音読授業を創る そのA面とB面と 05・7・5記 「生きる」(詩)の音読授業をデザインする ●詩「生きる」(谷川俊太郎)の掲載教科書…………………光村6下 「生きる」と「生きているということ」 題名は、「生きる」です。しかし、各連の内容は「生きているというこ と」について書いてあります。各連の冒頭に「生きてるということ」の詩句 が繰り返し提示されていて、内容的には「生きる」についてでなく、「生 きているということ」について書いています。 各連の内容に「生きているということは、これこれだ。」と、その具体 的な事例がたくさん挙げられています。たくさんの具体的事例を挙げて、 「生きているということは、こういうことだ。」と述べています。こうして 「生きているということ」について考えさせ、反省させ、目を開かせようと しています。結果として題名「生きる、とは何か」についても考えさせるよ うになっています。 「生きるとは、何か」と、「生きているということは、何か」では、違 います。「生きるとは」になると、その答え内容は「どう生きるか。どう生 きていかねねばならないか。」という哲学的な、観念的な答えになり、道徳 的徳目の押し付けみたいな結論になりがちです。 この詩の題名は「生きる」ですが、詩の内容は「生きているというこ と」です。「生きているということ」についての身近な、ごく当たり前の事 例(事実)を列挙しています。この当たり前の事例(事実)を俎上にのせる ことをとおして「生きるとは。どう生きるか。」を結果としてそれとなく考 えさせるようになっています。 わたしたちは日常生活の中で「生きるとは、何か。生きているというこ とは、どういうことか。」などとはあまり考える機会がありません。日常茶 飯の雑事に追われて「生きるとは・生きているということとは」などと考え る機会はめったにありません。普段は、非反省的意識の淵の中にしずんでい て、めったに考えることはありません。青年期になると一時期、人生とは、 人間とは、生きるとは、について真剣に考えることがありますが。 この詩は、一見まとまりのない、ごたごたした「生きているというこ と」の事例(事実)をたくさん列挙しているように見えますが、読み進んで いくと「おお、そうか。そうか。これも、これも、生きているということ か。これもそうか。これもそうか。」「わたしは生きているんだ」と、改め て自分が生きていることを実感させられ、生きていることに喜びと自信を与 えられます。改めて、生きているということについて反省的に考えさせられ ます。そして、自分の日常生活を肯定的の再確認し、ほっと安心し、生きて ることへの満足感や充実感を抱かせられます。 この詩をとおして、改めて、落ち着いて「生きるとは。生きているとい うこととは。」について熟考させられます。この詩を読むことで、「生きて いるということ」は、「なにか特別なことではないのだ。何気ない、ごく当 たり前の日常生活や日常行動、それがかけがえのない光り輝く生きているこ との証しなのだ。」ということを知らされます。こうして読み手は自分の日 常生活をふり返り、ほっと安心します。自分のありふれた日常生活の行動の 一つ一つを反省的に認識し、それら行動に安心と喜びを見出し、満足し、そ して更に明日への行動をより充実させようとする生きる意欲や努力を感じる ようになります。 最近、WEBサイトで自殺を呼びかけ、それに呼応し、若くして死に行 く若年者たちが目立ちます。この詩は、日常生活の当たり前のことが大事な んだと知らせ、生きている実感や生きる希望がわく詩です。プラス思考で毎 日を嬉々として生きることに自信を与える詩です。人生とは、誰かがおいし いホットケーキを「どうぞ」と与えてくれるようなものではなく、そして、 上出来に出来上がった完成品ではなく、自分が嬉々として作り上げていくも のであることを知らせてくれます。人生とは、不断の辛苦でもあります。こ の事実は、篭絡でもなく詐欺でもなく真実なのです。この詩は、人生への応 援歌だとも言えましょう。 「生きているということ」とは 俗人は「生きているということ」と問われれば、「心臓が動いているこ と。皮膚を切れば赤い血が出ること。食べれば、うんちをすること。」など ど答えるのではないでしょうか。