音読授業を創る  そのA面とB面と      06・2・12記 




「うち知ってんねん」の音読授業をデザインする


                

●詩「うち知ってんねん」(島田陽子)の掲載教科書………………大書4下




           うち 知ってんねん
                     島田陽子

        あの子 かなわんねん
        かくれてて おどかしやるし
        そうじは なまけやるし
        わるさばっかし しやんねん
        そやけど
        よわい子ォには やさしいねん
        うち 知ってんねん

        あの子 かなわんねん
        うちのくつ かくしやるし
        ノートは のぞきやるし
        わるさばっかし しやんねん
        そやけど
        ほかの子ォには せえへんねん
        うち 知ってんねん

        そやねん
         うちのこと かまいたんねん
        うち 知ってんねん




           
作者について


  1929年、東京に生まれる。10歳から大阪に住む。大阪府立豊中高
女卒。小説からスタート、「文章倶楽部」「夜の詩会」を経て、60年頃か
ら童謡、少年詩を書く。大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにち
は」の作詞を手がけたことでも知られる。童謡詩「ほんまにほんま」(畑中
圭一との共作)で第11回日本童謡賞を受賞。
  大阪弁にこだわったことばあそびの中で、子どもの目をかりて人間社会
を風刺した作品に特色がある。「大阪ことばは自分の思いを伝えたいとき、
共通語で言えないこともすらすら言える」と語る。
  著書に『大阪ことばあそびうた』『続大阪ことばあそびうた』『海のポ
スト』『帯に恨みは』など。



         
子ども版・恋のかけひき


  大阪方言で書かれています。在大阪でない地域の子ども達には、共通語
にかみくだいて説明してやる必要があるでしょう。大阪方言のよさ、微妙な
ニュアンスをそっくりそのままに共通語に変換することはできませんが、ど
んな意味内容であるかを知らせる必要があります。

  以下、わたしによる身勝手な変換・参考例(かなりの意訳)



        わたし しっているんだよ

   あの子 わるさばっかりして どうしようもない子なんだよ
   かくれてて おどろかすし
   そうじは さぼるし
   わるいことばっかり するんだよ
   だけど
   よわい子には とってもやさしいんだよ
   わたし そのこと 知ってるんよ

   あの子 わるさばっかりして どうしようもない子なんだよ
   わたしのくつを かくしたり
   ノートを のぞきこんだり
   わるいことばっかり するんだよ
   だけど
   ほかの子には  そんなこと しないんだよ
   わたしにだけ するんだよ

   そうよ
   わたしばかりを からかってるの
   それは  わたしと遊びたいのよ 仲よくしたいからなのよ
   わたし そのこと ようく 知ってるんよ



  この詩は、一読をすれば、大体の意味内容は理解できます。理解できな
い大阪方言の言葉があっても、前後のつながりから大体の意味内容を推察す
ることはできます。
  学級児童全員でわたしのように大阪方言を共通語に言い換えさせる学習
活動を組織してみましょう。学級全員で上記のような言い換え詩を作成する
と、この詩の内容把握深めにもなりますし、方言と共通語の学習を兼ねる勉
強にもなります。

  この詩の言い換えで難しい語句は「かなわんねん」でしょう。この語句
は冒頭部分にありますが、これについての話し合いはあとまわしにして、は
じめに「わるさばっかし」の「わるさ」とはどんなことか、具体化して語り
合いましょう。この詩に書かれてない「わるさ」もいろいろと想像して話し
合いましょう。この話し合いのあとで「かなわんねん」について語り合うと
「かわわんねん」という意味内容がはっきりしてきます。
≪注≫
「かなわぬ」の辞書的意味。原義・適わぬ。
「負担が大きくて絶えられない。困ってしまう。もて余してしまう。我慢が
できない。やりきれない。思うようにならない」

