音読授業を創る そのA面とB面と     04・11・6記



 
「山のあなた」の音読授業をデザインする




○「山のあなた」の掲載教科書……………………………………教出5下




       
この詩との個人的な出会い



           山のあなた

               カール・ブッセ
               上田 敏 訳

        山のあなたの空遠く、
        「幸」住むと人のいふ。
        ああ、われひとと尋めゆきて、
        涙さしぐみ、かへりきぬ。
        山のあなたになほ遠く、
        「幸」住むと人のいふ。
  

  この詩と出会ったのは、わたしがウブな紅顔の美少年だった中学一年生
の時だったと記憶しています。学校図書館で何気なく手に取った詩集の中に
あった詩です。ウブで純朴な少年だったわたしのロマンチックな想像力を
かきたててくれる詩で一読して好きになりました。軽やかなリズムと単純な
くりかえしがあり、その場で何度か口ずさみ、繰り返し読みました。暗誦で
きるぐらい繰り返し読みました。
  「山の向こうのどこか遠い空の下に幸せの世界がある。ユートピアの世
界がある。どんな世界だろう。いいなあ、幸せな世界に行きたいなあ。勉強
しないで、いっぱい遊べるんだろうなあ。仲のいい友達がいっぱいいるんだ
ろうなあ。」と幸せいっぱいの世界への夢はふくらみ、そんなユートピア世
界へのあこがれが増大して、生きることへのすばらしさと勇気を与えられた
ことを覚えています。いつかはきっと出会えるだろうと未来の世界にに明る
い確信を抱いたことを覚えています。
  その当時は「涙さしぐみかえりきぬ」という詩句は目に入らず、意識に
のぼらず、すっぽりと脱落しており、この詩句の持つ悲しみはロマンチック
な世界をムードとしてふくらませる増強剤でしかなかったように思います。
  この詩は、山奥の世間知らずの中学生、無知で無垢な紅顔の美少年の中
学生だったわたしに明るい展望の開けた幸せの世界の存在を知らせ、それへ
の限りない夢と憧憬を与えてくれました。世間知らずでぼんぼんの中学一年
生の少年には、悲しみの世界の存在は、意識にのぼらず、考えられなかった
のです。わたしの場合、これら純な憧憬心に深い苦悶を加えるには、二十二
歳を待たねばならなかった。それだけ、わたしの十代は稚気に満ちて、世間
に無頓着でありました。
 わたしは中学生の頃は詩が好きで、よく詩集を読んだり、詩を書いたりし
ていました。この「山のあなた」を初めて読んだころ、百田宗治の「夕
焼け雲の下に」という詩をすでに読んでおり、これら二つの詩は内容で類似
したところがあり、二つを比べては読み、わたしのロマンチックな世界への
夢想と憧れを限りなく膨らませてくれました。
(二つの詩の関連については、あるのか、ないのか、わたしは知りません。
どなたかかご存知の方、教えてください。)



          夕やけ雲の下に 

                      百田宗治

   遠い夕やけの空をみていると、
   ぼくはあの雲の下に美しい国があるとおもう。
   心のきれいな人ばかりが住んでいて、
   いつもたのしい音楽がきこえているような気がする。

   ぼくはあの遠い国に行きたいなとおもう。
   そこには白い塔や、美しい広場があって、
   塔の上にはいつもきらきらと黄金いろの日がかがやき、
   広場にはぼくたちのような少年や少女が、いつもいっぱい遊ん
   でいるような気がする。

   ぼくはあの国に行って、
   よい本を読み、よいことを考え、
   みんなの役にたつよいことをしたいとおもう。
   あの国にもきっとぼくたちのような少年がいるだろう。

   遠い夕やけ雲を見ていると、
   ぼくはあの下に美しい国があるとおもう。
   美しい音楽と、たのしい夕餉があるとおもう。
   そこへ行けないのがなにかかなしい気もちはしてくる。



            
指導の手順


  はじめに「山のあなた」全文を視写させます。
  教師が「この詩を、ノート(または教師配布の用紙)にそっくり同じに
書き写しましょう。」と指示します。行変え、仮名づかい、漢字、句読点な
どそのままに書き写すように指示します。
 次に「書き写してみて分かったことを発表しましょう」と問いかけます。
視写させた理由は、この発表内容の気づきを、鋭くさせるためです。