わたしも、その一人です。 詩人・谷川俊太郎は、そうは答えません。何気ない生活のヒトコマの事 例を次々に挙げていきます。読み手は、ここでハッとさせられます。一つ一 つの事例を読み進めながら「そうか。そうか。これも、そうか。これも、そ うか。」と納得し、了解させられます。一つ一つの事例に新鮮な驚きを覚 え、「そうなのか。わたしの日常生活そのものなんだ。」と認識して、「生 きるということ。生きているということ」の意味を改めて考えさせられるき っかけを与えられます。 この詩は、全体が五連で構成されています。 第一連では、「生きているということ」の具体的な事例として、のどが かわく、木もれ陽がまぶしい、あるメロディを思い出す、を挙げています。 これらの事例をまとめた小見出しがつけられるような、一つにまとまっ た連内容になっているかというと必ずしもそうはなっていないようです。一 つの連の中に、かなりランダムに事例が列挙されています。 読み手は、さまざまな視点からの「生きるということ」の具体的な事例 を目で追いながら読み進め、「生きるということ」はこういうことか、そう か、そうかと、少しばかりの意外性と驚きを感じながら反省的に了解し、読 み進めていくことになります。 第一連には、「生きているということ」の具体的な事例として生理的な 五感(視覚、触覚、聴覚など)の事柄を中心に列挙しているように思われま す。 「あなたと手をつなぐ」は、単なる触覚事例として挙げているようでも あるし、隣人愛とか連帯とか平和とかの広義な意味も含めて書いてあるよう にも思われます。 第二連では、美しいもののことが書いてあります。その事例としてミニ スカート、プラネタリウム、ヨハン・シュトラウス、ピカソ、アルプスが挙 げられています。まとめとして、すべての美しいものに「出会う」ことの重 要性について書いています。 世の中には美もあれば醜もある。美や善の顔をした行為(行動)の中に 醜や悪の牙が隠されていることも多くある。見た目の美しさの中に巧妙に仕 掛けられた悪や醜もある。悪の誘惑に負けない、悪を発見する能力、悪を断 固として拒絶する勇気が必要だ。こうして「美しいもの出会う」ことが重要 だ。この連では、これが「生きているということ」だと書いているように思 われます。 もし、自分たちの生活の中に隠蔽されている、陰惨な「いじめ」行為が あるなら、それを勇気を持って拒むこと、こうしたことも含めて書かれてい るのかもしれません。 第三連には、「泣ける」「笑える」「怒れる」「自由」の四つの事例が 挙げられています。 「泣く」でなく「泣ける」、「笑う」でなく「笑える」、「怒る」でな く「怒れる」と書いてあることに注目したいです。「泣く」という単なる事 実ではなく、「泣ける」つまり「泣くことができる、泣くことが容易に実現 できる」という、人間主体が能動的、自発的に心から自分の感情の発露がで きるという、これらの感情の発露が、あるいは社会的発言として、社会的権 利として保障されていることの重要性、つまり「自由ということ」の社会的 基盤が保障されていること、これらの重要性のことをいっているように思わ れます。 第四連には、「犬がほえる」「地球がまわる」「産声があがる」「兵士 が傷つく」「ぶらんこがゆれる」「今が過ぎていく」の事例が挙げられてい ます。 すべての事例に「いま………」が付けられています。「今の今を生きて いるということ」とは、すべての事例(事実・事柄)は悠久の時間の流れの 中にあること、一瞬一瞬の時間の流れの一コマ一コマの時間系列の中に位置 づいていることを言っているように思います。ここに書いてある一つ一つの 例(事実・事柄)は、悠久の時間の流れの中の一コマ一コマであって、その ことをクローズアップした例(事実・事柄)として書いているようです。今 の今のいのちを精一杯に生きる、の大切さを強調しているのだと思います。 第五連には、「鳥ははばたく」「海はとどろく」「かたつむりははう」 という人間以外の「生きているということ」の事例が挙げられています。人 間以外にも「生きているということ」の事実があるのだ、ということを知ら せているのでしょう。 最後のまとめとして、「人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/い のちということ」と書かれています。