音読授業を創る そのA面とB面と 02・12・23記 「海のいのち」・「海の命」の音読授業をデザインする ●「海のいのち」(立松和平)…………………東書6下 ●「海の命」(立松和平)………………………光村6下 アベタカ氏のホームページを開いてみよう 今回は、アベタカ氏が実践した「海のいのち」の表現よみの授業記録に ついて、それを読んだわたしの感想文を書くことにします。 アベタカ氏とは、阿部隆幸先生(福島県)のことです。ご本人から自分 をアベタカと呼称しており、愛称だと思い、本稿では阿部先生でなく、アベ タカ氏を使わせていただくことにします。わたしは、アベタカ氏とはお会い したことはなく、未知の方です。でも、わたしはアベタカ氏のHPにある 「教育界The新語」で教育用語をこれまで学ばせていただいていました。 新教育用語を簡潔明瞭に分かりやすく整理して書いてくれ、よい勉強になっ ていました。 アベタカ氏のホームページには、新教育用語だけでなく、学習ゲームあ り、作文あり、総合学習あり、社会科あり、メデアリテラシーあり、旅行記 ありです。彼の好奇心と情報収集力はすさまじいものがあり、それら理論を 消化し、自分の実践の中に取り入れ、発展させていくフットワーク軽さはす ばらしいもがあります。彼は同時代を疾走する得体のしれないエネルギーを 秘めた教師だと敬服しています。 今回、アベタカ氏のホームページ上で、わたしの著書(『表現よみ指導 のアイデア集』民衆社、CD1枚付き、2800円)を参考にした表現よみの授 業記録があることを知りました。教材は、立松和平「海のいのち」(東京書 籍六年、光村の六年では「海の命」)で、そこにはメデア・プレイヤーで児 童の読み声まで聞ける実践記録がありました。 まず、アベタカ氏のホームページを開いてみよう。 http://www.abetaka.jp/ (1)「あい・らぶ・しょうがっこう」が開きます。 (2)「表現よみ」をクリックする。 (3)「6年生の部屋へ」をクリックする。 (4)次の4面の授業記録を読む。 ( 1)「再び表現よみに取り組む」(2002・10・10) (2)「阿部なりの表現よみの試み」(2002・10・15) (3)「阿部なりの表現よみの試み・その2」(2002・11・05) (4)「阿部なりの表現よみの試み・その3」(2002・11・23) (5)「阿部なりの表現よみの試みに関する感想紹介」(2002・11・27) (その他、幾つかの表現よみの記録がありますが、今回は「海のいのち」に 関する記録に限定して、わたしの感想を書きます。) 「再び表現よみに取り組む」への感想 アベタカ氏は、わたしが著書で読者に伝えたかったこと、訴えたかった ことを的確につかんで授業をしてくれています。 初めの小見出しが「声に出して、読みとる」です。アベタカ氏は「表現 よみの効果」の項目に「今まで音読と文章理解とは別々に学習する場面が多 かった。この考えを用いれば、連携した学習を進めることができるのではな いか」と書いています。わたしがこの本で主張した「音声解釈」の考えを簡 潔にまとめて書いてあり、きちんと評価してくれていてありがたかったで す。 わたしの「音声解釈」の考え方については、本連載(18)にも集中的に 書いてあります。(18)には、「黙読と音読では、音読のほうがずっと神経 を使う。音読するとは解釈を深めることだ。これを指導方法として使う」と 書いています。 「朗読」と「表現よみ」との違いについても、アベタカ氏は簡潔かつ明 瞭に整理して書いてくれています。二つの違いについては、本連載(4)・ (6)にも集中的に書いてあります。ごく簡単にいえば「表現よみは、広い 概念の朗読に含まれるが、朗読には表現よみの音声表現以外の種々雑多な読 み声も含む。種々雑多な読み声と区別するため「表現よみ」を使う」と書い ています。 「阿部なりの表現よみの試み」への感想 ★「まねる盗む技化」について アベタカ氏は「表現よみのイメージは話すよりも聞かせた方が早いと考 えた。