児童からの予想される反応
(1)昔の言葉、昔の言い方がある。分からない単語がある。「いふ」、
   「かへりきぬ」など。
(2)作者は、外国人、カール・ブッセだ。
(3)リズムがあって、読みやすい。言いやすい。読んでいて気持ちいい。
(4)繰り返し表現がある。
(5)詩の意味は大体………だと思う。こんな内容のことだと思う。
この他にも出るでしょうが、また、発表の順番は上述のようでないでしょう
が、児童からの反応内容はこんな事柄だと予想されます。これら一つ一つに
ついて、できるだけ児童たちの発想(知識)を大事に取り上げながら、教師
の事前の教材研究の知識を取り混ぜて読み深めの話し合い学習を組織してい
きます。


           
教師の教材研究


 《カール・ブッセについて》

  1872〜1918 ドイツの詩人、小説家。ビルンバオム生まれ。シュトルム
などに影響を受けた新ロマン派の一人で、1892年「詩集」や「青春の嵐」な
どで新鮮な才能を示し、故郷の風土や生活を題材とした散文作品も書く。ま
た、ジャーナリスト、文学史家、批評家でもあったが、今は忘れられてい
る。日本では「山のあなたの空遠く」の詩で知られている。  
    「20世紀西洋人名事典」(紀伊国屋書店1995)より


 《上田敏について》

  日本における西洋詩の歴史は、完全な形態をなしていないものを含めて
考えると、江戸・延享2(1745)にまで遡ることができるようである。しか
し、訳詩の歴史上は、まず第一に挙げなければならないのが、『新体詩抄』
であろう。明治15年(1882)に出版されたこの詩集は、「日本近代詩」の創
始を告げるものとして栄誉を与えられているが、何よりもこの詩集の出発点
が「平易でわかりやすく、西洋の詩の味わいを知らせよう」というところに
あったことは注目に値する。そしてこの詩集の登場後、様々な翻訳詩集が世
に現れるようになり、「山のあなた」が収録されている訳詩集『海潮音』も
その一つであった。

  『海潮音』は、明治38年に刊行された。この当時、上田敏(1874〜
1916)は、東京高等師範学校教授で、また東京帝国大学の英文学講師も兼任
していた。その彼が明治35年から38年にかけて発表した翻訳詩を集めたもの
が『海潮音』である。29人詩人が取り上げられているが、その内訳は、イタ
リアの詩人が3人、イギリス4人、ドイツ7人、フランス15人となってお
り、圧倒的にフランスの詩人が多い。当時は、イギリスとドイツの詩人を、
翻訳を通して紹介しようという風潮であったが、そのような中でフランスの
詩人を紹介した点においても『海潮音』は高く評価される。やはり『海潮
音』の中で私の目を惹くのは、巻頭に記したドイツ語からの翻訳詩「山のあ
なた」である。   インターネット検索「三村利恵 記」より


 《この詩の韻律について》

  児童に数えさせてみよう。7・5・7・5のくりかえし、七五調の韻律
詩であることが分かります。このリズムが音読に口当たりのよさと軽快な気
持ちよさ、明るさの気分や言葉の響きよさを与えていることが分かります。


 《文語表現(語彙の意味)について》

わたしが国語辞典などで調べたことを次に書いてみる。大体の意味は、児童
たちにも文意から推察できるので、まず推察させてみよう。それから整理の
意味で教師の補足を付け加えてみよう。教育出版の教科書にも下段に「あな
た」「尋めゆきて」「涙さしぐみ」の三語の現代語訳の簡単な注記が記され
ている。

「あなた」
  かなた。あちら。向こうの方。「向こう」の意の雅語的表現。隔てるも
のがあって手の届かない向こうの方。

「幸(さいわい)」
 「さきわい」の変化。幸せ。幸福。幸運。精神的・物質的に安定した、理
想的な状態。類語・幸福。対語・不幸せ。

「人のいふ」
  人々が言っている。世間一般で言われている。

「尋(と)めゆく」
 「捜しに行く」の雅語的表現。雅語的表現とは、口頭語で使うとそぐわな
いが、詩歌、古文の表現に用いられた、洗練された和語のこと。わたしは、
他の人(人々)と一緒に幸いをさがしに行く。

