読授業を創る  そのA面とB面と    07・8・25記




「三つのお願い」の音読授業をデザインする




●「三つのお願い」の掲載教科書………………………………………光村4上



           
作家について


  ルシール=クリフトン(Clifton Lucile)。(1936〜  )アフリカ系
アメリカ人の詩人。絵本作家・詩人。大学の教壇に立ちながら執筆活動をつ
つける。黒人の子どもを主人公にして子ども達の友情をあつかった作品に特
徴がある。黒人の子どものエヴァレット・アンダースンを主人公にした一連
の韻文(詩)の絵本が有名である。第一作が「エヴァレット・アンダーソン
の日々」(Some of the Day of Everett Anerson 1970)で、「エヴァ
レットシリーズ」は父親のいない黒人の子どもが友だちをつくっていく努力
を描く韻文による絵本である。絵はエヴァリン・ネス。彼女は子どものため
の物語詩も書いている。
  同じ黒人を主人公の「アミーフィカ」(Amifika 1977)は散文による絵
本である。高学年向けの「幸運の石](The Lucky Stone  1979) は、ひ
とつの石にまつわる話を黒人の歩みの歴史に則してつづったものである。


            
教材分析

題名よみ
  題名は、「三つのお願い」です。子ども達はこの題名から、この物語は
どんな内容だと想像するでしょうか。予想を話し合わせてみましょう。
  「お願い」という語句から、子ども達は自分の事柄に引きつけて予想を
立てるのではないでしょうか。子ども達は、過去に、現在に、どんなお願い
を誰にしたことがあるのでしょうか。いま、いちばんお願いしたいことを三
つあげるとしたら、どんな事柄なのしょうか。

昔からの言い伝え
  この物語の筋を引っぱっているのは「一月一日に、自分が生まれた年に
できた一セント玉を拾うと、三つのお願いがかなう。」という言い伝えで
す。日本には、このような言い伝えがある話は聞いたことがありません。ど
この国の話でしょうか。教科書下段の注記に「セントの貨幣単位は、アメリ
カやカナダで使う、いちばん小さいお金。百セントで一ドル」のように書い
てあります。ということは、この言い伝えはアメリカかカナダの話だという
ことが分かります。


「三つのお願い」とは
  わたし(レナ。ノービィ。ゼノビア)は、一月一日、友人のビクターと
散歩をしている時に、自分の生まれ年と同じ年にできた一セント玉を拾う。
このリード文に引きずられて、この物語の「三つのお願い」という言い伝
えにまつわるストーリーが展開していくことになります。

 (1)一番目のお願い事
   「寒さ、なんとかならないかな。」
 (1)願い事の結果は
  「ほんのじょうだんだったのに、ひょいとお日様が顔を出した。」

 (2)二番目のお願い事
   「あんたみたいな人、ここにいてほしくないよ。」
 (2)の願い事の結果は
  「ビクターは、コートをつかんで、表へかけ出した。」

 (3)三番目のお願い事
   「いい友だちがいなくなって、さびしいよ。もどってきてくれない
       かな。」
  (3)の願い事の結果は
   「ビクターがにこにこしながら、すごいいきおいで(レナのところ
    へ)走ってきた。」

二人は仲よし
  わたし(レナ)とビクターは仲よしの二人であることは、物語内容から
読みとれる。どんなところから二人は仲よしと分かるかを話し合ってみまし
ょう。また、挿し絵から、わたしは女の子、ビクターは男の子だと分かりま
す。
  二人は何歳ぐらいでしょうか。二人の話しぶりや話している内容から1
0歳前後、教科書の読者である小学校4年生ぐらいだと想定される。
  読者である4年生の子ども達は、わたし(レナ)やビクターと同年齢か
それに近い年齢であるので、二人の話し合っている事件が自分達の心理感情
にぴったりで、自分達の身近な出来事として読みとっていくのではないで
しょうか。

