音読授業を創る そのA面とB面と 06・10・10記 「ゆうひのてがみ」の音読授業をデザインする ●「ゆうひのてがみ」(のろさかん)の掲載教科書………………教出3下 ゆうひのてがみ 野呂昶 ゆうびんやさんが ゆうひを せおって さかみちを のぼってくる まるで きりがみのように ゆうひを すこしずつ ちぎって 「ゆうびん」 ポストに ほうりこんでいく ゆうびんやさんが かえったあと いえいえのまどに ぽっと ひがともる 作者について 野呂昶(のろ・さかん) 1936年、岐阜県大垣市生まれ。関西大学 法学部卒。大阪市立教護院、阿武山学園教護。 日本児童文学者協会、日本文芸家協会会員。「子どもと詩」文学会、 「すふいんくす」「亜空間」「ラルゴ」同人。 著書として『あおいさぎ』『赤ちゃんの絵本』『いろがみの詩』『てぶ くろのさんぽ』『ふたりしずか』『みずのことば』などがある。 わたしの解釈 この詩はいろいろな解釈ができる詩です。子ども達はいろいろな読み取 りをすることでしょう。いろいろな読み取り方があっていいのです。 ここでは、わたし(荒木)の解釈を書きます。わたしが解釈した読み取 りと、それによる音声表現のしかたについて書きます。 題名よみ 題名は「ゆうひのてがみ」です。題名だけから考えると、いろいろな読 みとりができます。「その手紙は夕日だ」(夕日=手紙=郵便)と読みとる 子がいるかもしれません。そのほか、「夕日が所有している手紙}「夕日か ら来た手紙」「夕日が書いた手紙」「夕日へ届いた手紙」「夕日が運んでき た手紙」など、いろいろ考えられます。 わたしは「夕日に照らされ、夕日の中を運ばれ、夕日をあびて、郵便屋 さんによって家々に配達された手紙」という読み取りをしましました。 第一連 「ゆうひをせおって」は、夕日を背中に「負って、しょって、のせて、 おんぶして」という意味でしょう。ほんとは、そんなことはできません。夕 日を背中におんぶすることなどできないことです。 現実(事実)を言えば、夕日を「背中にして、バックにして、背景にし て、背中に置いて」という意味でしょう。普通文に書き直せば、「郵便屋さ んが【まるで】夕日を背負っている【ように】【かのように】して坂道を 上ってくる。」という文になると思います。「まるで………ように」という 直喩が、それら語句が省略されたメタファー(暗喩)のレトリックになって いるのです。 この詩の作者(語り手、話者)は、現在、坂道の頂上か上部にいて、坂 道の下方にいる郵便屋さんが上ってくる姿を見ています。視点人物は作者 (語り手、話者)であり、視点人物は坂道の頂上か上部にいて、そこの位置 から、対象人物である、坂道の下方にいて、坂道を上ってくる郵便屋さんを 見ているのです。背景には、真っ赤な夕焼けと夕日が照り映えて、郵便屋さ んの背中に当たっているのです。 郵便屋さんの背中には赤い夕日がいっぱいに照り映えています。郵便屋 さんの背中には、赤い夕日の光がいっぱいに照り輝いています。背中に受け ています。 作者(語り手、話者)は、郵便屋さんがまぶしいくらいの夕焼けの光の 中で坂道を登ってくるのを見ています。なんと素敵な光景でしょう。郵便屋 さんが夕焼け空を背中にして坂道をのぼってくる美しい光景、こうした印象 的な風景に読み手は感動します。誰もが、「わあ、素敵!!」と感嘆の声を あげる美しい光景です。 この詩では、夕焼けと夕日を背景にして上ってくる郵便屋さんの美しい 光景が表象できなくては、これが読みとれなくては、この素敵な、素晴らし い風景がイメージいっぱいに頭に浮かんでこなくては、この詩を読んだこと にはなりません。この詩をほんとに鑑賞したことにはならないでしょう。こ の詩の鑑賞で、ここがいちばんに肝心なことだとわたしは思うのですが、み なさんの解釈(見解)はどうでしょう。 「きりがみのように ゆうひを すこしずつ ちぎって」と書いてあり ます。「切り紙」とは、色紙を手で細かく少しずつ切り取って・むしりとっ て、だんだんと色紙の残りを形(絵)にしていく絵づくり作業のことです。 郵便屋さんが坂道を上へ上へとのぼるにつれて、夕日は少しずつ下方へ 下方へと位置をずらし、郵便屋さんは夕日を下方へと置いてきぼりにしてし まいます。それがまるで切り紙のように夕日がちぎられて、むしりとられ て、少しずつ小さくなる(下方に置いてきぼりになる)ように見えるという ことだと表象します。 第二連 郵便屋さんは家々のポストに「ゆうびん」とか「ゆうびんです」とか 言って、郵便物をほうりこんでいるのでしょうか。いや、郵便屋さんは 実際に言葉に出して言っているわけではないでしょう。