「涙さしぐむ」
 差し含む。雅語的表現。涙がわいてでてくる。涙が出そうになる。

「かへりきぬ」
 「帰ってきた」の意。「きぬ」は、唱歌「夏は来ぬ」と同じ、完了の意
味。文語のカ変動詞「来(く)」の連用形「き」に完了の助動詞「ぬ」が接
続したもの。口語では、「ぬ」は打ち消しの助動詞で「行かない」「行か
ぬ」のように未然形に接続するが、文語の「ぬ」は完了の助動詞で、連用形
「き」に接続する。「夏は来(き)ぬ」は「夏は来た」、「夏は来(こ)
ぬ」は「「夏は来ない」の意。口語表現に慣れている今の児童たちには
ちょっと分かりにくい。「かえりこぬ」との対比で考えさせてみよう。


          
幸いについて語り合おう


 語彙的意味について分かったところで、学級児童たちと「幸せ、幸福」に
ついて語り合ってみましょう。
 この詩は、わたしたちにいろいろなことを問いかけているように思われま
す。大きく分けると、二つがあるように思います。「幸せはどこにあるか。
幸せとは何か。」の二つです。
 この詩には、解答がありません。出ていません。もちろん正解はこうだな
んていうものもありません。ひとり一人の生活状況がみな違います。幸せの
内実はひとり一人が違ってきます。この詩の学習を通して、ひとり一人、自
分なりの幸せについて考えるきっかけになればいいなあと思います。
 話し合いのヒントになりそうな事柄を次にランダムに書きます。


 《幸せはどこにあるか》

●幸せはどこにあるのか。山の向こうにあるのか。「山の向こう」とはどこ
 なのか。
●しあわせは遠くにあるという。けっして幸せには出会えないのだろうか。
●幸せを探し当てられず、涙を浮かべて戻ってきた人に、幸せはないのだろ
 うか。新たな幸せの芽生えはないのだろうか。
●この詩は、幸せは山の向こうの遠いところにあるという。山の向こうだけ
にあるのだろうか。幸せは自分の近くにないのだろうか。自分の足下、毎日
の生活にはないのだろうか。
●幸せは、ずっと遠くにあるのか。自分の近くにあるのか。今ここ(現在)
 にあるのか。
●毎日が希望に満ち、自信にあふれた人に幸せはないのだろうか。落ち込ん
 で生きる自信をなくした人に幸せはないのだろうか。


 《幸せとは何か》

●幸せは安易には手に入らないという。幸せの正体は何だろうか。
●幸せとは何ですか。一日中遊んでいられることですか。好きなファミコン
を一日中やっていられることですか。かわいい洋服で着飾って、友達に見せ
たり、街中を歩くことですか。気の合う友達と楽しいおしゃべりを一日中し
ていることですか。学習塾につかって、将来は部長や社長になることです
か。母親がスリムになって、おいしい料理を作ってくれることですか。
●幸せとは、家族と一緒に暮らせることですか。好きな本を読み、好きな音
楽が聴けることですか。夜にきれいな星空が見られることですか。外を元気
に走り回れることですか。他人のために協力したり、無償の愛をつくしたり
することですか。プレゼントはくれないが、毎日微笑んでくれる両親がいる
ことですか。家族や友達と毎日笑えあえる生活があることですか。他人に迷
惑をかけないで生活できることですか。お金がいっぱいあることですか。戦
争がない世界のことですか。
●毎日が同じに繰り返す、何の変化もない生活に幸せはないのですか。
●神様を信じ、神様だけが幸せを与えてくれるという人がいる。幸せとは、
心の持ち方であり、物質的欲望を求めるのはよくないことですか。
●今、あなたは夢の実現に向かってがんばっていることはありませんか。何
を求めて、がんばっているのですか。幸せを求めて、がんばっているのでは
ないですか。
●あなたは今、幸せですか。もし、生まれ変わるとしたら、今の自分にまた
生まれたいですか。どこを変えて、どこが同じでありたいですか。今の自分
(の生活)、好きですか、嫌いですか。満足していますか。不満はどこにあ
りますか。
●今の世の中、欠けているところ、いやなところ、何ですか。どこですか。
「しあわせ」の逆、「ふしあわせ」「不幸」とは何ですか。
●チルチルとミチルは青い鳥(幸せ)を探しにあちこちに出かけました。結
局、青い鳥を持ち帰ることはできず、すごすごと家へ帰ってきました。で
も、帰ってみると家で飼っていたキジバトが青い鳥に変身していました。チ
ルチルとミチルは、こう言います。

「わたしたち、とうとうみつけたのね。しあわせの青い鳥。」
「青い鳥、ぼくたちの家にいたんだね。」

そうです。結局、青い鳥は自分の家にいた、のです。だが、それもつかの
間のことでした。青い鳥はきれいな青いつばさを広げて、空のむこうへ飛
んでいってしまいます。そこで、この物語は終わります。
      (ベルギーの作家、メーテルリンク作「青い鳥」より。)

