音読授業を創る そのA面とB面と 03・10・29記 「やまなし」の音読授業をデザインする ●「やまなし」の掲載教科書ーーーーーー光村6上 分かりにくさ、扱いにくさ 「やまなし」は、分かりにくい、指導困難な作品、どこをどう指導すべ きか学校教師にとって扱いにくい教材だと言われています。 冒頭部分の会話で、どの会話文が兄で、どの会話文が弟かが分かりませ ん。かにの兄弟で交わされる「クラムボン」とは何なのかが分かりません。 後半に出てくる「イサド」も分かりません。 分からなさは、「五月」のはじめに部分に多く出てきます。「クラムボ ン」は笑ったり、かぷかぷ笑ったり、はねて笑ったりすると書いていま す。クラムボンは、一匹の魚が頭の上を過ぎると、「死んだ。殺された。」 となり、その魚が戻って下のほうへ行くと「笑った」となります。クラムボ ンとは、生き物なのか、無生物の隠喩的表現なのかが分かりません。 クラムボンの正体について、これまで研究者たちがいろいろな説を提出 しています。生き物説では、ミズスマシ、アメンボウ、プランクトン、川え び、かに、かにの母親、かきの屍骸などです。無生物説では、泡、影、日 光、光のあみ、雪のかたまりなどです。生き物とか無生物とかに関係なく、 賢治の想像した架空の正体不明の造物だという説もあります。 素敵な表現を選択する この作品は、分かりにくい、難解だと、悲観的な側面だけを強調してい ては、この作品のよさは消えてしまいます。この作品のよさを知らせましょ う。「やまなし」は幻灯というよりも、カラーの動画か影絵で、情景描写が すばらしいです。 児童たちに、この作品を読んで、「いいなあ」「すてきだなあ」という ところを探させて、発表させましょう。さらに詳しい発問もしてみましょ う。例えば、この文章を読んで「すてきな文章表現だなあ」「水の中の様子 (風景)がとてもきれいに、上手に表現されているなあ」「この情景描写の 文章表現のしかたが、いいなあ、すてきだなあ、うまいなあ」という個所は どこかな、と発問します。このあたりで児童達から発言が出てくるでしょ う。 この発問でも出なかったら、教師が一つの例を話して聞かせます。教科 書の70ページの8行目「今度はゆっくり落ち着いて、ひれも尾も動かさ ず、ただ水にだけ流されながら、お口を輪のように円くしてやってきまし た。そのかげは黒く静かに底の光のあみの上をすべりました。」と書いてあ りますね。 「お魚がお口を輪のように円くして」なんて、魚がお口をぽっと開け て、水中にただよい浮かんでゆっくりと進んでいる様子がありありと浮かん できますね。「お口を輪のように円くして」なんて、様子がぴったりではな いですか。この文章表現、いいねえ。すてきだねえ。それも、様子が「ゆっ くり落ち着いて」だって。「ひれも尾も動かさず」だって。何てすてきな、 ぴったりした、むだのない文章表現なんでしょう。川底のあちこちに光が弱 く、強く、当たっていることを「川底の光のあみ」なんて表現しています ね。いいねえ、すばらしいねえ。これは詩のコトバですね。その光のあみの 上を「魚のかげ」が「「黒く静かに、すべる」だって。これはたまんないね え。すんばらしい文章表現ですねえ。と、教師が文章にほれ込んで、感動し ながら、児童達に語って聞かせます。 次に、児童たちに「皆さんもこの作品の中から好きな文章部分を探してご らん。たくさんありますよ。」と問いかけます。この作品は、ファンタジー とか物語詩とか散文詩的童話とか言われます。詩的な言葉でファンタステッ クに物語られています。言語に対する鋭い感性(言語感覚)を育てるにとて もよい教材です。 教師の例文語りで、すてきな文章個所が児童たちからどしどし列挙され てくるでしょう。たくさん発表されてくるでしょう。その中から自分がもっ ともすてきだとする文章個所を二箇所だけ選択させます。さらなる選択をす ることで、さらに言語感覚がとぎすまされ、訓練されることになります。 自分で選んだ文章個所を、気持ちをこめて音読させます。すてきな文章 個所を、新鮮なイメージを、自分の声で内容を浮き立たせ、粒だたせ、楽し んで表現的に音声表現(表現よみ)するようにさせます。 地の文の読み方 物語は語り手がいて、語り手が物語っています。語り手が対象(もの、 こと)を客観的に語っているか、主観的に語っているかで音声表現の仕方が 違ってきます。