そこで荒木茂氏の著書に付いてきたCDを聞かせた。荒木氏自身が解 説も加えているので子ども達もそれなりにイメージが伝わったようだ」と書 いています。 『声に出して読みたい日本語』で大ブームをおこした斎藤孝氏、彼の教 育学関係の著書『子どもに伝えたい三つの力』(NHKブックス)には、三 つの力の一つに「まねる盗む力」があります。この本の目次の項目に「技を 盗む意識の技化・生きる基本・日本の教育が見失ったもの・職人が築いた近 代日本・型の効用」などの語句が見えます。 「技(型)を盗んで身につけ、それに磨きをかけ、さらに個性(型)の 技ある自分を作り上げる」ということは職人の世界だけでなく、芸能の世界 でも同じです。特に話芸である落語家や講談師や浪曲師の若き修行時代はみ な師匠の家に弟子入りし、部屋の掃除や玄関の下足揃えから始まり、師匠は 直接に教えることはせず、弟子は師匠の舞台や練習を見て覚え、盗んで覚え ることは、昔の語り草ではなく、今も変っていないようです。 「技を盗んで、まねて身につけ、磨きをかける技化の積極的意義」を再 評価したいものです。音読に関することは、理屈(ことば)でああだ、こう だと児童達に教えるよりは、実際にこういう読み声はよくない、こういう読 み声はとってもよい、というものを、実際の声を、児童の耳に聞かせ、耳か ら覚えさせ、それをまねさせて声に出させて覚えさせていくことが、いちば んの早道です。ことばの理屈で教えるよりは、上手な音声表現と下手な音声 表現とを耳で対比し、二つを聞き分け、まねて覚えさせていくのです。 次の新しい文章を読むとき、それが生きて活用されていきます。ことば で習うよりは、慣れろ。身体で覚えろ、です。口移しで指導する方法をバカ にしてきたところがあります。この方法だけで指導するのはいけませんが、 利用できる一つの方法です。アベタカ氏が、拙著付録のCDを聞かせて指導 なさったことは、とても賢明な方法だと言えます。 ★「音読の記号づけ」について ノートの上半分に教科書本文を、下半分に音読記号と理由づけを書く、 この方式はアベタカ氏の独創的なノート例だと言えます。みなさんにもこの ノート方式をすすめます。わたしは教科書本文に直接、鉛筆で書き入れるこ とを「書きこみ」と呼び、ノートに記号づけその他を書き入れることを「書 きだし」と呼んでいます。これは児童言語研究会の一読総合法での「書きこ み」と「書きだし」にならっています。 アベタカ氏は、「荒木茂氏のやり方と大きく違う点が一つある」と書い ています。アベタカ氏は「音読記号をつけたら、なぜその記号をつけたかの 理由を書き入れさせる」と主張しています。これは、わたしとは小さくない 対立点です。わたしは「児童にとって一つ一つに理由を言うことはとても困 難だ。言える子には言わせてもよいが、全児童にそれを言わせたり書かせた りする無理強いはしない」という意見です。 アベタカ氏のご意見、本の読み方として、とてもすばらしい方法だと思 います。指導上達(創造性開発)の秘訣は、オープンマインドと精神のディ スクロージャーが重要です。カントは『純粋理性批判』のなかで「再生的創 造」と「産出的創造」ということを言っています。「産出的創造」が重要で す。自分の独自の発想でポンと横へ跳ぶフットワークの軽さから独創性が生 まれ出てきます。自分の信じる指導方法にこだわって実践してみることで す。画一的な、他者に同調するだけからは自分の学級児童に見合った独創的 な指導方法は生まれ出てきません。アベタカ氏のこれら創造への積極的な意 欲と行動が、アベタカ氏をぐんぐんと大きくしていくことでしょう。 「阿部なりの表現よみの試み・その2」への感想 ★共同助言のしかた 学級全員の前で一人ひとりに表現よみの発表をさせる。そのとき、アベ タカ氏は、「今の表現よみを聞いて、よかったと思うところを発表してくだ さい」と問いかける。