暗誦の教育史素描(その2)       08・5・22記




      
平安時代の暗誦風景




        
 はじめに


  平安時代の暗誦教育といっても、現代のように学校教育が普及していた
わけではなく、文字の読み書きが自由にできる人は一部の貴族階級だけだっ
たと考えられます。平安時代の文盲率がどうであったかは知りませんが、以
下に書くことは、平安時代の一般庶民のことではなく、一部特権階級である
貴族社会のおける暗誦風景についてのことだとお断りしておきます。
  当時は、男子は漢字で書かれた漢籍を学習し、日常の公文書の読み書き
は漢文でするのが普通でした。女子は平仮名文字で書かれた物語を読み、平
仮名(若干の漢字も入れた書物)で読み書きをするのが普通でした。
  平安時代は、女文字である平仮名文字による物語、日記、随筆の文学の
花開いた時期です。これらの作品には、平安時代の貴族たちが何に生きがい
を見出し、何に努力を傾け、何に楽しみを見出していたかが描写されていま
す。わたしたちは、これらの作品の中で平安貴族たちの社会に暗誦の才能が
活きていたこと、暗誦が社会的価値を持っていたこと、暗誦文化というよう
なものがあったことを見出すことができます。
  以下に、土佐日記(紀貫之)、紫式部日記(紫式部)、枕草子(清少納
言)、更級日記(菅原孝末標女)の文章から暗誦に関係する個所を引用して
います。これらには、当時の宮廷貴族たちの門垣から見た日常生活や読書生
活や風俗や暗誦場面が記述されています。これら文章を読むことで当時は書
物の文章を暗誦することが文化的な雰囲気としてあり、暗誦することに文化
的価値があったことを見出すことができます。



          
土佐日記から

本文引用(1)


  
 男のすなる日記といふものを、女もしてみむとするなり。
   それの年の師走の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。
   そのよし、いささかにもの書きつく。

本文解釈
【男の人が漢文で書き記す公文書だが、男であるわたしは女に仮託して仮名
文字で日記を書くことを試みようと思った次第であります。ある年のこと、
師走の十二月二十一日、午後八時ごろ門出をしました。それら旅の様子を少
しばかり以下に書き付けてみましょう。】

荒木のコメント
土佐日記の有名な冒頭部分の文章です。筆者は男(紀貫之)であるのに女と
仮定して、仮名文字にて文章を書くことにした、と書いています。
平仮名の表記にすることによって、漢文では書けないメリットが出てきま
す。私事のこまごました事柄が気楽にしゃべり言葉で書けて、和歌も書き入
れることができ、さらに虚構を入れて物語っぽく書くこともでき、人間心理
の微妙な機微や屈折を描くことも可能になります。漢文と比べて柔らかい親
しみやすい文章となります。


本文引用(2)

   
二十六日。なほ守の館にて饗宴しののしりて、郎等までに物
   かづけたり。漢詩、声あげていひけり。和歌、主も客人も、
   こと人もいひあへりけり。漢詩はこれにえ書かず。和歌、主
   の守のよめりける、みやこ出でて君にあはむと来しかひもな
   く別れぬるかなとなむありければ、帰る前の守のよめりける、
    みやこ出でて君にわはむと来しものを来しかひもなく別れ
   ぬるかなとなむありければ、帰る前の守のよめりける、
    しろたへの波路を遠く行き交ひてわれに似べきはたれなら
   なくにこと人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。
    とかくいひて、前の守、もろともに降りて、今の主も、前
   のも、手取り交して、酔い言にこころよげなる言して、出で
   入りにけり。


本文解釈
 【二十六日、新国守の館で宴会があり、お供の人まで贈り物をいただきま
した。漢詩を声高く朗詠しました。和歌を新国守も招待者も詠み合いまし
た。漢詩の方は、女であるわたしは疎いので書き記すことはできません。新
国守とそれに応えた前国守の歌はこうです。しろたへの波路……。二人はい
っしょに庭に下り、よい酒を飲み、気持ちよく語り合い、館を後にしまし
た。】

荒木のコメント 
平安時代の宴会では酔いにまかせたいい気分で漢詩を声を張り上げて朗詠し
た、これが通常の風景だったことが分かります。現在ではカラオケで演歌、
歌謡曲ですが、それと同じですね。荒木の若い時分の宴会ではやはり詩吟や
漢詩の朗詠をするご仁がおりました。それがなくなってカラオケの歌だけに
なったのはここ最近のことですね。