仲たがいからより深まった二人の友情
  わたし(レナ)の気まぐれのわがままな考えから、わたしはビクターと
仲たがいをしてしまう。いや、レナの気まぐれのわがままではなく、レナは
心底から1セント玉の言い伝えを信じていなかったのかもしれない。このへ
ん、解釈者によって考えが違ってくるだろう。
  しかし、レナはこう語っている「わたしは大きくなって、ハリウッドに
行って、映画に出て歌をうたうつもり、そのときはビクターにもついてきて
もらうつもり、親友だからね。」と。また、ビクターと仲たがいした後、母
親がレナに「おまえ、あの子に意地悪をしたんじゃないでしょうね。おまえ
はときどき意地悪になることがあるから。」と語っている。これらから考え
るに、レナはほんの思いつきの、気まぐれの、瞬間的な意地悪な言葉かけ
が、自分でも思ってもみなかった言葉かけが、ちょいと出てしまったので
はないかと思われる。
  こうして、レナは、ビクターに「あんたみたいな人、ここにいてほし
くない。帰ってよ。」ときつく言ってしまう。この言葉かけは短兵急で、
激情的で、相手を思いやる言葉かけに欠けている。母親の意見「意地悪」と
通底しているところがある。
  仲たがいをした後、母親からの進言などもあり、わたし(レナ)はビク
ターという友人を失った心の空虚さを覚え、深く反省することになる。
  こうしてレナは、家の玄関先でビクターが来るのを待ちながら、ビクタ
ーと仲よしだった頃のこと、楽しかった思い出をあれこれと回想することに
なる。
  レナは、家の玄関の前の階段にすわって、1セント玉をにぎり、三つ
めの願いごと「いい友だちがいかくなって、さびしいよ。もどってきてくれ
ないかな。」と言う。
  すると、ビクターがすごいいきおいで走ってくるのが見える。
  読者は、この物語を読んで、友だちがいることのすばらしさ、友達がい
ないことの淋しさ、友だちがどんなに大切かを知ることになるはずだ。


           
音声表現のしかた


  この物語は、一人称人物(わたし。レナ)が読者に向かって語りかけて
いる書かれ方になっています。私の目に見えたことが、わたしの気持ちを通
して書かれています。一人称人物「わたし」の目に見えたことを、わたしの
考え(気持ち)をとおしてすべての客観的な対象物が描写されています。
  この物語のすべての描写は、わたしの気持ちを通して書かれていますの
で、音声表現のしかたは、わたしの気持ちになって、わたしになりきって、
語り手である「わたし。レナ」に同化して読みすすめていくとよいでしょ
う。


地の文の種類に即して音声表現する


  この物語の地の文には、大きく三種類の語り手「わたし」の語り方の文
体があるように思います。
  三種類とは、次の三つです。
(1)語り手「わたし」がにょっきりと作品世界に顔を出して、読者に向
   かって、語り手「わたし」が語りかけている書かれ方の地の文。
(2)語り手「わたし」の心内語(ひとり言。純粋内言)に限りなく近づい
   た書かれ方の地の文。
(3)語り手「わたし」の主観性が少しばかり客観性を帯びて、「わたし」
   やビクターや母親の行動の様子が外側から描写しているような書かれ
   方の地の文。

  以下、この物語の地の文の書かれ方の三つの種類について書き、これら
三種類の音声表現のしかたの違いについて詳述していくことにします。


 (1)語り手「わたし」がにょっきりと作品世界に顔を出して、
    読者に向かって、語り手「わたし」が語りかけている書か
    れ方の地の文。


  この例文は、冒頭部分の地の文です。ここは「わたし」が読者(聞き
手。聴衆)に語って聞かせている地の文の文体になっています。下記の文章
がそうです。

【例文1】
 こんなことがあるとお願いがかなうって、よく言うよね。わたしが知って
るのに、こんなのがあるんだ。1月1日に、自分が生まれた年にできた1セ
ント玉を拾うと、三つのお願いがかなうっていうの。まさかと思うかもしれ
ないけれど、これは、わたしに起こったほんとの話なんだ。

【例文2】
 わたしの名前はゼノビア。みんなには、ノービィとよばれている。でも、
ビクターだけは別。わたしのことをレナってよぶ。レナ=ホーンという女優
の名前をとって、レナ。なぜかっていうと、わたしは大きくなったらハリ
ウッドへ行って、映画に出て歌を歌うつもりだから。そのときには、ビクタ
ーにもついてきてもらおうと思ってる。親友だからね。

【例文1・2の音声表現のしかた】
  語り手「わたし」が、読者(聞き手。聴衆)の存在を予定して、彼らに
向かって「こんな話があるんだよ。みんなは信じないかもしれない。しか
し、これはほんとにあった話なんだよ。」と語って聞かせている語り口・話
しぶり・話調で音声表現するとうまくいきます。二人組みを作って、語り相
手の人物を目の前において、目の前の友だちに話内容を分かりやすく伝える
ことに気をつかって、「こういう話って、聞いたことあるでしょ。こういう
言い伝え、まさかと思うでしょ。でも、実際にあった、ほんとの話なんだ
よ。」というような語り手の心づもり、話しぶり・語勢・音調・区切りや上
がり下がりをつけて語っていくようにします。
  例文2は、例文1ほど聞き手を意識して語っている口調にすることはな
いが、「ビクターだけは、わたしの名前をノービィでなくて、レナとよぶ。
そのわけはこうだ」についてレナが聞き手(読者。聴衆)を相手にして語っ
て聞かせている話しぶり・音調・話調にして、分かりやすく伝えていること
に気をつかって音声表現していくとよいでしょう。


