音読授業を創る  そのA面とB面と       06・6・9記




 「ぼくの世界、きみの世界」の音読授業をデザインする

                           


●「ぼくの世界、きみの世界」(西研)の掲載教科書……………教出6上



             
筆者について


  筆者は、西研(にし・けん)さんです。1957年生まれ。東京大学大
学院綜合文化研究科修士課程終了。現在、京都精華大学人文学部助教授。西
研さんの紹介の詳細は、下記、彼のHPをご覧ください。

            http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/




              
教材分析


  本教材「ぼくの世界、きみの世界」の冒頭で筆者・西研さんは、次のよ
うに書いています。

  ≪自分に見えていたものは、あくまでも自分にそう見えるだけなのだ。
ほかの人にも同じように見えている保証はどこにもない。」そういう思いが
小学校4年生か、5年生の時に心に浮かんだ。大人になってこの話をしてみ
たら、同じような体験をした人がかなりたくさんいるとわかって驚いた。こ
の問題は、「哲学を研究する人たちの世界では昔から大まじめに議論されて
きた問題だった。≫

 わたし(荒木)の個人的なことを言えば、西さんは、わたしの哲学の先生
のひとりです。フッサール、ハイデガー、カント、ヘーゲル、フーコー、ソ
シュールなどの講義を西先生から受けてきました。西先生の講義は、難解な
哲学理論を日常の生活コトバで分りやすく、かみくだいて語ることには定評
があります。本教材「ぼくの世界、きみの世界」の文章からも、そのことが
伺えるでしょう。

  西さんの立脚している哲学理論は、フッサールです。本教材「ぼくの世
界、きみの世界」は、西さんの哲学的、思想的な、かれの核心をなす考え方
を、小学六年生向きの文章で、分かりやすく語って聞かせている文章だと思
います。
  本教材の冒頭に、この問題は「哲学を研究する人たちの世界では、昔か
ら大まじめに議論されてきた問題だった。」と書いています。これは西洋哲
学史における「主観客観問題」という難問のことをさしていると思われま
す。
  ここで、この主観客観問題を、本教材文の内容とからめて、荒木なりの
言葉と整理で下手な解説を加えて本教材の分析をしてみようと思います。
  本教材「ぼくの世界、きみの世界」について、西さんの哲学的思想的な
背景を、荒木なりに整理で簡単にまとめてみましょう。本教材を指導する先
生達が、ああ、そうだったのか、と本教材の哲学理論の背景を分っていただ
くことで、本教材を指導するときかんどころを押さえて、指導がたやすくな
り、役立つのではないかと考えました。

