音読授業を創る そのA面とB面と    05・12・27記




「りんご」の音読授業のデザインをする(1)




●詩「りんご」(山村暮鳥)の掲載教科書………………………光村6上




             りんご

                  山村暮鳥

           両手をどんなに
           大きく 大きく
           ひろげても
           かかえきれないこの気持ち
           林檎が一つ
           日あたりに転がっている




          
いろいろな解釈ができる詩



  この詩には、難解な語句はありません。すんなりと読めます。字づらに
書いてあることは一読してすぐに理解できます。
  しかし、この詩がどんな意味内容を表現しているかがとっても分かりに
くいです。子どもは子どもなりにいろんな解釈をするでしょう。自分なりの
根拠があれば、どう読み取ろうとも、それはそれでよいのではないでしょう
か。それだけ自由に解釈できて、楽しい授業になるのではと思います。
  「かかえきれないこの気持」とは、どんな気持ちのことでしょうか。場
面の設定や条件が書いてありませんので、いろいろな場面が設定できて、い
ろいろな解釈ができます。



         
二種類の解釈がありそう



  大きく分ければ、二種類があると考えられます。
  一つは幸福な気持ち(喜び・歓喜・満悦・金満・慶祝など)です。
  もう一つは不幸な気持ち(死・病魔・憎悪・悲哀・悲嘆・傷心・貧困・
借金苦など)です。
  これらの気持ちは、両手を大きく大きく広げても抱えきれない程だと
言っています。抱えきれない、両手から溢れてしまうほどの気持ちとは、ど
んな気持ちでしょうか。
  前者の喜びいっぱいの、他人に分かち与えても溢れるほどの幸せたっぷ
りな気持ちのことでしょうか。
  後者の深い悩み事や貧困や病魔などの深い悲しみの気持ち、自分だけの
力ではどうにも抜け出られない押しつぶされた懊悩、あるいは長年のどん底
から出られない
貧困というような気持ちなのでしょうか。
  「かかえきれないこの気持ち」とは、これら二つのどちらの気持ちなの
でしょうか。

  この詩の後半を読んでみましょう。最後の2行では「かかえきれないこ
の気持ち」と「日あたりにころがっている一つのりんご」とを対比して語っ
ています。この二つを対比して、何かを主題化しようとしているみたいで
す。この二つは、どう連関しているのでしょうか。これら2行から何が主題
として生まれ出てくるのでしょうか。これらが、判然としません。



           
幾つかの解釈例



  しかし、幾つかは、考えられなくもありません。わたし個人の身勝手で
独善的な見解(イメージ)を書けば、大体つぎの六つにまとめることができ
ます。読者のみなさんは、この詩をどう解釈するのでしょうか。みなさんの
解釈はどうなのでしょうか。

  以下、わたしが考えた幾つかの解釈例を書くことにします。適用例は一
つの例にしかすぎません。すべての例を書き上げることはできません。あな
たの賢明な想像力で膨らましてください。

(1)【幸福な気持ちの場合】
    この幸せな気持ち、収穫の喜び、豊作だった。日当たりに収穫した
   リンゴが一つ転がっている。なんという幸せなこの温かな気持ち。今
   年はリンゴが豊作だった。豊作の喜びでいっぱいなわたしの気持ち。

(2)【幸福な気持ちの場合】
    この幸せな気持ち、かかえきれない喜びの気持ち、家族の幸福でよ
   し、宝くじに当たったでよし、わが子の病気が全快したよし、息子が
   大学に合格したでよし、日当たりに真っ赤なリンゴが一個、光り輝い
   ているよ、なんというこの明るさよ。日当たりの転がっている林檎一
   つまで光芒を放っていることよ。

(3)【不幸な気持ちの場合】
   この不幸な気持ち、この鬱屈した淋しくもやるせない出口なしの不幸
   せな気持ちよ。いま、わたしの視線に、日溜りに赤いリンゴが一つこ
   ろがっていて、なにかしらぱっとした温かみ、心の安らぎとなごみ、
   少しばかりの安堵感を与えてくれている。このほっとした安らぎを与
   えてくれている日溜りの一つのリンゴよ。