「よかったところ」に限定するその理由は、生徒各人 が「一生懸命に試みようとしたことを認め合う」ということからだ。どうし ても気になること、直した方がよいと思うところがあったら、教師が「次は こうしたほうがいいね」というかんじでアドバイスをする」と書いていま す。 この教育的配慮はとてもいいと思います。合評とか批評とか感想発表と か評価とかというと、相手の悪いところだけに目がいき、とかく酷評の連続 になりがちです。どうも良い点が発表されない傾向があります。これでは、 音読嫌いの児童を作ってしまいます。 わたしはこうしています。「まず、よいところを発表させます。ささい なことでもいいから、できるだけたくさん出させます。出終わったところ で、「次にもう少し頑張るともっと良くなるところ、ちょっと頑張ればよく なるところを発表しよう、と問いかけます。「だめ(下手)だったところ、 悪かったところ」という言葉は使わないように学級内で約束しています。 ★「全員で読み取り」の実際、への感想 教材文「水の中で太一はふっとほほえみ、口から銀のあぶくを出し た。」について、この一文をどう音声表現していくか、アベタカ学級児童達 の反応(発表)が書いてあります。児童達の反応を読むと、文章内容をかな り深く理解し、的確な音声表現のしかたを発表していると思います。児童た ちの意見をまとめると、「ゆっくり読む」と「頭の中に思いを巡らさせてい るように読む」になるかと思います。この読み方に、わたしは賛成します。 どんなことを頭の中に思うか、がとても重要です。 さらに、わたし(荒木)だったらを付け加えると、「ふっとほほえみ」 を歯切れよく粒立てて、ゆっくりと読みます。「あぶくを出した」をしだい にゆっくりと、しだいに音量を下げ気味に読みます。また、この地の文は三 人称「太一」の目や気持ちに寄り添った描かれ方になっている(全体とし て、作者は太一の行動を外から客観的に描いているが。つまり、太一につか ず離れず、合う合わずの寄り添い方になっている)ので、頭の中にそのよう な思い(気持ち)を巡らせて音声表現していきます。 「阿部なりの表現よみの試み・その3」への感想 ★三児童の表現よみへの感想 「この物語のクライマックスに重なる文章部分」の指導個所です。三名 の児童の実際の読み声がメデアプレイヤーで聞けます。A君、B君、C君の 読み声を聞いたわたしの感想を次に書きます。 アベタカ氏は子ども全員に「オーバーにならない」、「ニュース読みの イメージで」、「早口にならない、語尾を上げない」の三つの重点事項を指 導し、本時では確認したと言う。実際の読み声を聞くと、これら三つは確実 に守られています。また、三名の「意識して読む個所」の留意事項に書いて ある事柄もきちんと守られています。「ニュース読みのイメージ」とは、へ んに抑揚をつけて、必要のないところでおかしな情感づけをしないこと、つ まりニュースのように淡々と意味の区切りをはっきり、伝えたいことが明確 に音声にのっかり、聞き手に正確に伝わることを第一義に音声表現するとい うことです。この点でも、三名の児童達の表現よみはきちんと音声表現され ていると思います。 大枠では、3名とも初めての表現よみにしては上手な音声表現をしてい ると思います。ここで、無理をして、もっと努力するとさらによくなる点を 言うことにします。 A君には、「どけ」の「け」が極端にはね上がって、へんに聞こえるこ と、「おられた」を歯切れよく読むとさらに完璧になると思います。 B君には、文末の語尾の母音が長すぎるので、短く切って、しまりをつ けたほうが、さらによくなると思います。「ほほえみィ」、「出したァ」、 「どけェ」、「作ったァ」と語尾の母音が長くならないようにすることで す。 C君には、ところどころ(「もり」、「おられた」、「来ますから」、 「殺さないで」)に少しばかりの発音不明瞭があるので、一音一音を明瞭に 発音すると、さらによい読みになると思います。 ★わたしが表現よみをするとしたら わたしがこの文章部分を表現よみするとしたら、次のようになります。 「ふっとほほえみ」と「あぶくを出した」をゆっくりめに読みます。 「ふっとほほえみ」は「あぶくを出した」よりは、より粒立てて発音明瞭に 読みます。「ふっと」と「ほほえみ」のあいだに軽く間をあけ、この二語を より強調します。 クエに刃先を向けていた太一の心境に大きな変化があったことを音声で 出します。つまり、刃先をクエから自分の足先の方へどけたことを、太一の 行動の変化・移動がハッキリと声に出るように音声化します。 「もう一度(間)えがおを作った」の「もう一度」を粒立てて音声化 し、太一の心境が激変したことを声でしめします。「ほほえみ」から「もう 一度えがお」へと、類似した語句を重ねている表現、「もう一度」を「二度 も」という意味で強調した読み声にします。「ほほえみ」と「えがお」から この場面は、太一の心が沈静化し、平安となり、安寧と安らぎの心境に至っ たことを、ゆったりと落ち着いた音声にして表現していきます。 会話文「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」 は、つづく地の文に「こう思うことによって」と書いてあるので、この会話 文は声には出ておりません。思っただけで、太一の心声(内言)です。声に 出ていないような音声表現にして、頭の中に思っている独り言口調の声にし ます。平安にして従順な、かつ父(クエ)へのあふるる愛の言葉かけにして 語りかけます。実際に対面しての語りかけ口調でなく、地の文の読みに接近 (連続)した軽い語りかけ口調にします。 「殺さないで」をやや高めにし、「すんだのだ」をぐっと声を落として ゆっくりめに読みます。 「この海の(間)いのち」を粒立ててはっきりと読みます。「海のいの ち」ではありません。「この海の、いのち」です。「この海」とはいって も、思いは「海一般」のつもりで声に出して読みます。 わたしの解釈 音声表現の仕方は、人それぞれに作品の解釈によって変ってきます。ど う解釈するかによって、どの文章個所をどんな音声技術でめりはりをつける かが変ってきます。わたしの音声表現の技術的な面を上述しましたが、どう してそう読むのかの、わたしのここの文章個所の解釈を次に書かないといけ ません。 「海のいのち」における、ここの文章個所は、とくに多様な解釈が成立 する部分だと思います。 ここの文章個所だけでも、わたしには次のような疑問が出てきます。 (1)なぜ太一は、クエを殺さなかったのか。 (2)なぜ太一は、ほほえんだのか。 (3)なぜ二度もえがおを作ったのか。 (4)なぜ「おとう」と「クエ」は同じ人物みたいになったのか。 (5)なぜ「おられた」と敬語を使い、「会いに来ますから」と言って、 去ったのか。 (6)「殺さないですんだ」とは、どういうことか。 (7)「海のいのち」とは、どういう意味か。 人が違えば、また違った疑問が出てくるでしょう。それらの疑問に答え る各人の答え(解釈)もそれぞれに違ってきます。どれが正しく、どれが間 違っているとも決定しかねることが多いでしょう。各人の解釈の違いによっ て音声表現のしかた、めりはりのつけかたは微妙に違ってきます。 これら七個のわたしの疑問に答えるために、わたしなりの解釈を次に書 くことにします。 わたしの解釈は、一人の哲学者と一人の宗教家の考え方を借りることに します。ハイデガーと道元です。二先哲への私の理解が間違っていなけれ ば、全くそのまま借りているといってよいでしょう。立松和平『海のいの ち』を読み解くキー・コンセプトは「生と死をどう考えるか」にあると私は 思います。 ハイデガーの「生」・「死」観 ハイデガーの生死観は、彼の主著『存在と時間』の第二編、45節から 60節に書いてあります。死については、45節から53節に集中的に書い てあります。生死観の記述は、『存在と時間』の目次では第二編前半に位置 しています。第一編から第二編への論述は「予備的」分析から「より存在論 的な」分析へと移っています。