  この詩の解釈で重要な詩句たちは、第一連の「そやけど」のあと、第二
連の「そやけど」のあと、第三連の「そやねん」のあと、これらのあとに書
いてある、女の子の本音の語り部分でしょう。これらは具体的にどんなこと
を意味しているか、全員で各連ごとに話し合ってみましょう。
  女の子は、この悪さする男の子に対して、こう思っています。「わたし
を好きなんだ、好いてるのよ。わたしの前で悪ふざけをするのは、わたしの
気を引くために、わたしと遊びたいために、好意を示してほしいために、か
わいらしい悪戦苦闘で、こざかしいなぞかけをして、わたしに、ちょっかい
を出しているのよ。からかいっこをしているのよ。わたしにかまってほしい
のよ、好意を示してほしいのよ、だから、悪さをしているのよ。」と。この
ことを、女の子は知っています。



        
裏返しの、ねじれた愛情表現


  この男の子と女の子とは、腕白坊主とお転婆娘なのでしょうか。それと
も二人とも内気で、心弱い子ども同士なのでしょうか。どうも、詩内容から
考えるに前者みたいに思われますね。女の子はお転婆娘にみえます。しか
し、悪さする男の子に対して正面きって物言えない内気さ、気弱さもあるよ
うですね。
  だけど、男と女の関係というものはどのように進行していくかはわかり
ません。現在は、男の子は女の子に対して正面から攻撃的に対峙しており、
女の子は男の子に対してはなで肩で背中を向けてつんと知らんぷりしていま
すが、どうしてどうして、いつかはこの立場がひょいっと逆転することもあ
るのですから。

  さて、この可憐な女の子、悪さする男の子に対してどう対応しようとし
ているのでしょうか。
  今のところ、女の子は当惑している・思い煩っているというよりも、持
て余しているいるみたいな感じですね。わたしを好いてくれている男の子が
いるの、まんざらでもなく自慢しているみたいにも思われます。そのこと
を、誰かに自慢して知らせたくてしようがないのかもしれません。
  はなから嫌がっている・拒否している口ぶりではありませんね。「うち
知ってんねん」を各連ごとに三回も繰り返しているんですから。こうした表
象が鮮やかに可視的に喚起されてきます。もしかしたら、この可憐な女の子
は、幼い胸をときめかして、誰かのアドヴァイスを求めているのかもしれま
せん。


        
ひとり微笑まずにおられない詩


  読み手は、女の子と男の子、二人の無垢な純朴さの恋心に魂を揺すら
れ、ひとり微笑まずにはおられません。成人たちは、この詩を読んで、自分
が男の子だった頃、女の子だった頃のことを想い出し、かつての出来事を二
人の姿形に投影し、重ね合わせて、一時の至福の邂逅と含羞のノスタルジー
にひたるのではないでしょうか。わたしにも、こんなことがあったなあ、
と。
  ああ、いいなあ。わたしも今、こんな恋のゲームをやってみたいなあ。
恋のかけひきを楽しんでみたいなあ。ドキドキ、ワクワク、千千に呼吸が乱
れ、心をときめかす恋をしてみたいなあ。はちきれそうな嬉しさいっぱい
の、胸がときめき、ふるえる恋をしてみたいなあ。
  でも、わたしは、余りにも年をとりすぎてしまった。愛することの懊悩
と苦しさと切なさと哀れさと痛々しさと惨めさの先きが、わたしにははっき
りと見える。こんな躊躇と慎みと余白の増殖はどこからくるのか。やはり年
齢のなせるわざなのか。こんな自己満足の快楽をひとり恍惚となっている今
のわたし。ああ……可哀想なわたし。これ、決して筆のすべりではなく、文
学は我にひきよせて読むべきことの証拠なのですから。
  みなさまから、「何をたわけたことを言ってるか。不謹慎もはなはだし
い。ふざけるな。」と怒られそうです。男の子の「ちょっかい」や「わる
さ」は、それは「イジメだ。イジメだ」、それは「ストーカーだ、ストー
カーだ」、とおっしゃる方もおられるでのではないでしょうか。
  でも、それは違います。男の子の行動は、好き表現行為の、ねじれた、
裏返しの情愛表現です。邪気のない可愛らしさ、いじらしさが感じられるの
は、わたしだけでしょうか。残忍かつ非道かつ陰湿なイジメやストーカーと
は全く違います。