  話を分りやすくするために、主観世界と客観世界という区分をして話を
進めていくと理解が速いのでは思い、そうすることにします。
  主観世界とは、「私の世界」です。「自分にそう見えている世界、自分
がそうだと思っている世界」です。A君の世界、B君の世界、C君の世界と
いうように各人にそれぞれの主観世界があります。本教材「ぼくの世界、き
みの世界」における「ぼくの世界」も主観世界です、「きみの世界」も主観
世界です。
  客観世界とは、「客観的に存在する世界」です。私が死んでも、A君が
死んでも、B君が死んでも、C君が死んでも、残り続ける世界です。各人の
意識とは関係なく、それ自体として勝手に存在している世界です。
  主観世界と客観世界の一致は可能か、という大問題があります。これが
哲学史において「主観客観の問題」という難問として問い続けられてきた大
きな問題です。
  認識において、物質が先か、精神が先か。実在論か、観念論か。実存主
義か、マルクス主義か。弁証法的反映論か、主観的観念論か。我思う、故
に我在り。人間は客観世界を全的に把握することは不可能だ、人間の意識は
主観の内部だけにあるのであって、主観の外部に出ることはできない。い
や、観念は実在の反映だ。など、など。これまで、いろいろと論じられてき
ました。
  フッサールは、主観世界と客観世界との関係のあり方を、現象学的な方
法で解決しようとしました。フッサールは、それ自体として存在する客観世
界も、主観世界と同じく人間の意識の中に、確信(信憑)として成立してい
る。」ということから思考を出発させます。人間はだれしも各人が死んでも
残り続ける客観世界があることを信じて疑いません。それは人間ひとり一人
の意識内部に信憑性としてあるのだ。私の意識にも、A君の意識にも、B君
の意識にも、C君の意識にも、誰もが同時的に、客観的な世界の存在がある
という確信(信憑)を持っているのだ。このことは人間だれしも体験的に知
っていることなのだ。
  「私にとって存在する主観世界」と「それ自体として存在する客観世
界」とは、主体の主観内部に確信(信憑)として同時に成立しているのだ。
こう考えれば、人間の意識は主観の内部にあるのであって、主観の外部に出
ることはできないということと矛盾しなくなる。主観内部の確信成立の構築
と考えることで人間意識は限りなく客観世界の本質に近づくことが可能とな
るのだ。
  つまり、人間の意識は、客観世界があるという確信を生み出します。人
間意識は、客観世界の存在という確信を成立させます。では、客観世界の確
信成立をどう作っていくか、が問題となります。
  わたしの意識(主観)にも、A君の意識(主観)にも、B君の意識(主
観)にも、C君の意識(主観)にも、多少のズレはあっても、客観世界に生
きているわけですから、お互いに語り合うことによって、間主観的に共有で
きる客観世界を持つことができるようになる。語り合うことによって、客観
成立の条件を作り上げることができる。語り合うことによって、客観世界に
ついての共通理解(普遍洞察)が作り上げることができる。
  人間の意識は、自分にとってだけの主観世界(実存的視線)だけではな
い。語り合うことで、「人格的共同体の一員に自分を数え入れる」という自
己客観化(客観化視線)によって、皆に共通する客観的な世界像を作り上げ
ていくことができるようになるのだ。「世界はそれ自体として客観的に存在
し、その中に皆が生きている」という世界信念を土台にすることで、客観世
界はかくかくしかじかであるという確信を意識内部に不断に作り上げていく
ことができるのだ。その条件を成立させていくのが、お互いに語り合うこと
による間主観性による共有なのだ。こうして客観的な真理、価値、自由とい
うものを探究し、しだいに獲得していくことができるようになっていくの
だ。
  西さんは、フッサールを引用しながら、本教材「ぼくの世界、きみの世
界」の中で以上のように本教材の背景として語っているように思います。
  なお、これらのことについては西研『大人のための哲学授業』(大和書
房、2002)の中の211ぺから223ぺあたりをお読み下さると、より深くご理解
いただけるでしょう。

  西さんは、本教材文「ぼくの世界、きみの世界」の中で、最後のまとめ
として次のように書いています。

 ≪「自分だけの心の世界がある」ということ自体には、どんな人でも気づ
いていく。そしてそれは「一人きりの自分」を知ることにもつながっていく
だろう。自分の思いは、だれかに伝えようとしないかぎり、だれとも分かち
合えないし、だれにもわかってもらえない、こうした事実にだれもが直面す
るのである。これはさびしいことだが、だからこそ人は、心を伝え合うため
の努力を始めるのだと思う。≫

  この結びの言葉が西さんが一番言いたかったことのように思います。そ
してこの結論・まとめの言葉のもつ重さが、これまで荒木が書いてきた解説
文の背景としてあるのだ、ということがお分かりいただけたのではないかと
思います。これは、主観と客観を固定的な二項とする近代哲学の伝統的な認
識問題に決定的な視線変更をもたらすものだと言えましょう。


           
音声表現のしかた


  本教材は、意見文とか論説文とか評論文とかいわれる性質のものでしょ
う。音声表現のしかたは、筆者が何を伝えようとしているか、その伝えよう
としている筆者の意図(内容)を読み手(読者、聴衆)に向かって、分りや
すく伝達することにあります。分りやすく伝えることに心を配って、読み方
(しゃべりかた)に工夫をはらうことが重要です。
  論の運び方の筋道をはっきりと音声に出るように音声表現しましょう。
筆者がいちばん伝えたいこと、訴えたいこと、かれの表現意図やその核心を
つかんで、それを音声で強調して音声表現することです。
  筆者の論運びの息づかいが分ってくると、読み手自身の息づかいが筆者
の息づかいと一致してくるようになります。筆者の息づかいと読み手自身の
息づかいとを一致させて音声表現することはとても重要です。
  音声表現の技術的なことでは、文章の論理、つまり、区切りの間のあけ
かたは重要となります。ひとつながりに読むところ、切れ目を入れるとこ
ろ、強調するところ、軽く流して読みすすむところなど、こうしたメリハリ
づけにも配慮して音声表現しましょう。