(4)【不幸な気持ちの場合】
   この不幸な気持ち、不幸せいっぱいなわたし。リンゴを寂しそうにみ
   ているわたし、あの日溜りの真っ赤なリンゴのようになりたい、日当
   たりにいたい、日当たりに憧れているわたし、日が当たってない真っ
   暗闇の中にいる惨めなわたし。どん底の辛酸をなめ、辛労に疲れ果て
   ているわたし、こんなわが身の悲しさよ、哀れさよ。

(5)【不幸な気持ちの場合】
   不幸な運命の星に生まれたわが身の哀れさよ。どん底の日常から抜け
   出たいが、どうしようもなく暗い毎日の連続だ。日当たりに暖かそう
   に転がっている赤く光っているリンゴよ。わたしは、あのリンゴだっ
   たらいいのになあ。わたしは、あの温かそうなリンゴになりたい。灼
   熱の太陽のもとでぎらぎら輝いてはいたくはないが、あのリンゴのよ
   うな日溜りのぽっとした温かさの幸せの中でくらしたい。

6)【不幸な気持ちの場合】
   日当たりにぽつんと転がっている赤いリンゴよ。あのリンゴもわたし
   と同類、どことなく淋しそうにしている。一つ、ぽつんと転がってい
   る、誰からも見放されている淋しそうなリンゴよ。わたしは、あのリ
   ンゴを見るにつけ、一層わびしい気持ちがこみあげてくる。



           
音声表現のしかた



  音声表現のしかたは、この詩をどう解釈するか、その意味内容のつかま
え方によってさまざまに変化します。
  幸福いっぱいな気持ちか、不幸せいっぱいな気持ちか、どうつかまえる
かによって変わってきます。幸福いっぱいなら、明るく弾んだ声立てになる
でしょうし、不幸せいっぱいなら、暗く沈んだ陰鬱な声立てになるでしょ
う。
  「大きく大きく」は、「大きく」が二つ並んでいます。それぞれを同じ
音調にして表現しないようにします。同じ音調にすると、平板になってしま
います。大きさが出てきません。一番目よりは二番目の「大きく」を、たた
みかけ広げて大げさに膨張させて音声表現していくとよいでしょう。
  この詩の前半4行と、後半2行とは、前述したように対比のレトリック
になっています。ふたつの音調に変化をもたせましょう。
  とくに後半2行の読み方が難しいです。幸福か、不幸か、これらのど
の場面・情況を表現しているか・意味しているかによって、音声表現のし
かたはがらっと変わってきます。たとえば、(1)ならば、喜びいっぱい
の気持ちで、元気よい、はずんだ声で音声表現していくべきでしょう。
(6)ならば、声量は弱く、ぽつりぽつりと、ゆっくりと、しだいに下げ
て読み下していく音声表現になるでしょう。



          
わたしの個人的な考え



  六つの例を上記しましたが、どれでも正答だと思います。この他でもそ
れなりの根拠があれば、正答だと思います。
  わたしは、六つの中のどれを選択するか。わたしの身勝手な個人的考え
を書きましょう。
  わたし個人としては【不幸な気持ちの場合】の例を採ります。(3)か
(4)か(5)か(6)かは、分かりません。その他かもしれません。とに
かく、この詩の語り手は「かかえきれない不幸せな気持ちでいっぱい」であ
る、それでこの詩を書いているのだと、わたしは想定しました。

  それは、この詩の作者・山村暮鳥の当時の生活現実から、そう言えるの
ではないかと考えました。
  読者のみなさんは、どう考えますか。以下をお読みくださって、みなさ
んの想像とご判断におまかせします。
  以下、山村暮鳥について調べたことを書きます。

  