  (2)語り手「わたし」の心内語(ひとり言。純粋内言)に限
     りなく近づいた書かれ方の地の文。


  この例文は、語り手「わたし」のひとり言に限りなく近づいた書かれ方
になっている地の文です。この物語は全体が「わたし」の目を通して、「わ
たし」の考え・気持ちで書かれているわけです。つまり、「わたし」の主観
で描写されているわけです。「わたし」の主観性にも強い弱いがあるわけで
すが、(2)の種類の地の文は「わたし」の主観性が強すぎて、「わたし」
のあたまの中だけの思考(考え言葉だけの、言葉操作)みたいな書かれ方に
なっている地の文の書かれ方の地の文です。
  下記の例文がそうです。

【例文3】
 へえ、意外。ママがそんなことを言うなんて。大人って、ふつうはお金と
か、いい車とか、そういうものをほしがるもんだとばかり思ってた。ママ
は、びっくりするようなことをよく言う。

【例文4】
 えい画に行くときも、歌の練習をするときも、ボール遊びをするときも、
いつもいっしょだった。二人で、あちこちがきらきら光っている、ダイヤモ
ンドみたいな大きな石を見つけたこともある。二人でいっしょに、学校全体
の絵をかいたこともある。ビクターはすっごくいい友だちだ。わたしのひみ
つを、ほかの人に話したりしないし。あんな友だちは、なかなかいない。

【例文3・4の音声表現のしかた】 
  例文3や例文4は、わたし(レナ)のあたまのなかに浮かんだ思考の言
葉、考え言葉です。目の前の対象物を客観的に外側から描写した地の文では
ありません。
  例文3・4は、心内語ですから、ぼそぼそと、あたまのなかでひとり言
をしているように音声表現します。小さい声で、低い声で、つぶやいている
ように、考えている感じの言葉音調にして、あたまのなかだけで考えている
言葉にして音声表現していきます。


 (3)語り手「わたし」の主観性が少しばかり客観性を帯びて、
    「わたし」やビクターや母親の行動の様子や順序が外側
    から描写しているような書かれ方の地の文。


  この例文は、わたしやビクターや母親の行動を少しばかり客観性が帯び
て描写している地の文です。わたしの目を通して、気持ちを通して描写して
はいますが、人物行動や行動順序をありのままに即物的に客観的に描写して
いますので、音声表現では人物の行動やその様子や順序がありのままにポン
と音声で描くように、そのままに出るように客観に近づけて淡々と読んでい
くとよいでしょう。
 下記のような例文がそうです。

【例文5】
 最初のお願いは、1セント玉を拾ったときに、すぐに使っちゃった。
 友だちのビクターといっしょに散歩していたときのこと。二人とも、クリ
スマスにもらった新しいブーツをはいて、新しいぼうしをかぶって、マフ
ラーをまいていた。わたしは、雪の中にぴかぴか光っている物を見つけた。
 
【例文6】
 キッチンの中は、ほかほかあたたかかった。わたしたちはテーブルに着く
と、誰にも聞かれないように、こっそり話し合った。

【例文7】
 ママは、塩のびんをこしょうのびんの横にきちんとならべてから、まじめ
な顔になった。なんだか古くさいことを言い出しそうな感じだ。

【例文8】
 わたしは、いすから立ち上がってコートを着ると、表に出て、家の前の階
段にすわった。そして、ビクターのことを考え、二人で遊んだときのことを
考えた。

【例文5〜8の音声表現のしかた】
  語り手「わたし」が場面(人物行動や事件の進行)の解説をして語って
います。「わたし」が事件の流れ、人物の行動の時間的経過などについて
語っている・説明している地の文です。
  「わたし」の目や気持ちから描写されてはいますが、わりと客観的な書
かれ方になっている地の文の文章部分です。このような文章の音声表現は
「こうなった。そして、こうなった。それから、こうなった。」というよう
にアナウンサーがニュースを読むときのように意味内容の区切りをハッキリ
させて客観に近づけて淡々と解説しているように伝達しているように音声表
現していくとよいでしょう。


