読授業を創る  そのA面とB面と   05・12・27記




  詩「風景」の音読授業をデザインする




●詩「風景」(山村暮鳥)の掲載教科書…………………………教出6上



           
音声表現のしかた


  詩「風景」(純銀もざいく)の音声表現については、拙著『群読指導入
門』(民衆社)の中ですでに詳述しています。ここではごく簡単に述べま
す。
  結論から言えば、この詩「風景」は、音読、朗読、群読するのに適さな
い・なじまない詩だということです。
  この詩は、視詩とか視覚詩とか絵画詩とかいわれる性質のものです。ひ
らがな文字が同一形式で羅列しており、それが絵画的形象を作っています。
ひらがな文字の羅列を同じ形式で繰り返すことで、一面の菜の花畑を、その
絵を造形しています。
 無機質な活字の羅列で一面の真黄色な菜の花畑の広がりを絵画的オブジェ
としてフォルムしています。ソシュールの用語を使えば、シニフィエを希薄
に、または脱落させたシニフィアンが自立し独り歩きしている詩だと言えま
す。ですから、この詩は、目で見て楽しむ詩です。声に出して読んで楽しむ
詩ではありません。
  ですから、この詩で音読の授業をすることは困難です。音声表現になじ
まない詩です、適さない詩です。

 与謝蕪村に「菜の花や月は東に日は西に」の有名な俳句があります。この
句は、月と太陽の表象が強く、菜の花畑が狭く感じられます。山村暮鳥の
「風景」は、菜の花畑が画面からあふれはみだしている情景が表象できます。
これは、わたしだけの受け取りでしょうか。

  前記しましたが、この詩「風景」(純銀もざいく)についての詳細は次
の二冊の拙著に詳述してあります。
『群読指導入門』の中にある「群読に適さない詩」の章。また、詩「風景」
の個所(34ぺ〜35ぺ)。
『表現よみ指導のアイデア集』の中にある「音声表現しにくい文章」の章
にくわしく書いています。


       
 「純銀もざいく」について


 副題の「純銀もざいく」とは、どんなことを表現しているのでしょうか。
よく分かりません。が、わたしが考えたことは次のようなことです。
 モザイク(mosaic)とは、「寄せ木細工」とか「貝がら、ガラス、
石など小断片をならべて模様にした飾り」のことです。
  ひらがな文字を横に何列にも並べ・重ねて、モザイクのように寄せ集め
て空間の広がりを作り、一面の菜の花畑を図案化した風景画ということでし
ょうか。
 純銀とはなんでしょう。菜の花は黄色です。一面が真っ黄色な菜の花畑で
す。銀色ではありませんよね。
 山村暮鳥の時代は、ワープロとかパソコンはありません。印刷工場では
植字工たちが銀色の活字棒を一字一字を拾い出して手作業で枠の中へ並べて
文章の活字を組んでいきました。たいへんな作業でした。そうして組み立て
た活字の並びによって仕上がった一篇の風景制作による絵画描写形成の詩、
つまり、ひらがな文字の形式的な組み合わせによってできたモザイク状の詩
という意味でしょうか。
 この詩は、一面(全面)が「いちめんのなのはな」の菜の花畑を造型して
います。この詩は、絵画詩、写真詩、視覚詩なので、音声にすることでオブ
ジェとしての感動から音声で表現しきれない、こぼれ落ちてしまう視覚表象
があります。音声では十分に表現しきれない視覚詩です。
 これら「いちめんのなのはな」の絵画表象の中に、一連「かすかなるむぎ
ぶえ」、二連「ひばりのおしゃべり」、三連「やめるはひるのつき」がモザ
イクとして組み込まれ、ちょっとしゃれたアクセントと変化を添えた「純銀
モザイク」世界という意味でしょうか。その時、山村暮鳥には一面の菜の花
畑がたまたま「純銀モザイク」世界に見えた心象風景であったということで
しょうか。

