のときは神戸の鵯越小学校に入学したんですけども、2年生
のとき12月に帰りました。一番びっくりしたのは、これは私らの年代やと
ご存知やと思うんですが、集団登校すると、5年生に連れられて校庭へ入り
ますと、奉安殿いうのがあったんです。そこでまず最敬礼をして、教育勅語
を暗唱するわけですね。いわゆる、「朕思うに・・・御名御璽」。それを言
えなかったら、教室へ入ってまた天皇陛下の御真影の前でやるんです。国会
にいる先生方は涙流して喜んでると思うんですけれども、これは学童期の暗
唱力、暗記力に非常に役に立った。私は、そういうふうに思うんです。とい
うのは、暗唱ができなかったら、家に帰らせてもらえない。暗くなるまで帰
らせてもらえないので、親が何キロもの道を歩いて迎えに来ますよね。そし
たら先生が、「そんな非国民なことでどないすんねん、これからの教育はこ
れやと。」教育の内容は悪かった。しかし私は低学年の暗記暗唱については
非常に力がついたんやないかという印象を今でも持っております。


★【白塚小学校百年史】より
  明治23年(1890)10月30日、明治天皇は教育勅語を出されま
した。この勅語には国民の教育についての考えや毎日の生活の中でまもらな
ければならないきまりが書かれていてこれ以後の教育のもとになったもので
した。
 このあと明治25年(1892)に天皇の御真影が小学校に与えられて、
教育勅語といっしょに奉安殿という部屋にしまわれていました。そしてお正
月や紀元節、天長節には校長先生の手でうやうやしくとり出されて御真影に
最敬礼しました。教育勅語が読まれるのを頭をさげてききました。むつかし
い文章でしたが子どもたちは暗記し、週に1度朝礼のときに1人ずつ暗誦させ
られました。


★高志さんの体験談
  母は如何贔屓目に見ても半分ボケて居るが、教育勅語は大体覚えてい
る。この年代の人は大抵そうだ。完全に暗誦出来る人も珍しくない。頭の柔
らかい小学校低学年の時に教え込まれたからだろう。
 私なども「こうそ、こうそう」が「皇祖皇宗」である事を知ったのは高学
年になってからで最初は丸暗記であった。意味など分からないままだ。
 教育勅語には必要な事柄は皆記載されている。君には忠義を尽くせ。親に
は孝行せよ。兄弟仲良く、夫婦は睦み合い、友達を信じ、若し国に一大事が
起きた時は馳せ参じよ、と事細かに教えている。これだけ具体的に書かれて
いたら教える方も教えられる方も良く分かったのだろう。
 その難解な文章に比べて「教育基本法」は平易である。僅か11条の短い
法律で60年間もこの国の教育が行われて来たのかと思うと不思議な気さえ
する。


zenmzさんの体験談
   その戦争の時代の3年8ヶ月、11歳から15歳の少年期を過ごした私
は、”疑うことを知らない”「軍国少年」でした。もう少し、正確に表現す
るなら”疑う事を許されなかった”時代の子でした。その期間、私たちは、
学校で何を習ったか? どう生きよと教えられたか? 戦前の「教育基本
法」は、「教育勅語」です。これは全員、丸暗記。正確に覚えないと殴られ
ました。しかも、教師は、「天皇陛下に代わって不忠を罰す」と理由付けし
ました。
  そして授業。11歳から15歳の小学校上級生、中学生の4年間、同じ
ようにたたき込まれました。
  教室に入ると、先ず、第一時限目は、履修科目を問わず、必ず次の訓話
で始まります。
  ”オマエたちは天皇陛下の赤子(せきし) 天皇陛下のお恵みによって、
こうして勉強させていただいておる。そのご恩に報いるため、天皇陛下のお
ん為に死ぬ、それがオマエたち軍国少年の忠義の道だ”
  ”天皇陛下は現人神(あらひとがみ)であらせられる。毎朝、遙拝を”
 何処の家でも「御真影」を掲げました。それがないと、「非国民」のカゲ
口が取り囲みました。
  私は、陛下に忠実な「軍国少年」 天皇陛下の赤子でした。本土決戦を
前に「ヘニコソ死ナメ」(陛下のお側で命を捧げる) 自分の使命を疑いま
せんでした。15歳の決意は、「忠義とは死ぬことと見つけたり」でした。
  更に学徒動員と同時に「戦陣訓」を叩き込まれました。軍需工場に配属
され、毎朝、それを唱えます。暗誦していたその原文を見るとき、14,5
歳のわが身が、よくぞ、このような文語体を読みこなしたものだと、怪しむ
思いがします。しかし、それは、「軍国少年」の血をたぎらせる覚せい剤に
なったことは確かです。
  事実、沖縄では、多くの女子挺身隊員が、この命令に従って自決しまし
た。「名を惜しむ」の命令に従ったのです。もし、本当に本土決戦になって
いたら・・・・私たちも多分、自決したことでしょう。当時は、それが”報
国の美学”でした。
   恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待
に答ふべし。
   生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
  「いよいよ本土決戦」
  敗色が誰の目にも明らかになった昭和20年春、学徒動員で軍需工場に徴
用された私たちが久しぶりに学校に集った時、校長先生はこう訓辞しまし
た。
  「肉を切らせて骨を断つ。これがゲリラ戦の極意だ」
 そして、校庭に土嚢を積み重ねて作られた臨時射撃場で小銃の実包訓練を
受けました。強い反衝撃でひっくり返る者も出ました。
  自らの意思を持つことも、疑うことも許されずに軍需工場で働き、竹槍
訓練にセイを出す。お国のために滅私奉公。それが11歳〜15歳の4年
間、私を支配した日常生活でした。その”奴隷的根性”を拭い去り、自らの
目で見る主体を取り戻したのは、皮肉なことに”鬼畜米英”が行った蛮行で
した。きっと吹く神風は遂に吹かず、学童疎開で”避難した”先、広島で待
ち受けて居たのは原爆でした。
             blog彷徨人生……喜寿から傘寿へ by zenmz