  つぎに幾つかの観点にわけて書いていきます。


 
「自分の世界部分」と「他人の世界部分」とを区別して読む


 次の≪ ≫の中の語句を、強く、高く、読んでみよう。「自分のこと」と
「他人のこと」とを対比して、両者をはっきりと区別して、区分けするよう
に音声表現します。
  両者を、対比的に、排他的?に比較してるみたいに区切って・区分けし
て音声表現してみよう。

自分に≫見えているものは、あくまでも、≪自分に≫そう見えているだけ
なのだ。
ほかの人にも≫同じように見えている保証はどこにもない。

きみと≫ ≪友達が≫、同じチョコレートを食べるとする。
チョコレートを口に入れると、≪きみは≫独特のかおりとあまみ、そして苦
みを感じる。
きみが≫、「あまいね。」と言うと、≪友達も≫「うん、あまいね。」と
言って、にっこりする。
でも、≪きみの≫感じているあまみと、≪友達が≫感じているあまみが同じ
だ、と言いきれるだろうか。

痛みについても、同じようなことがいえる。
友達が≫、「おなかが痛いよ。」と言った時、≪きみは≫、自分が腹痛を
起こした時の感覚を思い出して、「ああ、痛そうだな。大変だなあ。」と思
う。
でも、それは、あくまでも≪自分が≫経験してきた痛みの感覚でしかない。
自分が≫これまでに感じてきた痛みと、≪友達が≫感じている痛みが同じ
であるとは、証明できないのだ。
自分が≫、≪他人の≫中に入りこんで、その人が見たり、感じたりしてい
ることをそのまま体験できれば別だが、もちろんそんなことはだれにもでき
ない。

例えば、≪きみと≫ ≪友達が≫、好きなアニメについて夢中になって話し
ているとしよう。
きみが≫、「あの登場人物は、こういうところがかっこいいよね。」と言
うと、≪友達も≫、「そうそう、それにこういうところもいいよ。」とコト
バを返してくる。
きみが≫、「前回の話はおもしろかったよね。」と言えば、≪友達は≫、
「あそこがよかったよね。」と返してくるだろう。
そのように、二人で「言葉のキャッチボール」をしている時、≪きみは≫、
友達が≫、≪きみと≫同じようにこのアニメが大好きで、うれしくて気持
ちをはずませていることを、疑いはしないだろう。

ある時、「≪自分が≫感じていることと、≪ほかの人が≫感じていることが
同じであるという保証はどこにもない。」という思いに発展していったのに
ちがいない。


 
「文章の句読点」と「音読の句読点」とを区分けして読む


  文章には、筆者(説明的文章)が、作家(文学的文章)が付けている句
点(まる)と読点(てん)があります。筆者や作家は必ずしも音読のために
句読点を付けているのではありません。音読のためにつけている個所もある
かもしれませんが、多くは文章の論理的区切りでつけているように思われま
す。
  書き手によって、句読点を多用する人もいれば、句読点をできるだけ省
略する人もいます。谷崎潤一郎のように作品によって意図的に句読点を省略
したり、漢字使用を回避したりすることもあります。(谷崎潤一郎『文章読
本』中公文庫、146ぺ〜153ぺ参照)

  句点とは、マルのことです。句点は、文の終止ですから、例外を除い
て、そこで間をあけて読むのがふつうです。
  読点とは、テンのことです。読点は、間をあけて読むときもあれば、間
をあけないで続けて一気に読む場合もあります。読点の間でも、ほんの短い
間、かなり長い間、いろいろあります。読点が付けてなくても、間をあけて
読む文章個所もたくさんあります。

