音読授業を創る  そのA面とB面と      04・06・24記



「ヒロシマのうた」の音読授業をデザインする



 ●「ヒロシマのうた」(今西祐行)の掲載教科書………東書6上




      
「わたし」の目や気持ちになって読もう


  この物語は一人称の登場人物「わたし」の目や気持ちをとおして描かれ
た地の文になっています。「わたし」の目や気持ちをとおした個人的な体験
が書かれています。
  この物語に語られている事柄は、すべて「わたし」という人物の内面を
くぐった「わたし」の主観に彩られた世界です。この物語には、「わたし」
の目に見えた対象世界、「わたし」の気持ち(心理感情)をくぐった対象世
界が描かれています。情景描写(被爆直後の広島の惨状など)も、肖像描写
(ヒロ子の外見・姿形・表情など)も、心理描写(「わたし」の意識の流れ
など)も、行動描写(登場人物の行動の様子)も、性格描写(「ヒロ子は強
い子だった」など)も、事柄の説明や因果関係の記述も、すべて「わたし」
のフィルターをとおした描かれ方になっていす。
  「わたし」の内面をくぐって描かれていますので、「わたし」の外見は
殆んどわかりませんが、「わたし」の内面は手にとるように分かります。音
読してると読み手に、語り手「わたし」の内面はびんびん響いてきます。音
読するとき、自然と「わたし」の気持ちに同化して読まざるを得なくなりま
す。「わたし」の目や気持ちになりきって、あたかも読み手が「わたし」に
なって作品世界を生きているかのような錯覚を持ちながら読み進めることに
なります。読み手は「わたし」と同じ気持ちになって、「わたし」と同じリ
ズムと呼吸で、広島の惨状を目にし、ヒロ子ちゃん親子を目にし、手紙のや
りとり、出会い、語り合いなどの行動をしていくことになります。



           
押さえたい文章表現


 内容理解があやふやでは音声表現はメロメロになってしまいます。音読指
導とは、音声解釈による内容理解の深めと、それにからめた音声表現の仕方
の指導です。音読指導は、音声表現のテクニック(記号づけ、間、イント
ネーション、リズム、緩急変化、強弱変化、転調など)の指導だけではあり
ません。
  「ヒロシマのうた」には、理解困難な文章個所は殆んどありません。読
めば、すんなりと理解できる文章です。ただし、次のような文章個所では教
師の意図的な読み深めの指導が必要でしょう。


 ●わたしは、どこへ行ってたのかと聞かれて、兵長にしかられ、ひどくぶ
たれました。なぜか、わたしは赤ちゃんのことを話しませんでした。いくら
説明しても、そは、勝手な行動をとっただけのことなのですから。戦争とい
うことが、こんなに悲しいものであることを、そのとき初めて知りました。

  《兵長にぶたれ、赤ちゃんのことを話さなかった。「戦争ということ
が、こんなに悲しいものである、」という理由は何か。軍隊集団の非人間的
な規律について児童に知らせたい。》


 ●わたしたちは遠い親類をたよって、廿日市まで行くところでした。その
廿日市へ行っても、だれも相手にしてくれる人はありませんでした。
  《廿日市の人々は冷酷で薄情な人々なのでしょうか。そうではありませ
ん。当時は、だれもが自分が生きるのに精一杯だったのです。そういう時代
状況を理解させたい。》

 ●七年たっているというのに、原爆症で白血病だったのです。

  《原爆症についての資料、記事を教室内に掲示しておくだけでも役立つ
でしょう。総合の時間を利用した平和教育の自主調べ学習をさせることもで
きます。》


 ●主人の母、ヒロ子ちゃんの義理のおばあさんに当たる人が、ヒロ子のこ
とが気にいらないのだというのです。死んだほんとうの孫のことを思うにつ
けても、何かとヒロ子ちゃんに当たるというのです。そして、とうとうある
日、「おまえは拾われた子のくせに……。」というようなことを、ヒロ子
ちゃんに言っておこったのだそうです。

  《おばあさんにとっては、嫁の夫(わが子)が死んでしまったのですか
ら、ヒロ子と育ての母とは、赤の他人となってしまったのです。実の孫への
愛情が深かったということですから、おばあさんの立場に立てば、その気持
ちが分からないわけではありません。そこを出て、ほかで暮らしたらという
「わたし」の進言もここから出たのでしょう。こうした人間関係と愛情のほ
つれを児童と語り合いたい。》


 ●わたしは記念日を選んだことを後かいしていました。記念のいろいろな
行事は、何かわたしたちの思い出とかけはなれたものにしか思えなかったか
らです。

  《「かけはなれたものにしか思えない」その理由は何でしょうか。今も
戦争(原爆)の深い傷跡をひきずり、苦しい生活をしながら必死に生きてい
る人々がいるのです。戦争の後遺症になやまされ、病苦や生活苦の辛酸をな
めている人々がたくさんいるのです。単なるイベントとしての記念行事を
粛々とこなして、それで終わりではないのです。》


 ●わたしは、じっと窓の外のとうろうを見ながら、あの日のヒロちゃんの
お母さんの話しをしました。ヒロちゃんは、だまって聞いている様子でし
た。
  《「わたし」は、じっと窓の外を向いてヒロ子ちゃんと話しています。
正面を向いて告白をしていません。気配で、ヒロ子ちゃんはだまって聞いて
いる様子だ、と書いています。なぜ、正面を向いて話さ(せ)なかったので
しょうか。児童と語り合いましょう。》