言葉にしていなくて も、心の中ではそう語りながら手紙をポストに入れていることでしょう。 郵便屋さんの運ぶ「ゆうびん」とは勿論、手紙や葉書のことです。郵便 屋さんが運び入れるのは、勿論、「夕日」ではありません。題名が「ゆうひ のてがみ」だから「この手紙は夕日だ」「ポストへほうりこんでいるのは夕 日だ」という解釈をする人がいるようですが、わたしはとりません。そうい う解釈もあるだろうことは認めます。 第三連 郵便屋さんがポストに郵便を入れ終わり、家路へと帰っていきました。 ときをまたずに、家々の窓には、ぽっぽっと明かり(電灯)が灯りだしま した。 夕飯の食卓をかこんで、家々では送られてきた郵便(便り)の話題で、 楽しい家族の語らいで話がはずんでいることでしょう。それぞれの家庭の楽 しそうな家族の団欒の姿がありありと浮かんできます。 「ぽっと ひがともる」とは、単なる電灯・明かりのことではなく、そ れぞれの家族の温かな語り合いのひと時、団欒のひと時、家族の幸せかつ至 福の時間のひと時をも「ひがともる」と表現しているのでしょう。 「ひがともる」の「ひ」は、「火、日、灯」の三通りが考えられます が、この詩では「灯」が最も妥当だとわたしは考えます。 「日(太陽)がともる」は、この詩の意味内容からして辞書的意味では 問題外です。が、メタファーとしては十分にありうることです。 「火がともる。」も、意味内容からして、合致しません。「火がとも る」という使い方は、ふつうは「火をつける」「火に当たる」「火をおこ す」「火を出す」という慣用句的な使い方が一般的です。これとてメタ ファーとしては十分に考えられます。 詩的な言語表現は日常の辞書的意味をはみだしているのだから、「火」も よし、「日」もよし、メタファーとしてはどちらもぴたりと妥当する言語使 用の表現だと主張する解釈者も当然におられることでしょう。それはそれで 結構な考え方であり、わたしは否定しません。 この詩での「ひがともる」は、「灯が灯る。灯が点る」という慣用的な 表現・使用だとわたしは考えます。「ひがともる」は、「遠く(近く)の 街・町・集落・にひがともる」とか「家々にひがともる」とかの言い方のと きの、「明かり、電灯」という意味内容の使い方だと解釈します。 「ひがともる」という使い方において「火」と「灯」との境界領域 の・ファジーな慣用句的な表現もあります。「ろうそくに ひがともる」と いう使い方です。この場合は、「ろうそくの灯・明かりがともる」とも考え られるし、「ろうそくの火、炎がともる」とも考えられます。ろうそくの場 合は、「ひがともる」には「灯、火」の二つの使い方がありそうです。 音声表現のしかた この詩を音声表現するとき、間のあけ方が重要です。各人がイメージし た、この詩内容の思いをたっぷりと思い浮かべつつ、間のあけかたを工夫し て音声表現したいです。 この詩を、わたしの解釈で、分りやすい、普通文に書き直してみましょ う。 郵便屋さんが まるで夕日を背負っているかのように 坂道を上ってくる まるで切り紙のように 夕日を少しずつちぎっているかのように 郵便屋さんが 「ゆうびん」と ポストにほうりこんでいく 郵便屋さんが帰ったあと 家々の窓に ぽっと明かりがともる 意味内容の区切り方を調べてみましょう。 「郵便屋さんが夕日を背負って坂道を上ってくる」までがひとつながり です。このひとつながりを意識しつつ、一気にずらずら読むのではなく、行 ごとの切れ目で軽い間をあけつつ読みすすめていきます。たっぷりとした思 いをこめて、ゆっくりとしたペースで音声表現していってよいでしょう。 ひとつながりの最後では、少し長い間をあけます。 「ゆうひを」「せおって」「さかみちを」の三つの語句は、やや強め に、ゆっくりと、粒立て際立てて読むとよいでしょう。 「まるで切り紙のように夕日を少しずつちぎって」は、第三行の「坂道 を上ってくる」に係っていくように、つながっていくように、あるいは、第 三行「坂道を上ってくる」に付属し、付け加わるような心づもりで、そうし た思いの意識で読みすすめていくとよいでしょう。 「ちぎって」の「て」個所を終止の音調にして、下げないことです。 「て」は次へと続いていく音調にして、中途半端な止め方の言い納め方にし ます。つまり、次にまだ文が続く呼吸やタイミングの音調にした終わり方に した音声表現にします。ようするに第三行の「坂道を上ってくる」に接続す る感じの読み方にすることが重要です。 「ゆうびん」の読み方は、無人のポストですが、家の中にいる人々に呼 びかけるつもりの音調にして、聞き手を意識した口調の音声表現にするとよ いでしょう。 「郵便屋さんがかえったあと」の読み方は、「かえった」をやや強めに 読んで目立たせます。