  小学校の先生で、こんな指導があるそうです。句点では、頭をコックリ
と3回させて、その分だけ間をあけさせて読ませる。読点では、頭をコック
リと1回させて、その分だけ間をあけさせて読ませる。コックリの変わり
に、手を3(1)回うたせる。こんな機械的な方法では、間のあけ方の上手
な音声表現にならないこと当然です。間の意識づけ指導にはなりますが、こ
れでは、いけません。
  そのことを、本教材「ぼくの世界、きみの世界」の冒頭文章個所を例に
挙げて書きます。

  次の(  )の中はひとつながりの読むというしるしです。(  )と
(  )とのあいだでは間をあけて読むというしるしです。
  ただし、間のあけ方は、読み手によってかなり違ってきます。同じ読み
手でも、その時々の読みのリズムや調子によって多少の、または、かなりの
違いが出てきます。下記のしるしづけは一つの例にしかすぎません。いつ
も、必ず、「こうだ」というわけではありません。下記のしるしのように音
声表現すると、筆者・西研さんの付けている句読点個所で区切って読むより
も、文章内容がよりよく音声表現されるということが分っていただければ、
と思って書いています。読点があっても続けて読んでいるところもあります
し、読点がなくても切って読んでいるところもあります。

(ぼくが、)(小学校の四年生か、)(五年生だった)(ころのことだ。)
(ふろからあがって、)(しばらくぼんやりしながら、)(天じょうからぶ
ら下がっているうす暗い電球を見ていた時、)(ふと、)(こんな考えがう
かんだ。)
(この電球は、)(丸くて、うす暗くて、だいだい色をしている。)(で
も)(これは、)(ぼくだけにそう見えているんじゃないか。)(ひょっと
したら、自分以外の人には、)(全然)(ちがったふうに見えているのかも
しれない。)
(もちろん、)(ほかの人にどう見えているかを、具体的に想像してみたわ
けではない。)(ただ、)(自分に見えているものは、)(あくまでも、自
分に)(そう見えているいるだけなのだ。)(ほかの人にも同じように見え
ている保証はどこにもない。)(そういう思いが、不意にわいてきたのであ
る。)(その時、)(なんともいえず不思議で、心細い感じがしたこと
を、)(今でも、はっきり)(覚えている。)


     
「………、という」を、どう読むか考える


 教材文「ぼくの世界、きみの世界」には、「………、という」という文型
があちこちにあります。
  次のような文です。

例えば、あまみや痛みのような感覚は、すべての人に共通していると言える
か、という問題がある。

  この文は、「例えば…………という問題がある。」とのあいだに命題文
「あまみや痛みのような感覚は、すべての人に共通していると言えるか」が
はさみこまれている文です。わたしはこれを「はめこみ文」と名づけて、
音読指導の特別文型として取り出しています。(拙著『音読の練習帳3』一光
社。67ぺ参照)

  音声表現では、「例えば」は「という問題がある。」までつながる息づ
かいにして、ひとまとまりに読まなければなりません。あいだにはさみこま
れた命題文、なかり長い文もありますが、これも途中で切った(間をあけ
た)読み方にしたとしても、息づかいはひとつながりになって読まなければ
なりません。途中で切った(間をあけた)読み方にして、つまり、そこで音
調をさげて、区切ったところで断止した読み調子になってしまってはいけま
せん。
  「という」は、ひとつながりの命題文を「という」で引用している言い
方です。ひとつながりの命題文を「という」で引用して、そこでひとくくり
にまとめ・整理しています。そのようなつもりで「という」を音声表現し
て、つづく述部の述定部分へと読み下していくのがコツです。
  「という」の音声表現で気をつけることがあります。「トオー」とか
「トユウ」を高く強く跳ね上げて目立たせてよむ読み方になりがちです。子
どもたちの音読によく見られます。「という」は声量を落として、ほんの
軽く読むようにします。つづく述部「問題がある。」ははっきりと、はぎれ
よく音声表現します。「例えば(強く音読する)…………という(軽く音読
する)問題がある。(強く音読する)」という感じになるのが普通でしょ
う。