本文引用(3)

    
棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
    といふあいだに、楫取もののあはれも知らで、おのれし酒を
    くらひつれば、早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべ
    し」とさわげば、船に乗りなむとす。
      この折に、ある人々、折節につけて、漢詩ども、時に似
    つかはしきいふ。また、ある人、西国なれど甲斐歌などいふ。
   「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ」とぞ
    いふなる。


本文解釈
【国司としての四、五年の任期を終えて、住んでいた館から出て、乗船しよ
うとするのだが、人々との別れがたちがい場面です。
  楫取(船のかじとり)は自分は酒をたらふくいただいたものだからさっ
さと船を出そうとして「潮が満ちてきた。風も吹いてくるぞ」、と騒ぐ。さ
て船中の人々は、この場に似つかわしい漢詩を声高く朗詠している。また、
ある人は、ここは西国であるにも拘らず東国甲斐の歌など歌う。「このよう
に歌うと、船屋形の塵も感動して飛び散り、空行く雲も漂うだろう」とい
う。】

荒木のコメント
当時は、漢詩は男子の趣味という性質のものではなく、身につけるべき文化
的教養の一つであったことでしょう。本文に書いてあるように貴族階級の男
子は多くの漢詩を知っており、たちどころにその場その場にふさわしい漢詩
を選びだしては朗詠する、こういうところはすばらしいですね。



          
紫式部日記から


本文引用

   
 この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き
   ならひつつ、かの人はおそう読みとり、忘るるところをも、
   あやしきまでぞさとくはべりしかば、書に心入れたる親は、 
   「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞ、
   つねに嘆かれはべりし。

本文解釈
【私の兄の式部の丞(藤原惟規、後年歌人)という人が、まだ子どもの頃に
漢籍を読んでいた時に、わたしはいつもそばでそれを聞き習っていて、兄が
習い覚えるのに手間どり、忘れてしまうところもあって、それをわたしは不
思議と速く理解していましたので、漢籍を読むことに熱心であった父親(藤
原為時、詩文の才人であった)は、「残念なことだ、この娘が男子でなかっ
たのは、全く幸せがなかったことだ」と、いつも嘆いておられました。】

荒木のコメント
紫式部は漢詩文にも造詣がが深かった。しかし、「男子でも学問をひけらか
す人は出世はしない」という噂を耳にしており、ましてや女子は仮名文字が
通常の使用であり、漢詩文の知識があることを他人にひけらかすなどどはと
んでもない、と考えていた。またそうした行動もしていた。実際は、紫式部
は中宮に「白氏文集」(楽府)という漢詩文をご進講していた。が、それは
極力人目を避けて、誰にもそれを気づかれないように心配りをしていた。他
人には漢字で最も易しい「一」という文字でさえ書いてみせることはしな
かった。ということを上記の本文の直ぐ後に書いています。平安文学といえ
ば華やかな女流文学となるのだが、当時は、学問といえば漢詩文であり、平
仮名文字の物語、日記、和歌などは恋愛遊戯のなぐさみものでしかなかった
と言われています。


           
枕草子から


本文引用:23段「清涼殿の丑寅の隅の」

 
  古今の草子を御前に置かせたまひて、歌どもの本を仰せられて、
  「これが末、いかに」と問はせたまふに、すべて夜昼心にかかりて
  おぼゆるもあるが、けぎよう申し出でられぬはいかなるぞ。宰相の
  君ぞ、十ばかり、それもおぼゆるかは。まいて五つ六つなどは、た
  だおぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやは、けにくく、仰せごと
  をはえなうもてなすべき」と、わびくちをしがるもをかし。知ると
  申す人なきをば、やがてみな読み続けて、夾算せさせたまふを、
  「これは知りたることぞかし。など、かうつたなうはあるぞ」と言
  ひ嘆く。なかにも、古今あまた書き写しなどする人は、みなもおぼ
  えぬべきことぞかし。


本文解釈
【中宮様が古今集をご自分の前において、その中の上の句を言って、「下の
句は、何と言うの」とお尋ねになる。いつもはすんなりと浮かんでくる歌
が、どうしたことか今は出てこない。やっと宰相の君が十首ほど申し上げ
る。それくらいでは暗誦しているとは言えまい。まして五、六首などでは覚
えていませんと言うべきなのだが「せっかくの仰せ事を無にすることにして
はかたじけない」と、悔しがる。知っていると申し上げる人がいない歌を中
宮様が続けてお読みになってそこに栞をはさむと、「これは存じておりまし
た。どうしてわたしは物覚えが悪いのでございましょう。」と嘆く。なかで
も古今集をたくさん書き写す人は、全部でも暗誦でき、そらで口から出てく
るはずであるのだが。】

