音読授業を創る そのA面とB面と 04・09・14記 「大造じんさんとガン」の音読授業をデザインする ●「大造じいさんとガン」(椋鳩十)の掲載教科書……光村5下、大書5下 地の文の読み方(1) この物語の語り手はだれでしょうか、調べてみましょう。 この物語には前書きがついています。 「知り合いのかりゅうどにさそわれて、わたしは、イノシシがりに出か けました。」から「山家のろばたを想像しながら、この物語をお読みくださ い。」までです。 語り手は「わたし」(作者、椋鳩十)です。わたしが大造じいさんから 実際に聞いた話を、眼前の子ども達に語って聞かせるという語り形式になっ ています。(作者の実際にあったこと、真実であるか、フィクションである か、は別です。) この前書き部分を音声表現するときは、五年生児童が聞き手(例えば低 学年や中学年児童)を前に置き、聞き手に向って、聞き手の反応や顔色を見 ながら、聞き手に分かりやすく、楽しく、理解してもらえるような語り口 (言いぶり)に気をつけて読む、ということになります。 この前書きの読みに入る前に「さあ、みなさん、集まったかな。目は こっちだよ。この話はな、わたしが小さかった頃、大造じいさんというか りゅうど、かりゅうどとは鳥やけものを鉄砲でドンと撃つ人ね、かりゅうど の大造じいさんから聞いた、とってもおもしろい話、それをこれからみんな に語って聞かせるよ。はじまり、はじまり。知り合いのかりゅうどにさそわ れて、わたしは、イノシシがりに出かけました。…」というように読み出し ていきます。こうしたことを前提にして聞き手に向って語り聞かせる口調に すると、語り調子(聞き手に配慮した語り口)が前書き文章の音声表現にす んなりとつながって、うまく表出されてくるでしょう。前書き部分を読むと きは、こうした前置きのせりふを言わせるのも一つの方法でしょう。 地の文の読み方(2) [1]の冒頭部分から、語り手が変わります。語り手が、「わたし」から 「大造じいさん」へと移行します。[1]から[4]の最後まで、すべて語り手 は大造じいさんに移行します。 [1]の冒頭は「今年も、残雪は、ガンの群れを率いて、ぬま地にやって 来ました。」です。ガンの群れを率いてやってくる残雪を見ていて、「やっ て来ました。」と判断している語り手主体はだれでしょうか。見ている人・ 語っている人はだれでしょうか。大造じいさんです。大造じいさんは「残雪 は、ガンの頭領らしい、なかなかりこうなやつ」と評価(思考判断)してい ます。じいさんは、一羽のガンも手に入れることができなく、いまいましく (残雪を)思っています。その気持ちで残雪を見ています。 翌日の昼近く、じいさんが沼地に行くと、じいさんの目に何かバタバタ しているものが見えます。じいさんは、「しめたぞ。」とつぶやきます。じ いさんの目に見えたこと、見たこと(対象、事態)への気持ち(心理、感 情、思考、推理、判断)が書かれています。 このように[1]から[4]まで地の文はすべて大造じいさんの目や気持ち によりそって描かれています。 「あかつきの光が、小屋の中にすがすがしく流れこんできました。ぬま 地にやって来るガンのすがたが、かなたの空に黒く点々と見えだしました。 先頭に来るのが、残雪にちがいありません。その群れは、ぐんぐんやってき ます。」この地の文は、じいさんの目に見えた残雪の姿が描かれています。 じいさんがおとりのガンを育てた場面も、ガンとハヤブサとの戦闘場面 も、残雪を開放した別れの場面も、美しい情景描写の文章場面も、すべて大 造じいさんの目や気持ちをとおして描かれています。 ですから、これらの地の文を音声表現するときは、じいさんの目や気持 ちによりそって読んでいくことになります。「よりそって」とは、大造じい さんに付かず離ず、後ろから、側から、ときに微妙に重なって、じいさんに 入り込み、かつ微妙に離れたりしつつ音声表現していくことです。 「大造じいさんは」という主語が記述されていない地の文は、大造じい さんの目や気持ちへの入り込み方が強くなり、読み手はじいさんの気持ちに なって、爺さんの前にある対象(事態)を推理したり判断したりの独り言の ように読んでいくことになります。 主語が省略されてなく、「大造じいさんは」という主語部分が記述され ている地の文個所では、読み手はじいさんの姿、形を見ながら、つまり、読 み手は、じいさんを外から客体化、対象化して姿形をイメージしつつ音声表 現していくことになります。 