人間の実存論的な分析から存在論的な分析 へ、つまり、人間が世界にどう純粋に実存論的に関わって存在しているかの 記述から、死の意味(不安)に気づくことによって人間本来の存在の仕方を 考究する記述へと移っています。 ハイデガーは、わたしたちの日常生活は「頽落」していると言います。 「頽落」とは、わたしたちの日常生活の会話は、週刊誌やスポーツ新聞記事 やテレビワイドショーや隣近所の噂話などの話題に典型的にあらわれていま す。これは、人間本来の真理、真実の語り合いとはかけ離れた空談に過ぎな い、と言います。本来的なものでなく、頽落した非本来的なものである、と 言います。 ハイデガーは、つづけて次のように言います。人間の本来的な存在を把 捉するには「死」の意味を深く追究することだ。人間は日常の多忙にかまけ て「死」の問題を回避している。人間だれしも「死」への不安と怖れを抱い ており、故意に死を考えないようにし、死に触れないようにし、死から身を 引き、死を隠蔽して日常生活を送ろうとしている。この事実は人間の頽落し た生活の本質を示すものだ、と言います。 ハイデガーは、さらに次のように言います。人間は、死へと向き合う真 剣かつ自覚的な態度を持たなくてはならない。死と真正面から直面すること により、自分の本来性、そして他人と共存在していく本来性のある可能性が 開かれてくるのだ。「自分のほんとうの生き方はこうだ。こうであるべき だ」と、自分の本来的な存在をほのめかす(告げる、呼びかける)もの、そ れは「良心」である。人間は死の不安や怖れへの用意をしつつ、死の不安や 怖れに耐えつつ、おのれを企投せよ(生活せよ、生きよ)。こう、ハイデ ガーは言います。 立松和平「海のいのち」では、太一は父の復讐のため、クエ(大魚)の 鼻づらにもりを向け、クエ(大魚)と戦い、クエを殺そうとしました。しか し、それを中止しました。なぜか。 太一の「良心」に大きな変化が起こったからです。太一の「良心」にど んな変化が、なぜ起こったのでしょうか。「死」と「生」について、太一の 心境にどんな変化が起こったのでしょうか。 道元の「生」・「死」観 わたしたちの日常生活は死を回避し、死を恐れるが故に生に執着してい るのが普通です。道元は「生死にこだわる気持ちを捨てよ」と言います。 「私達の生死は仏の御いのちである。生死の問題を回避すれば、仏の御いの ちを失ってしまう。生死に執着すれば、また御いのちを失ってしまう。回避 せず、執着せず、このときはじめて仏の御いのちそのままとなる」(『正法 眼蔵』生死)と言っています。 道元においては、この世はすべて仏の世界です。この世のものごとはす べて仏法であり、真実の実現それ自体です。煩悩と菩提は表裏一体で別々の ものではないと言います。自分の身勝手から万法の真実を明らかにし、悟り を期待したりするから、煩悩があるのであり、万法の側から自分を照らすこ と、つまり自分のうちに仏道があることを行動で実証していけば菩提となる のである、と言います。自己の意識、あらゆるとらわれがなくなった境地、 身心を脱落し、我ありと執着する心を捨て、ひたすら仏法中に入ることに よって得道の悟りを得る)となる、と言います。 教材「海のいのち」に話題を戻そう。 太一は成長し、屈強な若者になるにつれ、父の命を奪った大魚(クエ、 瀬の主)への敵討ちの思いはどうにも押しとどめようもなく発動し、戦いを いどむ行動を開始しようとします。とうとう父の海にやってきました。太一 はクエの鼻づらに向ってもりをつき出します。だが、太一は、戦うこと、ク エを殺すことを中止してしまいます。 クエの血で海が赤く染まるか。太一の血で海が赤く染まるか。それとも 両者の血で海が赤く染まるか。どちらが勝つか。太一とて死を直前に恐ろし いまでの不安を感じたことでしょう。父の敵討ちが抑えようもなく膨れ上 がってきたことでしょう。敵討ちが何になるのか。どんな価値があるのか。 