会話文の種類に即して音声表現する


  つぎに、「三つのお願い」の会話文の音声表現のしかたについて書きま
す。
  まず、会話文を音声表現するときは、この会話文は、誰が話した会話文
か、誰に向かって話しているか、どんな意図・気持ちで話しているか、この
三つを話し合い、明確にすることがとっても重要です。これを最初に話し合
って、明確にしておきましょう。これは会話文を音読するときの基礎基本の
原則です。
  これをはっきり把握させたら、次の三つの種類を読み分ける音読学習に
入ります。
 つまり、音読しようとする会話文場面が、
  (1)対話として連続して会話文が記述してあるか。
  (2)会話文が地の文の中にはめ込まれて双方が半々ぐらいの分量の
      記述かどうか。
  (3)長い地の文の中に会話文が一個、二個だけしかない会話文か。

  これらによって、つまり地の文の中にある会話文の分量によって音声表
現のしかたが違ってきます。
  この物語「三つのお願い」の会話文には、三種類の書かれ方の違い、つ
まり前記した(1)、(2)、(3)があるようです。これらの種類に応じ
て音声表現のしかたが違ってきます。
  以下、この物語の会話文の書かれ方の三つの種類について書き、それら
の音声表現のしかたについても詳述していくことにします。


  (1)対話場面として連続した会話文が記述してあり、地の
     文が皆無か、ごく少ない。


 下記のような例文がそうです。二人が対話している会話文だけが記述され
ていて、語り手の主観的な解説文(地の文)が挿入されていないか、ごく少
ない、つまり、対話場面の客観性を保っている書かれ方の連続した会話文の
場面です。

【例文9】
「レナ、あと二つお願いが残ってぞ。」
「本気で、この1セント玉に何かあると思っているの。」
「あったりまえだろ。君が、寒いのがなんとかならないかなあって言った
 ら、とたんにお日様が飛んできたじゃないか。」
「本気でそう思っているの。」
「君は、なんにも信じないわけ。」
「わたしはね、あんたみたいに、なんでもかんでも、ころっと信じたりしな
 いだけよ。」
「変だぜ、そんなの。」
「変って、だれが変なのよ。」
「自分のことにきまってるだろ。変なゼノビア。」
 わたしはいすから飛び上がった。
「あんたみたいな人、ここにいてほしくない。帰ってよ。」

【例文10】
 ママがキッチンに入ってきて、わたしの方を見た。
「ゼノビア、ビクターとなにかあったの。」
 ママがわたしを「ゼノビア」と、かしこまってよぶのは、おこっていると
 きだ。
「別に。いっしょに遊んだだけよ、ママ。」
「それじゃあ、なんで、あんなふうに飛び出していったの。」
「知らない。ビクターって、ああいうやつなのよ。」
「おまえ、あの子に意地悪したんじゃないでしょうね。おまえはときどき、
 意地悪になることがあるから。」
「意地悪なんてしてないもん。それより、ねえママ、どんな望みでもかなえ
 てあげるって言われたら、ママはなにをお願いする。」

【例文9・10の音声表現のしかた】
  この会話文は、会話文が幾つか連続している書かれ方になっている対話
場面です。会話文の連続の列挙だけで、それら会話文のあいだに地の文によ
る語り手の解説文が挟み込まれていない(皆無かごく少ない)、つまり、客
観的に描写されている会話文連続だけ、つまり、対話場面の文章部分です。
  例文9・10の会話文の連続(対話文)の音声表現は、二人の人物が
語っているであろう・話し合っているであろう音調・話しぶりにして読むよ
うにします。
  例文9は、10歳ぐらいの子供同士が話し合っているであろう場面を
作って、リアルな話し言葉の音調にして、子ども同士の言い合い・けんかの
やりとり話調を出して音声表現します。
  例文10は、ママと、その子どもが語り合っている場面を作って、二人
のやり取りの語り合いの話調にして、母親の話し調子、子どもの話し調子の
リアルな音調にして音声表現します。
  これらは、学習活動としては役割音読(二人の配役を決めて対話させ
る練習)がよいでしょう。上手な二人組みの音声表現が発表されたら、学級
全員でそれをまねさせてみましょう。上手な児童の読み声を模倣するという
ことも大切です。いつまでもどんぐりのせいくらべ段階ではいけません。ま
ねすることで音声表現が飛躍的に上達するようになります。そのあとで二人
分を自分ひとりで読む練習もします。