しかし、「大造じいさんは」の主語部分を読んでいるときも、半分くら いは「わたしは」(じいさんのこと)という気持ちで、じいさんになったつ もりで、前後の「じいさんは」なし地の文のつながりで、その文脈の流れの 中で音声表現していくことにもなります。こうした微妙な付かず離れずの重 なりの中で読んでいくことになります。 このことを、[1]の後半の文章部分で調べてみましょう。「秋の日が、 美しくかがやいていました。じいさんがぬま地にすがたを現すと、大きな羽 音とともに、ガン大群が飛び立ちました。」から[1]の最後までの文章個所 で調べてみましょう。 ここには「じいさんは」という主部が二つ、「大造じいさんは」という 主部が一つあり、ほかの五文の地の文はすべて主部省略文です。主部省略文 が連続している文章個所は、その長さの分だけ読み手は自分がじいさんの目 や気持ちに入り込んで、じいさんになったつもりで音声表現していることに なります。その全体の文脈の中で「じいさんは」「大造じいさんは」が書か れている個所では、じいさんが行動している姿形を、読み手は対象として表 象しつつ音声表現していくことにもなります。 地の文の読み方(3) 前記「地の文の読み方(2)」で、[1]から[4]までの地の文は、すべ て大造じいさんの頭の中で推理し思考し判断したことだ、と書きました。つ まり、じいさんの目に見たことと、独り言(考えたこと)で占められていま す。じいさんの独り言は、かなりの割合で占められています。鍵括弧の会話 文もありますが、対話文と考えられるのは最後に飛び立ったガンへの、じい さんの呼びかけ文ぐらいです。これとても、対話文というよりは、じいさん の一方的な語りかけであり、独り言の会話文に近いものだとも言えます。 これまで、わたしは、この物語の前書き以外の地の文は、じいさんの目 や気持ちに寄りそった地の文だということを書いてきました。これは、じい さんの主観に入り込んで音声表現するしかただといえます。 この物語の地の文の読み方に、これとは別に、もう一つ、客観的な、つ き離した地の文の音声表現のしかたもあります。前書きの語り手「わたし」 が、前書き部分をんでいるときの語り口調(語り口、語り音調、言いぶり) を、[1]から[4]の最後まで引きずっていく読み方です。語り手「わたし (作者、椋鳩十)」が大造じいさんの行動や気持ちを客観的に淡々と聴衆に 語って聞かせる読み方です。 じいさんの目に見えたこと、行動したこと、考えたこと(推理、思考、 判断)を、「語り手」が外から、後ろから、離れた位置から、「じいさん は、目でこう見た、こう行動した、頭の中でこう考えた」とナレーションす るように、事実をありのままに聞き手に淡々と解説し、報告するだけのよう に音声表現するしかたです。 語り手「わたし」が大造じいさんを対象人物として、じいさんの行動を 淡々と冷たく報告するだけ、時にじいさんの気持ちに重なって読み進むこと は当然ありますが、それもあくまで大造じいさんの行動はこうだ、気持ちは こうだと聴衆に伝達し説明し報告して聞かせるのが主調となる、という音声 表現のしかたです。 じいさんの主観に深く入り、じいさんの目や気持ちから語ることをしな いで、 (1)じいさんはの目に見えたことは、こうだ。 (2)じいさんは、こう行動した。 (3)じいさんは、こう推理し思考し判断した。 ということを、覚めた気持ちで聞き手に淡々と伝達し説明し報告するだけの 音声表現のしかたです。 「三人称人物の目や気持ちによりそって音声表現する地の文」には、こ のように二つの読み方ができます。 どちらの音声表現のしかたでもよろしいのです。前者はじいさんの主観 性が強い読み方です。後者は客観性が強い読み方です。読み始めると、どち らかに傾くのではないでしょうか。小学五年生には、前者のほうが容易で、 やりやすいと思います。めりはりの起伏が多いので、多様な表現性が生ま れ、面白味があり、楽しく音声表現ができるのでは、と思います。 地の文の読み方(4) この物語の地の文は大造じいさんの思考展開が独話のように記述されて います。じいさんの思考・判断の「こういうわけだから、こうだ」という論 理性の強い表現になっている文章個所がかなりあります。こういう文章個所 の音声表現は、じいさんの思考展開の筋道がはっきりと聴衆(聞き手)に分 かるように語調を強めたり、区切りのを十分にとったりして音声表現しま す。 