 ●お母さんが心配するといけないから、といって、わたしたちは、それか
らすぐに洋裁学校に帰りました。

  《だれが、どんな理由で「心配する」のでしょうか。だれの、どんな心
配を気づかっているのでしょうか。》


 ●汽車はするどい汽笛を鳴らして、のぼりにかかっていました。

  《象徴的表現について語り合いましょう。汽車の汽笛は、ヒロ子ちゃん
達の新しい出発と重なります。ヒロ子ちゃんたちの新しい出発の合図なのか
もしれません。
「のぼりにかかっていた」も、ヒロ子ちゃんはじめ、育ての母親、「わた
し」、三人のこれからの前途(人生)を暗示していますね。でも、汽車はす
るどい汽笛を鳴らして、「のぼりはじめた。」です。きっと、力強く、たく
ましく、生きていってくれそうです。こうした暗示的表現に気づかせましょ
う。》


        
一場面のまとまりごとに音読する


  「ヒロシマのうた」は大きく三つの場面に区分けできます。戦時中、七
年後、十五年後です。戦時中のことを書いてあるページは東書版教科書で1
0ページ余りあります。原爆の落ちた翌日に広島へ行き救護活動や復旧作業
に当たったこと、ミ子ちゃん親子に出会ったこと、リヤカーを引いた夫婦に
ミ子ちゃんを預けたことのいきさつが切れ目なく連綿と書かれています。
  音声表現するとき、切れ目なくずらずらと読んでしまいがちです。10
ページ余りの文章には小さな場面が幾つか集まって一つの事件の筋ができて
いるのですから、場面の一つ一つを音声のまとまり(区切り)ごとに声で形
作っていくようにしなければなりません。前の場面の途中で区切り、次の場
面途中で区切ってひとまとまりにすることのないように気をつけさせます。
意味内容の区切りごとで間をあけて音声表現するようにします。
  次にこの物語の発端場面を取り上げて、このことについて詳述していき
ましょう。

●「わたしはそのとき、水兵だったのです。」から「三時ごろ、広島の町へ
行ったのです。」までが一つの場面です。

  《指導事項。児童に「わたしは当時、どんな仕事をしていて、いつ、ど
こへ行ったかを、聞いている人にわかるように、説明しているように読みな
さい。」と指示します。音読する直前に「わたしはここを、こんなことに気
をつけて読みます。」という前おき言葉を言わせて、それから実際の音声表
現をさせます。前おき言葉は自分で考えたり、学級全員で考えたりしま
す。》


●「町の空は、まだ燃え続けるけむりで、ぼうっと」から「動けない人のう
めき声で、うずまっていたのです。」までが一つの場面です。

  《指導事項。児童に「空の様子の説明、こういう状態の道を通って、広
島駅裏の東練兵場に行ったと、聞いている人が理解しやすいように区切って
読ませるようにしましょう。
  「ああ、そのとき」からあとは、夜の暗さの中に見えたこと、聞こえた
ことを、気持ちをこめて様子が声に出るように読ませましょう。》


●「やがて東の空がうす明るくなって」から「同じような人たちが、練兵場
に流れてくるのです。」までが一つの場面です。

  《指導事項。児童に「わたし」(語り手)の目に見えた様子が、これ、
これ、これと、一つ一つを区切って、誰かに伝えているように読みたいで
す。地獄のような様子だったと、「わたし」(語り手)の気持ちをこめて読
むようにしたいです。」というような前おき言葉を言わせてから、実際の音
声表現をさせます。
  児童の発表の中にあった「これ、これ、これと」とは、こうです。「暗
いうちは見えませんでしたが、」が大前提にあって、次の(   )内はひ
とつながりに音声表現します。(それがみなお化け。目も耳もないのっぺら
ぼう。)(ぼろぼろの兵隊服から、ぱんぱんにふくれた素足を出して死んで
いる兵隊たち。)(べろりと皮をはがれて、首だけ起こして、きょとんとわ
たしたちをながめている軍馬)(だれも話している者はありませんでした。
ただ、うなっているか、わめいているばかりです。)(「まだまだ」は、下
の「流れてくるのです。」に係るように読みます。》


●「練兵場の中ほどに、演習用に、長々と」から「水を飲まなくても、間も
なく死んでいくのですから。」までが一つの場面です。

  《指導事項。クリークの場面です。児童に「クリークの様子と、クリー
クの水を飲んで死んでいく人々の動き、様子がひとまとまりによく分かるよ
うに声で表現したいと思います。」のような目当てを事前に言わせてから、
それから実際の音声表現をさせます。
  音声表現した後は、本人に結果はどうだったかの自評を言わせます。実
際の音声表現について他児童からも感想を言わせます。他児童からの共同助
言では、否定的な発言ばかりにならないように配慮します。できるだけよ
かった点を出すようにさせます。「ここがよくなかった、だめだった、下手
だった。」でなく「ここはたいへんよかった。ここにもうひと工夫があると
もっとよかった。」とか「ここが、こんな感じになるともっとよくなっ
た。」などのような気づかいのある感想(批評)をさせましょう。
  実際の音声表現を材料にさらなる解釈深めの話し合いを学級全員でして
いきます。ここは、こんな文章内容だから、こんな感じの音声表現にすると
よいなど、文章の中から部分的に解釈と音声表現の仕方を取り出して練習し
たり、まとめの音声表現をしたりします。
  一つの場面から次の場面に移り変わるときは、前の場面で音調を下げて
終了します。音声で文章内容を閉じます。そこの区切りで暫時の間をあけ
て、それから次の場面を読み出していくようにします。》



