音読授業を創る  そのA面とB面と        03・10・19記




   
「注文の多い料理店」の音読授業をデザインする



                            
●「注文の多い料理店」(宮沢賢治)の掲載教科書…東書5下、大書5上、
                        学図5下



            
この物語のテーマ


  「注文の多い料理店」は、宮沢賢治の生前に刊行された唯一の童話集で
す。1924年(大正13年)に、東北農業薬剤研究所出版部から刊行され
ています。初版四千部で、印税はなく、その代わりの賢治は百部を受け取っ
ています。売れいきはわるく、後に賢治自身、二百部を買い入れています。
  「注文の多い料理店」のテーマについて賢治は「広告ちらし」の中で次
のように書いています。
  「二人の青年紳士が猟に出て路に迷い『注文の多い料理店』に入りその
途方もない経営者から却って注文されていたはなし。糧の乏しい村のこども
らが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。」
  山村と都会とを対立させています。「糧の乏しい村」と「放恣な階級の
都会」の対立です。当時、岩手県の農民は、凶作や冷害や津波や洪水や安い
米価で困窮を極めていました。農村は貧困・粗衣粗食・節倹・弱者であり、
都会は奢侈・華美・贅沢・強者という対立図式です。
  この物語では、都会を代表する人物が二人の若い紳士です。二人は「放
恣な階級」を象徴している代表人物です。この物語で賢治は二人の紳士の言
動をとおして、うわべの放恣な都会(西洋)文化に「止むに止まれない反
感」を抱きつつ、それへの批評精神でこの物語を書いています。賢治は東北
山村に異空間としてのイーハトーヴ(ユートピア)を求めていたのでした。


           
二人の人物像


  「注文の多い料理店」が刊行されたのは、1924年(大正13年)で
す。当時、商業資本経済が台頭し、非合法で儲ける闇商人がみられるように
なりました。二人の若い紳士は、近代の商業資本経済の落とし子です。にわ
か成金家のご令息なのかもしれません。
  二人の紳士の人物描写を冒頭文章部分から抜き出してみましょう。括弧
内は、それへのわたしのコメントです。
  「イギリスの兵隊の形をして」(外見のかっこよさを好む。かっこつ
け。本格の猟には不似合いな身なり、俗物性)
  「ぴかぴかする鉄砲をかついで」(はじめての狩猟。初心者。まねごと
好み)
 「白くまのような犬」(太ってごろごろしている犬。猟犬には不適な犬)
 「二人のわかいしんし」(新しがり好みの、にわか成金家の息子)
 「何でも構わないから、早くタタターンとやってみたいもんだ」(生命
軽視。尊厳な生命をもてあそぶ軽薄な行動)
 「二、三発おみまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくる
回って、どだっとたおれるだろうね。」(猟は単なる遊び。殺すは痛快とい
う残酷さ、非情さ)
 「専門の鉄砲うちもまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山お
く」(素人の狩猟者。山の常識知らず)
 「実にぼくは二千四百円の損害だ」(何事もお金に換算する拝金主義
者)
 「もどりに山鳥を十円も買って帰ればいい」(何事もお金ですます、解
決する。見せかけでだまし、欺瞞に満ちた闇商人的思考と行動)
  紳士といえば、ジェントルマンをイメージします。上流生活者、教養が
あり、高尚な趣味、典雅な服装、上品で、礼儀正しく、女性にやさしく、な
ど。
  ところが、この物語の二人の紳士は、狩猟の服装や装備をみても、狩猟
には不似合いなイギリスの兵隊の服装で、狩猟初心者のぴかぴかの鉄砲を
持っています。二人の紳士は、にわか狩猟家仕立ての新しがり好みの素人
で、にわか成金家のご令息のようです。ご令息というよりは、どら息子と
いったほうがよいでしょう。狩猟は西洋貴族たちの趣味であったわけです
が、時代を先取りする狩猟遊びが西洋度のバロメーターであり、二人のどら
息子は西洋貴族をまねた遊びで、それが最先端のモダンなファッションであ
り、モダンボーイの高尚な趣味だと得意になっているようです。モダンと
は、ポストモダンのモダン(近代資本主義)という意味、この歴史的な制度
のことです。ここでは台頭する近代資本主義のブルジョワ文化のことを指し
ます。
  この物語には、宮沢賢治のモダン文化への痛烈な批評精神(諷刺)がこ
められています。
  子ども達にこの物語を読み聞かせると、その読後感は、「次々に戸が開
いていくスリルがおもしろい」とか「二人の紳士がとる行動(反応)がおも
しろい」とか「二人の紳士は山猫にだまされ、かわいそうだ。山猫は悪者
だ」のようにしか把握しないことが多いという報告があります。これでは、
賢治のねらいと外れてしまいます。このあたりが、この物語指導の重要なポ
イントとなります。