           
山村暮鳥について



  明治17〜大正13。詩人、童話作家。本名土田八九十(はつくじゅ
う)。旧姓小暮。群馬県西群馬郡棟高村(現・群馬町)生まれ。貧しい家庭
に育ち、その生い立ちはいかにも暗い。暮鳥自身の回想に「父は婿であっ
た。母は泣いてばかりいた。自分が姉さんとよんでいた母の妹は真っ赤な血
嘔吐をはいて自分の四つの春の悶死した。自分にはおばあさんと呼ばねばな
らぬ人がかわりがわり幾人もあった。大きな家は陰鬱でいつもごたごたして
いた。」と自伝に書いている。父は繭の仲買商であったが、祖父との確執が
絶えず、いちじ出奔するなど不幸なできごとがあいついだ。12歳のとき事
業失敗のため、貧窮の生活がつづいた。
 
  1890年(数え年6歳)元総社尋常小学校に入学。翌年、堤カ岡尋常
小学校に転校。1899年(19歳)同小学校の代用教員となり、そのかた
わら前橋の英語夜学校に往復七里の道のりを毎夜通う。代用教員のとき、
「ほんとは19歳ではなく、年齢を三つもごまかして許可の辞令を受け
た。」と書いている。前橋の聖マッテリア教会で洗礼を受ける。
  1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中、文学に傾倒
し、詩や短歌の創作にふける。
  当時中央文壇は、土井晩翠の『天地有情』薄田泣菫の『暮笛集』などが
相次いで出版され、与謝野鉄幹の新詩社が結成されるなど、詩歌が全盛をき
わめていた。これが多感な青年教師・暮鳥の心を揺り動かさないはずはなか
った。
  卒業後、キリスト教伝道師として東北各地(秋田県横手、湯沢、仙台、
水戸、福島県平)を転任。大正9年、福島県平に住所を移すが、暮鳥が結核
とクリスチャンであったため村民から迫害を受け、十数日で茨城県磯浜明神
町に移転しなければならなかった。
  牧師土田三秀の娘・富士(十八歳)と結婚して土田家の養子となり継ぐ。
  萩原朔太郎、室生犀星らと『人魚詩社』を設立。自由詩社の同人とな
り、そこの「文庫」の詩欄の選者であった人見東明が「静かな山村の夕暮れ
の空に飛んでいく鳥」という意味から「山村暮鳥」のペンネームを与えた。
それまでは、小暮流星、小暮馬村のペンネームをつかっていた。
  大正12年、結核に倒れ、この年はほとんど病床にあった。翌年12
月、茨城県大洗町で四十歳で永眠する。
  童話「ちるちる・みちる」「鉄の草花」「お菓子の城」「葦船の児」な
ど。詩集は下記。

  生前に暮鳥が編集した詩集は下記の七冊である。
     1、  La Bonne Chanson (明治43)
      2、 三人の処女 (大正2)
     3、 聖三稜玻璃 (大正4)
     4、 風は草木にささやいた (大正7)
     5、 梢の巣にて (大正10)
     6、 穀粒 (大正10)
     7、 雲  (大正13)
  死後、他人によって編集された詩集
     8、月夜の牡丹 (大正15)
     9、土の精神 (昭和4)
     10、万物節 (昭和15)
     11、黒鳥集  (昭和35)



          
暮鳥の自伝から引用


●山村暮鳥には、本人自身が書いた『半面自伝』という自伝がある。暮鳥の
詩を理解するにおおいに参考になるので、私の印象に残った個所を引用しよ
う。福島県平町に住んでいたとき(大正6年)に雑誌『詩歌』に発表した自
伝である。以下、全くの個人的な独断と偏見でで数箇所の部分を引用抜粋す
る。●

ーーーーー以下、引用開始ーーーーーー
  越後の風がまっすぐに関東平野へ吹きおろすところ上州高崎のちかく堤
カ岡という村落がある。いまは伊香保がよいの電車がそこをはしっている。
その地方に頑固をもって当時有名であった弱兵衛爺さんの孫として自分は豊
かな農家にうまれた。それが明治17年1月。