荒木のコメント
宮廷貴族たちの和歌の暗誦遊びの一コマが描写されています。というか、中
宮様の暗誦テスト遊びですね。これらによって平安時代は和歌を暗誦してい
ることが宮廷文化ではとても必要な教養とされていたことが分かります。
上の句と下の句との合わせ遊び・あてっこ遊びは、現在でも百人一首のカル
タ遊びがそうですね。毎年正月には全国大会があり、日本チャンピオンが男
女一名ずつ選出されているようです。


本文引用:前段の23段「清涼殿の丑寅の隅の」つづき

 
  村上の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは、小一条の左の大臣
  殿の御女におはしけると、誰かは知りたてまつらざらん。まだ姫君
  と聞こえける時、父大臣の教へきこえたまひけることは、『一つに
  は、御手を習ひたまえ。次には、琴の御琴を、人よりことに弾きま
  さらんと思せ。さては、古今の歌二十巻をみなうかべさせたまふを、
  御学問にはせさせたまへ』となん聞こえたまひける、と聞こしめし
  おきて、御物忌なりける日、古今を持て渡らせたまひて、御几帳を
  引き隔てさせたまひければ、女御、『例ならずあやし』、と思しけ
  るに、草子をひろげさせたまひて、『その月、何の折、その人の詠
  みたる歌はいかに』と問ひきこえさせたまふを、『かうなりけり』、
  と心得たまふもをかしきものの、『ひがおぼえをもし、忘れたると
  ころもあらば、いみじかるべきこと』と、わりなう思し乱れぬべし。
  その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して
  数置かせたまふとて、強ひきこえさせたまひけんほどなど、いかに
  めでたうをかしかりけん。御前にさぶらひけん人さへこそ、うらや
  ましけれ。せめて申させたまへば、さかしう、やがて末まではあら
  ねども、すべてつゆ違ふことなかりけり。


本文解釈
【「村上天皇の御代に、宣耀殿の女御という方は、小一条の左大臣の御娘で
いらっしゃったと。誰でも存じ上げております。まだ姫君のとき、左大臣が
申し上げるには『第一に、お習字を習いなさい。第二に、琴を人より上手に
弾こうと心がけなさい。そして、次には古今集の歌二十巻を全部暗誦なさい
なさい。これを、ご学問としなさい』と申し上げなさった。
  そのことをご存知でいらした天皇様は物忌みの日に古今集を持って女御
の部屋においでになり、「何の月、何の折、だれだれが詠んだ歌は何か」と
お尋ねなさる。女御は、天皇様はさては古今集のテストをなさってるなと気
づいたが、間違って覚えていたり、忘れてしまったりしたのがあっては困る
と心乱れたのだが、天皇様は歌をよく心得た女房を御前に二、三人お呼びに
なり、碁石で間違いを数えさせ、無理にお答えさせようとなさって、こうし
たことはどんなにかおもしろかった場面でした。御前に仕えていた人たちが
うらやましいくらいでした。女御は天皇様の無理な質問には、けっして利口
ぶって下の句をすぐにつけようとはなさいませんでしたが、とにかく少しも
間違えることはありませんでした。】

荒木のコメント
これも宮廷貴族たちの和歌の暗誦遊びの一コマです。宮廷貴族の女子の嗜み
・教養は「一に手習い、二にお琴、三に和歌の暗誦」とあり、古今集二十巻
を全部暗誦とは驚きですね。平安貴族たちの暗誦は誰かからの強制によるの
ではなく、自分から自発的に暗誦せざるを得ない、また和歌を上手に作歌す
ること、そうした平安時代の文化的な土壌(雰囲気)があったことが分かり
ます。
二十巻といえば千百首です。「何の月、何の折、だれだれの詠んだ歌は何
か」と問われて、ただの一首も忘れてはいなかった。上の句を問われて、下
の句を答えるのは、直ぐに言っては小賢しさを見せるようで、そこは謙譲の
美徳を発揮して、残念がったりの振る舞いをしたりして、とにかく少しも間
違いなく答えたのでした。「古今集」二十巻をすべて暗誦していた宣耀殿の
女御の逸話は、特別なものではなく、当時の宮廷女性たちの和歌の暗誦力の
一般的な水準の高さを示すものでしょう。彼女ほどでなかったにしても当時
の貴族女性たちの和歌の暗誦の水準の高さを示しているいます。