             
山ねこ像


  お客はレストランに入れば、食べたい料理を注文する、これが通常で
す。ところが、この物語では、料理を注文するお客が逆にいろいろな注文を
受け、お客が料理人に食べられそうになります。二人は山ねこに食われる食
材になっていることに気づき、大慌てします。この見事などんでん返しに読
者はハッとさせられます。読者も、山ねこのわなにはまって読んでいたこと
に気づきます。「注文の多い料理店」は「わなの多い料理店」だったことに
気づきます。
  山ねこは賢治の理想とする人物ではなく、二人の若い紳士と同類の人物
として描かれています。山ねこたちは、こんな会話を交わします。括弧内は
わたしのコメントです。
  「だめだよ。もう気づいたよ。塩をもみこまないようだよ。」(だます
ことで生命をうばおうとする欺瞞家たち。お客に聞こえる声で自分らの正
体、手の内を明かすおろかさ)
  「親分の書きようがまずいんだ。まぬけたことを書いたもんだ」(親分
批判で自分らの行為を正当化。親分べったり、自分らの主体性、倫理性な
し)
  「どうせぼくらには骨も分けてくれやしないんだ。」(仲間割れ。骨ま
でしゃぶる凶悪さ。人命軽視の断罪すべき行為)
  「おい、お客さんがた、早くいらっしゃい。早くいらっしゃい」(お客
が山ねこのわなに気づき、山ねこの正体がばれているに拘わらず、まぬけな
呼びかけをつづけるおろかな行動)
  こうみてくると、山ねこも悪質かつ軽蔑すべきペテン師です。二人の若
い紳士を、次々と戸の中へ導きいれる手練手管は感心するばかりで、その狡
猾さはかなりのものです。二人は都会のにわか成金家のぼんぼん息子たちで
すが、山ねこたちは二人の消費意欲をうまくすくいあげ、手玉にとり、たぶ
らかし、はては若くておいしい人肉をはらいっぱい食べようとする、常道に
反する卑劣な者どもです。
  二人の若い紳士も、山ねこも、同じ穴のむじなです。だます山ねこが悪
いのか、だまされる紳士が悪いのか、どっちもどっちです。同類の悪党たち
です。