  父は婿であった。母は泣いてばかりいた。自分が姉さんとよんでいた母
の妹は真っ赤な血嘔吐をはいて自分の四つの春に悶死した。自分にはおばあ
さんと呼ばねばならぬ人がかわりがわり幾人もあった。大きな家は陰鬱でい
つもごたごたしていた。他家のように自分の家では笑い声一つ立てるものが
いなかった。
 
  父が出奔したので、自分は赤城の神官で、前橋に居住していた叔父のと
ころにあづけられた。

  自分および自分の家の扉を叩く不幸の音はいよいよ高く激しくなった。
それをかきつづるに堪えない。

  再び自分の前途は暗黒になった。肉から皮を剥ぐような生活が始まっ
た。陸軍御用商人、活版職工、紙屋、ブリキ屋、貿易商、鉄道保線課、そう
したところの小僧、職人、書記と転転と流れ流れた。女を知り、物を盗み、
一椀の食物を乞うたことすらある。
  
  悄然と郷里にかえったのは余儀なき病気のためであった。さしもの家も
倒産して父母は下総よりもどってはいたが、それは自分の生地よりは数里も
隔たった榛名山の麓の父の伯母の嫁いでいる一小寒村で、貧しい水呑百姓と
なっていた。

  昼は小学校の代用教員、夜は松山寺という寺へ漢籍をならいにかよっ
た。四書、五経、史記、左伝などというものを読んだ。日本外史を終わる
頃、其処にいた若い坊主と喧嘩をしてそこへ通うのをやめた。そして今度は
英語にとりっかった。利根川の舟橋を渡って往復七里を毎夜、北曲輪町の
チャペル氏の夜学へ……今も初冬と晩春には脛に一種の腫れ物ができる。そ
のときの賜物である。

  女宣教師ウオールと知り合いになった。その婦人は高崎にいた。米国か
ら来たばかりであった。

  自分はウオール嬢らの尽力で東京築地の聖三一神学校へ入った。
  それまでに自殺を図ること前後三回。
  学校では無味乾燥なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学方面によ
り多くの生けるものを感じ、その研究に傾いていた。

  明治36年泡鳴、林外、御風の三氏によって雑誌『白百合』が発行され
た。自分は進んでその一社友となって短歌を創作した。御風氏はば師とも兄
ともおもって親しんでいた。

  人見東明氏らの自由詩社に加わった。従前の小暮流星または馬村は、爾
来山村暮鳥となった。

  天主教の宣教師であるヂャッキ先生から人目を忍んでフランス語を習っ
ていた。

  自分は大正四年十一月、早産の長男をうしなった。彼はこの世に四日
間、日のひかりにも触れずして去った。超えて同五年一月『聖三稜玻璃』を
出版した。その五月『プリズム』を発行したが1年足らずでほろび、それに
加えて自分の芸術に対する悪評はその秋において極度に達した。ある日、自
分は卒倒した。
  その後、自分はドストエフスキーの研究とその翻訳に自己をささげた。
ーーーーー引用終了ーーーーー




  暮鳥には『梢の巣にて』という詩集がある。その中に題名「詩人・山村
暮鳥」という詩がある。かれ自身による自画像の詩であると思われる。



         詩人・山村暮鳥

      自分はいまびょうきで
      その上ひどいびんぼうで
      やみつかれ
      やせおとろえて
      毎日豚のようにごろごろと
      豚小屋のような狭い汚いところで
      妻や子どもらといっしょに
      ねたりおきたり
      のんだり
      食ったり
      そしてようやく生きながらえているのだ
      ほんとに豚だ
      みよ、こうして家族は
      みんな寝床にもぐりこんでいる
      一日のことにつかれてぐっすりと
      大きな口をあけ
      だらりと長い涎をながして
      なんにもしらずに寝ている妻
      その胸のあたりに
      これもうまれたばかりの豚の仔のあかんぼは
      乳房をさがして
      ひいひいと泣く
      それから風っぴきの鼻汁を
      頬っぺたに一めんなすりつけ
      ふんぞりかえり
      お尻をぐるりとまるだしの
      もひとりの女の子
      おお、かあいい
      よるはくさったくだもののようだが
      さすがにこのしずかさ
      自分はいま
      戸棚から子どもの蜜柑を一つ盗みだしてきて
      あかんぼのおしめを炬燵で干しながら
      むさぼるようにそれを頬張り
      皮だけのこして
      口髭の汁をぬぐった
      ふかいよるだ
      出埃及記もようやく終わった
      さあこれから世界のじとびとのために祈りをささげて
      ながながと自分の痩せほそった骨を伸ばそう