         
区切りの間(ま)に気をつけて


  「ヒロシマのうた」には長い一文があちこちに見られます。長い文は区
切りの間に気をつけて音声表現させましょう。意味のまとまりで区切って音
声表現するようにします。
  一場面(一段落)には幾つかの事柄が書かれていますが、一つの事柄は
ひとまとまりに、他の事柄と区別して音声表現させます。
  次に例文で示しましょう。(   )の中は、ひとまとまりになるよう
に他と区分けして音声表現します。ただし、必ずこう区切るということでは
ありません。一つの区切り方の目安に、参考にしてください。その時の思い
入れや読みのすべり調子によって区切り方は微妙に変わってきますので。

●(わたしたちは、練兵場の真ん中に、)(死体をよけて、テントを張
り、)(救護所を作りました。)(軍医が、)(ごろごろ転がっている人々
の目を、一人一人、)(まるで魚を分けるように調べていきます。)(わた
したちは、その中で)(生きている人だけを、)(テントに運ぶのです。)
(テントは、すぐに、)(いっぱいになりました。)(木かげや、)(しま
いには何もないぎらぎら太陽の照りつける草原にも、赤十字の小さな旗を立
てて、)(生きている人を)(ただ)(集めるだけでした。)

●(このお母さんは、)(ミーちゃんと呼ぶ赤ちゃんと、はなれた所にいる
ときに、)(あのおそろしいことが起こったにちがいありません。)(目が
よく見えないままに、おしつぶされた家の中からミ子ちゃんを助け出した
か、)(それとも、だれか他の人に助け出されていたのを探し出して、)
(やっと、ここまでにげてきたのでしょう。)(だが、)(よく赤ちゃんの
顔がよく見えなくて、心配でおそろしいのです。)

●(あのとき、わたしたちは、)(それほど気にもしないで、まるで荷物の
ように赤ちゃんを預かりましたが、)(駅に行っても、)(どこへ行って
も、)(赤んぼうは)(引き取ってもらえません)(でした。)(私達は、
遠い親類をたよって、廿日市まで行くところでした。)(その廿日市へ行っ
ても、)(だれも相手にしてくれる人は)(ありませんでした。)

●わたしはすぐ返事を書きました。(夏まで待ってください。夏になった
ら、きっと休みをもらって、広島へ行きます。広島でお会いして、いろいろ
わたしにできることなら相談いたしましょう。)そういう返事を出しまし
た。
  その年の夏、ちょうどあの日のように朝からぎらぎらと暑い夏、広島の
駅で、わたしたちは会いました。(赤いズックのくつに、セーラー型のワン
ピースを着ている一年生)というのが、目印でした。わたしは、(白いワイ
シャツにハンチング、こん色のズボン)というのが目印の約束でした。
  《かっこの中は返事の内容、目印の約束事です。これは一つながりの事
柄ですから、ひとまとまりの事柄として、他と区切って、まとまりとして音
声表現します。》

●(ミ子ちゃんをだれかに預けたいという相談をするために来たはずのお母
さんは、)(そう言って、)(泣きじゃくるのです。)
  《「お母さん」の上部に長い連体修飾語がついていますが、ここはひと
つながりにして音声表現します。修飾語と被修飾語とはひとつながりにして
音声表現します。》

●(二人が汽車に乗ってからは、)(プラットホームに売っていた、パイ
ナップルの氷がしを一ふくろ買って、)(ヒロ子ちゃんにわたしました。)
  《「氷がし」の上部にやや長い連体修飾語がついていますが、「買っ
て」までひとつながりにして音声表現します。》

●(その日、わたしはいよいよヒロ子ちゃんに、死んだ母さんのことを話す
約束をして、)(二人で一日、町を歩き回ったのです。)(でも、)(どこ
にも、そして、いつまでたっても、そのきっかけがつかめないままに、)
(つかれてしまいました。)


         
修飾語の係り受けに気をつける


  修飾語はどの語句に係っているのかに気をつけて、受ける語句まで係る
ように音声表現します。

●(夜になると、まだ燃え残っている火で町の空は赤く、)(その赤い空
が、クリークの水に映って、)(まるで血の川の色をしていました。)
【(ずるりと焼けただれた人のはだに)にじんだリンパ液も、】【(不気味
に光ってうごめいている)のです。】

  《文章の骨格は「夜になると、空は赤く、赤い色が水に映って、川は血
の色だ。にじんだリンパ液もうごめいている。」です。この文では、修飾語
が感化的な表現性を帯びており、とても重要な働きをしています。「ずるり
と焼けただれた」は「人のはだ」です。「不気味に」は、直接には「光っ
て」に係り、「うごめいて」にも係っているように思われます。(   )
は潜在的に係っている文意識をもち、実際には【   】で区切った音声表
現をします。》

●その夜、【ふと】わたしは赤んぼうの声を聞きました。【初めは】夢を見
ているのだと思ったのです。【でも、】少しねむると、また赤んぼうの声で
目を覚ますのです。【とうとう、】わたしは起きだして、かい中電灯で、声
のする方を探し始めました。【でも、】見当たりませんでした。

  《【   】の語句はどこに係るのでしょうか。副詞は述語に係りま
す。接続語は単に接続の論理関係を示してつなげているだけでなく、述語に
係っていく働きもしているのです。係り受けの関係を意識して、ひとつなが
りに音声表現しましょう。
 「ふと………聞きました。」、「初めは………と思ったのです。」
 「でも、………また………目を覚ますのです。」
 {とうとう………起きだして、………探し始めました。」
 「でも、………ませんでした。」の係り受けを意識して音声表現させま
しょう。》