それを母は喜ぶのか。それらが重なり合って、太一は遅疑逡巡したことで しょう。 結局太一は、父への敵討ちの妄執の鬼となって戦いをいどむことをここ で中止します。逆に、太一はクエにえがおを送り、また来ると言葉をかけ て、去ってしまいます。 なぜ、太一の心境が激変したのか。すさまじい修羅の場を作ることな く、クエに微笑みと笑顔を与えて去ってしまったのか。その理由はなにか。 この解釈の仕方(前の七つの疑問も含めて)が、この文章個所の音声表現に 大きく影響してきます。解釈の違いが音声表現の違いとなって表れます。こ この解釈の仕方は種々あるだろうが、これが分からず(どれかに判定せず) に音読すれば、単に文字づらを音声にしているだけの、うわのそらの「そら 読み」になってしまいます。 ★わたしの解釈は次のようになります。 ここの文章個所を読むと、(その後の幸せな太一一家もそうだが)わた しには、激変した新しい世界が見えます。わたしには、太一の大転換した仏 道の世界が見えてきます。海の静謐かつ寂滅かつ清浄な世界が現出してきま す。安穏かつ平安な世界、安心立命の世界です。太一の得道(悟り)の世界 です。絶対な仏道世界の中にどっかと坐った悟り(無心・無身)の境地にあ る太一の姿です。世の諸行無常を観じた太一の仏道の世界にいる姿です。 道元は、仏法の伝授(授記)に「単伝」ということを言います。「単 伝」とは師匠の仏の命をそっくり一人の弟子に伝えることです。師と一つ屋 根の中の住み、座禅をし、喜怒哀楽を共にする生活の中で、師の生きざまの すべてを盗みまねるやりかたです。「盗みまねる」は、前記した話芸だけに あるのではなく、仏道にも同じくあります。道元の生涯を書いた本を読む と、特に中国修行時代は正師を求めて諸山遍歴し、参禅修行して師と共に生 活し、とうとう正師・如浄に出会ったことが書かれています。 太一も、与吉じいさに弟子入りし、はじめは「なかなかつりばりをにぎ らせてもらえなかった」。その時、与吉じいさは太一に「千びきに一ぴきで いいんだ」と語っています。そして毎日タイを20ぴきだけ、決まった数だ けをとります。それからしばらくたったある日、与吉じいさは太一に「おま えは村一番の漁師だよ」と言います。やがて太一は村の娘と結婚し、「太一 は村一番の漁師であり続けた。千びきに一ぴきしかとらないのだから、海の いのちは全く変らない。」(本文の終わりの部分)と書いています。 漁師は魚を売って生計を立てています。人間は動物や植物を殺して、そ れを食べて生きています。動物世界自体もきびしい生存競争の世界です。自 分より弱い動物(植物)をころし、それを食べて生きています。人間も、動 物も、殺し合いの世界の中で、食べて、生きています。まさに諸行無常の世 界です。 ★人間が食するために生き物を殺す、について 道元は「生き物をむやみやたらに殺すな」と言います。道元が生き物を 殺すなという意味はこうです。自然界の生き物たちは自然の摂理に即して生 きるように生まれついている。利益や財産や名誉や地位の保持のために生き 物をやたらに殺すな。それぞれの種属が末長くバランスよく調和を保って生 き続けるようでなければならない。食のための殺しは必要最低限でなければ ならぬ。利益(財産)や名誉や地位やグルメ(美食、飽食)のために殺すこ とはやめよ。つつましやかな食で十分だ。 この世は諸行無常の世界である。生あるものは必ず死に、形あるものは 必ず壊れ、消える。生を説明すれば「死」に言及しなければならず、死を説 明すれば「生」に言及しなければならない。「生」と「死」とは相互依存の 関係にある。生は死であり、死は生であり、仏心の中にある。食するもの は、自分の生命を維持させてもらっているのだという謙虚な姿勢と感謝の 念、慈悲をもってこれを許したまえという気持ちがなければならない。生き ものの世界は生でもあり、死でもある。無常世界の生命の永遠性はここのあ るのだ。 