「山のあなた」に書いてある内容とどこか似ていますね。

●苦しいことや悲しいことや辛いことは、幸せでないことですか。吉野弘
(詩人)さんにこんな詩があります。(「幸い」は「さいわい」と読みま
す。「辛さ」は「つらさ」と読みます。)


         幸いの中の人知れぬ辛さ
         そして時に
         辛さを忘れてもいる幸い
         何が満たされて幸いになり
         何が足らなくて辛いのか


この詩について吉野弘さんは次のように書いています。
ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  漢字の「幸」の中に、「辛」があることにあると気づいて興味を持ちま
した。「辛」は、ツライ、カライなどと読みますが、いちおう、ツライと読
むことにして、「幸」の中にツラサがあることが面白かったのです。幸を幸
福の意味合いにとった場合、幸福がその中に辛さを含んでいることは、幸福
についての通念に反するからです。幸福の一義性が崩れると言ってもいいで
しょう。
  世間的には幸福な暮らしをしていると思われている人が、人知れぬ辛さ
を隠し持っていたり、また幸福が、幸福であることの説明しがたい辛さを
持っているという場合もあるでしょう。
  しかし、そういう辛さを持っている人でも四六時中、その辛さに打ちの
めされているわけではなく、ケロリと忘れているようなこともあります。辛
さを忘れてしまう幸福とでも言えるでしょう。(幸の中の辛をときに忘れ
る)。
  幸と辛とを分ける違いは、一という文字ひとつの多い少ない、ですが、
そのひとつが何であるかは、人によってちがっているでしょう
ーーーーーー引用終了ーーーーーー。
   
      吉野弘『詩の楽しみ』岩波ジュニア新書、より引用


以上のことを参考に、幸せについて児童たちと語り合ってみましょう。大人
びた児童の中には、平和、自由、人権、平等、豊かさ、人倫、健康、正義、
生命の尊厳、自殺、法、価値、宗教、テロなどのことを言うかもしれませ
ん。当然に結論は出ません。
 ヴィトゲンシュタインは「世界とはかくあることのすべてである。かくあ
ること、すなわち事実とは事態が存在していることである。」そして「語り
えぬことについては、沈黙せねばならぬ。」と言いました。「幸せ」と「不
幸せ」の有様や人間行動について自分の体験(事実)から語ることの教育的
意義は大いにあります。みんなで語り合うことで、他者との言語ゲーム的な
関係性の中でルールを見出し、どう自分が行動べきかの指針を考えることが
できます。
「山のあなた」の詩は、人生を肯定的に生きる夢や憧憬を与えてくれます、
膨らませてくれます。悲観的ではありません。この詩の学習をきっかけに幸
福とは何か、幸福を作りあげる、について全員で語り合ってみましょう。


         
音声表現の仕方について


  短い詩になればなるほど凝縮された表現内容となり、解釈の仕方も多様
となってきます。表現内容に融通性が出てきて、意味内容の規定性が薄らい
できます。過剰な雄弁さを開示してきます。
  小説(物語)のように事件の起伏のある、ストーリーのある詩ならば、
場面がはっきりしているので、それなりに事件の展開のありさまを音声で
メリハリをつけて表現することができますが、また、音声表現の仕方を定式
化(言葉化)して言うことができますが、短詩になると、音声表現の仕方も
多様になって、定式化(言葉化)することが困難になってきます。
  短詩、短歌、俳句のような詩表現は、人によって解釈の仕方が違ってき
ます。ああも解釈できるし、こうも解釈できるし、そうも解釈できるとなり
ます。また、どのような場面として解釈するかによって、読み手の思い入れ
の内容も違ってきます。読み手ひとり一人の成育歴、人生体験がちがってい
るので、思い入れる内容がそれぞれに違ってきます。
  「山のあなた」の詩について、わたしの中学一年生の時の解釈や思い入
れがどうであったかについては前述しました。高校生になってからの思い入
れや解釈はまた違ってきます。大学生になってからの、新米教師のときの、
教師二十年後の、退職後の、……それぞれの解釈や思い入れが違います。ど
んな場面を想定して、思い入れて読むか、それによって解釈の仕方や音声表
現の仕方はそれぞれに変わってきます。
  各人の個人的体験からくる思い入れの内容や、詩表現の場面設定をどう
描くかによって音声表現の仕方がそれぞれに違ってきます。
  ですから、短詩形式の音声表現の仕方は、こうなります。読み手ひとり
一人の、固有の思い入れで、それぞれの思い入れをたっぷりとこめて、詩内
容を味わいつつ、自分の思いが声に出るように、詩内容の場面の様子が声と
なって外に出るように読んでいくようにします。
  「山のあなた」を、歌うように夢見るように軽快に心地よいリズムで読
む人もいるでしょう。人生の悲哀の幻滅を味わった暗く沈うつな声で読む人
もいるでしょう。人それぞれでいいと思います。