           
地の文の読み方


  この地の文は、わたしの分類でいうと「三人称の、ある登場人物の目や
気持ちをとおした地の文」です。この物語では、語り手は二人の若い紳士の
目(視点)や気持ち(心理感情)によりそって語っていますので、「三人称
の、ある登場人物」とは「二人の若い紳士」です。音読の仕方は、二人の紳
士の目や気持ちによりそって作品世界を語っていっています。
  三人称主観の視点ですから、語り手は外から、後ろから離れて語りつ
つ、ときに二人の紳士の目や気持ちになって、二人の内面に入り込んで語っ
ていくことになります。二人の紳士の外の目と内の目がないまぜになってい
ますので、二人の紳士への気持ちの入り方は外からと内からとファジー(あ
いまい)な状態になっています。これをわたしは「二人の目や気持ちに入り
込んで読む」でなく、「よりそって読む」と言っているのです。ですから、
この物語は二人の紳士の目や気持ちに「よりそって」音読していくことにな
ります。
  二人の紳士の目や気持ちによりそって音読していくとはいっても、この
物語には外の目の客観性が強い文章部分と、内の目の主観性が強い文章部分
とがあります。前者は作品世界を外から、離れて、淡々と客観的に音声で前
へポンと差し出す音読の仕方になり、後者は二人の目や気持ちになって、二
人の気持ちに入り込んだ音読の仕方になります。
  客観性のある文章部分は、この物語では主に冒頭部分と終末部分にあり
ます。
  冒頭部分は、二人の若い紳士を登場させ、二人の大体の人物紹介と二人
が話した冒頭会話を紹介しています。ですから冒頭部分の音読は、二人の人
物紹介と会話紹介だけですから、読み手の主観的感情(思い入れ)を入れ
ず、淡々とただ紹介するだけ、作品世界をポンと前へ差し出すだけの音読の
仕方になります。
  この客観的な文章記述(文体)が、次の地の文部分からしだいに破れ
て、主観性が弱いながらも出てきます。
  「ところが、どうもこまったことは、どっちへ行けばもどれるのか、
いっこう見当がつかなくなっていました。」
  「そのとき、ふと後ろを見ますと、りっぱな一軒の西洋造りのうちがあ
りました。」
  「そしてガラスの開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありまし
た。」
  これら地の文からは、二人の紳士の目や気持ちになって描写され、二人
に入り込んで読んでいくとうまくいきます。これら地の文には主語(二人の
紳士)が省略されています。主語がないと、読み手は主語人物(ここでは二
人の若い紳士)の目や気持ちにかなり入り込んで、引きずり込まされて、こ
れらの地の文を読み進めていくように、自然とそうなります。
  前記引用した三つの地の文個所からあとに、ところどころに「二人は」
という主語が書いてあるところもあります。「二人は」の主語がある地の文
個所では、読み手は二人の紳士を外や後ろから離れた地点で対象人物として
読み進めますが、同時に読み手は二人の紳士の背中にはりつき、二人と一体
化した状態で、つまりどっちつかずの重なった、あいまいな状態で「二人
は」を音読していくようになります。これをわたしは「三人称の、ある登場
人物の目や気持ちによりそって読んでいく音声表現の仕方の地の文」と言っ
ています。
  終末の文章部分も客観性のある文章部分でした。どこらあたりからかと
いうと、白くまのような犬が二匹、部屋の中にとびこんできた文章部分あた
りから終末文までです。ここは、客的な対象描写の地の文となっています。
ですから、ここの文章部分は作品世界を対象化して紹介するだけの読み方に
なります。作品世界を外から、後ろから、離れて、淡々と前へポンと差し出
すような読み方になります。