西郷竹彦氏の視点論では、外の目で語っているか、内の目で 語っているか、となります。これを先ず調べていきます。 冒頭「小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。」は、語り手が 客観的に語っています。語り手は離れて客観的に淡々と、対象を説明するよ うに読みます。幻灯場面ですので、何となく静かですね。谷川の底が青色で すので、静かさが増幅しています。声を落として、静かに、ゆっくりと、 はっきり「これは幻灯である」ことを、冷たく覚めた口調で紹介します。 「二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。」も、客 観的に語っています。冒頭文の読み音調を引きずる形で、かにの子供らの登 場を読者(聞き手)に紹介するだけの読み音調にします。 次は会話文です。会話文は登場人物の発言です。登場人物の表現意図や 気持ちをこめて音声表現します。 次なる地の文の語り口を見てみましょう。 「上の方や横の方は、青く暗く鋼のように見えます。そのなめらかな天 井を、つぶつぶ暗いあわが流れていきます。」は、語り手の位置は水中に あって、語り手の目とかにの目とが重なった形で、上の方・横の方を見てい ます。二者が重なって、一つの目になって、天井を向き、天井の様子を語っ て(描写して)います。西郷竹彦氏は、これを「外の目と内の目との重な り」と言いました。 これを、吉本隆明氏は「水底の(蟹)の【眼】になった視線と、川の流 れを横断面から視察しているもうひとつの架空の【眼】の二重性」と言って います。吉本氏の「蟹の視線と架空の視線との二重性」、この「視線の二重 性」とは「視線の重なり」のことと言ってよいでしょう。 この場面について、清水正氏は、「つぶつぶの暗い泡とは、子がにたち の声にならぬうめきであり、凝縮された悲しみであり、同時に不条理な自然 のあるがままの姿である。」と言っています。これは研究者の一つの解釈で す。「やまなし」はファンタステックな詩的表現であり、解釈は多様性に富 んできます。この物語には世人には理解できない蟹独自の言葉「クラムボ ン」などもあり、普通の物語文と比べて解釈はまさに十人十色となります。 もう一つ、「視線の重なり」について研究者の解釈を紹介しよう。先の 西郷竹彦氏の見解です。「話者の外の目がかにの内の目によりそい、重な る。そのことで読者も、かにに同化体験する。読者も修羅の身を生きる、自 分の中に修羅を自覚せざるを得ない。修羅である自分を発見する。苦悩から の解脱、救いを求めるきっかけをうる。自分の中にかにの姿(修羅)を発見 する。」と書いています。これも研究者の一つの見解です。 さて、原文の次の地の文を見ていきましょう。「上の方や横の方は、青 く暗く鋼のように見えます。」からあと、五月から十二月まで、すべての地 の文は語り手の目とかにの目と、時には全く重なり、時には少しばかり離れ て外から語り、付かず離れず、際どく重なり微妙に離れて、つまり語り手は かにに「よりそって」語っていっています。ですから、かにの視線で水底か ら周りの川底の様子が見えたことを、かにの気持ち(心理感情)になって、 これらの地の文を音声表現していくようになります。 最後、語り手は我に戻り、場面から離れて、客観的に「私の幻灯は、こ れでおしまいであります。」と読者(観客)に向って語って、終わりとなり ます。 学習課題として「かにの子らに、周りの様子がどう見えているか、それ をかにの気持ちをこめて、音声で表現してみよう。」と与えます。周りの景 色は、単なる客観描写ではありません。「重なり」の地の文は、かにが視線 を送っているその時の、かにの気持ち(心理感情、情意)によってとらえら れた、かにの主観的反映の描写文ですから、かにの気持ちでとらえられた、 かにの気持ちが入った音声表現となります。付かず離れずの度合いによっ て、気持ちの入り込み方の浅さ、深さの違いはありますが。 会話文の読み方 前記しているように「五月」の冒頭部分、クラムボンを話題にしている 会話文、これはかにの兄弟のうち誰が話している会話文かが不明です。不明 だからといって、音読しないわけにもいきません。 児童たちに、誰が話したかを検討させます。児童一人一人、またはグ ループで検討させます。