★久坂葉子さんの体験談
  紀元二千六百年というはなはだにぎやかな年が来た。提灯行列や花電車
やいろいろな催しがほとんど年中行われた。何故こんな御祭さわぎをするの
か子供心に不思議であった。私にとって、二千五百九十九年も、六百年も大
差なかった。年を一つとっただけであり、数字嫌いな私には、何年か、何日
かということさえ、面倒なことであった。
  四年生になると、男女別々の組になった。そのことが何だか大人の一歩
手前まで来たように思われて胸がときめいた。アリーと同じ組になれるよう
に、私は毎日神様にお願いし、それがかなえられた。二学期に私は級長に
なった。そのことが又私を英雄気分にさせた。分列行進というのが毎週のよ
うに行われ、組の先頭にたって行進し、カシラーミギをかけた。唯一つ、こ
の役目で辛いことがあった。それは、べんとうをたべる前に、教壇へたち、
勅語や教訓を級友達に先だって大声でそらんじることであった。私は、暗誦
がちっとも出来なかった。その頃、未だ九九がすらすらと云えなく、減算な
ども十指を使っている位だったから、長い勅語など、到底覚え切れなかっ
た。私は短い、孝経の抜萃や明治天皇の御製ばかりをとなえていた。ある
日、先生から、青少年にたまわりたる勅語や教育勅語もするように命ぜられ
た。私は口だけ動かし、皆の大声で唱えるあとから、チョボチョボついて
いった。それが堪らなく私の気持をかなしませ、家へかえって一生懸命暗誦
ばかりしたが仲々覚えられなかった。


★鎌田純一さんの体験談
  伊勢の小学校のことであったが、毎月三十日には朝礼はなく、一時間め
の前に、各学級ごとに、担任が「教育勅語」を奉読、そのあとそれに関連し
ての講話をし、毎月十日には同様、「国民精神作興ノ詔書」を奉読、あとそ
れに関連しての講話をすることとなっていたが、これらより大きなものをう
けていた。
  四年生の時には、「教育勅語」を暗誦させられたが、五年生では、暗誦
するだけでなく、それを見ずに一字一句間違えることなく謹書できるように
進められ、私を含めてクラス何人か出来るようになった。「国民精神作興ノ
詔書」は大正12年、すなわち私どもの生まれた年に賜った詔書であり、身
近な詔書とうけとめさせられていた。
  三重県立宇治山田中学校へ合格、入学式のあと、すぐに神宮に参拝、そ
れより事あるごとに隊伍を整え神宮参拝したが、大前で「天蓋無窮ノ皇運ヲ
扶翼シ奉ル」と口中と唱えるよう教育された。少年時代、伊勢で皇国民たる
べく教育されたのである。


★山中恒(児童文学作家)さんの体験談
  国民学校時代の教育で思い出すことは、むやみやたらに暗記暗唱させら
れたことである。これは、私が中学校への進学希望者だったために、しつこ
くやらせられたのかと思ってもみたが、やはり私の記憶のなかには、宿題で
やらせられた暗唱がうまくいかずに、殴られたり、立たされたりした級友の
顔がある。
  よく、私より若干年長の人が、歴代天皇の名前を「神武・じんむ、綏
靖・すいぜい、安寧・あんねい、懿徳・いとく、孝昭・こうしょう、孝安・
こうあん、孝霊・こうれい、孝元・こうげん、開化・かいか、崇神・すじん、
……」とやらされたという話をするが、私たちのときはなかった。これは、
「御歴代天皇を呼び捨てにすることは不敬である。もしやるなら、第一代神
武天皇、第二代綏靖天皇……」というようにやるべきであるという、おえら
いさんの意見があったらしく、私たちも担任自身の口から、それを聞かされ
た。
 そして、私たちは、もっぱらチンオモフニで始まる「教育勅語」やコクホ
ンニチツカで始まる「青少年学徒ニ賜リタル勅語」及び「天壌無窮の神勅」
「五カ条ノ御誓文」あるいは神武天皇の「即位の詔勅」などというのを暗記
させられた。幼い子ども達に、どうして、あのようなしちめんどうくさいも
のを暗記暗唱させたのか、その真意はわからないが、根拠もなくやらせたわ
けではなかった。
  というのは、文部省の通達で1940年(昭和15年)の中等学校入試から、
筆記試験による学力選考を廃止して、内申書・口頭試問による常識試問・人
物考査・身体検査にせよということになったからである。そこで、入試の際
の口頭試問で、「神武天皇がお示しになった肇国(はつくに)の精神とはな
にか?」と質問されたら、即座に「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)と為さ
んこと、またよからざらんやとおおせられております」といったふうに答え
なければ、いい点がとれないのである。そこで教師たちは、高学年になるに
従って、上級学校志望者に向けて、この種の暗記暗唱をやらせたのだろうと
思う。
  とはいうものの、暗記暗唱の対象となるものが、ほとんど詔勅類である
から、いいかげんな態度で暗記暗唱することは許されなかった。掃除の最中、
阿呆陀羅経(あほだらきょう)まがいに勅語暗唱をやっていて、バケツをぶ
つけられたものもいた。
 山中恒『図説・戦争の中の子どもたち』(河出書房新社、1989)より引用


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