           
会話文の読み方


  会話文は、その人物が、どんな場面で、だれに向って、どんな意図で、
どんな言い回しや声の抑揚で話したか、これらをはっきり意識して音声化し
なければなりません。
  「注文の多い料理店」では、二人の若い紳士の会話文がかなりの量を占
めていますが、どっちが誰が話したのかが分かりません。会話文の話し手が
不明なのです。二人の名前が記述されていません。文学作品に、こういう性
質の会話文はめずらしく、あまりありません。大体は、人物同士の対立や葛
藤があり、誰が誰に向って、どんな意図(気持ち)で話しているかの区別が
はっきりしております。が、この作品では会話文の読み分けがとても困難で
す。
  しかし、この物語では、それは問題にはなりません。前述したように二
人の紳士は西洋貴族かぶれの道楽息子たちです。二人の立場の違い、性格の
違いはないのです。一人の息子だけを登場させてもよいのでしょうが、二人
で対話させた方がストーリー展開がおもしろくなり、サスペンスに富むよう
になるということから、二人の道楽息子たちを登場させているのだと、わた
しは自分勝手に考えています。
  ここで重要なことは、それぞれのドアの言葉に二人がどう反応したか、
ドアの言葉をどう受け止めたか、どんな気持ちで、どう反応したか、です。
それぞれの場面で、二人の紳士の受け止め方や考え方がどうだったか、で
す。音声表現では、それぞれのドアの言葉に対する二人の受け止め(気持
ち、考え方)がどうだったかを強く押し出して音声表現すれば、二人の性格
や立場の相違はなくても問題にはなりません。
  ところどころに会話文で、一方が疑問や不安を語り、他方が知ったかぶ
りで答え、すぐにお互いに手前勝手に同意・納得して、次のドアへ進んでい
く文章場面があります。これも二人の意見の相違があるわけではなく、ドア
の言葉をどう解釈するかという、二人の相談と受け止めの納得が問題となる
だけです。この受け止めの解釈や納得のありかたを音声で表現していけばよ
いのです。


          
主述の照応に気をつけて


  この物語には、ところどころに長文の一文があります。長文は主述が照
応するように音読させましょう。
  たとえば、冒頭にある一文です。この一文の主述の照応は「紳士が……
歩いておりました。」です。……の個所に、「どんな身なりの、どんな道具
を持った、どんな犬を連れて、どんな所を、どんなことを言いながら」の修
飾節が五つはさみこまれております。長い修飾節を読んでいるうちに息が切
れてしまい、「歩いておりました」(述語)が忘れ去ってしまい、修飾節の
途中で切断してしまうような読み方になってはいけません。
  これも冒頭部分にある一文です。「あんまり山がものすごいので、犬
が、めまいを起こし、うなって、あわをはいて、死んだ」です。一つの主語
に述語が四つ連接しています。「……なので、どんな犬が、どうした、どう
した、どうした、どうなった」の順番がわかる読み方にしなければなりませ
ん。
  修飾語と被修飾語のつながりも、ひとまとまりになるように読みましょ
う。
  たとえば、冒頭部分から抜き出して、文例をあげましょう。
  どんな山奥かというと、(「案内してきた専門の鉄砲うちも、ちょっと
まごついて、どこかへ行ってしまったくらいの」+「山おく」)です。
  どのように言ったかというと、「一人のしんしが、(その犬のまぶた
を、ちょっと返してみて)言いました。」です。
  どのように言ったかというと、「も一人が、(くやしそうに、頭を曲げ
て)言いました。」です。「くやしそうに」で切ってはいけません。「くや
しそうに」と「頭を曲げて」はひとつながりにして、「言いました」に係っ
ていくように読みます。
  「初めのしんしは、少し顔色を悪くして、じっと、も一人のしんしの、
顔色を見ながら言いました。」の文は、重文(児童用語、つながり文)で
す。「顔色を悪くして」で、前節と後節とに分かれます。前節はひとつなが
りに、後節もひとつながりにして読みます。「じっと」は、「見ながら」に
係るように読みます。「言いました」には係りません。