  ここで終わればいいものを、教師という職業はそれでもむりに何か言わ
なければという老婆心、ダメ押し、くどさの話があります。それを承知で、
あえて、付け加えさせてもらいます。

●全体が六行三文の詩です。行変えでは間をあけつつも、一文は一文のひと
つながりとして音声表現するようにします。

●7・5・7・5のリズムをこわさない、大事にして音声表現します。

●一行目「山のあなたの空遠く」の「あなたの」は下の「空遠く」につづく
息づかいがあり、五行目「山のあなたになほ遠く」の「あなたに」は「に」
(場所)で一応そこで切れる息づかいがあります。「空遠く」は一語のよう
に、「なほ・遠く」は二語のように「なほ」を強調して読むとよいでしょ
う。

●三行目の冒頭「ああ」をどう意味把握するかによって音声表現が違ってき
ます。
  前文を受けて「おお、そうなのか。空遠くに幸いは住んでいるのか。そ
こはすばらしい世界だことでしょう。そんな世界の住んでみたい。行きたい
ことよ。」という意味にとるか。
 「ああ、そこへ行ってみたが、幸せはなかった。涙だけしかなく、泣き泣
き帰ってきた。幸せは何処にありや。悲しいことばかり。」という意味にと
るか。
  前者は、歓喜の「ああ」であり、後者は失意の「ああ」です。
  感動詞「ああ」は、前者の場合は「ああ」だけの独立性が強い感動詞、
つまり感嘆や驚きや喜悦としての音声表現となり、「ああ」だけが一行で書
いてあるような音声表現となります。
  後者の場合は、「涙さしぐみ、かへりきぬ」の副詞的用法となり、述部
「かへりきぬ」に係っていくように音声表現するようになります。「ああ」
は、悲嘆(なげきかなしむ)の悲痛な叫びの「ああ」となります。
  その他の解釈と音声表現もありましょう。
●「われひとと」の「ひと」を誰と想定するか。想定した人間が誰であるか
によって、「ひと」の音声表現の語勢や声質に微妙な変化がありましょう。
だれと特定しない、一般的な「だれかある人」ととるか、親しい友人ととる
か、恋人同士ととるか、借金取りに追われている夫婦ととるか、想定した人
物によって、「ひと」の特立が音声に微妙に変化してきます。
●この詩には起(一、二行)承(三行)転(四行)結(五、六行)がありま
す。このドラマ・起伏を意識に入れて音声表現することもあっていいでしょ
う。
●自分なりの思いを、この詩全体にたっぷりと込めて、早口でなく、ゆっく
りと読むとよいでしょう。詩の言葉やリズムを味わいつつ、たっぷり、ゆっ
くりと思いを込めて、読むとよいでしょう。



           
参考資料(1)


 
渋沢孝輔(明治大教授)は、この詩について次のように書いています。
ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  行けども行けども、求める「幸い」には行き着けない、それでもなおか
なたの未知の国にあこがれずにはいられない、そんな気持ちの詩でしょうか。
「ひとと」の「ひと」は原語では「群れ、団体」の意味で、巡礼者の群れの
ようなものが思いうかびます。
ーーーーーー引用終了ーーーーーー

 渋沢孝輔著『ジュニア版 目で見る日本の詩歌6』(ティビーエス・ブ
リタニカ発行。1982年。)43ぺより引用。 


          
  参考資料(2)


 瀬戸内寂聴(宗教家、作家)は、この詩について次のように書いています。
ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  ドイツの詩人カール・ブッセ(1872〜1918)の詩を、上田敏(1874〜1916)
が訳した美しい詩。
  目をあげて山を仰ぐ時、人は思わず故知らぬ敬虔な想いに打たれます。見
上げるはるかな山には人間を超えた聖なる霊が宿ると古代の人は信じたのです。
そしてその山の向こうの未知の世界にはきっとすばらしい幸があるにちがいな
いと憧れたのでしょう。けれども幸を求めてはるばる山を越えてみれば、そこ
には何も新しい発見はなく、失望に涙ぐんでまた山を越え帰ってくるばかりな
のでした。
  少女の頃覚えた歌はいつまでも頭と心に焼きついています。誰でもそんな
詩の一つや二つはあることでしょう。
ーーーーー引用終了ーーーーーー