例えばこうです。「大造じいさんは、(たかが鳥のことだ、一晩たて ば、またわすれてやってくるにちがいない)と考えて、昨日よりも、 《間》[もっとたくさんの]《間》つりばりを《間》ばらまいておきまし た。」の文章個所。( )の中はひとつながりに読みます。[ ]の 中は語調を強めて強調します。《間》は、ほんの少しの間をあけてめりはり よく語句を際立て・強調するためです。 「つりばりをしかけておいた辺りで、確かに、ガンがえをあさった形せ きがあるのに、今日は一羽もかかっていません。いったい、どうしたという のでしょう。」の文章個所。 「……あるのに、」「……ません。」「いったい、どうした……」とい う語句部分を強めの語調にして、じいさんの思考の論理展開の筋道がはっき りと声に出るようします。 その他、上記に続く文章個所「気をつけてみると、つりばりの糸が、み なぴいんと」から[1]の終わり「たいしたちえを持っているものだなという ことを、今さらのように感じたのでありました。」まで。 また[3]の「じいさんは、長年の経験で、ガンは、いちばん最初に飛び 立ったももの後について飛ぶ、……残雪の仲間をとらえてやろうと、考えて いたのでした。」まで。 これらの文章個所も、じいさんの思考(推理・判断)展開とその筋道が はっきりと音声に出るように間のあけ方や語調の際立てを工夫して音声表現 するようにします。 会話文の読み方 (1)「しめたぞ。」 じいさんはつぶやきながら、夢中でかけつけました。 (2)「ほほう、これはすばらしい。」 じいさんは思わず子どものように声を上げて喜びました。 (1)の鍵括弧の会話文は「つぶやきながら」と書いています。(2) の鍵括弧の会話文は「声を上げて」と書いています。(1)と(2)とでは 性格がちがい、音声表現のしかたがちがってきます。声の出し方がちがい、 喜びの気持ちの表情がちがってきます。 一般に鍵括弧の会話文の音声表現のしかたには、大きく二つに区分けで きます。相手に伝えている対話の会話文と、自分に向けての独り言の会話文 です。二つのそれぞれは、また細かく分類できます。が、ここでは細かい分 類は省略します。上記(1)と(2)とは、鍵括弧の会話文でも、二つとも 独り言に入ります。 また、鍵括弧の会話文には、地の文に挟み込まれて記述されているも の、改行になって独立して記述されているもの、二種類に区分けすることも できます。挟み込まれているか、改行されているかによっても音声表現のし かたが変わってきます。 [4]場面の大造じいさんの呼びかけ会話文「おうい、ガンの英ゆうよ。 おまえみたいなえらぶつを、……」は、「こう大きな声でよびかけまし た。」と書いてあります。「大きな声」での「呼びかけ」です。 「おうい、ガンの英ゆうよ。」の出だし音調は、遠慮した大声ではうま くいきません。沈んでしまってはいけません。小学校高学年ともなると、ど うしても遠慮がちなります。ちょっと大げさかなと思うぐらいに表現させる とうまくいきます。出だしの音調が肝心です。出だしの音調によって、それ につづく全体の音調がきまってきます。思い切りよく、バカデカイぐらいの 大きな声で「オーイ」と声を遠くへドカーンと投げつけ、飛ばしてみよう。 遠くへ「呼びかけて」「叫んで」みましょう。この勢いで、続くガンへの呼 びかけ言葉を音声表現していきましょう。 好きな文章個所を選択して この物語「大造じいさんとガン」は、かなり長文の物語です。この物語 の全文を、ていねいに音読指導していくことはできません。時間がたりませ ん。 教師が、この部分は音声に出させて指導したいという文章個所を選択し て、そこを徹底指導します。 また、児童に音読発表させる場合、先生が音読発表個所を指定するので なく、児童に音読したい文章個所を選択させます。家庭で音読練習をさせ、 翌日、教室で発表させたりします。音読したい文章個所を選択する作業をと おして児童たちの美しい日本語への言語感覚が育ち自分の気に入った文章部 分を音声でころがして心ゆくまでいい気分に浸って読ませることです。自信 をもって、その文章部分の音読発表ができるでしょう。 参考資料(1) 椋鳩十は、学図の指導書に「原作者の言葉」と題して、次のようなこと を書いています。作者の執筆のモチーフといってもよいものが書いてありま す。