多分、多種多様な意見が出て、学級一つに決定する ことはできないでしょう。決め手がないからです。クラムボンの正体につい ても同じです。決め手がありません。 児童たちからいろいろな意見が発表されるでしょう。多分こうだろうと 自由に想像させます。自分なりにイメージをを創らせます、持たせます。多 分、この会話文は兄だろう、弟だろう、一人一人に決めさせます。決めた ら、それで音声表現させます。兄弟の表現意図を推定し、二人の声質を変え て読ませます。「かぷかぷ」とか「クラムボン」とか「はねて」とかのコト バの響きやリズムを楽しみながら音声表現させます。 これら会話文の音声表現で重要なことは、兄弟の声質を変えること、兄 弟が会話のやりとりをしている感じ(相手に話しかけ、それを受けて返答し ている音調、語勢や抑揚・出だしのタイミングなど)に気をつけて読むこと です。 「五月」の後半から「十二月」全文、これらは冒頭部分とはちがい、ど んな場面で、どんな表現意図で、どんな口調で話しているかは明確です。文 脈からはっきりと読みとれます。兄弟の対話、親子の対話、対話者の声質を 変えて、やりとりしている感じを出して音声表現させましょう。 文体の特徴に気をつけて 「やまなし」はファンタジックな散文詩的な文体になっています。独特 な文体がみられます。擬態語、擬声語、比喩表現、色彩表現の多用、幾つか の文節が連接する重文表現、賢治の造語などの特徴があります。これら文体 の表現効果がはたしている言葉の響きやリズムやイメージの重なりを重視し て音声表現していくようにします。 「つぶつぶあわが流れていきます。」の「つぶつぶ」は、あわの一粒一 粒をイメージしながら「(つぶ)(つぶ)」と切り離し、歯切れよく表現 し、全体をゆっくりめに読みます。 「かにの子供らも (ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶ) あわをは きました。」のように括弧をひとまとまりに読みます。「(ぽつ)(ぽつ) (ぽつ)」は三つを区切り、かにがほんの少しの間をおいてあわを五、六つ ぶ、吐き出している感じをだします。静かな青い川底ですので、どことなく 硬質なあわの感じをだせれば、なおいいです。 「ゆれながら水銀のように光って、ななめ上の方へ上っていきまし た。」の「ゆれながら」は、「上っていきました」に係ります。「水銀のよ うに」は「光って」に係ります。係り受けを音声ではっきり表現します。 「兄さんのかには、(その右側の)(四本の足の中の二本を)、弟の平 べったい頭にのせ…」は、括弧のように区切って読みます。 「魚がつうともどって、下の方へ行きました。」の「つう」は、擬態語 です。魚が音もなくすうっと通過していく様子が音声に出るようにします。 「クランボンは笑ったよ。」「笑った。」のつながりで、「笑った。」 は、次が「にわかにぱっと明るくなり」ですから、多分「わらったの?」 (疑問)ではなく、「笑った!!」(同定、驚嘆、歓声)でしょう。そのよ うに声高く、驚いて読みます。解釈によってちかってきます。 「美しくゆらゆら(のびたり縮んだり)しました。」は、括弧内はひと つながりです。 「魚が、今度はそこらじゅうの黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにし て、おまけに(自分は鉄色に)(変に底光りして)、また上の方へ上りまし た。」です。「鉄色に」のあとに軽い間をおきます。 「と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の 方へ上ったようでしたが、それっきりもう青いものも魚の形も見えず…」で は、上の方へ上ったようでしたが」の前と後では読みの音調が大きく変わり ます。文章内容から緩急変化が出てきます。前は一瞬の出来事(恐怖)の内 容です。早口読みやすらすら読みをする必要はありませんが、間では区切 り、つながる読み部分ではややスピードを出して読みます。「そのときで す。」からあと、「ぎらぎら」「いきなり」「はっきり」「とがって」「ぎ らっと」「それっきり」などは、やや目立つように歯切れよく読みます。 「上の方に上ったようでしたが」を読み終えたら、そこでたっぷりと間 を開けます。そのあとの文章は、ゆっくりと、声を落として、区切りでは間 を長めにとって読んでいきます。