「他者を愛する」ことが大切であり、 あなたの心温かな愛の手を差しのべることが人間として最も大切な行為であ り、それが「いのち」を大切にするということにつながるのだと言っている のだと思います。 人間は、ロビンソンクルーソーのように離れ小島で独居生活をしている わけでなく、多くの他者との社会的関係の中で生きているわけだから、人間 相互に間主観性としての共通感情をもち、いのちの尊厳を大切に生きていく ことが重要だ、そのように生きていこう、と訴えかけているように思われ ます。 第六連として、自分の「生きているということ」の個人的事例を書かせ る発展学習があってもよいでしょう。「生きているということ/いま、生き ているということ/それは………ということ/………するということ」のよう に子どもたちに自分の事例をとりあげて詩作させるとよいでしょう。 前述したように「生きているということ」については、わたしたちは普 段あまり考える機会はありません。この詩を学習した機会を利用して、ふだ ん意識してないことを意識化し、俎上にのせ、「生きているということと は」を主題化して、自分の現在の行動(行為)や未来の展望を、自覚化して 書かせることはとても重要な、教育的指導だと言えます。 音声表現のしかた ●全体構成 この詩は、全体が五連で構成されています。連から連へと移る連間で は、たっぷりとした間をあけて読みましょう。 各連の冒頭「生きているということ/いま生きているということ」の2 行は、繰り返し提示されています。この2行は、全体の主調となる内容と リズムとを牽引し、主なる音調を形成する重要な詩句です。 「何について、どうだ。」の「何について」に当たる部分です。「生き ているということ/いま生きているということ」という問いかけ文、各連ご とに繰り返されるこの2行は、この詩全体の意味内容を規定し、音調をも形 成していく重要な詩句ですので、ていねいに、かんでふくめるように、ゆっ くりと、問いを発する音調で、音声表現するとよいでしょう。 つまり、「生きているということ/いまいきているということ」は、特 立強調して目立つように音声表現します。はっきりと、ゆっくりと読んで、 際立つ声立てにして音声表現します。一つ一つの発音をゆっくと、ていねい に、間をあけて、題目を言って問いかけているように、目立つように読みま す。 この2行のあとに、「それは」「これこれ、こういうことだ。こういう 事例がある」という、問いに対する答えの内容文(それぞれの事例)が書か れています。 「それは」が書かれている連と、書かれていない連とがあります。書か れていなくても、気持ちや思いとして「それは」を入れて次の行へと読み進 めていくようにすると、論運びの音調が音声にくっきりと表れ出るようにな るでしょう。 つづく「これこれ、こういう事例がある。」の答えの事例部分は、「生 きているということ」の答えはこうだと、答える気持ちをこめて、答えの詩 句部分をひとつながりにまとまるように音声表現していくとよいでしょう。 ●頭韻と脚韻 この詩は、日本語で書かれた詩にはめずらしく、頭韻と脚韻とをふんで 書いてあります。頭韻と脚韻のリズムがこころよい響きの連なりを形作って います。 頭韻部分は、第二連「それは………、それは………、それは………」で す。第四連の「いま………、いま………、いま………」の連なりもそうで す。 これら頭韻部分が連なる行(詩句)部分は、同じ音調で平板にのんべん だらりとした、変化のない音調で読まないようにします。「そ」を強めの出 だしにします。「そ」を強めて「それは、こうだ。それは、こうだ。」とい う思いをこめて読みすすめます。 頭韻の「それ」は、「生きているということ」を指し示している指示語 です。その指示性をはっきりと声に出して「それ」の「そ」をやや強めにし て読み出していくとようにします。「そ」の指示性を声に出し、指示してい る気持ちをこめて、「そ」を目立たせて音声表現していきます。 脚韻部分としては、すべての各連に「………こと。………こと。……… こと。」の連なりがあります。詩句の末尾にある「こと」の連なりが音声表 現に快いリズムを形作っています。 「………こと」の「こと」の「と」の読み方に気をつけましょう。 