●【でも】わたしは、もうすっかり忘れていたあの日のことを、急にまざま
ざと思い出しました。ミ子ちゃんと呼ばれていたお母さんの死に顔は、はっ
きりと目にうかびました。【初め、】何だかあのお母さんが、探しているよ
うなさっかくを起こしました。【だが、】そんなことがあるはずがありませ
ん。【もしかすると、】あのリヤカーを引いていった人だろうか。【でも】
わたしは、あのときミ子ちゃんをたのんだ人の顔は、どうしても思い出せま
せんでした。

  《「でも………思い出しました。」、「初め………さっかくを起こしま
した。」「だが………はずがありません。」、「もしかすると………あの人
だろうか。」「でも………思い出せません。」この地の文は「わたし」の思
考過程、ひとり言と同等の性質をもっています。「わたし」の心理的な思考
過程の区切りをはっきりさせて音声表現させます。》


          
改行を気にせずに続けて


  練兵場の中には、演習用に、長々とクリークがほってありました。そこ
には、赤くにごった水がたまっていました。
  焼けただれた人々は、いつの間にかその水を求めてはい寄り、まるで激
しい毒薬を飲んだように、水を口にすると、浅い水たまりに頭をつっこんで
動かなくなっていくのです。

  《上は二段落分の文章部分を引用しています。前段はクリークの状況説
明で、後段はクリークで死んでいく人々の群れの描写です。こうした意味か
ら改行が行なわれています。
  このような場合、小さな文章部分での改行が続くとき、形式段落ごとに
こまかく区切って小さく間をあけて音声表現していくと、全体の文章内容が
ちりぢりに分散してしまい、聞いていて意味が分からなくなってします。こ
こは大きくクリーク場面としてひとつにまとめ、改行がないものとして続け
て音声表現していくようにします。「……水がたまっていました。焼けただ
れた人々は」は続けて読んでいきます。
  このように小さな段落が並ぶときは、改行に気にせずに意味内容のつな
がりで、小分けの形式段落をひとつの大きな意味段落にして、続けて音声表
現するようにします。》


  そのうちに、交代の時間がきました。わたしたちは、テントを出て、そ
れから四時間、くずれた建物や土にうずまった広島駅の復旧作業に行きまし
た。そして、夜明けにテントに帰ってきました。そのとき、わたしは、自分
たちのテントのすぐ後ろで、立ちすくみました。ここだったのです。
  一人の赤ちゃんが、女の人にだかれていました。初め、わたしは女の人
はねむっているのだと思いました。赤ちゃんはお母さんの胸にうつぶせて、
顔をくっつけていました。

  《「一人の赤ちゃんが」から改行して書かれています。しかし、意味内
容から言えば「夜明けのテントに帰ってきました。」で区切ったほうがよい
ようです。ここで復旧作業の仕事をしてテントに帰った事柄の文章は終了し
ています。次からは赤ちゃんのことの話が始まります。「そのとき、わたし
は、自分たちのテントを出て」から新しい意味段落の開始として音声表現し
ていったほうがよいようです。
  ですから、「夜明けにテントに帰ってきました。」で終了の音調にしま
す。ここで間をあけ、「そのとき、わたしは」から転調して読み出していき
ます。「ここだったのです。一人の赤ちゃんが」とつづけて音声表現してい
きます。》


            
会話文の読み方


●「ミーちゃん、ミちゃん。あんた、ミ子ちゃんよねえ。」
●「ミーちゃん、ミーちゃん。」

  《児童に「死に行く際のかぼそい弱々しい声で読みたいです。」などの
前おき言葉を言わせてから、音声表現をさせます。前おき言葉は、事前に全
児童にこの会話文をどんな音調で語ったらよいかと問いかけて話し合いま
す。息だけの声、途中でぶつぎりのはあはあした声、ゆうれいみたいな遠く
から細く聞こえてくる声、ぼんやりした意識での小さくひとり言みたいな
声、ゆっくりした病人みたいなか弱い声などいろいろ発表されるでしょう。
  音読後に、自評を言わせます。他児童からの合評(共同助言)の話し合
いをします。発表された音声表現を材料にしてさらに解釈深めの話し合いを
開始します。さらに上手な音声表現の仕方を言わせます。さらに実際の音声
表現に挑戦させます。》


●「だいじょうぶですよ。お母さん、わたしが預かります。」

  《児童に「お母さんを安心させるように、自信があるように、きっぱり
とした調子で読みます。」などの前おき言葉を言わせ、それから音声表現を
させます。
  音声表現では句点と読点の位置を入れ替えて「だいじょうぶですよ、お
かあさん。わたしが預かります。」のように区切るとリアル性がでます。こ
の会話文は実際には声に出ていない、思いだけなのかもしれません。解釈の
違いによって声の大小に違いが出てきますが、声に出して読まない限りは音
声表現になりません。無言ではいけません。》

