音読授業を創る そのA面とB面と   05・12・23記




 
「りんご」の音読授業をデザインする(2)




●詩「りんご」(山村暮鳥)の掲載教科書………………………光村6上




         
 リンゴは高級品だった 



  日本で「りんご」の名が記録されたのは平安時代の中頃(918年)で
す。それは中国から渡米した「和りんご」と呼ばれる粒の小さい野生種で
した。
  今日のようなりんごが作られたのは、まだ135年ほど前のことです。
1871年(明治4年)に開拓史がアメリカから種子を輸入しました。その
結果、りんごは信州や東北地方の冷涼地に適していることが分かり、新作物
として普及しはじめました。
  はじめ粒の小さな「和りんご」と区別するために「西洋りんご」と呼ば
れていましたが、品質や果実の大きさがすぐれているため「和りんご」に代
わって、「西洋りんご」の栽培が広がりました。やがて「せいようりんご」
は、単に「りんご」と呼ばれるようになりました。
  大正時代に入ってりんご栽培がしだいに普及するようになりましたが、
太平洋戦争になると日本政府はりんごの作付け統制や増殖禁止や伐採の命令
を出しました。
  敗戦後、荒れ果てたりんご園の建て直しが盛んに行われ、接木による品
種更新、交配による品種改良により、高級りんご作りへの試作も行われまし
た。外国産とくらべて日本のりんごは「味の芸術品」とよばれ、その後も絶
え間ない品種改良が行われてきました。(以上、三水アップルミュージアム
のHPより抜粋引用)

  山村暮鳥は明治17年に生まれ、大正13年に永眠しています。山村暮
鳥の生存していた明治・大正時代は、今日のようにリンゴが盛んに栽培さ
れ、店頭で安い値段でたくさん売られていたわけではありません。一般庶民
には、容易に口に入る果物ではなかったことは確かです。山村暮鳥の時代
は、りんごは超高級品だったろうと思います。
  わたし(荒木)の少年時代(昭和20年代)も、りんごやバナナは病気
見舞いの贈り物とか、御進物として利用されていました。当時は、りんごや
バナナは、一般庶民にはほど遠い高級品としての果物でした。現在のように
たやすく手にはいる果物ではありませんでした。



             
りんごの唄



  わたしにとって「りんごの唄」は、なつかしのメロディーです。今の若
い人々にはなじみのない歌でしょうが。
  わたしが小学校一年生の時、大日本帝国は米英露を相手にした大戦争に
大敗しました。多くの日本の都市は焼け野原になり、人々は、食うこと、生
きることに精一杯でした。街には浮浪児や物乞いがあふれました。戦災で、
引き上げで、別れ別れになった人々のため、NHKラジオからは「尋ね人の
時間」がひっきりなしに流れていました。人々は、焦土と化した瓦礫の中に
廃材やトタンやござで囲った掘っ立て小屋を建てて住みました。食べるもの
はなく、少しばかりのひえ・あわ・かぼちゃ・さつまいもなどで胃袋を満た
したのでした。
  天皇による敗戦宣言は,1945年(昭和20年)8月15日正午のラ
ジオ放送でした。それから遅れること一か月の9月、戦後初の日本映画
「そよかぜ」(松竹製作、佐々木康監督)が封切られました。その映画のヒ
ロインとして主演したのが並木路子さんでした。並木さんが歌ったその映画
の挿入歌が「りんごの唄」でした。「りんごの唄」は爆発的な人気を博し、
日本全国の老若男女の人々に口ずさまれることとなりました。
  これまでは軍歌一色の世の中でした。歌といえば軍歌だけしかありませ
んでした。声高らかに歌えるのは、軍歌だけでした。底抜けに明るく、さわ
やかな歌声で歌う並木路子さんの「りんごの唄」は、当時の暗くすさんだ世
相の中にあって、明るく生きようとする希望と勇気を与える歌として迎えら
れました。重く沈んでいた終戦直後の空気を一掃するかのように、当時の人
々を魅了しました。
  「りんごの唄」は、敗戦でうちひしがれていた庶民の心をつかみ、復興
をめざす人々の心に希望の光を灯したのでした。高貴な生活への夢と希望を
抱かせる、というかそうした幻想の夢と希望を抱かせる歌なのでした。こう
して底抜けに明るいメロデーとリズムをもつ「りんごの唄」は、戦後歌謡曲
の第一号として爆発的な大ヒットとなったのでした。
  もちろん、当時はりんごが食べられるなんてことは夢のまた夢のことで
した。わたしが思うに、この夢のまた夢が、夢のりんごの表象と結びついて、
この「りんごの唄」の歌詞となったのだろうと思います。高貴なリンゴの表
象と、高貴なムスメの表象とがダブルイメージとなり、高貴な生活への夢と
希望を抱かせる幻想や癒しを人々に与える歌となったのでした。歌っている
並木路子さん自身「リンゴってどんな味だったかしら……」と一生懸命に思
い出しながら歌っていたと後に語ったそうです。
  作詞者・サトーハチローさんのほんとの気持ち・動機・主題は分かりま
せんが。