         
とりたて場面を選択して


  「注文の多い料理店」は、教科書で23ページの長い物語です。全文、
ていねいな音読指導はできません。児童に音読させたい文章部分を抜き出
し、その個所だけをていねいに音読指導します。ほかはグループごとに分担
し、グループ練習に任せます。全文音読ではグループ発表の形をとります。
  この物語の場面分けはいろいろあるでしょうが、わたしは戸の裏表を
別々にして、18場面とします。冒頭のリード場面。玄関の看板場面。戸
(1)の表と裏。戸(2)の表と裏。戸(3)の表と裏。戸(4)の表と
裏。戸(5)の表と裏。戸(6)の表と裏。戸(7)の表と裏。犬のお助け
場面。最終場面。以上18場面です。
  全員で音読させたい場面はどこでしょうか。時数の余裕のありかたによ
りますが、リード場面、戸(6)の裏、戸(7)の表などは児童が読みたが
るのではないでしょうか。
  戸(6)裏と戸(7)表の地の文にある「がたがたがたがた」は地の文
として書いてありますが、二人の紳士の会話文のすぐあとにつづけて紳士が
表情たっぷりに読むのも、真に迫り、はたから見ると何となくこっけいでも
あり、おもしろいと思います。
  戸の言葉は全部で13こあります。戸の言葉はだれの立場から読むかに
よって読み口調がちがってきます。紳士が一字一字を目で追うように戸の言
葉をたどり、紳士の口から出た声として読むなら、ゆっくりとポツリポツリ
と一字ずつ意味をつかまえようとかみしめて読んでいる音声口調となるで
しょう。このように紳士の口から出た言葉として読むのが普通でしょうが、
戸の言葉の送り手、つまり、山ねこのメッセージとして、山ねこの口から出
た言葉として読むこともできます。この場合は、レストランからの言い慣れ
た言葉(お知らせ)としてのアナウンス口調にした読み方になるでしょう。


            
参考資料(1)


  「注文の多い料理店」の文中にある「鍵「と「錠」について次のような
記事がありました。参考までに書きます。言語感覚育ての資料となります。

  一般に「鍵」と「錠」は、「キー」と「ロック」に置き換えられます。
だから「玄関の鍵を壊して泥棒が入った」の「鍵」は「錠」にしたほうがい
いと思います。しかし「鍵をかける」「鍵を開ける」の「鍵」は「錠」にし
ないほうがいいでしょう。
  宮沢賢治は1921年に発表した「注文の多い料理店」で「ぱちんと錠
をかけました」と書いておりますが、それより少し後、1936年の永井荷
風の日記には「錠はおろすもの、鍵はかけるというが東京の言葉なるべし」
という一節があります。
  しかし「鍵をかける」が成句になっているから「錠をかける」にしない
だけで、実際は「錠をかける」は「施錠する」ことですから、「錠をかけ
る」のほうが理屈に合っている気がします。ただ、万葉の昔から「かぎ」は
「鍵」と「錠」の両方を指していたようですし、「掛け金(鉤カギ)をかけ
る」という言い方もあります。
  ちなみに冒頭の「鍵を壊す」という表現、2001年に関西地区新聞用
語懇談会が行ったアンケートでは24社中20社がおおむね許容、一社が限
定的に許容としています。(校閲部・佐藤京次)

  東京新聞の「ことば 言葉 コトバ」欄、2004・6・30より引用


            
参考資料(2)


  「注文の多い料理店」の中に、犬の値段が二千四百円とか二千八百円と
かが出てきます。今の児童達には、現在の金額に換算すると幾らになるかが
想像できないと思います。児童達に現在はどれぐらいの値段かを分からせる
必要があります。わたしが調べたことを下に記しましょう。大体、現在はど
れぐらいかが分かるのではないでしょうか。

「注文の多い料理店」(宮沢賢治作、菊池武雄絵)は、大正13年12月発
行、230ページで定価1円60銭でした。「一房の葡萄」(有島武郎作)
は、大正11年6月発行、123ページで、定価1円20銭でした。

 大12・ ピアノ(グランド)1400円〜2250円 →→ 昭55・
72万円
 大9・内閣総理大臣の給料(月給)1000円 →→ 昭54・155万

 大9・都知事の給料(年俸)6000円 →→ 昭55・110万円
 大9・教員の初任給40円〜55円 →→ 昭54・98592円
 大13・巡査の初任給45円 →→ 昭54・99000円
 大15・下宿料金20円〜25円 →→ 昭56・53000円(四畳
半)
 大12・いなりずし2銭 →→ 昭63・60円
 正・続・続続『値段の明治・大正・昭和風俗史』(朝日新聞社、昭56)
より引用   (注・荒木)この資料は、昭和56年発行です。




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