  それとも、山村暮鳥は、この「風景」の詩は、その内奥に芸術的価値と
して純銀の価値が潜んでいるという自負から「純銀モザイク」という副題を
つけたのでしょうか。

  わたしは、前記で紹介した二冊の拙著で詩「風景」(純銀もざいく)は
音声表現に適しない、なじまない詩だ、視覚詩・絵画詩として「見て楽しむ
詩」だということを詳述しています。
  これを書いた五年前は、この詩「風景」に視覚詩・絵画詩という位置づ
けがあることを不勉強で知りませんでした。今回、山村暮鳥についてあれこ
れと調べていくうに、わたしと同じ考えは既に以前からあったということを
知りました。以下、その文献を見出しましたので、それを参考資料として下
記につけておくことにします。



          
 参考資料(1)


室生犀星のご見解

  この「風景」は三章二十七行に亘る詩であるが、各章行末にある一行だ
けが違っている外は、いちめんのなのはなという同じ行列であって、これを
初めて読んだ時は遊び過ぎているようで、素直に読んで味わう気がなかっ
た。
  原稿紙のうえのいたずらがそうさせたのだろうと思っていたが、暮鳥逝
いて三十五年後の私の今日の机の上では、その菜の花の危険を冒した表現
は、いまは美しく野の花が盛りこぼれていて、牧師をしていたことのある山
村暮鳥が、この一面菜の花の中を歩いているような気が、するのである。 
     「現代日本文学大系41山村暮鳥・堀口大学・千家元麿ほか集」
      (筑摩書房、昭和47))422ぺより引用




           
参考資料(2)


じく室生犀星のご見解

  山村の詩の凡てを通じて、いかに仮名というものを生かそうということ
に、並々でない苦心ががはらわれているかに人々は気づくことであろう。彼
は仮名というものに日本的なやさしい音楽を感じ、それによって彼は彼の音
楽をかなでることに、生涯をついやしていたと言ってよい、
  仮名までいかなくともよいところに、彼は仮名をつかい、詩をそだてる
ことに技術の妙をあらわそうとしていた。成功しているものもあるし、その
ため妙にへなへな詩になったものもあった。弱さと危なさと、もの足りなさ
のあるものも、そのためである。厳しさや烈しさ旺盛さが見失うようになる
のである。
  たとえば「いちめんなのはな」の一篇などはその作品発表当時ははなは
だ変な、わざとらしさがうかがわれたが、今日になると、これらの平仮名の
行列があたかも菜の花畑を見るようで、美しい。
  当時未来派の詩が日本に入ってきたために、山村はそれに倣って手をつ
けたものらしい、山村の機敏と鋭感はほかに倣うことにも、後れをとらな
かった。しかも、どうかすると軽い韻律に終わってしまう平仮名詩が、これ
の大胆な試作によって相当の効果を見せているのは、彼の熱烈な根気の好い
試作を重ねたために、その飽きることのない勉強振りから得られたものだろ
う。      山村暮鳥詩集(新潮文庫、昭和27)の解説より引用




           
参考資料(3)


阿部岩夫のご見解
 

  この作品は暮鳥の第二詩集「聖三稜玻璃」に収められているもので心
にくいほどの技巧をこらした傑作といっていいであろう。今手にしても新鮮
な印象を与えてくれる。一面真黄色ななのはなに埋まった田園の景色が目の
前に浮かびあがってくる。これを読んでいると風景そのものが言葉ではない
か、と思われそれとほぼ等量の沈黙がうまれ、沈黙のうちに詩を抱えざるを
得ないものが感じられる。内部の反照としてもう一つの風景が渾然一体と
なって融けあっているからである。またこの詩は言葉の狭い意味から広い所
に救い出されている。作品を書いた暮鳥が見えてくるのだ。表現はもともと
自己内部の対象化を含む行為であるから書いた人の存在につきあたるのはあ
たりまえのことなのだが、詩人の主体と風景とのかかわり方がみごとに凝縮
された形で存在している。  
          「山村暮鳥詩集」(思潮社、1991)158ぺより引用



          
 参考資料(4)


