音読授業を創る そのA面とB面と 04・11・5記 「きつねの窓」の音読授業をデザインする ●「きつねの窓」(安房直子作)の掲載教科書…………教出6下 子供はファンタジーが好き 「きつねの窓」の作者・安房直子さんは、安房さんが童話作家を志した 動機を次のように書いています。 私が、童話を志した動機をひとことで言うとしましたら、私自身が、子供 の好きなものを大好きだからという事になるでしょうか。つまり、子供がゆ めみたり憧れたり、信じたりするもの……小人とか妖精とか、魔女とか、も のをしゃべる動物たち……などなど、この世の中には、決してあるはずのな いもの、それでいて、ひょっと、どこかにかくれているかもしれない様なか んじがする、そういうものたちに、子供の頃に胸がふるえるほど憧れて、お となになっても憧れ続けてそれで結局、そういう物語を書く様になったので す。 (中略) 決して現実にはおこらない事を、ありありと書きたいというのが、私の願 いです。エレベーターが、空にうかぶ事など決しておきないけれど、でも、 私の本の中では、それは本当なのです。私の物語を読んでいるそのあいだだ けは、本当に、小人も妖精も魔女もちゃんといて、その姿がみえて、さわれ て、声が聞こえるように、読者に感じてもらいたいのです。かぎられた小さ な本の中ですが、私の本の中では、みんな本当にあったことなのです。 ですから、空想の物語というのは、現実の事を書いた作品よりも、いっそ う「本当らしく」なければならないと、私は思います。この世では決して見 ることのできないもの、おきることのないはずのものの事が、「手にとるよ うに本当らしく」書かなければならないのだと。 児言研機関誌『国語の授業』1992年6月号より引用 安房直子さんはファンタジー作家と言われています。安房さんの言葉は ファンタジーというものをとてもよく説明してくれていると思います。ファ ンタジーとは、現実にはおこらない出来事を本当にあったことのようにあり ありと描いた作品です。決してあるはずのないことを、ひょっとするとどこ かに隠れているかもしれない感じがする、特に子供の心にはそういうものに 胸がふるえるほど憧れているもの、そういう出来事を描いた作品です。 ファンタジー作品は、ありもしない嘘を、さも本当のことのように胸お どらせ、どきどきしながら、それがさも本当のことのようにありありと思い 浮かべて物語世界をおもしろく、楽しんで読んでいく作品です。ファンタジ ーとは、子どもの変身願望を満足させ、新しい世界を提示し、胸どきどきの 好奇心をそそらせ、ものの見方を変えてくれる作品です。 「きつねの窓」の主題 教出本では「きつねの窓」は「本の世界を深めよう」の読書単元として 位置づけられ、「読書座談会」とセットになっており、そのなかで「きつね の窓」の読書感想発表をするようになっています。 読書感想発表会では、主題についても話題になるでしょう。「きつねの 窓」の主題は何でしょうか。 小西正保(児童文学評論家)さんは、安房作品には「特異な想像世界」 があり、「色によるイメージ構成、色彩感覚」と「食べのもの、料理への魅 力」がある、さらに「死者との対話、死者への思い」とでもいうべき主題が あると書いています。 「きつねの窓」の主題について小西さんは次のように書いています。 主人公の「ぼく」もそんな窓がほしくなって指を染めてもらう。すると指 の窓に現れたのは、むかし大好きだった、いまはもう決して会うことのでき ない少女の姿だった。次に現れるのは「ぼく」の昔の家の庭である。母の声 がきこえる。死んでしまった妹の声もきこえてくる。 しかし、この甘美な幻想も「ぼく」が家に帰って、つい習慣で手を洗って しまうことによって消え失せてしまうのである。ききょうの花畑といい、き つねの化けた染物屋といい、指の窓に現れる死者たちの姿といい、いずれも 美しい想像世界だ。だがその底には、残されたものの限りない淋しさのよう なものが漂っている。 (中略) 「雪の窓」「鶴の家」「長い灰色のスカート」「ハンカチの上の花畑」な どの作品にも、それぞれに死者との対話を描いていて、ときに暗い印象もな いではない。しかし、それらはときに甘美であり、ときに読者の郷愁を誘う ものであり、いずれも風景として美しい。 児言研機関誌『国語の授業』1922年6月号より引用 小西さんの主題把握は、わたしも「成程、そうですね。」と思います。 多くの人もそう思うでしょう。しかし、ファンタジー作品は多様な読み取り ができますので、読み手によって主題把握に微妙な差がでてきます。 たとえば鉄砲について考えてみましょう。きつねの指の窓にきつねの母親 の姿が現れ出ます。きつねは死んだ母親だと、ぼくに告げます。次の地の文 に「きつねはぱらりと両手を下ろして、うつむきました。」と書いてありま す。主語が「きつね」です。うつむいた人物が「ぼく」でなく「きつね」で す。もしかすると「ぼく」がきつねの母親を殺したのかもしれないのにで す。きつねには母親を殺された仇敵の憎悪があるとは少しも、そうは読み取 れません。鉄砲で殺すということについての深い掘り下げがありません。中 途半端で、はぐらかされてしまいます。 きつねもぼくも、二人とも指の窓の中に死んだ母親の姿が現れ出ます。 なぜ母親なのかも書かれていません。二人とも、独りぼっちでさびしいと書 いてあります。二人には母がいない喪失感が漂っていることは分かります。 ぼくはきつねに鉄砲をわたしてしまうほど母親に会いたかったと読めないこ ともありません。結論を得るにはどうも中途半端です。 この作品の主題はこうだと結論を一つにしぼることはできません。読書 感想発表会では、「きつねの窓」を読んで、どこかにひっかかるところがあ るでしょう、どこがおもしろかったか、どこに深く印象が残ったか、読み終 えたあとどこが気にかかっているか、どこに生き方や人生を考えるきっかけ を感じとったか、そんなことをいろいろと話し合ってみましょう。語り合っ てみましょう。 安房直子さんは、こう言っています。「実際「きつねの窓」には、はっき りしたテーマもなく、ずいぶん教えにくい教材ではないかと思います。もし も私が教師だったら、こういう作品を扱うのは、とてもむずかしい様な気が します。」(「日本児童文学」1919年9月号より引用) 主題はこうだと一つにしぼるのではなく、この作品を契機に、この作品 を読んだことによって、今までの自分の世界とは違った別世界の存在がある こと、別世界の存在に気づいたり、別世界が開示されるきっかけが与えられ たり、それが将来に花開く(思い出す)かもしれないし、しないかもしれな い、そんな把握ができたらよいのではないでしょうか。 まずは幻想的な非現実世界のストーリーのおもしろさを楽しむことで す。おもしろく引き込まされて読んでいくことです。全体が青色がかったあ りもしない非現実世界を美しい続き絵としてあざやかにイメージしながら、 胸おどらせ、どきどきしながら読み進むおもしろさを味わうことが重要なの です。 ぼくの目や気持ちになって この作品の地の文は、ぼくの視点から書かれています。ぼくの目に見え た事柄を、ぼくの気持ちをとおして描かれています。ぼくの目に見えたこと について、ぼくはどんな気持ちで受けとったか、どう感じとったか、どう考 えたか、どう思ったかについて書いてあります。つまり、その時の、ぼくの ものの見え方(観点)からしか書かれていません。ですから、音読するとき は、読み手は、ぼくの気持ち(ものの見え方)と重なって読んでいくことに なります。ぼくの気持ちに入り込んで、ぼくと同じ体験をしていけばよいこ とになります。ぼくの目や気持ちになって読んでいくと、いつのまにか非現 実の世界の入り込み、引き込まされていくようになります。 一人芝居という劇舞台がありますが、「きつねの窓」は全編が「ぼく」 の独り語りになっており、「ぼく」の気持ちの中身や、その変化だけが克明 に書かれています。