二人の主人公を意識して書いたともいっています。 (前略)大造じいさんは、動物どもが山野に人間の数ほどもいた明治初 年のころの話をそれからそれへとしてくれた。 そのころは、粟野岳のふもとの沼地に、ガンの群れも毎年おとずれた。 そのガンの話も、たくさんの逸話をまじえて語ってくれるのであった。この 老狩人は狩人であるにかかわらず、ガンについては、限りない愛情を込めて 話すのであった。老狩人にとって、狩は趣味ではなく、生きるなりわいで あったためかもしれない。 この老狩人の語る、数々のガンの話を聞いているうちに、わたしの心の 中に、「残雪」という一羽のガンが生まれた。(中略) どちらが主人公というのでなしに「大造じいさん」という柱と「残雪」 という柱とを同じ大きさにして物語を書いてみようとわたしは考えた。柱と 柱の響きあいを生かして、一軒の家をつくりあげてみようと考えた。(後 略) 参考資料(2) 以下、参考資料(2)、(3)、(4)はこの作品の主題についての諸 氏(松山市造、高森邦明、畠山兆子)の見解です。 松山市造(元学習院初等科教諭、児童言語研究会会員)さんは、次のよう に書いています。 この作品の主題については、いろいろと言われてきました。 わたしたち児童言語研究会の古い仲間であった故加藤隆詮氏は次の四つ が考えられると言っていました。〈「国語教育」明治図書37号〉 (イ)残雪の勇気・知恵をほめたたえたもの(動物の不思議な本能) (ロ)大造じいさんの人間味を表わしたもの (ハ)狩人として生きなければならない大造じいさんの不変の心情を表わし たもの こう述べた上で、彼自身は「自分のクラスの子供たちには(イ)に焦点 をしぼって指導したい」といっています。しかし、わたしはこれに疑問を感 じます。 このほか、大造じいさんと残雪との対決とか、両者のフェアプレイの精 神とに主題をおく考え方があります。それぞれの言い方は違っていても、大 体のニュアンスは加藤氏の挙げた(ハ)に類する見方です。各社の教科書の 指導書などもそうです。つまり、「残雪の知恵・責任感・勇気と、残雪に対 する大造じいさんの正義 ・公正さ ・愛情」という、二本立てです。 この二本立て主題論は前記した作者の意図したものと一致します。 (「残雪の柱」と「「大造じいさんの柱」との響きあい)。しかし、たと え、作者の意図はそうであっても、この考え方も読者の側としては一考を要 するものがあるのではないでしょうか。というのは、この作品の一方の主人 公は残雪ですが、残雪の行動は本能的なものです。それをあまりに高く評価 して主題の中に一本の柱として同等に扱うのはどうかと思うのです。 大造じいさんの行動と心情……これにこそ意味があるのです。残雪の行 動を本能と知りながら、本能的行動と決めつけないで、人間にひきうつし て、感動をもって対していること。このことが人間の人間らしさを表わして いるというものです。 (ハ)に主題の重点をおくのがいいと思います。美しいもの、感動すべきの に、すなおに心を動かしている大造じいさんの人間性の高貴さ、わたしはそ れを高く評価して読みとらせることを強調したいと思うのです。 松山市造(元学習院初等科)、『国語の授業』1977年8月号より 引用 参考資料(3) 高森邦明(富山大)さんは、次のように書いています。 「大造じいさんとガン」は、「少年倶楽部」昭和16年11月号に発表 された作品で、かれの動物文学の中でも初期に属します。最初に発表された 作品には、今あるような「まえがき」はなく、また文体も常体であったのが 敬体にあらためられています。……… この作品を成り立たせているものは、「残雪」が示す「英雄的行動」あ ることはいうまでもないと思います。さらに、この行動を支えているもの は、「残雪」の頭領としての責任感の強さ、犠牲的精神と同様に、大造じい さんの「おーい、ガンの英雄よ、おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひ きょうなやりかたでやっつけたかあないぞ。」ということばによってわかる ような正義感、フェアプレーの精神武士道精神であることも明らかです。 昭和十年代の後半という戦時下にあった人間を精神的に鼓舞した要素で ないとはいえないでしょう。(荒木注。この作品が発表された昭和16年は 第二次世界大戦への総動員が日本国民にかけられ戦争一色が強くなりつつあ る時代で、「大造じいさんとガン」も戦争協力の作品だともいわれることが あります。)