本文引用:151段「うつくしきもの」

 
  うつくしきもの 瓜に描きたる児の顔。雀の子の、ねず鳴きする
  にをどり来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎてはひ来る道に、い
  と小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指に
  とらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。
(中略)
   いみじう白く肥えたる児の二つばかりなるが、二藍の薄物など、
  衣長にてたすき結ひたるが這い出でたるも、また、短きが袖がちな
  る着て歩くも、みなうつくし。八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、
  声はをさなげにて文読みたる、いとうつくし。

本文解釈
【かわいらしいもの 瓜に描いた幼児の顔。雀の子が呼ぶと鼠鳴きしてこっ
ちへ来る。なんてかわいらしいことでしょう。二つか三つばかりの幼児が急
いで這ってきて、ほんの小さな塵を目ざとく見つけて、とても愛らしげな指
で大人に見せるのは、とてもかわいらしいものです。(中略)とても色白で
ふっくらした二つぐらいな幼児が、丈が短く袖が目立つのを着て歩き回るの
もとてもかわいらしい。八つ、九つ、十ばかり年頃の男の子が、声は幼い感
じで漢詩文を読んでいるのはとてもかわいらしいものです。】

荒木のコメント
漢詩文を読んでいる男の子の声がかわいらしい、と言っています。貴族の子
弟は、七歳から九歳頃に漢詩文の素読を始めたと言う。漢詩文は貴族になる
ためには男子の教養として必須に身につけなければならないものであったよ
うだ。
  清少納言は、8歳から10歳ぐらいの男の子の漢詩文の読み声を「幼げ
な声で、とっても、かわいらしい」と言っていいます。そうした当時の「か
わいらしい」と思う評価づけ、日常の文化的雰囲気に注目したい。


本文引用:158段「うらやましげなるもの」

  
 うらやましげなるもの 経など習うとて、いみじうたどたどしく、
  忘れがちに、返す返す同じ所を読むに、法師はことわり、男も女も、
  くるくるとやすらかに読みたるこそ、あれがやうにいつの世にあら
  んとおぼゆれ。


本文解釈
【うらやましく見えるもの お経など習うのに、まだたどたどしく、忘れっ
ぽくて、何度も何度も同じ所を読んだりしている時、僧侶はもちろん、男も
女もすらすらと楽に読んでいるには、うらやましく、一体何時になったらあ
んなふうになるのだろうと思う。】

荒木のコメント
お経は、ありがたいもので、意味が深くて、多様な意味があって、また意味
が分からない方がありがたいみたいで、実際は全くの空暗記になってしま
う。
本文からすると、声に出して読む読み方は、すらすら読み、とちらない読み
が好まれたことが分かる。お経だけでなく、漢詩文も物語も和歌もそうだっ
たのだろうと推察できる。「うらやまし」という感情的評価は、暗誦がそう
簡単にできたものではなかった、ということも分かる。


本文引用:191段「すきずきしくて」

 
  すきずきしくて独り住みする人の、夜はいづくにかありつらん、
  暁に帰りて、やがて起きたる、ねぶたげなるけしきなれど、硯取り
  寄せて墨こまやかにおしすりて、ことなしびに筆にまかせてなどは
  あらず、心とどめて書くまひろげ姿も、をかしう見ゆ。
   白き衣どもの上に、山吹、紅などぞ着たる。白き単のいたうしぼ
  みたるを、うちまもりつつ書きはてて、前なる人にも取らせず、わ
  ざと立ちて、小舎人童、つきづきしき随身など近う呼び寄せて、さ
  さめき取らせて、往ぬる後も久しうながめて、経などのさるべきと
  ころどころ、忍びやかに口ずさびに読みゐたるに、奥の方に御粥、
  手水などしてそそのかせば、歩み入りても、文机におしかかりて書
  などをぞ見る。おもしろかりける所は高ううち誦じたるも、いとを
  かし。
   手洗ひて、直衣ばかりうち着て、六の巻そらに読む、まことに尊
  きほどに、近き所なるべし、ありつる使うちけしきばめば、ふと読
  みさして返りごとに心移すこそ、罪得らんとをかしけれ。