  瀬戸内寂聴『美しいお経』(嶋中書店・2005)133ぺより引用



           
参考資料(3)


 黒田三郎(詩人)は、この詩について次のように書いています。
ーーーーーー引用開始ーーーーーー
  機械的な日常生活のくりかえしのなかで、ひとびとは平凡な生活の外に
ある未知のものに憧れる。南極やヒマラヤ、チベット、そしてまたマヤやイ
ンカの遺跡に目をむけるのだ。
  こういう未知のものに対する憧れ、それはそのまま詩に渇いた心に通じ
よう。上田敏の名訳でだれでも知っているカール・ブッセの詩「山のあなた」
を思い出していただきたい。
  「山のあなた」のような思いは、何も少年だけのものではあるまい。「涙
さしぐみ」帰って来ても、思いはなお消えないのである。そして、現代のよ
うに生活が単調に、画一的になってくるにつれて、ますますひとびとは「山
のあなた」に憧れることになる。テレビで、海や山へ押しかけるひとびとの
おびただしい群れを見て、皮肉で馬鹿馬鹿しい思いをするひとも少なくない
とは思うが、それでもなお海や山へゆきたいのが自然の情であろう。
  「山のあなた」では、「幸い」住むとひとのいう、と感傷的な気分をテ
ーマとしており、現代では少年でさえ「そんなことはないよ」と言うかもし
れない。しかし、少なくともこの詩は、人間が平凡な現実のなかでその外の
世界に憧れることを端的に示しており、その点であますところがない。
  ボードレール「パリの憂鬱」のなかに「貧乏人の玩具」という話がある。
金持ちの子が素晴らしい玩具を持ちながら、貧民屈の少年の玩具、一匹の生
きたネズミを珍しそうにしげしげと見つめている有様を、ボードレールは描
いている。他人の持ち物はすべてよく見える、と言い切ってしまえば、それ
までだ。自足することを知らないで、夢のようなことに憧れる、と「山のあ
なた」を批評することもできる。しかし、現代社会でひとびとが現状に甘ん
じないで、現実の外に目を向けようとする動きのなかには、単に「憧れのた
めに憧れる」と言い切るには、あまりにも切実で痛々しいものがあることに
注意したい。テレビで海や山のおびただしい人の群れを見て、皮肉で馬鹿馬
鹿しい思いをした後で、何とも言えず人間がみじめな気がすることはないで
あろうか。
  未知の世界への憧れ、それは詩に渇いた心に通じるものだ。詩も経験の
未知の世界に対する探検のようなものだ。未知の世界の探検によって、既知
の世界を変革しようとする努力である。内容から言えば、探検による発見で
あり、形式から言えば、ことばの新しい組み合わせの発明ということになろ
う。
ーーーーーー引用終了ーーーーーーー

 黒田三郎『現代詩入門』(思潮社)1966年。45〜46ぺより引用



           
参考資料(4)


 上田敏の訳詩集 『海潮音』には、「山のあなたの」の他に、次のような
訳詩も掲載されています。作・詩人は、カール・ブッセでなく、テオドル・
オオバネルです。題は、「海のあなたの」です。


            海のあなたの

                   テオドル・オオバネル 
                   上田 敏 訳

         海のあなたの遥けき国へ
         いつも夢路の波枕、
         波の枕のなくなくぞ、
         こがれ憧れわたるかな、
         海のあなたの遥けき国へ。


  現今は、人工衛星(有人宇宙船、宇宙ステーション、通信衛星、軍事衛
星、惑星探査機など)が宇宙に数千も打ち上げられている科学技術が発達した
世の中です。
  山の向こうに・夕焼け空の向こうに・海の向こうに、ユートピア(天国)
の世界があるなどと考えるのは、いささかアナクロニズム(時代錯誤)と言え
るかもね。でも、子どもは違うかも。幼児や小学生児童なら天国があると考え
るかもね。
 注記。
  「なくなく」は、泣いて泣いて、無念な、嘆き悲しみ、恋焦がれる気持ち。


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