群読授業を創る そのA面とB面と 07・5・16記 群読とは 一言で言えば 群読とは、「一人ないし、複数の読み手で美的に音声表現する」ことで す。 音声の表現効果を上げる 文章を一部分にせよ全作品にせよ、複数(集団)読みを取り入れること によって群読表現にしようとするならば、その音声表現は一人読みした場合 と比べて作品内容が拡大増幅した情感性豊かな、美的な、芸術的な読み声と なって現われ出ていなければなりません。 ただ蛮声を張り上げただけの一斉音読、ばかでかい声の繰り返し部分を 一部に含んだだけの一斉音読、ずらずらした大声の集団音読がつづくだけの 一斉音読、そうした複数(集団)読みは一斉音読であって群読表現とは言え ません。 群読表現とは、複数(集団)読みを取り入れることによって音声表現に 奥行と厚みが構成され、文章内容が力動的、立体的な読み声になって伝わる ようでなければなりません。ダイナミックに、ドラマ的に、パノラマ的に聞 き手(聴衆)に伝わるようでなければなりません。聞き手(聴衆)の情動に 感化的に訴えかけたり、美的に芸術的に感受できるようでなければなりませ ん。集団読みではあっても、文章内容が聴衆・聞き手に透明に澄んで伝わり、 美的に感化性豊かに受け取られるようでなければなりません。 そういう音声表現をめざした音声表現でなければなりません。少なくと も、指導者(教師)のそういう演出意図が感じ取れる群読表現でなければな りません。単なる部分的な大声の一斉音読を取り入れたにすぎないような集 団の読み声表現であってはいけません。群読はシュプレヒコールではないの です。 群読とは呼べない群読 群読で音声表現したのに、聞き手(聴衆)に力動的、立体的、美的、情 感性豊かに伝わらない複数(集団)読みは、群読表現とは言えません。文章 の意味内容が拡大増幅して伝わらないで(聞こえないで)、全員で声をそろ えて何かを言ってはいるが、ただガンガンとした声が一様に聞こえるだけ、 または文章内容が底に沈んで浮き上ってこない群読表現だとすれば、それは 失敗だと言わざるを得ません。ワーワーと多人数がばかでかい声をそろえて 読んではいるが、ワーワーだけが聞こえて、何を言っているのかさっぱり分 らず、意味不明で聞き取れない複数(集団)読みではいけません。 子ども達のまちがった群読観 子ども達に教科書の一部分の文章範囲を示して、「さあ、この文章部分 を群読台本に書き直してみよう」指示します。子ども達に群読の台本をつく らせると、やたらと複数読み(集団読み)の個所を作りたがります。また、 リピート(繰り返し)個所を多く作りたがります。 つまり、子ども達は、「群読とは、複数(集団)の読み声を取り入れる こと、あるフレーズを繰り返し(リピート)の部分読みを取り入れること、 この二つだ」と考えているようです。 こうした間違った群読観は、教師の群読指導の仕方・教え方に問題があ ると言えます。詩や物語文を群読表現するということは、文章内容がメリハ リ豊かに、情感性豊かに、芸術性豊かに、感化的に、聞き手(聴衆)に伝わ る音声表現にして効果を上げる、そのことをいつも意識して、子ども達にも 分かるように指導して、それを目標にして群読指導をしていく必要がありま す。そのことを教師はしっかりと意識して群読の読み声表現をしていくこと がとても大切です。 一人読み(ナレーター)の読み声を引き立てよう 群読は、一人読み(ナレーター)の声をいかに美しく引き立てるか、そ のために複数(集団)読みを効果的に使っていくか、こうした「群読の音声 効果」を狙った群読表現の音声の組み立てを常時意識して群読の読み声を出 させ、そのことを児童達に分からせて指導していくようにします。 ただずらずらと大声だけの集団読みを並べていったり、リピートを取り 入れていったりすることが群読の音声表現ではありません。 教師がひたすら「こんな読み声だ、こう声に出せ」と指示を出し、子ど も達もひたすらそれに「はい、はい」と従うだけの群読指導をしていては、 いつまでたっても子ども達は間違った群読観から抜け出すことができないで しょう。 文章内容が、音声で、ダイナミックに、ドラマ的に、パノラマ的に、芸 術的に、聞き手(聴衆)に伝わるにはどんな読み声の組み合わせにすればよ いか、今の読み声を更によりよい読み声・伝わり方にするにはどのように工 夫すればよいか、こうした視点をいつも忘れないで子ども達と一緒に作り上 げる・考え合う群読指導をしていくようにすることです。そのためには、自 分たちの群読の読み声を聞き合う、客観化して批評的に話し合うことや、テ ープレコーダーに録音して、自分たちの群読表現の読み声を対象化して聞か せ、批評的に話し合いながら全員で作っていく指導が必要です。 トップページへ戻る |
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