本文解釈
【女好きで独身の男。昨夜はどこに泊まったのだろうか。明け方に帰ってき
て、そのまま起きている。眠たそうな様子で硯を引き寄せ、墨をすり、心を
こめて手紙を書く。白い下着の上に山吹や紅の衣を着て、白い単衣がしわに
なってしぼんでいる。手紙を書き終えてもそばに控えている女房には渡さ
ず、小舎人童を身近に呼んでひそひそ言いふくめて手渡す。使いが去った後
も、男の心のうちでは、女との逢瀬の楽しかった時間の物思いがまだ続いて
いる。お経などを声低く口ずさんでいると、奥のほうでお粥、手水をすすめ
るのでその部屋までは行ったが、机に寄りかかって漢籍などを読んでいる。
おもしろいところは声に出して吟誦しているのも、大変に趣きがあるもの
だ。手を洗い、直衣だけを着て、法華経の第6巻をそらで読むのはほんとに
尊いと感じられる。
さっきの手紙の使いが帰ってきて合図するので、お経読みを止めて、女から
の返事に気をとられている。仏の罰を受けるのではとおもしろく感じられ
る。】

荒木のコメント
男の心はまだ女との逢瀬の思いをいっぱいに引きずっている。手水や食事に
は見向きもせず、気の紛らわし方が漢籍を吟誦する、お経をそら読みすると
いうことがおもしろい。こうして女からの手紙の返事を待っている。女たら
しの男の時間つぶし、気を紛らす手ぶらな行動が漢籍の吟誦、お経のそら読
みとはおもしろい。吟誦やそら読みが直ぐに出てくるところに注目したい。
これが当時の男たちの一般的な行動のとり方だったのだろう。それにして
も、清少納言は、女好きの独身男性の朝帰りにとった行動にたいへんに寛容
かつ大様な態度をとっていますね。平安時代はこれが通常だったのでしょう
か。


本文引用:194段「大路近なる所にて聞けば」

  
 大路近なる所にて聞けば、車に乗りたる人の、有明のをかしきに
  簾上げて、「遊子なほ残りの月に行く」といふ詩を、声よくて誦じ
  たるもをかし。

本文解釈
【大通りに近いところで聞いていると、車に乗っている人が有明の月をめで
ようとして簾を上げ「遊子なほ残りの月に行く」という漢詩をよい声で朗々
と吟誦しているのも、風情があっていいものだ。】

荒木のコメント
和漢朗詠集の中にある漢詩「旅人が残月の光の中を行く……」の様子が、
今、自分が有明の月の中を行く様子と場面を重ねて、バブルイメージで、い
い気分で朗詠しています。その場面に自分で酔って、いい気分になって、
朗々と吟誦し、楽しんでいます。当時の貴族階級の男子の自然や風光に対す
る心の向け方、優雅な楽しみ方が出ていていいなあと思う。漢詩文と自然や
風光とのダブルイメージで優雅に楽しみ、詩文を朗々と吟詠するなんていい
ですね。


本文引用:313段「大納言殿参りたまひて」  

  
 大納言殿参りたまひて、文のことなど奏したまふに、例の、夜い
  たくひけぬれば、一人二人づつ失せて、御屏風、御几帳の後などに
  みな隠れ臥しぬれば、ただ一人、眠たきを念じさぶらふに、「丑四
  つ」と奏すなり。「明けはべりぬなり」とひとりごつを、大納言殿、
  「今さらに、な大殿籠りおはしましそ」とて、寝べきものとも思い
  たらぬを、うたて、何しにさ申しつらんと思へど、また人のあらば
  こそ、まぎれも臥さめ。
    (中略)
   またの夜は、夜の御殿に参らせたまひぬ。夜中ばかりに、廊に出
  でて人呼べば、「下るるか。いで、送らん」とのたまへば、裳、唐
  衣は屏風にうちかけて行くに、月のいみじう明く、御直衣のいと白
  う見ゆるに、指貫を長う踏みしだきて、袖をひかへて、「倒るな」
  と言ひて、おはするままに、「遊子なほ残りの月に行く」と誦じた
  まへる、またいみじうめでたし。「かやうのこと、めでたまふ」と
  ては笑ひたまへど、いかでか、なほをかしきものをば。