  (2)会話文が地の文の中にはめ込まれて双方が半々ぐ
     らいの分量の割合になって記述してある会話文。


 下記のような例文がそうです。地の文と会話文とが半々あるみたいな書か
れ方の会話文です。語り手「わたし」の語り口の地の文の中にはめこまれ
た、説明としての役割をももっている、連続した対話でない、会話場面で
す。

【例文11】
 わたしは、雪の中にぴかぴか光っている物を見つけた。
「レナ。あれ、なんだろう。」
ビクターが聞いた。
「お金みたいよ。」
そう言って拾ってみると、わたしが生まれたのと同じ年にできた1セント玉
だった。
「レナ、運がいいぞ。同い年の1セント玉を拾うなんてさ。ついてるじゃな
いか。何をお願いするんだ。」
「そうねえ。お願いっていえば、この寒さ、なんとかならないかなあ。」
ほんのじょうだんだったのに、お日様が顔を出した。
どんぴしゃり。お願いがかなった。

【例文12】
 家に着くと、ママがちょうどリビングにいた。
「さんぽはどうだった、ノービィ。」
ママが聞いた。
 わたしは「楽しかったよ。」、ビクターは「おじゃまします。」と声をか
けて、いっしょにおくのキッチンへ行った。

【例文11・12の音声表現のしかた】
  例文11は、語り手「わたし」が同い年の1セント玉を拾ったこと、そ
して一つめの「晴れてほしい」という願いがかなったことを語っています。
その「わたし」の語りの中に会話文が挿入されている形になっています。
 ですから、ここの会話文の音声表現は、事件(事柄)の流れを説明してい
るつもりで、その説明の一つとして会話文を置いているようなつもりで読ん
でいきます。ただし、二人が対話している話調で読んだほうがいいです。
  例文12の会話文の音声表現は、対話が連続しているつもりで、二人の
リアルな対話音調にして、やり取りの感じをつけて音声表現します。
  例文12の音声表現のしかたは、レナと母親が対話している音調にして
会話文を読んでもよいですが、地の文の語りの中に軽く会話音調を入れた読
み方のほうがよさそうです。


  (3)長い地の文の中に会話文が一個か、二個だけが記述
     してある場面



 下記のような例文がそうです。
 語り手「わたし」の心内語(ひとり言。純粋内言)の延長みたいな感じで
一個ないし二個だけのかぎかっこが付け加えられている会話文の場面です。

【例文13】
  えい画に行くときも、歌の練習をするときも、ボール遊びをするとき
も、いつもいっしょだった。二人で、あちこちがきらきら光っている、ダイ
ヤモンドみたいな大きな石を見つけたこともある。二人でいっしょに、学校
全体の絵をかいたこともある。ビクターはすっごくいい友だちだ。わたしの
ひみつを、ほかの人に話したりしないし。あんな友だちは、なかなかいな
い。
 「いいともだちがいなくなって、さびしいよ。もどってきてくれないか
 な。」

【例文13の音声表現のしかた】
  ここの最後部分にある一個の会話文は、直前の回想している独り語りの
音調
を引きずりながらも、ほんの少しだけレナの「ビクターが戻ってきてほし
い。」という気持ち・願いを入れた、ゆっくりしたつぶやきにして音声表現
にするとよいでしょう。心底からの心の声として音声表現します。
 


            
参考資料


 この物語の絵本は、あかね書房刊で発行されています。みなさんの学校図
書館になかったら、備えてくださったらどうでしょう。
  『三つのお願い』(あかね・新えほんシリーズ)1260円(税込)
   ルシール・クリフトン著、金原瑞人訳、はた こうしろう絵。

 この物語「三つのお願い」の訳者・金原瑞人さんがWEBサイトにアッ
プしている次のような文章がありました。この物語「三つのお願い」につい
て訳者・金原瑞人さんが以下のように書いています。
 