             りんごの唄

                  サトーハチロー作詞  
                  万城目 正  作曲

         赤いリンゴに 唇よせて
         だまって見ている 青い空
         リンゴは何にも 言わないけれど
         リンゴの気持ちは よく分かる
         リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

         あの娘よい子だ 気立てのよい娘
         リンゴによく似た 可愛い娘
         どなたが言ったか うれしい噂
         軽いクシャミも とんで出る
         リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

         朝の挨拶 夕べの別れ
         いとしいリンゴに ささやけば
         言葉を出さずに 小首を曲げて
         あすも又ねと 夢見がお
         リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

         歌いましょうか リンゴの歌を
         二人で歌えば なお楽し
         みんなで歌えば なおなお嬉し
         リンゴの気持ちを 伝えよか
         リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ



  この「りんごの唄」の歌詞について、例によって、わたしの独断と偏見
による全くの身勝手な解釈を加えてみましょう。

第一連
  赤いりんごに唇を寄せても、りんごは何にも言わないけれど、高級な香
りや風味をわたしに運んでくれる。わたしに高貴な雰囲気や気分を与えてく
れる。なんとまあ可愛いりんごだことよ。

第二連
  あの娘、よい娘だ、気立てのよい娘。あの子の高貴さは、りんごの高貴
さとよく似ている。可愛いりんご(娘)よ、いとしい娘(りんご)よ。あな
たは、わたしに生きる勇気と希望を与える星です。

第三連
  いとしいりんごに、朝のあいさつ、夕べの別れをすれば、あすもまたね
と、返答がかえってくる。あすもまたねと、夢見顔でほほえんでくれる。お
お、わたしの希望の星よ、期待の星よ。勇気を与えてくれる星よ。

第四連
リンゴの歌を、一人で歌うより二人で歌えばなお楽しい、みんなで歌えばな
おなお嬉しい。かわいいりんごよ、生きる希望の期待の星よ。


  この「リンゴの唄」の歌詞は、「りんご」を「恋人」に仮託した歌と解
釈できます。男女間の恋心が一番から四番へ進むにつれて二人の親密さが増
し、淡い恋愛感情がしだいに深まっていくストーリー展開の物語であるとも
解釈できます。
  当時の敗戦直後の暗い世相を打破する、復興をめざす人々に明るい希望
の光を抱かせ、高貴な生活への夢と希望を与える、そうした歌として流行し
たのでした。


            
参考資料


 東京新聞を読んでいたら、下記のような記事がありました。東京新聞(20
15・8・19)の記事「戦後70年、甦る経済秘史、りんごの唄」からの引用です。
「リンゴの唄」が生まれた時代背景が書かれています。

          
奪い合った魅惑の味

 赤いリンゴに唇よせて……
 歌手の並木路子=当時24歳=が歌いながら、リンゴを籠に入れて観客席
を回ると、人々が殺到し、奪い合いになった。
 終戦から約四カ月を経た1945(昭和20)年12月10日。東京・日
比谷で行われたNHKのラジオの公開録音。
 「リンゴを手にした人はまるでその年の幸運をつかんだようでした」。得
られなかった人は肩を落としてがっかりしている。
 「たった一個のリンゴでそんな騒ぎになった。今から考えると信じられな
い情景でした」。並木が後年、自伝で回想している。
 戦後初の大ヒット曲「りんごの唄」。勇ましいだけの軍歌にあきあきして
いた国民はかれんで希望に満ちた歌に共感したとされる。だが、国民はリン
ゴが食べられる時代が戻ってきたことを素直に喜んでいたとの見方もある。
「焼け跡の闇市に平和な時を思い出させるリンゴが並べられるのを人々はど
んなに心惹かれて見入ったろう」。「青森県りんご百年史」が書いている。
 当時、リンゴは一個五円、現在価格にして一個五千円ほどもする超高級品
だった。戦時下の強制的な生産抑制の影響で極端な品不足だったのだ。
 第二次大戦中、コメやイモの生産を奨励した政府はリンゴを「ぜいたく
品」と敵視した。青森などの産地からは甘酸っぱい香りが消えた。
 「父が「りんごの唄」を書いたのもそんな戦中でした」。詩人サトウハチ
ロの次男、佐藤四郎が明かす。だが、軍部は歌を「軟弱」として世に出すこ
とを禁じた。
 歌もリンゴも厳しい弾圧にさらされていた事実が浮かび上がる。