こうして恐怖・緊迫から平安・沈静の世界 へと変化したことを音声で表現します。 「(かにの子供らは、)(あんまり月が明るく)(水がきれいなの で、)(ねむらないで外に出て、)(しばらくだまってあわをはいて)(天 井のほうを見ていました。)」のように区切って読みます。原因と結果の論 理関係、時間の経過とその行動の順序がはっきりと音声に出るように読みま す。 「そのとき、トブン。」の「トブン」は、かわせみが水中にもぐる音で す。「ドブーーン」か「トン」か、その中間か。かわせみが水中にもぐるイ メージ(水の音)の把握の仕方によって音声表現が違ってきます。 「お父さんのかには、遠眼鏡のような両方の目をあらん限りのばして、 (よくよく見てから)(言いました)」の括弧部分は、二つにはっきり区切 ります。かには目をあらん限りのばし、よくよく見たんですよね。ですから 「よくよく見て」のあとに暫時の時間があったことの間をおき、あらためて 「言いました」と読みます。 アクセントについて。「かばの花」の「かば」は、「か」が高くなりま す。「やまなし」「クラムボン」「イサド」のアクセントはどうでしょう。 『NHK日本語アクセント辞典』(H10)には、「やまなし」は、 「山梨(地名)」とあって「ま」が高くなっています。果実の「やまなし」 は不明です。「山梨県」になると、平板になりますね。 「クラムボン」と「イサド」は賢治の造語です。アクセントの指定はあ りませんので、読者の自由にまかせられています。この作品は、青白い水底 のファンタステックな幻灯の場面です。どこまでも静かにゆったりとした場 面が主テーマ(気分、雰囲気)ですので、わたしは、平板に、上げ下げな く、平らなアクセントで読むとふさわしいと思います。わたしの意見は、 「やまなし」も同じく平板です。 参考資料(1) 「五月」の冒頭場面の兄弟の対話、会話文はだれが話しているか。宮川 健郎『国語教育と現代児童文学のあいだ』(日本書籍、1933)には、つ ぎのように書いてあります。【 】が岩沢文雄氏(元千葉大教授)が『日 本児童文学』別冊1976年2月号に書いてある岩沢案、( )が宮川案 です。 【兄】(兄)「クラムボンは笑ったよ。」 【弟】(弟)「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」 【兄】(兄)「クラムボンははねて笑ったよ。」 【弟】(弟)「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」 【兄】(弟)「クラムボンは笑っていたよ。」 【弟】(兄)「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」 【兄】(弟)「それなら、なぜクラムボンは笑ったの。」 【弟】(兄)「知らない。」 【兄】(兄)「クラムボンは死んだよ。」 【弟】(弟)「クラムボンは殺されたよ。」 【兄】(兄)「クラムボンは死んでしまったよ……。」 【弟】(弟)「殺されたよ。」 【兄】(兄)「それなれ、なぜ殺された。」 【弟】(弟)「分からない。」 【兄】(弟)「クラムボンは笑ったよ。」 【弟】(兄)「笑った。」 西郷竹彦『宮沢賢治「やまなし」の世界』(黎明書房、1994)には 次のように書いてあります。 兄弟の科白をめぐって、どちらが兄か、弟かということをめぐる「論争」 がなされるが、これは文芸学的にいって不毛の論争である。五月の場面の前 半において「蟹の子供ら」とある。(十一月の場面にもある。)ここでは、 「蟹の兄弟として、あるいは、そのいずれかとしてあるのではない。それら の区別をこえた「子供ら」というイメージとしてとらえるべきなのだ。これ らの科白のいずれが兄か弟かは不明であるだけでなく、そのような分別が不 毛であるということだ。 後半になって必要なところで話者は「兄さんの蟹」「弟の蟹」として区別 している。そこでは区別が必要だからである。 参考資料(2) 「やまなし」について次のような参考意見があります。松田司郎『宮沢賢 治 花の図誌』(平凡社、1991)より引用。 天から落ちてきて木の枝にひっかかったヤマナシの実は、いわば銀河宇宙 の彼方にいて『すべて』を見守っている【神】からの贈り物といってよい。 「樺のの花」について次のような参考意見があります。中野新治『宮沢賢 治 童話の読解』(翰林書房、1993)より引用。 