「た」のあとで軽く間をあけ、次に続く「あと」は、 声を低く落として、静かな感じにして、ゆっくりと読みます。 「家々の窓に」の読み方は、「い・え・い・え・の・ま・ど・に・」の ように一つ一つを区切って、落ち着いた声で、ゆっくりと読んで、目立たせ ます。 「ぽっと灯がともる」の読み方は、明るい家庭、幸せな家族の団欒風景 であることを、聞き手に知らせる意識で、そうした思いを込めて、「ぽっ」 を目立たせて読み、全体を、明るく・さわやかに、満ち足りた気持ちの音声 表現にするとよいでしょう。 参考資料(1) 次の詩は、どうでしょう。 あの窓も、この窓も、灯りがともり、家族たちの幸せな団欒の風景が見 えます。演歌の歌詞です。 無言坂 作詞 里村龍一 作曲 玉置浩二 あの窓も この窓も 灯がともり 暖かな しあわせが 見える 一つずつ 積み上げた つもりでも いつだって すれ違う 二人 こんな つらい恋 口に出したら 嘘になる 帰りたい 帰れない ここは無言坂 帰りたい 帰れない ひとり日暮坂 あの町も この町も 雨模様 どこへ行く はぐれ犬 ひとり 慰めも 言い訳も いらないわ 答えなら すぐにでも 出せる こんな つらい恋 口を閉ざして 貝になる 許したい 許せない ここは無言坂 許したい 許せない 雨の迷い坂 帰りたい 帰れない ここは無言坂 許したい 許せない 雨の迷い坂 ここは無言坂 あの窓も、この窓も、灯りがともり、家族たちの幸せな団欒の風景が見 えます。 それなのに、世の中は非情です。薄情です。残酷です。不条理です。 坂道を歩く人は郵便屋さんではありません。だれなのでしょう。「雨に 濡れた はぐれ犬 ひとり」です。愛と恋に傷ついた、傷心と痛嘆にくれて いるひとりの女(男?)です。 絶望の淵に突き落とされています。失意と落胆と悲観のどん底に沈んで います。悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れきっています。出口なき 深淵へと沈降していくだけ、つねに問いかけと未完の反転を繰り返すのみで す。歩く坂道と行き先は、果てのない真っ暗闇です。荒木には、慰めの言葉 もありません。 真っ赤な夕日に映えた坂道ではありません。「日暮れ坂」とあるのが、 ほんの少しばかりの救いです。裏切られて、心が壊れてしまったひとりの女 か男の情念は、壮絶かつ残酷かつ怨念の塊りです。しかし、この詩には、一 筋の甘美さと愛おしさへの執着が感じとられます。それが少しばかりの救い です。 歌手・香西かおりさんが唄っています。口ずさんでみましょう。涙を流 しながら唄うとぴったりです。涙を流しながら唄うと、気分がのって、雰囲 気が出るでしょう。いや、涙も枯れてしまっているのかもしれません。涙な ど流す必要はありません。そんな状況に自分を追い込んで、その心情にどっ ぷりとつかって唄えばいいのです。 演歌「無言坂」は、香西かおりさんの代表曲といってよいでしょう。 第35回レコード大賞を受賞しています。NHK紅白歌合戦で通算5回も歌われ ています。 https://www.youtube.com/watch?v=TnnB_NundNk へのリンク 参考資料(2) 阿久悠(作詞家)さんは、歌謡曲の歌詞に使われている言葉で一番多い のは、恋、愛、月、星、雨、涙などではなかろうかと言い、「愛」について 次のように書いています。 ーーーーーー引用開始ーーーーーーー 数限りなく愛という言葉が歌われていても、愛というものはなかったよ うな気がするのです。過去に歌われた歌謡曲の中に存在した愛とは、仮の名 で、実は、日本的風土の中で日本的情念だけで細胞を形づくった男と女の縁 (えにし)と絆(きずな)だけであったようです。 それは、愛の進行中に決して意識されずに、破綻を前提とした時、初め て姿を現すという不可思議なものです。 ですから、愛は愛という形で登場するや、たちまち、未練とか憎悪とか 怨みとかいったものに姿を変えてしまっているのです。 極言すれば、日本の歌謡曲の愛の詞とは、ふった側の論理とふられた側 の論理しか存在していなかったのです。 これは、単に歌謡曲の問題だけではありません。文化の発生の仕方、宗 教の有無など大いに関係ありと思いますが、何故だか、西欧と日本との愛の 形の差は、西欧における悪魔の存在と、日本における怨霊の存在との差によ く似ている気がするのです。 『新・日本語講座9』(汐文社、1975】より引用 ーーーーー引用終了ーーーーーーー トップページへ戻る |
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