まとめ 道元『正法眼蔵』は「正しい法(仏法、真なる理法)の眼目が収められ ている蔵」という意味だそうです。ただひたすら座禅することによって得ら れる真理の体験、悟りの体験のことを「自受用三昧」(じじゅようざんま い)というが、この世界は現実の論理を超越した形而上的世界であります。 悟りの世界は、そんな体験のない凡人のわたしには超理解困難な世界であ り、ここから先は書くことができません。六年生には、やはり理解できなで しょうから、これまでわたしが書いてきた程度の内容で道元の世界の大体を 理解していただくほかありません。 なぜ、太一の心境が激変したのか。わたしはこう考えます。太一はクエ にもりをつき出すが、「全く動こうとしない」、「おだやかな目」、「自分 に殺されたがっているクエ」を見て、太一は仏法のある種の悟りを感じたの だと思います。太一にはクエが海の支配者、海の守り神、覚者(悟った 者)、「生者かつ死者」としての仏的存在、つまり父でもありクエでもある 存在と見えた(悟った)のだと思います。道元においては、ひたすら座禅の 修行をすれば悟りの世界に至るのですが、教材文「海のいのち」では座禅が 欠落しています。しかし、物語なる創作物であるので欠落は当然に許される ことでしょう。道元においては、仏法は、わたしたちの日常生活のすべてに 生きており、海も陸も包みこんで、根づいている自然の摂理に添った生命力 (海の命、陸の命)としてあるのです。 「本当の一人前の漁師」には二つの意味があります。「利益(財産)や 名誉や地位の保持のために大量に捕獲する漁師」と「自然の摂理の添ってつ つましやかな食のためだけの量を捕獲する漁師」です。この作品で、どちら の漁師を推挙しているかは、書くまでもありません。 以上で、前記したわたしの七つの疑問への回答、また、この作品の主題 に関わることについての回答も、わたしなりの答えを、一つ一つではない が、それなりに書いてきたつもりです。 最後に音声表現について書くと、ここの文章個所は、こうごうしくあ り、神秘的な世界です。わたしだったら全体の読み口調は、トーンを落とし てゆったりと、平安に満ちた心静かな、澄明な音声にして、できれば久遠の 世界から声明の声をかすかに耳に聞き入れつつ、そんなイメージも入れて音 声表現したいものだなと思います。 参考資料(1) ≪クエという魚≫ クエは、深い海底の岩場に住み、大きいものだと35キロ〜50キロ以 上にもなる魚です。物語「海の命」に出てくるクエもかなりの大きさのよう です。太一の父はもりで突いて獲ったようですが、ふつうははえ縄で釣り上 げる漁法で獲ります。釣れない日が何日も続くのがふつうという希少魚です。 味はあっさりとして、脂がのり、まろやかで繊細です。さしみ、しゃぶ しゃぶ、鱗のから揚げ、皮の湯引きポン酢、胃袋と肝の酒蒸、クエ鍋、雑炊 などで食べる。 年に数匹しか釣れないという幻の魚。冷凍すると味が落ちるから値段が 高い。魚屋で、一匹10キロのクエなら、10万円はするという高級魚。ク エ料理のコースで一人前、一万円は軽くするらしい。クエ料理の食堂(料理 屋)に予約しておき、ハイの返事があってからでないと、すぐには口にでき ない高級魚。 参考資料(2) わたしは、こんなことを願っています。地球という生きとし生けるも の、生きてることへの歓喜、すべて生命の讃歌をうたいあげる、こんな地 球であったほしいと願っています。 地球上の生物たちは、特に動物たちは、食うか食われるかの生存競争 の世界です。しかし、人間は、大自然に包囲され、大自然と折り合いをつけ ながら、大自然の恵みに感謝しつつ生存をつづけてきました。大自然の摂理 にしたがって折り合いをつけつつ生存を続けてきました。 最近、環境破壊が叫ばれ、環境問題が大きくクローズアップされてきて います。利益優先・利潤追求の商業主義が、大自然の恵み(神)への感謝を 忘れさせ、大自然の摂理(神)を破棄する地球環境の破壊が進んでおり、と ても残念です。 次は、世界の海の一例です。