ですから、読者はいつのまにか「ぼく」の心中に入り込 んで読み進めるようになります。 次に、そのことを「きつねの窓」の冒頭の文章個所から調べてみよう。 ┌─────────────────────┐ │ いつでしたか、山で道に迷った時の話です。│ └─────────────────────┘ 記憶のはっきりしてない遠い過去の出来事を回想して、聞き手を意識 し、聞き手に向かって語りかけています。はっきりと思い出せないが、これ からの話はぼくが道に迷った時の話だ、と語りだしています。ぼんやりとし た頭の中の記憶を手繰り寄せて、思い出している音調で音声表現していきま す。 ┌───────────────────────────────┐ │ ぼくは、自分の山小屋にもどるところでした。歩き慣れた山道を、│ │ 鉄砲をかついで、ぼんやり歩いていました。そう、あの時は、全 │ │ くぼんやりしていたのです。昔大好きだった女の子のことなんか │ │ を、とりとめもなく考えながら。 │ └───────────────────────────────┘ ぼんやりした記憶から手繰り寄せた事柄を報告している音調で読みま す。思い出した記憶を事実としてはっきりと聞き手に伝わるように音声表現 します。二つの「ぼんやり」は「ボーンヤ−リ」と伸ばして強調表現にする とよいでしょう。ぼうーんやーりと歩いていたことが、あいまいやあやふや さが、次の非現実の幻想世界へ誘導していくきっかけになっています。「そ う」は、「そう、そう、思い出した、そうだったなあ」というつもりで転調 して音声表現していくとよいでしょう。やや半分ぐらい独り言みたいなつも りで読んでいきます。 ┌────────────────────────────────┐ │ 道を一つ曲がった時、ふと、空がとてもまぶしいと思いました。ま │ │ るで、みがきあげられた青いガラスのように……。すると、地面も、│ │ なんだか、うっすらと青いのでした。 │ └────────────────────────────────┘ 空が「まぶしい」を、「マブシーイー」のように強調表現にします。そ の「マブシ−イー」が「まるで、みがきあげられた青いガラスのように」な のですから、二つがくっつくように音声表現します。「空は青いガラスのよ うにまぶしい」と「地面はうっすらと青い」と、二つの対比表現が音声に出 るように読みます。 「きつねの窓」の文体の特徴である全編青色に彩られていることがここ から始まります。ぼくは今いる世界が、うっすらと青く、そしてまぶしいと 感じています。このへんから読者を非現実の幻想世界へと誘導する書かれ方 になっていっています。次の文章は、いよいよぼくが非現実の世界へ入り込 んだことを、ぼくの独り言みたいな自己内対話として書かれています。 ┌───────────────────────────────┐ │ 「あれ?。」 │ │ いっしゅん、ぼくは立ちすくみました。まばたきを、二つばかり │ │ しました。ああ、そこは、いつもの見慣れたすぎ林ではなく、広 │ │ 々とした野原なのでした。それも、一面、青いききょうの花畑な │ │ のでした。 │ └───────────────────────────────┘ ぼくは、立ちすくみ,一瞬まばたきをします。いつもの見慣れた杉林で なく、ききょうの花畑に入り込んだことを読者に告げるように音声表現して いきます。 ┌──────────────────────────────┐ │ ぼくは息をのみました。いったい、自分は、どこをどうまちがえ│ │て、いきなりこんな場所にでくわしたのでしょう。だいいち、こ │ │んな花畑が、この山にはあったのでしょうか。 │ │〈すぐ引き返すんだ。〉 │ │ぼくは、自分に命令しました。その景色は、あんまり美しすぎま │ │した。なんだか、そらおそろしいほどに。 │ └──────────────────────────────┘ このあたりの地の文は、ぼくの心内語といってもよいでしょう。ぼくが心の 中で思ったこと、考えたことが書かれています。ぼくの独り言です。完全に 口の中でもそもそ言う独り言ではありませんが、自分の行動を反省し、これ からの自分の行動を修正し、それを自分に命令している、そんな思考の経過 を読者に報告している内容の地の文です。半ば独り言の音調みたいにして音 声表現していくとよいでしょう。自分の思考の経過を語るように読むとよい でしょう。 ┌─────────────────────────────┐ │ けれど、そこには、いい風がふいていて、ききょうの花畑は、│ │ どこまでもどこまでも続いていました。このまま引き返すな │ │ んて、なんだかもったいなさすぎます。 │ │ 「ほんのちょっとやすんでいこう。」 │ │ ぼくは、そこにこしを下ろして、あせをふきました。 │ └─────────────────────────────┘ ぼくの気持ちが変化したことを音声で知らせます。転調して(気分を変 えて、明るく)「けれど」と読み出していきます。気持ちが変わったこと、 明るい雰囲気にして場面転換して読み出していきます。いい風が吹いてい て、青いききょうの花畑がどこまでも続いていることを、事実の報告とし て、淡々と、ゆっくりと読んで読者に伝えていきます。 役割音読で楽しもう ぼくがきつねを見失い、ぽかんと立ちつくしていると、後ろで「いらっ しゃいまし。」と変な声が聞こえます。ここから、ぼくときつねの長い対話 場面が展開していきます。この対話は、最後部に近い、ぼくがきつねになめ このお土産をもらい、きつねがぼくに「今夜のおつゆにしてください。」と 言うまで続きます。ここまでの会話文は、地の文を削除して、会話文だけを 声に出して読んでいっても、ちっとも変ではありません。劇舞台の一場面の リアルな場面構成みたいな音声表現にします。 染物屋はきつねが化けた人物だと知りつつ、ぼくはきつねと長いおしゃ べりを楽しみます。最初はきつねをつかまえようと話し始めたのでしたが、 最後にきつねは自分が大事にしていた鉄砲まできつねに渡してしまいます。 長い対話部分は、地の文を削除しても、劇でいえば染物屋の舞台装置、 染物屋の舞台上で演じられるぼくときつねの対話場面の構成になっていま す。 学級児童たちを二人組みグループに分けます。会話文だけを取り出し て、ぼくときつねの役割音読をさせましょう。できれば劇仕立てに部分的に 動作を入れた役割音読をさせたらどうでしょう。二人組み児童の中には完全 な劇表現をしたいというグループがあるかもしれません。そのグループには 一、二週間ほどの時間を与え、完全な劇として台本作りをさせ、練習時間を 与えて、この部分だけの劇発表をさせたらどうだろう。学びの場所を、座学 から開放し、表現する身体を動的な教室空間に変更することはとても重要な ことです。 本文文章には、九割以上の会話文に、その会話文がどんな表情や動作を しながら話されたか、どんな音調で話されたかの添え書きが書かれていま す。 たとえば、次のようにです。 「ねえ、ちょっと、のぞいてごらんなさい。」 と、楽しそうに言うのです。 「うう?」 ぼくは、気ののらない声を出しました。 「まあ、ちょっとだけ、のぞいてごらんなさい。」 そこで、ぼくは、しぶしぶ窓の中をのぞきました。そして、ぎょうてんしま した。 「こ、こりゃあいったい………。」 ぼくは、あんまりびっくりして、もう声が出ませんでした。きつねは、ぽつ りと言いました。 「これ、ぼくの母さんです。」 「楽しそうに言う」「気ののらない声を出す」「しぶしび窓の中をのぞ く、ぎょうてんする」「あんまりびっくりして声が出ない」「ぽつりと言 う」など。これら添え書きに注目させ、これらの指示に従った音調で会話文 を表現させ、動作を入れて音声表現させると、よりぴったりした音声表現に なります。 