          
ジャガイモ畑に

 「食糧増産隊」を名乗る百三十人の青年は大挙してリンゴ畑にやって来た。
木をおので切り倒し、縄を掛け根元から引っこ抜く。第二次大戦末期、19
44(昭和19)年の晩秋、リンゴの一大産地である青森県清水村(現弘前
市)。地元農家石岡国男(故人)が記録に残している。
 二週間で三千六百本が伐採された。石岡の親戚でリンゴ農家の石岡豊は
「伐採された後、大豆やジャガイモ畑になったのを覚えている」と話す。
 69年に刊行された青森県りんご対策協議会「二十年の歩みに」は「あと
二、三年戦争が続いたら全てジャガイモ畑に変わっただろう」と記している。

          
作るやつは国賊

 明治期に青森県で盛んになったリンゴ栽培は長野県などの拡大した。昭和
には植民地だった台湾などへ輸出も増えた。小粒で酸っぱい「紅玉」、持ち
がよい「国光」が主流品種だった。
 だが、戦況悪化で軍部は米やイモなど主食になる作物の増産を優先した。
 41年にはリンゴの木を新しく植えることを禁止した。43年には「りん
ご園耕作転換令」で一部切り倒しとイモなどへの転作を命令した。元農協職
員の秋田義信は「リンゴ農家には農薬や肥料も配分されなくなった」と話す。
 「リンゴを作るヤツは国賊だ」。このコトバを、リンゴ栽培技術の研究者、
三上敏弘は軍に協力する大政翼賛会が叫んでいたのを覚えている。
 清水村は全体の二割を伐採させられた。「この大木は父が植えたもので4
0年になります」。地元紙は農家が無念そうに自ら木を切る様子を報じた。
 地元の警官は、火の見やぐらに登り、双眼鏡を使って農家がリンゴの作業
をしていないか監視した。田植え期にリンゴの袋がけをした農家を逮捕した。
 42年に21万トンだった青森県の生産量は終戦の年には一割にも満たな
い一万八千トンに激減した。リンゴ農家は壊滅にひんした。

           
苗から育て直し

 「リンゴの唄」の歌詞はそんなリンゴ受難の時代に誕生した。
 詩人サトウハチローの祖父、佐藤弥六は、弘前の藩士出身の士族で、明治
時代には青森の人々にリンゴ栽培を指導した人物である。栽培法などを記し
た『林檎図解』も著した。「ハチローは本名の八郎の名付け親でもあるこの
祖父にとてもかわいがられた」(ハチローの次男、四郎)。詩人はこの祖父
を通じリンゴに思い入れがあったらしい。だが軍の検閲で歌の歌曲化は禁じ
られた。
 戦後、ようやく日の目をみたリンゴの唄。
 「復員してきた兄が畑で作業をしながらよく歌っていた。リンゴ農家にと
っては特別な歌。壊滅的な状況から回復できるかの瀬戸際に励まされた」。
三上は回想する。曲のヒットも手伝い、全国から注文が増加した。
 だが、大量伐採の影響は深刻で、苗から育てなければならなかった。「苗
木も生産していた父のところに周辺の農家が殺到した」と三上は言う。青森
県のリンゴ生産量が戦前の水準を超えるまでに4年かかった。

(注)
 並木路子と「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)
 1921年に生まれ。松竹歌劇団に入団。44年、父と兄を戦争で亡くし、
45年東京大空襲では避難中に母が川に落ちて亡くなった。終戦直後、映画
「そよかぜ」(佐々木康監督、1945)の主役となり、この映画で「リンゴの
唄」を歌った。「リンゴの唄」は「戦争で肉親を失ったのは私だけではない。
悲しみは捨てようと決めて明るく歌った」という。2001年79歳で死去
する。


          
山村暮鳥のリンゴ観



  光村版教科書に掲載されている山村暮鳥「りんご」の詩は、詩集『雲』
に収録されている。この詩「リンゴ」は、詩集『雲』の中では終わりのペー
ジのほうに記載されています。

  詩集『雲』には、教科書掲載の「りんご」の詩のほかに、題名が「おな
じく」という記述で、りんごについての詩が、教科書掲載の「リンゴ」の詩
のあとに連続して記載されています。
  暮鳥死後50年以上が経過して著作権も解除されていますので、ここに
教科書掲載の詩に連続する「おなじく」という題名のリンゴの詩を、詩集
『雲』からそのままに以下、引用します。
  これらの詩を読むと、暮鳥が果物・リンゴについてどのような認識をも
っていたかが理解できます。