  ところで、この詩の授業の最後に、
・この女の子は、男の子にどう対応したと思う?
・この女の子に、言ってやりたいことは何?
・この男の子に、言ってやりたいことは何?
・やがて、二人は、どうなったと思う?
 と学級児童達に問いかけてみよう。二人の愛のかたちをどう構築していけ
ばよいか。二人に安らかなくつろぎとおちついた気分に包まれるには、どう
すればよいか。
  子ども達からどんな答えが返ってくるでしょうか。子どもらしい、可愛
らしい答えが返ってくるのではないでしょうか。正答はもちろんありませ
ん。正答は、狭い小路の一条の煙となってたなびいていく霞のように只ぼん
やりとしているだけです。
  この男の子と女の子とは、これからこうした男女の関係を累積していく
中でしだいに「愛する」とは心をばら色にすることもあれば、地獄のどん底
に一瞬にして落ちていくことでもあるということに気づいていくことでしょ
う。たとえ二人は愛に傷つくことがあったとしても、その傷跡から得るもの
が豊饒にあることでしょう。
  いやいや、わたしは二人の行く末をちっとも心配していません。一般に
言って、男は単純でストレートな行動をとりますが、女性は突然に豹変した
行動をとる動物たちですから。純朴な乙女になったり、お転婆娘になった
り、コケティッシュなぶりっこ娘になったり、ときには幼女に、ときには
妖女になったりすることができますから。女というものは、カマトトぶりを
本能的に発揮できるエロス性をもっておりますから。


           
音声表現のしかた


  この詩の音声表現では、在大阪でない子供達には大阪方言のもつ微妙な
音声のニュアンスまでは表現できません。それはそれで仕方がないことで
す。大阪方言らしい雰囲気をもたせて・そう努力しつつ音声表現するようで
あればよいと思います。
  この詩全体は、女の子のひとりごとと考えて音声表現することもできま
すが、親しい友だちに語って聞かせている語り音調で音声表現することもで
きます。後者の場面設定にして、誰かにそっと語って聞かせているつもりで
音声表現したほうが、相手意識があったほうが、声での音声表現がやりやす
いのではないかと思います。

  第一連と第二連の一行から四行までは、男の子の悪さをあげつらって、
嫌だ嫌だの気持ちで語っていきます。
  「わたし、嫌なのよ」の気持ちをいっぱいにしてこれら四行を音声表現
します。「かなわんねん」「おどかしやるし」「なまけやるし」「わるさば
っかし」「しやるねん」(第一連)を、強めの声立てで強調して読むとよい
でしょう。
  第二連の「かなわねん」「かくしやるし」「のぞきやるし」「わるさば
っかし」「しやんねん」も同じく強めの声立てで強調して音声表現するとよ
いでしょう。

  第一・ニ連にある二つの「そやげど」の前で間をたっぷりと(三つ分ぐ
らい)あけます。そして「そやけど」のあとの三行を、小さなな声で、やわ
らかい声立てで、ささやいて、どこか恥ずかしさをともなった音声表現にし
ます。「ほんとはいい子なんだよ。やさしい子なんだよ」という愛情をこめ
た気持ちで音声表現します。
  つまり、第一連と第二連との、一行目から四行目までと、五行目から七
行目までとは、読みの音調をがらりと変えて音声表現します。

  第三連も、前述した「そやけど」のあとと同じ音調(雰囲気)にして音
声表現します。
  小さな声で、やわらかい声立てで、ささやいて、どこかに恥ずかしさを
ともなって音声表現します。「うちのこと」「かまいたいねん」を、やや強
めて、目立たせて音声表現するのもよいでしょう。


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