●「もしもし、この赤ちゃんを乗せていってくれませんか。」から「願いま
す。」までの文章部分の会話文の読み方について。

  《「もしもし」は、声が届くだけの距離があり、離れていて、未知の人
への呼びかけです。距離がある呼びかけの声です。児童たちに多様に違えて
音声表現をさせて、その中からよいのを選択します。選択した読み声は学級
全員でまねして覚えます。
  「けがはなさそうですがね、この子は……。」は、相手に安心を与える
ために確信的なしゃべり方にします。
  「ええでしょう、車に乗せてつかえ。駅に……」の会話文の前に暫時の
間をあけます。しばらく夫婦が顔を見合わせ、どうしようかと考えている時
間経過の間があるからです。
  「願います。」は、心をこめて懇願している音調、ほんとに切に願って
いる音調、ほっと安心した心からの「ありがとう」を言う音調など、児童か
らいろいろな発表が出るでしょう。それをもとに実際の音声表現をさせま
す。》


●「……さんが、広島の練兵場で、赤んぼうを、リヤカーを引いていく家族
の人に預けた海軍の兵士のかたを探しておられます。」

  《……部分の読み方。聞き手が本を見ていない場合、読み聞かせでは
「まるまるさんが」とか「だれだれさんが」とかと読んでよいでしょう。聞
き手が本(文字)を見ている場合は「……」は読まず(まるまる、だれだ
れ、と読んでもかまわない)「……」で少し間をあけ、「さんが」から声で
読んだほうがよいと、わたしは思います。
  これはラジオから流れてきたアナウンサーの声です。ニュースのように
感情なしに淡々と伝達する音調で音声表現します。》


●『この子はきっと、ヒロ子の生まれかわりよね。』

  《二重かぎの表記に注目させます。通常の会話文の表記ではありませ
ん。手紙文だからでしょうか。義母の観念(思い込み、思い入れ、胸懐、心
念、所信、決意)です。強めて粒立てて音声表現します。


●「ありがとうございました。ありがとうございました。ミ子ちゃんは元気
で、助かったのですね。」わたしは思わず独り言を言って、ひとりでに手紙
に頭を下げました。

  《こんな動作でこの会話文を言った、と書いてあります。「手紙に頭を
下げる」動作をしながら「独り言」でこの会話文を言わせてみましょう。動
作をする、しないで、音声表現が全然違ってきます。》


●「ヒロちゃん、もう洋服ぬえるのかい?」
●「いいえ、今、ワイシャツやっているんです。」

  《ここからあと、最終までの会話文は殆んどが相手と対話している会話
文です。内容が暗いからといって、暗い声でなく、明るい声・からっとした
声・さっぱりした声で音声表現します。

●「会ってみたいな………。」
 ぽつんとヒロ子ちゃんは独り言のように言いました。
  《「ぽつんと」です。「独り言」です。児童たちにいろいろな言い方で
挑戦させましょう。上手な言い方は全員でまねして覚えます。》


●「ないしょですよ。見せたなんて言ったら、しかられますからね。」
  《二人だけの内緒話です。そっと、小声で、ひそひそ話のような言い方
にします。》


            
手紙文の読み方


  手紙の送り手はヒロ子の育ての親です。手紙の受け手は「わたし」で
す。「わたし」の読み声として読んでもいいのですが、音声表現がしやすい
のはヒロ子の育ての親の気持ちをとおした声として読むほうでしょう。
  育ての親の気持ちをとおした、女親の声立てで読むとはいっても、やは
り読み手の意識のどこか、遠い彼方の背後に「わたし」が控えています。
「わたし」が実際には読んでいるのですから。
  しかし、控えている「わたし」を手紙文の前面にたてて読まなくてもよ
いと思います。育ての母親の気持ちになって音声表現してよいと思います。
「わたし」の気持ちは入るのですが、それは背後に沈ませておいて、育ての
母親の気持ちを表面に出して読む読み方でよいと思います。そのほうが音声
表現しやすいからです。自然と「わたし」の気持ちも読み声ににじんできま
す。


            
参考資料(1)


  「川とノリオ」の作者・今西祐行さんは、この作品は今西さんの実体験
をもとにした創作であると、次のように書いています。

  この作品は私の体験にもとづく創作である。物語のはじめの部分に描か
れているように、私はあの日の翌朝、一瞬にして史上最も残酷な戦場と化し
た広島に一救援隊員として入ったのだった。死後硬直した母親の乳房をに
ぎって泣き叫んでいた赤ん坊を抱きとったのもその日の夜、東練兵場でのこ
とだった。赤ん坊を抱いたまま硬くなったその母親の手をもぎはなすときの
感触を、今の私はありありと夢に見ることがある。二度目に救護所に運ん
で、比較的軽症そうな夫婦に託した後のことを実は私は知らない。二度目に
救護所へ行ったときにはもう見当たらなかったのである。
  この話にはもうひとりの別のモデルがある。当時私の伯母の家族が広島
に住んでいた。一家は家の下敷きになるだけで助かったが、その実家のいち
ばん小さい幼稚園に行っていた子が路上でもろに被爆していた。その子は後
に幸せな二児の母親となったが、私がこの物語を書いたのはその子が中学を
終えるころ、整形手術を何度もくりかえしているころであった。私はその子
の幸せを祈ると同時に、いつもある地獄の中で遭った多くの子どもたちのこ
とを考えずにはいられなかった。
  「歌う」ということばは「訴う」から転かしたという説がある。あのヒ
ロシマで、どれだけたくさんの何の罪もない幼い魂が昇天したことか。わた
しはそれを訴えると同時に、あの苦しみをのりこえて強く生きる少女をうた
いあげずにはいられなかった。   東書国語六年指導書から引用



            
参考資料(2)


  万屋秀雄(児童文学研究者)さんは、今西祐行さんの戦争もの、歴史も
のの作品について、次のような父性論の観点を強調した主張をしています。
一つの見方として注目に価します。わたし(荒木)の考えは、やはりメイン
テーマは戦争の悲劇であり、サブテーマとして父性があると思うのですが、
どうでしょうか。