参考資料 安房直子さんは、自作「きつねの窓」が教科書教材となるに当たり、次 のような文章を書いています。教師たちに、私の作品を「あまり切りきざま ずに、まるごと読んでほしい」と書いています。 ーーーーーー引用開始ーーーーーーーー 「きつねの窓」が、教科書にとりあげられる様になってから、十数年の月 日がたちます。ずいぶんたくさんの子供達が、私の作品を読んでくれたのだ と、それを思うと、うれしい様な、面映い様な、それでいて、ふと、これで いいのかなあという様な、複雑な気持ちです。 はじめに、教科書掲載の話があった時は、信じられない気がしました。教 科書に載る文学作品というのは、古典に決まっていると思っていたからで す。 なんと、光栄な……と、浮きたつ思いで承諾して、しばらくしてから「き つねの窓」を習いながら、子供達は漢字の練習をするのかなあと、思いまし た。「段落に区切って、内容を書きなさい」などという事も、させられるの でしょうか。それから、感想文を書かされ、最後に、テストがあるのでしょ うか。 そんな事を考えたら、少しゆううつになりました。そして、私の作品は、 やはり、教科書よりも、自由な読書の中で読まれるほうが、よかったのでは ないかと、思ったのでした。実際「きつねの窓」には、はっきりしたテーマ もなく、ずいぶん教えにくい教材ではないかと思います。もしも私が教師 だったら、こういう作品を扱うのは、とてもむずかしい様な気がします。 「きつねの窓」が、どんな教えられ方をしているのか、よくわからないま まに、月日が過ぎてゆきましたが、そのうちに、ぽつりぽつりと、読者から 手紙が来る様になりました。「教科書で「きつねの窓」を習いました」とい うもので、それは、たいてい、二学期のおわりから、三学期にかけてでし た。 かわいいシールのはられた、色とりどりの封筒をあけてみると、中は様々 で、素朴な感想の手紙に、指で作った窓の絵が描かれていたり、学校の様子 やが、長々と綴られていたりします。手製のしおりや押し花が同封されてい るのもあったりして、急に、私の読者は、ふえてきました。中でも、うれし かったのは、 「こんな不思議な物語を、私は、はじめて読みました」 という手紙です。それまであまり、ファンタジーというものになじめなかっ た子供が、教科書を通じて、こういう世界に目をひらかれたのでしょう。ま た、 「教科書で、「きつねの窓」をならったのをきっかけに、あなたの、べつの 本も読みました」 というのもありました。 こういった手紙をもらってはじめて、私は、教科書というものは、子供達 に、読書のきっかけをつくってくれるのだなあと思いました。つまり、子供 達に、それまで知らなかった新しい世界を教えてくれる道案内の役目もして いるのです。 そういえば、私も、中学の教科書で、「衣川の館」という作品を習って、 日本の古典文学を好きになったのですし、三好達治、千家元麿などという詩 人も、はじめに出会ったのは、教科書でした。教科書で習った以上、漢字の 練習もあったでしょうし、テストもあったのでしょう。が、そういう重苦し い事を、今はすっかり忘れて、千家元麿の『麦』という詩を、それが、教科 書の巻頭に載っていたがために、一層懐かしく思い出したりするのです。今 でも、あの詩を口ずさみますと、新学期の真新しいセーラー服が思い出され て、胸があつくなったりします。 私の「きつねの窓」も、教科書の中で、どうかそんな役目を果たしてほし いと思います。 そして最後に、ささやかな願いをひとつ。国語教育というものが、文学の 教育と、言葉の教育に分けられるとしたら、私の作品は、どうか、なるべ く、文学の教材として、あまり切りきざまずに、まるごと読まれてほしいと 願っています。 『日本児童文学』1991年9月号より引用 トップページへ戻る |
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