本文解釈
【大納言様が参られて天皇様に漢詩文のご進講をなさっていると、いつもの
ように夜がすっかり更けて、御前に仕えている女房は一人消え二人消えし
て、屏風や几帳の後ろなどに隠れて寝てしまった様子。「丑四つ」と時を告
げる声がする。わたしが「もう夜が明けたようで」と言うと、大納言様が
「いまさらおやすみなさいますな」とおっしゃるので、困ってしまう。
(中略)
次の夜に、中宮様が御殿に参られた。夜中ごろ、わたしが廊下に出て人を呼
ぶと、大納言様が「局に下がるのか。お送りしよう」と言う。裳、唐衣を屏
風にうちかけて行くに、月がたいへんに明るく、御直衣がとっても白く見
え、わたしの袖を引きとめて「転ばないように」と言いながら、みちみち
「遊子なほ残りの月に行く」という漢詩を朗々と吟誦しあそばす。とても
すてきだった。「これくらいでそんなにほめるな」と大納言様はお笑いにな
るが、やはりおもしろいものはおもしろいと感嘆せずにはいられない。】

荒木のコメント
月の光が皓皓と照っている中で、大納言という貴公子が女性の袖を引き、歩
きながら、漢詩の一節を朗々と吟誦している。いい場面じゃありませんか。
歌舞伎や新派の舞台に出てきそうな男女の親密な場面です。漢詩の朗詠が随
伴してくるところが平安時代ですね。今でいえば、彼女とのデートで詩の一
節を口ずさむ、ちょっときざ過ぎますね。今の若者には時代遅れと笑われる
かもね。漢詩の吟詠は平安貴族の男子のごく普通に出てくる行動だったんで
すね。

             
          
更級日記から

本文引用(1)

 
 世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、
  つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、そ
  の物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞
  くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでか  
  おぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、
  手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひ
  て、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身を捨
  てて額をつき祈り申すほどに、十三になる年、上らむとて、九月三
  日門出して、いまたちといふ所にうつる。


本文解釈
【世の中に物語というものがあるそうな。どうにかしてそれを読みたいもの
だと思うようになった。なんのすることもない暇な昼間、夕食後の団欒など
に姉、継母などの人々が語る、あの物語、この物語、光源氏の物語などをあ
っちこっちと耳にするにつけ、私の物語へのあこがれはつのるいっぽうだっ
た。けれど、大人たちもそれらのすべてを暗誦しているわけではなく、わた
しが満足するようには語ってくれません。わたしは、もどかしく思い薬師如
来の等身像を造って貰い、手を洗い清めたりして、人目につかないようにし
てそれを置いてある部屋に入って「早く京へのぼり、物語をたくさん読ませ
てください」と一心にぬかずいてお祈りした。そうしているうち、わた
しが十三になる年、父の上総に任期が終り、京へのぼることになり、九月三
日、門出ということになった。】

荒木のコメント
  上の本文から、作者(菅原孝標女)が少女期にたくさんの物語を読みた
い、それに思い焦がれていたことが分かります。しかし、作者の父は上総の
地方勤務の国司であり、草深い田舎では自由に書物が手に入らず、早く国司
勤務を終えて、京都へ戻って、源氏物語などの書物をたくさん手に入れ、読
書をしたいと焦がれていたことが分かります。
  読書への憧れは作者(菅原孝標女)だけでなく、平安時代の宮廷女性た
ちの多くがそうであったことが本稿で引用した文章などからも推察できま
す。平安時代の宮廷女性たちが何に興味を持っていたか、貴族女性たち
に求められていた文化的教養が何であったかが分かります。和歌を上手に作
ることも重要な一つでした。作者(菅原孝標女)だけが特に読書好きだった
とかではありません。
  姉や継母など暇な昼間、夕食の団欒の後などにそらんじている物語をみ
んなに語って聞かせている様子が描写されており、女性たちが物語を語り聞
いて楽しんでいたことが分かります。平安時代は源氏物語などの物語は、周
りに聞き手がいて、その一部分(第一巻から順ぐりにでなく、あっちこっ
ち)を誰かが語って聞かせて、書物があればそれを声に出して朗読して聞か
せ、書物がなければ暗誦しているものを語って聞かせ、そうした楽しみ方
だったと推察できます。とうぜんに物語の文章は朗読や語りに適した書かれ
方・文体になっていくわけです。


本文引用(2)