  「ひとつの花」の世界は、戦争の非情さ、悲惨さをうきぼりにしてはい
るが、より強烈に読者に迫ってくるものは、戦争によっても消すことのでき
なかった父親の愛情の世界ではないだろうか。この作品は、小学校の現場で
戦争文学教材としてよくとりあげられるが、多くの教師の批判ーー戦争の非
情さ、悲惨さが描ききっていない、とくに後半はそれがボカされているので
はないかーーに出会う。元々この作品は、戦争の悲劇性のみを追及された作
品ではないだろう。先に指摘したように一貫して流れる父親の愛情(おそら
く作者自身のそれ)にこそ力点があり、戦争そのものという素材の中でそれ
は存分に生かされている、と私は思っている。
  「ヒロシマのうた」にも、私は、父親の娘に対する愛のトーンを強く感
じる。(中略)今西自身、「昭和二十年八月、私は呉で、米軍の本土上陸に
そなえて編成された陸戦隊におりました。五日の夜から挺身奇襲訓練に一夜
を明かしたあくる朝、呉郊外の山の中であの爆風を感じ、原子雲を見まし
た。そして七日の夜明けからソ連が参戦するまで、広島に行って救護にあた
りました。」(『あるハンノキの話』あとがき)で、述べられているよう
に、実際の体験から生まれてきた作品であり、「わたし」の目でとらえられ
てものは、今西自身が実際に広島の町で見たり聞いたりしたそのままと考え
てよかりそうである。それだけに描写は迫真性をもつ。
  しかし、この作品でも今西は、決して原爆被災の残酷さ悲惨さのみを描
くのではない。その目は、泣いている赤ちゃんを抱いて、「ミーちゃん、
ミーちゃん、あんた、ミ子ちゃんよね」と叫んでいり女の人であり、女の人
が死んでしまうと、「わたし」は赤ちゃんを母親からもぎとるようにはなし
て、だきとり、赤ちゃんを預ける人をさがしたずね、リヤカーで逃げていく
二人の人に、やっとのことであずけるのである。
  戦争が終わって七年目、「わたし」は、ラジオのたずね人の時間に偶然
にその赤ちゃんのことが放送されているのを聞き、小学一年生に成長した女
の子と再会する。
(中略)
  ヒロ子が中学を卒業した時、「わたし」は、再び大きく成長したヒロ子
に会い、明るい性格の女性に成長した、新しく社会に巣立っていくあの赤
ちゃんであったミ子
(今はヒロ子)の行方に期待をかけるのである。
  そこには、一貫して、ひとりの女の子、ミ子ーヒロ子への父性的な深い
愛情が流れている。それは、なくなったミ子の母親の愛情とひびきあいなが
ら、今のヒロ子の母親の愛情を育て、その中で明るく育っていくヒロ子への
大きな期待へとつながっていく。それは単なる原爆の悲惨さ非情さの告発と
いう原爆批判の次元を越えた、ひとりの人間への関心に支えられて、一つの
文学作品として結晶しているといえるだろう。ここに今西戦争児童文学のよ
さがあるのではないか、と考える。
        『日本児童文学』 1972年7月号より引用



            
参考資料(3)

 
  下記は、東京大空襲(1945年)を体験した人々から、新聞記者による
聞き書きの文章です。凄惨かつ残酷な空襲直下の状況が語られています。
  東京新聞・2009・12・13朝刊からの引用文です。本教材にかか
わる空襲直下・直後の様子部分のみを補充資料として一部抜粋引用していま
す。


      広場に重なる遺体、まるで地獄
                       篠原京子さん(71)
  七歳のとき、浅草(現台東区)千足町で東京大空襲に遭った。母親とお
手伝いさんと外へ逃げ、焼夷弾がマッチ棒を横にしたような形で、バラバラ
と落ちてくるのが見えた。「大事なものを取ってくるから、先に行きなさい」
と引き返した母は、二度と会えなかった。
  道端の防空壕の中で炎に耐えた翌朝、公園や広場に積まれた遺体を見た。
炭と化したマネキン人形のような人、赤茶色に膨れた半焦げの人、煙にまか
れたのか眠っているような人。母親におぶさった赤ん坊の遺体は、青白いほ
おに涙の跡が白く乾いていた。「まるで戦場、死臭と焦げた匂いが入り交じ
り、地獄のようだった。


     背中で息絶えた弟、内地は戦場だった
                       渡辺紘子さん(76)
  
1945年3月10日未明、約三百機の米軍の爆撃機が東京に飛来し
おびただしい数の焼夷弾を投下した。十一歳だった渡辺さんは本所(現墨田
区)東駒形の自宅から燃えさかる炎の中を母たちと逃げた。家を守るために
残った父の遺体は見つからなかった。
  7月7日、避難先の千葉市で再び空襲に遭った。「火事になっても海に
入れば大丈夫」と海岸に逃げた。渡辺さんは生後八カ月の弟茂雄ちゃんを背
負い、母が妹諒子ちゃんを(二歳)をおぶって走った。
  急に辺りが明るくなり、バタバタと鋭い爆音が頭上をかすめた。米軍機
の機銃掃射だった。隠れる場所がない砂浜を大勢の人が逃げ回った。渡辺さ
んの右手にぴりっと痛みが走り、血がだらだら流れた。背負っていた茂雄ち
ゃんは、頭に直撃を受けて死んでいた。