ーーーーーー引用開始ーーーーーーーーー

     1.『三つのお願い』
       三月末、『三つのお願い』という絵本がでた。これは去年から新し
くなった光村図書出版の国語の教科書(4年生用)の最初に出てくる短編。
ぼくの訳で載っている。作者のルシール・クリフトンは日本ではあまり知ら
れていないが、アメリカ児童文学界の中堅……より、ちょっと年が上かな。
とてもいい作品を書いている。
       じつはこの作品、テキストを注意深く読むとわかるのだが、登場人
物が黒人だとはどこにも書かれていない。しかし黒人なのだ。どこでそれが
わかるかというと、まず原文が黒人英語。白人のスタンダードな(スタン
ダードって、どこの州の英語だ、などときかれると困るが、とりあえず、ま
あ一般的な)英語とちょっとちがう。それからもうひとつ、原書の挿絵が黒
人。最後に、作者が黒人(とはいえ、これには例外もあって、たとえばイギ
リスの黒人作家ベンジャミン・ゼファニアの『フェイス』の主人公は白人の
少年)。
       というわけで、ここにもまたひとつ、誤訳の問題がからんでくる。
英語を読めば、ほぼ黒人の物語だろうとわかるのだが、日本語に訳してしま
うと、それがわからない。たまたまこれが絵本だったからよかったようなも
のの、そうでなかったら、どうすればいいんだろう……いかにも、黒人言葉
みたいな日本語なんてない。昔は、東北弁によく似た無国籍方言が使われて
いたが、今時、そんなことをする訳者はいないし。まあ、あとがきで、「じ
つは、この作品、ニューヨークの黒人の物語なのです」と一言ことわると
か、帯に書いておくとか、ほかに方法はないと思う。
       ほかにもこれによく似た経験がある。じつはずいぶん昔に訳して、
そのまま出版の運びにならず(作者とエイジェントとのあいだで誤解があっ
たらしい)、お蔵入りになってしまった作品があって、舞台は現代のロンド
ンなのだが、これがまた主人公もまわりの連中もほとんどが黒人というミス
テリ。下訳を野沢さんにお願いして、こちらが手を入れて、なかなかいい感
じに仕上がったのだが、土壇場になって、妙なことから出版中止。まあ、こ
ういうこともあるのが出版であり、翻訳なんだろう。出版社も良心的で、原
稿料としていくらか振り込んでくれたのだが、それはそのまま下訳料に消え
てしまった。というわけで、この原稿、まだハードディスクに放り込んだま
まで、たまにちらっと目にしたりすることもある。いやあ、懐かしいな……
という感じだ。ところで、この作品、ゲームソフトと殺人のからんだ、いか
にも黒人っぽいノリのクールな作品なのだが(「アメリカ人って、ほんと服
のセンス、ゼロ。ジャケットとパンツ、いろんなのがたくさんあるとどうし
ていいかわかんなくなる。だからアメリカ人はスーツとスポーツウェアしか
着ないんだ」)、この本日本語だけ読んでいると、頭のなかではいつのまに
か登場人物が白人になってしまう。不思議だなあと思う……けど、こういう
ものなのかもしれない。英語の世界では、テキストはしっかり黒人であると
主張しているにもかかわらず、日本語に移すと、それは消えてしまうから、
英語=白人という構図ができてしまうのだろう。
       しかし考えれてみれば、こういう傾向が出てきたのは、ある意味、
黒人が黒人としてではなく、普通の登場人物として作品に出るようになって
きたということでもあると思う。そしてまた、最近では、登場人物の人種が
あまり表に出てこなくなった。たとえば、いままでに訳した本でいえば
『ルーム・ルーム』。主人公の友だちの女の子が黒人だ、というのに気がつ
かず、金の星社の編集者、東沢さんにいわれて、はっとした覚えがある。よ
く読めば、なるほど髪がちりちりとか、言葉がちょっとそれっぽいとか、黒
人らしい特徴はあるのだが、ついつい読み飛ばしてしまっていた。そこで作
者に問い合わせたら、「あら、黒人よ。でもね、シカゴのあのあたりの小学
校は黒人と白人が半々くらいで、いちいち、どちらなんていわないから」と
いう返事だった。
       さて話はもどるが、教科書用に訳した『三つのお願い』、とてもい
いお話なので、あかね書房の加藤さんに話したら、ぜひ絵本にしましょうと
いうことになった。絵は、はた・こうしろうさん。光村の教科書の挿絵も、
はたさん。しかし教科書と絵本と、まったく絵がちがっていて、びっくりし
てしまった。どちらも、とてもかわいくて、子どもの表情もすごくいい! 
絵が違うだけでなく、日本語もちょっと違う。教科書版のほうは、長さの制
限もあり、またほかの理由もあって、作品の最初と最後が削ってある。絵本
のほうは、そのまま訳してあるので、興味のある人はくらべてみてほしい。
物語の中身だけと、物語に額縁がついたものとの違い……とでもいえばいい
かな。

ーーーーーー引用終了ーーーーーーーーー


            トップページへ戻る