東京新聞・2003・5・15より引用。「海の 命」のテーマは、下記のような事柄にも関わり、問題を投げかけています。 記事の見出し【世界の魚 九割減少。乱獲、予想超える影響…50年間 で。カナダのグループ発表】です。 太平洋や大西洋など世界の海で捕れるマグロやタラ、ヒラメなど、主要 な魚の量が過去五十年間に、ほぼ90%も減ってしまったとの調査結果をカ ナダ・ダルハジー大のグループがまとめ、十五日付けの英科学誌ネイチャー に発表した。 魚種に関する同様の分析はあったが、世界各地の海で総漁獲量が大幅に 減っていることを確認したには例がないという。 乱獲が海洋資源に与えた影響がこれまで考えられてきた以上に大きいこ とを示す結果で、グループのランサムズ教授は「海洋資源回復のためには、 現在の漁獲量を大幅に減らすことが必要だ」と指摘している。 グループは太平洋、大西洋、インド洋のほか、四か所の大陸棚での漁獲 量に関するデータを集め各海域での大規模な漁業活動が始まった直後から、 釣り針百個にかかった魚の数の推移を調べた。 いずれの海域でも魚の数は、漁業活動が盛んになった直後の十年から十五 年程度のうちに、ほぼ80%減少。緩やかながら減少傾向が続いていた。 日本の漁船が世界の海で行っているはえ縄漁について、1950年代以 降のデータの分析からも同様の結果が得られた。 参考資料(3) 東京新聞(2014年12月6日)に「クエ料理(静岡県御前崎市)」という題の、こんな記事が掲載されていた。(文・白井康彦) 「冬の養殖のクエがおいしい」と聞いて、静岡県御前崎市に出かけた。 養殖に取り組んでいるのは県温水利用研究センター。担当員の研究員、石原進介さん(36)が水槽に餌を投げ入れると、バシャバシャとクエが群がった。「夏はもっとすごい勢いで餌を食べるんですよ」。石原さんは目を細めた。 クエはハタ科の大型魚。日本では関東以南に分布し、全長1・5メートルぐらいになるものも。口が大きく、ごつい顔つきが印象的だ。センターでは全長30〜40センチで出荷する。 卵から稚魚に育てるクエの完全養殖に成功したのは2005年。日本初の快挙だった。 当初は、センター西側にある中部電力浜岡原子力発電所の温排水を利用していた。東日本大震災後の11年5月、原発の稼働がストップし、温排水が使えなくなった。クエ養殖も先行きが心配されたが、海水を温めるボイラーを導入。死亡率の高い稚魚は、加熱した海水で育て、生後六十日ごろからは通常の海水を使うようにした。 「冬は成長が遅くなる。温排水を利用していたころは約二年で出荷できたが、今は四年かかります」と石原さん。 市観光協会事務局長の小野木邦治さん(49)によると、クエはその立派な風貌から、この地域で「家老」と呼ばれてきた。「天然物は釣るのが難しいので、地元の店は料理に出すことはあまりなかった」という。 完全養殖に成功したことで、飲食店が料理法を研究。07年からクエ料理の提供を始めた。11月から3月までがシーズンで、今季は千匹を出荷する。料理店関係者は「クエは珍しいので、関東や中京圏からもお客さんが来ます。好評ですよ」と口をそろえる。 【味わう】 市内の料理店「かいづか仲町店」でクエ料理を味わった。刺身と空揚げ、煮つけ、鍋のフルコース。白身のわりに脂がのってうまみがあり、味がしっかりしていた。 鍋は、クの頭部と身、白菜やネギなどの野菜、豆腐。素材の味が染み込んだ汁までおいしく、はしが猛烈に進んだ。料金は5900円(税別)。 御前崎クエ料理組合に加盟する料理店やホテル、民宿など11店で味わえる。問い合わせは市観光協会=電話0548(63)2001=へ。 【荒木コメント】 上記の文中に「天然物は釣るのが難しいので、地元の店は料理に出すことはあまりなかった」とある。教材文「海の命」と関連づけて言うと、クエの「天然物は釣るのが難しい」の文に注目したい。「釣る、モリで突く、難しい」に注目すると、「海の命」がより深く解釈できるようになる。 トップページへ戻る |
||