  「頭も顔も分からなく、ザクロのようになって。小さな体いっぱいの血
を私の背中に残して死んでいた。無我夢中ではんてんで包み、浜辺にあった
荷物の上に寝かせた」
  家に戻ると、母が茂雄ちゃんを取り戻しに飛び出した。弟を抱えて帰っ
てくると、妹が「ちゃあちゃん、ぽんぽんがいたいよ」と苦しい息の中から
つぶやいた。最期の言葉だった。弾がおなかを貫通していた。「母は、こん
なになってしまってと、いつまでも妹を抱いていた。」
  渡辺さんに当たった弾は、手のひらをそぎ、指先の骨をえぐった。目に
触れる傷跡が戦禍の記憶を呼び覚ます。


      腰に大穴、こころはまだ闘っている
                       内田道子さん(77)

  終戦の年の五月二十五日夜、麹町区(現千代田区)九段で被災した。当
時十二歳。自宅の防空壕に入ろうとした瞬間、「ゴーッ」と音がして意識を
失った。 
  父の声で気がつくと、防空壕の入り口で倒れていた。父に背負われ、近
くの救護所に避難した。下着までカギ裂きになり、腰に今の五百円玉ぐらい
の穴が開いていた。
  病院に入院したが、薬はなくガーゼだけ。傷が化膿して高熱と痛みに襲
われ、麻酔なしでピンセットで膿を出した。「傷口は腐って、げんこつが入
るくらいの穴になり、ウジがわいていた。痛い、殺して、と叫んだ。
  父が闇市で手に入れたペニシリンで化膿は止まったが、一年入院して寝
たきりの間に骨盤が曲がり、右脚が十センチも短くなった。脚を引きずって
歩くのをからかわれた。
  空襲から十五年ほどは冬に膿が出た。出産は骨盤が開かず苦労した。長
男は小学生のとき、「お母さん、脚なおらないの」と泣いた。「戦争でこう
なったんだよ。戦争は怖い」と話した。

東京大空襲
  1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機が、東京の
下町を標的に焼夷弾計1700トンを投下した。現在の江東、墨田、台東区
などで約10万人が死亡、100万人以上が家を失った。米軍の本土空襲は
この日を境に、昼間に軍需工場などを狙う高高度精密爆撃から、東京、大阪、
名古屋などの大都市に夜間に焼夷弾を落とす無差別爆撃に移行。6月からは
中小都市空襲も始まり、原爆の被害を含め、民間人だけで計50万人以上が
空襲の犠牲になった。


      
     参考資料(4)

              
         コレガ人間ナノデス
                  原  民喜

        コレガ人間ナノデス
        原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
        肉体ガ恐ロシク膨脹シ
        男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
        オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
        爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
        「助ケテ下サイ」
        ト カ細イ 静カナ言葉
        コレガ コレガ 人間ナノデス
        人間ノ顔ナノデス


  上の詩について高田敏子(詩人)さんは、次のように書いています。発展
教材としてこのような詩を与えるのもよいでしょう。

  広島原爆記念館をおとずれたとき、そこにおさめられた、ボロボロの服、
ボロボロの帽子、むざんな被爆者の写真から、この原民喜の詩が、そのままの
ほそい声になって、館内に満ちているように思われました。広島に落とされた
原爆の放射熱は6000度C、一瞬にして二十万の生命を奪い、死をまぬがれ
た人も、やけただれた衣服と皮膚をひきずってさまよい、助けをもとめつづけ
てたおれていったのです。
  原民喜は広島に生まれ、小説に詩に原爆体験を書きつづけましたが、昭和
二十六年に自ら生命を絶ちました。
           高田敏子『詩の世界』(ポプラ社)182ぺより引用



            
参考資料(5)


  大江健三郎(作家)さんは、「ヒロシマ」と「広島」について下記のよう
に書いています。

  井上ひさし作の朗読劇『少年口伝隊一九四五』には、まず「広島がヒロシ
マになった日」が描かれています。それはこの朗読劇のなかのひとつのかたま
り、小説でいうならひとつの章につけられているタイトルですが、井上さんら
しく明快に、しかし深くしみとおるタイトルとしてつけてあります。まず、漢
字の広島、つまり昔からの地名としての「広島」が、いまや世界じゅうの人た
ちが、人類史にかつてなかったイメージとして持っている片仮名の「ヒロシマ」
になった日、つまり原爆が初めて落とされ≪その日のうちに十二万人が亡くな
って、二十万人の人々が傷ついていました。≫その日ということです。井上さ
んのセリフそのままにいえば≪このときから、漢字の広島は、/カタカナのヒロ
シマになった≫ということが示されています。この日から人類の想像力は、
「広島」が「ヒロシマ」としてイメージされざるをえない方向に働くことにな
ったのです。
 続いての、「ウジ虫」の章で、私たちはすでに自分が知ってると思っている
、つまり一応そのイメージをあたえられたと思っている「ヒロシマ」の現実の
姿について、作りかえるほかない強く正確な内容を受けとめることになります。
朗読は続きます。≪ウジ虫がいっせいにハエになったのだ。これからのヒロシ
マの主人はこのハエだ。≫
  月刊誌『ずばる』(集英社)2009年1月号所収。
  大江健三郎論文「読むことにはじまり、読むことに終わる」から引用。




             
参考資料(6)