(荒木のコメント)
  山村暮鳥は、萩原朔太郎の詩集「月に吠える」について、次のようなコ
メントを書いている。その中から一部を抜粋してみよう。詩集「月に吠え
る」は、暮鳥「聖三稜玻璃」(大正4)より二年後の出版されていて、この
詩集「月に吠える」についての暮鳥の書評である。
  詩「風景」(純銀もざいく)は、暮鳥の詩集「聖三稜玻璃」に収録さ
れています。以下の暮鳥の文章を読むと、かれは萩原朔太郎「月に吠え
る」を最大の賛辞を与え、挿絵にまでべたほめしています。それは仲間う
ちのほめ言葉ではすまされない、暮鳥には何かしらの意図がおありだったの
かもと変な下衆のかんぐりまでもってしまいます。それはおいとくことにし
ます。
  以下の山村暮鳥の文章を読むと、暮鳥は「聖三稜玻璃」を詩作している
ときに「詩の音楽性」とか「立体絵画を詩で描く」とか「文字、言葉で概念
化されてない詩」とかの考えがあったことは確かです。二年後の「月に吠え
る」の書評でそれを明記しており、視覚詩とか絵画詩とかの言葉はつかって
いませんが、当時こうした考えをモチーフとしてもっていたことは明確で
す。
  こうしたことを考えるに「風景」(純銀もざいく)の風景詩が誕生した
わけがうなづけます。


ーーーー(以下、山村暮鳥の文章より引用)ーーーーーー
  なんという芸術だろう。まるで音楽のようだ。けれど、こんな音楽が嘗
てどこのだれに依って存在したか、それはやっぱりこの作者独自の、そして
それ自身すら勿論二度とはくりかえすことの不可能なものだ。
  この作者が音楽においても優秀な理会とタレントをもっていることを自
分はしっている。
  芸術上、実在を把握する方法のひとつとして実在を実在のままに把握す
る所謂直接把持を事とするものは音楽である。音楽に於けるキイや弦はちょ
うど詩に於ける言葉もしくは文字のようなものだ。しかしキイや弦は文字も
しくは言葉のように概念のために駆使されていない。したがって概念化され
ない。萩原君はこれをアンダースタンドしている。それが厳密な意味でこれ
らの詩の音楽的と自分に見える由因である。
  君は、だからこの意味で立体の絵画(それは平面のものだが)を詩で描
いているのだとも言える。
          「山村暮鳥詩集」(思潮社、1991)117ぺより引用


挿絵について。
  田中君の挿絵は、自分に萩原君の詩があたえているようなものを反対に
与える。萩原君の詩が所謂詩でないように、これは画でなくて詩である。全
く詩である。理会ばかりがゆるす世界にこの二人は生きた。画というにはあ
まりに約束を無視し過ぎている。それでいい。然しそれでいい。  
          「山村暮鳥詩集」(思潮社、1991)119ぺより引用
ーーーーー引用終了ーーーーーー



           
参考資料(5)


  嶋岡晨は、春山行夫の詩「白い少女」は、山村暮鳥の詩「風景ー純銀も
ざいく」を感じさせると書き、「白い少女」について次のように書いている。
この対比がおもしろく、参考になる。

ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  (春山行夫の「白い少女」は)山村暮鳥の「風景ー純銀もざいく」が連
想されるが、情緒性はさらに徹底的に排除されている。この技法は、イマジ
シム、というより、フォルマリズムと言うべきだろう。言語・文学の形態的
(フォルム)効果を狙った詩。「朗読より視覚へ。文字より記号へ」(『詩
の研究』)とまで春山は考えた。<記号>化されるコトバのおもしろさ。
     嶋岡晨『詩とは何か』(新潮選書。新潮社刊。1998)より引用
ーーーーーー引用終了ーーーーーー




           
参考資料(6)


  粟津則雄(文芸評論家、法政大学名誉教授)は、山村暮鳥「風景」につ
いて、次のように書いています。

ーーーーーー引用開始ーーーーーーー
  九行詩三詩節から成るこの詩は、各節の八行目に「かすかなるむぎぶえ」
「ひばりのおしゃべり」「やめるはひるのつき」というふうに微妙な転調が
加えられているほかは、すべてこの「いちめんなのはな」ということばが連
ねられているだけだ。
  そこには何の形容もなく描写もない。副題にあるとおり「純銀もざいく」
だが、ふしぎなことに、およそ人工的なものは感じられない。それどころか、
この「いちめんなのはな」ということばのひとつひとつが菜の花と化したか
のように、一面にひろがる菜の花畑が鮮やかに浮かびあがる。
  一方、現実の菜の花畑を見たとき、時として私はその花のひとつひとつが
このことばとなって私に語りかけるように思うのである。
         東京新聞・2006・4・4夕刊「ことばの泉」欄から引用
ーーーーーー引用終了ーーーーーーー



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