そういう意味では、この作品は、戦時という時代の色相を帯び ていることも事実です。また、それでなければ、「少年倶楽部」という雑誌 に登場することは不可能でもあったのです。 しかし、この作品が、戦時下だけで消え去るものでなかったのは、動達 の知恵や勇気、友情などが、人間の事情の変化によって影響をうけることの ない不易性をもっているからだといえます。この作品が、戦時下だけで消え 去るものでなかったのは、動物たちの知恵や勇気、友情などが、人間の事情 の変化によって影響を受けることのない不易性を持っていたからだといえま す。 残雪の頭領として避けられない悲劇性に、狩人としての大造じいさんは 感激して立ち向かったのですが、読者は残雪に大造じいさんが覚えたと同じ 感動を覚えるだけでなく、自分の感激を大切にした大造じいさんの行動にも 心から感動を覚えるはずです。ここには、確かに「命を大切にしなくてはな らない」という作者の願いが表現されていることが分かります。 高森邦明(富山大)『国語の授業』1977年8月号より引用 参考資料(4) 畠山兆子さんは、次のように書いています。 私たちがこの作品に心を動かされるのは、大造じいさんが残雪の行動に みいだした意味に共感するからである。裏切り者になるように派遣された昔 の仲間を助けるために、我が身を犠牲にして恐ろしい敵と戦う指導者として の価値を与えられた残雪の行動は、不条理であるが故に一層崇高なものとな る。見立ての世界においては、残雪がおとりのガンをどのように認識してい たかの事実関係どは、問題にはならない。 単なる自己犠牲ではなく不条理な自己犠牲として見立てられている点に こそ注目すべきなのである。この不条理な自己犠牲には、明らかに日本人の 心情を刺激する伝統的な美意識が存在している。「大造じいさんとガン」 が、日本の動物物語の典型として読者の共感をえるに大きな要因は、あんが いこのあたりに存するのではなかろうか。 畠山兆子 『日本児童文学』 1985年4月号より引用 参考資料(5) 二上洋一さんは、は『少年小説の系譜』の中で、次のように書いていま す。 昭和18年5月に三光社から出版された短編集『動物ども』は、「大造 爺さんと雁」にはじまる椋鳩十の初期の短編を集積した好作品で、椋は前書 きに、 ≪この六年間は、自分で彼等を飼ってみたり、狩人たちから彼等の話を聞い たりして、野生のものどもの生活にはいっていくことにつとめて来ました。 かうして彼等に近づいて行けば行くほど「心なき鳥獣」と一口にいって しまえないやうな、彼等の生活ぶりにぶつかって、心をうたれるやうなこと が数々ありました。 たしかに鳥獣といへども、彼等は「自分ひとりで生きること」だけを、 考へているのではないと思います。 彼等は彼等なりにその種族を守って、ひたすら今日まで生きつづけて来 たのであります。 私はこの六年間に、みたり聞いたりした、彼等の勇気の、知恵の、愛情 の行為を物語化して、そのとざされた世界を、少しばかりこちらの世界を引 き出すことに、つとめてみました。≫ と書く。 椋鳩十の全ては、この一文に表明されている。作者の動物に対する愛情 が溢れ、また、人間と動物の心の触れ合いが、しみじみと描かれるのが、彼 等の作品の他にない著しい特徴だったのである。 「大造爺さんと雁」は、昭和16年11月号の『少年倶楽部』に発表さ れた。<今年も、残雪は雁の群れをひきいて沼地にやって来ました。>で始 まるこの作品は、左右の翼に一か所ずつまっ白なまじり毛を持った雁グルー プのリーダー”残雪”と、大造爺さんの知恵の戦いの記録である。好敵手同 士の一人と一匹はそのうち、愛を感じ合うようになり、残雪が仲間を助ける ために傷ついたのを、大造爺さんは手当てしてやり、やがて傷が治って北の 空へ離してやるまでの物語である。 ここには、言うまでもなく、さわやかに凝縮された感動がある。そして、 対象物にかける作者の暖かな眼と、愛情がある。短編ではあっても、これは 明確なテーマということで少年小説として条件を完全に満足させていたので ある。 尾崎秀樹他監修『少年小説体系・別巻5・少年小説研究』三一書房、1997) より引用 トップページへ戻る |
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