  教師たちが教科書掲載の詩「りんご」を指導するとき、この詩をどう解
釈して教壇に臨むか、どんな構えで授業に臨むか、が以下の詩を読むことで
分かってくるでしょう。
  「リンゴ」に連続する以下の詩を読むと、「リンゴ」の詩の解釈におお
いに役立つことだろうと思います。児童の指導に大いに役立つことだろうと
思います。なお、旧仮名遣いは、新仮名遣いに直して書いています。

  はじめは、教科書掲載の詩「りんご」があって、つぎに「赤い林檎」が
あって、それから「おなじく」「おなじく」と連続していきます。

  山村暮鳥には、りんごについてに詩がたくさんあります。他の詩集から
も採録したりんごの詩も書いておきました。

さあ、みなさんも、わたしにならって、下記の詩を読み、みなさんの独断と
偏見によって(失礼な言い方で、ごめんね)、山村暮鳥はリンゴをどのよう
に観ておったか、一つ一つの詩についてコメント(解釈)を加えてみましょう。




           りんご

        両手をどんなに
        大きく大きく
        ひろげても
        かかえきれないこの気持
        林檎が一つ
        日あたりにころがっている




           赤い林檎

        林檎をしみじみみていると
        だんだん自分も林檎になる




           おなじく

        ほら、ころがった
        赤い林檎がころがった
        な!
        嘘嘘嘘
        その嘘がいいじゃないか




           おなじく

        おや、おや
        ほんとにころげでた
        地震だ
        地震だ
        赤い林檎が逃げだした
        りんごだって
        地震はきらいなんだよう、きっと




           おなじく

        林檎はどこにおかれても
        うれしそうにまっ赤で
        ころころと
        ころがされても
        怒りもせず
        うれしさに
        いよいよ
        まっ赤に光りだす
        それがさびしい




          おなじく

       娘達よ
       さあ、にらめっこをしてごらん
       このまっ赤な林檎と




          おなじく

        くちづけ
        くちづけ
        林檎をおそれろ
        林檎にほれよ




          おなじく

        こどもよ
        こどもよ
        赤い林檎をたべたら
        美味かったと
        いってやりな




           おなじく

        どうしたらこれが憎めるか
        このまっ赤な林檎が……




          おなじく

       林檎はびくともしやしない
       そのままくさってしまえばとて




          おなじく

       ふみつぶされたら
       ふみつぶされたところで
       光っている林檎さ




          おなじく

       こどもはいう
       赤い林檎のゆめをみたと
       いいゆめをみたもんだな
       ほんとにいい
       いつまでも
       わすれないがいいよ
       大人になってしまえば
       もう二どと
       そんないい夢は見られないんだ




         おなじく

       りんごあげよう
       転がせ
       子どもよ
       おまえころころ
       林檎もころころ

 


         おなじく

       さびしい林檎と
       遊んでおやり
 
       おう、おう、よい子




         おなじく

       林檎といっしょに
       ねんねしたからだよ
       それで
       わたしの頬っぺにも
       すこし赤くなったの
       きっと、そうだよ




  次は、暮鳥の詩集『万物節』の中にある題名「りんごよ」という詩
です。


        りんごよ

      りんごよ
      りんごよ
      りんごよ
      だが、ほんとうのことは
      なんといってもたったの一つだ
      一生は一つのねがいだ
      一生の一つのねがいだ
      ころりと
      こっそりとわたしに
      ころげてみせてくれたらのう
      りんごよ




  次は、暮鳥の詩集『穀粒』の中にある「赤い林檎」という詩です。


        赤い林檎

     世界の冬のはじめは
     街頭の赤い林檎で飾られる
 



  次は、暮鳥の詩集『雲』の中にある「赤い林檎」という詩です。


         赤い林檎

     林檎をしみじみみていると
     だんだん自分も林檎になる




  次は、暮鳥の詩集『月夜の牡丹』の中にある「日向の林檎」という詩で
す。


       日向の林檎

     いいお天気ですなあ
     これは
     これは
     ふいにこんな声をかけられたら
     自分はどうしたろう
     林檎よ




  次は、暮鳥の詩集『風は草木にささやいた』の中にある「くだもの」と
いう詩です。


       くだもの

     まっ赤なくだもの
     木の上のくだもの
     それをみたばかりで
     人間は寂しい盗賊となるのだ
     此の手がおそろしい




            トップページへ戻る