ここに死の恐怖は明らかに存在するが、流れてきた「樺の花」は初めて死 の恐怖を知った子蟹たちをやさしく慰めるのであり、それは「やまなし」と 同じく天からの慈愛に満ちた贈与物であることにかわりはないのである。春 の「樺の花」は弱肉強食をのがれられない生物たちの業を浄化する聖なる花 であり、秋の「やまなし」のお酒はその宿命に従って生きのびて来た者を祝 福する聖なる神酒(みき)なのだ。 「樺の花」について次のような見解もあります。清水正『宮沢賢治・不条 理と母性』(D文学研究会、1998)より引用。 「樺の花」とは何だろう、何の象徴だろうか。それはわらっていたクラム ボン、死んでしまったクラムボン、殺されてしまったクラムボン、つまり死 ぬときにわらっていたお母さんの化身に他ならない。天井をすべって来るた くさんの「白い樺の花びら」とは、死んでも生きている、死んでも殺されて も永遠に生きている「お母さん」なのである。 参考資料(3) この物語の主題について次のような一つの見解があります。吉江久弥『賢 治童話』(大修館、2002)より引用。 「やまなし」の主題と言うべきものについては、作品の(一)(二)を併 せて見るべきで、恩田逸夫は(一)は「豊穣な季節における冷厳な死」、 「(二)は「冷たい季節における豊かな生」で、「死から生へと転じて」、 「夢幻的風景の中に、この世の実相の基底をを挙示し得ている。」と述べ、 続橋達雄は「透明に澄む静かな谷川」の美しさ、そこに語られている「いの ちあるすべてのものの、その奥底にひそむものへの畏怖感、おびえ」を指摘 している。多くの評論の凡てがこれに尽きるものではなかろうが、大体の傾 向はこれで推測できよう。 これらの中には肯定すべき説も首をかしげたい説もあるが、私は先に検討 した賢治の「幻灯」の特殊性から考えると、登場者の行為や心理などに重点 をおくのではなく、それは風景と同等の次元で見るのが妥当である。冷たく 澄んだ五月の月の、また凍るばかりに冷たく澄んだ十二月の水の中の鮮明な 風景と、その中での生き物たちの言動、これがこの作品の「幻灯」なのであ る。 「やまなし」(一)の最初は水の中は「青じろ」く、しんとしている。ま だ上と横は「青くくらく鋼のよう」だが、突然日光の黄金が降って来て明る くなる。そして 「波から来る光の網」が底にゆらゆらとその影を映し、波の上の泡や塵埃の 影が棒のように水中に立つ。魚の行き来が水中に「黄金の光」を乱したり、 滑るような影を「底の光の網」の上に映したりする。かわせみが魚を素早く 捕まえてゆく様が輪郭鮮明に描かれており、かわせみそのものの姿も鮮明で ある。…… こうして書き出してみると、光と影とがこの作品の重要部分を占めて、 これを「幻灯」たらしめていることが明らかになると思う。したがってこれ が主題である、と私は考えたい。 吉江氏の否定する登場者の行為や心理から主題を考える研究者もたくさ んいます。西郷竹彦氏の前掲書『宮沢賢治「やまなし」の世界』では、主 に仏教的世界観の観点から作品「やまなし」を解明しています。次に同書か ら引用します。 童話「やまなし」は、賢治の現代版「法華経」と呼んでいいのではない か。…「やまなし」は、これまで論述してきたとおり「法華経」の世界観を ときあかしたひとつの譬(たとえ)とみていい。 354ぺから引用 本書において「やまなし」の世界を論ずるにあたり、私が「法華経」は もちろんのことであるが原始仏教典をはじめ多くの経典(ことに「華厳 経」)にまで言及したのは、賢治の作品にこれら仏典にひろく学んだことの 反映が見られるということによる。 256ぺより引用 しかも、これら大乗仏教の世界観がはしなくもアインシュタイン以降の 現代科学(宇宙論、物質論、生命論など)の自然観、世界観ときわめて近い ものがあり、その本質のおいて一致することを要所要所においてくりかえし 言及してきた。 374ぺより引用 参考資料(4) 「イサド」については、文脈から推して今で言えば遊園地かレジャーラ ンドみたいな場所に思われます。「イサドは医者宿(処)の意」(福島 章)、「蟹たちの住む沢の水底そのものが母の胎内」(松田司郎、谷川雁) という研究者の意見もあります。 トップページへ戻る |
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