「とーー」と母音「オ」を長く伸ばさない・引きずらない読み方にしま しょう。 「と」は、「とッ」と、短く切って、はっきりと断定し、自信を持って 断言する気持ちをこめた音調で読んでいくようにします。自信たっぷりの気 持ちをこめて、はっきりと断言する音声表現にします。 「こと」の「と」は、それら詩句末の音調をしりあがりに上げても、し りさがりに下げても、どちらでも読めます。どちらかを選択し、自分が読み やすいほうで音声表現してよいでしょう。ただし、すべての「と」が平ら に、特徴もなく、平板に、だらだらと、無変化に、続きおさまるような読み 方にはしないように気をつけましょう。 ●最後部のまとめ部分 各連ごとの最後部に「生きているということ」の個々の具体的事例でな く、抽象化された観念的内容のまとめの詩句が書かれています。次の詩句が それです。 第一連「あなたと手をつなぐこと」 第二連「すべての美しいものに出会うということ/そして/かくされた悪を注 意深くこばむこと」 第三連「自由ということ」 第四連「いまいまが過ぎてゆくこと」 第五連「人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ」 これら各連の最後部にあるまとめの詩句部分は、その前部にある個々の 具体的事例の読み音調とは違えて音声表現する必要があります。 前部にある個々の具体的事例はひとつながりに、離れているようでもひ とまとまりになるように読み進めます。 ぎゃくに、最後部にあるまとめの詩句部分は、ゆっくりと、ていねい に、かんで含めるように、ぽつぽつと間をあけて、際立たせて読みます。ゆ っくりと読んで強調します。あとに思いが残るように、一字一字をていねい に押さえるように、ゆっくりと読み進んでいきます。 早口で、さらりと、一気に、続けて、読んでしまわないようにします。 参考資料(1) 小海永二(横浜国大教授)さんは、この詩について次のように書いてい ます。 「生きているということ」「いま生きているということ」がどういうこ とかということを、難しい理屈によってでなく、私たちがふだんの生活の中 で出会う具体的な体験や知識によって、わかりやすく歌っています。 試みに、もし死んでしまったらと考えてみてください。「のどがかわく ということ」も、「木もれ陽がまぶしいということ」も、「ふっとあるメロ ディーを思い出すということ」も、「くしゃみすること」も、人と「手をつ なぐこと」もないでしょう。 これらのことはみな、何気ないちょっとしたことのように思われますが、 考えてみると、いずれも生きているからこそ私たちが毎日体験することので きることなのです。つまり、これらは、生きていることの証拠であり、生き ているということの確かな手ごたえを感じさせてくれるものなのです。 「美しいものに出会う」ということも、生きていなければ不可能でしょ う。そう思うと、これらのささやかな一つ一つの事柄が、じつに大切なこと に感じられてくるのではないでしょうか。 この詩は、作者自身が、自分でも比較的よく書けた、気に入っている作 品です。「……ということ」のくり返しが快いリズム感をつくりだし、詩の 内容とも調和して、若いみなさんが口ずさむのにふさわしい作品になってい ます。 小海永二著『ジュニア版 目で見る日本の詩歌』(ティビーエス・ブ リタニカ発行。1982年。)105ぺより引用。 参考資料(2) 高田敏子(詩人)は、この詩について次のように書いています。 生きている、その一日がどのようにすぎているか、この詩のように、こ まかく思ったことがあるでしょうか。 「今日の一日は、学校へ行って、勉強して、帰ってきて、ご飯を食べて、寝 ただけ」と、そんなことしか思い出さない日もあるでしょう。でも、ほんと うは、この詩のように、さまざまなことの中で生きているのです。 この一行一行は、みなさんも思い当たることばかりでしょう。 生きている、そのあたりまえすぎて気づかない、すぎていく時間のゆた かさを、気づかせてくれる詩ですね。 高田敏子『詩の世界』(ポプラ社。1996年)41ぺより引用。 トップページへ戻る |
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