萩原朔太郎(詩人)は、山村暮鳥について次のように書いている。

  この頃諸方で山村暮鳥氏の追悼が催される。あの孤独なさびしい詩人、
すぐれた天分をもって異常な仕事を残しながら、不幸にも人気のなかった
詩人、実力だけに認められず、誤解と誹謗の中に世を去った鬼才詩人、丁度
ショーペンハウエルの生涯を思わせる所の、天才不容世の暮鳥のために遅ま
きながら世間の識者が哀悼の喪章をつけてくれるのは、この冬空の下に於い
て、特別に悲しみの影がながい。

  当時、尚甚だ因習的で新奇のなかった詩壇に於いて、かくの如き暮鳥の
詩の創造は驚嘆すべき大胆であった。世間は暮鳥の詩に驚き、呆然として言う
所を知らなかった。そして詩壇はいっさいにこれを排斥し、至る所に嘲笑と
悪罵とをもって迎えられた。その世評の一般はこうであった。難解! 晦渋!
でたらめ! ヨタ! 思いつき! 不可解! ガラクタ! 詩の冒涜者!
 遊戯作家! 本質なき詩人! 葬れ! ウソ! 
  およそ明治以来大正の今日まで、ずいぶん多くの「悪評ある詩人」も世
に出た。しかし山村暮鳥の如く、詩壇の嘲笑と悪罵を一身に負うた作家はな
かろう。四面皆楚歌の声。よく暮鳥はそういう意味の感激をもらしていた。
それが少しも誇張でなく、文字通りにそうであった。詩人というすべての詩
人は、悉く皆彼を悪評した。暮鳥が唯一の友であり、その同じ詩派の同志た
る福士幸次郎君さえも、しばしば暮鳥の敵に立って攻撃した。
         『山村暮鳥詩集』(思潮社、1991)128ぺより引用



木原孝一(詩人)は、山村暮鳥について次のように書いている。

  ヒューマニズムの詩人たちは、あくまでも自分の意志と信念に基づいて
詩を書いてきましたが、その理想主義的傾向に徹しきらずに、実際の生活体
験に主調音を置いた詩人たちもいます。山村暮鳥もその一人だったのです。
暮鳥は若いときから、宗教と詩とのあいだで、身を引き裂かれるような苦悩
を味わいながら生きてきました。
  暮鳥は、高度の芸術意識を持つ半面、キリスト教伝道師としても熱烈な
信仰心を持っていました。
  日本の詩は、中期から後期にかけて、めざましい文芸復興期をむかえ、
大正のはじめに人間性の回復にめざめたのですが、暮鳥にいたって、ようや
く現代の苦悩を示しはじめました。島崎藤村も、新しい時代の精神たろうと
して、悩める魂を内にして、教会の門をくぐり、愛にやぶれ、放浪を重ねま
したが、そこにはまだロマンチックな夢がありました。しかし、近代からよ
うやく現代の人間像に近づこうとした暮鳥の苦悩はまことに厳しいものでし
た。
             りんご

           両手をどんなに
           大きく大きく
           ひろげても
           かかえきれないこの気持ち
           りんごが一つ
           日あたりにころがっている

  結局、暮鳥は、この晩年の詩にみられるような人道主義に入ってしまっ
たわけですが、こうなるまでには、芸術上の、思想上の、信仰上の大きな苦
しみを経験しなければなりませんでした。
  暮鳥がこれほど苦しんだ、芸術意識と人間性の分裂は、その後、現在ま
で続いている20世紀芸術の大きな問題なのです。
        『学校の詩』上級編(飯塚書店、昭和35)より引用)



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