 
  かくのみ思ひくんじたるを、心もなぐさめむと、心苦しがりて、
  母、物語などもとめて見せたまふに、げにおのづからなぐさみて
  ゆく。紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人か
  たらひなどもえせず。たれもいまだ都なれぬほどにてえ見つけず。
  いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるままに、「この源氏の物
  語、一の巻よりしてみな見せたまへ」とこころのうちにいのる。
   いとくちおしく思ひ嘆かるるに、をばなる人の田舎より上りた
  る所にわたいたれば、「いとうつくしう生ひなりけり」など、あ
  はれがり、めづらしがりて、かへるに、「何をかたてまつらむ。
  まめまめしき物は、まさなかりなむ。ゆかしくしたまふなる物を
  たてまつらむ」とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将、
  とほぎみ、せり河、しらら、あさうづなどいふ物語ども、一ふく
  ろとり入れて、得てかへる心地のうれしさぞいみじきや。
   はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、
  一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちにうち臥して引き出
  でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目
  のさめたるかぎり、灯を近くともして、これを見るよりほかのこ
  となければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじ
  きことに思ふ。


本文解釈
【ふさぎこんでいるわたしを、母はなんとかなぐさめようと心配して、物語
を捜し求めてくれたので何とか心はほぐれました。源氏物語の紫の上の続き
を読みたかったが、どうにもならなかった。だれにもそれを話すことも出来
ず、都の人に頼むことも出来なかった。ただもう源氏物語を全巻見せてくだ
さいと心の中で祈った。
  たいそう残念に思っていたところ、ある日、母のおばにあたる人が田舎
からのぼってきて、その人の所に行ったところ、おばが、「たいそうかわい
らしく大きく育ったこと」とおっしゃって、かえりしな「ほしいとお
もっているものをさしあげましょう」と、源氏物語五十余巻を櫃に入ったま
ま、他に在中将、とおぎみ、せり河、しらら、あそうず、などいふ物語をも
袋に入れて贈ってくれました。いただいて帰る時は天にも昇る気持ちで感激
いっぱいでした。一の巻から初めて、ただ一人で、一冊ずつ取り出して読む
心地は幸福感でいっぱいでした。后の位よりもうれしかった。昼は一日中、
夜は灯火をともして、これを読むほかは何もしませんから、自然にそらでも
文章が思い出すようになりました。われながらすばらしい気持ちでいっぱい
でした。】

荒木のコメント
  本文個所は作者(菅原孝標女)が14歳のときです。愛とか恋とかに目
覚める多感な年頃の時期です。源氏物語を手にした時の興奮ぶり、夢中に
なって読みふける様子が目に見えるように描写されています。こうして彼女
は男女の危うい愛憎劇に胸をときめかしたことでしょう。自分のまだ「見ぬ
恋」に空想的想像を膨らませたことでしょう。そして源氏物語の夕顔や浮舟
のような人生が自分にも来るかもしれないと考えます。


             
結び


以上、平安時代の書かれた「土佐日記」「紫式部日記」「枕草子」「更級日
記」から暗誦や読書にかかわる文章個所を引用して、若干のコメントを加え
てきました。これらの書物には平安時代の貴族生活があるがままに描きださ
れています。平安貴族社会の特有な考え方、感じ方、行動のしかたが描写さ
れています。平安貴族の女性たちが、どのような家に住み、どんな願いをも
ち、どんな生活をし、男性とどのような愛を交わし、どのようなコミニュケ
ーションをしていたかが書かれています。
  平安時代の暗誦がどうであったかについて短く整理してみましょう。
●平安貴族の教養として男性は漢詩文や和歌を、女性は和歌や物語を、自分
 から進んで暗誦した。平安貴族の文化的素養として必須に身につけるべき
 ことであった。
●誰かからの強制による暗誦でなく、自発的に暗誦するのがよしとする平安
 時代の暗誦文化の土壌があった。
●男性は、酒席で、女性との逢瀬で、普段の生活場面で、漢詩文を朗々と吟
 誦する日常的な場面が多かった。
●女性の宮廷生活では、和歌を作ること・男性と和歌のやり取りで愛を交わ
 すことはもちろん、先人の和歌を暗誦し、先人の和歌の暗誦にかかわる遊
 戯・ゲームがよく行われた。「上の句の提示で、たちどころに下の句を言
 う」など、和歌の暗誦力を試す遊びが多くあった。


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