  教材文「ぼくの世界、きみの世界」から、ほかの「という」文型の文を
書き出してみましょう。命題文個所に≪  ≫のしるしを付けています。上
記した音読の注意事項にしたがって、あなたも実際に音声表現しながら読ん
でみましょう。

でも、≪きみの感じているあまみと、友達が感じているあまみが同じだ、≫
と言いきれるだろうか。

つまり、≪あまみの「程度」がずいぶんちがっているかもしれない、≫とい
うことだ。

実は、≪それぞれが、まったくちがった感覚を口の中に感じていて、ただ
「あまい」という言葉だけが共通している、≫ということも考えられるので
ある。

しかし、≪これは、おたがいにわかり合えない、≫ということではない。む
しろ、≪お互いのちがいがわかった、≫ということなのだ。

そういう気づきが、ある時、≪「自分が感じていることと、ほかの人が感じ
ていることとが同じであるという保証はどこにもない。」≫という思いには
ってんしていったのにちがいない。


  
 ●「問題の文」と「答えの文」とを意識して音読する


  説明的文章の多くには、課題提示文とその答えの文とが含まれていま
す。一つないし数個の「問い」の文を先に提出し、次にその「問い」につい
て「こうこうこうである」という論証をしていく文章部分が続いていく構成
が多くみられます。
  こうした「問い・答え」の文章構成の音声表現では、ここは問いかけの
言いぶりで読んでいく文(段落)個所である、ここはその答えの実験や資料
をあげて論理(理屈)で順を追って説明している言いぶりで音声表現してい
く文(段落)個所である、こうした意識を持って読み進めていくことが必要
です。筆者の論の運び方の「話しぶり・息づかい」や、筆者の論を展開して
いく「語り口・口ぶり」に同調させて音声表現していくこともとても重要で
す。

「ぼくの世界、きみの世界」の本文の中から例文をあげて説明してみよう。

  でも、きみの感じているあまみと、友達の感じているあまみが同じだ、
と言いきれるだろうか。

【問題提示文です。問題提示をしています。読者に問いかけ、質問している
音調で音声表現すべきでしょう。これに続く文は次のようです。】

  まず、きみよりも友達のほうがずっとあまく感じているかもしれない、
というようなことが考えられる。つまり、あまみの「程度」がずいぶんち
がっているかもしれない、ということだ。
  また、もっときょくたんなことも想像できる。実は、それぞれが、まっ
たくちがった感覚を口の中に感じていて、ただ「あまい」という言葉だけが
共通している、ということも考えられるのである。

【君と友達との甘みは同じか、と問いかけてて、その答えを「まず」と言っ
て、一段落めで、二人の甘さの「程度」に違いがある、と言っています。
次に「また」と言って、二段落めで、二人の甘さは極端に違うこともある、
と言っています。
ここから答えの文章は続いていきますが、音声表現のことでなく、読解分析
について長々と書かなくてはいけなくなるので、あとは省略します。
問題提示文は質問している、問いかけている音調(語り口・口ぶり)で音声
表現すべきです。
その答えの文章部分は、「まず」と言って、一つめの答えを語り、「また」
と言って、二つめの答えを語っている文章構成になっています。こうした語
り口・言いぶりであることを意識しながら音声表現すべきでしょう。】

  結局、わたしたちは、一人一人別々の心をかかえ、相手のことなどわか
らないまま生きていくしかないのだろうか。人と人は、永遠に理解し合えな
いのだろうか。
  そうではない、とぼくは思う。

【同一段落内に、二つの課題提示文があります。この二つの課題提示文は、
問いかけ・質問している音調・言いぶりで音声表現すべきでしょう。
直ちに、結論をずばりと述べています。論証からでなく、結論から書き出し
ています。「そうではない。とぼくは思う。」と断言しています。
なぜ、「そうではないのか。」については、次から4ページにわたって論証
していっています。音声表現においては、こうした論証の過程、論運びの展
開の仕方の言いぶり・語り口・力点の置き方を知って、それに見合った論点
の置き方・アクセントの入れ方・間のあけかた、そうした読みぶりで音声表
現していくことがとても大切です。】


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