  鴨下信一(演出家、TBS相談役)は、彼の奥様から聞いた東京大空襲
の様子について下記のように書いています。これは広島の原爆投下の様子で
はなく、東京大空襲の様子ですが、爆撃直後の凄惨かつ非情な惨状の様子は
同じでしょう。「ヒロシマの歌」に描かれている描写と全く同じ描写があり
空襲直後の惨状はどこも同じだことがわかります。
  以下は、鴨下信一『誰も「戦後」を覚えていない』(文春新書、平成
17)より引用しています。

  ぼくより五歳年上の妻は深川高橋の生まれ育ちだから、あの昭和二十年
三月十日の大空襲でモロにやられた。この空襲のことは広島・長崎の原爆と
同じように日本人に忘れてほしくないから、ここでも書いておく。この空襲
で東京の東部、本所・深川・城東・浅草の地区はほとんど全滅、東京の1/
4が見渡すかぎりの焼け野原になった。
  これは間違いなくジェノサイト(大量殺戮)だった。
  爆撃は午前0時を廻ったころから始まった。約300機のB29がまず
周辺部を焼く。これで逃げ道が断たれた。このあたりがまず非情な残酷さだ。
その後はいうところの絨毯爆撃で一面火の海となった。早乙女勝元『図説 
東京大空襲』は「焼失家屋26万717戸、罹災者100万8005人、死
者8万7893人(8万3793人であると、警視庁は記録している)。ほ
かに行方不明者や、運河から東京湾にまで流出した無数の死者、今なお地下
深く眠る埋葬遺体、いち早く遺族に引き取られた死者まで含めると、およそ
10万人もの生命が失われたのだった。」と書く。
  犠牲者の多くは女子供と老人だった。成人男性は兵役と徴用にとられ東
京にいなかった。例えば本所緑町1丁目の死者230人のうち20代の男性
は4人、30代の男性は6人、あわせて10人しかいない。いかに足弱の者
が死んだかが分かる。
  数字ではその物凄まじさは分からない。妻はいう。「あれは普通の火災
ではないの。」。炎は上にあがらずに横に伸びる。狂奔する大火のとき起き
る風のせいだ。置いてあった荷物は爆裂するようにして火を噴く。その熱風
が一瞬にして酸欠の死をもたらす。黒焦げの死体はなぜかうずたかい山とな
る。瀕死の人々が互いに寄り添うからだろうか。それとも火焔とともに吹き
つける烈風が炭化した死体を吹き寄せるからだろうか。海上や川の水面は死
体からの脂で真っ白だったそうだ。
 爆撃は二時間あまり、火が収まったのは午前8時ごろ。帰ってこない家族
を探して死体の焦げる匂いの立ちこめる街を歩く。焼死体をいちいちよけて
などいられない。踏みつけて歩いたという。母は翌日帰ってきたが、姉はと
うとう帰って来なかった。妻のこの時の体験は、そのままぼくの体験になっ
た。               214p〜216pより引用

  広島に原爆が投下された直後のラジオ放送は、B29、2機が侵入して
焼夷弾と爆弾数発を落としたと報じただけだった。とてもこれでは糊塗しき
れないと思ったのか、翌日の新聞は新型爆弾によって相当の被害、としたけ
れども、報道の隠ぺいは原子爆弾の名も出さず、「白い下着類は火傷を防ぐ
のに有効である。蛸壺式防空壕には板一枚の蓋をすることでも、被害を防ぐ
効果がある」と犯罪的なお座なりを繰り返していた。
  もし報道が正しくなされていたら、すくなくとも、放射能に汚染された
市内にそれと知らずに後から入った5万人の生命は救えたはずだ。最近発見
された当時の日本放送協会の〈敵性情報〉(日本の戦局遂行に不利と思われ
た情報)のファイルによれば、原子爆弾の名もその惨状も報道班員にはすぐ
知らされていたのだ。
  しかし、人々は知っていた。噂、風聞という口から口へのコミュニケー
ションの力というのは恐ろしいほどのものだった。新型爆弾が原子爆弾なる
もので、その威力は……小学生のぼくも知っていた。記憶では、それまでは
戦局のことはひそひそとしか語られなかったけれど、このころは半ば公然と
大人たちが話すようになっていた。
  日本の敗色は濃いと感じていた人々の数は多かったはずだ。あれだけ空
襲で痛めつけられ、玉砕玉砕の記事を読んでいれば、考えてみればそう思わ
ない方がおかしい。
  たしかに戦争続行、本土竹やり作戦を声だかに叫ぶ人間もいた。報道機
関は虚偽のニュースを流しつつけた。
  それでも、人々は真実に近づいた情報をどこかから仕入れていた。戦争
が終末に近付くにつれ、さまざまなリークが行われるほど体制のタガがゆる
んでいたともいえる。         128pより引用



            
参考資料(7)


 竹内敏晴(演出家、
宮城教育大学教授)さんは、著書『生きることのレ
ッスン』(トランスビュー刊、2007)の中で、彼の空襲体験を、次のように
書いています。当時、彼は第一高等学校の学生で、寮生活をしていました。

 昭和19年(1944)12月に東京大空襲が始まったときには、私は一高の
寄宿寮委員長として毎晩地下道に潜りっぱなしでラジオの情報を聴き、3月
10日の大空襲の翌日には、親戚を探して地下鉄で浅草まで出かけていって、
焼け跡を探し回りました。焼け野原の道いっぱいに、荷物をかついだ人たち
が上野駅へ向かって黙りこくって歩いていく。その横に硬直した死体が積み
重なっていました。着物の縞模様が、死体の肌に焼きついたままになってい
ました。



            トップページへ戻る